ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

「倭語論15・琉球論6 古日本語は『3母音』か『5母音』か?」の紹介

 今回、Gooブログの「倭語論15」、Livedoorブログの「琉球論6」として、「古日本語は『3母音』か『5母音』か?」をアップしました。https://blog.goo.ne.jp/konanhinahttp://blog.livedoor.jp/hohito/
 日本語の起源については、小学生の時に読んだ安田徳太郎の『人間の歴史』の性器名などから南方に起源があると考え、さらに国語学者大野晋さんの「ドラヴィダ語説」(後に古代タミル語説に)が加わり、ヒョウタンや米の伝来から言語も南方から伝わったのではないか、と漠然と考えるようになりました。
 その後、邪馬台国論から安本美典氏の統計的分析による日本語起源論の本を読みましたが、「主語―目的語―動詞(SOV)」言語構造が日本語とアイヌ語朝鮮語が同じであるにも関わらず、日本語と朝鮮語の基本語が一致しないという氏の主張に矛盾があることなどから、氏の北方起源説(大陸起源説)には疑問を持ちました。
 2017年11月に「『へのこ』考」、2018年7月に「主語―目的語―動詞(SOV)」言語の起源と拡散」、同8月に「『カタツムリ名』沖縄起源説」、同12月に「松本修著『全国マン・チン分布孝』の方言周圏論批判」「『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」を書いてきましたが、日本語のルーツは南方か北方(シベリア・朝鮮半島)か、その伝来は「海の道」か「マンモスの道」「騎馬民族の道」か、みなさんはどうお考えでしょうか?
 縄文論との関係では、縄文時代は多言語・多民族文化なのか、それとも縄文語・縄文文化・縄文文明があったのか、というテーマと関係します。 雛元昌弘

 

 安本美典氏の「古日本基語北方説」と私の「古日本語南方起源説」

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「倭語論14 『アマテラス』か『アマテル』か」の紹介

 2月13日からLivedoorブログ「帆人の古代史メモ」での「アマテル論」を開始しましたが、関連してGooブログに「倭語論14 『アマテラス』か『アマテル』か」をアップしました。https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 大学1年生の時、夏休みに工務店でアルバイトした時のことですが、職人の間で「玉から生まれたアマテラス」や「万世一系」なんか嘘だろうなど、天皇崇拝を皮肉る話がよく飛びかっていました。中には「天照大御神」のことを「テンテル」としか言わない若い腕のいい大工がいました。
 古代史をブログで書き、『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)を出したときも、「天照」を「アマテラス」と書いたり「アマテル」と書いたりしてきましたが、昨年末の『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版)からは引用など以外では「アマテル」を使うようになりました。
 最近、「モモソヒメ=卑弥呼=アマテラス」という「新皇国史観」があたかも歴史であるかのような邪馬台国畿内説の主張が目に付きだし、「アマテラス」か「アマテル」か、はっきりさせる必要があると考えます。
 あの「大東亜戦争」の反省と裕仁天皇の「人間宣言」に照らせば、本居宣長の「世界を照らす太陽神アマテラス」の解釈を否定され、「天照」を「アマテラス」ではなく「アマテル」と読むるべきと考えますが、みなさんはいかがでしょうか? 
 縄文論との関係では、太陽信仰があったのかどうか、それが古代国家建設に結びつくのかどうかなど深いかかわりがあります。ご検討いただければと考えます。雛元昌弘

たつの市龍野町日山の天神山の粒坐天照(いいぼにますあまてらす)神社
―祭神は天照国照彦火明(あまてるくにてるひこほあかり)―

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動物変身・擬人化と神使、肉食と狩猟

 この小論は2014年8月にまとめて「縄文社会研究会」のメンバーに送付したレジュメを小修整して再掲したものです。
 この時には「弥生時代はなかった」「石器・土器・鉄器時代区分にすべき」という考えに到達していなかったので、「縄文」をそのまま使っています。文化論・宗教論の枠組みに入ると思いますが、いずれ、「文明論」として展開したいと考えています。

1.動物変身・擬人化神話について

 上田篤元大阪大学教授の主催する「縄文社会研究会(縄文日本の会)」で、日本のアニメが世界各国で受け入れられているのは、鳥獣戯画などの動物擬人化や動物と人間との間に境をもうけない文化的な伝統、恐らく、縄文文化からの伝統ではないか、という意見が出された。
 確かに、宮崎駿氏の『風の谷のナウシカ』や『となりのトトロ』『もののけ姫』『紅の豚』『千と千尋の神隠し』『崖の上のポニョ』などに描かれた世界では、人間絶対主義ではなく、動物を人間と同等に扱い、人間が動物に、動物が人間に当たり前のように変身する。
 トリップアドバイザーの「外国人に人気の日本の観光スポット 2014」(サイトへのアクセス数)では、 14位に嵐山モンキーパークいわたやま、21位に地獄谷野猿公苑、22位に奈良公園が入っているが、日本人の動物へ付き合い方に外国人が興味と共感を持っていることを示している。
 私は『スサノオ大国主の日国 霊の国の古代史』(梓書院)において「霊(ひ)信仰論」や「ヤマト=山人=猟師論」を、ブログ「帆人の古代史メモ78~86」において、「非人=霊(ひ)人論」「肉食忌避論」「動物使徒論」を、ブログ「神話探偵団117、122」において「肉食論」「動物使徒論」を、ブログ「帆人の古代史メモ99」において「農耕支援狩猟論」「鹿・猪の血による稲作論(黄泉帰り宗教論)」などを書いてきたが、動物変身・擬人化神話、動物使徒伝承、肉食・狩猟について検討し、縄文人の動物観に迫ってみたい。
<参考資料> 中村禎里著『日本人の動物観―変身譚の歴史』、永松敦著『《猟師》の誕生と狩猟儀礼の成立』

2.前提としてのDNAと霊(ひ)信仰について

 ヒトの遺伝子のうち、およそ97%はその正体が不明であり、しかも、ウニの遺伝子数が人とほとんど同数で、その70%がヒトと共通していることなどが判明してきている。さらに、チンパンジーと人間のゲノム(遺伝情報)を比較すると98%以上が同じという。
これらのことから、「ジャンクDNA(がらくた遺伝子)」と呼ばれてきた97%の遺伝子は、人類が進化してきた過程で使われなくなった遺伝子であり、ヒトの遺伝子は、生物進化の全情報を含んでいるのではないか、という説も出されている。猿のように樹上生活をした段階、その前のネズミのように穴暮らしをしていた段階、もっと前の海にいた段階などの全遺伝子情報がこの「ジャンクDNA(がらくた遺伝子)」の中に記録されている可能性がある。私は子どもの木登りや舟遊び体験のボランティア活動を通して「動物進化を追体験する子どもの遊び」をまとめて「チャイルド・サイエンス 懸賞エッセイ『子どもの不思議』」に応募し、2004年9月の第1回子ども学会議(学術集会)で奨励賞をいただいたことがある。
このような遺伝子(DNA)の働きを知っている現代人は、縄文人や古代人の「霊(ひ)信仰」は荒唐無稽な思想と笑うことはできない。DNAが親から子へと受け継がれることを、古代人は「霊(ひ)」が親から子へと受け継がれる「霊(ひ)継ぎ」と考えたのである。
「生物はDNAの入れ物」(リチャード・ドーキンス博士の利己的遺伝子仮説)という考え方のはるか昔から、縄文人や古代人は「ひと」は「霊留(ひと)」(霊が留まるところ)であり、「人は『霊(ひ)』の入れ物」「霊(ひ)の器」と考え、「ひな(霊那)=霊が留まる場所=子宮」に模した壺棺や甕棺(みかかん)に死者を赤く染めて葬っていたのである。

       吉野ヶ里遺跡の石棺復元模型

 

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 縄文人の動物観や宗教思想と、現代科学のDNA理論・ゲノム理論は繋がっており、その知的水順はほとんど変わらないといえる。
 さらに、人間の細胞中のミトコンドリアは太古の海では独立した生物で、何かのはずみに動物の細胞に採り込まれ、複合生命体となっていると考えられており、今や、動物と植物の境界も絶対的なものではなくなってきている。
 石器時代から人類は、現代人と同じレベルの知性を持っており、違いは情報量に過ぎない、という観点から、縄文・古代史研究は見直されなければならない。

3.「動物みな兄弟」の輪廻思想について

 私などは、「悪さばかりしていると罰があたって、生まれ変わる時は虫けらやつく畜生になる」「全ての生き物は、前世は人間で、動物に生まれ変わったものだから、決して殺生してはならない」と祖母に教えられて育ってきたから、宮崎アニメの動物=人間変身物語はストンと入ってくる。
 人間と他の動物との間に境を儲けないのはインドの紀元前13世紀頃からのバラモン教(死者→月→雨→植物・穀類→男の精子→女との性交→胎児→誕生)や紀元前5世紀からの仏教の輪廻の再生思想からなのか、それとももっと古くからの縄文文化(例えば、紀元前20~25世紀の三内丸山遺跡など)に起源を持つのであろうか?
 縄文遺跡で子どもを壺に入れ、竪穴式住居の入口に埋め、その上をまたいで通る母親の子宮(ひな)に黄泉帰ることが期待されていたことからみて、この時代に「地母神信仰(死者が母なる大地に帰り、黄泉帰るという宗教)」が行われていたことは確実である。大地からの霊(ひ)が宿ると考えられていた妊婦土偶が無事に出産し、霊が子供に受け継がれた後に壊され、埋められたのもまた、大地に土偶を帰すという宗教思想を示している。霊(ひ)が宿ると考えられた鏡が壊され、埋められたのと同じである。
 では、動物はどう考えられていたのであろうか。
 動物土偶は猪が半数以上を占め、他に犬、猿、鳥、熊、鹿、ムササビ、亀、魚、ゲンゴロウなどがあるが、人物土偶と同様に動物土偶を大地に埋めたのは、動物の霊(ひ)を大地に帰し、その再生を願っていたとみられる。
 一方、不思議なことに鹿は数例しか確認されていない。縄文人は、猪や鹿を狩猟していたことは骨の出土から見て確実であるが、古代に卜占で男鹿の肩甲骨を焼いて占うようになったことからみて、鹿はそれらの動物とは異なる、特別の存在であったようである。
 「もののけ姫」において、宮崎駿監督は生と死をつかさどる「シシ神」を昼は鹿の形にし、夜は「ダイダラボッチ」にして描いていたが、縄文人にとって鹿は神として考えられていたのかも知れない。

       「もののけ姫」の「シシ神」

 

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 「この世は悲しいことだらけ」(『涙くんさよなら』の歌詞)ではないが、バラモン教や仏教は苦しい輪廻の世界から抜け出す(解脱する)ことを目指しているが、動物は置き去りである。キリスト教イスラム教では信仰心のない動物はやはり天国には行けない。
 とすると、人間と動物の死後の世界に区別を付けないのは、後世にわが国に入ってきた仏教の輪廻思想ではなく、縄文の黄泉帰り思想と考えられる。「人間・動物みな兄弟」は縄文思想である。

4.「生物みな兄弟」の黄泉帰り思想

 それだけではない。縄文人は「生物みな兄弟」の黄泉帰り思想を持っていた。
イヤナギの子のカグツチ神の血と死体からの神々の誕生神話、イヤナギの体についた黄泉の汚れた垢や持物・衣服からのアマテラスなどの神々の誕生神話、スサノオが殺したオオゲツ比売の死体からの米などの五穀の誕生、アマテラスの玉やスサノオの剣からの子の誕生など、記紀神話は人間の死体や物から人や穀類などが生まれる、人が物、物が人に変身する、という考えが古くからあったことを示している。
 ずっと後の竹から生まれた「かぐや姫」(竹取物語は日本最古の物語)や「桃から生まれた桃太郎」の物語もまた、人間と植物との間に生まれ変わりがあるという宗教思想を示している。人間も植物も同じように大地に帰り、再び生まれるという黄泉帰り思想は、人間と植物を区別しない。
 朝の子どもの人気番組を見ても、恐竜の「ガチャピン」や雪男の「ムック」、イタチの「ムテ吉」や猫の「ミーニャ」、さらにはサボテンの「サボさん」、椅子の「コッシー」まで擬人化して登場することに、何の違和感もないのである。縄文的な動物観や生物観、もの観は、現代にも生きている。

5.鹿や猪の血を稲作に用いる黄泉帰り思想

 播磨国風土記には、「大神(伊和大神:大国主)の妻の妹玉津日女が生きた鹿の腹を割いて、稲をその血に播いた時、一夜で苗が生えた」(讃容郡讃容:今の佐用市)、「太水神は『吾は宍(しし)の血をもって田を作るので河の水は欲しない』と述べた」(賀毛郡雲潤里:今の加西市加東市)という記載がある。ここには鹿や猪の血が稲の生育を助ける、という血(子宮をイメージ)の中から生命=稲が生まれるという「黄泉帰り」の宗教思想が見られる。
 ここにも、動物と植物に境をもうけていない。

6.神使(しんし:みさき)について

 動物を神の使いとして祀り、大事にする次のような例が見られる。その全てはスサノオ大国主の一族を神としている神社である。春日大社だけは藤原氏氏神を祭っているが、この地にはそれ以前に「春日氏」の祭祀が行われており、「あ須賀」と同じ「か須賀」のスサノオ一族の祭祀が藤原一族によって受け継がれ、鹿を神使としたと考えられる。
① 出雲大社:海蛇
② 宗像大社:蛇 
③ 三峰神社:狼
④ 稲荷大社:狐
⑤ 日枝大社・武尊神社(片品村):猿
⑥ 厳島神社春日大社:鹿
⑦ 住吉大社:兎
⑧ 伊勢神宮石上神宮:鶏
⑨ 熊野大社:烏
大山祇神社:白鷺
⑪ 武尊神社(片品村):オコジョ

    出雲大社の神使の海蛇(龍神様)

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    石上神社の神使の鶏

 

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 これらの動物は氏族のトーテムという説が見られるが、それは西洋の学説の翻訳学者の「拝外主義歴史学者」の解釈である。
 わが国の歴史・伝統からみて、これらの動物は天上から山上に降り立った祖先の霊(ひ)を山上から里の神社に迎え、再びに山上に運ぶ神使(しんし:みさき)であり、さらに古く、壱岐対馬をルーツとする海人(あま=天)族のスサノオ大国主にとっては、海蛇が海底から祖先霊(神)を迎え、送り返す神使であった。

7.動物神名について

 大国主を国譲りさせた天日名鳥命(建比良鳥命天夷鳥命・武日照命:子孫が祀らないと祟るという霊(ひ)の法則からみて、私は大国主の筑紫でもうけた御子の子と考える)、大国主の子のアジスキタカヒコネ(阿治須岐高日子根)命の別名の迦毛大御神(鴨氏の祀る高鴨神社の祭神)、3代目の鳥鳴海神(母は鳥耳神)、8代目の布忍富鳥鳴海神など、大国主命一族には鳥を人名とする王が見られる。また、神功皇后によって滅ぼされた羽白熊鷲(筆者説:朝倉市の旧甘木市の杷木(はき)=羽城(はしろ)の王で、大国主命の子孫の九州王朝の王)にも鳥名が使われている。
 天皇家では、11代垂仁天皇の子・ホムツワケ(品牟都和気)が大国主の祟りで言葉を話すことができず、鵠(くぐい、白鳥)の声を聞いて、初めて言葉(『あれは何だろう』)を発したとされ、12代景行天皇の子・ヤマトタケル(倭建)は死んで白鳥になって河内の志幾まで飛んだとされている。
 さらに、16代仁徳天皇の生前の名前は「大雀(おほさざき)命」、弟には根鳥命、早総(はやぶさ)別命があり、25代武烈天皇の生前名は小長谷若雀命である。
 鳥は死者の霊(ひ)を天に運ぶとされ、環濠城(き)や神社の入り口の鳥居や建物の棟飾りとして用いられ、古墳上に葬送儀式を模した埴輪列として飾られ、天日名鳥命の別名が出雲祝神であることから見ても、鳥は死者の霊(ひ)を運ぶ神聖な動物とみなされていたことが明らかである。
 
八幡塚古墳の鶏(右端):5世紀後半(群馬県藤岡市)、葬送儀式を再現した埴輪列

 

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今城塚古墳の白鳥:6世紀前半(高槻市)、継体天皇陵の埴輪祭祀場

 

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8.擬人化と変身神話

 この黄泉帰りの縄文思想の延長上に、動物が人間となり、動物が人間となる、次のような動物変身神話や動物擬人化神話が生まれている。
① 野原で周から焼かれた時に鼠が助けるスサノオ神話(擬人化)
② ワニに襲われた因幡の白ウサギを助ける大国主神話(擬人化)
③ 蛇に化けてモモソヒメのもとに通う大物主神話(変身)
④ 山幸彦の豊玉毘売(人間に化けた鮫:わに、龍)との結婚とウガヤフキアエズの出産(変身)
⑤ 11代垂仁天皇の子・ホムツワケ(品牟都和気)が出雲で大国主を拝んで口が利けるようになり、帰りに結ばれた一宿肥長比売が蛇であったという神話(変身)
⑥ 白鳥になって大和に帰るヤマトタケル神話(変身)
これらの神話は、動物が人間のように振る舞い、あるいは人間の物語を動物に置き換え、さらには、人間が動物になるという擬人化と変身思想を伝えている。
 その根底には、動物を人間世界から排除せず、同列に置く世界観を縄文人から古代人が引き継いでいたことを示している。

9.肉食について

 魏書東夷伝倭人条には、葬儀にあたって肉食を避け、航海の無事を祈って船に乗せる持衰(嵐に遭うと殺す生贄)には肉を食べさせない、という忌避があったことが印されている。人間の霊(ひ)を断つのと同様に、動物の霊(ひ)を断つこともまた祟りがあると信じられていたことが明らかであり、それは霊(ひ)信仰が動物を含む概念であったことを示している。
 中国や韓国、インドなどとは異なり、今もこの国では犬や猿、白鳥を食べないことは、これらの動物が神使であったことを示している。それは、肉食禁止を最初に決めた天武天皇が、675年に檻阱(落とし穴)や機槍(飛び出す槍)を使った狩猟を禁じるとともに、農耕期間の4月から9月の間、牛、馬、犬、サル、鶏を食べることを禁止したことからも頷ける。
 落とし穴や飛び出す槍の狩猟禁止は、おそらく、たびたび人々を傷つけたからであろう。牛と馬は貴重な役用動物であるからであり、犬、サル、鶏は、霊(ひ)を運ぶ動物であったからである。まだまだ鹿や猪の血が稲の生育を促すと考えられていた時代の、体力を消耗する農耕期間に肉食を禁じるということは、犬、サル、鶏には特別の宗教的な忌避があったとしか考えられない。
 桃太郎伝説において、桃太郎が犬と猿と雉を連れて「鬼退治」に行くのは、鬼(他部族の祖先霊)と戦うために、桃太郎も犬、サル、鶏に運ばせた祖先霊とともに戦ったということであろう。 
 仏教の「不殺生戒」によって肉食禁止令が出された、というのは、仏教第1主義の偏った短絡的な解釈というほかない。縄文時代から続く霊(ひ)信仰が基本となり、それに仏教の「不殺生戒」の影響もあって、肉食禁止令が出された、と考えるべきであろう。

10.狩猟について

 古事記は、薩摩半島笠沙の天皇家の直接の祖先の山幸彦(火遠命、穂穂手見命)は「毛のあら物、毛の柔(にこ)物を取っていた」猟師、山人(やまと)としている。食用に肉を取っていたというより、毛皮をとることを仕事としていた猟師の書き方である。
 岡山県の山奥の山村に住んでいた私の祖父は、山に猪や鹿が出てくる季節になると「そろそろ使いを出せや」と叔父に命じて腕のいい猟師を雇っていたが、山間部での林業・農業にとって、害獣駆除は猟師の重要な役割であった。
 播磨国風土記には、大国主一族と応神天皇の狩りや肉食、鹿と猪の飼育、鹿と猪の血での稲作に関する次のような記述が見られる。
①賀古郡:(大神=大国主)狩した
飾磨郡英馬野:品太天皇(注:応神天皇)、この野に狩した
③揖保郡伊刀島:品太天皇・・・狩したまう。
④揖保郡槻折山:品太天皇、この山に狩したまう。槻弓をもって走る猪を射た・・・
⑤讃容郡:(大神の)妹玉津日女命、生ける鹿を捕って臥せ、その腹を割いて、稲をその血に種いた。よりて、一夜の間に苗が生えたので、取って植えさせた
⑥讃容郡町田:(賛用都比売)鹿を放した山を、鹿庭山と号す
⑦讃容郡柏原里:大神、出雲国より来た時に、・・・筌(うえ:竹で編んだ魚を捕る道具)をこの川に置いた・・・魚は入らず、鹿が入った。これを取って鱠(なます)に作って、食べた
⑧宍禾郡:伊和大神・・・巡行した時に、大きな鹿が舌を出して・・・
⑨神崎郡勢賀:品太天皇、この川内に狩したが、猪鹿が多かった・・
⑩託賀郡大羅野(おおあみの):老夫と老女、羅(あみ)を袁布(おふ)の中山に張り禽鳥(とり)を捕っていると
⑪託賀郡比也山:品太天皇、この山に狩した時、1つの鹿が前に立った
⑫託賀郡伊夜丘:品太天皇の狩犬と猪とこの岡に走り上った。天皇これを見て「射よ」と言った。
⑬託賀郡阿富山:あふこを以て、宍を荷った
⑭託賀郡目前田:天皇の狩犬、猪のために目を打ち害(さ)かれた
⑮託賀郡阿多加野:品太天皇、この野に狩したが、1つの猪、矢を負いてあたきした
⑯賀毛郡:品太天皇・・・勅(みことのり)して射つよう命じた時、1矢を発って2つの鳥に命中した・・・羹(あつもの:肉・野菜の吸物)を煮た処は煮坂という
⑰賀毛郡鹿咋(ししくい)山:品太天皇、狩に行った時、白い鹿が自分の舌を咋(く)って・・・
⑱賀毛郡猪飼野:難波高津宮御宇天皇(注:仁徳天皇)の世に、日向の肥人、朝戸君・・・此の処を賜って、猪を放って飼った
⑲賀毛郡雲潤(うるみ)里:大水神・・・「吾は宍の血を以て佃(田を作る)る。故、河の水を欲しない」と辞して言った
 
 これらによれば、大国主応神天皇らは単に狩りを趣味にしていたというより、害獣駆除と軍事訓練を兼ねた狩りをひんぱんに行っていたと見られる。
 西洋人=肉食系民族、日本人=草食系民族などというのは、そもそもヨーロッパでの小麦栽培農業と縄文人の肉食の両方の歴史を無視した空想である。両文明・文化の違いは、食物―食生活習慣にではなく、宗教の違いある、と見なければならない。
 人間を動物や植物とは別の生物とする思想と、人間を動物や植物の仲間と見る思想の違いである。
 そして、動物の霊(ひ)を断つ弓矢と槍の達人の猟師が、人の霊(ひ)を断つ兵士となり、そのうちの薩摩半島の山人(やまと)族の傭兵部隊が豊前、筑紫、安芸、吉備と転々とし、最後に、奈良盆地に入って傭兵となり、その10代目の御真木入日子(御間城入彦)がスサノオ一族の美和(三輪)国の大物主の権力を奪って建国したのが「山人」天皇家の歴史である。

11.まとめ

① 人間と動物・植物の間に、宗教心によってはっきりとした境界線を引く「選民思想一神教」より、縄文人の「人間・動物・植物生命連続思想」の方が、遺伝子学・分子生物学のDNA解析と合致している。
② 縄文思想について、世界に一番アピールしているのは宮崎駿監督の作品であろう。文字のない縄文時代を低く見、「遅れた縄文、進んだ弥生」「進んだ中国・西洋、遅れた日本」の観念から抜け出せない歴史学者たちは、宮崎氏に匹敵する仕事をしていない。宮崎アニメが縄文や鳥獣戯画などの文化・芸術を引き継いで世界に認められていることと比べて、日本の歴史学者たちが西洋文化受け売りの小さな仕事しかしていないのは誰もが認めざるを得ないであろう。
③ 縄文人や古代人の霊(ひ)信仰(祖先霊信仰)を抜きにして、彼らの動物変身・擬人化や神使(しんし:みさき)の考え方、肉食と狩猟についての理解はできない。これは、日本の現代人の生き方や文化にも関わる課題である。
④ 縄文時代弥生時代で終わったとし、現代にまで続く縄文文化を見ようとしない「弥生人征服史観」は見直されなければならない。
⑤ 魏書東夷伝倭人条や古事記日本書紀風土記などの歴史書から「天皇家による国土統一」という皇国史観(大和中心史観として現代化)に沿った記載しか抽出せず、そこに記された縄文文化スサノオ大国主一族による建国の記述を神話=空想としてしか見ない、「つまみ食い古代史」の歴史分析の方法論は見直されなければならない。
⑥ 霊(ひ)を断つと、子孫に祀られない祖先霊(怨霊)が祟るという宗教思想の存在は、アマテラスと大物主(スサノオの子の大年)を宮中に祀って祟られたとすることを記した崇神天皇古事記日本書紀により、古代天皇制への見方を根本から変えるものである。この記載は、崇神天皇がアマテラス・大物主と血の繋がった直系の子孫ではないことを示しており、アマテラス・大物主一族から天皇家には「霊(ひ)継ぎ」が行われていないことを示している。

古代国家形成からみた縄文時代―船・武器・稲作・宗教論

 このレジュメは、私が取り組んできたスサノオ大国主建国論から縄文時代をみるという主旨で、1914年4月に縄文社会研究会で報告した配布資料で、そのまま転載しました。
 今となってみれば「縄文・弥生時代論」「鉄先鋤革命」など、修正したい箇所がありますが、6年前の私の考えの記録としてそのまま公表したいと思います(一部単純ミスと名詞止の言葉足らずなどの部分のみ小修正)。
 口頭で説明するための箇条書の資料で、長くて読みにくく分かりにくいと思いますが、仮説構築のヒントとして利用していただければと考えます。 雛元昌弘

1 プランナーからの「日本論としての縄文論」について

① 上田篤先生の『小国大輝日本論』『縄文人に学ぶ』(世界の中の日本論ということになる)における縄文的価値観・文化の復権は大賛成。島国であったため、わが国は「石器時代金属器時代」とは異なる「旧石器時代縄文土器時代→金属器時代」と独自の発展をたどった可能性がある。
② 平穏期(縄文、平安、江戸、戦後)と激動期(古代国家建設、鎌倉幕府~信長天下統一、明治維新、日中・太平洋戦争)の2つの日本の歴史において、古代国家建設と信長天下統一が朝鮮出兵に繋がり、明治維新(明治復古)により朝鮮併合・日中・太平洋戦争に繋がったことからみると、世界に積極的に提案できるのは、縄文―平安-江戸(鎖国)、戦後の平穏期であろう。
③ 世界に影響を与えた・与えうる日本文化で言えば、造園・建築、工芸、和歌・俳句・文学、浮世絵、歌舞伎・人形劇、和食など、主に平安・江戸文化で、縄文という視点は私にはなかったが、古代史をやりはじめて「祖先霊信仰(霊(ひ)信仰)」にたどり着き、上田先生の「母系制社会論」などの縄文文化論に触発されているところである。
④ この平穏期の特徴は、独自の技術・文化・経済体制を育んだことである。この内発的発展こそが、わが国の技術・文化・経済体制のベースとなっている。平穏期=停滞期という歴史観は払拭したい。
⑤ 前から疑問に思っていたが、「石器→青銅器→鉄器」「漁労・狩猟・採取→農耕・牧畜」「非定住→定住」「部族社会→部族国家(都市国家)→古代国家」「母系制社会→父系制社会」「自然信仰→祖先霊信仰(部族宗教)→絶対神信仰(世界宗教)」というような時代区分モデルを、「旧石器→縄文→弥生→古墳」と石器・土器・土器・墓で区分する日本モデルは、素人の私には理解できない。これだと「縄文・弥生ガラパゴス論」になろう。縄文・弥生の歴史区分を世界標準として提起できるのかどうか、検討が必要と考える。
⑥ 縄文時代の約6000~3000年前に陸稲栽培が始まっていたことが明らかとなり、弥生土器と稲作と渡来人(戦国時代→秦統一と崩壊の影響)をセットにして時代区分に用いるのは破綻してきているように思える。「土器→金属器」「部族国家(都市国家=き=城)→古代国家」の時代区分をアイマイにし、「縄文土器弥生土器・弥生墳丘墓→古墳」で時代区分したのは、皇国史観天皇家国史観)と大和中心主義(反皇国史観を含む)の恣意的な時代区分ではなかろうか?
⑦ 4大文明は農耕文明である。それに対して、海洋小国のギリシアは民主主義と優れた文化を発展させ、西洋文化の元を築いた。わが国においても、「縄文人は漁民」「乗船南北市糴(してき)の海人(あま)族」「海幸彦」という海洋民族視点からの歴史観の検討が求められる。今も、漁村では女性が財布を握っている。「海洋小国ギリシア」とは異なり、「海洋小国日本」はどのような特徴を持っているのであろうか?
⑧ 時間軸に沿って土器や墳墓などの遺物から歴史を推理する「積み上げ法」(帰納法)ではなく、現代人の生活・文化全体から縄文の生活・文化を推理する、という上田先生の逆時間軸をたどる「仮説検証法」は面白く、創造的な知的興奮を覚える。専門化・細分化された積み上げ型思考の欠点は、「無い物の無視(例えば、大和に金属器が乏しいこと、文献にない伝承など)」「文献にないものの無視(例えば、墓制の不記載)」と「実生活・生産の経験則の無視(例えば、邪馬台国論争における停泊港問題)」「精神生活に関わる物への推理力の貧困(例えば、宗教論)」に陥るからである。
⑨ 一方、現代や古代から逆算して縄文を論じるには、逆時間軸をたどる生活習慣や伝承、思想(宗教思想)のタイムスパンについての厳密な検討が必要となろう。何と何が縄文を引き継いでいるのか、特に、食料や道具、生産洋式、宗教から縄文をみることが重要と考える。
⑩ 古代国家建設を、私の関心のある船、武器、稲作、宗教の4つから検討し、縄文から引き継がれたものと、変わった点を見てみたい。
⑪ 「公」字は元々は「八+ム」ではなく「八+口」で、広場を表しているとされている。「市民的公共論」が必要とされる現在、西山卯三先生の「お祭り広場」(中世、近世?)の発想や上田先生の「池田の桟敷」(小豆島の八幡神社)からの「お祭り広場」の発想、縄文広場論は大変、面白いと考える。
⑫ 私の考えでは、神社の「お祭り」は「祖先霊を天に送り、迎え、祀る行事」であり、「お祭り広場」の中心に置かれるシンボルは、太陽信仰のシンボルの縄文の「太陽の塔」ではなく、「置山」か「御柱(神籬(ひもろぎ=霊(ひ)洩ろ木)」を発展させた「霊(ひ)の塔」ではなかろうか。縄文から「日(太陽)の国史観」を導き出すか、「霊(ひ)の国史観」を導き出すか、議論が必要と考える。

2 プランナーとしての私の方法論

① 歴史分析、比較分析、構造分析。
② アナログ未来予測にもとづく、デジタル予言と計画。
③ 仮説検証法(選択的仮説ではなく、あらゆる仮説を推理し、最小矛盾仮説を採用する)
④ 内発的発展論(まちづくり主体の重視)

3 縄文人は「狩人(山幸彦)」か「漁民(海幸彦)」か?

(1)縄文人はマンモスハンターか?

① 「アイヌは漁民」(秋辺得平氏:元北海道アイヌ協会副理事長):熊ハンターのイメージからの脱却。
② 秋にはサケが群れなす北海道・東北・北陸・山陰・関東の河川、「昔はアユの上を歩いて渡ることができた」と言われる四万十川、すぐに飽きてしまうほど魚が釣れた瀬戸内海など豊かな縄文イメージへ。
③ 各地の貝塚を見ても、縄文人は「海人(あま)」=「海幸彦」の性格がより強いと見るべきであろう。
④ 危険を冒してマンモスを狩らなくても、他に鹿などの獲物も多かったはずである。「縄文人マンモスハンター論」は証拠がない。

(2) 海を渡ったヒョウタン(縄文人のペットボトル)

① ヒョウタンの原生地は西アフリカのニジェール川流域。水を入れるヒョウタンがあれば航海できる。
② 若狭の鳥浜貝塚(12000~5000年前、縄文時代草創期~前期)から発掘された丸木船や漆製品、南方系のヤシの実やヒョウタン・リョクトウ・シソ・エゴマ・コウゾ属の縄文野菜が、北方系のゴボウ・アサ・アブラナ類(カラシナ・カブ・ナタネ・ツケナ)と共に発見され、5000年前から栽培農業が行われていた。
③ ヒョウタンは縄文人の野菜であると同時にペットボトルとして、中国・朝鮮半島樺太経由ではなく、南の海の道を通った可能性が高い。

(3) 太平洋をわたった縄文人

① 「バイカル湖の樹皮カヌーとアイヌのヤラチプ、カナディアンカヌー」の類似性、「縄文の丸木船から準構造船・沖縄のサバニ・アイヌのイタオマチプ」への発展。人類は歩いてアメリカ大陸に渡ったか?
② 1956年に発掘されたエクアドルのバルディビア土器(約5500年前)が縄文土器に類似。
③ 1960年中頃、フランスの考古学者がメラネシアバヌアツ共和国で古い土器を採取し、篠遠喜彦博士が縄文土器との類似を指摘。その後、土器成分は青森県出土土器と同じで約5000年前と判定。芹沢長介・東北大名誉教授は縄文前期の「円筒下層式土器」と酷似と発表。
④ 1977年『倭人も太平洋を渡った―コロンブス以前のアメリカ発見』(編著者C・L・ライリー 他、訳著者 古田武彦)発行。「侏儒国がその南にある。身長は三四尺で,女王国から四千里である。又裸国や黒歯国が更に東南にある。船旅一年である」(魏書東夷伝倭人条)の裸国や黒歯国をアメリカ大陸と見なした。
⑤ ミシガン大学教授C.ローリング.プレイスは、米国各地の9000年前の頭蓋骨の調査結果から、モンゴロイド人の共通点は少なく,日本の縄文人アイヌ人,ポリネシア人の特徴を持っていると発表。
⑥ 1994年、文部省ガン特別調査研究斑は、エクアドルに程近いアンデスインディオ達がATLウイルス(母乳を介して子供に感染し、成人T細胞白血病を発症。発病率0.05%で世界で500万人のうち日本人が約100万人)を持つことを発見。ウイルスの遺伝子配列がよく似ており、共通の祖先から枝分かれしたと考えられる。
⑦ アマゾンの約3500年前のインディアのミイラ体内から寄生虫「ズビニ鉤虫」の卵が検出されたが、5℃以下で2年間暮らすと体内で死滅するため、モンゴロイドが氷河期に凍りついたベーリング海峡を歩いて移住したという説が誤りであることが証明された。
⑧ 川合彦充氏の『日本人漂流記』によると、江戸時代の日本船の太平洋での遠洋遭難記録が数百件あり、南米を含むアメリカ大陸への漂着がはっきりしているものが8件を数える。
⑨ 東日本大震災のがれきは1年でアメリ東海岸に漂着した。
⑩ 明治45(1912)年に、愛媛県八幡浜の5人の漁民は移民のために打瀬船で76日かけて太平洋を渡り、大正2(1913)年には15名が58日かけて渡り、合計5回に及んでいる。また、打瀬船で岡山の日生の漁民は朝鮮半島近海まで出漁していた。「漁民は米と味噌と水があればどこまででも行った」という話であった。

⑷ 縄文人は狩猟・採取・耕作民か海洋民か

① 黒曜石(神津島)、天然アスファルト(秋田・新潟)、翡翠(氷見)、イモガイ(沖縄)の海上交易者であった縄文人
② 戦国から秦漢期にかけて成立した『山海経』には東方の海中に「黒歯国」とその北に「扶桑国」があると記され、後漢1世紀の『論衡(ろんこう)』には周の皇帝に倭人が「鬯艸(チョウソウ)を貢いだ」と書かれており、古くから中国と交易していた可能性がある。

⑸ 「月読命神話」は海洋民の伝承

① 月読命古事記では「夜の食国」を支配するように命じられているが、日本書紀では「滄海原の潮の八百重」(古事記ではスサノオの役割)を治めるよう命じられた、という記述も見られる。
② 漢字通りに解釈すれば、「夜に月や星座の動きから方位を読み、航海を指揮した人物」であろう。
③ 一方、日本書紀の一書11には、月夜見尊保食神を殺し、死体からは牛馬や蚕、稲などが生れた」(古事記ではスサノオ神話)という記述があり、古事記の「夜の食国」の支配者と合わせて考えると、「夜に月や星座の動きから季節を読み、食物の栽培時期を読んで栽培農業を指導した王」という可能性が高くなる。隋書東夷伝俀国の、倭王の阿毎(アマ)多利思比孤(タシリヒコか)の使いが、「倭王は天を以て兄とし、日を以て弟とする。天が未だ明けない時、出かけて政を聴く。あぐらをかいて坐り、日が出れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという」というのは、兄王が夜に外に出て天を見て星読みを行ったことを示している(注:この倭王は大和の天皇家ではないであろう)。
④ 月読神話は、海人族と農耕民族の神話を合わせたものであり、その転換期の王であることを示している。

4 チャンバラ時代はあったか?(武器論からみた縄文と青銅器・鉄器時代

① 古代国家形成は、まず武器で検討しなければならない。
② 各地の博物館を見てびっくりするのは、弥生から古代にかけて、武器としての槍が極めて少ないことである。石器の槍があるにも関わらず、青銅器・鉄器の槍がほとんどない。「金属槍なし時代」があったのか、それとも、「槍を剣としてしまった」のであろうか?
③ 弓矢と槍は石器時代の主な武器であり、槍は武器として戦国時代から赤穂浪士の討ち入り、第2次大戦の銃剣にまで引き継がれている。農家であった父の実家では古刀4本は手近に置いていたが、槍2本は危険なので穂先を隠して柄だけを長押の上に掛けていた。槍は刀よりも殺傷力の高い武器であり、戦国時代の死者の傷の多くは槍によるものであった。
④ 銅剣説は「中国文化模倣説」に立つ「チャンバラ映画大好きの考古学者の錯覚」であり、これまで銅剣とされてきたもののうち、柄(つか)のないものは全て国産の銅槍(矛)である。殺傷力があり、矛より製作・大量生産が可能な銅槍・鉄槍こそが古代国家統一の武器であった。なお、戦国時代の「変わり兜」と同様に、巨大な銅矛は「威嚇武器」「祭祀・威信道具」として巨大化した独自の銅矛発展を見なければならない(縄文的である)。

「銅剣」にされてしまった石器時代からの「石槍」に続く「銅槍」

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⑤ 石槍と銅槍・鉄槍は機能・構成技術では連続している。外国製のデザイン・機能の武器(例えば、銅矛・銅戈など)の発見が少数である以上、使い慣れた武器を携帯した多数の外来民族による弥生征服史観は成立しにくい。銅剣チャンバラ時代・銅剣忍者マンガ剣法はなかった。
⑥ 剣や刀は護身用、暗殺用、指揮用の武器である。シーザーの『ガリア戦記』と較べてみると、古事記の「ヤマタノオロチ退治」「神武東征」「ヤマトタケル熊襲征伐・東征」は基本的に剣による「暗殺物語」であり、正規戦・集団戦による「征服物語」ではない。
⑦ 天皇家皇位シンボルとされる3種の神器は玉(祖先霊)、鏡(祖先霊)、剣(ヤマタノオロチの銅剣)である。ヤマタノオロチの銅剣(天叢雲剣草薙剣熱田神宮)が皇位継承のシンボルとされてきたことは、銅を支配していたヤマタノオロチ王の権力を、スサノオが鉄剣(十拳剣=天羽々斬剣=布都斯魂剣:石上布都之魂神社→石上神宮)で奪い、さらにそれを天皇家が継承したことを示している。前王暗殺の政権奪取の象徴が剣であった。
⑧ 「八千矛神」の別名を持つ大国主(国=那、主=貴(むち))こそ、銅槍・鉄槍時代のリーダーであり、大穴牟遅神・大穴持命(おおあなもち)の別名は、文字どおり銅山所有者の名前ではなかろうか。記紀作成時の日本人が「穴」の漢字の意味を知らなかったということはありえない。荒神谷遺跡から、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土し、さらに加茂岩倉遺跡から39口の銅鐸が出土したことは、大国主こそ金属器を支配した王であることを示している。
⑨ 青銅器・鉄器時代は、「乗船南北市糴(してき:交易)」の対馬壱岐の海人(天)族が開き、筑紫で発達し、出雲に中心が移り本格化したとみてよい。この青銅・鉄の流通・加工・生産を支配したのはスサノオ大国主一族であり、その頃の大和は石槍時代であった。
⑩ 私は、銅鐸文化はスサノオの御子の大歳(大物主)一族により広まり、銅槍文化はスサノオ6代目の大国主一族により、銅鏡文化は大国主の子の「天照国照彦天火明命」によって広まった、という仮説を考えている。
⑪ 弓矢と槍の使い手は猟師であった。食料・毛皮利用の狩猟だけでなく、農耕時代の鳥獣害対策である狩りの道具は弓矢と槍であった。猪・鹿と野鳥を狩らない限り、栽培農業(里芋、稲作)は困難であった。
⑫ 天皇家の直接の祖先は山幸彦であり、「毛のあら物、毛の柔物を取る」猟師であった。播磨国風土記によれば、品太天皇応神天皇)は飾磨郡英馬野・揖保郡伊刀島・揖保郡槻折山・神崎郡勢賀・託賀郡比也山・託賀郡伊夜丘・託賀郡阿富山・託賀郡目前田・賀郡阿多加野・賀毛郡鴨里・賀毛郡鹿咋山で狩りを行っており、天皇家は古代に入っても、軍事訓練をかねて狩人としての役割を果たしている。この「狩り」は「鳥獣害対策」であり、ここから「騎馬民族説」を導き出すことはできない。

5 稲作革命は誰が、何で進めたか?

① 「稲作は弥生時代に始まった」という言い方は、両者の開始時期のずれからもはや成立しない。稲作とは無関係に弥生式土器(覆い焼きという技術革新)は生まれている。
② 弥生土器の壺を米の保存容器とみて稲作と関連づけるのは机上の空論である。高温多湿季候のもとで米を保存するのは、経験則からみて、籠や藁俵、木の米びつなどであろう。
③ 弥生後期から始まる稲作の急速な全国的普及・拡大は、石器稲作(縄文式稲作)から鉄器稲作(開墾・水利水田稲作)への稲作技術革命を進めた担い手があったことを示している。
④ 縄文式稲作は黄泉帰り思想に基づいており、鹿や猪の血で籾を発芽させ、豊作を祈るという呪術的な技術段階であった。これに対して、鉄器型稲作革命は、鉄器で原野を開拓し、大がかりな灌漑土木工事を行うことにより水稲栽培を飛躍させた。その稲作革命の担い手は、播磨国風土記を見る限り大国主一族である。


播磨国風土記

・讃容郡:(大神の)妹玉津日女命、生ける鹿を捕って臥せ、その腹を割いて、稲をその血に種いた。よりて、一夜の間に苗が生えたので、取って植えさせた。大国主命は、「お前はなぜ五月の夜に植えたのか」と言って、他の所に去った。
・賀毛郡雲潤(うるみ)里:大水神・・・「吾は宍の血を以て佃(田を作る)る。故、河の水を欲しない」と辞して言った。その時、丹津日子、「この神、河を掘ることにあきて、そう言ったのであろう」と述べた。(注:大国主の子のアジスキタカヒコネ=迦毛大御神の名前から見て、丹津日子は大国主一族であろう)
⑤ 大国主の妻の宗形大神奥津島比売命が迦毛大御神を生んだとされる託賀郡に隣接する丹波においては、「丹のうみ」と呼ばれていた亀岡盆地を大国主が京都への水路を切り開いて干拓した、と伝えられている。丹波では、大国主は三穂津彦大神と呼ばれ、三穂津姫尊を妻としていることからみて、妻問い婚のため大国主は各地で多くの名前を持ったとみられる。
⑦ 新羅(後世の表現で、当時は辰韓又は弁辰。後の加羅)で鉄を求めたスサノオ大国主一族は、米と鉄を交易した。米生産と鉄器の普及は循環的な拡大再生産構造を持ち、鉄・米交易により古代統一国家形成を可能とした。稲作革命は、鉄と米の交易がもたらしたものである。
 魏書東夷伝倭人条の「乗船南北市糴(してき:交易)」の「糴(てき)」は、「入+米+てき(羽+隹)」(てきは雉、隹(すい)は鳥)」からなっており、「米が異民族(てき)から入る」という漢字である。また、魏書東夷伝辰韓(弁辰)条には「国、鉄を出す、韓・シ歳・倭皆従いてこれを取る。諸市買、皆鉄を用いる」と書かれており、「鉄を従いて取る」という言い方は、「略奪」や「売買」ではなく、辰韓(弁辰)から採掘権を得て鉄鉱石を採取したのではなかろうか。鉄鉱石からの製鉄は倭人も関わっていた可能性がある。製鉄技術がわが国に伝わったのはこの頃(1世紀)の可能性もある。
 日本書紀の一書(第四)では、スサノオは子の五十猛(イタケル:倭武であろう)神と新羅に下り、ソシモリに居たが、「この国にはいたくない」と言って土(鎚であろう)で船を作って帰ったとしている。また、五十猛神は多くの樹種を持って行ったが、韓地に植えずに持ち帰り、筑紫から各地に植えて青山にしたとしており、製鉄による伐採によって韓地の山が荒れ、造船に適した木がなく、洪水によってたびたび食料不足に陥っていた可能性がある。
⑧ 100余国の部族国家(初期都市国家=城=き)を統一したのは大国主である。それは、米鉄貿易による米作技術革命による立国であった。日本書紀の一書(第六)では、大国主と少彦名が力を合わせて天下を経営し、鳥獣・昆虫害を払い、百姓から今も恩頼りにされているとしている。米俵に乗った大国主イメージは、歴史的記憶であった可能性が高い。
⑨ 古事記播磨国風土記などによれば、大国主は「島の埼埼 磯の埼」に多くの「若草の妻」を持つと歌われ、「出雲、因幡、越、宗像、播磨、丹波」など100余国に妻を持ち、180人(日本書紀は181人)の御子をもうけたとされる。これは、征服による略奪婚ではなく、縄文から続く母系制社会の入り婿婚であったとみてよい。
軍事による国土統一ではなく、交易と米作革命(水利耕作と鳥獣駆除)、婚姻によって古代統一国家を形成できたのは、縄文の母系制社会のもとですでに各地に部族国家(都市国家=環壕に囲まれた城)が成立し、米の生産が行われていたからである。
大国主(大国玉神)は出雲に、毎年、神在月に御子達とその王子・王女を集め、祖先霊信仰(御霊=御玉信仰)を行うとともに「縁結び」で結束を深め、「霊(ひ)継ぎ」(火継ぎ)による古代統一国家を形成した。
⑩ この古代国家統一は、対馬壱岐の「海人(天:あま)族」=「海幸彦」=交易部族が、対馬の弓槍の名手である「狩人」=「山幸彦」を従えて鉄・米交易によって行ったものである。後の記紀神話の「山幸彦」(火遠理命)が「海幸彦」を屈服させる物語は、このスサノオ大国主王朝の伝説を、狩人を祖先とする天皇家が征服した後に入れ替えたものである。
⑪ 縄文人=被征服者=被支配者、弥生人=征服者=支配者=稲作・弥生土器普及というのはフィクションという以外にない。「征服史観」から「共生史観・妻問い史観・貿易立国史観・海洋小国史観」への転換が求められる。

6 黄泉帰り宗教から、昇天降臨宗教へ

(1) 祖先霊はどこにいるか?

① 祖先霊は、神棚、仏壇、墓、神社、地中(黄泉の国)、山上、天、天国、極楽・地獄のどこにいると考えられてきたか? 
<2008年NHK放送文化研究所が行った意識調査(1200人回答)>
・信仰心がある 32.9%
・死後の世界が「ある」(絶対にあるもしくはたぶんあると思う) 35.7%
・山や川、井戸やかまどなどに神の存在を感じたり、祀ることについて「理解できる」(もしくはどちらかといえば理解できる) 78.8%
② 私は、信仰心厚い祖母から、その時々に祖先霊は神棚、仏壇、墓、神社、天上、極楽・地獄にいると聞かされ、混乱してしまった。
③ 霊(ひ)が天→墓→仏壇などを行き来するという日本の仏教は、鬼神信仰(祖先霊信仰)をベースにして成立している(それを国教としたのは天皇家)。

(2) 縄文はイヤナギ・スサノオ神話に見られる「黄泉帰り宗教」である。

① 縄文人は、植物が枯れて大地に戻り、再生するのと同じように、人も大地に帰り、再生すると考える「地母神」信仰であった。
② 死者の霊(ひ)が宿るとされた土偶や鏡は、破壊されて大地に帰され、再生が期待された。
③ 一方、縄文の勾玉は「初期胎児形」をしており、霊(ひ)が再生する種と考えられ、再生のためにそのまま埋められた可能性が高い。縄文人はDNAの働きを、霊(ひ)が親から子へ伝わると考えており、スサノオとアマテラスが「宇気比(うけひ)」で子を作ったというのは「受け霊(ひ)」である。霊(ひ)は魂=玉であり、ヤクザが「玉を取る」という言い方で現代にも伝わっている。
④ 子供が壺に入れられ、竪穴式住居の入口に埋められたのは、子供の霊(ひ)が大地に壺(子宮と考えられていた)に戻され、母親の胎内に再生することすることを期待されたものである。 
⑤ 女性の性器を古くは沖縄や鹿児島で『ひー』、熊本や栃木・茨城が『ひーな』『ひな』と言っており、女性の子宮を「霊(ひ)が留まる場所」と考えていたことを示している。平安時代中期に作られた辞書の和名抄(和名類聚抄)は、クリトリスを「吉舌(ひなさき)」としており、今も栃木県では「ひなさき(雛尖、雛先)」と呼んでいる。
 女性の性器を「ひ」「ひな(霊那:ひの留まる所)」と言うのは、縄文に遡るとみて間違いない。
⑥ 出雲では今も女性が妊娠したことを「霊(ひ)が留まらしゃった」と言い、茨城では流産を「ひがえり」と言っていた。
⑦ 「人」は「霊(ひ)人」、「姫」は「霊(ひ)女」、「彦」は「霊(ひ)子」、「聖」は「霊(ひ)知り」、「卑弥呼」は「霊(ひ)御子、霊(ひ)巫女」であり(角林文雄氏『アマテラスの原風景』)、「非人」は「霊(ひ)人」である。
⑧ 棺・柩を「ひつぎ」というのは、「霊(ひ)継ぎ」からきており、そこに葬られた死者が霊(ひ)を継ぐことを期待されていた。縄文の黄泉帰り宗教である。
⑨ 甕棺や木棺、石棺に入れた遺体を丹(水銀朱)やベンガラ(酸化鉄)、鉛丹で覆ったのは、血(子宮)の中で遺体が再生することを期待したものである。なお、播磨国風土記逸文によれば、爾保都(にほつ)比売=丹生都比売は大国主の子供で、神戸市北区の丹生山の丹生(にぶ)神社を始め、丹生産に携わる一族によって全国の約180社に祀られている(総本社は和歌山県伊都郡かつらぎ町の丹生都比売神社)。この丹生都比売は、前述の丹津日子と夫婦神またはその一族とみてよい。
⑩ 鹿や猪の血で稲の発芽や生長を促すという稲作の方法は、子宮の血の中で霊(ひ)が再生するという黄泉帰り思想に基づいている。
⑪ 古事記では「霊(ひ)を産む」女性神が、2番目に「神産巣日(カミムスヒ)神」(日本書紀では「神皇産霊尊」)として登場する。特に、正史とされる日本書紀が「日(ひ)」を「霊(ひ)」と正しく表記していることに注目したい。
⑫ イヤナミ・イヤナギ(伊邪那岐神伊邪那美神)神話では、イヤナギは「黄泉国」のイヤナミを追ってゆき、黄泉醜女と黄泉軍に追われて黄泉比良坂(出雲国の伊賦夜坂:東出雲町揖屋町の伊布夜社=揖夜神社)から地上に逃げたとされ、黄泉帰り宗教の伝承である。
⑬ イヤナギが子のカグツチを殺した時、その血から8神が生まれ、死体から8神が生まれたとされ、スサノオが大気津比売神を殺した時に死体から五穀(稲・粟・小豆・麦・大豆)と蚕が生まれたとされるのもまた、黄泉帰り宗教を示している。
⑭ イヤナギが川で禊ぎを行い、左目を洗ってアマテラスが、右目から月読命、鼻からスサノオが生まれたというのは、同じく、黄泉国の汚垢からの再生という、縄文から続く黄泉帰り思想である。

(3) 死者の魂=霊(ひ)と肉体の分離思想(魂魄)が中国からもたらされた

① その後、スサノオ7代目の大国主が兄弟達から焼いた石を上から転がされて死んだ時には、天に母親が参上して「神産巣日神神皇産霊尊)」に頼み、神は蚶(きさ)貝比売と蛤貝(うむぎ)比売を派遣して大国主を再生させたとしている。祖先霊が再生を司っている。
② スサノオ7代目の大国主の時代には、中国から魂魄の分離思想がつたわり、死体(魄)は墓に葬られ、死者の魂(霊;ひ)は天に昇ると考えられていた可能性が高い。
③ 死者の霊(ひ)は、高い山「神奈備山=神名火山=神那霊(かんなび)山」の頂上の巨石(磐座)や高木や御柱の「神籬(ひもろぎ)=霊(ひ)漏ろ木」から天に昇り、再び降臨すると考えられていた。
 王の死体が木を割った木棺(割竹形木棺)や石棺に葬られ、今も墓石が「天石―人石―地石」から構成されているのはその名残である。
④ 死者の霊(ひ)を天上に運ぶのは鳥と考えられ、鳥居の上や屋根の上には鳥の置物が置かれた(吉野ヶ里遺跡)。675年、天武天皇は農耕期間の4月から9月の間、牛、馬、犬、サル、鶏を食べることを禁止したが、牛と馬は貴重な役用動物であるからであり、犬、サル、鶏は、霊(ひ)を運ぶ動物であったからである可能性が高い。狼を「オオカミ、大神」と言い、石上神宮で鶏を、日吉大社で猿を神の使いとし、桃太郎伝説において、桃太郎が犬と猿と雉を連れて「鬼退治」に行くのは、鬼(他部族の祖先霊)と戦うために、桃太郎も犬、サル、鶏に運ばせた祖先霊を伴って戦ったということではなかろうか? 
⑤ 魏書東夷伝によれば、馬韓国(後の百済)や弁辰国(弁韓、後の任那加羅)では「大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神に事(つか)える」鬼神信仰が行われ、倭国(いこく)では、鬼道が行われていた。わが国だけ「鬼道」とされたのは、この国が孔子(紀元前551~479年)が「道が行われなければ、筏に乗って海に浮かぼう」「九夷に住みたい」と願った「道」の国であったからである(王勇著『中国史の中の日本像』)。
⑥ ちなみに「魏」は「委+鬼」であり、「鬼」は頭蓋骨や仮面をかぶった人とされている。「委」は「禾(のぎ:稲)+女」で女性が頭を下げた様子を表しており、「魏」は女性が祖先霊を敬うことを表す漢字である。
 「卑弥呼」=「霊(ひ)御子」=「霊(ひ)巫女」が祖先霊(大国主)を祀り、30余国を統一して使いをよこした(臣下になった)ということは、魏の曹操の一族にとっては、これとない吉兆であった。
⑦ 部族社会の墓は共同体傍の墓地に作られたが、共同体のリーダーから世襲王が誕生し、部族国家(初期都市国家)が成立するようになると、出雲・吉備・播磨において、近くの山や丘の上の方墳や前方後方墳、円墳、前方後円墳に葬られ、そこで「霊(ひ)継ぎ=日継ぎ」の王位継承儀式が行われるようになった。私はこれを「神那霊山型古墳」と名づけたい。これまで「弥生型墳丘墓」と「古墳」を区分してきたのは、皇国史観を引き継いだ大和中心史観の区分であり、「神那霊山型古墳」と「人工丘古墳」と区分すべきであろう。
⑧ この「霊(ひ)継ぎ=日継ぎ」儀式は、東西南北の地上を支配したことを表す王の方墳上で行われた。「神籬=霊(ひ)漏ろ木」の周りに方形に石を積んだ方壇の形式を受け継いでいる。その後、方墳に葬られた先王と、次王が霊(ひ)を受け継ぐ方壇が分離され、前方後方墳になり、さらに、先王は天を表す円墳に葬られ、前方後円墳なった、という仮説を私は考えている。

(4) 銅鏡は祖先霊(霊;ひ)が宿る神器と、死者を黄泉に留める埋葬用具の2種類があった

① 「銅鐸・銅槍」が国産なら、当然ながら「銅鏡」も国産のはずであるが、何故か「三角縁神獣鏡」魏鏡説がいまだにまかり通っている。
② 縄文の土偶と曲玉と同様に、人の姿を写す鏡には霊(ひ)が宿ると考えられていた。土偶や鏡が破壊されて埋められたのは、再生(黄泉帰り)の妨げになると考えられたからである。曲玉が破壊されなかったのは、嬰児の形をした霊(ひ)であり、再生の核になると考えられていたからであろう。
③ 魏が卑弥呼に100枚の鏡を付与したのは、単なる埋葬用具ではなく、霊(ひ)を宿す神器として、「道」の国の支配秩序を維持するために付与したもので、全部が同じ鏡ではありえない。卑弥呼とその臣下、30余国の王に対して、鉄鏡から順にランク分けした鏡を付与したに違いない。100枚を三角縁神獣鏡とする説は、平等幻想の賜物である。
④ 皇帝を表す龍を彫った鉄鏡は玉(印や壁)と同様に、皇帝である曹操一族のシンボルであった。この「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が日田市(甘木=天城のすぐ隣り)から発見されていることは、邪馬壱国の位置を決める決定打である。壁もまた、旧甘木市の西の小さな墳丘墓から発掘されている。
⑤ アマテラス(オオヒルメ=大霊(ひ)留女)神話に鉄鏡製作がでてくることは、この卑弥呼の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」をヒントにして作られた話と見てよい(なぜなら、天皇家三種の神器の鏡は銅鏡とみなされている)。銅鏡時代に鉄鏡の製作が出てくることは、特異な記憶が伝承されたものであり、卑弥呼=オオヒルメで、邪馬壱国・甘木蜷城(ひなしろ=筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原:波岐=杷木)説を決定づけるものである。
⑥ イヤナギ神話では、黄泉国からイヤナギが地上に逃れた時、大石で塞いで黄泉の兵から逃れたとなっており、この塞ぎ石は、アマテラスの岩屋神話に引き継がれている。同時に、この岩屋神話では、アマテラスに鏡を差し出し、自分の姿を写させる儀式を伝えている。これは、鏡に自分の姿を写させ、生者か死者か判別させ、死者に死顔を見せて黄泉の国に留めさせようとしたことを示している。三角縁神獣鏡が、死者の顔の上に置かれたり、頭の両側、上半身を取り巻いて置かれているのは、死体(魄)を黄泉に留める埋葬用具の役割を持たせたものである。
 この鏡は、塞ぎ石の役割を果たす国産の葬送用具であり、死者の霊(ひ)が宿る鏡とは異なる。三角縁神獣鏡が魏から卑弥呼が付与されたものではありえない。
⑦ 銅鏡には、このように霊(ひ)鏡と塞鏡の2種類があり、前者は霊(ひ)信仰の出雲から始まり、後者は大和を中心に大国主の子の火明命一族によって生産されたと私は考えている。
⑧ 卑弥呼スサノオから16代目、大国主から10代目の子孫であり、卑弥呼の鬼道は大国主信仰により、大国主の子孫の100余国のうちの「倭国の大乱」で分裂した北部九州の30余国を再統一したものである。 ―別紙、「『古事記』が指し示すスサノオ大国主建国王朝」参照
⑨ 鏡を太陽信仰の道具とする説には裏付けがない。死体と共に鏡は壊されて埋葬され、人物埴輪では女性が鏡を首から下げている。アマテラスは、大国主の御子である「天照国照彦天火明命」の名前から「天照」をとって「卑弥呼=大日留女命(大霊(ひ)留女)」をモデルにして創作された神である。

(5) 霊(ひ)信仰は現代に引き継がれている

① 縄文から続く祖先霊信仰は、仏教に引き継がれて現代に生きている(もっとも葬式仏教化して死にかけているが)。一方、祖先霊を祀る神道は、明治からの皇国史観にゆがめられ、国家神道としてアマテラスを頂点とする神の階級化が進められ、戦争に国民を動員する役割を果たしてしまった。本来の出雲神道皇国史観伊勢神道に屈服してしまったが、本来の歴史を取り戻さなければならない。
② 少なくとも、私の父母世代は、霊魂の存在を信じ、盆や正月などに、天から墓に祖先霊を迎え、提灯の火に移し、仏壇に移す儀式を継承してきた。灯籠流しや精霊流し、流し雛、送り火大文字焼きなども同じ宗教思想に基づいている。仏壇や神棚に供えたものを頂くの直会(なおらい)は、神との共食である。
③ 雛祭りの原型の「雛流し」は、海の彼方の「霊那(ひの国)」に「人型」の霊を返す再生儀式であり、ケガレ払い説には疑問を持っている。
④ 祭り屋台や御輿に家々の神棚の祖先霊を乗せて神社に運び、祭神の霊とともに山上や海岸の御旅所に運び、祖先霊を天に送り、パワーアップした神を迎え、山車や御輿に移して神社に迎え、さらに各家の神棚に返す儀式もまた、霊(ひ)の再生儀式である。これらの行事は、宗教儀式から単なる民俗行事に変わり、その意味は忘れられてきつつある。
⑤ この山車のルーツは、姫路の総社に伝わる20年の1度の「3ツ山大祭」、60年に一度の「1ツ山大祭」の置き山にあり、この祭りは播磨国一宮の伊和神社から伝わり、その前は出雲大社の「青葉山古事記ホムチワケが言葉を話せるようになった物語に登場)」に原型があったと考えられる。なお、総社は広峰神社などに祭られているスサノオの御子の射楯神=五十猛神(倭武命)と大国主を祭っている。栃木県那須烏山市八雲神社の「山あげ祭」や仙北市角館町の「大置山」、高岡市二上射水神社などの「築山」も同じものである。
⑥ 広峰神社からスサノオ牛頭天王)の霊を祇園の八坂神社に分霊した時、その途中の篠山市の波々伯部神社(「丹波祇園さん」)で休んだとされ、ここの「お山行事」では、3年ごとに「キウリヤマ(山を台車の上に組んだもの)」を曳き、御旅所に御幸が行われている。これが、山車、曳山、山鉾の原型である。担ぎ山(御輿、山笠、屋台)はさらにその発展型である。
⑦ 私の家では祖父母の代まで、田の字型の間取りで、神棚は入ったところのおもて(居間)にあり、仏壇はその奥の座敷(客間)にあり、祖父母は座敷の右手の納戸で寝起きしていた。
 出雲大社は同じ田の字型で、座敷に祖先神の「別天津神五柱:(天之御中主神高御産巣日神神産巣日神宇摩志阿斯訶備比古遅神天之常立神)」を祀り、大国主はその右手奥の納戸の位置に祀られている。仏壇と夫婦の寝室の配置と全く同じ構造であり、神(祖先霊)と同居する宗教思想は、田舎では現在まで引き継がれている。
⑧ 祖先霊信仰を超えた絶対神信仰の世界宗教は、ついにわが国では普及しなかった(仏教は教義を変えて妥協した)。それは、縄文から続く祖先霊信仰が根強かったことを示している。現在の無宗教状態は、神社が天皇制支配の道具となり、戦争に人々を駆り立てたことにより信頼を失ったことと、昭和30年代からの個人主義時代、核家族化時代に加え、少子化・非婚時代が進み、祖先霊信仰が無くなったことの反映であろう。
⑨ 戦後生まれの世代からはさらに「墓なし時代」に入り、縄文からの祖先霊信仰の伝統は途絶えつつある。この機会に、神社・寺の氏子・檀家確保の思惑とは別に、文化継承の問題として考えてみる必要がありそうである。

7  「縄文→弥生」発展史観の見直しへ

① 武器論・生産論からみた、「縄文→弥生→古墳のドキドキハカ史観」から「縄文→青銅・鉄のドキン史観」へ
② 武器論・生産論からみた、「征服史観(外発的発展史観)」から「自立発展史観(内発的発展史観)」へ
③ 生産論からみた、「稲作建国史観」から「鉄米交易・稲作革命建国史観」へ
④ 生産論からみて、「縄文=漁労・狩猟・採取社会、弥生=稲作社会」史観から、「縄文=漁労・狩猟・採取・栽培社会、弥生=金属器・稲作交易社会史観」へ
⑤ 宗教論からみた、縄文の祖先霊信仰の継続(地母神信仰から魂魄分離の昇天降臨信仰へ)
―太陽信仰説は「天照大御神」の名前と「天の岩屋戸事件」にしか根拠がない。前者は、「天照大御神」が「天照国照彦天火明命」の名前から、記紀によって作られた物であり、「天」が「海人(あま)」であることから否定され、後者は、噴火による噴煙で空が暗くなる現象を日蝕とみる解釈によっているが、日蝕では記紀の記述のように何日も空が暗くなることはありえない。
⑥ 「倭国(わこく)被虐史観」から「倭国(いこく、壱岐=壱城、壱国、委那=委奴)自尊史観」へ
―白村江での敗戦・占領に伴う唐からの「倭=矮」蔑称の見直しへ
―「フィ音」は「イ音」と「ヒ音」に分化し、「倭(イ)国」と「霊(ヒ)那」へ
―「漢委奴国王」は「漢のフィナ(イナ、ヒナ)国王」
大国主の国譲りを実際に実行した「天日名鳥命」「武夷鳥命」「武日鳥命(日本書紀)」「武比良鳥命」の名前から見て、当時、「日名」=「夷」=「日」=「比良」という地名があったことは確実であり、そのルーツは「筑紫の日向(ひな)」にあり、「出雲・吉備・播磨」の「日向(ひな)」「日名」「日南」の地に移った可能性が高い。
⑦ 「天皇家国史観」から「スサノオ大国主国史観」へ
―石飛仁氏の「スサノオ縄文最後の王説」に対し、私は「スサノオ大国主金属器時代の王説」「スサノオ大国主古代国家建国(スサノオ大国主王朝)説」である。
⑧「大和中心史観」から「出雲(筑紫・吉備・越・播磨・讃岐・丹後・大和)中心史観」へ

7 現代との関わりについて

① 格差社会化・非婚化・少子化により、この国は初めて「霊人(ひと)」の再生産ができない「DNA縮小時代」を迎えている。霊(ひ)=DNAの継承に向けて、「祖先霊の再生・循環の祭り」の歴史の再認識、「歌垣―妻問い―縁結び」による結婚、「母系・共同体的な子育て体制」などはどうであろうか。
② 戦後の経済大国化路線が行き詰まり、次の共同目標を失って自信喪失傾向が見られる。「反皇国史観=被虐史観、皇国史観=自尊史観」というコップの中での対立から、全世界に向けて誇れる「日本史」を発掘・発信できないか。縄文から1つの社会モデルを提起できる可能性がある。
③ 海洋国家のギリシアが西洋文明(民主主義)のルーツとなったように、同じ海洋小国の日本の歴史・文化から提案できる価値観があるのではなかろうか。縄文の動植物を含めた「DNA共同体的価値観」とともに、「武力征服史観」にはない「交易と生産革命、妻問い婚と祖先霊信仰」によるスサノオ大国主による建国、「共立」「言向和平(ことむけやわす)」などのキーワードが見直されなければならない。
④ 「反韓・反中国」の拝外主義が広まるなか、様々な民族を受け入れてきた縄文社会と、「海洋交易小国」の建国史が見直されるべきである。最大貿易国のアメリカと戦い(それも天皇家の奇襲作戦の歴史を習って)、最大貿易国の中国との対立が煽られている状況は、歴史への裏切りであろう。
⑤ 歴史学者には、わが国独自の文化・技術・生産体制・宗教思想についての視点が弱い「模倣史観」や、先行学説への無批判な「旧守傾向」がないであろうか? 縄文芸術を見いだした岡本太郎氏のように、異分野を含めた総合的な取組みが必要であろう。

<参考メモ> 「天離る鄙(ひな)」「鄙(ひな)離る越」について

① 「天離る鄙(ひな)」「鄙(ひな)離る越」の枕詞は、「対馬壱岐・筑紫」→「出雲」→「越」の対馬海流に沿ったスサノオ大国主一族の進出(交易圏拡大)を示す平面的・地理的な関係である。
② アマ(海人)族、イ族(イナ族)、ヒ族(ヒナ族)、越族(江南からベトナムにかけて居住)などの民族移動があった可能性はあるが、根拠が弱い。鳥越憲三郎氏は、長江(揚子江)上流域の四川・雲南・貴州の各省にかけて、複数の倭人の王国があり、その起源地を雲南省の湖・滇池(てんち)に比定し、そこから、イ族、ハニ族 (古代の和夷。ミャンマー・タイ・ラオスではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などが分岐したとしている。また、台湾には雛族(ツォウ族)という勇敢さを尊ぶ原住民がいるが、ルーツは不明。
③ 『爾雅』という最古の類語・語釈辞書を注釈した李巡(147~188年の漢霊帝のときの中常侍倭国大乱の時)は『夷に九つの種がある。一に玄莵、二に楽浪、三に高麗、四に満飾、五に鳧更、六に索家、七に東屠、八に倭人、九に天鄙』と記し、「倭人」のさらに先に「天鄙(ひ、ひな)」の国があったと伝えている。「倭=委=壱岐(壱城)」の先の「天鄙」となると、筑紫か出雲の可能性が高い。
古事記の国産み神話で、津馬「天狭手依(さでより)比売」、壱岐島「天比登都柱(ひとつばしら)」、隠岐島「天之忍許呂(おしころ)別」、女(ひめ)島「天一根(ひとつね)」、知訶島「天之忍男(おしお)」、兩兒島「天兩屋(ふたや)」、大倭豊秋津島「天御虚空豊秋津根(あまつみそらとよあきつね)別」のように、古名の「天」からこれらの国々が天(あま:海、海人)族が進出した国とする古田武彦説を私は支持している。
④ 「倭国=委国」「壱岐(委城)」「天一柱」は、「海人の壱国」であり、「邪馬壱国」は「山の壱国」であった。その本拠地は、イヤナギ・スサノオ・アマテラス神話の「筑紫の日向(ひな)」であり、旧甘木市の「ひな城」(蜷城、美奈木、美奈宜)である。
⑤ 古事記の国土生成神話は、筑紫国を白日別、豊国を豊日別、肥国を建日向日豊久士比泥別、熊曾国を建日別とし、吉備児島の別名を建日方別と伝えており、これらの国が「日」国から別れた国であるとしている。
⑥ 大国主を国譲りさせた天穂日命(天菩比神)の子の天日名鳥命は「天夷鳥命」「武日照命」「建比良鳥命」とも書かれ、大国主の子の鳥鳴海神の妻は「日名照額田毘道男伊許知邇神」、5代目の甕主日子神の妻は「比那良志毘売」であることからみても、「ひな=鄙=夷=日=日名=比那」は出雲を中心とする地域とみて間違いない。
⑦ 柿本人麻呂「天離(あまざか)る 夷(ひな)の長道ゆ 恋くれば 明石の門より 大和島みゆ」の歌は、大阪から印南(稲日野)の地の「加古の島」まで行き、再び引き返した時の旅の歌の1つであり、夷(ひな)は田舎一般(鄙)ではなく、「ふぃな(いな=ひな)」の「印南(稲美)の地を指しているとみられる。
⑧ この印南の地には大国主少彦名命が作ったという「石の宝殿(私は方殿説)」と高御位山があり、大国主少彦名命の建国伝説が残されている。天皇皇位継承儀式を「天津日嗣(ひつぎ)高御座(たかみくら)之業」と言うのは、この大国主・少彦名の高御位山での霊(ひ)継ぎ儀式を継承したものである。「高御位山山頂の下に大国主が上から投げた『鯛砂利』という鯛の形をした岩があり、この鯛の頭が上を向いていたら、ここが日本の中心になった」という伝承が残されている。

<元原稿・メモ>

・本:『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
・ホームページ:霊(ひ)の国古代史研究室(ジオログ廃止)
・ブログ:日向勤の「霊(ひ)の国古代史研究室だより」「霊の国:スサノオ大国主命の研究」(YAHOO廃止)、「霊(ひ)の国の古事記論」、「神話探偵団(ヒナフキンスサノオ大国主ノートに名称変更)」、「邪馬台国探偵団(ヒナフキン邪馬台国ノートに名称変更)」、「帆人の古代史メモ」

 

 Livedoorブログに「アマテル論2 アマテル1はスサノオの義妹」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 昨日の「アマテル論1「『4人アマテル合体』のアマテル神話」では、「日向(ひな)王女アマテル」「高天原アマテル」「復活アマテル」「国譲らせアマテル」(以下、アマテル1・2・3・4)のアマテル1~4が合体されて一人のアマテル(合体アマテル)が創作されたのではないか、という仮説を提起しました。
 今日はその2として、アマテル1はスサノオの義妹であることを、古事記の記載から明らかにしました。「アマテラス=モモソヒメ=卑弥呼」を天皇家の祖先にしようとする「新皇国史観」の古代史ねつ造事件に対し、引き続きアマテル1~4の実像を明らかにしていきます。
 縄文から続く海人(あま)族の母系制社会とアマテル1~4、卑弥呼(アマテル2)は関りがありますので、御覧になっていただければと思います。雛元昌弘

スサノオ壁画(八重垣神社:893年巨勢金画)

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「アマテル論1 『4人アマテル合体』のアマテル神話」の紹介

 Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」に「アマテル論1 『4人アマテル合体』のアマテル神話」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 2014年8月に書いたレジュメ「4人のアマテル(天照)と卑弥呼」と2019年末にまとめた『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本:第2版)をもとに、書き直しました。
 「アマテラス=卑弥呼=モモソヒメ」という「新皇国史観」に危機感を覚え、これまで書いてきた「アマテル論」について連載していきます。
 縄文論とは、霊(ひ)宗教説で関りがありますので、御覧になっていただければと思います。雛元昌弘

 

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「アマテル1~4」を合体した「天照大御神

 

「『アマテラス=卑弥呼=モモソヒメ』の『新皇国史観』を危惧する」の紹介

 本日、Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」に「『アマテラス=卑弥呼=モモソヒメ』の『新皇国史観』を危惧する」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
裕仁天皇人間宣言により、天皇を唯一絶対の太陽神とする戦前の「皇国史観」は息の根を止められましたが、「アマテラス=卑弥呼=モモソヒメ」として天皇家の歴史を新たに創作しようとする「新皇国史観」とでもいう動きに危機感を感じています。
 この新たな天皇利用の動きに対し、記紀に書かれたスサノオ大国主国史とともに、薩摩半島南西端の笠沙(かささ)の阿多を本拠地とした猟師・山人(やまと)の人間天皇家の真の歴史を明らかにしたいと考えています。 
 邪馬台国論争は、畿内説か九州説かの争いだけでなく、否応なくスサノオ大国主建国論か天皇家建国論かの争い、さらには縄文人の自立内発的発展史観対弥生人天皇家による外発的発展史観の争いになると考えます。雛元昌弘

卑弥呼の宮殿施設?(邪馬台国大研究/歴史倶楽部/223回例会・平野区考古学展より)inoues.net/club10/hiranoku201702.html

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