ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート94 『全国マン・チン分布考』からの日本文明

 「縄文ノート93 『カタツムリ名』琉球起源説からの母系制論」につづき、性器名称の方言分析から、倭語が琉球から北上して九州から全国に広がったことを明らかにしました。

 2018年12月に縄文社会研究会向けに「『全国マン・チン分布考』の方言周圏論批判」(2020年2月には「帆人の古代史メモ」の「琉球論5」で公開)をまとめましたが、さらに加筆して紹介したいと思います。

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 日本人は南方系か北方系か、北方系縄文人弥生人(中国人・朝鮮人)が日本列島中央から沖縄と東北・北海道など周辺に追いやったという日本民族形成の「二重構造説」は成立するかどうかについては、DNA分析・方言分布・地名分布・文献(記紀風土記)分析を総合的に行う必要があります。

 奈良・京都から方言が全国に同心円的に広がったという柳田國男氏の「方言周圏論」にもとづき、女性・男性性器名の方言もまた京都を中心に地方に広がったとするのが松本修氏の『全国マン・チン分布考』ですが、氏の「女陰全国分布図」「男根全国分布図」の分析からは「方言周圏論」は成立せず、逆に琉球から九州を経て全国に広がったことを私は明らかにしています。

 私の「南方・北方両方向からのドラヴィダ系縄文人族移住説」「縄文人による縄文農耕と大国主の水穂国建国説」「妻問夫招婚の母系姓縄文社会説」という主張の一環として「マン・チン分布」を見ていただければと考えます。 

 

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はじめに

 『東京新聞』の2018年11月24日夕刊には松本修氏の『全国マン・チン分布考』が紹介されたのですぐに買って読みました。柳田國男氏の「カタツムリ方言周圏論」批判の続きとしてこの「マン・チン方言周圏論」についても批判したいと思います。

 女性の皆さんには「いやらしい」と嫌われるかもしれませんが、元朝日放送テレビのプロデューサーで大阪芸大教授の松本氏の「女陰全国分布図」「男根全国分布図」は緻密な調査にもとづく労作であり、タブー視されてきた性器名を研究し、公表されたことに対しては高く評価されるべきと思います。

 「オマンコ芸術家」と自称する「ろくでなし子」(五十嵐恵)さんの作品(立体作品と3Dデータ:前者無罪、後者有罪)がわいせつ物頒布等の罪に問われ、法廷で「オマンコ」発言をすると裁判官から何度も注意されたということを『週刊金曜日』で読みましたが、どうやら「オマンコ」は裁判官にとってはいやらしい「わいせつ物」のようです。

 ウィキペディアによると「テレビやラジオなどの放送メディアにおいては、いわゆる放送禁止用語の一種である」「松本明子がラジオの全国放送・・・で、『おまんこ』と発しテレビ局を出入り禁止になる事件もあった」とされ、その理由として「『おちんちん』や『ちんこ』は器官そのものを指す用語であるのに対し、『まんこ』は性行為を意味することもあるため、特に女性軽視の用語であるとして使用が強く制限されている」としています。

 漢語の「女陰」「男根」、英語の「ヴァギナ」「ペニス」、和語の「ちんこ」はわいせつではなくて、倭語(和語)の「オマンコ」がわいせつというのはそれこそが女性差別と私は思うのですが、どうでしょうか? 春画がアートとして大英博物館から世界各国で巡回され公認されてきた現代において、時代錯誤と言わざるを得ません。

 人類の種の継承にとって大事な性器・性行為名の探究を回避してきた言語学者たちと較べると、松本氏の功績は大きく、賞賛されるべきと考えます。オマンコ好きの混浴党の私としては、氏の功績を高く評価しつつも、「性器方言周圏論」については柳田國男氏の『蝸牛考』の亜流として批判しておきたいと考えます。なお、結論的に述べると、私は「性器方言琉球起源説」「性器方言北上・東進説」です。

 

1 松本氏が前提とした柳田國男の「方言周圏論」は成立しない

 この論考は「縄文ノート93 「カタツムリ名」琉球起源説からの母系制論―柳田國男の「方言周圏論」批判」の延長上であり、性器名方言の移動から、旧石器・縄文時代からの日本列島人の動きを推定するとともに、縄文社会のあり方,特に母系制について検討しようとするものです。

 松本氏は柳田國男氏の『蝸牛考』の方言周圏論(京都から地方へと同心円的に方言が広がっている)をもとに、それを性器方言に当てはめていますが、私が柳田氏の「カタツムリ方言周圏説」は成立しないと考えており、「カタツムリ方言北上・東進図」を下に示しておきたいと思います。―「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(季刊日本主義43号)参照 f:id:hinafkin:20210907193919j:plain

 柳田氏は1961年になって『海上の道』を書き、稲作南方起源説を主張していますから、稲作とともに人々は南から北、さらに東へと移動し、方言もまた移動したと考えて『蝸牛考』の「方言周圏説」を再検討すべきでしたが、柳田氏は学者として真実の探求において誠実とは言えないと思います。

 松本氏は『海上の道』を知らなかったのかもしれませんが、もし読んでいたのであれば、援用者として「方言周圏説」が正しいかどうか、そこから検証すべきだったと思います。

 それはさておき、性器名方言が京都から地方へ伝わったのか、琉球から北上・東進したのか、検討してみたいと考えます。

 なお、私はDNA分析などから日本人は「多DNA民族」であり、海人族である縄文人の全国的な交流・交易・婚姻(妻問夫招婚)からみて数詞や人体語・物体語などの交流・交易に必要な「基礎語」は共通化が進む一方、性器名や宗教語、祭りの囃しなど各氏族・部族の固有文化に関わる言葉や、「カタツムリ」名のような共通言語化の必要性が乏しい希少言語は多様性が残ったと考えています。―縄文ノート「43 DNA分析からの日本列島人起源論」「37 『神』についての考察」「38 『霊(ひ)』とタミル語『pee(ぴー)』とタイ『ピー信仰』」参照

 

2 私の「オマンコ・オメコ」「ヒナ」体験

 私は小学校時代は岡山市(当時は郊外農村部)で育ちましたが、旧友たちは女性器名を「オマンコ」と言い、母の実家のたつの市にいくと従兄弟たちは「オメコ」、祖母は「オマン」「オソソ」と言っており、「なんじゃこりゃ」と思っていました。

 どうでもいいことに探究心をもやす癖がある変なところのある私としては、ずっと気になるテーマでした。目鼻口手足などの身体語が同じなのに、なぜ大切な女性器名が違うのかは大問題でした。京大に入ると、私の友人の山岳部員たちは新入生に出身地の女性器方言を言わせ、「ベッチョ」「ボボ」「メンチョ」などのあだ名で呼ぶという男社会の伝統があることを知り(女性差別として今は残っていないでしょうが)、ますます興味をかきたてられました。

 その後、さらに私にとっては大きな転換点がありました。岡山県北西部の30戸の小さな山村を先祖とする私の名字は「雛元」ですが、江戸時代中期からの墓は「日向(ひな)」、提灯は「日南(ひな)」と書き、会話では「ひなの家」と言っていましたが、明治になって本家であったため「日本(ひなもと)」の名字を届け出たところ、役場が勝手に「雛元」の漢字に変えたので一族は怒っていると父から聞いており「ひな」の解明はずっと気になっていたのですが、なんと仕事先の青森県東北町で平安時代の「日本中央」の石碑に出合い、その西に見える八甲田山に神名火山(神那霊山)型のきれいな雛岳があり、この地は「日本=雛=ひな」と呼ばれていた可能性があると考え、古代史の研究を始めたのです。

 さらにびっくりする大問題に出会ったのは、海人(あま)族のアマミキヨを始祖神とする琉球の先島地方や鹿島県の奄美地方では女性器を「ヒー、ピー」、熊本の天草では「ヒナ」と呼び、出雲では女性が妊娠すると「ヒが留まらしゃった」ということを出雲の同級生・馬庭稔君から聞いたのです。

 平安時代の辞書・和名類聚抄では「さね(実、核)」(クリトリス)のことを「比奈佐岐(ひなさき)」と書き、その後「雛尖、雛先、雛頭」の漢字をあて、栃木では方言として使っていたと老哲学者の館野受男さんから教わり、調べてみると栃木だけでなく茨城の方言にも「ヒナサキ」があり、「ヒ、ヒナ」は子宮・女性器をさしその尖端を「ヒナサキ」と呼んだのです。

 さらに平安時代からの男子の正装の際の立烏帽子(たてえぼし)の先に「ヒナサキ(雛尖、吉舌)」や「ヒナガシラ(雛頭)」を付けていたのです。鳥(カラス)信仰とともに女性器信仰が古くからあったのです。―「縄文ノート73 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき)」参照 

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 私は「ヒナちゃん」「ヒナもっちゃん」などと呼ばれていましたが、「オマンコちゃん」「オメコちゃん」と呼ばれていたのと同じことになるのであり、「ヒ、ヒナ」とはなんぞや、研究せずにはおれませんでした。

 古事記は始祖神の3番目の女神を「カミムスヒ(神産日)」とし、日本書紀は「神産霊」と表記して霊(ひ)を産む「産霊(むすひ=むすび)神」としています。

 新井白石は「人」を「霊人(ひと)」と解釈し、角林文雄氏は『アマテラスの原風景』の中で「彦」「姫」「聖」「卑弥呼」を「霊子」「霊女」「霊知」「霊巫女」と解釈しています。

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 DNAなど知らない古代人は、子が親や祖父母に似ていることを、「霊(ひ)」が受け継がれると考え、女性器・子宮を霊(ひ)が留まる場所(な:那、奈)、「ひな」と考えていたのです。「霊(ひ)」信仰から女性器「ヒ」「ヒナ」名が生まれたのです。

 大国主を国譲りさせた「ホヒ(穂日)」「ヒナトリ(日名鳥、日照、比良鳥:日名=日=比良)」親子は「穂霊又は火霊」「霊那鳥」であり、大国主が筑紫日向(ひな)の鳥耳(とりみみ)に妻問いしてもうけた鳥鳴海(とりなるみ)の妻の名前が「日名照額田毘道男伊許知邇(ひなてるぬかだびちをいこちに)」であることなどから、私は「ホヒ・ヒナトリ」親子もまた大国主と鳥耳との子・孫であると考えています。

 なお記紀に書かれた高天原の住所は「筑紫日向(ちくしのひな)」であり、旧甘木市(現朝倉市)の蜷城(ひなしろ)の地で、後の卑弥呼(霊巫女=霊御子)の邪馬台国はこの甘木(天城)の高台にあったと私はみています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 というのは、10代崇神天皇は宮中に大物主(スサノオの御子の大年:代々大物主を襲名)から奪ったアマテラスとスサノオの神霊を宮中に祀ったところ民の半数が亡くなるという恐ろしい祟りをうけ、アマテラスとスサノオの霊(ひ)が宿る鏡と玉、剣を宮中から出し、その子孫を捜して各地を転々として皇女を派遣して祀らせ、明治まで天皇伊勢神宮に参拝することがなく、宮中で祀っていないかったことを見ても明らかなように、祖先霊は血の繋がった子孫に祀られないと祟ると考えられていたのです。―『スサノオ大国主の日国―霊の国の古代史―』参照

 これを私は「霊(ひ)の法則」と名付けていますが、そのような時代に、ホヒ・ヒナトリ親子が大国主を国譲り(退位)させ、出雲大社で代々、祖先霊を祀ってきていることは、ホヒ・ヒナトリ親子が大国主の血を受け継いだ筑紫の子と孫であったことを示しています。記紀神話においては、この鳥耳はスサノオの姉(実際は筑紫生まれのスサノオの異母妹)のアマテルと合体させられますが、スサノオ7代目の大国主の「国譲り」は大国主が各地で妻問いしてもうけた180の御子たちの後継者争いであったのです。

 縄文時代のひょうたんや亜熱帯産の貝の琉球奄美から東北・北海道までの分布や人々の移動・交流、妻問夫招婚にともなって、「ヒ、ヒナ」女性器名もまた対馬暖流(琉球暖流)に沿って、琉球(龍宮)から奄美(海海=天海)、天草・甘木、大和、下野・常陸などに伝わった、と考えるのが自然です。

 松本氏の『全国マン・チン分布考』掲載の力作「女陰全国分布図」では、「ピィ・ヒー」(注:琉球弁では古くは「は」行は「パ」行)女性器名は琉球の八重島群島と奄美にしか見られず、天草の「ヒナ」や平安京の和名類聚抄や栃木・茨城の「ヒナサキ」は分析から省いています。

 

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 松本氏は柳田國男の「方言周圏論」を援用し、京都を中心に女性器名が全国に同心円的に広がったとしていますが、氏の「ヒ・ヒナ」女性器名称の分布図はそれを否定しています。

 氏がもっとも遠くの古い時代の女性器名とする「ピィ・ヒー」が琉球奄美にだけみられるのではなく、「ヒナ、ヒナさき」が天草・甘木(筑紫日向)・平安京・栃木・茨城に見られることは、「ピィ・ヒー・ヒナ」女性器名が琉球から北へ、さらに東へと広がった可能性があります。

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3 「龍宮(りゅうきゅう)」出身の母・祖母から神武天皇が受け継いだ「ヒナ」名称

 記紀によればニニギから始まる薩摩半島西南端の笠沙(かささ)天皇家3代のうちの2代目の山幸彦(猟師=山人(やまと))の妻のトヨタマヒメ(豊玉毘売)、3代目のウガヤフキアエズの妻のタマヨリヒメ(玉依毘売)は龍宮からきた姉妹であり、4代目のワカミケヌ(若御毛沼)が大和天皇家の初代天皇になったとしています。この龍宮は海の底の宮殿なのか、実在の宮殿なのか、それとも全く架空の空想なのでしょうか?

 高天原の住所の「筑紫日向(ひな)橘小門阿波岐原」や神武天皇が実在の人物と考える私は、龍宮もまた実在すると考え、「龍宮」は「りゅうきゅう」とも読めることから、龍宮=琉球と考えます。龍宮が中国の冊封体制に入って朝貢交易を行うようになった時、龍宮王は中国皇帝を示す「龍」字を使うことをはばかり、「龍宮」字を「琉球」字に置き換えたと考えます。

 大和天皇家の初代(後に神武天皇命名)の母と祖母が琉球の出身であることからみて、女性器の「ヒ」名は琉球から奄美を経て薩摩半島の笠沙天皇家に移り、さらに大和に移ったと考えます。

 平安時代クリトリスのことを「ヒナサキ」と呼んでいたのは、女性器(子宮)を「ヒナ」とみなしていたからであり、それは、琉球から伝わった「ヒ」性器名が九州の天草・甘木などで「ヒナ」になり、傭兵隊のワカミケヌ(後の神武天皇)が瀬戸内海を船で東進して奈良盆地に持ち込んで「ヒナ」から「ヒナサキ」名が派生し、さらに関東に進出した一族が栃木・茨城に「ヒナサキ」名を伝えたことを示しています。琉球の洗骨(改葬)の風習が天皇家の「殯(もがり)」に受け継がれていることからみても、「ヒナ」名も龍宮の海神の娘の姉妹からその子孫へと受け継がれたのです。

 松本氏は沖縄の「ヒ、ピ」女性器名の語源について「わかりません」と述べていますが、天草の「ヒナ」方言、平安時代の「ヒナサキ」名、栃木・茨城の「ヒナサキ」方言を収集しなかったのか、それとも「方言周圏論」の自説に合わないことから隠したのでしょうか?

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4 「ヒ→へ」系女性器名

 現日本語は「あいうえお」の5母音ですが、琉球方言は「あいういう」の3母音5音節であり、古日本語の5母音「あいういぇうぉ」から両者は1700年前頃に分離したと私は考えています。―「『3母音』か『5母音』か?―古日本語考」参照

 

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 母音の「いぇ」が「い、え」に、「うぉ」が「う、お」に音韻変化したのにあわせ、子音の「はひふひぇふぉ」は琉球では「はひふひふ」に、本土では「はひふへほ」に音韻変化し、琉球の女性器名の「ひー」は本土では「へー」に変わり、「へへ」「べべ」の女性器名として鹿児島・宮崎・山口・島根から中部・東北地方に伝わり、さらに「ベタ」「ベッチョ」など「へ」系の女性器名に多様化したと考えます。

 

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  今、「辺野古」では新基地建設を巡って国と県・県民が争っていますが、松本氏の図によれば、「ヘノコ」は男性器名として四国4県と広島・岡山県、新潟・群馬・埼玉・千葉県と東北4県などに広く伝わるとともに、女性器名として岩手県に残り、古くは陰核・睾丸名であったとされています。

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 私の子どもの頃には浴衣に「へのこ帯(兵児帯)」をしめていましたが、その名称は鹿児島県から来ており、元々は子どもの「ヘノコ」を締める柔らかいふんどしで、後に浴衣帯に転用されたのではないでしょうか。男性器「ヘノコ」名は琉球から鹿児島に伝わり、さらには中四国、関東・東北に伝わったと考えます。

 この「へのこ」の「へ」は古日本語の「ひぇ」が「ひ」と「へ」に分離したもので、「霊(ひ)の子」が「へのこ」となって女性器・男性器名として使った可能性があります。今でも男性器・女性器を「息子」「娘」と言うのと同じです。

 あるいは琉球では3母音時代(はひふひふ)には「ひぬく」であって、女性器「ヒー」をつらぬく男性器を「ひぬく」と呼び、5母音時代に「へのこ」に変わった可能性もあります。

 薩摩半島南西端の海幸彦(笠沙天皇家2代目)の「龍宮神話」は、アマミキヨを始祖とする琉球(龍宮)の海人(あま)族が対馬暖流(琉球暖流と呼ぶべきと考えます)と南風(はえ)に乗って、奄美薩摩半島、天草などを経て、玄界灘壱岐対馬を拠点とし、北海道まで貝とヒスイの交易を行い、1万年にわたる共通する文明を創ったことを示しています。

 出雲大社が神使(しんし)として海蛇(龍神、龍蛇)を祀っていることは、スサノオ大国主一族が龍宮をルーツとする海人(あま)族であり、新羅との米・鉄交易により鉄器稲作を普及し、百余国を建国したことを示しています。―詳しくは、『季刊山陰』(38号~「スサノオ大国主建国論」)、『季刊日本主義』(42号「言語構造から見た日本民族の起源」、43号「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」、44号「海洋交易の民として東アジアに向き合う」参照

 

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 縄文人が円形の石組みの中心に石棒を立てているのは、インドのリンガ・ヨーニ信仰と同じように、死者の霊(ひ)が大地に帰り、黄泉帰るという地神(地母神信仰)を示しており、母なる大地のオマンコ(円形石組み)にチンポを立てたものであると私は考えています。明治政府によって一掃されるまで、各地で「チンポ」は金精様として祀られており、石棒祀りは縄文時代から続いていたのです。―縄文ノート「10 大湯環状列石三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰」「34 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)」参照

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 沖縄の「辺野古」地名は、この地が縄文時代の丸い石組みの中央に石棒を立てた縄文遺跡のような、女性・男性器「へのこ」を祀る聖地であった可能性があり、その地を米軍が占領を続けているなど許されないことです。もしも本土に「辺野古=金精」があったとしたら、国民はそのような聖地を米軍に提供したりするでしょうか? 縄文時代琉球奄美(海人海=天海)の貝が東北・北海道にまで伝わっていることからみて、辺野古にも東北・北海道などの石棒遺跡の原型があった可能性があります。

 群馬県片品村では、女性器の形に見えるエロチックな活火山の女体山(日光白根山)の山の神に男性が金精様を運んで捧げる信仰が行われ、その北には金精山と金精峠があります。 

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 私が仕事をした各地にも金精信仰は残っており、愛知県小牧市田縣神社の豊年祭では金精様を御輿として担ぐとともに、女性達が持って奉納し、安産多産・子孫繁栄を祈っています。

 この男性が金精様を捧げる山の神は女性神であり、中世以降、妻のことを「山の神」というのは母系制社会の名残を伝えています。なお、山の神は自分より醜いものがあれば喜ぶとして、オコゼを山の神に供える習慣があることは、この山神信仰が海人族のものであったことを示しています。

  

5 「ヒ→ホ→ホト」系女性器名

 琉球の本島には「ホー、ポー、ホーミ」の女性器名が見られ、さらに「ボボ」名は九州・中四国・近畿・中部・関東・福島など広く分布しています。

 「ホト」女性器名は鹿児島・鳥取・岡山にみられ、「ホト」地名と神社名は秩父の「宝登山(ほとさん)」に残り、古事記は女性器を「ホト(蕃登、番登、陰)」と書き、ワカミケヌ(初代神武天皇)の大和の妻の名前は「ホトタタライススキ(豊登多多良伊須須岐)」姫でした。

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 なお、記紀ではイヤナミが火の神を産んだので「美蕃登(みほと)」が焼かれて亡くなったとし、アマテラスの玉から生まれたオシホミミ(忍穂耳)の子(播磨国風土記では大国主の子とされる)の天照国照彦天火明(あめのほあかり)の名前や、「ホト=火所、火門、火陰」と書かれていることや、神名火山(神那霊山)の名称などからみても、「ホ=火」として女性器を信仰していた可能性が高いと考えます。

 

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 松本氏は大和の「ホト」が沖縄に伝わって「ホー」になったとしていますが、意味的・音韻的な説明も、伝搬の歴史的な説明もなく、大和中心主義の皇国史観的な逆立ちした思い込みというほかありません。

 「霊(ひ)の留まる所」が「ヒト=人」となった例からみて、「火(ほ)の所」を「ホト」と呼ぶようになったと意味的には考えられます。身体名は「耳、鼻、腹、足」などはもともとは「ミ、ハ、ラ、シ」も1音であったのが「ミミ、ハナ、ハラ、アシ」になった可能性があるように、「ホト」は「ホ」が2音化したと考えられます

 大和天皇家の初代ワカミケヌ(後の神武天皇)の妻の名の「ホトタタラ」が「火(ほ)の所」を「タタラ(製鉄の炉)」として見ていることからみて、「ホト」は「火のように熱いヒ(女性器)」を示していることが明らかです。「ホ」系の女性器名は、琉球をから山幸彦の妻と妹(3代目の妻)によって薩摩半島に伝わり、ワカミケヌたちによって、大和に伝わったとみられます。

 「ホヒ・ヒナトリ」親子の子孫であり、古くは出雲国造で、現在も出雲大社神主である千家家は、「火=霊=日」としていることからみても、「ホト」は「霊(ひ)所」でもあり、「霊(ひ)那」と同じ意味と考えられます。

 私が子どもの頃には、祖父母の家に行くと、お盆・正月には墓参りに行き、祖先霊を提灯の火に移して持ち帰り、仏壇と神棚のお灯明に移していましたが、京都の人たちは大晦日スサノオを祀る京都・八坂神社に「おけら詣り」に行き、火を家に持ち帰って新年の雑煮を食べていることからみても、霊(ひ)は火に宿ると仏教伝来より前から進行されていたことが明らかです。幽霊が火の玉となって現れると信じられていたことからみても、火=霊(ひ:鬼火)と考えられていたことを示しています。「ホー」「ボボ」「ホト」などの女性器名の「ほ」は「霊(ひ)」がやどる「火(ほ)」であったのです。

 後述する安田徳太郎氏の『人間の歴史』によれば「奈良朝ごろでも、まだ噴火口のあなの方は、やはりホトと呼んでいたらしく、こんにちでも三宅島では、火口のことを、トクニホドと呼んでいる」「カジ職人は金属をとかす炉のことをホトと呼んでいたらしく、鋳物師はこんにちでも炉のことをホドと呼んでいる」「東北や新潟の方言では、炉やいろりのことをホドと言っている」というのであり、ホトは「火所」として使用されていたことが明らかです。

 大国主命一族の「ホヒ」名「アメノホアカリ(天火明)」名や、初代大和天皇の妻の「ホトタタラ」名は、古代には女性器信仰があり、女性器名を王名や王女名の名前に付ける習わしがあったことを示しています。女性器名をどう呼ぶにせよ、ワイセツと見なすなどとんでもない反歴史主義・反天皇思想と言わなければなりません。

 なお、仏教では悟りを開いた人「仏=人+ム(座って座禅を組んだ人)」を呉音では「フツ」、漢音では「ブツ」(ブッダの訳)と言いますが、なぜか倭音倭語では「ほとけ」といいます。語源由来辞典では「浮屠(ふと)」に「け(家・気)」がついた、「解脱(げだつ)」の「解(と)け」に「ほ」を付けたと説明していますが語呂合わせにもなっておらず、「私は「ほとけ=ホト化」であり、もともと日本にあった女性器名「ほと」からきていると考えますが、どちらがのこじつけでしょうか?

 なお、「宝登山(ほとさん)」だけでなく、約100mの3基の前方後円墳の保渡田古墳群のある群馬県高崎市保渡田町や横浜市保土ヶ谷など各地に「ホト・ホド」地名があり、谷のある地形からかあるいは縄文時代の円形石組など地母神信仰の地であった可能性がありますがチェックできていません。

 

6 「ヒ→へ→メ」系女性器名

 「メメ」は熊本を中心に九州北部に分布し、「メンチョ」は島根に多く、福岡・大分・山口・広島・鳥取・愛媛に見られます。「オメコ」は九州北部から中四国・近畿に広く分布し、長野・神奈川を東限としています。

 「オメコ」は「オデコ」「オナゴ」「オシッコ」などと同じで、「メ」に「オ」と「コ」を付けたものであり、松本説のように「女(メ)」から「メメ」、さらに「オメコ」「メンチョ」に多様化したと考えられます。

 日本書紀は、神々を産んだ出雲の揖屋のイヤナミ(通説:イザナミ)を陰神(めかみ)、イヤナギ(通説:イザナギ)を陽神(をかみ)と書いており、女(メ)を女性器の「陰(メ)」として見ていることは明らかです。

 写真は雲仙の木花開耶姫(このはなさくやひめ)神社に祀られている「女ノ神」ですが、「女(メ)」を「オメコ」とみる歴史を今に伝えています。なお、コノハナサクヤヒメは瀬戸内海の大三島に祀られている大山津見(スサノオの妻の兄弟:代々襲名)の娘で、播磨国風土記では大国主の妻とされていますが、古事記では薩摩半島南西端の笠沙天皇家初代のニニギ命の妻・阿多都毘売(アタツヒメ)の別名としています。地理的にみて瀬戸内海・大三島コノハナサクヤヒメが笠沙にいるわけはありませんから、この古事記の記載はアタツヒメをスサノオ大国主一族と結び付けるための後世の創作です。

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 「むすめ(産す女)」の「女(メ)の子」に「オ」をつけて「オメコ」になった可能性が高いのですが、他の可能性もあります。

 子どもの頃、「周りに毛が生えていて、中が濡れているものはなあに?」というトンチ問答が流行っていましたが、女性器を「目」と同じような「割れ目」の「メ」とみた可能性もあります。また、割れ目からでた「ヒナサキ」(陰核、クリトリス)を「芽」と表現した可能性もあります。

 また、「さしい」と「さしい」、「さい」と「さい」、青森の「ねた」と「ねた」、寅さんで有名な「柴又(しまた)」と平安時代の「嶋俣(しまた)」、旧甘木市の蜷城(ひしろ)の美奈宜(みぎ)神社、大国主出雲大社の「御巣(す)」と「日栖 (すみ)」に見られるように、「は行とま行」の音韻転換がおこることからみて、「へへ」が「メメ」に音韻転換した可能性もあります。

 前述の図4のように、琉球方言が「あいういう」の3母音5音節で「い行=え行」であることからみて、琉球奄美の女性器名「ひー」は鹿児島で「へー」「へへ」に変わっていますから、それが熊本で「メメ」に変わった可能性は高いと考えます。

 「お女子(めこ)説」にも可能性がありますが、九州に「べべ・メメ・メンチョ・オメコ」があることからみて、「オメコ→メメ→メンチョ」よりも、「べべ→メメ→メンチョ→オメコ」の変遷の可能性が高いと考えます。そして「べべ・へへ」は「山口・岩見→和歌山→中部地方」へ、「メメ・メコ」は「高知・徳島→岐阜」へ、「メンチョ」は「広島・島根・岡山→関西」へ、「オメコ」は「中四国→関西」へと広がったと考えれらます。

 「オメコ・メメ・メコ・メンチョ」が東日本へ広がっていないことを見ると、京都からの同心円的拡散は考えれられず、方言東進説が成立します。

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7 「マンコ・マンジュー系」「チャンベ・チャコ系」女性器名

 松本氏によれば女性器名の「マンジュー(マンチョ)」は沖縄の宮古島と愛媛・千葉にポツンとあるほか、新潟・福島・山形・秋田・岩手・青森に多く分布し、「マンコ(マンマン・マンチョ)」は四国・千葉など多いほか各地にあり、「オマンコ(オマンチョ)」は九州に少しあるほか、中四国と関東に多いほか各地に分布しています。「オマン」は愛媛にしか見られませんが、前述のように兵庫県たつの市の祖母も「おまん」と言っていました。さらにネットで検索してみると、枕崎地方に「マンズ」、福岡県都市圏や青森県に「まんじゅ」がありました。

 共通するのは「マン」であり、松本氏は同心円の一番外側に「マンジュー」を起き、京を中心に広がったもっとも古い女性器名としています。文献的には最古の「ホト」をさておいて、鎌倉時代の文献に登場する「マンジュー」を最古とするなど、そもそもおよそ合理的な思考とは言えません。

 

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 松本氏は「マン系」女性器名は「マンジュー」が起源とし、女の子の性器が白くてふっくらとした形が「マンジュー」に似ているということを根拠にしているのですが、私が幼児の頃、又従兄弟のお姉さんに風呂に入れられて正面から目の前に見た時(初めて勃起しました)や、子どもの時に見た女の子の性器を「まんじゅう」と思ったことは一度もありませんでした。「のっぺりしていて母親とは違うなあ」という感じでした。自分の娘、孫娘と風呂に入っても「桃尻娘」とは思っても、性器を「まんじゅう」などと連想したことなどありませんでした。松本氏は「マンジュー食べたい」などと思った体験がいつ頃、どのようにあったのか、それは男一般に当てはまるのか、説明すべきです。

 さらに、中国語の「マントウ」(白い肉まん)から「マンジュー」名に変わった音韻変化の根拠、さらには「マンジュー」が「マンコ」「オマンコ」「オマン」などに変わった音韻変化も説明していません。私は「松本マンジュー饅頭起源説」はそもそも成立しないと考えます。

 松本説の「マンジュー女性器名最古説」の根拠は「マントウ」が伝わったのが鎌倉時代であるという文献からですが、縄文時代に女性器名がなかったなどありえません。私は縄文時代からあった「マン系女性器名」をいつの時代かにソフトな表現として「マンジュー」に置き換えて使うようになり、それが広まった可能性を考えます。

 ここで私は、小学生の時に父が隠していたのを引っ張り出して読んだ安田徳太郎氏の『人間の歴史』が気になってきました。ウィキペディアでみると、安田氏は京都市生まれ京大卒の医師・医学博士で、従兄の山本宣治(労農党国会議員で治安維持法改正に反対して右翼に暗殺される)の産児制限運動や無産運動に関わり、ソ連のスパイ事件のゾルゲ事件連座し逮捕、有罪判決を受けるとともに、フロイトの翻訳を行ったり、『人間の歴史』や『万葉集の謎』を書き、後の大野晋氏の「ドラヴィダ(タミル)語起源説」にも繋がる「日本語起源レプチャ語説」(チベットビルマ語派のチベットの一地方語)を唱えたというたいへん興味深い人物です。

 当時は性的な所だけを好奇心にかられて密かに読んだのでこの『人間の歴史』は怪しいスケベエ本と思い込んでいたのですが、今回、東南アジアでの「性器名」、特に「霊(ひ)」名について確かめるために改めて読んでみました。というのは、「オメコ」「チン」「マラ」などの語源がわからないことと、台湾の「卑南族(ピナ族)」がずっと気になっていたからです。

 ざっと『人間の歴史』に目を通してみると、生活語や稲作、鉄器、母系制社会のルーツなど、日本民族起源論において私が到達した結論とほぼ同じ部分が多く、ビックリしています。高群逸枝が「画期的意義を持つ」と評し、羽仁説子が「家庭の豊かな話題に」、服部之総が「日本人への問いと答え」、和歌森太郎が「世界的視野から日本人を」、清水幾太郎が「私は以前から、安田博士のファンである」などと扉カバーの裏に絶賛して書いていたことにやっと気づきました。

 

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 「マンコ」について見てみると「マレイ人やインドネシア人は小さい湯呑みやドンブリのことをマンコクと呼んでいる。セレベス島の土人は、語尾子音を落としてマンコという。この場合は湯呑みだけでなく、臼のことも指すそうである」「九州の五島列島でも、湯呑みやドンブリのことを、セレベス島の土人とおなじに、マンコといっている」「三重県万古焼という有名な陶器がある。こればバンコではなく、やはりマンコである。・・・インドシナの湯呑みをまねてはじめてつくった」「熊本地方では、マンコをなまってメンチと呼び、愛称にしてメンチョとよんでいる。福岡地方ではメンコといわずに、愛称にしてメメチョといっている」「民謡でも『娘18,落とせばわれる』とうたっているが、こういう思想は、別に日本だけの特産ではない、世界中どこを探してもおなじである」というのです。おちょこ・つんびー・あいべっかい(静岡県

 松本氏の「女陰全国分布図」をみると、「チャコ(オチャコ等)」「チョコ」が愛媛・徳島・三重(ネットでは静岡にも)に見られ、「チャンべ・チャンぺ」が佐賀・愛媛・福井・加賀・富山にあり、ネットでは「チョンチョン」が京都府北部や富山に見られますが、これらは酒器の「ちょこ(猪口)」からきており、湯呑みの「マンコ」を小水・性液の出る女性器名にあてるのと同じ発想といえます。

 私は酒器・湯呑の「マンコ」が女性器名となり、「オマンコ」「オマン」が派生するとともに、さらに鎌倉時代以降に「マンジュー」名も生まれたと考えます。

 なお、松本氏は「チャンベ、チャンペ、チャコ」は「お茶」からの転用語説ですが、私はその起源は「茶」の伝来よりは古く、「ちょこ(猪口)」からの類推語として女性器に使われたと考えます。

 この「マン系」女性器名は松本説のように京都を中心に同心円的に全国に広がったのでしょうか? 私はじっくりと松本氏の「女陰全国分布図」を見ましたが、「マンジュー」が都から周辺に広がったとは読み取れませんでした。

 そもそも、京都で新しいマンジュー性器名が生まれたとしても、それが関西・中国・中部地方で消えてしまった理由が説明つきません。むしろ、全国的に分布していた「マンコ」「オマンコ」から、宮古・九州・東北地方で上品に「マンジュー」名ができたのではないでしょうか?

 

8 「ノノんさん、あん!」「まんまんちゃん あん!」

 安田徳太郎氏の『人間の歴史』には松本氏が取り上げていない女性器名「ノノ」が欠落しています。

 京都市生まれの安田氏は「母親から空にかがやいている月にむかって、『ノノさん、あん、あん』とおがむように教えられた」「インドネシア語でノノというのは、女の性器のことである」「岡山地方では、女の子の性器をノノさんといって、男の子は遊び仲間の女の子の性器が見えると、みんな両手を合わせて、ノノさんといって、おがむそうである」「わたしたちは、子供時代には神さまのことをノンノさんと呼んでいた」としています。

 私が小学校時代を過ごした岡山市では級友達が女の子の性器を「ノノさん」と確かに言っていましたし、兵庫県たつの市出身の母からは「ノンノンさん、あん!」と言って神棚を拝むことを教えられました。播州地方でも広く言われていたのか、それとも母の祖母(私の曾祖母)が京都に行儀見習いに行っていましたから、京都から伝わったのかについては今となっては確かめられません。

一方、兵庫県高砂市生まれの妻は「まんまんちゃん あん!」と言って母方の実家の仏壇か神棚を拝んだことがあるといいます。

ネットで調べてみると、松山や宇和島岐阜県などでも「ののちゃん、あーん」「のんのんさん、あ~ん!」、九州で「のんのんさぁー」、関西で「まんまんちゃんあん」などがでてきます。

「ノノ、ノンノン」「マンマン」の語源としては、観音様の「のん」や浄土宗や浄土真宗の「南無阿弥陀仏様」からきている仏教用語という解釈が仏教系のネットに見られますが、仏教伝来からこのような呼称が生まれたとの証明もなく、民衆の「ノノ、ノンノン」「マンマン」信仰を仏教に取り込むための語呂合わせと思います。

インドネシア語でノノというのは、女の性器のことである」「岡山地方では、女の子の性器をノノさんという」ことからみて「ノノ」は女性器名であることが明らかです。一方、「マンマン」は縄文時代から続く女性器・マンコ信仰から神を拝む幼児語として使われ、仏教伝来後に仏(ほとけ)のお祈りに転用されたと考えます。

いずれにしても、「ノノんさん、あん!」「マンマンちゃん あん!」は女性器信仰を示していることが重要です。

 

9 女性器名の歴史

 松本氏の「女陰名周圏説」は、主な女性器名は京都から遠く離れた古い順に、「ピィ・ホー・ホト」→「マンジュー」→「へへ・べべ」→「ボボ」→「マンコ・オマンコ」→「チャンベ・チャンぺ」→「メメ・メンチョ」→「オメコ」→「オソソ」と京都を中心に周辺に広がったという地理的には「同心円的拡散説」、年代的には「直線的変遷説」です。

 その根拠は「図2 女陰全国分布図」ですが、この分布図をどこからみても私には同心円的な分布は読みとれません。

 しかも、旧石器時代からの3万年を超える歴史の中の、わずか1000年ほどの京都に天皇制の中央集権国家があった時に、これらの性器名称が京都を中心に順に全国に波及していったというのですから、私には理解不可能な空想という以外にありません。それ以前の3万年数千年の間には女性器名が無かったなどありえないからです。

 鎌倉時代に伝わったという「マンジュー(饅頭)」がもっとも古い性器名の起源などということはありえません。邪馬台国大和説と同様の、大和・京都中心主義の「新皇国史観」の「トンデモ説」と言わなければなりません。

 また、松本氏の饅頭からの形容語説(マンジュー、マンコ、オマンコ、マンチョ、オマン、マンマン)、女(メ)の転用語説(オメコ、メメ、メンチョ)、お茶からの転用語説(チャンベ、チャンペ、チャコ)などの起源説には一貫性がなく、「ヒー、ヒナ」「ホト」「ヘヘ」「ボボ」「ノノ、ノンノン」の説明はできていません。

 以上、私が検討してきた結果では、女性器名は人類にとってもっとも重要な生殖機能からの霊(ひ)信仰・性器信仰からきた「ヒ」系かもっとも古く、「ヒ」系から音韻的に「ヘ」系が分岐し、「火・穂」の意味から「ホ」系、「は行ま行音韻転換」から「メ」系が生まれたと考えます。これに対して、食器語からの「マン」「チャコ」系が加わったと考えます。

 そして、その多様化の変遷を見ると、琉球(龍宮)を起点として北上して南九州に広がり、さらに北進・東進したとみられます。九州には「ヒー・ヒナ」「べべ」「ボボ」「ホト」「マンコ・オマンコ・マンジュー」「メメ・メンチョ・オメコ」「チャンべ・チャンぺ」「オチンチン・オチョンチョン・オチンコ」「ツビ」「オソソ」などほとんどの女性器名が見られ、海人族のスサノオ大国主一族により、琉球の「ピー・ヒー」を起点として、他の南方系の女性器語を交えながら、九州から全国に広がり、続いて薩摩半島南西端の笠沙・阿多の猟師の山(やまと)人族の龍宮(琉球)の姉妹を祖母・母とするワカミケヌ(若御毛沼:8世紀の諱(忌み名)は神武天皇)一族により大和に伝えられたと考えます。

 なお、「オソソ」は接頭詞の「オ」を除くと、「メメ」が「メ」から派生したのと同じように、「ソ」が「ソソ」に変わったと考えられます。古日本語の「スォ」が3母音では「ス」(酢)で、5母音では「ソ」になったと考えられ、臭いから派生した名称の可能性があります。フェミニストでロマンチストの松本氏が女性器名を「楚々」として乙女に重ねて見るというのはいいのですが、身体語のリアリティとしではどうでしょうか?

 

10 「チンポ」「マラ」の方言周圏論

 「チンポ」「マラ」の語源についは昔から考え続けてきていますが、いまだに解明できていません。ただ、松本氏の「男性器方言周圏論」は女性器と同様に成立しないことを付記しておきたいと考えます。

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 松本氏は「男根全国分布図」から主な男根名が「ヘノコ」→「シジ」→「マラ」→「ダンベ」→「チンコ」→「チンボ-」→「チンポ」の順に京都から全国に拡散したとしていますが、同図をどう見ても私はそのような判断はできません。

 「チンポ」は日本の最西端の与那国島にあって北九州から中四国・関西と連続しており、その分布中心は京都にはなりません。

 「マラ」もまた西表島波照間島石垣島宮古島から奄美諸島をへて南九州に多くみられ、中四国から中部・関東・南東北に広く分布していますが北東北には少なく、松本氏の同心円説は成立しません。

 「ダンベ」は太平洋岸には見られず、西九州から福井・金沢、新潟・山形など、対馬暖流に沿って北上したと見るべきでしょう。

 「チン」系男根名の「チンコ」「チンボ-」「チンポ」は京から同心円的に分布しているというより、各地域で混在しています。沖縄本島奄美の女性器名の「ポー、ホー」が九州で「ボボ」に変わったように、与那国島の「チンポ」が北上して九州で「チンボ-」に変わり、さらに「オメコ」の対語として「チンコ」が生まれたと考えられます。

 松本氏の図から、「へのこ」と同じく、「マラ」と「チン」系男性器名も琉球から北進・西進したと私は読み取りましたが、みなさんがそれぞれ図を読み解いていただきたいと考えます。

 また、「マラ」と「チン」の語源についてはさらに探究が必要と考えます。「マラ」は同じ身体語の「ツラ」「ハラ」や「マナコ、マユ」に関係がありそうですし、「チンコ」「マンコ」「ウンコ」の類似性からみて、「チン」は「マン」「ウン」に関係しているように感じていますが、「マ」「ラ」「チ」「ウ」の語源は解明できていません。

 「マ」は和語だと「先、目、間」など、「チ」は「血、千、地、父」などの意味が考えられますが、「マ」「チ」と「ラ」「ン」を合わせて「マラ」「チン」になったということについて納得のいく解釈はまだできていません。

 なお、沖縄本島の「タニ」は、「あいういう」3母音5音節で考えると、古くは「タネ」であり、「種付け」の器官として合理的な名前といえます。

 安田徳太郎氏は『人間の歴史』において、「南方語で、もっとひろく男の性器の名をさがすと、フィジー語ではアチン、アル語ではグチンといっている。これに反して、カンボジア語では女の性器がアチンになっている」「こんにちのマレイ人も、男の性器をマラウと呼んでいる」「南方語のうち、いちばんたくさん古代語をふくんでいるサンタリ語のなかに、マランということばがある。これは大きいとか、かしらととかいう意味で、語尾子音を落とせばはっきり日本語のマラになってしまう」と述べており、さらなる語源の探求が求められます。

 

11 「方言周圏論」の見直しへ

 以上の私の検討結果をまとめると、「ヒー・ホー・べべ・メメ系女性器名」「チョコ・マンコ系女性器名」の伝播は図10・11のようになります。

 

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 松本氏のたいへんな労作「女陰男陰全国分布図」から、柳田・松本氏のような「方言周圏説(京都からの同心円的拡散説)」が導きだせるか、それとも私のような「琉球からの方言北進・東進説」になるか、みなさんもそれぞれマンチン方言分布図をじっくり検討してみて頂きたいと考えます。

 また、「ヒナ(女性器、子宮)」「ヒナサキ(陰核)」「ヘノコ(陰核)」「ノノ」のように、松本氏の図には未収録の方言や古語がある可能性があり、各地で調べていただきたいものです。

 その際には、各地域の女神や女性器崇拝を示す遺跡・遺物や伝承なども合わせて、検討していただきたいと考えます。縄文の石棒・円形石組をルーツとする全国の性器信仰については、世界遺産登録運動を進め、妻問夫招婚の母系社会のシンボルとしてアピールすべきと考えます。金精様(石棒:男根)は「女神に奉げる母系制社会の信仰である」という事実は、縄文人のみならず、人類誕生からの女性の役割を示す重要なシンボルと考えます。

 言葉はサルから人間になる知能の発達にとって決定的に重要な役割を果たし、それはメス同士・母子のおしゃべりが主導したと私は考えていますが、人類がアフリカを出た時にはすでに性器名があり、世界各地に伝わったと考えます。

 日本は漢字や宗教・文化、行政・政治制度とともに多くの漢語(音読み:呉音と漢音)を受け入れていますが、「倭音倭語」の言葉はそのまま残しています。このような3重構造(倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語)にプラスして戦後のアメリカ支配による英単語の導入の歴史をみても、日本人は古い言語をそのまま残しているのです。基本的な言語の置き換えは起きていないのです。

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 奈良・京都の支配言語がそのまま順に地方に及ぶことも、また古い言語を次々と捨ててしまうなどもありえないのであり、この点で柳田國男氏の「カタツムリ方言周圏説(同心円的方言拡散説)」は根拠のない空想論に過ぎず、それを無批判に踏襲した松本修氏の「マンチン方言周圏説」もまた破たんしているのです。

 そもそも奈良盆地は紀元1世紀頃からスサノオの子の大年(大歳)の一族(代々大物主を襲名)の支配地であり、7代後の2世紀に大国主一族のアジスキタカヒコネ(迦毛大御神)の加茂=賀茂氏)などが進出し、美和山(三輪山)・巻向山(穴師山)祭祀には各地からスサノオ大国主一族が集まり、さらに琉球の姉妹を祖母・母に持つ薩摩半島南西端の笠沙・阿多の天皇家が3世紀に奈良盆地に入り、4世紀に10代崇神天皇磯城の大物主一族の権力を奪って権力を広げ、7・8世紀に中央集権国家を確立したのです。もう1つの大きな政治的・宗教的中心はスサノオ大国主の建国地である出雲であり、神在月(神無月)に全国の神々(スサノオ大国主の御子たちの子孫)が集まり、御子たちの縁結びを行っています。

 このような人の流れからみると、奈良盆地には元々の縄文人の言語に壱岐対馬・出雲・筑紫の海人族のスサノオ大国主一族の言語が加わり、さらに天皇一族の沖縄・南九州の言語が加わっているのです。

 京都の平安京時代、鎌倉・室町・江戸時代、明治時代についてみても、京都には遣唐使による漢音漢語や朝鮮語平氏や源氏の西国・東国や尾張の武士言葉が入るとともに、江戸時代には参勤交代と道路網と回船による全国的な流通網の整備により各地の言語が入り、明治に入ると標準語教育と出版文化の興隆により東京の標準語が大規模に入ってきたはずです。

 一方、奈良・京都から地方への言語・文化の流れでみると、国司の派遣や僧侶の移動、武士の出仕と帰郷、領地替えなど、微々たるものです。

 このような人の往来・移住からみると、権力の中枢であった奈良・京都・東京、宗教中心であった三輪・出雲には各地の方言が集まって多様な方言が残されていそうですが、カタツムリ名もマンチン名もそうなっていません。土着の言語は消えることも変わることもなく、各地の氏族・部族・地域共同体の間に根強く残っているのです。

 「方言周圏論」は天皇制中央集権国家像を理想とし、それを方言構造に当てはめただけの天皇イデオロギーの産物というほかありません。

 実際の方言の分布はカタツムリや性器語の分析でみたように、琉球から北方・東方への人の移動に伴うものであり、地上を人から人へと隣り伝いに徒歩で同心円的に広がるものではなく、1万年の縄文時代の「貝の道」「ヒスイの道」「黒曜石の道」などからみても、舟で黒潮対馬暖流(琉球暖流と呼ぶべき)に乗って飛び飛びに伝わり、さらに河川に沿って山間部へと伝わっているのです。人の移動・交流・交易・移住、妻問・夫招婚とともに言葉は伝わり、その伝搬は飛び飛びであったと考えます。

 このように方言の分析は歴史全体の人・物の動きや文化を合わせて分析する必要があり、京都を中心とした「性器方言周圏論」など成立する余地などどこにもないと言わなければなりません。

 松本氏は性器語について、まずは意味的・音韻的な分析を徹底的に行い、「マントウ」が「マンジュー」になり、性器名になったという証明から始めるべきでした。

 

12 「ピー・ヒー」女性器名と日本語・日本列島人の起源

 2018年12月に「松本修著『全国マン・チン分布孝』の方言周圏論批判」を日本語論として書いて以来、私は縄文社会研究から日本列島人・日本語起源論へと進みましたので、「ピー・ヒー」信仰について補足しておきたいと思います。―縄文ノート「37 『神』についての考察」「38 『霊(ひ)』とタミル語『pee(ぴー)』とタイ『ピー信仰』」「41 日本語起源論と日本列島人起源」参照

 まず、ドラヴィダ(タミル)語の宗教語に倭音倭語と多くの共通点があり、「pee(ぴー);自然力・活力・威力・神々しさ」が日本語の「霊(ひ:fi)」(筆者注:琉球では「ぴ」が「ひ(fi)」に変わる)に対応することです。

 

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 さらに、民族学者の佐々木高明氏(元奈良女教授、国立民族学博物館長)の『山の神と日本人―山の神信仰から探る日本の基層文化』の大林太良氏の『葬制の起源』によれば、「死者の霊魂が村を見下ろす山の上や霊山におもむく『山上霊地の思想』がわが国に広く分布する」「この種の山上他界観の文化系統を考える上で目を引くのは、中国西南部の山地焼畑農耕を営む少数民族の人たちである」とし、雲南省のロロ族の「ピー・モ」(巫師)を紹介しています。さらに、文化人類学者の岩田慶治氏はタイの農耕民社会に広く見られるピー(先祖、守護神)信仰について紹介し、「浮動するピー」「去来するピー」「常住するピー」の3段階があり、「常住するピー」は屋敷神として屋敷地の片隅に祀られるというのです。

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 私の岡山県の山村と兵庫県の平野部の祖父母の家にはどちらにも屋敷神の石祠があり、私の住む埼玉県さいたま市でも昔からの家の庭には小さな祠がよく祀られていますが、そのルーツは東南アジアの「ピー信仰」の屋敷神の可能性が高いと考えます。

 「産霊(むすひ)2神」を始祖神とする記紀の記述、神名火山(神那霊山)信仰や神籬(ひもろぎ:霊洩木)信仰、霊継(ひつぎ)皇位継承儀式や朱で満たした棺・柩(ひつぎ)などに見られる霊(ひ:祖先霊)信仰、「霊人(ひと:人)、霊子(ひこ:彦)、霊女(ひめ:姫)、霊知(ひじり:聖)、霊巫女(ひみこ:卑弥呼)」の名称などのルーツは東南アジア山岳部の「ピー信仰」やインダス文明を創ったとされるドラヴィダ(タミル)族の言語に残っていたのです。

 方言分析は日本国内の人の動きにとどまらず、DNA分析とともに、日本列島人のルーツ解明のためにも分析することは重要です。

 

13 「日本語起源」「縄文人起源」「霊(ひ)信仰」「性器信仰」「母系制」「建国論」の解明へ

 松本氏の『全国マン・チン分布考』は言語論のうちの方言論の範疇にとどまりますが、私はその作業は「日本語起源論」「縄文人起源論」「霊(ひ)信仰論・地母神信仰論」「女性器信仰論」「母系制社会論」「スサノオ大国主建国論」など、日本文明・文化の解明に繋がる重要なテーマと考えます。

 「女陰全国分布図」「男根全国分布図」作成という松本氏の成果を生かし、女性器名称の歴史的分析と地理的分布の要因、音韻的変遷について再検討するとともに、日本文化の根底にある母系・父系制社会の性器信仰、女性器尊敬、性の開放性(歌垣、混浴・浮世絵など)の伝統を再評価し、明治政府から続く「俗語禁止」「言語統制」「民俗弾圧」「民間宗教否定」「禁欲強制」の悪弊を正すきっかけとする必要があります。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/