ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート93 「かたつむり名」琉球起源説からの母系制論」琉球起源説からの母系制論―柳田國男の「方言周圏論」批判

 「母系社会からの人類進化」のまとめに入りましたが、私のスサノオ大国主建国からスタートした縄文人論・日本列島人起源論・人類起源論は「海人族」「魚介食族」というところが原点であり「『カタツムリ名』沖縄起源説―柳田國男の『方言周圏論』批判」(180816・21)を加筆して紹介しておきたいと考えます。

 この海人族論については、左右の論客が登場した『季刊 日本主義』(終刊)の「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(40号:2017冬)、「言語構造から見た日本民族の起源」(42号:2018夏)、「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ:2018秋」(43号)「海洋交易の民として東アジアに向き合う」、(44号:2018冬)、「『漂流日本』から『汎日本主義』」へ(45号:2019春)などで主張してきましたが、関連する小論を紹介します。

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 西欧中心史観の肉食史観、狩猟・戦争文明史観、男性中心史観の影響を受け、「肉が好き、魚は嫌い」「海が怖い・嫌い」「戦争大好き」なわが国の翻訳学者たちは、「縄文人=石鏃・石槍の狩猟民イメージ」をまき散らし、「採集・漁撈・交易民」「芋豆穀実・魚介食の海人(あま)族」「妻問夫招婚による平和なスサノオ大国主一族の建国」の歴史を忘れてしまっていますが、ここでは言語から海人族の日本列島人の起源について補足しておきたいと考えます。

 なお、重複が多くて恐縮ですが、「海洋交易の民として東アジアに向き合う (『季刊日本主義』44号:原題「未来を照らす海人(あま)族の「海洋交易民文明」―「農耕民史観」「遊牧民史観」から、「海洋交易民史観」へ)などから一部、引用して加筆しました。

 さらに、続いて「松本修著『全国マン・チン分布考』の方言周圏論批判」「『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」についても紹介しておきたいと思います。

 

1  柳田國男の『蝸牛考』

 民俗学者柳田國男の出身地が私の2つめの故郷の播磨ということや、彼の「常民」の生活文化史を足で歩いて確かめるという方法は、全国の市町村計画に携わる中で古代史や石器・土器時代に関心を持った私にはぴったりでした。 

 また、祖母や義理の叔父が瀬戸内海を船で往来していたことを聞いて育ち、カヌーや小型ヨットに親しんでいたことから、江上波夫騎馬民族征服説には疑問を持っており、彼と対抗した柳田の「海上の道」の南方起源説には強い共感を覚えていました。

 と言っても、分野が異なることもあり、彼の本を勉強したわけではありませんでしたが、日本語の起源に関する本に目を通すうちに、柳田の『蝸牛考』の「カタツムリ異称分布図」をさらに詳しくしたカタツムリの方言分布図(『日本の方言地図』記載の『日本言語地図』の図を簡略化したもの。斎藤純男『言語学入門』より)と、「カタツムリの呼称の伝播」図を見つけ、柳田の「方言周圏論」に疑問を覚え、以下の分析を行いました。

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 書いた時代が異なるとはいえ、京都を中心として、各時代の「カタツムリ名」が地方へ広がっていったという柳田の『蝸牛考』は、戦後に書いた『海上の道』の日本民族南方起源説とは明らかに矛盾しています。

 『季刊 日本主義』の「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(40号)、「言語構造から見た日本民族の起源」(42号)、「『龍宮』神話が示す天皇家のルーツ」(43号)の続編として読んでいただければ幸いです。

 

2 柳田國男の「方言周圏論

 柳田國男は、『蝸牛考』(1930年)で、カタツムリを古い順に「ナメクジ(東北地方北部・九州西部)→ツブリ(東北地方・九州)→カタツムリ(関東・四国)→マイマイ(中部・中国地方)→デデムシ(近畿地方)」とし、古いほど京都から遠く、同心円状に分布しているという「方言周圏論」を主張しています。

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 この仮説は、縄文世界に朝鮮半島から弥生人が大挙して押しかけ、縄文人を北と南に追いやり、アイヌと沖縄人になった、という説とも重なります。

 しかしながら、柳田の主張には、石器時代からどの時代にも京都を中心に全国一様に同じカタツムリ名称が使われていて、それが京都で名称が変わるとともに周辺に一様に分布した、という証明がありません。

 図2を見ていただければ明らかなように、カタツムリの方言分布は各地に飛び飛びに分布しており、様々な部族が各地に転々と移住・定住し、あるいは交流・交易して分布した可能性が高いと私は考えます。

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 さらに、柳田は古い順に「ナメクジ→ツブリ→カタツムリ→マイマイ→デデムシ」の名前が広まったとしていますが、言語的な変遷の証明がありません。例えば、「ナメクジ」と言っていたのに、ある時期から「ツブリ」に変わったという音韻的・意味的な説明が全くありません。海外から次々と異なるカタツムリ単語を携えた言語集団が京都・大和に移住してきてそこから天皇家の全国支配に伴って名前が拡散したというような可能性は低いと言わざるをえません。例えば朝鮮語ではカタツムリは「ペンイ、トゥグボッレ」、中国語では「wōniú」です。

 文化(生活様式や生産様式、技術、社会慣習、宗教、支配体制など)が先進地から周辺に拡散し、周辺部に残ることは多くの例があり、私も鉄道や主街道から外れたために、古い町並みが残っている例や、古い宗教・習俗が山奥などに残っている例を全国で体験しています。しかし、それは生活・産業・社会・宗教・政治体制などの変革に伴うものであり、変わらない自然を表す単語にそのままあてはまるものではないと考えます。単語の場合は、人々の移動や文化交流・交易が大きな影響を与えることは、和語に漢語やオランダ語、英語が混じっている歴史を見ても明らかです。

 柳田の「方言周圏論」は、天皇を中心とした全国支配体制が古くからあったという「皇国史観」の影響を受けているのではないでしょうか?

 

3 音韻・意味論からみた「カタツムリ名」の変遷

 言語変遷(音韻・意味変遷)からは、沖縄弁の「ツンナメ」=「ツン+ナメ」が、その形の特徴をとらえて、南九州で「ツン」は「ツブ」「ツノ」に、「ナメ」は「ナメクジ」に変化し、さらに北九州に移り「ツブ」は「ツムリ」「カタツムリ」になり、さらに、「ツン=「ツノ」から「ツノダセ」の「ダセ」(出せ)が「デン」(出ん)に変わって「デンデンムシ」になり、さらに「デーロ」(出ろ)になったという音韻・意味変遷が考えられます。

 「マイマイ」だけは福岡から西中国地方、静岡、千葉・茨城へと飛び地していますが、これは、カタツムリの殻がぐるぐると巻いていることから、「マイツムリ」「マイカタツムリ」のような名前があり、そこから幼児語として「マイマイ」のような名前ができたのではないでしょうか? 福岡から島根・鳥取・広島・岡山というと、「銅剣分布(筆者は銅槍説)」と重なることからみて、柳田説のようにその起源は新しくなく、大国主王朝・大和朝廷以前のスサノオ時代頃の可能性が高いと私は考えています。

 このように「カタツムリ名」の音韻・意味変遷は、沖縄から南九州→北九州から、さらに中国・近畿・東海北陸・関東・東北へと東に飛び飛びに人々の移動とともに広がったことを示しており、京都を中心に近畿地方から周辺に広がったという語源を示すものはありません。

 「カタツムリ名」変遷からは「方言周圏論」は否定され、沖縄を起点とした「南方起源東方遷移説」が成立しますが、もっと多くの単語について成立するのかどうか、今後の研究課題です。 

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 4 1700年前頃の東京方言と首里方言の分岐

 近所のカフェギャラリー南風で「FNSドキュメンタリー大賞」の『生まり島ぬ言葉忘ね国忘ゆん』(2017.12.14沖縄テレビ)を見る会がありましたが、字幕がないと「沖縄弁(島ぬ言葉:琉球弁)」はほとんど理解できませんでしたが、字幕を見るとおおよそは理解できました。現役時代、東北や鹿児島の仕事先でも住民同士の方言での会話となるとほとんど聞き取れませんでしたが、沖縄弁はそれよりも難しいという印象でした。しかし、朝鮮語や中国語が全く理解できないのとは異なります。

 言語学者の説明を待つまでもなく、このような体験からみても「沖縄弁」は共通の縄文語からある時期に分岐して「沖縄方言」となったことは確実であり、丸ノミ型石器圏や曽畑式土器圏、「あま(天、甘、海士、海部)地名」圏が沖縄から黒潮対馬暖流に乗って分布しているのと重なります。では、その分岐した時期はいつ頃なのでしょうか?

 「『龍宮』神話が示す大和朝廷のルーツ~記紀の記述から『龍宮』=『琉球』説を掘り下げる」(『季刊 日本主義』43号)において、私は「統計学安本美典産業能率大学教授は、計量言語学の手法によって東京方言と首里方言は1700年前頃に分かれたと分析し、そこから『邪馬台国勢力が琉球に倭語を広めた』と、琉球弁のルーツが邪馬台国の倭語であるかのような逆立ちした奇妙な考察を行っています」と書きましたが、この安本氏の推計はいいとしても、琉球語への「邪馬台国勢力倭語伝播」説は認められません。

 1700年前頃の紀元3世紀頃に、琉球弁と倭語が分かれたというなら分かりますが、その頃に邪馬台国が倭語を琉球に伝えたというのは合理的な説明がありません。その頃に倭語が沖縄に普及すると同時に断絶したなどありえません。

 そもそも、安本説は邪馬台国筑後川を遡った福岡県の甘木市朝倉町(現:朝倉市)にあったという説ですが(氏の平地部の馬田説に対し、私は旧甘木市高台説)、魏書東夷伝倭人条によれば当時の邪馬台国は南の狗奴国の卑弥弓呼(ひみここ)王と抗争して苦戦し、魏から軍事顧問を派遣されていた状態ですから、狗奴国を飛び越え南九州から琉球に多くの人々を派遣する余裕など考えられません。なお、狗奴国の官名の狗古智卑狗は球磨国の菊池彦であると考えられており、朝倉市の南に位置しています。

 それよりなにより、新石器・縄文時代から琉球奄美から九州さらに北海道まで「貝の道」「ヒスイの道」の双方向の交流があったのであり、共通の言語圏が成立していたとみるべきなのです。

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 この琉球と本土との活発な交流が途絶えた時代は、古事記記載の薩摩半島南端の笠沙天皇家2代目の猟師の山幸彦(ヤマト:山人)が兄の漁師の海幸彦(ハヤト:隼人)と争って支配下に置いた時代と私は考えています。―「縄文ノート24 スサノオ大国主建国からの縄文研究」参照

 安本氏の30~40代天皇の即位年の最小二乗法による直線回帰計算(私は邪馬台国甘木朝倉説とともに安本氏の大きな功績と考えます)だと、卑弥呼=アマテラス時代より3代後の山幸彦(ホホデミ)の即位年は紀元256年頃(私の追試計算)となり、計量言語学による東京方言と首里方言の分離が1700年前頃に起こったという推計と符合します。

 「ハヤト(隼人)」は「ハイト」とも呼ばれ、「ハイ=ハエ=南風」の追い風を利用して琉球(龍宮)からやってきた海人族で、「ハイ」に「隼(隹+十)」字という、「隹(鳥)」と「十(針の原字)」を合わせた宛字を使用したのは、十字に組んだマスト(帆柱)とブーム(帆桁)に鳥の羽のような帆をかけた鳥船(帆舟)に乗ってやってきた海人族と考えられます。「隼」の漢字から「ハヤブサのように眼光鋭く素速く行動するハヤト」と解釈する俗説が見られますが、「隼(隹+十)」字で形象した「象形文字」である漢字本来の成立原則から判断すべきです。

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 この山幸彦ホオリ(山人:ヤマト)と海幸彦ホホデミ(隼人:ハヤト=はゑと=ハイト)の対立は、後の大和政権への「隼人の反乱と弾圧」(720年)に引き継がれ、沖縄では「ヤマトンチュウ(山人衆)」対「ウチナンチュウ(内那衆)」の対抗意識として今に続いていると考えます。

 なお、記紀によれば、天皇家のルーツは薩摩半島南端の笠沙(かささ)・阿多(あた)の猟師・漁師の縄文人であり、稲作民ではありません。「天皇家=稲作民(弥生人)=中国・朝鮮人」説は何の根拠もない空想です。

 古事記は、大国主は少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、美和(三輪)の大物主(スサノオの御子の大年一族:代々襲名)と「共に相作り成」したと書き、その国名を「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」とし、日本書紀大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営し、動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」「百姓、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝え、出雲国風土記大国主を「五百つ鉏々(いおつすきすき)取り取らして天の下所造らしし大穴持命」としているように、大国主一族こそが鉄先の「鉏(鋤、鍬)」を配って水田稲作を100余国に普及させ、「天下造所」したことが明らかです。「木鋤(こすき)」から「鉄先鋤」への農耕用具革命を行い、水田稲作農業革命という「水穂国づくり」を行ったのです。

 「カタツムリ名」が琉球語の「ツンナメ」から九州南部で「ツブラメ」「ツノダセ」「ナメクジ」名に変遷し、さらに北九州から東に名前を変えて伝搬したことは、以上のような記紀に書かれた歴史と符合します。そして、邪馬壹国の「相攻伐」後の紀元3世紀頃に琉球と本土が切り離され、「ツンナメ」方言が琉球に残ったのです。

 

5 「古日本語」は北方系か南方系か?

 安本氏は図5のように、おそらく「縄文人北方起源説」に基づき、朝鮮・東シベリア・日本海沿岸の「古極東アジア語」なる仮説を考え、その後に「照葉樹林帯稲作起源説」や「長江流域稲作起源説」の影響を受け、稲作とともに長江流域から「ベトナムビルマ系言語」などの諸言語が加わり「古日本語(倭人語)」が北九州・出雲で成立し、甘木・朝倉にあった卑弥呼(アマテラス)の邪馬台国が東遷して大和朝廷を立てたという「邪馬台国東遷説」を展開しています。

 しかしながら、そのような主張を行うなら、「古極東アジア語」なる共通語を抽出するとともに、日本語は「古日本語、古アイヌ語インドネシア系言語、ベトナムビルマ系言語」の4層構造からなることを古語や方言などから具体的に分類してみせるべきです。

 図7・表1のように、倭音倭語と呉音漢語・漢音漢語がきれいに3層構造をみせているように、他民族の支配を受けることのなかったわが国では、倭音倭語の上に借用語(今は英語)が重層的に折り重なており、分析できるはずでしょう。―縄文ノート「41 日本語起源論と日本列島人起源」「42 日本語起源論抜粋」等参照

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 さらに安本氏の分析の一番の問題点は、黒潮に乗って南方から移住し、黒潮対馬暖流、南風(ハエ)に乗って鳥船で交易・交流した海人族の琉球語(沖縄弁)の分析をおこなっていないことです。南方系のヒョウタンやウリ、エゴマやイモ・陸稲などが縄文時代に伝播しており、貝やヒスイの交易が行われていた以上、琉球から北海道まで対馬暖流を利用した交易・交流・移住・妻問夫招婚があったと見るべきです。安本氏の分析は日本人のルーツを朝鮮人にしたいという先入観に支配されているとしか考えれませんが、DNA分析からそれは否定されています。

 なお、安本氏は「基礎百語」「基礎二百語」を統計的に比較分析する手法から、日本語は朝鮮語と近いとして大野晋氏のタミル語(ドラヴィダ語)説を「妄想」として批判していますが、図6のように、タミル語や東南アジア語が黒潮対馬暖流を海人族によって日本列島と朝鮮半島に運ばれたことを示しているだけなのです。

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 この「基礎語分析法」は、各国の支配的言語が共通の民族起源である場合には成立しますが、他民族支配を受けた国・地域の元の被支配者の言語と比較する場合には、支配民族の影響を受けにくい原宗教語や農耕語などでの比較が必要であり、「数詞や身体語などの基礎語」の比較は科学的な方法とは言えません。統計的分析は「サンプルの誤り」があれば、致命的な誤りを犯すのであり、科学的とは言えないのです。

大野氏のように「かみ(神)」「ひ(霊)」「ほと」「はたけ(畑・畠)」などの比較が必要なのです。―縄文ノート「37 『神』についての考察」「38 霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰」「41 日本語起源論と日本列島人起源」「28 ドラヴィダ系海人・人族による稲作起源論」「29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」参照  

 表2・表3のように民俗分析などもふまえた、総合的な分析こそ、必要なのです。 

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  また、この安本氏の「古日本語説」は、琉球諸島以南のダイミョウイモの貝輪が北海道の有珠モシリ遺跡で発見され、新潟県糸魚川のヒスイが種子島で発見されていることや、南九州中心の曽畑式土器が沖縄や韓国で発見され、丸木舟製作に使う丸ノミ石斧の分布(小田静夫氏らの研究)からみて成立しません。「古日本語」圏は、琉球から南九州、日本海・太平洋沿岸へと広がっているのです。 

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 同時に、「天城」「奄美」「天草(天狗狭:狭投馬=薩摩と同様に狗奴国の狭い半島を指している)」「天ケ原」「甘木」「天ヶ瀬」「尼崎」などの地名は、「海人族」が琉球から北進・東進して各地に移住したことを示しています。

 

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 この海人族地名は、後に神名火山(神那霊山)・神籬(霊洩木)を崇拝する天神信仰の影響を受け、記紀は「海人」から「天」への置き換えを行い、自らの出自が薩摩半島南西端の笠沙・阿多の縄文人・猟師(山人)であり、この国の本来の建国者が海人族のスサノオ大国主一族であることを隠したのです。ただ、史聖・太安万侶らは、神話形式の煙幕をはりながら、真実の歴史を巧妙に後世に残したのですが、津田左右吉氏らは「味噌もクソも一緒」にして、神話全体を後世の創作として葬り去ったのです。

記紀に書かれた「天津神(あまつかみ)」の歴史は天上の架空の物語ではなく、「海人津神」すなわち「海人(あま)の津(津島=対馬)」をルーツとした海人族の歴史なのです。

 なお、丸ノミ石斧や曽畑式土器などの発見された栫ノ原遺跡のある鹿児島県南さつま市加世田(旧加世田市)には南薩広域圏計画の仕事で1年間通いましたが、この栫ノ原遺跡の万之瀬川の対岸は「阿多」であり、私はこの地こそ笠沙天皇家3代の初代・ニニギが「阿多都比売」に妻問いした地であり、琉球トヨタマヒメ・タマヨリヒメ姉妹が2代目ホオリ・3代目ウガヤフキアエズの妻となった地であり、ワカミケヌ(大和初代天皇)が生まれた地と考えています。

 

6 「アマミキヨ」伝説と「アマテラス」伝説の先後

 琉球の始祖の「アマミキヨ」伝説と大和政権の始祖の「アマテル(本居宣長説:アマテラス)」伝説のどちらが先に生まれたのか、これまで歴史学者はこの重要なテーマについて判断を避けてきています。

安本美典氏は九州邪馬台国の女王卑弥呼=アマテラスが琉球を支配し、その影響で琉球に「アマミキヨ」伝説が生まれたという「アマミキヨ伝説アマテラス起源説」を提唱していますが、私は琉球からの海人族の東進に伴い、「海人」を「天」に置き換えてアマテル神話が成立した、という逆の「アマテル伝説アマミキヨ起源説」です。

 

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 そもそも、前述のように邪馬台国が敵対していた狗奴国を飛び越え、卑弥呼の死後に後継者争いで「相誅殺」していた内憂外患状態で琉球まで軍や使者を派遣する余裕があったでしょうか?

 さらに、記紀は「天照」と書いて「高天原」(筑紫日向橘小門阿波岐原)の神としているのに対し、「アマミキヨアマミヤ)」は海の彼方のニナイハラー(ニライカナイ)からやってきたという海人族の伝承です。アマミキヨが漂着した「五穀発祥の地」「神の島」と呼ばれる久高島の伝承では「アマミヤ(女神)とシラミキヨ(男神)が東方の海の彼方(ニナイハラー)からきて、アマミヤが棒を立てて神に頼み、天から土・石・草・木を下してもらって島を作った」(比嘉康雄『日本人の魂の原郷沖縄久高島』)というのであり、天からではなく「東方の海の彼方(ニナイハラー)」からきているのです。アマテラス信仰の皇国史観の影響を受け、アマミキヨが天から降臨したかのように書いているネット情報が沖縄でもあふれていますが、もともとの久高島の伝承こそ重視すべきです。

 そもそも「高天原」の所在地について、記紀は「筑紫日向橘小門阿波岐原」とはっきりと地名を具体的に書いており、スサノオがアマテラスのいる「天に参上するとき、山川ことごとに動き、国土皆震(ふる)えり」としており、スサノオの軍勢が足音を響かせながら佐田川のほとりを高天原(甘木=天城の高台)に駆け上った様子をリアルに表現しています。「高天原」は天上の神の国ではないのです。

 「筑紫日向橘小門阿波岐原」のアマテル神話から、海人族のアマミキヨ漂着伝承が生まれることなどあり得ません。

 「あま」をパソコン(ATOK)で漢字変換してみると、「海、海人、海士、海女、海部、雨、尼、甘、奄」「天」「安満、安間、安馬、阿真、阿万、阿萬、亜麻」などがでてきます。倭語の「あま」を漢字を借りて書くときには意味の合った漢字を選ぶに違いなく、「あま」の中で一番多い漢字が「海、海人、海部、海士、海女」など「海」に由来し、「天」字を使う表記が1字しかないことからみて、「あま」の本来の意味は「海」であり、後世の「天神信仰」に合わせて記紀では「天」字に置き換えたことが明らかです。「大海人皇子」が死後に「天武天皇」と忌み名を付けられたことからみても、「海人=天」であったのです。 

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7 海人族の女神祭祀

 「アマミヤ(女神)とシラミキヨ(男神)が東方の海の彼方(ニナイハラー)からきて、アマミヤが棒を立てて神に頼み、天から土・石・草・木を下してもらって島を作った」という男女漂着神話が、アマミキヨ女神信仰に変わったのはなぜでしょうか?

 久高島では、12年に1度、午年(うまどし)に行なわれる祭事・イザイホーがあり、島中央部のクボー(フボー)御嶽(うたき)は久高島で最も重要な男子禁制の聖域であり、女性が16歳から神女就任儀式(イザイホー)を経て神女となり、祖母霊が守護神として孫娘につくとされています。琉球王朝の神女組織「祝女ノロ)」制度のルーツと考えられます。―「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号:2017冬)参照

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 「アマミヤ(女神)とシラミキヨ(男神)」が合体されて「アマミキヨ(女神)」になり、祖母霊がついた神女が祭祀を行なっているということは、家=氏族の中心が女性であったという母系制社会を示しています。

 今でも漁村では、家計は女性が握っていて女性の地位が高く、漁民であった旧石器人・縄文人もまた女系制であった可能性が高いと言えます。漁や交易で海にでる男性はいつも死と隣り合わせであり、家の経済や子育ては女性に任せる、という海人族の伝統は旧石器・土器時代に遡るとみるべきと考えます。

 女たちが海にでて漁をする兄弟や夫たちの守護神とされたことや、「旅する間は皆の夫だけど、浜で釣りをするようになると私の夫だよ」という歌が島にあり、夫の旅妻の子どもをわが子同様に育てることが多かった、という文化は、移動性があり、海で死ぬことも多い海洋民族の妻問婚の名残を伝えています。古事記に「打ち廻る 島の崎崎 かき廻る 磯の崎落ちず(もれず) 若草の 妻持たしめ」と古事記に書かれ、180人の御子を全国各地にもうけた大国主の妻問婚の母系制社会の伝統は久高島には最近まで残っていたのでます。

 ここで私たちは記紀に書かれた皇国史観の重大な矛盾に気づかされます。

 記紀の始祖神は古事記に「二霊(ひ)群品の祖」と書かれた「神産日・高御産巣日(古事記)、神皇産霊・高皇産霊(日本書記)」の男女神ですが、天皇家は「アマテル(天照大御神)」を直接の始祖神としているのです。「アマミヤ(女神)・シラミキヨ(男神)」伝説が、「アマミキヨ(女神)」に置き換わったのと同じなのです。

 初代大和の天皇のワカミケヌ(若御毛沼:8世紀に付けられた名前は神武天皇)の祖母と母が龍宮(琉球)の姉妹と書かれていることからみて、天皇家の女神アマテル信仰は琉球アマミキヨ信仰を受け継いだものです。しかしながら、アマテルはイヤナミの左目を洗った時に生まれたとされ、出雲大社正面に祀られた始祖神の「ムスヒ(産霊)夫婦神」とは繋がっていない別系統の琉球由来の始祖神神話なのです。

 天皇家は母系制信仰のもとに、父権制の国づくりを行ったことを記録として記紀に残しているのであり、メソポタミアやエジプト、ギリシアの母系神話解明の手掛かりを与えるものです。ギリシア神話から記紀神話を解釈してみせた歴史家も見られますが、西欧文明信仰の逆立ちもいいところです。

 

8 「流下文明史観」「同心円的文明波及史観」から「交流交易文明史観」「双方向的文明史観」へ

 漢字や銅鏡、仏教、古代国家制度、儒教朱子学など中国文明の影響を強く受けてきたわが国では、「文明・文化は高いところから低いところに伝わる」「中央から同心円的に広がる」という中国・大和中心史観の強い思い込みが歴史学者や国民を支配しています。明治維新後は西洋文明中心に考え、大日本帝国敗戦後はアメリカ中心世界体制の下で経済大国を目指してきましたが、このような拝外主義の「文明流下説・同心円的波及説」は文明全体を正しくとらえているでしょうか?

 とりわけ、魏書東夷伝倭人条や記紀などの漢字文献の分析を仕事としてきた歴史学者たちは中国文明・文化の影響に目が向き、その下で大和朝廷から全国各地に文明・文化が伝わったという「文明流下史観」「同心円的文明史観」になったのは必然であり、明治以降には西洋文明、戦後にはアメリカ文明の崇拝者となったのもまた当然のことと思われます。

 浮世絵や縄文土偶・土器を世界的にアピールしてきたのは芸術家であり、西洋芸術家や翻訳歴史学者たちにとっては遅れた文化として関心外でした。この根強い「拝外主義史観」は、「い・ふぃ(委)」を「わ(倭=矮)」と置き換えられてこれを受け入れ、茎(なかご)のない刃先だけの「銅槍」を中国起源の「銅剣」とみなし、「三角縁神獣鏡」を魏鏡とみるなど、「進んだ中国、遅れた日本」の劣等意識からしか歴史を見ることができず、それは「進んだ欧米、遅れた日本」感のまま今に続いています。

 さらに、この「拝外主義史観」は、そのまま国内史に持ち込まれ、「進んだ中央、遅れた地方」という大和中心史観に引き継がれています。

 この「文明流下史観」「文明同心円的発達史観」「外発的発展史観」の歴史観に対し、私は「交流交易史観」「双方向発展史観」「内発的発展史観」を対置して日本文明・文化を考えてきましたが、さらにその核心に考察を進めたいと考えます。

 もともと、大日本帝国憲法は第1章天皇の第1條において、「第日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とし、第2條「男孫継承」、第3條「神聖不可侵」と続いています。

 「男孫」とは高天原のアマテラスにより神権を授けられた孫のニニギを指し、その4代目の初代天皇とされるワカミケヌ(笠沙天皇家の4代目。祖母と母は龍宮出身。後に神武天皇命名)がその萬世一系の後継者としてこの国を支配する、というこの王政復古こそが明治維新の大きな負の側面に他なりません。封建的身分制度の否定を、古代身分制の復活による「王権神授説」として確立したのでした。

 このアナクロニズムの「神の国皇国史観は、戦後、裕仁天皇の「人間宣言」により否定されましたが、天皇の意に反して未だにアマテラス神話は伊勢系神道を中心に根強く残るとともに、大和中心史観の根強い思い込みにも引き継がれています。

 しかしながら、古事記日本書紀をそのまま読めば、この国の始祖女神は100%、カミムスヒ(神産霊:霊(ひ)を産む女神)であり、魏書東夷伝倭人条と『三国史記新羅本紀、出雲国風土記播磨国風土記をもとに総合的に文献分析を行えば、「百余国」の建国王はスサノオ大国主7代になり、「漢委奴国王」はスサノオにならざるをえません。―「『古事記』が指し示すスサノオ大国主建国王朝」(『日本主義』18号)、「古事記播磨国風土記が示す『弥生史観』の虚構」(同26号)参照

 「人=霊人(ひと)」「彦=霊子(ひこ)」「姫=霊女(ひめ)」「聖=霊知り(ひじり)」「息子=産す子(むすこ)」「娘=産す女(むすめ)」「卑弥呼=霊御子・霊巫女・霊皇女(ひみこ)」「蛭子=霊留子(ひるこ)」「大日留女=大霊留女(おおひるめ):アマテラスの別名)」などを産んだカミムスヒ(神産霊)こそ日本民族の始祖神として、出雲大社正面に古代から現在まで今も祀られてきており、日本文明を源流としての評価を行うべきと考えます。

 「大日留女(大霊留女)」が「アマテル」の別名で呼ばれたのは、彼女が「海人(あま)族」であったからに他なりません。

 なお、もともと「アマテル」と読まれていた天照大神を「アマテラス」と呼ばせ、全世界を照らす太陽神としたのは江戸時代の本居宣長国学者たちの陰謀ですが、大国主の子の天照国照彦(あまてるくにてるひこ)や下光(したてる)比売の名前、大国主の子の鳥鳴耳の妻の「日名照(ひなてる)額田毘道男伊許知邇」、アマテルの孫で大国主に国譲りさせた武日照(たけひなてる:武夷鳥・天夷鳥・天日名鳥・建比良鳥)、筑紫大国主王朝5代目の甕主日子の妻の「比那良志毘賣(ひならしひめ)」の名前からみても、「天照」は「アマテル」と読むべきと考えます。―詳しくは『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 

9 『海上の道』に帰るべし

 柳田國男は後に『海上の道』(1961年)において、「稲は沖縄・奄美と南方の島伝いに来た」と主張しています。

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 象徴的なのは、柳田が伊良湖岬でヤシの実を拾い、それを島崎藤村に話したところ島崎が詩に書き、有名な「椰子の実」の歌となったというエピソードです。彼が足で歩いて海洋漂流物の椰子に目を付けたことがこの「海人(あま)族」の末裔である日本人の心に響く名曲を生んだのでした。

 柳田は「方言周圏論」を捨て、椰子の実に思いを馳せて「琉球弁起源説」を主張すべきでした。

  

椰子の実

名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ

 故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月

旧の木は生いや茂れる 枝はなお影をやなせる

 我もまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝の旅ぞ

実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂

 海の日の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ異郷の涙

思いやる八重の汐々 いずれの日にか故国(くに)に帰らん

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/