ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート69 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)

 私の子どもの頃には、日本の縄文時代は竪穴式住居、弥生時代は高床支持住居、前者は円形平面、後者は四角形平面で、前者は防寒・暴風の寒冷地仕様、後者は雨期などに増水する湿気の高い熱帯・亜熱帯仕様と習い、納得していました。

 ところが、寒冷地の青森市の5900~4200年前頃の三内丸山遺跡秋田県鹿角市の4000年前頃の大湯環状列石に四角形の掘立柱建物と円形の竪穴式住居と環状列石があり、大湯には環状列柱(円形建物)もあります。さらに暖かい鹿児島県霧島市の上野原遺跡でも6300年前の喜界カルデラ噴火の降灰の下から9500年前頃の竪穴式住居(注:床を掘り下げていない平地住宅?)が見つかっています。

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 竪穴式住居=円形平面=寒冷地仕様、高床式住居=四角形平面=熱帯・亜熱帯仕様という整理は根拠がなくなり、円形か四角形かについては気候・環境条件以外の要因を考える必要がでてきました。

 円形平面住居のルーツは縄文人オリジナルなのか、それともアフリカ→インド→東南アジアの移動ルートのどこかにルーツがあるのでしょうか。

 さらに、かつて仕事先の北海道森町では道内最大級の鷲ノ木遺跡ストーンサークルを案内してもらったことがありましたが、英国の5300~3100年前頃のストーンサークルと5000~4000年前頃の日本各地の環状列石について、たまたまユーラシア大陸の西と東の両端でそれぞれ独自に生まれたのか、それとも円形の竪穴式住居と同じルーツなのか気になっており、合わせて検討したいと思います。

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1 竪穴式住居とストーンサークルの前後関係

 日本で最古級の縄文時代草創期前半(13800年前頃)の竪穴式住居は山形県高畠町竹森の「日向洞窟」近くで見つかり、日本最古級の土偶が発見された三重県松阪市飯南町縄文時代草創期の粥見井尻遺跡の竪穴式住居(注:平地住宅?)が復元されています。

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 日本の環状列石は5000年前頃ですから、先行する円形平面の竪穴式住居を真似て、墓地を環状にした可能性があります。

 

2 円形平面へのこだわり

 改訂新版・世界大百科事典(japanknowledge.com:工楽善通)によれば、「旧石器時代の住居は,洞窟や岩陰など,自然の覆屋を利用したが,多くの人々は,丘陵や段丘上の平たん地に小屋を建てて生活していた。平地に小枝を環状に配して浅く地面に突き立て,上方でまとめて円錐形の骨格を造り,草や土で覆ったのがこの時代のすまいで,これらも平地住居とよばれる。このような住居は,約8000~9000年前ころ,土器を使う縄文時代早期に入ってもなおすまいの主流であった」とされています。

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 さらに「これを発展させ,床面を掘り下げて屋内空間を広げ,より安定した構造をもつ竪穴住居も建ち始め」「縄文時代前期には,長方形平面から円形,楕円形に近い多角形平面に」「中期末から後期にかけて竪穴住居の平面形は円形に」「後期末から晩期にかけて平面形は円形から方形」に変化するとされています。

 また、ウィキペディアによれば、「弥生時代から古墳・奈良時代になると西日本でも普遍化し、平安時代にはプランが方形に、炉がかまどに統一されるなどして中世まで続く」とされ、旧石器時代末期から平安時代まで、円形平面型は1万数千年以上も続いているのです。その理由は日本の自然環境・建材条件に対応したオリジナルなものなのか、それとも日本列島への移住者が故地から持ってきた文化なのか、どちらなのでしょうか?

 機能的に考えると、移動生活の時に細い柱を円形に地面に差して上で縛って円錐形・ドーム形の骨格にし、茅などで覆って屋根にする住宅なら、モンゴルのパオやアメリカ原住民のティピーなどの移動用テントと同じように平面が円形になります。写真3の粥見井尻遺跡の円錐形復元住宅や写真1・4の上野原遺跡のドーム型復元住宅のような構造です。

 しかしながら、4本・6本の柱と梁で構造体をつくり、そこに斜めに柱(垂木)を掛け、上を棟木に縛って屋根をかけるなら、長方形平面にするのが合理的です。合掌造りの屋根の垂木を地面にまで伸ばしたような構造であり、より大きな住居の建設が可能であり、積雪・強風地帯などでは強度を確保できます。

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 ところが、柱・梁・垂木構造としながら、中期末から後期の最盛期の竪穴式住居は円形平面を維持しており、環状列石とともに縄文人の円形への強いこだわりが見られます。

 一方、現在の日本の伝統的な民家や江戸時代の絵などには円形平面の住居は見当たらず、歴史的に四角平面型への大転換が起きたことが明らかです。

 

3 アジア・アフリカの円形平面住居

 このような円形平面住居文化が、アフリカから日本列島までの移住ルートのどこに残っているのか、調べてみました。

 ネットで「アジア・アフリカ・各国×住居・民家・茅葺」などで画像を検索しましたが、東南アジアの民家ではインドネシア(写真6)、ベトナム(写真7)、タイ(写真8)のそれぞれ1例しかでてきません。

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 ブータンチベットも同様ですが、北西部では写真9のブンガと呼ばれる建物とインダス文明の4800年前頃のドーラビーラ遺跡の写真10の円形平面の住居跡が発見されています。

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 一方、アフリカでは円形平面住宅はいくらでも出てきます。

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 ネット検索だけでも、「アフリカ高地湖水地方」のエチオピアケニアウガンダタンザニア、「アフリカ西部」のカメルーンニジェールセネガルなどに見られます。これらの写真は旅行者・青年海外協力隊員・写真家などが撮影したもので説明がなく、各国の部族・地域固有のものなのか一般的なものなのかなどは判りませんが、各地域の環境や利用できる建材による共通の伝統的な住宅と考えれらます。

 なお、アラビア半島のイエメン(図11参照)やトルコのハランには円形住宅(写真11)が見られ、トルコの12000~8000年前頃のギョベクリ・テペ遺跡には巨大な丁字型の石柱が円形の20の塀の中に配置されていることからみて、円形平面へのこだわりがアフリカから伝わり、続いている可能性があります。 

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 今、日本の民家に円形平面は見られませんが、平安時代初期までは竪穴式住居が残っていたことから考えると、モヘンジョダロ遺跡のようにアジア各地にも円形平面住宅はアフリカからの人類移動とともに伝わっていた可能性があります。

 移動生活や太い木がない地域では写真3の粥見井尻遺跡や写真4の上野原遺跡のように細い木を円錐あるいはドーム状に組んで茅や藁や葦(あし)などでふき、定住生活になると土壁にして暑さ・寒さを防ぎ、さらに部屋割りや都市化により高床式住宅の影響もあり四角型に変わったと考えられます。

 

4 アフリカ・アジア・ヨーロッパのストーンサークル(環状列石)

 ストーンサークルが集団墓地・葬送施設であることは解明されてきましたが、現在のところ、アフリカ・アジア・ヨーロッパには図2・表1のように6000~3000年前頃のものはイギリス・アイルランド(英愛)、ロシアのアファナシェヴォ環状列石、日本列島の3か所にしか見られません。アフリカ西部のセネガンビア遺跡にも見られますが、こちらは8~12世紀の新しいものです。

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 注目すべきは、英・愛とロシアのシベリア南部のアファナシェヴォのストーンサークルが、同じY染色体R1bグループの可能性が高いのに対し、日本には見られないことです。

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 日本の環状列石を北方系とみなす説が見られますが、現状では最古の環状列石が長野県原村の阿久遺跡)であることと合わせて考えると、アフリカからインドを経由して「海の道」を通って伝わった可能性が高いと考えます。

 なお旧約聖書の「ノアの方舟」伝説のアララト山を人類の起源と信じる「白人中心史観」では、Y染色体R1bグループは18500年前頃に西アジアで生まれたと推定しています。

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 しかしながら、R1bグループが西アフリカのカメールーンにも多いことや、Q系統が南北アメリカ大陸のネイティブアメリカンに非常に多く、しかも、アメリカ大陸への人類の移住が15000〜13000年前頃と考えられていたのが3万年前頃の可能性があることがウルグアイ南部の大量の動物化石から明らかとなったのです(2013.12.02『ナショナルジオグラフィック』人類の北米への移住は3万年前?)。

 この新説によれば、アフリカでP系統からQ系統が3万年前以上に分かれ、2万年前頃にR系統が出アフリカを果たし、東西に分かれて各地に分散した可能性があるのです。

 トンデモ仮説と思われるでしょうが、人間も生物の一員である以上、種の多様性は熱帯地域で生じ、それから世界へ別々に拡散した可能性が高いと私は考えます。多くの種の分岐が出アフリカ後に起きたという証明はないのです。

 それを裏付けるのが「縄文ノート62(Ⅴ-6) 日本列島人のルーツ」で書いた図5です。Y染色体D1a2aは「日本固有。アイヌ人と沖縄人に多い」く、D1a1は「チベット等に多い」のですが、「アフリカで多い・コンゴロイド人種」のEグループとはアフリカで分岐したとしか考えられないのです。

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 同じように、Fから分岐したJIHG、K(ONML)、P(QR)もまたアフリカで分岐して各地に別々に拡散した可能性も十分に考えられます。

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 生物の「ゆっくり進化説」に対して「爆発的進化説」が見られるように、新人(ホモサピエンス)についても「アフリカでの爆発的多様化説」は考えられないでしょうか? 

 

5 竪穴式住居とストーンサークル(環状列石)

 円形のストーンサークルが集団墓地・葬送施設であることは、もはや定説として証明されています。問題はなぜ円形であるかについて、未だに日時計説が横行していることです。

 私は「縄文ノート32(Ⅲ-2) 縄文の『女神信仰』考」「縄文ノート34(Ⅲ-4) 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」などにおいて、大湯環状列石において環状列石と石棒・円形石組がセットであることや、朱で満たした甕棺・石棺・石槨、現代に続く石棒―金精信仰などから、母系制社会の地神(地母神)信仰として「環状列石地母神性器説」を提案してきました。

 しかしながら、円形平面住居の歴史がアフリカに濃厚に残っており、日本では竪穴式住居として先行している以上、「環状列石死者の住居聖域説」もまた成立する可能性があります。死者の魂は神山(神名火山:神那霊山)から天神となって天に昇る一方、地中には死者の円形の住まいがあると考え、その範囲を環状の石列、あるいは土塁として、聖域化したのではないか、と考えるようになりました。

 竪穴式住居・ストーンサークルの「北方起源・南方起源」と合わせて、決着をつけるべき時でしょう。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

縄文ノート68 旧石器人・中石器人は黒人

 アメリカの「ホワイト・パワー」「ホワイトプライド」を掲げる白人至上主義者たちは、自らを角のついた兜をかぶるバイキングやキルトを履いたスコットランド人とみなしたがるようです。

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 アメリカが先頭に立って進めたグローバル経済化により不利益を被り、自尊心を損なわれた白人たちが少なくないことは解りますが、白人であるということしか優位性を感じることができない彼らに対してどうすればいいか、考えさせられます。

 

白人至上主義者たちの錯覚

 このようなスタイルを好む白人至上主義者たちの歴史認識には大きな錯覚が見られます。

 そもそも雄牛崇拝のルーツはメソポタミア・アラブの至高の神・エルであり、クレタ島ミノタウロスヒンズー教の死の神ヤマ、エジプトの救世主ウシル(オシーリス)・ヘル(ホルス)信仰など中東の神なのです。当時のバイキングの遺跡からはこのような角つき兜は出土しておらず、そもそもキリスト教徒による差別的な野蛮人イメージづくりが「牛の角つき兜」であることを彼らは知らないようです。

 さらに、キルトを履いたスコットランド人のルーツはケルト系とされていますが、イングランド南西部のサマセット州のチェダーで発見された1万年前の「チェダーマン」は黒い肌であったことがDNA解析で明らかにされ、写真のような顔の復元が行われています。―2018.02.09『ナショナルジオグラフィックhttps://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/020900061/

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 白人至上主義者らもまた1万年前には黒人であったのであり、彼らの黒人・黄色人差別・迫害はアフリカを起源とする自らのルーツに唾する行為にほかなりません。

 

ヨーロッパの中石器人は黒人

 英ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の科学者マーク・トーマス氏によれば、「実は、スペイン、ハンガリールクセンブルクから中石器時代の黒い肌を持つ古代人が見つかっており、そのDNA配列はすでに解明されている。今回行われた新たなDNA分析により、チェダーマンは彼らと遺伝的に近いことが証明された。また、1万1000年ほど前の最後の氷河時代の末期にヨーロッパに移住したと考えられる狩猟採集民の一団に属していたこともわかった」(前同)というのです。

 「中石器時代」というのは日本人には馴染みがない定義ですが、ウィキペディアによれば「社会の形態は狩猟採集社会であった。この時代の遺跡は極めてまれであり、ほぼ貝塚に限られている。ほとんどの地域の中石器時代は、小型複合燧石(細石器と細刻器)によって特徴付けられる。漁労具、石製手斧、カヌーや弓矢のような木製品が、いくつかの遺跡で見つかっている」とされ、世界の森林地帯では農耕のために森林の伐採が本格的に開始される前の新石器時代初期とされています。

 レバント地方(シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルパレスチナ)では2.2~1.1万年前頃、ヨーロッパでは1.0~0.7万年前頃とされ、日本では細石刃文化に相当するとされ、全国で500か所を越える細石刃遺跡は北海道と九州に多く、2.0~1.2万年頃とされています。

 なお、長崎県佐世保市吉井町の3.2万年以上前から縄文時代草創期にかけての福井洞窟遺跡では、1.2~1.3万年前より古い層から伊万里市の腰岳や佐世保市針尾島の黒曜石が発掘されており、1.2~1.3万年前頃からの土器時代(縄文時代)へと連続した遺跡となっています。

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 なお、旧石器時代・中石器時代縄文時代の遺跡の連続性については重要なテーマであり、別の機会に考察したいと考えます。

  

肌の色を決めるDNA

 肌の色にはTYR遺伝子チロシンからメラニンへの変換に関与する酵素を産生する遺伝子で、TT型TG型は肌の色が地黒傾向)、OCA2遺伝子チロシンなどの輸送に関与するタンパク質を産生する遺伝子で、TC型CC型は肌の色が白い傾向)、LC45A2遺伝子メラニン合成に関与する遺伝子で、AC型CC型は肌の色が白い傾向)とされています。

https://genelife.jp/gene-dictionary/genesis2/constitution_bone-703.html

 ウィキペディアは「現生人類の祖先はネグロイドのような黒褐色の皮膚を持っており、出アフリカ後、ユーラシアにおいてモンゴロイドコーカソイドが独立に皮膚を白色化させたと考えられ、両人種における肌を白色化させる遺伝子は異なると推定されている」としており、上記のたった3種類の遺伝子が影響しているようです。

 英国人遺伝学者アダム・ラザフォード氏によれば、「アフリカ大陸のなかだけでも、遺伝子の多様性はその他の全世界を合わせたよりも大きい」(2017.10.19「人種の違いは、遺伝学的には大した差ではない」ナショナル・ジオグラフィックNews)というのであり、現代の経済的・政治的問題を人種対立にすり替えることは許されません。

 米ピュー・リサーチ・センターが2015年11月に明らかにした調査ではアメリカ人のほぼ6割が進化論派になり、2004年11月に米CBSテレビが行った世論調査の55%が神による「創造論」を信じていると答えていたのに対し、10年で進化論が多数派となっていると伝えられています(『日経ビジネス』2019.7.26)。

 白人至上主義者たちはもはや少数派となっていると思いますが、近代的奴隷制度を最後まで維持し、トランプ大統領を登場させ、コロナ感染拡大を招きながらその失政を全面的に中国に押し付けようとした国であり、白人至上主義者少数派の暴発による黒人・アジア人迫害が心配です。

 

旧石器人は黒人

 「縄文ノート65(Ⅴ-9) 旧石器人のルーツ」では国立科学博物館等による日本の旧石器人の白保人と港川人の復元を紹介しましたが、遺伝子分析により皮膚の色が黄色であると解明できない限り、「チェダーマン」のような黒人として再現すべきでしょう。

  

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 今後もアメリカで黒人・アジア人迫害が心配される以上、黒人や南北アメリカ原住民への連帯を示し、「人類は元はみな黒人」をアピールすべきと考えます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート67 海人(あま)か山人(やまと)か?

 琉球を起点として対馬壱岐に本拠地を移し、出雲を拠点として百余国の「委奴(いな)国」を建国した海人(あま)族のスサノオ大国主建国論から私は縄文社会論に入り、「縄文人=海人族説」で縄文人の起源や文化・文明を追究してきました。―「『古事記』が指し示すスサノオ大国主建国王朝(2012夏)」参照

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 ところが、インド東部・東南アジア・雲南山岳地帯のピー(ひ=霊)信仰、神山天神信仰、赤米・赤飯・サトイモ神事、寒さに強い温帯ジャポニオカの起源、日本人固有のY染色体D型の分布、照葉樹林文化(根栽類の水さらし利用、絹、焼畑農業陸稲の栽培、モチ食、麹酒、納豆など発酵食品、鵜飼い、漆器製作、歌垣、お歯黒、入れ墨、家屋の構造、服飾)(ウィキペディア要約)などから、ドラヴィダ系山人(やまと)族の遺伝的・文化的影響も大きいと考えるようになり、ドラヴィダ系海人・山人族が共同して日本列島に「海の道」をやってきたと考えるようになりました。

 また、バイカル湖畔のブリヤート人Y染色体D型であることから、チベットからバイカル湖畔、シベリアを経て北海道に移住したドラヴィダ系山人族がおり、ドラヴィダ系海人・山人族と日本列島で劇的に再会したと考えるに至りました。

 魏書東夷伝倭人条に出て来る「邪馬壹国」を「邪馬台国=ヤマト国」とする説や、記紀神話天皇家のルーツを「海幸彦と山幸彦」とする記紀、「おおわ=大倭=大和」を「やまと」と呼ばせた天皇家、特攻戦艦「大和」と「宇宙戦艦ヤマト」人気など、日本人は「やまと」の響きが好きなようですが、ここで「やまと」のルーツを整理しておきたいと考えます。

 

1.古事記の海幸彦と山幸彦

 古事記薩摩半島南西端の笠沙(阿多)の笠沙天皇家3代(ニニギ・ホオリ・ウガヤフキアエズ)のうちの、ホオリ(火遠理)とホデリ(火照)兄弟について、次のように書いています。

 

 火照命者、爲海佐知毘古、下效此而、取鰭廣物・鰭狹物、火遠理命者、爲山佐知毘古而、取毛麤物・毛柔物

 (火照命(ほでりのみこと)は、海佐知毘古と為(し)て、鰭(はた)の広物(ひろもの)・鰭(はた)の狭物(せばもの)を取り、火遠理命(ほをりのみこと)は、山佐知毘古(やまさちびこ)と為(し)て、毛の麁物(あらもの:荒らもの)・毛の柔物(にこもの)を取りき)

 

 そして、ホデリ(火照)の末裔が、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住した隼人とし、ホオリは龍宮(琉球)に出かけ、海神の助けにより釣り針を手に入れ、海神の子の豊玉毘売(とよたまひめ)を妻として帰り、トヨタマヒメが海辺の産小屋で鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)を産み、鰐(わに)であったのを見られて海神の国に帰ったとしています。

 なお、日本書紀トヨタマヒメを鰐ではなく龍としていますから、日本書紀は海神の宮を龍宮(りゅうぐう=りゅうきゅう)とみていることが明らかです。

 この「山幸彦・海幸彦神話」は、海の底の架空の竜宮城神話ではなく、百余国の委奴国から九州30国が分離独立した「倭国大乱」で、新羅からの鉄の入手を断たれた薩摩半島南端の山人族が、琉球から中国ルートの鉄を求めた歴史を伝えていると私は考えます。

 

2.山幸彦=山人、海幸彦=隼人=海人

 私は『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』において次のように書きました。長くなりますが引用しておきます。

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 この「ヤマト」の国名については、①邪馬臺国の国名からとった、②地名からとった、の二説があり、それぞれ、邪馬臺国九州説、邪馬臺国畿内説で分かれているが、次のような問題点を抱えている。

 ① 邪馬臺国国名説:「邪馬臺」は当時の中国音では「やまだい」「やまだ」であり、「ヤマト」とは呼べない。また、天皇家が偉大な邪馬臺国の後継者であるなら、そのルーツを隠す必要がない。

 ② 山門・大和地名説:記紀万葉集などの漢字表記である「夜麻登」「山跡」など乙類の「ト」を使う古い地名が、大和にも九州にもない。

 すでに述べたように、「霊(ひ)」から「霊人(ひと)」=「人(ひと)」が生まれたという角林説からみて、私は、「ヤマト」は邪馬臺国の国名や地名ではなく、「山人(ヤマト)」という部族名からとったものである、と考える。

 広辞苑を引いてみよう。「山人」は「①(関西・四国地方で)山で働く人。きこり。②(九州地方で)狩人」とされている。

 記紀はニニギの子どもの「海幸彦(長男の火照(ほでり)命:漁夫)」と「山幸彦(三男の火遠(ほおり)命:狩人)」の物語を伝えている。兄の釣り針を失った山幸彦は、海神の助けをえて海幸彦を懲らしめるという物語が載せられており、日本書紀はこの海幸彦が「隼人(はやと)」の祖先であり、「山幸彦」(火遠(ほおり)命:ホホデミ命)が天皇家の祖先であるとしている。この神話によれば、「山幸彦」はまさに「山人(やまと)」である。

 熊本の天草の牛深市には阿波踊り佐渡おけさなどのルーツである有名な「ハイヤ節」があるが、この「ハイ」は「ハエ(南風)」からきているとされている。沖縄でも「はえ」は南風である。

 「隼人」はこの「ハイ、ハエ」からきており、「ハイト、ハエト」が「ハヤト」になり、「ハヤト」は「南風に乗ってきた海人」という意味と考えられる。

 「海幸彦」が「ハヤト(南風人)」=「隼人(はやと)」なら、「山幸彦」は「ヤマト」=「山人」と対にならざるをえない。

 記紀が「海幸彦(漁夫)」と「山幸彦(狩人)」の兄弟の物語の大きく取り上げた理由は、「ヤマト(山人=山幸彦)」という天皇家のルーツに関わるからであったからと考えられる。

 記紀は、ニニギ→「山幸彦(火遠命)」→「ウガヤフキアエズ命」→「若御毛沼(わかみけぬ)命」の物語により、天皇家のルーツが薩摩南部の「山人(ヤマト)族」であることを、神話仕立てでありのままに述べている。

 なお、釣り針を無くした兄弟の神話は、東南アジアの各地に残されていることが研究者によって明らかにされており、天皇家の祖先は薩摩半島で南方系の伝説を継承した部族であることを示している。

 このような物語は、奈良盆地の部族や朝鮮半島から移住した騎馬民族に伝わることはありない。記紀神話天皇家のルーツが薩摩(魏志倭人伝の投馬(つま)国)であるという真実を伝えている。

 

 なお、笠沙天皇家3代目の「ウガヤフキアエズ命」の妻はトヨタマヒメの妹の玉依毘売(たまよりひめ)であり、その子の若御毛沼(わかみけぬ)命は初代天皇で8世紀に「神武天皇」の諡号(死号)を付けられますが、その母と祖母は琉球の姉妹になります。―「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(季刊日本主義43号2018秋)参照

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 天皇家に見られる殯(もがり)は沖縄・奄美に見られる風葬・洗骨の風習を受け継いでいると考えられます。また女性器を「ひな」というのは、沖縄の先島諸島八重山諸島宮古列島)や奄美の「ぴー(ひー)」や天草の「ひな」を受け継ぎ、琉球弁の「あいういう」3母音の「はひふひふ」から「ひ=へ」であり、「へ」系統の女性器名も沖縄をルーツとしていることが明らかであり、天皇家のルーツに繋がります。―「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号2018年冬)参照

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3.山幸彦・海幸彦神話が示す「縄文人ドラヴィダ系海人・山人族」説

 釣り針をめぐる山幸彦・海幸彦の争いは、インドネシアのケイ族の兄のヒアンから借りた釣針を弟のパルバラが釣りをしていて失い魚の協力で見つけ出して返す話やセレベス島の友達の釣り針を失くして海の中に捜しにいく神話、パラオ島真珠貝で作った釣り針を失って海の底に捜しに行く伝承との類似性があげられています。―https://nihonsinwa.com/column/novel/11.html

 記紀神話ギリシア神話や東南アジア神話をもとに全てを8世紀に創作されたとする「日本神話創作史観」に対し、私は「神話的表現史実史観」に立っており、「史聖・司馬遷」に対し、古事記を書いた太安万侶は日本の史聖と考えており、天武朝の最高の史家として、スサノオ大国主王朝の歴史に笠沙天皇家の歴史を統合し、荒唐無稽な神話形式で密かに真実の歴史を伝えたと考えています。

 例えば、イヤナミ(伊邪那美・伊耶那美:通説はイザナミ読み)は出雲の比良坂(伊賦夜坂=揖屋坂)に葬られ、夫のイヤナギ(伊邪那岐・伊耶那岐:通説はイザナギ)は筑紫に移動し、「筑紫日向(ひな)橘小門阿波岐原」で禊を行って、綿津見3兄弟・筒之男3兄弟とアマテル・月読・スサノオ姉弟を生んだ(失際には筑紫各地で妻問)とされていますが、そのすぐ後で、スサノオは髭が胸の先まで生えても「僕は亡き母の国、根の堅州国に罷らむと欲す」と泣きわめいたと書き、スサノオをダメ男に低めながら、スサノオが出雲でイヤナミから生まれた長兄であることを秘かに伝えているのです。そして、スサノオはイヤナギから「海原を知らせ」と海人族の後継者として命じられながら、その役割を果たさず、追放されたとしているのです。―「スサノオ大国主建国論2 『八百万の神々』の時代」(『季刊山陰』39号)参照

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 壬申の乱大海人皇子(後の天武天皇)の側で大活躍した太品治の一族(子の可能性あり)の太安万侶は、天皇家のために「ダメ男・スサノオ」の物語を入れてカモフラージュしながら、スサノオこそが綿津見3兄弟(金印が発見された志賀島を本拠地とした安曇族)・筒之男3兄弟(住吉族)・月読(壱岐を拠点とし暦作成を担う)・宗像族(宗像3女神をもうける)らを従えた百余国の「委奴(いな)国王」であり、日本書紀もまた、スサノオが子の五十猛(イタケル=委武)とともに、新羅に赴いた航海王・交易王であることを伝えているのです。―「スサノオ大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)参照

 これは一例ですが、史聖・太安万侶が「山幸彦・海幸彦」兄弟の鉄の釣り針を巡る兄弟争いと龍宮訪問神話を書いたのは、彼らのルーツが琉球を経由したドラヴィダ系海人・山人族であるという伝承を伝えるとともに、倭国大乱で筑紫から薩摩半島西南端へ追われた山人族のニニギ一族が、琉球から鉄を入手して武装し、弓矢と槍が得意な山人族と航海が得意な海人の隼人族による「神武東征」(実際は傭兵部隊として阿多→日向(宮崎)→宇佐→筑紫→安芸→吉備→大和(おおわ)へ16年かけての移動)を伝えるためであったと考えます。

 また、初代天皇のワカミケヌを「若美食奴」などとせず「若御毛沼」と書き、祖母と母が龍宮の姉妹としたのは、天皇家が毛の濃い琉球系の縄文人であることをはっきりと示しています。

 私は史聖・太安万侶が書き伝えた「古事記」は、縄文人がドラヴィダ系海人・山人族であることを証明していると考えます。

 

4.「海の一大国(いのおおくに)」対「山の壹国(いのくに)=邪馬壹国」

 魏書東夷伝倭人条は、古事記では古くは「天比登都柱(あめのひとちはしら:天一柱)」と呼ばれていた壱岐を「一大国(いのおおくに)」と書き、「山島によりて国邑(むら)をなす」と書かれた「山」の筑紫の卑弥呼の国を「邪馬壹国=山の壹国(いのくに)」と書き、「海の一大国(いのおおくに)」と「山の壹国(いのくに)」を対照的に伝えています。

 この記述から、ドラヴィダ系海人・山人族は九州に来てから、海人族(天族)は壱岐対馬を拠点とし、山人族は筑紫の山岳地帯へ移住したと考えられます。

 海の海人族(天族)は「乗船南北市糴(してき)」していたと書かれ、「糴(てき)」=「入+米+羽+隹(とり)」ですから、彼らは鳥が羽を広げたような帆船を自在に操りて、韓国の市で米鉄交易を行っていたことを示しています。

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 Y染色体ミトコンドリアDNA分析が進んだ今こそ、「海・舟・魚が嫌い」という「ウォークマン史観」(トボトボ史観)の空想から離れ、「縄文人北方起源説」を清算すべき時です。

 

5.記紀神話分析を科学的な文献分析レベルに!

 初期マルクスの思想的先行者であるヘーゲル左派のブルーノ・バウアー(1809~1882年)などの無神論者によるキリスト創作説(キリスト非実在説)について、津田左右吉氏(1873~1961年)が影響を受けたのかどうかは確かめていませんが、津田氏の記紀神話を「神代の物語などの如く、一見して事実の記録と考えられぬもの」とし「歴史的事実に関する資料ではないが、文芸史、思想史の貴重な資料」(『古事記及び日本書紀の研究』)とみなしましたが、キリスト創作説と同じです。

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 キリストが行った数々の奇跡からの聖書批判と同じように、記紀の不合理な記載を表面的にピックアップすれば、「記紀神話から神武天皇欠史八代から第14代仲哀天皇とその后の神功皇后まで、つまり第15代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて、史実としての資料的価値は全くないとした」(ウィキペディア)という津田氏の短絡的な判断は容易にでてきます。

 津田氏は不合理極まりないギリシア神話をもとにハインリヒ・シュリーマンなどがトロイ遺跡を発掘(1870~1894年)した同時代人であったにもかかわらず、日本神話を物語としてしか分析できなかった「文献分析」の誤りは、未だに日本の古代史分析をシュリーマン以前の神話分析に停滞させていると言わざるをえません。

 私は記紀・魏書東夷伝倭人条から、スサノオ大国主卑弥呼などの墓を発掘してみせる歴史家が現れない限り、「日本の古代史家はシュリーマン・レベル以下」と考えます。

 津田氏が「現人神(あらひとがみ)の国」天皇専制支配の弾圧を恐れることなく記紀分析を行ったことは高く評価されるべきと思いますが、太安万侶を矛盾だらけの記述を行う能力の低い天皇家の御用学者であるかのように貶め、スサノオ大国主一族の建国史を抹殺したのは、「机の上の近代合理主義者」の限界であり、暴挙であると考えます。

 その結果、縄文時代スサノオ大国主建国の連続した文化・文明は断ち切られてしまい、縄文文明研究を「ただもの(唯物)史観」の土器研究などに押し込め、縄文社会・文化・文明の全体的な解明の道を閉ざし、ひいては世界の共同体文明の解明に果たすべき役割も放棄してしまったのです。5世紀以前の日本は歴史・文化なき未開・野蛮の国とされてしまったのです。

 これまで「古事記論」についてはFC2ブログ「霊(ひ)の国の古事記論」などで書いてきましたが、「史聖・太安万侶論」を書きたくなってきています。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート66 竹筏と「ノアの方舟」

 昔、ある冤罪事件の再現実験で人間の視覚・聴覚の不思議さにびっくりしたことがあります。人の視覚は瞬時に望遠レンズ、広角レンズに切り替えて情報を絞り、広げて対象を見ることができ、聴覚も同じなのです。

 これまでイネ科の「米」などの起源を書き、同じくイネ科の竹の「筏{竹+伐(人+戈)}」について書きながら、両者の起源を結び付け、「引き撮影」(ズームアウト)していなかったことに気づき、さらに「ノアの方舟」は「ノアの箱筏」とすべきと思い至り、この原稿を書き始めました。夜の3時半ころ、夢か現(うつつ)かの時に思い付きました。

 

1 イネ科について

 「縄文ノート25(Ⅱ-1) 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』の冒頭で、私は次のように書きました。

 

 次女のニジェール土産のヒョウタン細工のランタンから、12000~5000年前の鳥浜遺跡から見つかったヒョウタンがアフリカ西海岸のニジェール川流域が原産地であることを確かめ、土器人(通説は縄文人)がヒョウタンに水を入れ、竹筏に乗って「海の道」をやってきたことを確信し、2014年5月に「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構―海洋交易民族史観から見た鉄器稲作革命」(『季刊日本主義』2014夏に掲載)を書きました。

 さらに考えてもみなかったのですが、アフリカに稲があることを次女から聞き、ナイジェリアに水田稲作の指導に行っている元鳥取大学名誉教授の若月利之さんからアフリカ稲が陸稲であることなどを教えられ、イネ科の稲や麦などのルーツもまたアフリカではないかと考えるようになりました。

 この小論は2014年6月に書いたものに一部、加筆したものです。

 

 うかつなことに、この時、私は食べものとしてのイネ科について関心が集中しており、次のように書きながら、イネ科の竹についてまで考えが及びませんでした。

 

 小麦と米は同じイネ科であることから、「米・小麦同一地域起源説」がアフリカ中央部の熱帯地域において成立する可能性はないでしょうか? 

 さらに、飛躍した仮説になりますが、イネ科のトウモロコシやアワ・ヒエ・キビ、サトウキビ、竹などを含めて、全て単一の「マザー・イネ科」のルーツがアフリカの可能性はないでしょうか? 

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 パンゲア大陸ペルム紀から三畳紀)の時代でみれば、アフリカのニジェール川流域は南アメリカの東端に接しており、アメリカ大陸にしかないトウモロコシのルーツは西アフリカに近接していたこの地域の可能性が高いといえます。

 通説では最初の被子植物ジュラ紀(約2~1.5億年前)に裸子植物から分化したとされていますが、その前の三畳紀(約2.5~2.1億年前)に分化したとする説もあり、後者であればその可能性は大です。

 人類の「アフリカ単一起源説」と同様に、「小麦・米・とうもろこしのイネ科三大穀物単一起源説」を検討してみるべきと考えます。

 

 なお、ウィキペディアによれば、イネ科植物は次のように主食となるだけでなく、タケはゴリラやパンダを、牧草は草食動物を養い、さらにタケは食器や籠などの容器や家の材料になり、矢竹は弓矢という飛び道具として使われ、太い竹は竹筏・竹舟として魚を摂り、人類が移動・移住する道具、さらには竹簡という紙替わりにもなったのです。

 竹文化のない西欧人には竹の全体的・総合的な歴史的価値など理解しにくいと思いますから、私たちの出番でしょう。

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2 竹筏について

 同じく「縄文ノート25」などにおいて、私は「竹筏」について、次のように書きました。

 なお「筏」は「竹+伐」ですから「竹筏」に決まっているのですが、筏というと日本の木材運搬の「筏流し」やヘイエルダールのコンチキ号の南米の軽い「木筏(バルサ材)」、アンデスのトトラ(カヤツリグサ科)の「浮島・草舟」やエジプトのパピルス(前同)の「葦船」などを思い浮かべる人が多いと思いますので、誤解のないように「竹筏」とします。

 

・中尾説は米をサバンナ農耕文化に入れていますが、「主語-目的語-動詞」言語族の東進に伴い、雨量が多く、高低差による気温変化のある東インドミャンマーでアフリカ陸稲原種の水稲化(熱帯ジャポニカ)と冷涼高地での温帯ジャポニカの誕生という2段階の種の多様化が起きた「南・東南アジア起源農耕文化」を私は考えてきました。同じように、雑穀の伝播についてもイネとともに雲南地域から長江を下った可能性だけでなく、竹筏による「海の道」の伝播を考えたいと思います。

     

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 私が育ち、仕事で通った瀬戸内海各地などではいたるところでカキ養殖筏を目にしており、私にとっては筏=竹筏です。私も子どもの頃、池で竹に乗って遊んだことがあり、かつて総合計画づくりの仕事をした山口県油谷町(現長門市楊貴妃伝説あり。安倍元首相の父の出身地)では、夏、子どもたちが油谷湾に浮かべた竹筏の上でテントを張ってキャンプを行っていました。

 海部陽介氏ら国立科学博物館草舟・竹舟・丸木舟と順に台湾→沖縄渡海実験を行うまえに、竹筏による黒潮による東南アジアからの渡海仮説を立てて実験すべきであったのです。「旧石器人は台湾から沖縄に渡った」という誤った仮説を立てる前に、草舟があるかどうか、竹筏移住か竹舟移住か、季節ごとの風はどうなのかなど、経験則に基づく仮説を重視すべきだったのです。

 さらに筏の利用の文献上での裏付けについては、2000年7月に次のように書きました。―「縄文ノート32(Ⅲ-2) 縄文の『女神信仰』考」参照

 

 周王朝の姫氏の諸侯であった「魏」(禾(稲)+女+鬼)は「鬼(祖先霊)に女性が禾(稲)を捧げる国」であり、魏の曹操は「われは文王、姫昌(きしょう)たらん」と述べ、孔子が理想とした周王朝を再建したいという「志」を持っていました。

 魏国が鬼道の女王・卑弥呼(霊御子)に対して格段の「王侯」に匹敵する金印紫綬を与えたのは、姫氏を想起させる母系制社会であったからと考えます。また、宦官のトップの中常侍(ちゅうじょうじ)で一流の儒学者であった祖父の曹騰(そうとう)から教えを受けた曹操は、孔子の「道が行なわれなければ、筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう」を知らないはずはないと考えます。陳寿(ちんじゅ)が三国志魏書東夷伝の序に「中國礼を失し、これを四夷(しい)に求む、猶(な)を信あり」と書き、朝鮮半島の鬼神信仰に対し卑弥呼にだけ「鬼道」という尊称にしたのは、倭国を「道・礼・信」の国としてみていたことが常識であったことを示しています。

 

 また「縄文ノート41(Ⅳ-1) 日本語起源論と日本列島人起源」と「縄文ノート43(Ⅴ-1) 日本列島人起源論」では、次のように筏による移動を書きました。なおこの段階では、「旧石器人は竹筏」、「縄文人は竹筏・丸木舟」による移住を考えていましたが、旧石器人は「竹筏・竹舟」による移住とすべきでした。

 

「縄文ノート41」

 寒冷期に入ると高地のドラヴィダ山人(やまと)族は山を下り(第4次移動)、海岸部やアンダマン諸島などに住むドラヴィダ海人(あま)族と協力し、マラッカ海峡を南下して半陸地化していたスンダランド(今の南シナ海)に竹筏で移住し(第5次移動)、温暖化によってスンダランドの水没が進むと「海の道」を竹筏と丸木舟で日本列島にやってきた(第6次移動)と考えるようになりました。

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 弓矢が得意で勇敢な狩猟採取栽培ドラヴィダ族(山人:やまひと)と航海が得意で冒険心に富んだ漁撈栽培交易ドラヴィダ族(海人:あまひと)が協力し、一定の人数で移動すれば、途中、他民族から干渉・攻撃を受けることなく平和裏に移動・移住できたと考えられます。

 

「縄文ノート43」

  第4は、「海が嫌い」なほとんどの研究者が「海の道」を通っての「海人(あま=天)族」の民族移動ルートと中継居住地についての検討が弱いことです。寒暖差の激しい砂漠や草原地帯ではなく、四季を通して海産物や果物・イモ類、塩分がとれる暖かい海岸線をそって人類は移動したと考えるべきであり、日本列島人起源説では「竹筏による旧石器人、竹筏・丸木舟による縄文人の移動」を主として考えるべきです。

              

 3 竹筏のルーツについて

 「竹」についてウィキペディアは「タケは気候が温暖で湿潤な地域に分布し、アジアの温帯・熱帯地域に多い」「タケ、ササの分布は北は樺太から南はオーストラリアの北部、西はインド亜大陸からヒマラヤ地域、またはアフリカ中部にも及ぶ」としていますが、原産地については触れていません。

 「竹+原産地」をネットで検索すると「中国などの温帯アジア原産」「竹の原産地は東南アジア」「タイ国や中国が代表的な産地」などで、「アフリカ+竹筏」で検索すると東南アジアやインド・中国は多くでてきますがアフリカはでてこず、竹筏文化はアフリカには残っていないようなので、「竹筏」移住はインド→東南アジア→日本で考えていました。

 ところが「縄文ノート64(Ⅴ-8) 人類拡散図の検討」で写真だけを紹介しましたが、JICAの「ケニアで広がれ!竹の利用!」(笹原千佳)の報告では、竹について「1900年代初頭に、アフリカの大地へインドや中東から商人が進出してきた際に東南アジアからの竹も導入されるようになり」と書く一方で、「アジアで竹を食べる動物というとパンダが有名ですが、アフリカではゴリラが有名です。かつてケニア西部にもゴリラがいたとのことですが竹林の衰退とともにゴリラも衰退してしまいました。現在もアフリカにはゴリラが生育している地域は多く、その地域は竹も繁茂しています」とも書いており、イネ科植物アフリカ起源説の私としては、竹もまたアフリカ起源と考えるようになりました。

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 「縄文ノート55(Ⅱ-7) マザーイネのルーツはパンゲア大陸」では、アフリカのケニアタンザニアがマダカスカルを挟んでインドと接していたゴンドワナ大陸時代に野生イネが赤道地域に分布していることを示した1976年の国際イネ研究所T.T.チャン論文(:佐藤洋一郎著『イネの文明 人類はいつ稲を手にしたか』掲載)の図4を載せましたが、同じイネ科のタケもまた同様に分布していた可能性が高いと考えます。  

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 また、「縄文ノート46(Ⅴ-4) 太田・覚張氏らの縄文人『ルーツは南・ルートは北』説は!?」では、図5の夏の南西からの季節風を示しましたが、この季節風に乗れば、アフリカ東海岸からアラビア半島東海岸を通り、インドに行くのは容易です。

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 この夏の季節風に吹かれて図6のように、インド洋北部には海岸に沿ってモンスーン海流(南西季節風海流)が右回りに流れており、安全にインドまで風任せ・波任せて到達できるのです。

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 「猿は水が苦手だ。旧石器人も同じであったに違いない」「旧石器人が帆を使うなどありえない」という思い込みからか、「海や舟が嫌い」という考古学者・歴史学者が多いようですが、犬は泳ぎ、鳥は空を飛ぶのです。

 旧石器人は現代人と同じレベルの知能と知恵を持っていた(昔『サイエンス』にそのような記述がありました)と考えるべきです。

 アフリカに竹筏があったという証明はできませんが、それは、「ヒマラヤ山麓移動説」や「海岸移動説」も同じです。旧石器遺跡から人類はヒマラヤ山麓を東に移動したという推測が見られますが、海岸からインダス川ガンジス川を遡ったヒマラヤ山麓に点々と旧石器遺跡があるに過ぎないのです。

 「縄文ノート56(Ⅲ-11)  ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「縄文ノート61(Ⅲ-12) 世界の神山信仰」で書きましたが、万年雪のルウェンゾリ山などが見える「アフリカ高地湖水族」は海を移動して新天地に来ると、川を遡ったところ神山と故地と似た居住地を見つけたに違いないのです。

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4 「ノアの方舟(箱舟)」は「ノアの筏船」

 日本の記紀神話に対しては、「すべてが8世紀の創作」とする日本神話創作説が未だに幅をきかせていますが、私は「シュリーマンに戻れ」と考え、記紀神話から真実の歴史(スサノオ大国主建国)と虚偽(天皇家建国)とを分離分析してきており、明白な神話的虚偽表現にして真実を後世に密かに伝えた太安万侶は日本最初の歴史家・「史聖」であると考えています。

 この私の方法論から、ウィキペディアに掲載された旧約聖書『創世記』の次のような「ノアの方舟(Noah's Ark)」伝説を分析したいと思います。

 

 主は地上に増えた人々の堕落(墜落)を見て、これを洪水で滅ぼすと「主と共に歩んだ正しい人」であったノア(当時500~600歳)に告げ、ノアに方舟の建設を命じた。方舟はゴフェルの木でつくられ、三階建てで内部に小部屋が多く設けられていた。方舟の内と外は木のタールで塗られた。ノアは方舟を完成させると、妻と、三人の息子とそれぞれの妻、そしてすべての動物のつがいを方舟に乗せた。洪水は40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくした。水は150日の間、地上で勢いを失わなかった。その後、方舟はアララト山の上にとまった。

 

 この「ノアの方舟」伝説は、紀元前13〜1200年頃にまとめられた『ギルガメシュ叙事詩』に書かれた、古代メソポタミアの伝説的な王ギルガメシュを巡る物語をもとにしたと考えられており、「神の怒りで洪水がおこることを英雄は前もって警告を受け、床面が正方形の船に英雄は家族と動物を乗せ、洪水が引くと船は山(バビロニア神話;ニシル山。聖書:アララト山)の頂上に着地した」などの共通性を持っています。

 なお、イランのニシル山(ピル・オマル・グドルン山、別名ピラ・マグルン山)はアララト山よりもメソポタミア中心部に近く、洪水後の漂着地としては妥当ですが、アララト山の付近には写真3のような舟型の地形があるというのです。

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 この「ノアの方舟」伝説についての私の解釈は次のとおりです。

 『ギルガメシュ叙事詩』に書かれた大洪水を「方舟」に乗って免れた、という史実はあったと考えます。

 「方舟(箱舟:アーク)」というのは、文字通りに解釈すれば、筏の上に四角の家を置いた「浮き家」と考えられ、波を切り分けて進む抵抗の少ない笹の葉型の流線形の船(ボート)ではありえません。

 神山であり、近くで黒曜石を産するアララト山に登った後世のユダヤ人の羊飼いなどが、両側を水流で削られてボート型になった地形を見つけて、古代メソポタミア伝説の「方舟」と勘違いし、ニシル山をアララト山に置き換え、それが旧約聖書の伝説になったと考えられます。

 「三階建て」というのは、「竹筏ヤム号」のように、竹を3層にして浮力をつけた「3層構造の竹筏」の伝説が「三階建ての方舟」に置き変わったものと考えられます。

 「妻と三人の息子夫婦、すべての動物のつがい」を方舟に乗せたというのは、「ギルガメシュの家のすべての動物(犬や羊、鶏など)」であったものが、「すべての動物」に置き換わったと考えられます。

 乾燥したメソポタミア地方には竹はなく、竹筏はアフリカで作られて交易のために持ち込まれたものを利用した可能性が高いと考えます。ただ、この「竹筏で洪水から逃れる」という伝承はアフリカ高地湖水地方」の伝説であったものが、メソポタミアに伝わった可能性もあります。

 

 ネットで筏を検索していると、ケニアでドラム缶の上に鉄骨で組んだ筏にキリンを載せて増水した島から救出する記事(msnニュース:Kenji P. Miyajima 2020/12/23 23:00、https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/ar-BB1cb5r1)を見つけましたが、まさに「キリンの方舟」です。

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5 まとめ

 イネ科のタケや竹筏など知らず、植民地化を進め、近代奴隷制度を作り上げたアフリカ蔑視の「西欧中心史観」の歴史家たちの視点を私たちはクリアしてからでないと、人類誕生からの旧石器文化や人類拡散の「ウォークマン史観」を克服することはできません。

 同時に日本に根強い「拝外漢才史観」もまた、注意する必要があります。日本文明は地中海とちょうど同じ大きさの東シナ海日本海に面した「日本列島」という特殊な環境条件にあり、「海・森・木の文明」とともに「竹の文明」を検討する必要があると考えます。タケノコを愛でるみなさんはどうでしょうか?

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート65 旧石器人のルーツ

 「スサノオ大国主建国論」から縄文社会研究会に参加し、さらに日本列島人起源論にまで遡ってきました。

 その方法論は、①縄文遺跡で発見されるヒョウタンやウリ、イネなどの起源、②魚介イモ雑穀食や粘々(ねばねば)食の起源、②「主語-目的語-動詞」言語族の起源、③呉音漢語・漢音漢語より前の倭音倭語の起源、④霊(ひ)信仰の神山天神(神名火山)信仰の起源、⑤黒曜石利用の起源、⑥DNAの起源、という6つの起源を段階的・総合的に追究する作業でした。

 1946年生まれの私は、北京原人シナントロプス・ペキネンシス)とジャワ原人ピテカントロプス・エレクトス)を習い、日本の明石原人など旧石器人のルーツは中国大陸か東南アジアという多地域進化説でずっと理解していましたが、DNA分析などによりアフリカ単一起源説が定説となり、この説を否定する人はもはやいないと思いますが、上記の①~⑥を総合的にアフリカ単一起源説から検討する動きはまだ出てきていません。

 私は縄文人のルーツがドラヴィダ系海人・山人族であり、アフリカ高地湖水地方をルーツとしていることは確信できましたが、日本列島に3万年前頃より前にやってきた原人や旧石器人のルーツがどこなのかについては、ずっと迷ってきており、ここで整理しておきたいと考えます。

 

1 旧石器人の手がかりは旧石器と人骨と現代人のDNA

 縄文人は土器・土偶を始めとした石・土・木・骨・貝などの道具類(食料・生活用具)、人骨(DNA・骨格)、生活痕(食事・住居・装身・宗教痕等)など手がかりが多いのですが、原人や旧石器人となると石器と人骨くらいしか直接証拠はありません。しかも火山灰の多い酸性土では骨が溶けるため、人骨はサンゴ礁からできた琉球石灰岩沖縄県で発掘されたわずかな旧石器人しか手がかりがありません。

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 もう1つの重要な手掛かりは、現代人のDNAの地域分布から推測する方法です。ただし、現代人には旧石器人や縄文人だけでなく、その後にやってきた人たちのDNAや日本列島内で移動した人たちのDNAが混じっていることです。この「サンプル誤差」を考慮しながら検討する必要があります。

 

2 私が迷ってきた点

 縄文人については、縄文遺跡が東日本に多いことや日本最古の16000年前頃の土器が青森県の大平山元(おおだいやまもと)1遺跡で出土していることなどから北方起源説が根強く残っていますが、この説は2つの「サンプル誤差」の可能性が高いと考えます。

 第1は、旧石器人や縄文人は「定住民」ではなく、アフリカやインドネシアなどで大噴火を経験した活発な「移住民」であり、7300年前の鬼界カルデラ噴火により、西日本の縄文人は東へ大移動した可能性が高いことです。―「縄文ノート27(Ⅱ-3) 縄文の「塩の道」「黒曜石産業」考」参照

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 この抜きがたい「定住民史観」が誤りであることは、鹿児島県霧島市桜島火山灰層の中から9500年前の上野原遺跡が発掘されたことによって証明されました。

 第2は、古代から開発が進んだ西日本では縄文遺跡の新発見が困難であるのに対し、地方圏のように道路や工業団地などの新規開発に伴う縄文遺跡発見の可能性がそもそも低いことです。

 従って、考古学からの北方起源説の根拠はそもそも怪しいと言わなければならず、現代人のDNA分析は北方起源説にとどめを刺しています。

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 私は縄文遺跡のヒョウタンなど南方起源の植物、神山天神信仰(神名火山信仰)と火山由来の黒曜石の利用、Y染色体D型がアンダマン諸島(インド領:ミャンマー沖)やチベットだけでなく、バイカル湖周辺のブリヤート人にも見られることなどから、1万数千年前頃に日本列島にやってきた縄文人(新石器人)はY染色体D型のドラヴィダ系海人・山人族が南方の「海の道」から、北方からはドラヴィダ系山人族が「マンモスの道」を通り、南北2ルートからやってきたという結論に達しています。―「縄文ノート43(Ⅴ-1) DNA分析からの日本列島人起源論」参照 

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 沖縄からアイヌまで全国的にY染色体D2型や言語・生活(魚食)・文化)に共通性と異質性が見られるのはドラヴィダ系という同じルーツでありながら、南と北ルートから分かれて流入して分布したからと考えます。金関丈夫・埴原和郎氏の「二重構造説」は縄文人を南方系、稲作民を北東アジア系としていたのに対し、篠田謙一・崎谷満・斎藤成也氏らは縄文人を北方系、稲作民を篠田・崎谷氏は長江系、斎藤氏は北方系としていますが、いずれも縄文人を南方・北方どちらかの一方向で考えるという「仮説誤謬」を犯していると考えます。

 残る問題は、1万数千年前からの縄文人より早くに日本列島にやってきた旧石器人のルーツが南方系なのか、それとも大陸・朝鮮半島・シベリア系なのかです。

 黒曜石文化から私は旧石器人のルーツもまた南方系のドラヴィダ系海人・山人族ではないかと考えていましたが、日本で最初に発見された旧石器時代岩宿遺跡の黒曜石の打製石器が30000年前頃であり、2020年9月に報道された京丹後市の36000年前頃の上野遺跡の黒曜石が隠岐の島産であることから、崎谷満氏の出アフリカ38300年前頃説のF型系統から分岐した02b型、03型ではないかと考えていましたが、Y染色体D型の出アフリカ時期の38300年前頃説が多少前にズレるとすると、黒曜石文化は出アフリカ38300年前頃説のⅮ2型系統のドラヴィダ系海人の可能性もあります。

 従って、旧石器人と縄文人の移動についての私の図は、次のように旧石器人については、インドネシアより西については書いていませんでした。

 

3.「Y染色体亜型DNAからみた日本列島人」再掲

 「縄文ノート43(Ⅴ-1) DNA分析からの日本列島人起源論」(今回一部を修正しました)から、次の部分を青字で再掲し、表1には赤の補助線・補助図を追加し、追加コメントを入れました。

 

<女性に引き継がれるミトコンドリアDNA>

① ミトコンドリアDNA亜型は女性に受け継がれる遺伝子です。

② 篠田謙一著『日本人になった先祖たち』などによれば、図5のように「本土日本」「沖縄」はⅮ4型を「山東遼寧」「韓国」とほぼ同等に多くもち、「南方海人族系」「南方大陸系」「北方大陸系」が混じった「多DNA民族」であることが明らかです。

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 一番重要なポイントは、このⅮ4型を北方系の縄文人とみるか、南方系とみるかです。後述する表2の男性に受け継がれるY染色体DNAの崎谷満氏の分析を見ると、日本人に14~26%みられ、華北に66%、朝鮮に38%みられるO3型に対応しており、O型は東南アジアに多いことから見て南方系の可能性が高いと考えます。

③ 一方、M7a型が多いという独自性を持つとともに、北方大陸系の「山東遼寧」「韓国」と較べてM7c~M10型が少なく、南方大陸系の「台湾先住民」「広東」に多いB4・F・R型が少ないという特徴を持っています。

③ 「沖縄」に多く、次いで「本土日本」、さらに「韓国」に少し見られるM7a型が「台湾先住民」「広東」「山東遼寧」のどちらにもほとんど見られないことは、日本列島と韓国には南から陸路を通らずに「海の道」を通り、直接日本列島にやってきた「南方海人族系」の人たちがいたことを示しています。日本人のルーツは「ミトコンドリアDNAのM7a型を持つ南方系」であることが明らかであり、男性だけの漂着ではなく、女性を伴った民族移動であったのです。

④ 「南方系」の型、「南方系海人族」のM7a型、「南方大陸系」の広東・台湾先住民に多いM7a・B4・F型、「北方大陸系」の山東遼寧・韓国のM7c~M10型がどのような順番で日本列島にどこからやって来たかですが、日本人が「主語―目的語―動詞」構造言語で「主語―動詞-目的語」構造の中国語や東南アジア語の影響を受けていないことからみて、M7a型海人族はミャンマー・インドあたりをルーツとし、「海の道」をスンダランドを経て竹筏・丸木舟でやってきたことは明らかです。その途中で、東南アジア系のM7a・B4・F型と混血したと考えられます。

⑤ 「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造からみて、紀元前3世紀の徐福など長江流域からの「呉音漢語」のM7a・B4・F語系の移住・漂着があり、最後に「北方大陸系」の山東遼寧・韓国系のM7c~M10型が移住してきた、と考えられます。

 

<男性に引き継がれるY染色体DNA>

① Y染色体のDNA亜型は男性に受け継がれる遺伝子です。崎谷満氏の『DNAでたどる日本人10万年の旅』(2008.1)は、5.3万年前にアフリカを出たN系統(日本:わずか)とO系統(ある程度)、3.83万年前にアフリカを出たⅮ系統(高頻度)、2.75万年前にアフリカを出た系統(わずか:シベリア系)が日本列島にやってきたとしています。―図5参照

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③ 崎谷満氏の本からY染色体DNA亜型のデータをまとめたものが表2ですが、沖縄南を除く日本に26~88%と一番多いⅮ系統は東アジア・シベリアにはなく、その圏外がルーツであることが明らかです。

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 次に沖縄に30~67%と多く、朝鮮にも51%と多いO2b系統は沖縄・韓国の伝承からみて、海の彼方の東南アジア諸島からかなり早い時期に黒潮に乗って沖縄南をへて対馬暖流で朝鮮に伝わったと考えられます。

 沖縄南・アイヌを除く沖縄北・本土に14~26%のO3系統は中国・台湾・東南アジアに広く分布しています。

 沖縄・本土にはほとんど見られずアイヌに13%のC3系統はシベリア系になります。

 

<追加考察>

 崎谷満氏の『DNAでたどる日本人10万年の旅』(2008.1)のデータと分析が正しいとして、次の点を補足・強調したいと思います。

① 沖縄南を除き、日本人に多い男系のY染色Ⅾ2型と女系のミトコンドリアM7a型の縄文人は東アジア・東南アジアの外から、各地を経由することなく、「海の道」を日本列島に直接やってきたことが明らかです。

② 「奈良時代初期の人口は血統からみて、北アジア系が8割あるいはそれ以上」「縄文系が2割またはそれ以下」という埴原和郎氏の仮説はY染色体Ⅾ2型(ドラヴィダ系)が日本全体に多く、中国・朝鮮に存在しないことから見て成立せず、「埴原の仮説は、遺伝子のDNA分析・・・などによっても裏付けられている」という鬼頭宏氏(『人口から読む日本の歴史』2000.5)の主張もまた誤りであることが明らかです。「東高西低」の遺跡数から縄文人の人口推計を行った小山修三・鬼頭宏両氏の計算もまた遺跡発掘条件(喜界カルデラ噴火と都市開発の影響)を無視した誤りという以外にありません。

③ なお前述のように埴原和郎氏は縄文人を南方系としたのに対し、篠田謙一・崎谷満・斎藤成也氏らは縄文人を北方系としていますが、Y染色体の分析からは埴原説が正しいと考えます。

④ 表1の赤の矢印で示したように、島しょ部であるインドネシア・フィリピン・台湾のO1型から、赤線で囲った東アジア・東南アジア各地へO2a型・O2b型・O3型が「海の道」を広がったことが明らかです。O型が「熱帯・熱帯雨林の道」「オアシス(草原)の道」「マンモスの道」などを通って華南・華北にまず入り、そこを中心に東アジア・東南アジア全体に広がったとみるのは、海や舟が嫌いなのか、それとも「漢才拝外思想」の錯覚でしょう。

⑤ O2b型は沖縄南67%、朝鮮51%、O3型は九州26%、朝鮮38%、台湾60%、華北66%であり、日本と朝鮮・台湾・華北とは相互に交流があったことは明らかですが、O2b型インドネシア少数民族に20%、O3型がマレー少数民族に31%、ベトナム少数民族に41%あることからみて、東南アジアから日本・台湾・華北・朝鮮に拡散したと考えます。

  

4 旧石器人の黒曜石と鏃(矢尻)

 旧石器時代の代表的な痕跡は次のとおりです。

 

<中期旧石器時代

① 12~110000年前頃:島根県出雲市の砂原遺跡の前期旧石器(疑問が出されている)② 12~50000年前頃:明石原人(?)発見場所に近い藤江川添遺跡のメノウ製握斧

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③ 9〜80000年前頃:岩手県遠野市宮守町の金取遺跡の中期旧石器

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④ 8~60000年前頃:明石原人(?)発見場所の地層から人工的加工痕のある木片

 

<後期旧石器時代

⑤ 36000年前頃:沖縄県那覇市の山下町第一洞穴遺跡の山下町第一洞人

⑥ 36000年前頃:京都府京丹後市の上野遺跡の後期旧石器152点(5点は隠岐諸島黒曜石

⑦ 32000年前頃:東京都府中市の武蔵台遺跡の神津島和田峠麦草峠産の黒曜石

⑧ 30000年前頃:群馬県みどり市岩宿遺跡から相沢忠洋氏によって発見された旧石器(含む黒曜石

⑨ 27000年前頃~:沖縄県石垣市白保竿根田原洞穴遺跡の白保人(19体以上)

⑩ 23000年前頃:沖縄県南城市のサキタリ洞窟(3万年前頃)の巻貝製の釣り針2本

⑪ 22~20000年前頃:沖縄県八重瀬町の港川フィッシャー遺跡の港川人(4~7体)

⑫ 20000年前頃:東京都板橋区の茂呂遺跡の旧石器22点(含む黒曜石

⑬ 19~18000年前頃:高原山(福島県矢板市等)の高原山黒曜石原産地遺跡群

 

 これらの旧石器時代の遺跡は沖縄から岩手県まで広い範囲に見られますが、①~④の12~5万年前頃の中期旧石器と、3.6万年前頃からの黒曜石と人骨の⑤~⑬の後期旧石器の人々は連続しているのか、それとも異なるのか、という悩ましい問題があります。さらに、この黒曜石人(後期旧石器人)と15000年前頃からの土器鍋人(縄文人)とが連続しているのかどうか、も重要な論点です。

 鋭い貫通力・切断力がある一方、すぐに欠ける黒曜石は斧や農機具などには使えず、その利用は槍の穂先や弓矢の鏃、肉や魚料理の調理器具、革や布を切るナイフなどに利用されたと考えられます。そして、小動物や魚を投槍で仕留める非効率な追跡猟ではなく、弓矢による効率的な待ち受け猟はイモ類や雑穀などの耕作に伴う鳥獣害対策ではないか、と私は考え、黒曜石の鏃と縄文農耕をセットで考えてきましたが、さらに旧石器時代に遡って考える必要がでてきました。―「縄文ノート27(Ⅱ-3) 縄文の『塩の道』『黒曜石産業』考」参照

 最古の弓矢が6.4万年頃の南アフリカのシブドゥ洞窟で発見され、アジアではスリランカのファ・ヒエン・レナ熱帯雨林洞窟で4.8万年前頃の鏃が発見されていることからみて、日本列島の旧石器人もまた4万年前頃からの黒曜石時代には弓矢を利用していた可能性が高いと考えます。スリランカはドラヴィダ海人族の拠点ですから、黒曜石利用の旧石器人もドラヴィダ系海人族であり、アフリカ高地湖水地方から黒曜石と弓矢を持って南インドスリランカアンダマン諸島を経て4~5万年前に日本列島にやってきた可能性は大いにあります。―「縄文ノート62(Ⅴ-6) 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」参照

 長弓の和弓から人類学者の金関丈夫氏は『発掘から推理する』で「射魚用から起こった日本の弓」論を書き、「東南アジアでは現代でも弓矢を使用して漁をする事例が しばしば確認できる(青柳 2011)」(2014.11.1大工原豊:岩宿フォーラム)とされていますから、狩猟だけでなく、銛(もり)漁・簎(やす)漁から弓矢漁への転換があったと考えられます。

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 なお、3万年前頃の沖縄県南城市のサキタリ洞窟から、2.3年前頃の世界最古の釣り針2本(巻貝製)が発掘されていることからみて、これまで縄文時代と考えていた釣漁・網漁・籠漁・壺漁などのうち、釣漁は後期旧石器時代に遡ることが明らかです。

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 旧石器時代は「石器の種類の豊富化とレベルアップ」で前期・中期・後期と区分されていますが、弓矢の発明や初期農耕の開始という道具革命・産業革命があったと考えます。石器の種類や形は結果であって、それを生み出した人間活動・社会で時代区分すべきです。「モノ分析こそが科学」というような「タダモノ史観」で人や社会を区分すべきではないと考えます。銛(簎)で魚を突いていた旧石器人が弓矢で魚を獲ることを思いつかないことなどありえないと私は考えます。

 私の子どもの頃には、岡山や播磨の川ではどこでも大きなフナやコイが悠々と泳いでいるのを橋の上から見ることができ、仕事先で通った北海道ではサケが川を埋め尽くすほどでしたから、銛(槍)の魚突き漁だけでなく、弓漁の可能性は高いと考えます。子どもの頃の私たちはチャンバラ遊びとともに弓矢を作ってよく遊び、子どもや孫におもちゃの弓矢を与えても夢中になって遊ぶことからみて、私たちのDNAには弓矢利用の記憶が埋め込まれているのではないか、と考えたりします。

 

5 最古の石鏃は?

 縄文時代には多くの石鏃や石鏃工房が発見されていますが、日本最古の石鏃はいつ頃になるのでしょうか? 

 津軽半島青森湾に面した外ケ浜町の大平山元遺跡の石鏃については、「大平山元遺跡で発見された世界最古の石鏃、世界最古級の土器の出現は、1万6,500~1万5,500年前」(大学ジャーナルONLINE)、「石鏃(せきぞく)。こちらも同じく15,000年前につくられたもの」(まるごと青森HP)などと紹介され、弓矢と石鏃利用は縄文時代からと考えていましたが、果たしてそうでしょうか? 

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 プロの皆さんの仕事に素人が口を挟むなどおこがましいのですが、旧石器人が黒曜石を3.6万年前頃から使用していた以上、黒曜石が採れるアフリカやインドネシアから神山天神信仰とともに弓矢文化を持って日本列島にやってきた可能性を考えるべきではないでしょうか。 

 写真7・8からの判断ですが、黄色点線で囲った石器は私には単なる石片ではなく鏃に見えます。さらに前掲の写真1の砂原遺跡の「3」も鏃の可能性があります。繰り返し使うのではなく使い捨てであっれば、矢竹の先の重しとして打撃力と直進性を増し、肉を切り裂く尖った石を付ければよく、最初は自然石を拾ってきた付けたでしょう。そのうちに、探し回る手間より、石を割って尖った鏃にする方が効率的であると考えたはずです。

 旧石器捏造事件があっただけに、「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」で過度に慎重になっていないか、素人の素朴な疑問としてあげておきます。

 

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5 中期旧石器人のルーツ

 12~11万年前頃の出雲市砂原遺跡、12~5万年前頃の藤江川添遺跡、9〜8万年前頃の金取遺跡から考えて、この頃に中期旧石器人が日本列島にやってきたことは明らかです。

 19~5万年前頃のインドネシア旧人フローレス人と同じようにY染色体O型グループは海を越えて竹筏でやってきたと考えられますが、熱帯雨林に留まらずにさらに北に向かったことをみると、東インドミャンマーの山岳地帯へ移動したⅮ1型グループと同じく、温帯気候で万年雪の山のあるアフリカ高地湖水地方をルーツとした可能性が高いと考えます。

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 彼らが7.5~7.0万年前頃のインドネシアスマトラ島のトバ火山の大噴火による「火山の冬」(平均5℃も気温低下)の時代に生き延びたかどうかは不明ですが、アフリカ高地湖水地方をルーツとしていたならトバ異変の寒冷化に適応し、後にやってきたドラヴィダ系海人・山人族と融合した可能性は高いと考えます。

 彼らがネアンデルタール人・デニソワ人やフローレス人のような旧人なのか、それともいち早く進化を遂げた新人(9万年前頃とされる現生人類:ホモサピエンス)なのかは判りませんが、12~11万年前頃の砂原遺跡、9〜8万年前頃の金取遺跡に石鏃が含まれるとすると、弓矢を利用した新人とみてよいと考えます。

 直良信夫(明石原人)・相沢忠洋(旧石器)・児玉司農武(黒曜石)・宮坂英弌(縄文集落)・藤森栄一(縄文農耕)氏らを継いで、中期旧石器時代(弓矢石器時代)の鏃の発見者が現れることを期待しています。槍猟・銛漁石器時代、石鏃石器時代、農耕石器時代、土器時代などの時代区分を考えてみませんか。

 

6 後期旧石器の白保人のDNA

 石器の種類と加工度が高まる後期旧石器時代になると、黒曜石の鏃とともに、3.6万年前頃の沖縄県那覇市山下町第一洞人や2.7万年前頃の石垣市白保人(19体以上)などの人骨が大きな手掛かりとなります。

 前掲の図5・表1に示した崎谷満氏のY染色体DNA分析が正しいとして、白保人らが53000年前頃にアフリカを出たO型系統なのか、38300年前頃にアフリカを出たⅮ系統(高頻度)の縄文人なのか、それとも両者がスンダランドあたりから一緒にやってきたのなど、ずっと悩みました。

 白保人については、2013年国立科学博物館の篠田謙一氏らの分析により、2~1万年前頃の人骨4点のうち2点は母系のミトコンドリアDNAはM7a型であり、東南アジア起源とされており、縄文人系統になります。ところが、他の2点が何型なのか、さらに父系のY染色体DNAの分析ができたのかできなかったのか、その結果はなぜか今も公表されていません。

 一方、前掲の崎谷満氏の「表1 各Y染色体亜型DNAのルーツ」によれば、現在の沖縄人に30~67%と多く九州・徳島にみられないY染色体O2b型は朝鮮・インドネシアベトナムに多く、台湾に43~98%と多いO1型、インドネシアベトナム・華南に多いO2a型は南北の沖縄人には見られません。

 この点から考えられるのは、日本の旧石器人O2b型はO2a型とインドネシアベトナムで分岐し、前者は沖縄・朝鮮に「海の道」を黒潮にのって北上し、後者はベトナムから中国に移住を広げた可能性もあります。

 たった2点の人骨から縄文人か旧石器人かの結論を出すのは早計ですが、黒曜石文化や神山天神宗教については、旧石器人O2b型、縄文人Ⅾ2型とも、アフリカ高地湖水地方で受け継ぎ、それぞれインドネシア(スンダランド)経由で日本列島に持ってきた可能性が高いと考えます。

 

7 白保人の顔つきは南方系?

 沖縄県石垣市の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡の2.7万年前の4号人骨の生前の顔が県立埋蔵文化財センターと国立科学博物館、複数の専門家でつくる研究グループでデジタル復元され、3次元プリンターで骨格をつくり肉付けが行われ、「鼻の付け根が落ち込む彫りの深い顔立ちで、中国南部や東南アジアの古人骨や、のちの縄文時代人と似ることが確認できた」と2018年4月21日の朝日新聞デジタル編集委員中村俊介)は伝えています。

 

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 一方、2.2~2.0万年前頃の沖縄県八重瀬町の港川フィッシャー遺跡の港川人の復元に際して、科博の海部陽介研究主幹は「港川人は本土の縄文人とは異なる集団だったようだ。港川人は5万~1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来した可能性が高い」としています。

 白保人は前掲の図5のミトコンドリアDNAのM7a型、表1のY染色体O系統にあたるという考えであり、一方、港川人は「縄文ノート62(Ⅴ-6) 日本列島人のルーツは『アフリカ高地湖水地方』」で掲載した次の図6のC1b3系統あるいは(オーストラロイド)とみているようです。 

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 白保人と港川人のY染色体DNAの分析結果が公表されていませんのでなんとも言えませんが、顔つきから縄文人系ではなく「現在の人類ならば、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近い」と判断したのだったとしたら「驚き桃の木山椒の木」で、港川人もびっくりしているのではないでしょうか。

 

8 まとめ

 旧石器捏造事件によって、ほとんどの旧石器研究者は見抜けなかったのですから信用を無くしてしまい、委縮してしまっているのではないかと心配です。

 また、DNA分析などの分析が進みながら、その分析結果をどう総合的に他の研究結果や経験則に照らして判断するか、となるともっと心配です。また、自説を新たに展開する以上、それまでの他の旧説を認めるのか批判・否定するのかはっきりさせるべきです。

 私は日本列島の旧石器人は、黒曜石鏃革命を起こしており、縄文人と文化・技術の面で連続し、融合したと考える「内発的発展論」ですが、旧石器人と縄文人縄文人弥生人など「断絶史観」「外発的発展史観」「征服史観」「拝外漢才洋才史観」が大好きな歴史学者・考古学者の方が多いようです。

 みなさんはどうでしょうか?

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート64 人類拡散図の検討

 ネットで検索すると人類の拡散について、様々な説の多くの図がみられ、どれを信用していいのか迷いましたが、同じような方は多いと思います。相互に矛盾する図が多いということは、誤った図も多いということになりますが、下に人類拡散図の12例(順不動)を示します。

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 アフリカのどこでホモサピエンスは誕生したのか、どこから出アフリカを果たしたのか、どのようなルートで世界に拡散したのか、途中に大きな分岐点があったのかアフリカですでに分岐していたのかなど、整理しないわけにはいきません。

 アフリカ・アジア各国に行ったこともなく、専門分野でも専門書を読んでもいない私がこのような作業を行うのはおこがましいのですが、ネットで公開されている情報からまずは自分の頭で考え、整理を行いたいと考えます。

 なお私が「日本民族起源論」「日本人起源論」と言わず、「日本列島人起源論」と書いているのは、①「日本国」や「日本民族意識」が形成される以前の旧石器・縄文時代をテーマとし、②そもそもこの国は南方・大陸・朝鮮半島・シベリアからの多様なDNAの人たちにより形成されており国名・民族名から判断すべきではなく、③世界文明の中で「日本列島」という多島海文明の特徴を重視するからです。

 いずれ、意欲的な若者たちがアフリカの誕生地を突き止め、そこからの全移住ルートを総合的な調査と再現実験によって解明することを期待して、基礎的な整理を行っておきたいと考えます。

 

1 私の仮説

 私は若狭の鳥浜遺跡や青森の三内丸山遺跡から見つかったヒョウタンの原産地がニジェール川流域であることを知り、三大穀物などイネ科植物の西アフリカ起源説をたて、「主語-目的語-動詞」言語族の分布を繋いで、日本列島人の起源は西アフリカのニジェール川流域ではないかと考えました。―「縄文ノート25(Ⅱ-1) 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』」等参照

 続いて、温帯ジャポニカの起源や霊(ひ)信仰、農業や宗教語のドラヴィダ語(タミル語)起源説、照葉樹林文化論、Y染色体Ⅾ型がチベット周辺に多いことなどから、縄文人ドラヴィダ系海人・山人族説にたどりつきました。―「縄文ノート37(Ⅲ-7) 『神』についての考察」「縄文ノート38(Ⅲ-8) 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」「縄文ノート41(Ⅳ-1) 日本語起源論と日本列島人起源」等参照

 さらに、エジプトのピラミッドの上が白、下が赤の2色で、ピラミッドは拝み墓であって埋め墓が別にある両墓制であることから、ピラミッドはナイル川上流のルウェンゾリ山信仰をもとにした神山信仰の神殿であると考え、この地のイシャンゴ文明がイモ穀類魚食文明であることや黒曜石の産出、さらには世界各地の神名火山(神那霊山)信仰などから、このアフリカ高地湖水地方こそが縄文文化のルーツではないか、と考えるようになりました。―「縄文ノート56(Ⅲ-11)  ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「縄文ノート61(Ⅲ-12) 世界の神山信仰」参照

 そして最後に、うかつなことに見逃していたのですが、縄文人Y染色体Ⅾ型と分かれたE型が「アフリカに多い。コンゴイド人種」であったのです。

 ウィキペディアによればこの「コンゴイドは、ニジェールコンゴニジェール・コルドファン)語族(バントゥー系民族、イボ人)やナイル・サハラ語族の言語を話し、農耕・牧畜生活を送っていた(もしくは現在も送っている)」のであり、かつてビアフラ独立を目指したイボ人は「黒人系の単一民族としては最大規模のグループの1つである。その人口の大半はナイジェリア東南部に住み、ナイジェリアの総人口の約20%を占める。カメルーン赤道ギニアにも相当数が居住する」とされ、「ニジェールコンゴ語は現代語ではSVO型が圧倒的に多いが、SOV型も見られ、元来の語順は明らかでない」とされているのです。

 DNAでたどるとニジェール川流域に住んでいた部族がアフリカ高地湖水地方に移住した可能性が高くなってきました。―「縄文ノート62(Ⅴ-6) 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」参照

 現時点での私の考えは、日本列島に多いY染色体Ⅾ型の縄文人のルーツはアフリカのニジェール川流域であり、68500年前頃にこの地からコンゴ川に沿ってアフリカ高地湖水地方に移住し、神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石利用、イモ穀類魚食文化を確立し、38300年頃にエチオピア経由で出アフリカを果たし、「海の道・海辺の道」を通ってインドに定住してドラヴィダ系海人族となり、さらにミャンマー海岸部・アンダマン諸島に移住し、一部は山岳地域に移住して山人族となり、後に海人・山人族が協力してスンダランドに移住し、何次かに分かれて日本列島に移住して縄文人となった、というものです。

 なお、この縄文人の移住時期については図の崎谷満氏の説を元にしたものですが、Y染色体C型の日本列島の旧石器人(クロマニョン人やオーストラリア先住民に近く、モンゴル・シベリア・北アフリカ原住民にも近い)とどう関係するのか、それぞれの出アフリカ時期が正しいのかについてはずっと迷ってきており、次の機会に検討したいと思います。

                f:id:hinafkin:20210330111302j:plain

 2 人類の起源

 アフリカの熱帯雨林をすみかにしているチンパンジーボノボから猿人→原人→ホモ・サピエンス旧人類・現生人類)へと人類が進化し、出アフリカをはたした年代と化石が発掘された場所などは次表の通りです。化石発見などはさらに進みますから、この表はネットで検索したレベルでの現時点でのおおまかな整理です。

 

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  原人化石の発掘、ミトコンドリアY染色体のDNA分析、放射性炭素年代測定法、南極の氷床コアに閉じ込められたメタンとCO2濃度からの気候変動分析により、人類の起源がアフリカであり、その進歩のおおよその状況は定説となっています。ただ、アフリカ熱帯地方は人骨は分解されて痕跡が残りにくく、また、各国での研究も進んでいないというデータ限界があり、実際には猿人や原人、ホモサピエンスの分布はアフリカ海岸沿いにさらに各地に及んでいた可能性があると考えます。

 問題は、いつ、どこから、どのようなステップ、ルートで人類が段階的にアフリカから拡散したのかですが、まだ諸説が分かれています。

 

3 人類の進化仮説

 700万年前頃のチンパンジーと人との分岐については、子どもの頃には「二足歩行説」「火の使用説」「道具使用説」「言語能力説」で習いましたが、さらに猿が木から地上に降りた理由として「気候変動説(氷河期乾燥化説)」「食料豊富化説(草食動物・魚介類・根菜類・穀類等)」、脳の拡大について「肉食説」「火の使用によるデンプン食説(糖質食説)」「言語説」、社会関係として「家族婚説」「共感・協力・コミュニケーション説」や「自然淘汰説」「適者生存の闘争・戦争説」「集団内競争説」などが思いつくままに考えられます。

 諸説の調査・整理については、別の機会に行いたいと考えますが、現時点での乏しい私の知識段階から整理した仮説は、図のようになります。

 

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 3 人類拡散説の整理

 人類の拡散説について、起源地と出アフリカ地点、分岐点、拡散ルート説を整理すると、次のようになります。

  

         表2 縄文人の起源地、出アフリカ地点、分岐点、拡散ルートの整理 

 

各説

場所

根拠

備考

起源地

ニジェール川流域説

西アフリカ海岸・河川地域

①食料が多く、種の多様性が生じる熱帯地域。

チンパンジーの分布地域。

Y染色体Ⅾ型と分かれたE型の「コンゴイド人種」のイボ人の居住地。

④縄文遺跡で見つかるヒョウタンの原産地。

⑤イモ食地域であり、イネ科穀物原産地の可能性。

①イボ人は高地湖水地方からの移住の可能性。

②高地湖水地方へ移住した可能性。

高地湖水地方

ナイル川源流のルワンダタンザニアケニア

熱帯雨林から雪山までの気候多様性

②山・森・サバンナ・湖・川の多様な環境

チンパンジーボノボ(ピグミーチンパンジー)の生息域に近い。※図6

④猿人化石の発見。

⑤エジプト・メソポタミア文明等の神山信仰のルーツ。

⑥イシャンゴ文明は25000~16000年前頃にかけて継続した穀類・魚食文明である。

⑥黒曜石利用の可能性。

タンザニア等からの竹筏利用の可能性。 ※写真1

⑧「先の丘の国」と呼ばれるルワンダタンザニアなど棚田風景はなじめる。 ※写真2~4

ニジェール川流域からの移住の可能性。

エチオピア

オモ川・トゥルカナ湖・アワッシュ川地域

①高地草原地帯は、高地湖水地方と環境が類似。

②オモ川・トゥルカナ湖・アワッシュ川周辺で多くの猿人化石の発見。

③現生人類の19.5万年前頃の化石(オモ遺跡)。

③黒曜石・岩塩の産出。

高地湖水地方からの移住の可能性。

南アフリカ

南アフリカボツワナ

①猿人化石や現生人類化石の発見。

Y染色体A系統が高頻度で、遺伝子多様性が最も高く「地球最古の人類」と呼ばれるサン人(ブッシュマン)が居住。

高地湖水地方からの移住の可能性。

出アフリカ地点

地中海沿岸説

エジプト

①陸続きである。

ナイル川に沿って下り、起源地から移動できる。

2地点出アフリカ説も。

アラビア海沿岸説

エチオピア

①紅海・ペルシャ湾渡海は容易。

②アフリカ西海岸から竹筏で海岸沿いに移動できる。

分岐点

中東分岐説

イラン付近説

アラビア海沿岸出アフリカ説に対応。

コーカソイドモンゴロイド・オーストラロイド・ネグロイドの4大人種説に対応(崎谷満氏など)。

③中国・日本・アメリカへはモンゴロイド分岐説とオーストラロイド分岐説の2説。

DNAからの推定。

シリア・トルコ付近説

エジプトからシナイ半島経由の地中海沿岸出アフリカ説に対応。

アフリカ分岐説

アフリカ

DNA多様化が生じやすいアフリカで4万年以上かけて人種多様化と分岐がおこり、それぞれ別々に拡散。

拡散ルート

海川・沿岸ルート説

インド洋・太平洋・地中海沿岸

①同じ気候帯を移動。

②魚介類と水と塩、果物などを安定的に確保可能。

③竹筏・竹カヌーで大人数が安全に移動可能。

④後のエジプト・メソポタミアインダス文明の交易に引き継がれた可能性。

 

内陸ルート説

インド・東南アジア・中国・アメリ

①海川ルートの内陸部徒歩移動版。

②オアシスルート(後世のシルクロード)は水・食料などから困難。「砂漠の舟」のラクダ利用は4500年ほど前と新しい。

 

海岸部でなく内陸部移動とした根拠不明。

マンモスルート説

シベリア草原(寒冷期)

マンモスなど大型動物を追って移住。

 

 

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4 主な拡散図の検討

 専門外であり、個々の拡散図の作成方法やデータの妥当性に踏み込んでの評価はできないため、ネットで知りえた範囲での他の拡散図との比較検討とデータ(化石と現在の人DNA・環境・言語・民俗など)の全体的整合性の範囲での評価になります。

 専門家による整理が求められるところです。

⑴ 現生人類の起源は「ニジェール川流域起源説」は1例、多数は「アフリカ高地湖水地方起源説」

 現生人類の起源について、「ニジェール川流域起源説」は女性に受け継がれるミトコンドリアDNA分析による1例にとどまり、女性に受け継がれるY染色体DNA分析による多数は「アフリカ高地湖水地方起源説」です。

 判断としては猿人・原人・現生人類の化石発見地と現代人のDNA分析からですが、前者は熱帯雨林などでは痕跡が残らず、また欧米人研究者の調査や各国の研究レベルにも大きな差があります。後者については、現在の各部族の居住地と起源地が異なる可能性があります。

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⑵ 出アフリカ地点は「地中海沿岸説」1例、「アラビア海沿岸説」5例、「両方説」6例

 出アフリカ地点は現代人のDNA解析からの分析ですが、「地中海沿岸説」1例、「アラビア海沿岸説」5例、「両方説」6例になります。図8の崎谷氏の拡散図は「アラビア海沿岸説」になります。

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⑶ 出アフリカ後の分岐点は「中東分岐説(イラン付近説、シラク・トルコ付近説)」が基本

 ―ただし日本とアンダマン諸島チベットバイカル湖畔に多いD型はアフリカでE型と分岐

 「アラビア海沿岸出アフリカ説」で四大人種説を反映した崎谷満氏の図8は、「イラン付近分岐説」でコーカソイド(白人)・モンゴロイド(黄色人)・オーストラロイド(オーストラリア先住民)の3方向に分かれたとし、「地中海沿岸出アフリカ説」の篠田謙一氏の図9は「シラク・トルコ付近分岐説」となっています。

 なお、崎谷説は北方ルートのモンゴロイドから東アジア人(中国・朝鮮・日本)が分かれたとしているのに対し、篠田氏は南方ルートの東南アジアから東アジア人が分かれるという大きな違いがあります。

 両説などを統合しようとした中田力氏の図13は、イラン・パキスタンあたりで北ルート・南ルート・西ルートに分かれ、南ルートは「海の道」としています。―縄文ノート25(Ⅱ-1) 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」参照

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 ただ、縄文人に多いY染色体D型はアフリカのE型と分岐していることからみて、アフリカの少数民族のDNA分析が進めば、崎谷氏の図2からみて他のR型・C型、F型・K型などもアフリカで見つかる可能性が高いのではないか、と考えています。図2を再掲しますので、合わせて検討していただきたいと思います。

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  また中田氏の図ではアフリカのE型を「高地湖水地方」と「北アフリカ」に書いていますが、ニジェール川流域が起源と私は考えています。縄文人のⅮ型もチベットだけでなくミャンマー沖のアンダマン諸島にも書き加えるべきです。「縄文ノート43(Ⅴ-1) DNA分析からの日本列島人起源論」の図14を掲載しておきます。

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 私の「縄文人ドラヴィダ系海人・山人族説」は、「ヒョウタン・3大穀物」の起源、「主語-目的語-動詞」言語族の移動ルート、大野晋氏のタミル語起源説と、この中田氏の図13を重ね合わせたものです。

 

④ 拡散ルートは「海川・沿岸ルート説」6、「内陸ルート説」6、「マンモスルート説」8

 拡散ルート(1つの図で複数ルート)は、「海川・沿岸ルート説」が6、「内陸ルート説」が6、「マンモスルート説」が8であり、別に「オアシスルート説」4もみられます。

 表2に書いたように、「オアシスルート」(後世のシルクロード)は水・食料などの確保が難しく、「砂漠の舟」と言われるラクダ利用は6500年程前と新しく、小人数の交易隊商ならともかく、子ども・女性・老人を連れての民族移動は不可能であり、ルート図に乗せているのは経験則違反の誤りを犯しており、撤回すべきです。

 また、肉食史観の「マンモスルート」は一番多いのですが、若狭の鳥浜遺跡で見つかった熱帯性のヒョウタンやウリ、エゴマ縄文人が多毛であることなどからみて、縄文人の主要な移住ルートとは考えられません。

 今のイラン→パキスタン→東南アジア→中国→日本列島→アメリカ大陸の「内陸ルート説」は、東南アジア・中国が「主語―動詞-目的語」言語であり、日本列島・南朝鮮などの「主語-目的語-動詞」言語と異なり、移住ルートとしては考えられません。

 「主語-目的語-動詞」言語族である縄文人は、東南アジア・中国の「主語―動詞-目的語」言語族より先にアジアに来たとは考えにくく、「主語-目的語-動詞」言語族に干渉されにくい「海川・沿岸ルート」でインド・東南アジアを経由して日本列島にやってきたと考えるのが合理的です。

 

5 まとめ

 以上の検討から、私が妥当と考える人類拡散図は、中田力氏の図13に、アンダマン諸島にD型を加えた図になります。

 一方、国立科学博物館の馬場悠男・海部陽介氏が監修したNHKスペシャル人類誕生の『大逆転! 奇跡の人類史』に掲載されたを掲載しますが、この図が正しいかどうか、みなさんはどう思われるでしょうか?

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 第1の疑問は、出アフリカ地点について少数派の「地中海沿岸説」をとり、「アラビア海沿岸説」には「?」を付け、中東を人類発達・分岐のセンターであるかのようにした「西欧中心史観」の図としていることです。

 第2は、「海・海岸の道」史観ではなく「徒歩移動」史観を受け継ぎ、日本列島への移住は台湾・朝鮮半島経由としていることです。前回「縄文ノート63(Ⅴ-7) 3万年前の航海実験からグレートジャーニー航海実験へ」で私は海部陽介氏らの台湾・沖縄黒潮横断渡海実験を批判しましたが、彼らの実験はこのような偏った仮説を証明しようとする実験でした。

 DNA分析を無視した海や筏・舟、魚やイモ・雑穀が嫌いな肉食史観の人たちの暴論という以外になく、「和魂漢才」「和魂洋才」ならぬ「倭魂」を忘れた「漢才・洋才史観」と言わざるをえません。アフリカ文明・インド文明を受け継いだ縄文人1万数千年の歴史を「野蛮・未開社会」に押しとどめ、弥生人(中国人・朝鮮人)こそが文明をもたらして天皇家建国に繋がったとする拝外・大和中心史観がNHKを支配しているようです。なお、弥生時代から奈良時代初期までに150万人の北アジア系渡来人がやってきて人口の8割以上を占めたという埴原和郎氏らの説はDNA分析とは乖離しており、別の機会に批判したいと考えます。

 私は嫌中・嫌韓派ではなく漢字・漢詩文化が好きですが、だからといって日本列島人起源論や縄文論をDNA分析に反してゆがめようとは思いません。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート63 3万年前の航海実験からグレートジャーニー航海実験へ

 2021年3月21日のBSフジのガリレオX第238回「自然物を手掛かりとするナビゲーション技術の科学」では、2019年7月24日にNHKクローズアップ現代の「独占密着!3万年前の大航海 日本人のルーツに迫る」などで紹介された台湾~沖縄の渡海実験が再び紹介されていました。

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 この国立科学博物館主催の海部陽介氏が中心となった2013~2019年の「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」について、私は2019年12月5日のレジュメ「『无間勝間(まなしかつま:丸木舟準構造)船』『打羽(うちわ)帆船』『魏使船』考」などで草船による航海実験(2016年)を批判しましたが、その後、竹舟や丸木舟による渡海実験が行われており、私の稲作起源論、日本語起源論、日本列島人起源論も進みましたので、再度、検討したいと考えます。

 

1.「黒潮北上ルート」説を考えない黒潮横断渡海実験

 海部陽介氏らの「ホモ・サピエンスは海を渡って日本に来た」という主張は、私の「海人族のスサノオ大国主建国説」、「縄文人ドラヴィダ系海人・山人族説」と合致します。徒歩史観(ウォークマン史観)・肉食史観(マンモスハンター史観)から抜け出せない旧説墨守派に対して、海の道史観・魚食史観の私としては、大歓迎です。

 「海部(かいふ)」は古代には「あまべ」と呼ばれる海(あま)族であり、海部陽介氏が「海の道」に関心を持たれるのは当然と思われます。ちなみに、大海人皇子(おおあまのおうじ)は壬申の乱で権力を奪い、「天武天皇」と名乗りますが、この時から「海=海人=あま」を「天(あま)」に置き換える操作が行われたと私は考えています。

 また、実験考古学の必要性・重要性についても、仮説実験作業で最適解を求める工学部卒として、また冤罪事件の解明において再現実験による自白や物証の検証が重要と考えて実行してきた私としては、このプロジェクトの方法論を大いに評価したいと思います。机上の空論ではなく、実験で再現性を確かめることは欠かせない手続きです。

 ただ根本的な問題点は、その前提となる仮説が他の諸科学に照らして正しいかどうかです。

 海部氏らは「海の道」を「対馬ルート」(38000年ほど前)、「沖縄ルート」(35000年ほど前)、「北海道ルート」(25000年ほど前)の3ルートとし、その中の「沖縄ルート」を確かめるために、台湾から琉球列島への「黒潮横断ルート」の渡海実験を行ったのですが、なぜか東南アジアからの「黒潮ルート」仮説を検討していないのです。

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 海部陽介氏らはこの「黒潮北上ルート」説を検討しなかった理由を明らかにしていませんが、2017年10月19日に朝日新聞デジタルで紹介された「国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長らが白保人の骨の一部のDNAを解析したところ『これまで解析できたDNAでは、東南アジアや中国南部に特徴的な遺伝子型を持っていたことがわかった』と話す」(注:白保人は沖縄県石垣市石垣島白保竿根田原洞穴遺跡で発掘された19体の旧石器人で最古は約27000年前頃)とのコメントを知らないわけはなく、東南アジアからの「黒潮ルート」説を排除した偏った仮説実験と言わざるをえません。

 「縄文ノート43(Ⅴ-1) DNA分析からの日本列島人起源論」で書きましたが、さらに古い2007年の篠田謙一著『日本人になった先祖たち』に書かれたミトコンドリアDNA分析では、沖縄に多いM7a型は台湾先住民や広東には見られません。さらに2008年の崎谷満氏の『DNAでたどる日本人10万年の旅』のデータでは、現在の沖縄人に多いY染色体O2b型は朝鮮・インドネシアベトナムに多く、台湾に多いO1型、インドネシアベトナム・華南に多いO2a型は沖縄人には見られないのです。

 沖縄には台湾からの旧石器人の痕跡がないにも関わらず、台湾からの渡海実験を行うというのはいったい何を証明したいのか意味不明です。

 私は「『沖縄』に多く、次いで『本土日本』、さらに『韓国』に少し見られるミトコンドリアM7aが『台湾先住民』『広東』『山東遼寧』のどちらにもほとんど見られないことは、日本列島と韓国には南から陸路を通らずに『海の道』を通り、直接日本列島にやってきた『南方海人族系』の人たちがいたことを示しています」と書きましたが、ミトコンドリアDNA(女性に遺伝)・Y染色体DNA(男性に遺伝)のどちらもが、沖縄の旧石器人が台湾・中国系でないことを示しているのです。

 また、私が縄文人と考えるY染色体Ⅾ2型が東南アジア・中国・朝鮮に見られないことからみても、彼らもまた黒潮に乗って日本列島に直接やってきたことが明らかであり、旧石器人と同じ「黒潮ルート」でやってきた可能性が高いと考えるべきなのです。

 海部氏らの航海実験は、DNA分析結果を無視した「台湾~琉球黒潮横断ルート」仮説によったものであり、その証明はDNA分析結果や「黒潮ルート」説を否定できるようなものではありません。日本列島人台湾ルーツ説・台湾経由説は成立しません。

 

2.「草船・竹舟・丸木舟」仮説は正しいか?

 海部氏らが再現実験によって旧石器人の行動を確かめるという方法を私は支持しますが、その実験では人類の経験則や物理法則を無視しているという点において、もう1つの誤りを犯しています。

 子どもの頃、私が最初に池で遊んだのは竹の筏づくりで(重い木は浮力をえられませんでした)、次に艪で漕ぐ和舟(川舟、伝馬船)、お堀や海のオールの手漕ぎボート、川・湖・海のカヌー・シーカヤック、小型ヨット(キャットボート)へと変わってきました。御影石の石垣の水路(クリーク)が発達した岡山市西部の平野では、農家は「こえたんご舟・こえたご舟(肥担桶舟)」に農機具や肥料、収穫した稲穂を載せて運んでおり、友人の家の舟でどこまでも水路を探検したことがあります。動力は竿で水路底や石垣を押して進むという方法でした。

 普通に仮説実験を行うなら、経験則をまずは確かめ、竹筏、次に丸木舟を考えるべきでしょう。海部氏らの再現実験は渡海手段の選択において、経験則無視の誤りをおかしています。

 「筏」字が「竹+人+戈」(竹を人が戈で切ってつくる)であることを見ても、次の写真のようにインド・ビルマ・タイ・インドネシア・フィリピン・台湾・中国などでは身近に入手できる太い竹を使った竹筏を漁船や観光船に使用しているのです。直径0.7~1mもあるような重い巨木を熱帯雨林で捜して切り出して加工するより、入手容易で軽くて加工しやすい竹をまず使うでしょう。

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  『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)でも書きましたが、2001年のNHKスペシャルの「日本人 はるかな旅」では、今でも上海あたりの漁師は竹筏に船外機を付けた舟で漁をしており、長崎あたりまで流されることがしばしばあり、1~3日で到着すると紹介されていました。風によって押し流され、対馬暖流を横切って自然と九州に流れつくのです。

 私の記憶に今もはっきりと残っているのは、1977年のフィリピンから鹿児島までの毎日新聞記者・倉島康氏ら7人による1か月の竹筏航海の冒険です。子どもの頃に読んだ『コンチキ号漂流記』でノルウェー民族学ヘイエルダールらが1947年に行ったチリからポリネシアへの太平洋横断に次ぐ快挙でした。

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 小学生の時に安田徳太郎氏の『人間の歴史』を読み、1962年の堀江謙一氏のマーメード号による94日かけての太平洋横断(『太平洋ひとりぼっち』)にも興奮した私としては、倉島氏らの黒潮漂流記によって日本人のルーツが南方系であることを確信しました。

 『竹筏 ヤム号 漂流記―ルーツをさぐって2300キロ』などで紹介されていますが、倉島氏らはフィリピンから鹿児島まで、竹を三層に組んで浮力を増した筏を作り、その上に竹製のキャビンを乗せ、パンダンと呼ばれる植物の葉で帆走しているのです。

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 家族連れの多人数の移住となれば、浮力の大きい竹筏をまず考えるに違いありません。海部氏らが竹筏を考えず、なぜ小さな「草舟」(7人乗り)を選び、次に「竹舟」(5人乗り)、丸木舟(5人乗り)に取組んだのか、理解に苦しみます。

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 ウィキペディアによれば、葦船は古代エジプトメソポタミアで使われ、今もペルー、ボリビアエチオピアで、最近までケルキラ島(ギリシア東海岸)などで使われているというのですから、草船を航海実験に使うならアフリカのエチオピアからの「海の道」を考え、「黒潮北上ルート」を最有力の仮説に入れるべきでしょう。その最古の痕跡は12000年前頃のアゼルバイジャンの岩絵(ペトログリフ)にあり、7000年前頃の葦船の遺物がクウェートで見つかっています。

 なお、ネットで調べると、1946年6月、終戦を知らなかった9人の日本兵が長さ約6m、幅約1mの帆柱つきカヌーでフィリピンから脱出し、尖閣諸島を経て、鹿児島県の口永良部(くちのえらぶ)島に30日かけてたどり着いています。

 前述の竹筏ヤム号とほぼ同じであり、1か月ほどかければフィリピンから日本列島まで竹筏でもカヌーでも「黒潮ルート」でたどりつけるのであり、3万年前頃からの旧石器人、1万数千年前ころからの縄文人は「黒潮北上ルート」をやってきた、との仮説で実験を行うべきでしょう。

 

3.「手漕ぎ舟」か「帆掛け筏」か? 

 海部氏らの再現実験の第2の経験則無視の大きな誤りは、「風力」の無視です。

 海や湖・川で舟で遊んだことがある人なら、風を気にしないということはありえません。カヌーやシーカヤックで風上に漕ぎあがるのは実に大変です。本人の体と艇だけでも受ける風圧は強く、逆に背中から追い風を受けると、実にらくちんです。「行はヨイヨイ、帰りはコワイ」ではありませんが、行きと帰りの風向を気にしないなどありえません。

 江戸時代の遭難記などを読むと、暴風に巻き込まれた時に船を動かすのに欠かせない大事な帆柱(マスト)を切り倒していますが、それはマスト1本でも舟を倒すほどの風圧を受けるからです。

 旧石器人や縄文人が「手漕ぎ舟」の人力移動であったのか、それとも「帆掛け竹筏」「帆掛け丸木舟」の風力移動であったのかについては、今のところどちらも考古学の証拠はありません。

 縄文時代の丸木舟は全国で約160艘で、最古は7500年前頃の千葉県市川市の雷下遺跡の丸木舟で、7300年前頃の浦入遺跡(舞鶴市)、7000年前頃の(松江市)などを除くと、ほとんどは4000年~3000年前頃とされています。

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 そして、今のところ、外洋航海を伺わせる帆柱やアウトリガー(転覆防止の横に張り出した浮材)、波よけの舷側板(沖縄のサバニや奄美の板綴り舟、アイヌのイタオマチプのような)などは見つかっていません。私も各地の博物館などで丸木舟に帆柱を立てた痕やアウトリガーを縛り付けた痕がないか、必死になって探しましたが、そのような痕跡は見つかりませんでした。

 なお、小田静夫氏によれば、南さつま市加世田栫ノ原(かこいのはら)遺跡からは12000年前頃の世界最古の丸木舟製作道具と考えられる「丸ノミ形石斧」が発掘され、沖縄本島奄美大島五島列島、高知、和歌山、八丈島など対馬暖流と黒潮に沿って発掘されており、くり抜きのための工具からみて縄文時代の草創期から丸木舟が使われていたことは明らかです。―2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(季刊日本主義43号)参照

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 このように、3万年前の旧石器人が丸木舟を使った、風力を利用せず人力手漕ぎで移動したという考古学的な手掛かりは何もなく、経験則を頼りに検討する以外にありません。

 バランスの悪い細長い丸木舟は横風を受けるとすぐに転覆しますから、帆を使うのは図のように追い風の時しか考えられません。あるいは、アウトリガーを付けるか、2艇を繋いだ双胴船(カタマラン)にして転倒を防いで帆を使うかです。 

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 ところが、幅の広い筏では帆を付けても転倒する心配はありません。竹を利用して家を作ったり竹籠を作った経験があれば、竹で編んだ網代小屋を竹筏に乗せ、網代の帆を作ることは技術転用として容易です。

 仮に女・子ども・老人を含む10家族100人の移住で水や食料を含めると、40艇ほどの丸木舟が必要になりますが、浮力のある大型の竹筏だと10隻ほどでよく、幅広の竹筏なら竹で編んだ網代の小屋をもうけ、網代の帆を立てることも容易です。竹筏は割った竹をロープ代わりにして固定することができ、旧石器人でも容易に製作できたと考えます。また、網代小屋に住んでいたら、網代壁や屋根が受ける風圧を感じたはずであり、筏での移動に網代帆(材料は薄く削いだ竹や、笹などの葉)を利用した可能性は高いと考えます。

 人力移動のキン肉マン仮説にこだわり、風力利用仮説を考えない海部氏らの再現実験は、仮説実験としては明らかに誤っています。 

 

4.「風況」の無視

 海部氏らの再現実験の第3の経験則無視は、風況をおさえていないことです。季節によって海風の方向は決まっていますから、風向は航路を決める重要な手掛かりになるのですが、海部氏らの航海実験は季節風を利用したナビゲーション(方位決め)を考慮していない実に不思議な実験です。天候を読み、安定した「南風(はえ、はい)」を利用するなど、旧石器人のレベルの風の知識を前提とした実験とすべきでした。

 私は海なし県のさいたま市に住み、近くの彩湖や鉱害で強制廃村にされた矢中村があった渡良瀬遊水地でよく小型ヨットとカヌーで遊びましたが、冬の西北からの季節風を除き、午前中は東京湾から、午後は太平洋からの海風が主でした。さらに全国各地の湖や海に折り畳みのキャットボートを送って楽しみましたが、いつも風向を気にしていました。

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 瀬戸内や山陰、四国、九州沿岸の市町村計画の仕事では「カヌー・シーカヤックのまちづくり」を考え、風や潮流のことをよく質問しましたが、動力船以後の漁師の人たちはほとんど頓着しておらずびっくりしたものです。もはや潮流や風に詳しい漁師はいないと思いますから、代わりに海象(海況)・気象条件を調べ、人力移動時代の海人族のレベルの経験則を想定して再現実験を行うべきであり、海部氏らの人力航海実験は風の条件という再現条件を満たしていない科学性に乏しい実験という以外にありません。

 動力を失った中国の筏漁船の漁師たちが風に運ばれて九州に流れ着くことからみても、季節によっては台湾から沖縄に容易に渡海は可能です。上海あたりの漁師は竹筏で長崎あたりまで1~3日で流されているのに対し、海部陽介氏らの台湾から与那国島への手漕ぎの丸木舟実験では2.5日もかかっているのをみても、人力手漕ぎ航海よりも風に吹き流された漂流の方が早いのです。

 なお、海部氏らの実験によって、沖縄の旧石器人が台湾や中国から来たという証明にもならないことは言うまでもありません。

 

5.「移動実験」でなく「移住実験」が必要

 海部氏らの再現実験の第4の経験則無視は、海上移動にこだわり、海上移住を総合的に検討していないことです。単に数名が移動するのではなく、家族単位で水や食料、生産生活用具、動物などを載せての移住の再現実験を行っていないことです。「ノアの箱舟」型の移住実験とすべきなのです。

 仮に女・子ども・老人を含む10家族100人の移住で水や食料を含めると、40艇ほどの丸木舟が必要になりますが、浮力のある大型の竹筏だと10隻ほどでよく、幅広の竹筏なら竹で編んだ網代の小屋をもうけて生活ができ、網代帆を立てることも容易です。竹筏は割った竹をロープ代わりにして固定することができ、旧石器人でも容易に製作できたと考えます。

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 アフリカ4万年の間に現生人類は糖質食によりシナプスを活性化させ、現代人と同等の知能と技能を獲得したとされていますから、竹筏の製造と風の利用は容易に考えた可能性は高いと思われます。

 なお、使用後の筏はバラされて薪として燃やされ、イネ科の竹はパンダが主食としているようにデンプン質が多く、虫などに食べられてしまい痕跡を残して発見されることは期待できませんから、竹筏利用は経験則と合理的思考から判断する以外にありません。

 表のような8項目で竹筏と丸木舟の移住手段としての性能を比較すると、竹筏が圧倒的に有利です。

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 なお、竹筏を利用していたなら、抵抗の少ない細長型の竹舟も考え付いたはずであり、「竹筏主・竹舟従」の舟団であった可能性が高いと考えます。

 

6.旧石器人・縄文人の言語は?

 日本列島を「黒潮の道」を通ってやってきた海人族は、言葉とともにやってきたことは言うまでもありません。リストアップすると次のようになります。

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 他民族支配による言語交代のなかったわが国では、「主語-目的語-動詞」言語構造が維持されるとともに、すべての言葉は倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3層構造をなしており、航海関係語でも「艪」だけを例外として倭音倭語が基本であり、それに熟語を中心に呉音漢語・漢音漢語が加わるという3層 構造を示しています。

 この日本語の3層構造は宗教関係語、農耕関係語などにおいても成立し、国語学者大野晋氏の分析により倭音倭語のルーツがドラヴィダ語(タミル語)系であることが明らかとなりました。―「縄文ノート41(Ⅳ-1) 日本語起源論と日本列島人起源」「縄文ノート42(Ⅳ-2) 日本語起源論抜粋」参照

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 この大野氏の分析結果は、「縄文ノート43(Ⅴ-1) DNA分析からの日本列島人起源論」で示したように、DNA分布からも裏付けられます。

 

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 日本列島には漂流したり戦乱を避けて中国大陸や朝鮮半島からの流入者がいたことは、DNAや呉音漢語・漢音漢語の例から見ても明らかですが、その割合がごく少数であったことはDNA分析から明白です。

 

8.「中国人・台湾人ルーツ説」は成立するか?

 私の父方は岡山県の山村の農林業家ですが、30戸の山村の全戸は「ひな」と称しており、江戸時代中期からの墓は「日向(ひな)」、提灯には「日南(ひな)」と書いていました。

 そこから「ひ」「ひな」の探求に入り、「日(ひ)」は元々は「霊(ひ)」であったと考えるようになり、『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』をまとめました。

 さらにスサノオ大国主一族は対馬壱岐を本拠地系した海人族と考え、そのルーツが南方系なのか朝鮮半島系なのかずっと考えてきましたが、台湾に「卑南族」がいることから、台湾ルーツ説についても検討してきました。

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 「卑南族」は現在「プユマ族」とされていますが、呉音漢語だと「卑南」は「ヒナ」になり、古くは「ヒナ族」であった可能性があります。

 この卑南族はもとは婿入り婚で現在でも長女の意見に重みがあり、伝説では石から産まれた一族と竹から産まれた一族の2系統があり、8つの集落(社)にちなんで「八社蕃」とも呼ばれています。日本の磐座(いわくら)巨石信仰や「八百万神」「八王子」「八幡神」などの呼称、神童の額に「八」と書く高砂市の曽根神社の祭りなどとの関係も気になります。また、竹の家など、竹を使い慣れている部族になります。

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 2018年12月のレジュメ「妻問夫招・夜這いの『縄文1万年』」では「卑南族の言語は『主語―動詞―目的語』構造でわが国とは異なりますが、『原住民の祭礼・祭祀に欠かせない祖霊部屋は巫女信仰のアニミズム』『豊年祭 - 粟の収穫を祈願する祭祀; 収穫祭 - 粟の収穫を感謝する祭祀; 大狩猟祭』『祖霊部屋(巫師部屋)、少年会所、青年(男子)会所』『頭目制度と男子会所による年齢階級組織が混在した母系社会』(沖縄写真通信)などは、縄文社会分析のヒントになると考えます」と書きましたが、女性が取り仕切る祖霊信仰は卑弥呼などわが国の古代社会と同じです。

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 このレジュメでは「台湾の山岳部や東部に住む原住民は12上の「族群」に分かれ、文化・言語を別にし、勇敢で戦闘的であり、それぞれ独立性を保っていたのに対し、わが国の縄文社会は均一性という点で大きな違いがあることをどう理解すればいいか考えてきました」とも書きましたが、海部氏らは「台湾―沖縄渡海実験」を行うなら、DNA・言語・宗教・民俗など、台湾人について総合的な分析を行い、日本列島人のルーツに迫るべきでしょう。

 

9.グレートジャーニー航海実験へ

 以上、間違いだらけの「3万年前の大航海実験」は、日本列島の旧石器人が35000年ほど前に台湾ルートからきたとする証明にはなっていません。

 また、「対馬ルート」(38000年ほど前)についても、DNA・言語分析からみて疑問があり、36000年前頃の京丹後市上野遺跡の隠岐島産の黒曜石の発見や、35000年前頃の高原山での黒曜石採掘などからみて、黒曜石のない中国や朝鮮半島からの移住ルートは裏付けられません。―「縄文ノート44(Ⅴ-2) 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」参照

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 黒曜石利用文化は神山(神名火山)信仰によって黒曜石を発見した可能性が高く、アフリカのケニア山などでの黒曜石採掘からチグリスユーフラテス川源流のアルメニアアララト山近くのアルテニ山での採掘と普及をへて、インドネシアから日本列島に伝わったと考えています。―「縄文ノート61(Ⅲ-12) 世界の神山信仰」参照

 海部氏らの「3万年前の大航海実験」がいったいどのような意図で旧石器人が台湾から沖縄に渡ったという仮説に執着したのか、実に不可解なのですが、国立科学博物館主催である以上、海部氏と国立科学博物館は、国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長らが行ってきた東アジア人のDNA分析結果や白保人のDNA解析の「これまで解析できたDNAでは、東南アジアや中国南部に特徴的な遺伝子型を持っていたことがわかった」という発言とどう整合性を図るのか、きちんと説明を行う責任があります。

 私は旧石器人は東南アジア系、縄文人はドラヴィダ系海人・山人族と考えていますが、海部氏らは旧石器人はアフリカのどこからどのようなルートを経て、台湾経由で沖縄にたどり着いたのか、その全行程を「海の道」「海辺の道」全体について、再現実験を行うべきと考えます。

 海部氏は海人族としての自らのルーツを解明すべきであり、陸の道の「グレートジャーニー」に取り組んだ探検家・関野吉晴氏と組んだ取り組みを期待したいと考えます。

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□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/