ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

「縄文ノート112」への追加修正

 今回、江戸東京博物館で特別展「縄文2021―東京に生きた縄文人―」と企画展「ひきつがれる都市の記憶―江戸東京3万年史」が同時に行われたことから、私は縄文文化・文明の世界へのアピールが行われるものと期待しましたが、多くの発掘成果がまとまって展示され、「土器に残る圧痕から豆類(ダイズ・アズキ)の栽培も判明した」とはっきりと示していたものの、「縄文農耕と土器鍋糖質食文化」「母系制社会」「広域交流・交易社会」「地域分業と分散居住が進み、大規模共同祭祀が行われた部族社会」「ポンガ(沸騰と吹きこぼれ)を祝う天神信仰」など、「縄文時代」を世界史の中に文明段階として位置付けた総合的な展示などは見られず、「縄文ガラパゴス史観」「縄文閉じこもり史観」「劣等民族史観」の展示に終わっていました。

 書き落とした次の項目を追加修正しましたのでお知らせします。

12 「縄文文明」の広域・全国展開

① 黒曜石・ヒスイ・コハク・貝製品・土器などの流通や技術・デザインの広域的・全国的な交易と交流については、すでにそれぞれの研究で明らかにされ、各地の博物館・資料館でも展示されていますが、東京の縄文遺跡も各地との交流・交易の痕跡が見られます。

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② まず確認しておきたいのは、西欧中心史観が規定した未開社会説の「狩猟漁撈採集の自給自足社会説」ではこのような広域的・全国的な交流・交易は説明できないのであり、狩猟・漁労・生活圏は定住地から狭い範囲でいいのです。「定住しながら広域的・全国的な交流・交易をおこなう」という縄文人の生活・社会は「狩猟漁撈採集民」という規定ではなく、「地域分業を行う広域・全国交流・交易民」としての規定が必要であることを示しています。

③ この「定住」と「交流・交易」は「定住=夫招婚の母系制社会」であり、「交流・交易=男性が入り婿となる妻問婚社会」であったのです。

 黒曜石・ヒスイ・コハク・貝製品や土器に入れた産物などは妻問のための母系家族への贈物であり、それは父系制釈迦に変わった今でも「結納」の習慣として残っています。

 そして、この広域交流・交易社会は地域分業が確立し、氏族社会から部族社会への共同体の転換が進んだと考えます。マルクスギリシア・ローマを手本とし、私有財産制から「原始共産制奴隷制社会」という社会発展段階説を唱えましたが、軍事・侵略国家のギリシア・ローマ奴隷制社会は人類史の例外なのであり、「原始共産制」という共同体社会は空想の産物という以外にありません。

④ 鉄器交易・加工・生産により筑紫・出雲・瀬戸内などで妻問を行った壱岐の海人族のイヤナギ(伊邪那岐)、新羅と米鉄交易を行い、鉄器水利水田稲作を広めて出雲・筑紫・安芸・吉備・播磨・讃岐・美和(三輪)・紀伊尾張など各地で妻問を行ったスサノオ天王、100余国で180人の御子をもうけた「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂(みずほ)国王」「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」(注:鉏=鉄先鋤)と呼ばれた大国主などは、この広域交流・交易を行ってきた縄文人の伝統を受け継いでいるのです。

⑤ 「弥生人(中国人・朝鮮人)征服により水田稲作が導入されて文明段階になった。そして弥生人天皇家による建国が行われた」という大和中心史観の新皇国史観派と中国文明崇拝の左翼・リベラル史観派は奇妙な「縄文未開社会説」の共同戦線を張り、「弥生文明社会説(前者)」「弥生奴隷制社会説(後者)」にそれぞれしがみついていますが、若い考古学者・歴史学者の皆さんはこの左右の守旧派から自由になって欲しいものです。

⑥ 私は戦争発達史観の「城壁都市段階」を「文明」とする規定や、「土器デザイン」をもとにした「縄文時代」規定には反対ですが、仮に「文明」「縄文時代縄文人」などの用語を使っており、若い皆さんには西欧中心史観の「文明」や土器で時代を区分するなどという「縄文時代弥生時代」などの規定を見直すところから、日本の拝外主義の考古学や記紀に書かれたスサノオ大国主史を無視した天皇歴史学を変革していただきたいと思います。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート112 「縄文2021―東京に生きた縄文人―」から

 12月1日、「奥の奥読み奥の細道」(島根日日新聞連載)のデジタル本出版に向けて、草加・南千住・深川の松尾芭蕉像4体の銅像撮影とともに、江戸東京博物館で「縄文2021―東京に生きた縄文人―」「ひきつがれる都市の記憶―江戸東京3万年史」を見てきました。

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 この「東京縄文人2021」(私の略称)は平日にも関わらず閲覧者は多く、マニアックな感じの高齢者が中心でしたが若い人も5~10人に1人はいて、縄文ブームを感じさせました。

 「基本的に撮影自由」の表示が出ていたので撮影を始めると注意する人(身形からみて元公務員か元教師と推理)が現れたので入口の撮影OKの表示を教えましたが、この国の「お上情報独占意識」が広く浸透していることを思い知らされました。おまけに、私がバシバシ撮っていると、多くが撮影を始めたので「移るんです」「皆で渡れば怖くない」の「右に倣え」の国民性には笑えてしまうとともに恐怖を感じました。

 博物館・資料館には未だに「撮影禁止」の「お上」の情報独占が根強く、私は「情報は国民のもの」という基本的な考えで「ゲリラ撮り情報公開」を行っていますが、江戸東京博物館などの「基本的に撮影自由」を手本とすべきでしょう。

 どんどん撮って、発見したこと、感じたこと、考えたことを広く伝えていきませんか?

1 「発掘大国・考古小国」日本 

① 炎天下・寒風の中で発掘作業を行い、土器等の復元作業をおこなってきたみなさんの成果をみられたことは感謝したいと思います。東京の縄文遺跡の全体像と縄文人の生活・社会像を見えるようにした展示は参考になりました。

 これまで東京都下には縄文をテーマにした観光目的で行くような常設展示館がなく、私もある研究会のついでに「くにたち郷土資料館」で石棒展を見たくらいであり、東京の縄文は知りませんでした。

 「縄文=野蛮・未開、弥生=文明」「弥生人による縄文人征服」史観により、首都東京では縄文時代などあまり関心ももたれず、縄文テーマ博物館はなかったと思われますが、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録を機に縄文が見直されてきているのは喜ばしいと思いました。

② また、信州・群馬の縄文遺跡などから「日本は世界一の共同体時代の発掘大国」という印象を受けていたのですが、東京も同じであることを再確認できました。

③ 残念なのは「発掘・分析世界一」とは言っても、「共同体文明」の「考古」で世界をリードする気概が展示には感じられず、「世界遺産登録」を視野に入れたような展示が見られなかったことです。「すごいものがでてきた」「縄文人の生活が判ってきた」ということは素晴らしいのですが、「中空」だと思いました。物から縄文人の精神や社会、文化を読み取った仮説的展示は見られませんでした。答えは1つに絞らなくてもよく、現場で考えたいくつもの仮説を提案すべきです。

 「世界都市東京」などと言いながら、主に外国人に見てもらいたい、という意気込みを感じられませんでした。「科学研究3流国」化は先端科学だけではないようです。少なくとも、英語・中国語・韓国語の説明くらいつけるべきでしょう。「女神」をどう訳すかなど、議論を広げるべきです。

④ 「縄文文化・文明」に関心を持つ人が増えてきたのは、ユダヤキリスト教の西欧人が作り上げてきた「軍国・侵略主義の資本主義文明」に危機感を抱く人が増え、彼らが滅ぼしてしきた共同体文明に関心が持たれるようになったと私は考えていますが、「発掘大国・日本」こそ世界中の人々のこのような関心に応えるべきと考えます。「縄文閉じこもり学」「発掘閉じこもり学」「日本閉じこもり学」「西欧中心史学輸入学」では国民の期待にも応えられません。

⑤ マルクスの「原始共産制奴隷制封建制→資本主義→共産主義」という文明発達史観が、「ユダヤギリシア・ローマ征服民族」の戦争・侵略文明史を正当化する空想であることが明らかとなってきている現在、1945年からのアメリカによる占領まで異民族の征服を受けることのく内発的自立的発展をとげてきたわが国は、「家族・氏族・部族共同体」段階の歴史を解明することができる豊富な手掛かりを残している唯一の国であり、おまけに「発掘大国」です。

 「江戸東京3万年史」と大見えを切るなら、縄文社会・生活・文化・宗教の全体像を関東へ進出したスサノオ大国主一族の神社伝承や現代に続く祭りや生活習慣などから解明すべきと考えます。

 

2 「ビーナス」か地母神の「女神(めのかみ)」か?

① 入口でいきなり「多摩ニュータウンのビーナス」が出てきたのにはイナバウアー(仰け反り)になってしまいました。なんとも恥ずかしい「ギリシア奴隷制文明賛美」の「劣等感史観」の命名です。

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 日本の母系制社会の「女神(めのかみ)」とギリシア奴隷制社会の「ビーナス」は同じなのでしょうか?―縄文ノート「75 世界のビーナス像と女神像」「86 古代オリンピックギリシア神話が示す地母神信仰」「76 オリンピックより「命(DNA)の祭典」をアフリカで!」等参照

② 茅野市棚畑遺跡の「縄文のビーナス」や「ビーナスライン」、あるいはお台場の閉館した「ビーナスフォート(ビーナスの砦)」のネーミングの真似をしたのでしょうが、茅野市中ツ原遺跡の「仮面の女王」、長野県富士見町の「始祖女神像」、山形県舟形町の「縄文の女神像」のネーミングを継承すべきでしょう。―縄文ノート「32 縄文の『女神信仰』考」「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」等参照

③ これまで母系制社会論・女神論などで書きましたが、私は旧石器・縄文時代の妊娠を誇張した女性像は「母神像」、抽象化した女性像は「女神像=巫女(御子)像」であり、ギリシアの「ミロのビーナス」を始めとした若い性的魅力にあふれたリアルな女性像は「性奴隷・ヘタイラからの装飾像」と私は考えます。ビーナスの語源が「『愛』、『性欲』、『愛らしさ』、『美』、『魅力』を意味するラテン語による。欲望を意味するサンスクリット『vanas』に由来か」(ウィキペディア)と言われることをみても、「女神とビーナス」の用語には大きな差があるのです。

④ それは縄文時代が母系制社会か父系制社会化か、女性中心史観か男性中心史観かという重要なテーマや、「縄文農耕」の地母神信仰にも関わってきます。

⑤ 「和魂漢才」「和魂洋才」と言いながら、実際には「和魂」など忘れた劣等感の塊の「拝外主義」が容易に「排外主義」に転換することを私は心配していますが、「英語」「呉音漢語・漢音漢語」を使わない「倭音倭語」で歴史を分析してもらいたいものです。

 

3 「背面人体土偶」のイナバウアー(のけぞり)³

① 入口には「多摩ニュータウンのビーナス」、出口には「東京の縄文土偶100」の配置を皆さんは素晴らしいと思いませんか?

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 この会場配置をみると、「縄文は母系制社会だ!」となりそうなものですが、ななんと、土偶の分類展示は「中空大型土偶、土鈴型土偶、中期土偶、背面人体土偶、板状土偶、ハート形土偶、筒型土偶、山形土偶、後・晩期土偶、みみづく土偶、遮光器『系』土偶、晩期土偶」という大きさ・工法・形状・時期・デザイン系統などの分類基準をごちゃまぜにした展示でした。

② これまでさんざん言われてきた「女性土偶」「妊娠土偶」などの特徴を抹殺ようとする「男性中心史観」の分類展示にすり替わっているのです。この分類は「縄文社会像ねつ造事件」と言ってもいいイナバウアー1です。

③ しかも展示数で一番多い土偶は「背面人体土偶」というこれまで私が本やネット、博物館などで見たこともない意味不明のネーミングです。

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 目で見て確認しても土偶は全て前向きであり「背面」ではなく、「人体」はどうみても「乳房」のある女性です。

 このバレバレの「女性土偶」隠しがイナバウアー2です。

 女性知事のもとでこのような展示を行い、それを江戸東京博物館が公認するのですから、よほど女性知事が嫌いで、アンチSDGsの「5 ジェンダー平等を実現しよう」「10 人や国の不平等をなくそう」など大嫌いな人たちの宣伝の場のようです。

③ さらに解説と展示の大きなズレがイナバウアー3です。

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 解説は「新たな生命の誕生や、祀りの神像、豊かな社会への祈りなど、さまざまな願いが込められていたと考えられてきた」としているのですから、展示は「妊娠土偶、女神土偶、食物神土偶」などの3分類のにすべきでしょう。

 「建前」で「本音」を隠した展示とし、最後には「縄文人たちは、土偶にどのような願いや祈りを込めて作り、祈っていたのであろうか」と疑問形にして土偶の3つのテーマを完全にぼやかしてしまっています。

④ 入口の土偶を「女性像」あるいは「妊娠女性像」「女神(めのかみ)像」とせず、エロ好き男性好みの「多摩ニュータウンのビーナス」とし、出口では「背面人体土偶」として乳房などない人物像にするなどの陰謀を見抜き、縄文社会が母系制社会であったことを女性土偶から読み取っていただければと思います。

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4 「縄文海人族文明」 の紹介

① 私は海人族「スサノオ大国主建国論」から縄文研究に入り、若狭の鳥浜遺跡や青森の三内丸山遺跡ヒョウタンの原産地がアフリカ西海岸のニジェール川流域であり、青年海外協力隊員としてニジェールに赴任していた次女からニジェールヒョウタンやイネを知り、「縄文人海人族説」「縄文人・イネ科穀物ニジェール川流域起源説」などを提案してきました。

② そして遺伝子と言語、霊(ひ=祖先霊)信仰、地母神信仰と神山天神信仰、イモ・穀類やもち食文化、竹筏・丸木舟、黒曜石などからアフリカからアジア、日本列島への縄文人の「海の道・草原の道移動ルート」をたどり、「縄文人ドラヴィダ海人(あま)・山人(やまと)族説」を提案してきました。

 ただ、これまで仕事先の群馬・新潟や最近になって長野の縄文山人(やまと)族の縄文博物館・資料館しか見ておらず、今回、東京の海人族の資料が見られたことは新鮮でした。

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③ 東京・関東の貝塚や製塩土器、丸木舟、骨角牙製釣り針、神津島産黒曜石、島嶼の遺跡などの「縄文海人族文明」については、常設展示館の整備を期待したいところです。

 そして、その際には世界の人たちに「縄文海人族文明」を情報発信し、「ウォークマン史観」「マンモスハンター史観」を見直すよう、英語・中国語・朝鮮語でも説明を付け、デジタル博物館として情報発信し、「日本中央縄文文明」の世界遺産登録に備えていただきたいと思います。

 

5 「大規模配石遺構」があった

① 神奈川県秦野市稲荷木遺跡では、10m直下の川から800tを超える石を運び上げた大規模配石遺構が見つかったと紹介されていました。これは知りませんでした。

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② ネットで調べると「1カ所に石を並べた『配石』が31基見つかっている。平らな石の周辺を丸い石で囲んだものや、墓標のような長い石を中心に据えたものなど三つの形状が確認された。付近からは骨の破片も発掘され、『多くの配石がまとまっていて県内屈指の規模』と担当者。墓である可能性もあるという」とのことでした。長野県の阿久遺跡(環状列石墓地:原村)・阿久尻遺跡(祭祀施設:茅野市)と同じようなワンセットの遺跡の可能性はないか、と気になります。

③ ギリシア・ローマなどの軍事・侵略民族の「城内集住型都市文明」に対し、他民族支配のなかった縄文人は「城壁のない分住型文明」であり、分業・交易を進めて氏族社会から部族社会へ7~6000年前頃から移行し、阿久・阿久尻遺跡などのような「巨大共同墓地・祭祀施設」を作ったと私は考えています。そこでは後のたつの市野見宿禰伝承や箸墓建設の日本書紀記載に見られるように、河原から人々が一列に並び、リレー式の手渡しで石を運んだ可能性があり、御柱祭のような部族共同体の共同作業が行われた可能性が高いと私は考えます。そしてそれを可能にする穀類の栽培・蓄積があったと考えます。

④ 稲荷木遺跡は阿久・阿久遺跡の並んで、世界の部族共同体文明を解明する鍵となる遺跡の1つとなる可能性があり、さらなる発掘・分析を期待したいと思います。―縄文ノート「96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡」「104 日本最古の祭祀施設―阿久立棒・石列と中ツ原楼観拝殿」「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列」「106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」等参照

⑤ さいたま市の私の犬散歩コースには鴨川沿いの丘陵にそって稲荷塚古墳や上之稲荷古墳、台耕地稲荷古墳や他に名前表示のない小さな古墳がありますが、いずれも上に稲荷社を置き、近くの古い農家の屋敷の西北隅には稲荷を祀る祠が置かれています。「縄文ノート110 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」の最後などでもふれましたが、祀られている稲荷神はスサノオ神大市比売との間に生まれ、美和=三輪に祀られた大年神(大物主)の妹の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)であり、女神(めのかみ)であり食物神(みけつのかみ)なのです。「あいういう→あいうえお」5母音から「けつね→けつの」で狐を神使(かみのつかい)とするようになったのであり、関西では今も「けつねうどん」なのです。

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 秦野市稲荷木遺跡の名称もまたスサノオ大国主一族の「女神信仰」を受け継いでいる可能性があり、母系制社会の名残を残しているのではと気になります。―縄文ノート「38 霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰縄文ノート」「98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社」参照

 

6 「環状集落」のルーツ

① 方形平面住宅や方形住宅配置集落ではなく、縄文人が円形平面竪穴式住居や円形配置の環状集落とし、さらには環状列石集団墓地としていることについて、私はそのルーツが人類移動やヒョウタン・イモ・穀類・黒曜石利用・神山天神信仰などとともにアフリカから伝わった、と考えてきました。―「縄文ノート69 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)」参照

② その根拠は、アフリカ・東南アジアの伝統的な円形住宅の分布と、竪穴式住居が構造的には方形軸組構造であるにも関わらず、無理して円形平面を維持し続けていること、立棒・円形石組墓石や環状列石集団墓地により死後の世界も円形にこだわっているからです。

③ 立棒を立てた広場を囲んだ環状集落については、塩尻市の平出遺跡や北杜市の金生遺跡で確認していましたが、今回、下表のように東京都下に広く存在することわかりました。これは収穫でした。

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④ 平出遺跡では環状集落の中央部広場には立棒があったのに対し、墓壙(土壙)があるというのは新しい発見でした。阿久遺跡では環状列石の中央広場に立石と蓼科山に向かう石列があり、蓼科山天神信仰を示す立石(石棒=金精)があるのに対し、これらの遺跡では広場に墓地を置き、祖先霊を祀るという地母神信仰なのです。

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⑤ 東京都の縄文遺跡には神山天神信仰の痕跡があるのかないのか、いずれ検討してみたいと考えます。

 

7 「マメマメ縄文農耕」説

① 「縄文時代=クリ・ドングリ採集社会」「弥生時代弥生人(中国人・朝鮮人)による水田稲作社会」という「縄文クリクリ史観」がわが国の考古学者には未だに根強いようですが、入口で「最新の調査成果から考える縄文時代像」として「土器に残る圧痕から豆類(ダイズ・アズキ)の栽培も判明した」とはっきりと示しているのは大きな前進です。

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② しかしながら、展示されていた石器農器具(鋤など)や石器穀類収穫器、穀物食・イモ食のための石すり鉢・石臼などの展示全体を通して「縄文農耕」の主張はなされていませんでした。「マメ食・マメ栽培はあったが、イモ食・穀物食やもイモ・穀類栽培はなかった」という「縄文人バカ説」の展示に終わっています。

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③ すでに各地の縄文土器の圧痕や花粉から穀類(ソバやアワ・キビ・イネなど)の痕跡や、小正月に赤米を炊いてカラスに与える南インドのドラヴィダ族の「ポンガ」のカラス祭りが長野・新潟・茨城・秋田・青森に伝わっているにも関わらず、穀類栽培の可能性に踏み込んでいないのは中途半端です。

 縄文土器の圧痕、石すり鉢・石臼の花粉分析、土器鍋のおこげ分析の全ての結果から「焼畑による穀類縄文農耕があった」ことはすでに解明されており、豆類栽培を認める以上、「クリクリ採集派」対「縄文農耕派」の決着をつけるべきでした。

 石すり鉢・石臼でクリ・ドングリを粉にしながら、ソバ・アワ・キビ・コメなどの栽培や粉食文化はなかったという証明がない以上、縄文人について「縄文採集野蛮・未開人説」と「縄文農耕文明人」説を両論併記するのが科学者でしょう。

 「縄文農耕」を掲げ、農耕用石器をきちんと展示して説明した長野県富士見町の井戸尻考古館などと較べると、なんとも中途半端な展示といわざるをえません。

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④ 記紀がはっきりと記しているスサノオ大国主の「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国」の建国と縄文時代との関係についても説明があってしかるべきと考えます。江戸東京博物館が「江戸東京3万年史」というコンセプトを掲げる以上、縄文文化・文明がどのように次の時代へと引き継がれ、現代さらには未来と関りがあるのか、明確に示すべきと考えます。でないと「無考古学(考えない古くさい学)」になってしまうのではないでしょうか? 「それは歴史学者の仕事。我々は発掘が仕事」などと言っている場合でしょうか?

 

8 「土器鍋」隠しの「深鉢型土器」表示と「土器底のおこげ隠し」

① 展示では「土器の機能と美の変化」のタイトルで「土器の機能は主に『煮る』『貯める』『盛る』である」としながら、最初に挙げた『煮る』土器を「深鉢型土器」などとして、「土器鍋=土鍋」としていません。「鉢」は「植木鉢」や「皿鉢料理」の「皿鉢(皿と鉢の中間の深い皿)」のように『盛る』土器であり、「煮る」土器ではありません。

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 考古学者にとっては「下々」の庶民が使う土鍋の日本語の本来の意味などはどうでもよく、独自の「考古学用語」として「深鉢」を使い、「縄文煮炊き料理」の正体がイモ・マメ・穀類であることを隠し、縄文時代が「クリ・ドングリ主食の採集の前文明段階」に押しとどめたいようです。

② 縄文土器について「土器鍋」(調理器具)とせずに「深鉢」(容器)と表示するだけならまだしも罪は軽いのですが、おこげの痕跡を全てきれいに消し去って土器を展示しているのは「クリクリ史観」派の証拠隠滅と言わざるをえません。長野県の各博物館・考古館などと較べると異常な行為と言わざるをえません。死体(土器)は証拠になるが、付着物(おこげ)は証拠にはならない、という冤罪の鑑識・科学捜査・法医学のレベルのようです。

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 世界最古の14000年前の煮炊き痕のある縄文土器帯広市の大正3遺跡で発見されていることを東京の発掘関係者は知らないのでしょうか?

  縄文土器のおこげや吹きこぼれの分析からイモ・豆・穀類を煮炊きしていたことが証明されているのです。ドングリのアク抜きは水にさらせばよく、仮に煮沸したとしても吹きこぼれやおこげはできません。―縄文ノート「29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」「108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説」等参照

 世界に先駆けて豊かで安定した健康食・バランス食の煮炊き土器鍋食文明を成立させ、和食の世界遺産登録を果たしたわが国において、未だに「土器鍋」を「深鉢」と言い換えている考古学を科学として認めることができるでしょうか? 英語・中国語・韓国語ではどう展示するのか、今後の見ものです。『貯める』『盛る』土器にはこのような上下2段階の異なる形状は不要です。

③ 改めて言うまでもありませんが、土器の上部がラッバ状に開いているのは、吹きこぼれ防止用であることは、電気炊飯器などの吹きこぼれ防止鍋の形状から誰もが納得されるに違いありません。縄文人は吹きこぼれる鍋料理を行っており、それに対応した土器鍋の形状にしたのです。

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④ 縄文人の生活を目で見えるようにしたジオラマは大好きですが、ここでも「縄文農耕・縄文食隠し」のインチキが目に付きます。またもやイナバウアー(のけぞり)²です。

 入口では「土器に残る圧痕から豆類(ダイズ・アズキ)の栽培も判明した」とはっきりと書きながら、「収穫」は再現されているものの肝心の「栽培」場面はなく、「木の実の加工」では石すり鉢・石臼での豆やソバなどの穀類の粉食文化の説明はありません。

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④ もっともインチキなのは「土器鍋」で煮炊きしている「縄文料理」の場面がないことです。「土鍋料理」が大嫌いな考古学者ばかりのようで、今のところ世界最古の「煮炊き食文化」は「俺の目の黒いうちは絶体に認めない」などという大先生がいるのでしょうか?

 

9 縄文土器縁飾りは「吹きこぼれ泡」「トカゲ龍」デザイン

① 前にも書きましたが、建築学科の最初の頃の建築デザインの授業では、「リンゴがテーマの建物なら、リンゴの形から入れ」と言われており、このデザイン原則から私は縄文土器の特徴である縁飾り模様は「吹きこぼれ」であり、円形模様は土器鍋の「吹きこぼれの泡」のデザインと考えました。

  そして、イモやマメ、穀類を炊いて沸騰し、泡がはじけて天に上ることを喜ぶ南インドのドラヴィダ族の「ポンガ」の信仰を継承しており、胴部分の水流模様や渦模様は鍋の中の対流や沸騰をデザインしたものと考えてきました。

② 次に、火焔型土器などの「鶏冠型」とされてきた突起デザインについては、背中に突起があって口を開け、尻尾を高く上げていることからトカゲをデザインしたものと考え、東南アジア(スンダランド)を経由した時に、天に昇り雨を降らせる「トカゲ龍信仰」を縄文人が継承して「トカゲ龍」、後に「龍蛇神・龍神」デザインへと発展させたと考えてきました。―縄文ノート「30 『ポンガ」からの『縄文土器縁飾り』再考」「36 火焔型土器から『龍紋土器』 へ」「39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍蛇神信仰とヤマタノオロチ王の正体」「縄文108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説」参照

② このような縄文土器縁飾りの「吹きこぼれデザイン説」「トカゲ龍デザイン説」をもとに、縁飾りについては特に注目してみましたが、写真のように私の2つの説は揺らぐことはありませんでした。

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10 「木の暮らしの達人」の縄文人

① 展示された見事な丸木舟の展示や漆塗りの木の器などの展示を見ていると、縄文人の豊かな「木の暮らし(ウッディライフ)」が浮かび上がってきます。

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② 木製品や竹製品などは湿地帯でないと残りませんから、考古学が「石好き・土器好き」になるのはやむを得ませんが、工作大好きであった私の感覚だと、木工用石器の分析が不十分なように思います。

③ 石斧と石錐(せきすい:きり)、石匙(せっぴ:ナイフ又は削り器)は展示されていましたが、手斧 (ちょうな)、槍鉋 (やりがんな)、鑿(のみ)、小刀に相当する石器は特定されておらず、これでは丸木舟やお椀、櫛、竹細工などの加工はできません。

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 これまで狩猟用の槍の穂先や農耕用の鋤先などに分類されてきた石器具の中に「木工用石器」が紛れているのではないか、と考えます。

④ 小田静夫氏の「考古学からみた新・海上の道」によれば、丸木舟製作用の丸ノミ石斧(円筒石斧)は小笠原諸島北硫黄島・父島、伊豆諸島の八丈島で発見されており、今後、本土の海岸地域でも発見される可能性があります。―http://ac.jpn.org/kuroshio/shinkaijo/oda201707.htm参照

⑤ 図は埼玉県の「嵐山町web博物館」(http://www.ranhaku.com/web04/c2/5_06.html)からの転載ですが、木工具はざっとみて10~45%を占めており、「東京縄文人2021」の展示においても木工石器を掘り下げて取り上げるべきと感じました。

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11 「縄文宗教」の未解明

① スサノオ大国主の八百万神分析から、私は古代人の精神・思想の中心は霊(ひ=祖先霊)信仰であり、神名火山(神那霊山)信仰や神木(神籬(霊洩木)信仰、天神信仰、女神信仰と性器信仰、水神信仰、龍神信仰、海神・地(母)神信仰、カラス・猿・狼など神使崇拝、食物神信仰などはすべて死者の霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰の形を変えたものであり、山・木・天・海・大地・水・カラスや太陽などの自然信仰ではないことを明らかにしてきました。―縄文ノート「10 大湯環状列石三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰」「34 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)」「15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」「30 『ポンガ』からの『縄文土器縁飾り』再考」「37 『神』についての考察」「38 「霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」「74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」参照

② 縄文人の宗教についての展示は、「弔い」「墓」「祭祀」「副葬品」「儀礼祭祀」「石棒」「まつりの道具」「祀りの神像」などとしてバラバラと展示されており、総合的・統一的な整理ができていません。

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 「多摩ニュータウンのビーナス(土偶)」という展示があるかと思えば別の場所では「祀りの神像」「弔い、祭祀、祀り、まつり」の言葉もみられ、整理して使われているようには思えません。

③ 古事記序文では出雲大社正面に祀られた始祖5神のうちの「参神二霊」の「高御産巣日(高皇産霊:たかみむすひ)」「神産巣日(神皇産霊:かみむすひ)」の夫婦神を「二霊(ひ)群品の祖となりき」として神々を産んだとしており、新井白石は「人=霊人(ひと)」であるとし、角林文雄氏は『アマテラスの原風景』で「人、彦、姫、聖」は「霊人(ひと)、霊子(ひこ)、霊女(ひめ)、霊知(ひじり)」としています。

  魂(たましひ=玉し霊)、神名火山(かんなびやま=神那霊山)、神籬(ひもろぎ=霊洩木)、日嗣=棺=柩(ひつぎ=霊継)、比婆山(ひばさん=霊場山)、蓼科山の女神(めのかみ)の別名は「ひじん=霊神」であり、沖縄の宮古島では女性器を「ぴー=ひー」、天草・大和・栃木・茨城ではクリトリスを「ひなさき」といい、男子正装の烏帽子(えぼし=カラス帽子)の前には「雛尖(ひなさき)」を付け、出雲では妊娠すると「霊(ひ)が留まらしゃった」ということなどからみても、親から子へと受け継がれる霊(ひ=DNAの働き)の信仰がわが国の宗教の基本であり、命=霊継(ひつぎ)を何よりも大事にし、死者の誰もが神となるとするのがわが国の八百万神信仰の基本なのです。

  そして、そのルーツはドラヴィダ語(タミル語)の「pee(ぴー);自然力・活力・威力・神々しさ」に対応し、琉球語の「ぴ」から「倭語」の「ひ」に変わったのです。この「pee(ぴー)」信仰はタイなどにも残っています。―縄文ノート「38 霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰」「40 信州の神那霊山(神名火山)と『霊(ひ)』信仰」「73 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき)」参照

④ 埋葬や妊娠土偶、女神像、石棒(男根)、集落中心の広場への埋葬、環状集団墓地などに見られる縄文文化や宗教の分析には、わが国が記紀に書かれた歴史時代に入る紀元1~2世紀のスサノオ大国主建国神話から現代に続く神社・屋敷神信仰や祭りとの繋がりを分析し、整理する必要があると考えます。

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⑤ 立棒(男根)と円形石組を太陽信仰の日時計とする説や、神名火山(神那霊山)信仰を無視して縄文遺跡などの方位を太陽の運行と結びつける俗説が見られますが、今回の「東京縄文人2021」の展示がそこに迷い込んでいないのは正解と考えます。

 

12 「縄文文明」の広域・全国展開

① 黒曜石・ヒスイ・コハク・貝製品・土器などの流通や技術・デザインの広域的・全国的な交易と交流については、すでにそれぞれの研究で明らかにされ、各地の博物館・資料館でも展示されていますが、東京の縄文遺跡も各地との交流・交易の痕跡が見られます。

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② まず確認しておきたいのは、西欧中心史観が規定した未開社会説の「狩猟漁撈採集の自足自給社会説」ではこのような広域的・全国的な交流・交易は説明できないのであり、狩猟・漁労・生活圏は定住地から狭い範囲でいいのです。「定住しながら広域的・全国的な交流・交易をおこなう」という縄文人の生活・社会は「狩猟漁撈採集民」という規定ではなく、「地域分業を行う広域・全国交流・交易民」としての規定が必要であることを示しています。

③ この「定住」と「交流・交易」は「定住=夫招婚の母系制社会」であり、「交流・交易=男性が入り婿となる妻問婚社会」であったのです。

 黒曜石・ヒスイ・コハク・貝製品や土器に入れた産物などは妻問のための母系家族への贈物であり、それは父系制釈迦に変わった今でも「結納」の習慣として残っています。

 そして、この広域交流・交易社会は地域分業が確立し、氏族社会から部族社会への共同体の転換が進んだと考えます。マルクスギリシア・ローマを手本とし、私有財産制から「原始共産制奴隷制社会」という社会発展段階説を唱えましたが、軍事・侵略国家のギリシア・ローマ奴隷制社会は人類史の例外なのであり、「原始共産制」という共同体社会は空想の産物という以外にありません。

④ 鉄器交易・加工・生産により筑紫・出雲・瀬戸内などで妻問を行った壱岐の海人族のイヤナギ(伊邪那岐)、新羅と米鉄交易を行い、鉄器水利水田稲作を広めて出雲・筑紫・安芸・吉備・播磨・讃岐・美和(三輪)・紀伊尾張など各地で妻問を行ったスサノオ天王、100余国で180人の御子をもうけた「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂(みずほ)国王」「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と呼ばれた大国主などは、この広域交流・交易を行ってきた縄文人の伝統を受け継いでいるのです。

⑤ 「弥生人(中国人・朝鮮人)征服により水田稲作が導入されて文明段階になった。そして弥生人天皇家による建国が行われた」という大和中心史観の新皇国史観派と中国文明崇拝の左翼・リベラル史観派は奇妙な「縄文未開社会説」の共同戦線を張り、「弥生文明社会説(前者)」「弥生奴隷制社会説(後者)」にそれぞれしがみついていますが、若い考古学者・歴史学者の皆さんはこの左右の守旧派から自由になって欲しいものです。

⑥ 私は戦争発達史観の「城壁都市段階」を「文明」とする規定や、「土器デザイン」をもとにした「縄文時代」規定には反対ですが、仮に「文明」「縄文時代縄文人」などの用語を使っており、若い皆さんには西欧中心史観の「文明」や土器で時代を区分するなどという「縄文時代弥生時代」などの規定を見直すところから、日本の拝外主義の考古学や記紀に書かれたスサノオ大国主史を無視した天皇歴史学を変革していただきたいと思います。

13 「大森貝塚」を取り上げながら「向ヶ岡貝塚」の無視・隠蔽

① へそ曲がりな私は、小学校で縄文式土器弥生式土器を習い、「米を保存するために弥生式土器が生まれた」と説明されて「嘘だろう。米は米俵か米櫃に保存するもんだ」と思い、「日本には金属器時代はないのか?」と疑問に思いました。その後も、日本だけ「土器の様式で時代区分する」などとうてい納得できませんでした。

② 「東京縄文人2021」ではモースが発見・発掘した大森貝塚が展示されていましたが、「弥生式土器→弥生式時代→弥生時代」の名称となった記念すべき本郷の弥生の向ヶ岡貝塚について何の展示もしていないのは実に不自然・不誠実という以外にないと思います。東京の弥生地名から「弥生式時代・弥生時代」の名称を付けて子どもたちにて教えてきた以上、説明責任があります。

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③ 3000年前頃の水田稲作開始から文明時代としたいのなら、「暫定日本最古」の水稲耕作遺跡の佐賀県唐津市の菜畑遺跡から名前をとって「弥生時代」を「菜畑時代」に名称を変更するか、「水田稲作時代」として時代区分すべきなのですが、未だに「弥生時代」を使い続けて「知らぬ顔の権兵衛」というのは門外漢の私には「旧石器ねつ造事件」よりはるかに悪質に見えます。

  弥生式土器の見つかった向ヶ岡貝塚についてもきちんと展示し、誤った歴史的名称として「弥生時代」を説明し、縄文時代との違いを説明すべきでしょう。

 ④ 私は「石器―土器―土器―古墳」時代という「石土ガラパゴス歴史区分」は歴史家に多い劣等民族史観であり、「石器―土器(土器鍋)―鉄器」時代区分にすべきと考えています。

 

14 まとめ

⑴ 私の縄文分析の経過

 私がこれまで縄文論についてオリジナルな分析を行ってきた主な論点は、次の11点です。

 ① 鉄器水利水田稲作と八百万神宗教による「スサノオ大国主建国」からの縄文時代分析

 ② 「産霊(むすひ)夫婦」始祖神神話や神名火山(神那霊山)・神籬(霊洩木)信仰、柩・棺(ひつぎ)などの「霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教」からの縄文宗教論

 ③ スサノオ大国主建国の妻問夫招婚からの縄文母系制社会論

 ④ 外発的発展史観の弥生人征服説に対し、縄文時代からの内発的自立発展史観

 ⑤ 「旧石器―縄文―弥生―古墳」時代区分から、「石器―土器―鉄器」時代区分による縄文論

 ⑥ 西アフリカ産ヒョウタンとカヌー・ディンギー遊びからの「海人族縄文人史観」

 ⑦ アフリカ起源の縄文人と神山天神信仰、黒曜石文化、イモ・マメ・穀類栽培のワンセット伝播論

 ⑧ Y染色体D型・農耕食宗教言語・イモソバアワ焼畑農業・もち食文化などからのドラヴィダ海人・山人族移住説

 ⑨ 「野蛮・未開縄文社会論」に対抗する「縄文文明社会論」

 ⑩ マルクスの「原始共産制奴隷制封建制」の時代区分を見直す、「家族・氏族・部族共同体社会論」 

 ⑪ 「日本中央縄文文明」(長野・新潟・群馬・山梨)の世界遺産登録の提案

 

⑵ 「縄文2021―東京に生きた縄文人―」を見て

 以上の視点で今回、急ぎ足ながら「縄文2021―東京に生きた縄文人―」展を見たのですが、私の主張を裏付ける新しい気づきが多くあったものの、以上の私の主張を覆すような事実はありませんでした。

 東京都で発掘に従事する若い考古学者の皆さんは是非とも世界に目を向けるとともに、縄文からスサノオ大国主国史を視野に入れ、「発掘大国・考古小国」から脱していただきたいものです。

 私は10数年以上前に仕事で群馬・新潟の縄文資料館を見たり、スサノオ大国主関係の調査のついでに縄文博物館を見る機会があったほか、やっと2年前から長野の八ヶ岳周辺の遺跡や博物館を見たという全くの初心者のレベルですが、今後は東京・埼玉や新潟・富山・などの遺跡・博物館・資料館なども回ってみたいと思います。

 縄文社会研究会・東京はこれまで内輪の会でしたが、初めての方も参加できる講演会なども相談していきたいと考えており、その際には案内を公開したいと考えます。

 <追記>

 明日(12月5日)が最終日なのに報告が遅れてしまいました。洩れている点については、いずれ追記します。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論

1 9万年前の骨製の銛

 人類進化関係の『別冊日経サイエンス』を図書館でまとめて借りたところ、1998年4月の122号の『DNAから見た生物進化』に、9万年前の骨製の銛がコンゴ民主共和国(ザイールは1971~97年の国名)のセムリキ川(エドワード湖から北に流れアルバート湖に注ぐ)で見つかったという記事がありました。

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 私はこのエドワード湖とアルバート湖のほとりの高地湖水地方20000~8000年前頃のイシャンゴ文明があり、穀類を粉にする石臼・粉砕用石器とともに多くの骨製のと魚骨を伴い、糖質・魚介食であったということを『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』(木村愛二著)から引用しましたが、その骨製の銛の起源が9万年前へと遡ることが明らかとなったのです。―縄文ノート「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「62 日本列島人のルーツは『アフリカ高地湖水地方』」参照那霊山)信仰のルーツ」より

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 人類の誕生はアフリカの熱帯雨林で地上に降りたサルが川や沼地、海岸で水に浸かって足や棒で魚介類やカエル・トカゲ・ワニなどをとって食べてタンパク質と脂質を摂取して脳の神経細胞ニューロン)を増やし、DHAを摂取してシナプス(神経伝達部)の働きを活発にし、地上では穀類や突き棒でイモ類などの脳のエネルギー源となる糖質を摂取して脳を活発に働かせて知能を向上させたと考えてきました。

 そして36000年前頃の京丹後市上野遺跡の隠岐島産の黒曜石や19000~18000年前頃の高原山黒曜石原産地遺跡群について、黒曜石利用文化がケニアタンザニアエチオピアから伝わった可能性を指摘しましたが、20000~8000年前頃のイシャンゴ文明とは年代が合致しませんでした。―縄文ノート44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」参照

 ところが巨大ナマズやトカゲ・ヘビ・ワニなどを仕留めることができる9万年前の骨製の銛が発見されたのですから、イシャンゴ魚食文明は9万年前に遡ることになり、私の主張とは矛盾がなくなりました。

 DNA分析と合わせて考え、4~3万年前頃に第1波の旧石器人が、16000年前頃に第2波の縄文人が日本列島にやってきたと考えていましたが、そのどちらもが9万年前のアフリカのイシャンゴ水生動物食文明や黒曜石文化を受け継いでいたと考えたことが証明されました。―縄文ノート「43 DNA分析からの日本列島人起源論」の図6・20・21、「62 日本列島人のルーツは『アフリカ高地湖水地方』」の図4参照

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 「肉食進化説」「進化オス主導説」に基づく「大型草食動物ハンター説(マンモスハンター説)」とそこから帰結される「ウォークマン拡散説」の西欧中心史観の影響が根強いわが国ですが、9万年前の骨製の銛を使う「イシャンゴ水生動物食文明」の痕跡が発見され、Y染色体D型の分岐と分布が明らである以上、今こそ「糖質・水生動物食進化説」「母子主導進化説」に基づく「海人族説」の「筏乗り拡散説(ラフトマン拡散説)」への転換を世界に先駆けて主導すべきと考えます。

 日本列島人起源説については、これまで「東アジア閉じこもり史観(アフリカからの全ルートを考えない)」「手ぶら移動史観(人移動だけを考え、種子・技術・言語・文化・宗教などの移動をワンセットで考えない)」「中国・朝鮮文明伝播史観(弥生人征服説などの縄文未開社会史観)」「一方向一段階史観(北方起源説・南方起源説・大陸半島起源説などの還元説)」などの問題があり、この際、分野・学閥などを超えて解明する必要があるのではないでしょうか。 

 

2.モロッコの骨製ナイフと南アフリカ海岸での骨製銛:浮かびあがる海岸ルート拡散

 さらにアフリカの骨製品について検索すると、加工した骨製品がアフリカのモロッコ南アフリカでも見つかっていました。

 ブログ「雑記帳」(劉公嗣さん作成)の2018年10月06日「アフリカ北部の9万年前頃の骨製道具」https://sicambre.at.webry.info/201810/article_9.htmlを要約すると表1のようになります。

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 そして、次のような重要な指摘がなされています。

 

 「近年では、アフリカにおいてヨーロッパの上部旧石器時代よりも古い中期石器時代の骨製道具の報告が蓄積されつつあり、現生人類(Homo sapiens)の起源地たるアフリカにおいて、中期石器時代に『現代的』行動・複雑な認知能力が発達していったことが窺えます」

 「本論文はさらに、こうした新技術を用いて骨製道具が製作されるようになったことと、資源戦略の変化が関連している可能性を指摘しています。9万年前頃にアフリカでは海洋資源の利用が増加したと推測されており、それが新技術の採用と関連しているのではないか、というわけです」

 参考文献:https://doi.org/10.1371/journal.pone.0202021

 

 重要な点は、9万年前頃からのアフリカでの海洋資源の利用と骨製道具の加工にみられる知能の向上が同時に起こっていることと、「縄文ノート89 1段階進化説から3段階進化説へ」で書いたように、「700~600万年前頃から80万年前頃までの長い期間に人類はサルから3段階の進化を遂げ、80~60万年前ころに2つに分かれ、第1のグループは病虫害を避けて熱帯雨林から高地湖水地方、さらにはサバンナ、ナイル川下流から地中海東岸沿いに拡散し、第2のグループはアフリカの大西洋海岸沿いを地中 海へと移動した」という人類拡散ルートに加え、第3のグループはアフリカの大西洋海岸沿いを南下して東海岸へと移動した可能性があることです。 

 

3.人類は槍だけ持って移動したか?

 人類進化のイラスト図などを見ると、縄文人は石器と石先槍で進化し、その槍を持って草食動物を追ってサバンナから世界に拡散したかのような錯覚を受けますが、大きな間違いと言わなければなりません。―「縄文ノート87 人類進化図の5つの間違い」参照

 アフリカの熱帯雨林で育んだ言語と生産・生活文化と宗教心を持ち、ヒョウタンや竹筒には水や穀類の種子、種イモを入れて運んだ可能性が高いと私は考えます。また下記のように、弓矢や黒曜石を持ってアフリカをでた可能性も高いと考えます。―「縄文ノート65 旧石器人のルーツ」参照

 

 最古の弓矢が6.4万年頃の南アフリカのシブドゥ洞窟で発見され、アジアではスリランカファ・ヒエン・レナ熱帯雨林洞窟で4.8万年前頃の鏃が発見されていることからみて、日本列島の旧石器人もまた4万年前頃からの黒曜石時代には弓矢を利用していた可能性が高いと考えます。スリランカはドラヴィダ海人族の拠点ですから、黒曜石利用の旧石器人もドラヴィダ系海人族であり、アフリカ高地湖水地方から黒曜石と弓矢を持って南インドスリランカアンダマン諸島を経て4~5万年前に日本列島にやってきた可能性は大いにあります。―「縄文ノート62(Ⅴ-6) 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」参照

 長弓の和弓から人類学者の金関丈夫氏は『発掘から推理する』で「射魚用から起こった日本の弓」論を書き、「東南アジアでは現代でも弓矢を使用して漁をする事例が しばしば確認できる(青柳 2011)」(2014.11.1大工原豊:岩宿フォーラム)とされますから、狩猟だけでなく、銛(もり)漁・簎(やす)漁から弓矢漁への転換があったと考えられます。

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 なお、3万年前頃の沖縄県南城市のサキタリ洞窟から、2.3万年前頃の世界最古の釣り針2本(巻貝製)が発掘されていることからみて、これまで縄文時代と考えていた釣漁・網漁・籠漁・壺漁などのうち、釣漁は後期旧石器時代に遡ることが明らかです。

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 旧石器時代は「石器の種類の豊富化とレベルアップ」で前期・中期・後期と区分されていますが、弓矢の発明や初期農耕の開始という道具革命・産業革命があったと考えます。石器の種類や形は結果であって、それを生み出した人間活動・社会で時代区分すべきです。「モノ分析こそが科学」というような「タダモノ史観」で人や社会を区分すべきではないと考えます。銛(簎)で魚を突いていた旧石器人が弓矢で魚を獲ることを思いつかないことなどありえないと私は考えます。―「縄文ノート65 旧石器人のルーツ」参照

 

 「はじめ人間ギャートルズ」のアニメと「なんにもない なんにもない まったくなんにもない・・・なんにもない 草原に かすかにやつらの足音がきこえた 地平線のかなたより マンモスのにおいとともに やつらがやってきた やってきた」(作詞:園山俊二、作曲:かまやつひとり)の歌のイメージのままで「マンモスハンター・旧石器人」のイメージを追い続けるのでしょうか?

 

 

4.これまでの私の主張

 繰り返しになりますが、これまでの私の主張の主なポイントをまとめておきたいと思います。本ブログを読んで来られた方はスルーして下さい。

4-1 人類誕生の地と拡散ルート

⑴ 縄文ノート5 「人類の旅」と「縄文農耕」、「3大穀物単一起源説」

 2014年5月に「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構―海洋交易民族史観から見た鉄器稲作革命」(『季刊日本主義』2014夏に掲載)を書いたとき、12000~5000年前の鳥浜遺跡から見つかったヒョウタンの種がアフリカ西海岸のニジェール川流域が原産地であることを知り、土器人(通説は縄文人)がヒョウタンに水を入れ、竹筏に乗って「海の道」をやってきたことを確信しました。

 さらにニジェールに行っていた次女からアフリカに米があることを知り、アフリカのナイジェリアに水田稲作の指導に行っている元鳥取大学名誉教授の若月利之さんからアフリカ稲が陸稲であることなどを教えられ、イネ科の稲や麦などのルーツもまたアフリカではないかと考えるようになりました。

⑵ 縄文ノート28 ドラヴィダ海人・山人族による稲作起源説

 今や「アフリカ単一起源説」が主流となり、「人類の母方は、約16±4万年前のある女性、ミトコンドリアイブを共通の祖先とする」「人類の父方は、約6万年前のある男性、Y染色体アダムを共通の祖先とする」が定説となっています。

 そして、その場所はアフリカ東海岸で20万年前とされてきていましたが、近年、最古の人類の化石はモロッコの30万年前の頭蓋骨とされる発表もあり、私はウィキペディア掲載の図からニジェール川流域から最古の人類化石が見つかるのではないか、と予想しています。

⑶ 縄文ノート89 1段階進化説から3段階進化説

 ホモ・サピエンス旧人類のネアンデルタール人は80年前頃、デニソワ人は60万年前とされ、現生人類の化石はエチオピアのオモ遺跡から発見された20万年前頃のものが最も古いとされてきましたが、2004年にモロッコで発見された化石と石器から30万年前頃が最も古いとされています。・・・

 このように700~600万年前頃から80万年前頃までの長い期間に人類はサルから3段階の進化を遂げ、80~60万年前ころに2つに分かれ、第1のグループは病虫害を避けて熱帯雨林から高地水地方、さらにはサバンナ、ナイル川下流から地中海東岸沿いに拡散し、第2のグループはアフリカの大西洋海岸沿いを地中海へと移動したのです

 

4-2 糖質・魚介食によるサルからヒトへの進化

⑴ 縄文ノート25 「人類の旅」と「縄文農耕」、「3大穀物単一起源説」 (縄文ノート5に加筆修正)

 2019年11月からNHKスペシャルで始まった食の起源の「第1集『ご飯』~健康長寿の敵か?味方か?~」によれば、アフリカの旧石器人の摂取カロリーの5割以上が糖質で主食が肉というのは間違いであり、でんぷんを加熱して食べると固い結晶構造がほどけてブドウ糖になって吸収され、その多くが脳に集まり、脳の神経細胞が増殖を始めるとされています。火を使うでんぷん食に変わったことにより脳は2倍以上に巨大化したというのです。肉食獣の脳が大きいこともなければ、脳の中は筋肉ではないのですから、「肉食進化説」は棄却されるべきでしょう。

 さらに、「第3集『脂』~発見!人類を救う“命のアブラ”~」ではオメガ3肪酸(青魚・クルミ・豆類など)が脳の神経細胞ニューロン)を形作り、樹状突起同士をシナプスニューロン間の接合部)で結び付け、高度な神経情報回路を生み出すのを促したとされています。

 猿から人間への頭脳の深化には魚食と穀類の組み合わせが有効であったのであり、海岸・河川地域での魚介類やイモ・イネ科穀類・ドングリ類の摂取こそが人類を猿から進歩させたのです。

⑵ 縄文ノート81 おっぱいからの森林農耕論

 青魚やナマズなど、さらには母乳に多く含まれるオメガ3脂肪酸のDHA(ドコサヘキサエン酸)は脳、網膜、神経、心臓、精子に多く含まれ、「発達期の赤ちゃんに欠かせないDHA」「子供にDHAサプリ」などという製薬会社の宣伝の片棒を担ぐつもりはありませんが、DHAには「脳神経を活性化し、記憶力の向上などの効果がある」「学習機能向上作用(記憶改善、健脳作用)がある」とされています。

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 サルから人間への進化において、糖質食とともに魚介食が果たした役割も大きいと考えられ、西アフリカや東アフリカ湖水地方での「イモ・豆・穀類・魚介食」の研究が求められます。

 縄文人に多いY染色体D型と分岐したE型がニジェール川流域のイボ人などに多く、若狭の鳥浜遺跡や三内丸山遺跡で見つかったヒョウタンの原産地がニジェール川流域であることからみて、この地域で糖質・魚介食によりサルからヒトになった可能性が高いと考えます。

⑶ 縄文ノート84 戦争文明か和平文明か

 そもそも、熱帯雨林の樹上で果物を中心に食べていた大型類人猿がそれに代わるだけの糖質を地上で確保するとしたら、イモ類を棒で掘って確保した可能性が高く、火事が起こった機会に匂いにつられて穀類を食べるようになったと考えられます。

 また『アフリカを歩く』(加納隆至・黒田末寿・橋本千絵編著)によれば、コンゴ(ザイール)の人たちはティラピアナマズ・ウナギ・ナイルパーチ・小魚・カニ・エビ・オタマジャクシ・カエル・ヘビ・ミズオオトカゲ・カメ・スッポン・ワニなどを食べており(安里龍氏によれば最も美味なのはミズオオトカゲ)、一般的な漁法は女性や子どもたちが日常的に行う「プハンセ(掻い出し漁:日本では田や池の水を抜く「かいぼり」)」(武田淳氏)で、他にも多種多様な漁法で魚をとっているというのです。・・・

 ヒトの脳の神経細胞は1000億個以上で成人でも乳児でも同じで、神経細胞を繋ぐシナプスの数は生後1~3年前後まで増加し不要なものは削除されて減少し、脳の重さは新生児の約400g、生後12か月で約800g、生後3年で約1000g、成人で1200~1500gとされています。―「脳科学メディアhttps://japan-brain-science.com/archives/1553」参照

 妊娠中に母ザルが神経細胞シナプスをつくる糖質と魚介類をたっぷり食べ、1~3歳の乳幼児期に糖質とDHAたっぷりのおっぱいを飲み、安定した豊かな自由時間(狩猟採取民の労働時間は1日2~4時間:前掲の山極氏)の母親や子育てメスグループ、子どもとの会話により脳は1~3歳の乳幼児期に急速に発達したことが明らかであり、サルからヒトへの進化は、この乳幼児期の濃密なコミュニケーションにあったのです。

⑷ 縄文ノート85 「二足歩行」を始めたのはオスかメス・子ザルか

 熱帯雨林の小川や沼、海に浸かって毎日のように顔だけ水上に出して立って足で何時間も泥や砂の中の獲物を探していたサルのメスや子たちは、浮力によって長時間直立することは容易であり、オスが草原で獲物を追うよりもはるかに早い段階で二足歩行を定着させた可能性が高いと考えます。

 また、流れを倒木などでせき止め、あるいは水流を弱めて「プハンセ(掻い出し漁)」を行う場合には、木を手で運んだり、棒で獲物を追い込んだり叩いたりする必要があり、二足で立って手で棒を使う機会は格段に増えます。棒を使っての根菜類の穴掘りもまた二足歩行を促しました。」

 「黒田末寿氏は『人類の進化と起源』において、「採食技術としての道具使用は雌の方が上手でかつ長時間行う。これらは採集滑動に相応し、採集仮説で強調される女による採集活動での道具使用の発達の根拠はここにある」と書いています。・・・

 木の上に逃げられる安全な熱帯雨林の小川や沼、海辺で、毎日、数時間の採集活動を行い、雨季には水中に立って獲物を捜すなかで、棒を使って小動物などを仕留めたり、穴を掘ってイモや幼虫などを獲るために棒を使うようになり、二足歩行と道具使用、手機能向上が同時にできるようになった可能性が高いと考えます。

 

4-3 日本列島人のルーツ

⑴ 縄文ノート62 日本列島人のルーツは『アフリカ高地湖水地方

 イシャンゴ文明が石臼・粉砕用石器とともに多くの骨製の銛と魚骨を伴い、漁業が主要な生業であったとされ、さらにサハラ砂漠の南(ニジェール川流域であろう)、ナイル川中流域にも類似の文化があり、近縁関係にあるとされていることです。

 穀類を挽いた石臼を伴う穀類・魚介食文化となると縄文文明と同じであり、さらに東南アジアやアンデス文明とも類似しています

 人の体重の2%の脳が消費カロリーの約20%を使っているとされることからみても、脳の神経細胞の活動には糖質(デンプン)が必要であり、イシャンゴ文明に石臼があるということは文明のルーツとして極めて重要と考えます。

⑵ 縄文ノート43 DNA分析からの日本列島人起源論

① 以上、16000年前頃からのY染色体Ⅾ系統の縄文人のルーツに焦点を当てて分析してきましたが、その前の旧石器時代は約3.5万年前に始まっており、国内最古の約3.2万年前の那覇市の山下洞人、約3.0万年前のガンガラーの谷のサキタリ洞遺跡幼児人骨、近くの港川フィッシャー遺跡の2.0~2.2万年前の人骨、約2.0万年前の石垣島白保竿根田原洞穴遺跡の数体の全身骨格などが次々と見つかっており、北海道・東北では2万年前頃からシベリア・サハリン系の細石刃文化が広がっています。この南北の旧石器人のルーツはどこに位置付けられるのでしょうか? 

② 前述のように「ドラヴィダ系山人族」はチベット高原から草原が広がるシベリアへ向かい、バイカル湖畔に定住してブリヤード人となっており、さらに東進して2万年前頃に北海道に到達した可能性が高いと考えます。

  一方、3.2~2.0万年前頃の沖縄の旧石器人は、現在の沖縄人に見られるミトコンドリアDNAのB4型、Y染色体O2b系からみて南インドシナ系の海人族と考えられ、さらにドラヴィダ系山人・海人族(ミトコンドリアDNAM7a型、Y染色体Ⅾ系統)がスンダランド水没とともに日本列島に大挙おしよせ、対馬暖流を利用して琉球から日本列島本土へ移住し、活発に交流・交易を進めて「主―動詞-目的語」構造の単一の言語・文化を形成したと考えられます

⑶ 縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと

 2019年5月30日のテレ朝ニュースによれば、西アフリカのギニアの野生のチンパンジーが水たまりの沢ガニを日常的に食べている映像を松沢哲郎京大教授らが公表し、「400万年以上前の森で暮らしていた初期の人類が、すでに水生動物を食料源として食べ始めていた可能性がある」としています。これはニホンザルが貝やカニを食べることを知っている日本人ならではの画期的な発見です。「腹ペコザル進化説」だけでなく、「グルメザル進化説」を考えてみる必要がありそうです。・・・

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 ニジェール川の源流域であるギニア高地にはカニを食べるチンパンジーが生息しており、中流は砂 漠・ステップ(サバンナ)地帯、下流には熱帯雨林があります。下流のナイジェリアの人口は約2億人でアフリカ最大、世界第7位で、石油を産しアフリカ最大の経済大国です。「母なる大河ニジェール川」と言えるように思います。

 この地に住むY染色体Eグループコンゴイド人種(ニジェール・コンゴ語族やナイル・サハラ語族)から日本人に一番多いY染色体Dグループは分かれたのであり、ナイジェリアには残されたDグループのDNAを持つ人が3例見つかっています

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 私たち日本人の故郷がこのニジェール川流域であることは動かしがたいと考えます。・・・

 今、現代文明が大きな転換点を迎えつつある現在、人類のルーツに立ち返る必要があると探求を重ねてきましたが、縄文文明の「第1のふるさと・ニジェール川流域」、「第2のふるさと・アフリカ高地湖水地方のおおまかな姿を明らかにすることができました。

 

4-4 日本の旧石器人(黒曜石人)と縄文人(土器人)

⑴ 縄文ノート65 旧石器人のルーツ

 これらの旧石器時代の遺跡は沖縄から岩手県まで広い範囲に見られますが、①~④の12~5万年前頃の中期旧石器と、3.6万年前頃からの黒曜石と人骨の⑤~⑬の後期旧石器の人々は連続しているのか、それとも異なるのか、という悩ましい問題があります。さらに、この黒曜石人(後期旧石器人)と15000年前頃からの土器鍋人(縄文人)とが連続しているのかどうか、も重要な論点です。

 鋭い貫通力・切断力がある一方、すぐに欠ける黒曜石は斧や農機具などには使えず、その利用は槍の穂先や弓矢の鏃、肉や魚料理の調理器具、革や布を切るナイフなどに利用されたと考えられます。そして、小動物や魚を投槍で仕留める非効率な追跡猟ではなく、弓矢による効率的な待ち受け猟はイモ類や雑穀などの耕作に伴う鳥獣害対策ではないか、と私は考え、黒曜石の鏃と縄文農耕をセットで考えてきましたが、さらに旧石器時代に遡って考える必要がでてきました。―「縄文ノート27 縄文の『塩の道』『黒曜石産業』考」参照

 最古の弓矢が6.4万年頃の南アフリカのシブドゥ洞窟で発見され、アジアではスリランカのファ・ヒエン・レナ熱帯雨林洞窟で4.8万年前頃の鏃が発見されていることからみて、日本列島の旧石器人もまた4~3万年前頃からの黒曜石時代には弓矢を利用していた可能性が高いと考えます。スリランカはドラヴィダ海人族の拠点ですから、黒曜石利用の旧石器人もドラヴィダ系海人族であり、アフリカ高地湖水地方から黒曜石と弓矢を持って南インドスリランカアンダマン諸島を経て4~3万年前に日本列島にやってきた可能性は大いにあります

 

4 豊かな「労働・生活・精神文明」があった

 発掘された物を分析している考古学においては、残存する無機物の「石・土器研究」になるのは仕方ないとも言えますが、「発掘されなかったものはなかった」としてしまうと科学とは言えなくなります。

 そのいい例が「出雲神話」であり、出雲からこれといった出土品がなかった時代には「出雲神話は8世紀の創作」とされ、荒神谷遺跡から日本最大の青銅器が発掘された現在においても、日本の考古学・歴史学にはその反省と方法論・志向方法の見直しが行われているようには思えません(私が知らないだけならいいのですが)。私には旧石器捏造事件よりはるかに重大な「スサノオ大国主建国隠蔽事件」と思うのですが、「知らぬ顔の〇〇〇〇」を決め込んでいるようです。

 その同じような例が「森林文明」の提案で、異分野の哲学者の梅原猛氏と地理学者・環境考古学者の安田喜憲氏によって提起されていますが、「狩猟・戦争が人類を進化させた」としてきた軍国主義的な西洋中心文明の考古学者には森や木の文明などに何の関心もなく、形の残る「石器・金属器武器文明」しか眼中にないようです。

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 現存する世界最古の木造建築・法隆寺を擁しながら、世界に先駆けて「森と木の文明」の研究を進めていないのは実に残念です。

⑴ 木・竹・貝・骨加工用の石器はなかったか?

 石器の分析においても、狩猟や動物解体、皮なめし、木を切る斧や農機具、調理具、神器(石棒)などの分析はなされていますが、木工や竹細工、貝細工、骨細工用の工作用石器の分析・展示は見たことがありません(不勉強なだけかもしれませんが)。

 沖縄の「ガンガラーの谷」の3万年前頃のサキタリ洞窟遺跡では2.3万年前頃の世界最古の貝製の釣り針が見つかっていますが、貝輪などのアクセサリーもまた工作石器がなくては製作することができないと思いますがそのような石器は目にしたことはありません。6~5千年前の鳥浜貝塚の赤色漆塗りの木製の櫛の製作のためには細かな木工用石器や漆採取用石器、赤色顔料製作の鉱物を粉砕する石臼が必要であったはずであり、縄文土器製作のためには、木や竹のヘラが必要であり、その製作のための石刀もあったはずです。

 縄文時代の竹籠(写真参照)や魏書東夷伝倭人条の「竹箭(ちくせん)或いは鉄鏃或いは骨族」の記述からみても、竹器や骨器づくりのための加工用の石器具があったはずです。縄文の土笛から考えると、その前に竹笛があった可能性があり、竹細工用石器もあった可能性があります。

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 9万年前のコンゴの骨製銛はアフリカに骨器文明があった可能性を示しており、それは木槍の先に取り付けたものでしょうから、先行して木器文明とそれらを加工するための精巧な工作石器文明がセットであったとみるべきです。

 ロシア・アルタイ山脈のデニソワ洞窟の5万年前にデニソワ人(ネアンデルタール人ホモサピエンスと数万年もの間共存していた)によって作られた最古の鳥の骨製の針を削り、穴を開ける工作石器もまたあったはずです。

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 狩猟・殺人用武器としての石器の分析ではなく、耕作・採集・調理・縫製・なめし・塗装・楽器・祭祀などのための石器・木器・竹器・貝器・骨器などの総合的・全体的な加工・製造を含めた総合的・全体的な文化・文明論への転換が必要と考えます。

⑵ 弓矢・鏃のルーツはアフリカ

 日本最古の6600~6300年前頃の木の弓は若狭湾の鳥浜遺跡で見つかっていますが、黒曜石の鏃は3~2万年前に遡ることから考えて、日本列島における弓矢使用もまた4~3万年前に遡ると考えるべきではないでしょうか。

 弓の発見年代ではなく、鏃の発見年代でみると「最古の弓矢が6.4万年頃の南アフリカのシブドゥ洞窟で発見され、アジアではスリランカのファ・ヒエン・レナ熱帯雨林洞窟で4.8万年前頃の鏃が発見されていることからみて、日本列島の旧石器人もまた4~3万年前頃からの黒曜石時代には弓矢を利用していた可能性が高いと考えます」(縄文ノート65 旧石器人のルーツ)という判断になりませんか?

 前述のように魏書東夷伝倭人条で「兵は矛楯木弓を用う」「竹箭(ちくせん)或いは鉄鏃或いは骨族」「竹に篠簳(じょうかん)桃支あり」と書かれていることからみても、「木と竹と骨」を組み合わせたワンセットの技術・文化が成立していたことは明らかであり、そのルーツは9万年前頃のコンゴの骨器文明、6.4万年前頃のアフリカの弓矢文明に遡る可能性があるのです。

 「呉音漢語・漢音漢語大好き」「海は怖い、舟は嫌い」な、日本の歴史・考古学者たちの多くは「文化・文明は弥生人(中国人・朝鮮人)が持ってきた」「縄文時代は野蛮・未開の前文明社会」という思い込みに支配されているように思えてなりませんが、表2のように「石・土・木・竹・骨・貝・弓・矢・鏃」の全ては呉音漢語・漢音漢語ではなく、独自の倭音倭語なのです。また大野晋氏の『日本語とタミル語』によれば、「朝鮮語と日本語との比較を試み、約二百語の対応語らしいものを得たが、それは精々多く集めてみてこれが限度」ということであり、倭音倭語は別の系統の言語なのです。

 

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 アフリカから日本列島への移動のどこかに「主語-目的語-動詞」言語構造の倭音倭語と類似した言語があるはずであり、アフリカから日本人のルーツを考え、縄文文明を見直すべきでしょう。 

⑶ 「狩猟・殺人武器史観」から「生活・精神文明史観」へ

 文化・文明を石器・鉄器などの武器で分析する西欧文明史観の「狩猟・殺人武器史観」の石器文明ではなく、農耕・調理・縫製や木工・竹工・骨工・貝工・皮工、神具などの加工具としての石器を考え、その文明は「狩猟・殺人の石器文明」ではなく、「農・漁・衣・食・住・装飾・信仰の生活・精神文明」として全体的・総合的に捉えなおす必要があると考えます。

 「だだもの(唯物)」の「石器石頭史観」ではなく、生活・社会・信仰を基本に置いた人類の豊かな産業・生活・社会・文化・文明全体の解明こそ必要なのではないでしょうか? 縄文人の末裔である日本人こそ西欧・中国文明の「狩猟・殺人武器石器史観」から、最初に卒業すべきでしょう。

 そして女王国の歴史を受け、その文化・文明全体を主導したのが女性であったという歴史を全世界に先駆けて解明すべきと考えます。

 前にも書きましたが、さいたま市の私の朝の犬散歩コースの古い農家の屋敷の西北の隅にはお稲荷さんの祠があり、近くのいくつかの古墳の上にもまたお稲荷さんの祠がありますが、この稲荷神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)はスサノオ神大市比売との間に生まれた娘で美和=三輪に祀られた大年神(大物主)の妹なのです。天皇家が仏教を国教とし、徳川幕府が仏教を厚く保護したにも関わらず、未だに女神信仰文化は継承されているのです。―縄文ノート「38 霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰縄文ノート」「98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社」参照

 

□参考資料□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート110 縄文社会研究会・東京の第2回例会

 国際縄文学協会主催の今井一氏の「国民投票」の講演を聞きに行ったのですが、なんと、京大工学部建築学科西山研究室の大先輩の上田篤氏(当時、助教授)の講演が同時に行われたのです。その40年ぶりの偶然の出会いから私が上田さん主宰の縄文社会研究会に参加したのは2013年のことでした。

 年4回の例会ではいろんな分野の方を講師に招いており、スサノオ大国主建国論に取り組んでいた私は「古代国家形成からみた縄文時代―船・武器・稲作・宗教論」「卑弥呼(霊御子)モデルの4人のアマテラス神話」から縄文社会を見るという提案を行いました。

 その後、上田さんがご高齢のために京都と東京に分かれて会を持つことになり、東京では2019年に島薗進上智大教授の講演以来、コロナの影響で翌2020年の尾島山荘での八ヶ岳合宿から長らく活動を休止していましたが、11月18日に例会が開かれました。

 私は「八ヶ岳合宿2020報告(縄文ノート22)」と「信州の女神調査報告(縄文ノート96~102)」「世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群(縄文ノート22)」「吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕論(縄文ノート22)」を提案しましたが、日本中央縄文文明世界遺産登録などで盛り上がりました。

 

1 「文明・文化論」について

 会では「文明(civilization)ではなく文化(culture=農耕)とするか、別の言葉にすべきでは」という重要な意見がでましたが、これは私もずっと悩んできた点でした。

 「civil(市民)」が原語の「civilization(文明)」は、奴隷制社会の上に成り立った軍国主義国の「ギリシア・ローマ型文明」からの定義であり、「氏族・部族社会」に当てはめるには狭すぎる概念です。ギリシア・ローマ奴隷制社会の城郭都市型の西欧文明の「civilization」を使うと、そもそもエジプト・メソポタミア・インダス・中国文明や縄文社会などは「文明」の定義には当てはまりません。

 「cultivate(耕す)」が原語の「culture(農耕)」だとより普遍的な概念になりますが、この場合の「農耕」については、4大文明の沖積平野農耕以外の「焼畑農耕」の「いも・雑穀・トウモロコシ農耕」は省かれてしまいます。また、古代の「文化」というと「宗教」が中心となりますが、ユダヤ教化したキリスト教の西欧中心史観は「一神教=文明段階」「多神教=野蛮・未開社会」という位置づけになってしまいます。「世界と人を作った絶対神」と「死ねば誰もが神となる八百万神」とは「神」の概念がそもそも違いますから、「文化=宗教」の時代については議論がかみ合いません。

 「縄文ノート48 縄文からの『日本列島文明論』」では、西欧中心史観の文明論を批判する梅原猛梅棹忠夫安田喜憲氏らの森林文明・遊牧民文明・生命文明・海洋文明などの産業や生活をベースにした「文明論」を紹介するともに、次のような提案を行いましたが、まだ「文明」用語を使っていました。

 

 「このような外発的発展説に対し、私は海洋交易民である縄文人は「石器―土器―鉄器」時代の内発的発展をとげたと考えており、「イモ豆栗6穀」の縄文農耕と土鍋食文化の延長上にスサノオ大国主一族の鉄器水利水田稲作の普及による建国があり、記紀に書かれたスサノオ大国主建国神話を真実として考えています。

 この内発的発展史観においては、森と多雨の自然と調和した「イモ豆栗6穀農業」と健康長寿の土器鍋食文化、妻問夫招婚・歌垣の母系制社会、霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教に基づく海神・水神・地神・山神・木神・天神・神籬(霊洩木:ひもろぎ)・神那霊山(神名火山:かんなびやま)信仰、天と海・川・地・山を結ぶ神使の蛇(龍蛇)神・雷神・鳥・狼・鹿崇拝、巨木楼観建築や環状墓地などは、精神的・物質的な豊かな独自の『部族共同体文明』であり、自然と世界を支配しようとした西欧型文明の行き詰まりに対し、東アジア文明としてその役割を果たすべきと考えます」

 

 今後、世界遺産登録に向けては英語で表記が必要であり、「civilization」「culture」の概念を拡張して提案するか、「縄文文化・文明」に合った新しい英単語を見つけるか造る必要があると考えています。

 学生時代に羽仁五郎氏の『都市の論理』を読み、ハードな「都市計画」ではなく、「都市」での個の確立、市民社会の成立と市民革命を知り、「都市計画=都市づくり=市民社会づくり」でなければならないと考えましたが、西欧のアフリカ・アジア・アメリカ侵略と帝国主義支配、奴隷制社会形成、部族社会の軍閥による抵抗・支配が未だに根強いアジア・アフリカ地域の政治体制や内戦・戦争を考えると、「civilization」という白人の血で汚れた文明概念で世界の未来社会を考えるわけにいかないようにも思います。

 霊(ひ:現代語に言い換えるとDNA)信仰を中心に置いた「ひと(霊人=人)」の「霊継(ひつぎ)」の宗教文化を中心に置いた文化・文明概念を示す新しい世界語を考える必要があると思いますが、考えてみませんか。言語学の得意な会員の参加を期待したいところです。

 

2 「生贄論」について

 「生贄論」の鋭い提案がありましたが、私は3つに分けて考える必要があると考えます。

 第1は、「縄文ノート71 古代奴隷制社会論」「縄文ノート84 戦争文明か和平文明か」で書いた「狩猟・戦争・奴隷文明」の「奴隷生贄」論です。「ギリシアローマ帝国文明史観」やマルクス・エンゲルスの「原始共同体→奴隷制社会」説からの「ヨーロッパ農耕民による狩猟採集民の征服」説や、それをそのまま輸入した「弥生人による縄文人征服」説という「征服史観」がまだまだ横行していますが、日本列島においては「氏族社会から部族社会、封建社会」への移行は内発的発展であり、スサノオ大国主の八百万神信仰による百余国の建国は奴隷制社会への移行ではありません。

 第2は、氏族・部族社会における共同体のための自己犠牲の「殉死」「人身御供」「特攻攻撃」などです。北欧などの「湿地遺体」や魏書東夷伝倭人条の「持衰(じさい)」、日本の「即身仏」「特攻隊」などは氏族・部族共同社会思想の犠牲死であり、奴隷殺害の「生贄」とは区別する必要があると考えます。

 第3は、ピラミッドの上で生贄を殺すアステカ文明ユダヤ教キリスト教イスラム教などの絶対神(を代弁する司祭者)の命令による殺戮と「自爆攻撃」です。この「宗教的生贄」に入るように

 「霊(ひ)信仰」のもとで「霊継(ひつぎ)」を一番の価値に置く縄文社会や、その延長にある八百万神信仰の1~2世紀のスサノオ大国主の建国においても生贄はなかったと私は考えますが、卑弥呼(霊御子=霊巫女)の邪馬壹国における「殉葬奴婢百余人」が部族社会の「殉死」なのか「奴隷生贄」なのか、どのような社会的変化があったのか、さらに整理が必要と考えます。

 

3 中ツ原遺跡8本柱と御柱祭

 「5000年前頃の中ツ原遺跡の8本の巨木痕と記録上は1500年前からの御柱祭との関係について不明」という意見がありました(補聴器が壊れていて発言を聞き取れておらず、いただいたレジュメからのまとめです)。

 中ツ原遺跡の8本巨木柱の建物や6700~6450年前の阿久尻遺跡の19の方形列柱建物については、女神山として今も信仰されている蓼科山を向いていることから神名火山(神那霊山)信仰の楼観拝殿(神殿)として私は考えており、宗教思想と巨木建築思想・技術の両方において縄文宗教とスサノオ大国主一族の建御名方の宗教は繋がっており、各氏族・部族(部落)が巨木を持ち寄って柱を建てるという共同の祭りとして「御柱祭」に引き継がれたと考えています。―縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「40 信州の神那霊山(神名火山)と『霊(ひ)』信仰」「44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」「104 日本最古の祭祀施設」「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列」参照

 

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 「縄文人自然宗教=野蛮・未開社会」「西欧人=絶対神信仰=文明社会」という西欧中心史観から離れ、「縄文人=霊(ひ)信仰の霊継(ひつぎ)宗教=DNA継承の命の宗教」として、縄文時代から現代社会への連続性を誇るべきと考えます。

 写真は上田市生島足島神社御柱信仰の神棚に飾る神具で、「日本中央 式内大社 生島足島神社」と称しています。青森県東北町の「日本中央」の平安時代伝承の石碑と「日本中央」が重なるので気になって購入しました。私が長野・新潟・群馬・山梨の縄文遺産について「日本中央縄文文明」と称しているのは「中部高地地方」とするか迷いながら、この生島足島神社の「日本中央」によっています。縄文社会が「中央集権的」イメージを持たれるのは望むところではありませんので、さらに議論いただければと考えます。

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 なお「生島」は古事記のイヤナミの国生み神話の最後に書かれた表現であり、「足島」は「満ち足りた島」ですから、国土創生神話に由来する名前の神社になります。

 

4 「正味亭尾和」へ

 散会後、長野県人の2人に連れられ、新橋駅前ビル1号館2階の「正味亭尾和」で一杯やりましたが、オーナーの上田市出身の「尾和正登」さんは、私のこの日の報告に書いた諏訪の「大和(おわ)」と関係していたのです。

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 かなりのへそ曲がりの私は、小学校で「大和」「飛鳥」を「やまと」「あすか」と読むと習って「嘘だろう」と教師の言うことを信じませんでしたが、古事記を読むようになって「大和」はもともとは「倭(わ)→大倭(おおわ)→美和(みわ)→三輪」であり、古事記に登場する山幸彦(山人)・海幸彦(隼人)兄弟のうちの山人(やまと)族が三輪の大物氏の権力を奪って「大和」を「やまと」と呼ばせるようになったと考えています。―『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』等参照

 同じように、「あすか」は「あ須賀」でもともとは「かすが(か須賀=春日)」であり須賀=素鵞=蘇我一族の拠点と考えます。琉球弁が「あいういう」3母音5音であることからみて、「す=そ」で「須賀=蘇我」であり、接頭詞の「あ」は「あっち、こっち」、「か」は「かなた、こなた」など方角を指してると考えます。

 大和(だいわ)書房代表の大和岩雄さんの本は読んだことがありましたが、名字の「大和」は「だいわ」と読むものとばかり思っていたのですが、なんと諏訪の建御名方伝説の「尾掛松」を探していると「大和(おわ)」の地名があったのです。―「縄文ノート100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」参照

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 この地には奈良の「大和(おおわ)」から大国主の御子の建御名方が移住し、「大和(おおわ→おわ)」地名ができ、そこから「大和・尾和」名字が生まれたと考えます。

 東京へ出かける機会は減りましたが、「正味亭尾和」、また飲みに行きたい店です。昔、秋田で食べて気に入った「みず」をかけた冷ややっこと奄美黒糖焼酎「龍宮」はお勧めです。

 私は「龍宮=琉球」であり、琉球の始祖「アマミキヨ(海美聖)」をルーツとする海(あま=海女=海人・海部=海士)族は「奄美→天海→天草・甘木(天城:高天原邪馬台国)→天ケ原(壱岐)・天下原(加古川市)」と北上したと考えており、記紀に書かれた薩摩半島西南端の笠沙の阿多を拠点とした山人(やまと:山幸彦)族の3代目のワカミケヌ(若御沼毛:8世紀に神武天皇諡号)の祖母と母は龍宮=琉球の姉妹なのです。

 初代大和天皇家の母方のルーツであり、戦後に昭和天皇マッカーサーに差し出した「龍宮=琉球」の歴史と現状・将来に思いをはせながら、味わっていただければと思います。「大和・尾和」つながりの不思議な縁という以外にありません。

 

□参考資料□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑

 私は小学校までは岡山、中高は姫路で育ちましたが「そば」を食べた記憶がなく、大学の京都、その後の奈良・大阪でもほとんど食べることはなく、埼玉に引っ越してから少しずつソバを食べるようになり、ソバを主に食べるようになったのはかなりたってからです。

 ただ基本的にはうどん好きであり、それも昆布の出汁を飲む関西風の出汁が染みやすい、柔らかいうどんが大好きです。コシのある讃岐うどんは仕事で香川県に通うようになって食べ始めて小麦のおいしさを感じるようになったのですが、関東の鰹節ベースの出汁やつけ汁のうどんは今でも好きではありません。

 「三つ子の魂」で子どもの頃に覚えた味は忘れられないもので、「そば好き」の食文化もまた同じように持続されると考えます。「そばは救荒食」などと位置づけるべきではなく、縄文時代から「そば好き文化」があったと考えるべきでしょう。

 NHKの「新日本風土記 蕎麦」が9月に再放送され、やっと録画を見ましたので、さらに「縄文そば農耕とそば食文化」について考察したいと思います。

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1.世界そば博覧会で

 私にソバ体験で印象に残っているのは、大阪市から狭山市に越して黒いつゆの駅そばにびっくりしたことや「そばがき」を初めて食べたこと、フランスに詳しいコンサルから「フランスではクレープはソバを使う」と聞いたこと、熊本県五木村で太くて短いそばにびっくりしたこと、信州の仕事先で十割そばを食べたことや家族旅行でソバ打ちを体験したこと、山形のそば街道や隠れ蕎麦屋の里しらたか、さいたま市に越してから「そばもち」をたべたこと、そしてなんといっても1992年に富山県利賀村の「世界そば博覧会」に行き、15か国のソバ料理を知りロシアのそばがゆなどソバ食の豊かさを感じたことは大きな体験でした。なお、夜には鈴木忠志さんの早稲田小劇場のSCOT(Suzuki Company Of Toga)の公演があり、人口600人の利賀村は村おこしで有名でした。

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 縄文人はソバを食べたのだろうか、「そばがゆ」「そばがき」「そばもち」「そばおやき」「そば流し焼き(和製クレープ)」「そばお好み焼き」「そばすいとん」などどのように料理したのであろうかか、当時を思い出しながらあらためて考えてみたいと思います。

 

2.ソバについて書いてきたこと

 ソバについては、これまで栽培が縄文時代に遡り、そのルーツが縄文人Y染色体D型のルーツと重なることなどを明らかにしてきました。

 

⑴ 縄文ノート21 2019八ヶ岳縄文遺跡見学メモ

・石包丁や石鍬、磨り臼・磨り石を合わせて考えると、この地では4~5000年前頃に「粟(西+米)」「稗(禾(ワ:稲)+甶(頭蓋骨)+寸(手))」「黍(禾:稲)+人+水)」「麦(麥=來(来)+夂(足))」などのイネ科穀物やソバ(タデ科)の栽培が行われており、縄文農耕が確立していた可能性が高いと考えます。

・「阿波・安房」「比叡・日枝」「吉備」「牟岐・妻木・野麦」などの地名が各地にあり、信州はソバの名産地であるにも関わらず、縄文農耕や縄文食の分析・展示が弱いのは残念です。「縄文クッキー」などよりも、縄文土器鍋の底にこびりついた「おこげ」の再現実験により、イモや穀類などの煮炊きの土器鍋食にこそ焦点を当てるべきと考えます

・米・粟・稗・黍・麦・ソバなどの縄文6穀農耕と縄文土器鍋による煮炊き料理について確信を持てたこと

 

⑵ 縄文ノート27 縄文の「塩の道」「黒曜石産業」考 

2.縄文人はなぜ「縄文中期」に内陸部へ移住したか?

 <仮説>

④ 焼畑農耕説(雪の比較的少ない地域での栗・ドングリや秋ソバや冬小麦は冬から春の食料確保を可能にした可能性)

 

⑶ 縄文ノート29 「吹きこぼれ」と「おこげ」からの縄文農耕論   

・「吹きこぼれしない縄文土器鍋」で縄文人は何を煮炊きしていたのでしょうか? 私の料理経験など限られますが、ソーメンやうどん、ソバ、里芋、大豆をゆでた時に吹きこぼれを経験しており、麺に付いた小麦粉や溶けだしたデンプンが汁に粘り気を与え、泡ができて吹きこぼれるようです。

  縄文人が食べていたと考えれられる次のような炭水化物(糖質(糖+デンプン)+食物繊維)のうち、炭水化物の多い穀類が吹きこぼれの主な原因と考えれられます。

 

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・分析していない他のC3植物(イネ、オオムギ、ソバ、ダイズ・リョクトウ等)の可能性が残されます。

ブータン二条大麦六条大麦の野生種が発見されていることやタロイモサトイモ)の原産地がインド・スリランカミャンマー、ソバの原産地が雲南省北部、リョクトウの原産地がインドであることなどから考えると、ドラヴィダ系海人・山人族により、「熱帯・温帯ジャポニカ(特に赤米・もち米)、オオムギ、ソバ、タロイモ」はワンセットで縄文時代に日本に伝来した可能性が高いと考えます。

 

⑷ 縄文ノート32) 縄文の「女神信仰」考

「イモ・豆・栗・縄文6穀(米・粟・稗・黍・麦・ソバ)農耕」は「鉄器水利水田稲作」へのスムーズな展開を容易にし、「縄文土器鍋による煮炊蒸し料理」は健康で豊かな、安定した食生活を実現し、現代の「和食の世界遺産登録」に繋がっています。

 

⑸ 縄文ノート32 縄文の「女神信仰」考

 文化・文明は中国・朝鮮からもたらされた、という「和魂を忘れた漢才」の拝外主義的歴史観は未だに根強いことを思い知らされます。「曽畑」という地名から「蕎麦田」を思い浮かべてソバの花粉が縄文時代の地層にないか調べるなど、視野を広げた研究を望みたいところです。

 

⑹ 縄文ノート83 縄文研究の7つの壁―外発的発展か内発的発展

蕎麦(そば)」は「蕎+麦」であり、「蕎(和音:そば、呉音:キョウ・ギョウ、漢音:キョウ)」は「サ+夭(人の走る姿)+高」ですから、「高地人の草の麦」というような意味になり、森を切り開いた山人族の焼畑農耕を示しています。

 

⑺ 縄文ノート96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡

地母神信仰は冬に植物が枯れて大地に帰り、春に芽吹いてくることから生まれたと考えられ、子どもを産むとともに、採集から芋豆6穀(特にソバ)の焼畑農耕(畑=火+田)を開始した女性による信仰と考えれられます。

・「蓼科」の名称については、「品(しな、ひん)」「品野(しなの)」の地名や「ヒジン様」から「たてひな」の可能性があると考えていますが、後に「蓼」字を当てていることは、古くからのソバの産地であったことから「たて」に「蓼」字が当てられた可能性があります。

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 「畑=火+田」の和製漢字からみても、「ソバ」の語源からみても、中国伝来ではなく、もっと古い縄文焼畑によるソバ栽培の可能性が高いと私は考えます。

 なお、ソバの原産地をウィキペディアは「雲南省北部の三江併流地域」としていますが、日本人の41~47%(アイヌ88%)にみられるY染色体D型のドラヴィダ系山人族の居住地、東インドミャンマー高地(チベット人43~52%)と接しており、赤米や「ピー信仰」などとともに、ミャンマー沿岸やアンダマン諸島(73%)のドラヴィダ系海人族とともに日本列島にやってきたと考えています。

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⑻ 縄文ノート98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社

 この祖先霊の「ピー信仰」は日本人に多いY染色体D型の分布やソバの原産地と重なっており、さらに「pee」信仰は南インドのドラヴィダ族にもみられ、国語学者大野晋氏によれば小正月(1月15日)のカラスに赤米を炊いて与える「ポンガ」の祭りは青森・秋田・茨城・新潟・長野の「ホンガ」「ホンガラ」の祭りに繋がるとともに、屋敷神の石祠を敷地の西北に設ける信仰とも似ています。

 

⑼ 縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ

 東南アジア山岳地帯には千木(氷木)のある建物は多く、日本の神社建築の千木(氷木)のルーツもまた、竪穴式住居からの「内発的発展」である可能性とともに、東南アジアから大破風や棟持柱とともに伝わった可能性も高いと考えます。

 「ピー信仰」が「霊(ひ)信仰」として伝わっていることやイモ食・もち食文化、ソバや温帯ジャポニカのルーツなどからみて、建築・住まい関係の言語の調査が求められます。

 

⑽ 縄文ノート108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説

② 土器圧痕調査

 日本中央高地など縄文土器について、籾・大豆・小豆・ソバの実などの穀物痕や豆痕の顕微鏡観察・シリコンレプリカ法などによる調査が行われていないようであれば、悉皆的な調査が求められます。

③ 焼畑調査

 縄文集落や阿久・阿久尻祭祀施設周辺などの焼畑の可能性のある地形場所を選び、ハンドオーガー(手動土壌採取器)で土壌を採掘して炭片層の有無を調べる調査が求められます。ハンドオーガーを役所や測量会社などで借りるか買っても数万円であり、市民グループでも調査可能です。

④ 花粉調査

 焼畑調査の土壌ボーリング調査をもとに、焼畑調査・プラントオパール調査と合わせて、イネ属やソバ、イモ類などの花粉調査が求められます。諏訪湖湖底堆積物の花粉化石調査は行われていますが、ピンポイントの調査が求められます。

 

3.縄文時代に遡る焼畑ソバ栽培

 ウィキペディアは「ソバの日本への伝来は縄文時代まで遡るとされワシントン大学の塚田松雄教授によると、島根県飯石郡頓原町(筆者注:現飯南町)から一万年前の蕎麦の花粉が発見され、高知県高岡郡佐川町では九千三百年前、更に北海道でも五千年前の花粉が出ているとある」としています。

 文献では続日本紀に722年に発せられた詔に「今夏無雨苗稼不登・・・種樹晩禾蕎麦及大小麦」(この夏雨がなく苗が伸びす・・・晩稲・蕎麦・大麦小麦の種を植えよ)と書かれており、広く蕎麦が栽培されていたことを示しています。

 2021年9月2日の再放送のNHK BSプレミアム「新日本風土記 蕎麦」(2016年放送)では、9300年前のソバ属の花粉を春野中教諭の野川寿子さんが高知県佐川町で見つけ、土中の炭から焼畑の可能性があったことを紹介していました。

 

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 そして、焼畑においてソバはもっとも栽培が容易であり、井上直人信州大教授によれば、ソバは根からシュウ酸を出して酸性土壌を中和し、アルミなどの毒物質を抑えて根が伸びなくなるのを防ぎ、水が少なくても育ち、痩せた土地から僅かな養分を吸収する力があるとしています。「昔はそばが宝物だった」「朝夕の食事やおやつでそばを食べない日はなかった」「そばは75日でとれるから上手くいったら年に2回とれる」「北海道に入植して、木を切って草を刈ったりして火をつけて焼いてそれで焼畑をやった。そういう状態で耕さないでまくのはそばしかできない。そばが頼りの暮らしでした」「会津ではそばは御馳走で、祝いの席では『そば口上』を述べた」など、各地の声を伝えています。

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 ウィキペディアにおいても、「日本列島においては縄文時代中期・後晩期段階での粗放的な縄文農耕が存在したと考えられており[13]、遺跡からは蕎麦、麦、緑豆などの栽培種が発見され、かつては縄文後期に雑穀・根菜型の照葉樹林文化が渡来したという研究者もいる[14]が、近年の成果から縄文前期に遡ると指摘する研究者もいる」として、『縄文時代の考古学三 大地と森の中で―縄文時代の古生態系ー』(小杉康,谷口康浩,西田泰民,水ノ江和同,矢野健一、同成社、2009年)、 佐々木高明『縄文以前』(日本放送協会、1971年)をあげています。

 小畑弘己・真邉彩氏(熊本大・鹿児島大)の『三内丸山遺跡北盛土出土土器の圧痕調査の成果とその意義』によれば、「タデ類の中でミゾソバが検出されているが、これも食料としての利用は可能である。このように土器製作時に紛れ込むほど、三内丸山遺跡の集落内にはこれらの野生・半野生のデンプン質種子類が多量に持ち込まれ、利用されていたことが裏付けられた」とし、「SNM 0001(円筒下層式・縄文前期 後半)・SNM 0003(円筒下層 d1 式・縄文前期 後葉)・SNM 0034(円筒上層式・縄文中期前半)  種子は三角形状、尖頭、1 稜に沿って広い溝 があるが、圧痕は痩果の状態である」としています。

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 また山田悟郎氏(北海道開拓記念館)の『雑穀栽培からみた北海道と大陸』では、「北海道では縄文時代前期末の南茅部町ハマナス野遺跡から出土したー粒のソバが最も古い大陸起源の栽培植物である。その後、後期中葉の忍路土場(おしょろどば)遺跡からソバ属花粉、シソ属、ゴボウが、後期中葉から末葉の苫小牧市柏原5遺跡と千歳市キウス4遺跡、晩期の札幌市N30 遺跡からアサが出土する。

 ソバ属花粉は晩期の奥尻町東風泊遺跡と千歳市ママチ遺跡からも検出され、本州で出土した大陸起源の栽培植物が北海道まで伝播していたことを物語っている」としています。

 これらの研究結果からみて、縄文ソバ栽培の可能性は高いと考えます。

 なお、補足しておきますと、1万年前の蕎麦の花粉が発見されたとされる島根県飯石郡頓原町(筆者注:現飯南町)の南には琴引山があり、「縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」の図17で取り上げたように出雲大社の南方に位置し、出雲国風土記によれば、「琴引山・・・古老の伝えに云へらく、此の山の峰に窟あり。裏に所造天下大神の御琴あり・・・又、石神あり・・・故、琴引山と云ふ」と書かれ、大国主が琴を弾いて神意を聞いていた重要な神名火山(神那霊山)とされており、神在月八百万の神々は「琴引山」を目印に集まり、神戸川を下って日本海へ出て稲佐の浜より上陸したとされています。

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 このような出雲族の聖山・琴引山のある頓原町から日本最古の1万年のソバの花粉が見つかっており、現在も出雲そばが有名であることからみて、ソバ栽培の起源についてはさらなる研究を期待したいところです。

 

4.日本列島そば好きライン

 2019年産のソバ(乾燥子実)の生産量(千t)は44.8で、1位北海道が19.3(43.1%)、次いで長野3.9(8.8%)、栃木2.85(6.4%)、茨城2.77(6.2%)、山形2.18(4.9%)、福島2.12(4.7%)、福井2.01(4.5%)、秋田1.55(3.5%)、岩手1.16(2.6%)、鹿児島0.73(1.6%)と続いています。輸入は玄そば(殻付き)・抜き実合計で61千t(アメリカ47%、中国32%、ロシア14%)で国産をわずかに上回っています。

 蕎麦マニアではないので詳しくはありませんが、名物そばで私が体験しているのは、熊本県五木村や四国の祖谷の太くて短いそば、出雲そば、長野の信州そば・戸隠そば、山形の板そば、岩手のわんこそばなどですが、長野か北海道にかけては縄文ソバの痕跡と現在の産地と符合しています。

 出雲から長野、栃木、山形、秋田・岩手・青森、北海道への「日本列島そば好きライン」が浮かびあがるとともに、さらに鹿児島・四国から連続していた可能性が高いと考えます。

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 ネットで調べただけですが、島根・高知から青森の間は「縄文そば空白ゾーン」のようですが、出雲の荒神谷遺跡と賀茂岩倉遺跡の大量の青銅器の発見のように、「ない」のではなく「発見されていない」だけと考えます。

 「そば=救荒食=米麦の取れない山地の貧しい食べもの」という上方文化のにおいの濃い既成概念を見直し、インド・東南アジア・中国のアジア山岳地帯(照葉樹林帯)の「そば好き文化」の伝播として位置づける必要があると考えます。

 

4 「ソバ」の語源

 これまで「ソバ」の語源について、次のように述べてきました。

 

 「蕎麦(そば)」は「蕎+麦」であり、「蕎(和音:そば、呉音:キョウ・ギョウ、漢音:キョウ)」は「サ+夭(人の走る姿)+高」ですから、「高地人の草の麦」というような意味になり、森を切り開いた山人族の焼畑農耕を示しています。―「縄文ノート83 縄文研究の7つの壁―外発的発展か内発的発展か」参照

 

 この段階では、倭音倭語の「そば」の語源については検討しませんでしたが、『日本語源大辞典』は「実に角があることからソバ(稜)に」「畑の傍(そば)に植えるから」「麦に次いで美味であるから」として、「形から説」「栽培地から説」「味から説」という3つの解釈を行っています。

 倭人が「蕎(呉音:キョウ・ギョウ、漢音:キョウ)」に「麦」字を足して「蕎麦(そば)」と表記するようになったか考えて、3つ目の「味から説」が出てきたと思われますが、それなら「麦のような味であるから」「麦と同じような食べ方をするから」とすべきであり、「麦より味がおちる」という解釈は「うどん好き人」の偏見という以外にありません。

 「そば」を「蕎米・蕎粟・蕎稗・蕎黍」字で表記しなかったのは、「麦と同じ場所で栽培していた」か「麦と一緒に栽培していた」ということから「麦」字を付けたしたと私は考えます。前者は、春そば(4・5~6・7月)・秋そば(7・8~9・11月)」の収穫後に秋まき大麦・小麦を9~11月に植えたからと考えられ、後者は畑を使い分けて両方を栽培した(水利条件や土質など)のどちらかの可能性が考えられます。

 では「そば」音のルーツがどこから生まれたかですが、「米(こめ)・麦(むぎ)・粟(あわ)・稗(ひえ)・黍(きび)・蕎麦(そば)」の全てが倭音倭語と呉音・漢音は一致しないことや朝鮮語由来でもないようであり、6穀の全ては中国・朝鮮半島経由で日本列島にきたという可能性は少ないと考えます。

 

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 「縄文ノート28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」から大野晋氏の『日本語とタミル語』より作成してた表を転記しますが、農業・食物関係の倭音倭語がドラヴィダ(タミル)語起源である可能性が高く、熱帯のドラヴィダ地方に似た語がない「むぎ、ひえ、きび、そば」はドラヴィダ語族が日本列島にやってくる途中に、冷涼な照葉樹林帯のアジア高地からもたらした可能性が高く、少数高地族(山人族)の言語の調査が必要と考えます。

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 「実に角があることからソバ(稜)に」「畑の傍(そば)に植えるから」という、「稜(そば=物の角)」や「傍・側(そば=近く)」字からの当てはめと解釈する江戸時代レベルの俗語解釈で終わるのではなく、人類移動とともに穀類と言葉が同時に伝わった可能性をまず検討すべきと考えます。

 

5 「縄文そば研究空白ゾーン」での取り組みを

 「信濃では月と仏とおらが蕎麦」と言われ、北海道に次ぐ生産地であり、縄文農耕論の発祥の地でありながら「縄文そば研究空白ゾーン」となっているように感じます(ネット情報での判断で専門文献は読んでおらず、誤った判断かもしれませんが)。

 「日本列島そば好きライン」の空白を埋めるよう、「信濃では山と(山人)縄文おらが蕎麦」へと世界遺産登録を視野に入れて縄文そば研究に取り組んでいただきたいものです。

 

□参考資料□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

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  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説

 妻が午後の犬散歩中で近くの小学校の裏手でマテバシイ(ブナ科の常緑高木)の実が大量に落ちているのを見つけたので、翌朝の犬散歩の時に拾いに行き、炒って食べ、冷蔵庫に保管しておきました。

 ウィキペディアは、マテバシイについて「炒って食べるとおいしく食べられる。・・粉状に粉砕してクッキーの生地に混ぜて『縄文時代のクッキー』として味わうこともできる」と紹介しています。

 縄文論・日本列島人起源論・人類誕生論の探求の大きなヤマを越しましたので、「マテバシイ粉を煮て食べられるか?」「マテバシイ粉を炊くと、吹きこぼれができるか?」の実験を行いました。

 というのは、私は縄文土器の縁から盛り上がったデザインの縁飾りについて、これまでの「火焔説」「鶏冠説」などに対し、「吹きこぼれの泡」と泡がはじけて湯気が天に上ることから「龍(トカゲ龍)」信仰のデザインが生まれたと考え、縄文土器で煮炊きして吹きこぼれを生じさせる食材がインド・東南アジア原産地のタロイモサトイモ)や陸稲・ソバなどの穀類であると主張してきており、「ドングリ粉では吹きこぼれはできない」ことを確かめたかったからです。

 「縄文農耕論」の整理とともに、マテバシイの吹きこぼれ再現実験結果を紹介します。

 

1 縄文農耕論の整理

 系統的に文献など読んでおらず、乏しい知識で見落としが多々あると思いますが、これまで書いてきた「縄文農耕論」を整理すると、表1のようになります。

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 主食(炭水化物=糖質+食物繊維)の摂取について「採集=野蛮・未開社会、小麦・米栽培=文明社会」「縄文式土器時代=採集=未開社会、弥生式土器時代=水田農耕=文明社会」という西欧中心史観・弥生人征服史観という2重のフィクションにとらわれた日本の歴史研究においては未だに非科学的な「クリ・ドングリ縄文食論」が幅を利かせていますが、吉田邦夫・西田泰民氏の「縄文土器おこげ分析」と人や米のDNA分析により、完全に破たんしています。

 私はそれらに加えて、「糖質食進化論」「人類食物同時拡散論」「ポンガ食祭論」「鳥獣害対策論」「おこげ・吹きこぼれ論」「縄文製塩論」「縄文分業社会論」「巨木列柱拝殿祭祀論」を追加し、縄文農耕論を補強していますが、石器すり鉢による「ドングリ(マテバシイ)粉」によって吹きこぼれができるか、再現実験で確かめました。

 

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2 マテバシイ採取と試食

 2021年9月1日、近くのさいたま市上小小学校の裏手でマテバシイを採集し、中華鍋で炒るのと電子レンジで温めて食べてみました。栗よりはかなり落ちるものの、栗っぽい味がして食べられ、炒った方が香ばしく食べられました。11月11日に冷蔵庫に保管していた炒ったマテバシイを粉砕機(クラッシャーミル)で粉にして煮てペースト状になったものに塩や砂糖で味付けすると食べられました。

 

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 堅果類やイモ類も、クリ・ドングリ粉やイモ粉などに加工して保存すれば、穀類や塩の干物や貝、野菜、燻製獣肉などとともに鍋で煮れば冬を越すだけの十分な食料確保は可能と考えます。

 対馬では古くからサツマイモを「孝行芋(こうこいも)」と呼び、砕いて水に付けてふるいでこして干して「せん団子」にし、粉にして麺にした「ろくべえ(せんそば)」や「せんぜんざい」に料理しますが、厳原町の飲み屋で珍しい郷土料理であり締めに食べたことがあります。とくに美味しいとは言えませんでしたが、まずくはなくたべられました。

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 粉食文化は「クリ・ドングリ→イモ→穀類」へと縄文時代には連続して発展していた可能性が高く、すり石鉢や石臼の利用について「縄文土器鍋料理(雑炊やお焼きなど)」としておこげ再現実験を行う必要があると考えます。

 西洋文化に合わせて「縄文クッキー」などと推理する前に、「縄文おやき」や「縄文だんご」をまず考えるべきでしょう。

 また、私は栗は大好きですが縄文人も同じであったにちがいなく、縄文人は栗の芽生えを見つけ、栗の木を増やすことを考えたに違いありません。わが家では次男がブドウを食べたあと、種をマンションのベランダでプランターに植え、それが今は戸建てのわが家でグリーンカーテンとなりかなりの収穫がありますが、栗などの栽培は縄文時代の子どもの好奇心と知恵でも容易にできたに違いありません。栗栽培を思いつくことがなかった考古学者たちには、縄文人を「未開人」などと軽蔑する資格などありません。

 なお、私の父方の祖父方には栗林があり、家は全て栗材であったと叔父から聞いていましたから、三内丸山遺跡だけでなく巨木クリ材列柱のあった桜町・真脇・チカモリ・の周辺には人工の「栗林」があった可能性が高いと考えます。

 

3 ドングリ粉(マテバシイ粉)で吹きこぼれは生じない

 原稿が一段落したので、やっと11月11日にマテバシイ粉で吹きこぼれができるかどうか、再現実験を行いました。

 焚火を想定して火力を強くしても泡は表面にしかできず吹きこぼれは生じるとはありませんでした。

 サトイモや豆やご飯を炊いたり、うどんやソバを茹でた時とは大違いです。

 

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 縄文土器の吹きこぼれ痕や縁飾りは、縄文人がデンプン質の多いサトイモやヤマイモ、豆や米、小麦、ソバなどを調理したことを示しており、「縄文土器によるクリ・ドングリ調理説」が成立しないことは吉田邦夫・西田泰民氏のおこげ再現実験と炭素窒素同位体比分析の結果と符合します。

 

4 「吹きこぼれ・泡立ちデザイン」の縄文土器の縁飾り

 本や博物館・資料館などで縄文土器を見るたびに、あの抽象的なデザインが何から生まれたのか、ずっと考え続けてきました。

 縄文土器の芸術性を世界に広めた岡本太郎氏は火炎型土器を「深海のシンボル」としてみており(「縄文ノート14 大阪万博の『太陽の塔』『お祭り広場』と縄文」参照)、一般的には「火焔デザイン」とみるとともに、4つの把手飾りについては「鶏頭冠形」とされてきました。

 私は大学の建築デザインの講義で「建物の設計では建物のテーマとなった形からデザインする」(注:リンゴの博物館ならリンゴの形から考える)と教わりましたから、縄文の抽象デザインにも自然界・生活圏に具体的な形があるに違いないと考えました。

 結論として、火焔型土器などでは「丸型」は「球=泡」を示し、「鶏頭冠形」とされたものは湯気と同じく天に昇る「龍(トカゲ龍)神」、「縁の盛り上がり」は「吹きこぼれ」(ポンガ=ホンガ)、胴の「渦巻き」は「土器鍋の中の対流」と考え、縄文人天神信仰と煮炊き食信仰を表していると考えました。―縄文ノート「29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」「30 『ポンガ』からの『縄文土器縁飾り』再考」「36 火焔型土器から『龍紋土器』 へ」「52 縄文芸術・模様・シンボル・絵文字について」参照

 また、人面付き土器・出産紋土器は、女性・妊娠土偶と同じく母系制社会の神(祖先霊)との共食による霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰を示していると考えました。―縄文ノート「15 『自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰』」「34 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)について」「75 世界のビーナス像と女神像」参照 

 

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5 「縄文農耕論」証明の課題

 「日本中央縄文文明」の世界遺産登録に向けて、古くさい「縄文未開社会説」「縄文採集・狩猟・漁撈社会説」「弥生稲作説」は大きな障害であり、藤森栄一氏が井戸尻遺跡で先鞭をつけた「縄文農耕論」の総合的な証明に向けて次から次へと新証拠を繰り出し、マスコミで公表して世論を変える必要があると考えます。

 私が考えつく点を列挙しておきますので、地の利のある地元で可能なところからそれぞれ検討いただくとともに、いずれ縄文総合調査プロジェクトを立ち上げることが必要と考えます。

⑴ ポンガ食祭調査

 南インド・ドラヴィダ族の「ポンガ」の小正月のカラスに赤米粥を与える食祭は新潟・茨城・秋田・青森の「ホンガ」の行事に伝わっていますが、安曇野市では「ホンガラ」の「鳥追い行事」に変わっています。群馬県片品村の武尊神社の「猿追い祭り」が元は山から祖先霊を神使の猿が運ぶ行事であったものが「害獣対策」に切り替わった例もあることから、信州でも本来の「カラス神事」が残っていないか、気になります。

⑵ 土器圧痕調査

 日本中央高地など縄文土器について、籾・大豆・小豆・ソバの実などの穀物痕や豆痕の顕微鏡観察・シリコンレプリカ法などによる調査が行われていないようであれば、悉皆的な調査が求められます。

⑶ 焼畑調査

 縄文集落や阿久・阿久尻祭祀施設周辺などの焼畑の可能性のある地形場所を選び、ハンドオーガー(手動土壌採取器)で土壌を採掘して炭片層の有無を調べる調査が求められます。ハンドオーガーを役所や測量会社などで借りるか買っても数万円であり、市民グループでも調査可能です。

⑷ プラントオパール調査

 イネ科植物の葉に含まれるプラントオパール(ガラス質に変化したケイ酸体)は加熱で変化することはないとされており、焼畑調査と合わせた土壌分析やおこげ分析が求められます。

⑸ 花粉調査

 焼畑調査の土壌ボーリング調査をもとに、焼畑調査・プラントオパール調査と合わせて、イネ属やソバ、イモ類などの花粉調査が求められます。諏訪湖湖底堆積物の花粉化石調査は行われていますが、ピンポイントの調査が求められます。

⑹ 栗栽培調査

 桜町・真脇・チカモリ・三内丸山遺跡にはクリ材による巨木建築があり栗栽培が行われていた可能性が高いのですが、栗の生産量全国5位で小布施栗というブランドがある信州では縄文時代の栗の巨木柱根は今のところ見つかっていないようです。

 地下水位が高く腐敗しにくい可能性の高い遺跡での発掘とDNA分析が行われば「縄文栗栽培」が証明できます。

⑺ 縄文狩猟調査

 「追跡猟(忍び猟)・追い込み猟・獣道待ち受け猟・農地待ち受け猟」のうち、縄文人の「黒曜石弓矢猟・落とし穴猟」がどれにあたるのか、地形条件や鏃散布から分析し、農耕開始による鳥獣害対策があったかどうか確かめます。

⑻ すり石鉢・石臼調査

 渋谷綾子氏の「縄文土器付着植物遺体と石器の残存デンプン粒分析からみた東京都下宅部遺跡の植物利用」によれば、磨石から写真のようなイネのプラントオパールが見つかっており、すり石鉢・石臼の再分析が求められます。

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⑼ おこげ・吹きこぼれ再現調査

 穀類(米・麦・粟・ソバなど)や穀類とイモ類を混ぜた縄文土器付着おこげの再現実験はまだ行われておらず、専門家でなくても実験可能であり、「吹きこぼれ再現実験」とともに取り組んでいただきたいものです。吉田邦夫・西田泰民氏の研究では、なぜか穀類(米・麦・ヒエ・粟・ソバなど)については除外されており、追加分析が求められます。

 縄文土器鍋による食祭の粉食・もち食文化が縄文時代に遡る可能性については、市民グループでも再現実験が可能であり、藤森栄一氏等の先駆的な研究の延長として取り組んでいただきたいものです。 

⑽ 大規模環状共同墓地と巨木列柱拝殿祭祀調査

 阿久・阿久尻遺跡のような大人数の一定期間の共同作業を必要とする大規模な環状共同墓地と巨木列柱拝殿は農耕による食料備蓄が可能となった部族社会の成立を示しており、他にも列柱建築があった可能性があり、これまでの発掘調査の点検と調査範囲の見直しが必要と考えます。

 

□参考資料□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/