ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート28(Ⅱ-4) ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論  

 2020八ヶ岳合宿後のに、ずいぶん前に買っていた大野晋氏の『日本語とタミル語』を引っ張り出して読み直し、さらに図書館で借りて中尾佐助・佐々木高明氏の照葉樹林文化論を読み、これまでに書いてきた「縄文稲作起源」について再考し、長江稲作起源論批判をまとめました。

 これまでのものと重複する点が多々ありますが、総合的にご判断いただければと思います。                          201214 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

   Ⅱ-4 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論

                                                                                                201119→1214 雛元昌弘

1.経過

 今回の8月の八ヶ岳合宿の前後、縄文農耕・産業について、次のようなレジュメ(報告要約)を書いてきました。 

 Ⅱ-1(縄文ノート25) 「人類の旅」と「縄文農耕」と「三大穀物単一起源説」

            200209→0729→0903

 Ⅱ-2(縄文ノート26) 縄文農耕についての補足 200725→0909

 Ⅱ-3(縄文ノート27) 縄文農耕からの「塩の道」「黒曜石産業」考 200729→0903 

 Ⅱ-4(縄文ノート28) ドラヴィダ系海人・山人族による日本列島稲作起源説

            201119→1217

 Ⅱ-5(縄文ノート29) 「吹きこぼれ」と「お焦げ」からの縄文農耕論  01123→1218

 Ⅱ-6(縄文ノート30) 「ポンガ」からの「縄文土器縁飾り」再考 201220→1221

 Ⅱ-7(縄文ノート55) マザーイネのルーツはパンゲア大陸 210211

 

  3大穀類などイネ科植物の起源、「主語―動詞-目的語」言語族の移動と穀物言語分析、DNA分析による日本列島人起源、日本語起源、イネのDNA分析、食文化、記紀風土記の農耕記述などの総合的検討から、「ドラヴィダ海人(あまと=あま)・山人(やまと)族による縄文農耕・稲作ルーツ説」「紀元1~2世紀のスサノオ大国主一族による鉄器水利水田稲作普及による百余国統一」をこれまで主張してきましたが、今回、「稲作段階論」「長江稲作起源説批判」「米中心史観批判」を中心に、ドラヴィダ海人・山人族による縄文農耕起源論をまとめました。

 

2.縄文時代からの3段階稲作論

 日本の稲作については、今のところ13,000年前の島根県飯南町神戸川上流)の板屋Ⅲ遺跡、12,000年前の鹿児島県の薩摩火山灰下層、約6000年前の岡山市の彦崎貝塚や朝寝鼻貝塚からのプラント・オパール天草市大矢遺跡の5000〜4000年前の土器の稲もみの圧痕跡、約3000年前の佐賀県唐津市の菜畑遺跡や佐賀県小城市の石木中高遺跡の水田跡が最古の痕跡とされています。

 ―ウィキペディアと「泉城の古代日記」https://ameblo.jp/furutashigaku-tokai/entry-12568056471.htmlなど

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 13,000~4000年前頃は陸稲焼畑農業の可能性が高く、約3000年前の菜畑遺跡は水辺水田であり、河川が海に注ぐ葦原の沖積平野での水利水田農耕が始まり、スサノオ大国主一族の鉄先鋤の普及による「葦原中国」の建国は紀元1~2世紀になります。

 まともな学者なら、陸稲稲作・水辺水田稲作の起源は縄文時代とすべきなのですが、なんとこれまで紀元前4世紀頃からとしていた「弥生式土器時代」のゴールポストを600年も前の紀元前10世紀頃にずらし、「式土器」の3文字を外して「弥生時代」に言い換えたのです。歴史・考古学の門外漢の私には理解不能な操作です。

 これまで「弥生人(朝鮮人説・中国人説)が水田稲作を伝えた」「弥生時代に入り、米を保存する容器として弥生式土器が生まれた」「稲作により富の集中が進み支配者階級が生まれ、各地に国家ができた」「大量の弥生人が大陸から移住し、縄文人を北と南の琉球に追い払い天皇家が建国した」「狩猟漁撈採取の野蛮・未開時代から、農耕の文明社会に移行した」などと教わり、説明されてきましたが、これらすべての転換期がたった1つの菜畑遺跡から紀元前4世紀から紀元前10世紀頃に遡らせたのです。

 例えば、蒸気自動車の発明からガソリン自動車の発明、ガソリン自動車の大量生産までには200年以上の開きがありますが、「自動車時代」というならフォードのベルトコンベア方式による自動車の大衆的な普及からでしょう。

 「菜畑水田跡1つ」で時代区分を変えたいのなら「弥生時代」の代わりに「菜畑時代」とするか、あるいは「水田稲作時代」とすべきであり、これまでの「弥生式土器時代」の説明が間違っていたと釈明するとともに、紀元前10世紀頃に大きな社会変動が起きたことを証明すべきでしょう。その作業を行うことなく、「弥生式土器時代」を「弥生時代」に置き換えて600年もさかのぼらせてすますなど、まともな学者のやるべきことではありません。「弥生時代」の「弥生」の意味を子どもたちにどう説明できるのでしょうか? 「歴史学者が使い慣れているから変えたくない」では理由になりません。

 批判はさておき、私は稲作を①天水焼畑稲作(熱帯ジャポニカ)、②水辺水田稲作(熱帯・温帯ジャポニカ)、③鉄器水利水田稲作(温帯ジャポニカ)の3段階区分で考えており、①②は縄文時代、③は紀元1~3世紀のスサノオ大国主一族による百余国からなる「葦原中国(あしはらのなかつくに)」=「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂(みずほ)国」=「委奴国」(いな国=稲国)からと考えています。

 アジアの稲作区分について田中耕司氏(京大東南アジア研究所)は地形条件から「山間盆地型、平原型、デルタ型、火山麓型、湿地林型」の5区分、文化類型から「中国型、インド型、マレー型」、水文条件から「陸稲作、天水田稲作、洪水水田稲作、灌漑水田稲作」を紹介し、日本は山間盆地型稲作としていますが(『縄文謎の扉を開く』より)、私は記紀播磨国風土記の記述、菜畑遺跡の地形、水利条件(農業土木)から「天水陸稲稲作、水辺水稲稲作、水利水田稲作」の3区分として考えており、私の区分との関係は次表のとおりです。

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 13,000年前(島根県飯南町)から5000年前頃(岡山市)にかけて粟や稗などとともに天水焼畑稲作が行われ、3000年前頃から水辺水田稲作が始まり、紀元1~3世紀に朝鮮半島との米鉄交易を本格化したスサノオ大国主一族により全国の沖積平野などで鉄器水利水田稲作が広がり、百余国からなる委奴国が生まれた、と私は整理しています。

 「弥生式土器時代」のスタートを前にずらすという小細工をしなければ、「旧石器時代縄文時代弥生時代古墳時代」というガラパゴス的な「石土時代区分」を見直し、「石器時代―土器時代―鉄器時代」へと時代区分を変える絶好の機会であったのです。「弥生人朝鮮人・中国人)による縄文人征服史観」という外発的発展史観を清算し、1万数千年前の縄文時代から大陸や東南アジアから絶えず漂流・移住民を受け入れながら豊かな社会を築き、鉄器農具の導入・生産により水田稲作を全国的に普及させたという「内発的自立発展史観」へと転換を図ることができたのです。

 「縄文式式土器時代」「弥生式土器時代」を「縄文時代」「弥生時代」に置き換えるという言葉だけの小手先の手直しは、この国の古代史研究を数十年以上遅らせたと言わざるをえません。

  

3.言語と照葉樹林文化・DNAからみた東インドミャンマー高地稲作起源説

 ウィキペディアは「佐々木高明らによる論は、稲作が中国雲南省などの山間部における陸稲を発祥としていると主張していたが、近年、長江文明の全貌が明らかにされるにつれ、稲作は長江下流域の水稲耕作を発祥とする説が有力視されつつある」としています。中学校の歴史教科書なども長江流域起源説に同調しているようです。

 この稲作の起源が照葉樹林帯の「アッサム・雲南起源説」よりも「揚子江中・下流域起源説」が有力というこのウィキペディアの解説は後に批判しますが、私の判断基準はすごく単純です。

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 「米と稲作技術、米食文化、稲作米食言語の4点セットはワンセットで日本列島にきた」というものです。この米にかかわる「物証・技術・食文化・言語の四位一体原則」は、「弥生人(江南中国人)征服史観」の皆さんと言えども認めるはずです。縄文人を追い払い、征服した弥生人が稲作を持ち込んだのなら、4点セットでわが国に定着したはずだからです。

 ところが稲作や米食に関わる言葉には、田(倭音倭語:た、呉音漢語:デン)、稲(いね、ドウ)、藁(わら、コウ)、米(こめ、マイ)、粥(かゆ、シュク・イク)のように、呉音漢語にはない独自の倭音倭語がすべてにあり、それが主に今も使われているのです。「田園・水稲・純米」などの熟語で主に呉音・漢音は使われるのです。長江流域からの水田稲作四位一体伝来説は成立しないと結論せざるをえません。

 「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」「縄文ノート37 『神』についての考察」「縄文ノート41  日本語起源論と日本列島人起源」「縄文ノート38 『霊(ひ)』とタミル語pee(ピー)とタイのピー信仰」などで明らかにしましたが、五穀・神・性器名などには漢語ではない独自の倭音倭語があり、それらはドラヴィダ語(タミル語)を起源とした東インド・東南アジア諸国と言葉と類似しているのです。

 2人目の日本人として鎖国状態のブータン国を訪れた中尾佐助大阪府大名誉教授(植物学)の『秘境ブータン』(1959年)によれば、「ある日、私はテントの中でその日の賃金にする銀貨を数えていた。『十一、十二、十三・・・』と声を出して数えていると、チミーが目を丸くして笑いだした。『サーブ、とうとうブータン語を覚えましたね』 私はたしか日本語で数えていたのだ。チミーにブータン語で数えさせてみると、二度びっくりだ。一から二十までほとんどわかる。・・・私は日本語が外国でそのまま通ずるということを、生まれてはじめて経験した」というのです。

 下表に明らかなように、畑作・稲作・食事関係のタミル語(ドラヴィダ語の一部:後にアフガニスタンからのアーリア人に支配されたインドの原住民)と日本語は符合しており、ブータンなど東インドミャンマー高地にはインダス文明を作り上げたドラヴィダ族が支配を嫌い、自立を求めて移住した可能性が高いのです。

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 国立民族学博物館名誉教授・元館長の佐々木高明氏の『照葉樹林文化の道』によれば、ミャンマービルマ)から雲南ラオスにかけてはオコワや餅、チマキなどをハレの食物とする日本と同じ「モチイネ(糯)」の栽培・文化圏であり、中尾佐助氏によればブータンでは日本で今も神事に使われている赤米が栽培されており、写真は対馬市豆酘(つつ)の高御魂(たかみむすび)神社(霊(ひ)を産む始祖神の高皇産霊(たかみむすび)を祀る)の赤米の神田です。寒さや病害虫に強い赤米などは条件の悪い日本の棚田などでずっと栽培されており、木簡からは7~8世紀に丹波、丹後、但馬などから藤原京平城京へ貢物として赤米が運ばれたことが記されています。民俗学者柳田國男氏は赤飯の起源は赤米であると主張しています。

 

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 中尾佐助・佐々木高明氏らは、焼畑農業陸稲栽培、モチ食、赤米食、麹酒、納豆など発酵食品、根栽類の水さらし利用などの農業・食文化などの照葉樹林文化がアッサム・雲南地域に見られ、日本にまで続いているとしています。

 中尾・佐々木氏らはこの照葉樹林文化がワンセットで雲南をへて揚子江を下り、日本に到達したとしていますが、中国文化や呉音漢語の影響を受けていないことから私の説は両氏の伝播ルートとは異なります。

 私は「主語-目的語-動詞」言語族の日本列島人は「エチオピア→インド→ミャンマーアンダマン諸島→スンダランド→日本列島」へと「海の道」を移動したと考え、ドラヴィダ海人族によって稲作は日本に伝えれられたと考えていましたが、照葉樹林文化を考えるとその担い手はドラヴィダ系山人(やまと)族と考えるべきであり、海洋交易民のドラヴィダ系海人族と照葉樹林文化のドラヴィダ系山人族が共同して日本列島にやってきた、と考えるようになりました。

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 「インディカ米→熱帯ジャポニカ→温帯ジャポニカ(赤米、もち米を含む)」の遺伝子多様化が起こる条件は、熱帯地方で雨季・乾季があり、さらに高度差=温度差がある山岳地帯の可能性が高く、インド東部・ミャンマー沿岸のドラヴィダ系海人族の一部は温暖期にプラマプトラ川やイラワジ川などをさかのぼり、マラリアなどの害をさけて快適な気候の山岳部に移動し、ドラヴィダ系山人(やまと)族となり、紫外線を衣服で避けて肌色を変え、重い荷物を担ぐ山岳部での生活で体格も手足が長いドラヴィダ系海人族から「ずんぐりむっくり・がっしり・短足形」の山人族となり、ヤムイモ(ヤマイモ)やタロイモ(里芋、田芋)、寒さに強い温帯ジャポニカなどを栽培し、照葉樹林文化を育んだと考えます。その後、寒冷期を迎えてその一部は海岸部に移動し、ドラヴィダ海人族と組んでスンダランドへ移住し、さらに温暖化を迎えてスンダランド水没の危機を迎え、竹筏と丸木舟の船団で北へ向かい、フィリピン諸島、台湾を経て日本列島にたどり着き、陸稲うるち米ともち稲)栽培と水辺での水稲栽培を伝えたと考えます。

 この私の主張は、「縄文ノート25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』」で述べた「主語-目的語-動詞」言語族の移動と「縄文ノート43 DNA分析からの日本列島人起源論」で述べたY染色体Ⅾ1a2aグループの拡散図から明確に裏付けられます。

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 なお、3万年前頃からの東南アジア系の旧石器人と1万数千年前頃からの縄文人の「海の道」を通っての日本列島渡来は何次にも渡って行われるとともに、ドラヴィダ系山人族の一部はブータンからチベットを経て北上し、バイカル湖ブリヤート人となり、シベリアを東進して氷結したオホーツク海を渡り、北海道にたどりついたと考えます。

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 朝鮮半島の南部にもY染色体Ⅾ1a2aグループが見られ、朝鮮語は同じ「主語-目的語-動詞」言語族ですが、半島南部の縄文人Y染色体Ⅾ1a2aグループは縄文人と同じ頃にドラヴィダ系海人・山人族がたどり着いたと考えられ、その後、5000年前頃に騎馬が中央アジアで成立し、遊牧民が東進し「扶余の別種」(魏志高句麗伝)の高句麗族などが朝鮮半島を南下したためめ、朝鮮語と日本語は別の語彙になったと考えられます。

 

4.「マザーイネ」の原産地はどこか?

 ウィキペディアは、イネの「原産地は2017年現在、考古学的な調査と野生稲の約350系統のDNA解析の結果、約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地域と考えられている」「長江流域にある草鞋(そうあい)山遺跡(長江河口の上海の西に隣接)のプラント・オパール分析によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下る」「野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後にその集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、インディカ米の系統が生じたと考えられている」などとしており、これを「科学的な定説」とする風潮が見られますが、これはあくまで現時点での暫定的な「考古学的な調査」結果であり、「考えられる」という1仮説にすぎません。

 DNA分析がいかに科学的であっても、「サンプル限界の罠」を免れることはできないのであり、その罠にはまった結果を科学的と認めるわけにはいきません。その限定的な分析結果をもとに、総合的に考察、判断を行うことが必要なのです。

 1例をあげると、私は中学時代、「数十年前その昔、ピテカントロプス・エレクトス、シナントロプス・ぺキネンシス・・・」となんでも抑揚をつけて歌にしてしまう社会科教師から教わり、北京原人が日本人などアジア人の祖先だとばかり思いこんでいましたが、アフリカでの発掘が進みDNA分析できるようになり、今や「アフリカ単一起源説」が主流となり、「人類の母方は、約16±4万年前のある女性、ミトコンドリアイブを共通の祖先とする」「人類の父方は、約6万年前のある男性、Y染色体アダムを共通の祖先とする」が定説となっています。

 そして、その場所はアフリカ東海岸で海岸で20万年前とされてきていましたが、近年、最古の人類の化石はモロッコの30万年前の頭蓋骨とされる発表もあり、私はウィキペディア掲載の図からニジェール川流域から最古の人類化石が見つかるのではないか、と予想しています。

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 なおこの図は砂漠や草原・山岳地域を通っての拡散ルート図ですが、人類は果物やイモ・豆・穀類などが豊富で海産物から塩分をとれる赤道帯に沿ってコンゴ川を遡ってアフリカ大陸を横断し、海に沿ってさらにインド洋・太平洋に沿って拡散し、各地の河川を遡って内陸部に向かったと私は考えています。一方、コンゴ川からナイル川を下った部族は地中海に沿って各地に拡散したと考えられます。

 このような人類誕生地の推移をみると、「長江流域稲原産地説」は「北京原人ルーツ説」と同じ経過をたどらざるをえないと考えますが、海が嫌いなのか、「北京原人起源説」の記憶から抜け出せないのか、日本の人類学者・考古学者たちは「長江流域稲原産地説」を支持しているようです。

 人類の多地域進化説とアフリカ単一起源説の争いは、考古学的発見とDNA分析によりすでに決着は付き、その起源地は絞られてきつつあり、イネの原産地についても同じ経過をたどると考えます。

 娘が最貧国・ニジェールに海外協力隊員として赴任したことから、私はこの地のヒョウタン工芸とアフリカイネを知り、若狭の鳥浜遺跡や青森の三内丸山遺跡ヒョウタンが西アフリカのニジェール川流域であることから、イネ科の米や麦・トウモロコシなどについても同様に「マザー・イネ」の「アフリカ西海岸単一起源説」が成立するのではないかと考え、Y染色体Ⅾ型と「主語―動詞-目的語」言語族の分布と重ね合わせて「縄文ノート25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』」をまとめました。

 さらに、「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」においては、チンパンジーの食性と分布、イネ科の麦・米・アワ・ヒエ・キビなどの種子作物の分布と原産地、中尾佐助氏の「4農耕文化論」からの「サバンナ農耕文化(雑穀中心)」の伝播、日中朝の米のDNA比較、記紀琉球・中国朝鮮の「6穀」名、イモ食文化などを追加し、日本の稲作のルーツが東インドミャンマー高地であることを明らかにしてきました。

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 ただし、中尾氏らは雑穀や米は照葉樹林帯を通り、アフリカから長江流域を経て日本に伝わったとしていますが、「海の道」ルートを検証していないという限界を示しています。

 なお、現在、アフリカイネとアジアイネは別系統とされ、中国の長江流域で温帯ジャポニカイネからインディカイネが生まれたという説が見られますが、人類の移動とヒョウタンなどの伝播から考えて、種の多様化は雨季乾季のあるインド東部・東南アジアで熱帯ジャポニカが生まれ、ドラヴィダ系海人族の高地への移住に伴う栽培で温帯ジャポニカが生まれ、寒冷期にドラヴィダ系山人(やまと)族の一部が海岸部へ移動し、ドラヴィダ系海人族と共同してスンダランドへ移住し、さらに温暖期にスンダランド水没を迎えると日本へ温帯ジャポニカとともにやってきたと考えます。

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 熱帯雨林はもっとも種の多様性が高く、生物の種の約半数が熱帯林に生息しているといわれており、熱帯から温帯、寒帯と種の多様性が低くなることは高山植物の垂直分布からみても実感できると思います。熱帯雨林には果物だけでなくデンプン質のバナナやヤシ、サトイモ科、マメ科の植物も多く、天然の食物が豊富であることはチンパンジーの生息域からみても明らかです。

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 汗腺が人間の70%のチンパンジーは体温調節のために人間と同じように汗をかき、海草や貝、カニなどを食べて塩分を補給していた可能性が高く、類人猿や親類も同じ食性であったに違いありません。寒冷期に雨量が減って熱帯雨林が減少してアフリカを出た人類は、まずは海に沿って食料の豊かな熱帯地方にまず展開し、温帯地方への移動も海産物が容易にとれる海沿いに進んだと考えられます。

 私も子どもの頃、泳げないのに川や海に入り、数回、溺れそうになった経験があり、孫たちが川や海に怖がらずに入るので目が離せなくて怖かった経験がありますが、海や川には食べ物があると人類は長い経験で本能として獲得し、泳ぐ能力を学習したのではないでしょうか。

 

5.「長江(ちょうこう)流域イネ原産地説」は成立するか?

 ウィキペディアは「長江流域イネ原産地説」の根拠として、「発掘された米と野生稲の約350系統のDNA解析の結果、約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地」「草鞋(そうあい)山遺跡のプラント・オパール分析で約6000年前のジャポニカ米」「ジャポニカ米と野生稲が複数回交配した結果インディカ米の系統が生じた」という3点のようです。

 昔、「CSI:科学捜査班」というテレビ番組をよく見ましたが、怪しいと思われる人物と物証が一致して逮捕を主張する捜査員に対し、「だからといって、他に真犯人がいる可能性は否定できない」としてさらに科学捜査を進めて真犯人にたどり着く場面が毎回のようにでてきましたが、同じような経過をたどらないか、心配です。

 これらの主張が心配なのは、他の地域で「野生稲からジャポニカ米が生まれた可能性」や「ジャポニカ米のプラントオパールの発見」「ジャポニカ米と野生稲の複数回交配によるインディカ米の誕生」の可能性を否定するまでの証明ができていないからです。

 第1の問題点は、これまで中国の稲作起源地として長江下流域の約7000年前の河姆渡(かぼと)遺跡が大々的に取り上げられてきましたが、今や長江中流域の約9500~8345年前の湖南省洞庭湖近くの彭頭山ほうとうざん)遺跡、さらに北の長江と黄河の間の華北と江南の分岐線にあたる淮河上流の約8500~7500年前の賈湖(かこ)遺跡など、2000年以上も起源が下流から上流に向けて古くなってきていることです。(『アジア稲作文化と日本』1996:黄強学習院大客員研究員「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」)

 長江の上流から下流に稲作は2000年以上かけて伝わっていることからみて、洞庭湖から資水などの上流の広西チワン族自治区やその西の雲南省に起源がある可能性が高いことです。

 この照葉樹林帯の山岳地域にはタイ・ミャンマーラオスベトナムなどに住む山岳地帯と同系統の苗族(ミャオ族)が住んでおり、彼らはイネを直播していたのではなく、文字通り「苗=サ+田」で苗(なえ)を水田に植えていた民族であり、彼らこそが山岳地域から長江流域の平野部への稲作の伝播者であったことを示しています。

 彼らは自らをモン族と称しており、苗族(ミャオ族)名称は中国人が勝手に付けた他称ですから、中国人自らが水田稲作の起源を苗族として認めているのです。水田へのイネの苗植えが長江流域の中国人の発明であるなら、モン族をわざわざ「苗族」などと名付けるはずがありません。

 図のように頭山(ほうとうざん)遺跡の上流は現在のモン族(苗族)の居住地域であり、彼らこそが温帯ジャポニカを長江流域に伝えたのです。

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 黄研究員によれば、華北の粟についても淮河黄河山東半島などの16の遺跡について、8000年ころから4000年前ころにかけて、1つの例外を除いて全て上流から下流へと伝搬しているのです。中国国内では「穀物栽培下流伝播説」が成立するのであり、「長江中流稲作起源説=穀物栽培上流伝播説」は証明されていません。

 第2の問題点は、ウィキペディアは長江河口域の「草鞋(そうあい)山遺跡のプラント・オパール分析で約6000年前のジャポニカ米」を根拠として挙げていますが、頭山ほうとうざん)遺跡をはじめとする他の多くのより古い遺跡のプラント・オパールにはジャポニカ米はないのでしょうか? 東インドミャンマー高地など他地域でもっと古い地層からのジャポニカ米のプラント・オパールの調査を行うことなしにこの説は成立しません。

 日本においても、13,000年前の島根県飯南町神戸川上流)の板屋Ⅲ遺跡、12,000年前の鹿児島県の薩摩火山灰下層からのイネのプラント・オパール岡山市彦崎貝塚や朝寝鼻遺跡の約6000年前の土層からのイネのプラント・オパールの発見があり、特に土器内からの発見例を「雨水による地下への浸透」の可能性により否定することは科学的な判断とはみなせません。

 第3の問題点は、「ジャポニカ米と野生稲の複数回交配によるインディカ米の誕生」という、インドから東南アジアのインディカ米まですべてのイネの起源を長江流域とする説ですが、北京原人アジア人起源説と同じ誤りを犯していないか心配になります。

 この主張は「ジャポニカイネと野生稲、インディカイネ」が同時に広西チワン族自治区雲南、さらには東インドミャンマー高地から中国への伝播した可能性を無視した短絡説という以外にありません。

 ウィキペディアは「イネには亜種や近隣種が多いために予期せぬ雑種交配が起こることがある。特に、亜種の多様な東南アジアにおいては顕著である」「雑草イネは生態的および形態的特徴が栽培イネのそれと類似するため、駆除が極めて難しい。雑草イネは水田の強雑草で栽培イネの生育障害、脱粒、収穫種子に赤米として混入し品質低下を引き起こしている」としながら、「ジャポニカ米と野生稲の複数回交配によるインディカ米の誕生」が長江流域だけで起こったとするのは暴論という以外にありません。

 第4の問題点は、「熱帯ジャポニカ」「温帯ジャポニカ」「インディカ」の全てが長江流域で生まれたという証明がないことです。

 2008年7月7日のNature Geneticsのonline版の「コメの大きさを決める遺伝子を発見!日本のお米の起源に新説!」(独)農業生物資源研究所他によれば、「インディカイネでは、qSW5, qSH1,WaxyのDNA変化はほとんど見られませんでしたが、ジャポニカイネでは、いろいろな変化のパターンが見られました。このことは、インディカイネとジャポニカイネは、独立な過程で栽培化が進んだことを示しています。比較した3つの遺伝子がオリジナル(変化する前の元の遺伝子)であるタイプのジャポニカイネが東南アジア、特に、インドネシアやフィリピンの在来種に見られることを見出しました。このことは、ジャポニカイネの起源がインドネシアやフィリピンであることを示唆していると考えられます」というのであり、この分析が正しければ長江流域イネ原産地説(インディカイネ、熱帯ジャポニカイネ)が成立しないことは明白です。

 なお、この研究では「qSH1遺伝子の変化をもつ系統が中国や日本でしか見られず、東南アジアでは見つかりませんでした」とし、「1.現在東南アジアで陸稲として栽培されている熱帯ジャポニカイネがジャポニカイネの起源に近い、2.熱帯ジャポニカイネが中国に伝わって長江流域で水田化され、温帯ジャポニカイネが生まれた、3.温帯ジャポニカイネが更に日本に伝わった、と考えられます」としていますが、早計といわざるをえません。

 まず「qSH1遺伝子の変化をもつ系統が中国や日本でしか見られず、東南アジアでは見つかりませんでした」と断定するだけの調査が東インドミャンマー高地などで行われているのかどうかです。

 さらに「熱帯ジャポニカイネが中国に伝わって長江流域で水田化され、温帯ジャポニカイネが生まれた」と一意的に言えるのかどうかです。温帯ジャポニカイネが東インドミャンマー高地などで生まれた可能性を否定できていません。

 最後に、中国で生まれた「.温帯ジャポニカイネが更に日本に伝わった」としていますが、日本人のDNA・倭語・食文化などからみて東インドミャンマー高地で生まれた温帯ジャポニカ雲南―長江ルートではなく「海の道」を直接に日本列島に伝わった可能性が高いのです。

 第5の問題点は、遺伝子分析において、どの部分の差異を分析するかです。例えば前掲の図の「モチイネの栽培圏」に対応した「もち度」に影響を及ぼす遺伝子などを比較するなど、希少性・恒常性のある特徴的な遺伝子の比較・分析が必要と考えます。

 以上の分析により、「長江(ちょうこう)流域イネ原産地説」はもはや「北京原人アジア人起源説」と同じ運命をたどる、といえます。DNA分析=科学的という信仰や根強い「和魂漢才」「和魂洋才」の伝統を排し、分析結果を民族学民俗学、宗教学、国語学、植物学など他分野のデータと総合的に判断することが求められます。

 

6.「米中心史観」からの脱却へ

 「長江(ちょうこう)流域イネ原産地説」が「北京原人アジア人起源説」の二の舞の幻である以上、中尾佐助・佐々木高明氏らの「照葉樹林文化論」が復活するとともに、「縄文クリクリ史観(縄文人クリ・ドングリ食説)」と「弥生コメコメ史観」「トホトホ民族移動説」「イシドキドキバカ時代区分」などはワンセットで崩壊せざるをえません。

 前述のように、中尾・佐々木氏らの「アッサム・雲南説」に対し、私は「畑作・稲作・米食言語ドラヴィダ語起源説」と「Y染色体Ⅾ1a2aグループ分布」から、「東インドミャンマー高地稲作起源説」であり、「海の道(黒潮の道)」を通っての「ドラヴィダ海人・山人族稲作伝来説」です。伝搬経路論では異なりますが「照葉樹林文化論」では完全に一致し、「縄文農耕論」が証明されたと考えます。

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 「和魂漢才」「和魂洋才」といいながら、実際には「漢才・洋才」中心の4大文明史観のもとで異端視されてきた「照葉樹林文化論(中尾佐助・佐々木高明氏ら)」「日本語ドラヴィダ(タミル)語起源説(大野晋氏)」「海の道の日本人南方起源説(柳田圀男氏ら)」「縄文農耕論(藤森栄一氏ら)」などの全面的復権の時です。すべての論点について整合性のとれた「最少矛盾仮説」を採用すべきです。

 日本の稲作の起源論は、この根強い「長江流域イネ原産地説」という第1の思い込みとともに、「日本人=稲作民族」という第2の根強い米信仰と、「弥生式土器時代=稲作開始」という第3の歴史的誤認、さらに「弥生人朝鮮人・中国人)による縄文人征服」という第4の征服史観、「弥生人天皇家の建国」という第5天皇中心史観が重なり、真実の探求とは離れた奇妙な展開を見せてきました。

 私など歴史の門外漢からすると実に不可思議きわまりないと言わざるをえません。

 第1の論点については繰り返しになりますが、米・粟・麦・小豆・大豆や稗・黍・芋の食物や、稲・穂・田・畔・鋤などの全てに倭音倭語があり、呉音漢語・漢音漢語、朝鮮語に起源がないことです。もしも稲作などの農耕が長江流域から「弥生人(江南中国人)」によってもたらされたのなら、すべて呉音漢語で通用していたはずです。

 第2は、米がおいしいことや特に江戸時代に米が年貢として重要であったことは認めますが、古事記スサノオが大気津比売を殺したところ、目から稻種、耳から粟、鼻から小豆、陰(ほと:性器)から麦、尻から大豆が生まれたとしていることからみても、粟・麦・小豆・大豆等も重要な食料であったことは戦前まで一貫しているのです。「米食史観」から「芋・豆・縄文5穀農業・食史観」への転換が必要と考えます。

 「長江稲作起源説」を唱えるなら、「イモ・豆・縄文6穀長江起源説」をとなえるべきであり、さらに日本列島人(ジャポネシアン)のルーツと民族移動ルート、「主語-目的語-動詞」言語族の移動ルート、食物・農業関係言語のルーツ、ねばねば食文化のルーツ、記紀風土記の「スサノオの5穀起源」「大国主葦原中国・水穂国・天下経営・病虫鳥獣害対策・五百鉏々王・水路建設」の記述などを総合的に論じるべきです。「コメコメ偏食史観」「コメコメ唯物(ただもの)史観」でお茶を濁している場合ではないでしょう。

 第3は、水田稲作を紀元前10世紀頃とし、それを時代の転換点としてみていいのかどうかです。もし「稲作」を時代の転換点として区分するなら、記紀に「葦原中国王・水穂国王・天下経営王・病虫鳥獣害対策王・五百鉏々王・水利水田王」として書かれた大国主の時代、スサノオ大国主7代の紀元1~2世紀頃を転換期とすべきです。

 第4は、水田稲作開始を考古学から紀元前10世紀頃へと変更したにも関わらず、紀元前4世紀頃からの「弥生式土器時代」を「弥生時代」という単語に置き換えた「手品」です。稲作開始にあくまでこだわりたいのなら、「縄文時代」の次は「水田稲作時代」あるいは大国主の国名の「豊葦原水穂国時代」に名称を変えるべきでしょう。「弥生時代」と地名にこだわるのなら、「菜畑時代」と呼ぶべきでしょう。

 素直に教師の教えを信用しないへそ曲がりな私は最初に歴史で習った時から、この国には「金属器代」がなく、「石器―土器―土器―古墳」時代という石と土の未開人の文明という時代区分に疑問を持っていました。鉄器時代を時代区分とすると、九州・出雲・吉備・播磨が先進地になり、大和は後進地域となるので都合が悪く、スサノオ大国主一族の建国を認めることになるという大和中心史観・天皇家中心史観の歴史家・教師たちの歪曲としか思えません。

 第5は、記紀大国主の「葦原中国」「豊葦原水穂国」を国譲りによってアマテルの子と孫(ホヒ・ヒナトリ)が譲り受けたとしており、大国主薩摩半島西南端の笠沙に天下ったニニギや、笠沙天皇家4代目で大和に入ったワカミケヌ(若御毛沼)に国譲りなどしていません。さらに、古事記スサノオの母は出雲のイヤナミであり、その死後にアマテルらは筑紫で生まれたとも書き、スサノオを長兄の「海の支配者」として書いており、大国主スサノオ7代目とする系譜を載せていますから、そもそも記紀に登場するアマテルは襲名した別人になり、大国主の国譲りは大国主が筑紫と出雲・越の御子の後継者争いになります。このようなスサノオ大国主の「葦原中国」「豊葦原水穂国」建国神話を無視し、「弥生人天皇家の建国説」を主張する大和中心史観の歴史学者たちは、このようなスサノオ大国主記紀神話について合理的解釈ができるかどうか、説明を行うべきです。

 「縄文クリクリ史観」「弥生コメコメ史観」「トホトホ民族移動史観」「ドキドキ時代区分史観」の四位一体史観は卒業すべき時であり、「万年留年」に終止符を打つべきです。

 

7.「倭音倭語」からの歴史の再構築へ

 「和魂漢才」「和魂洋才」から出発した日本の歴史学は、古代史を「倭音倭語」で考える、というもっとも基本的な発想を欠き、漢語や洋語で縄文人を理解するという欠陥を抱えていると考えます。自分の頭で考えないで、輸入知識を器用に当てはめているだけのようです。

 例えば、「神」「霊」は古代人の理解において欠かせない概念ですが、「縄文ノート37 『神』についての考察」で書いたように、「神」「霊」は倭音倭語では「かみ・かむ、ひ・たま」であり、呉音漢語では「ジン、リョウ」、漢音漢語では「シン、レイ」です。

 古事記は「二霊(ひ)群品の祖」の夫婦神を「高御産巣日 (たかみむすひ)、神産巣日(かみむすひ))とし、日本書紀は高皇産霊・神皇産霊と書き、「日=霊=ひ」としており、さらに日本書紀は神が宿る木・城を「神籬=比莽呂岐(ひもろぎ)」とし、「神=ひ=霊」としているのです。

 私は日本語が表意文字(図形認識)と表音文字音声認識)で構成されていることから、図形認識が得意な民族であり、それが世界に通用する「絵文字」「絵物語(漫画・劇画・アニメ)」文化として現代にまで伝わっていると考えていますが、漢字を中国から習った時にも「漢字分解」により理解したに違いないと考えます。実際、誰もが漢字を覚える時に「林=木+木、森=木+木+木」と漢字を分解して習ったはずであり、子ども心に面白いと思ったものです。

 この子ども心に帰って漢字分解を行ってみると、「畑=火+田」であり焼き畑を指しており、「畑=白+田」で水を張っていない田を指しているのですが、「畑」「畠」字は漢字でなく倭人が考え出した倭字漢字(倭流漢字)なのです。なお「田」は倭音では「た」であり、呉音では「デン」、漢音では「テン」であり、国語学者大野晋氏の「た」はタミル語(ドラヴィダ語)の「tamp-al(たんばる)」、「はたけ」は「patukai(パタケ:u≒あ、ai≒え)」という起源説こそが日本の農耕の起源を示しているのです。

 これらが何を意味するかというと、縄文人は「焼畑農耕」という農業文化を持ち、「水田農耕」と区別しており、「焼畑農耕」と「水田稲作・畠作農耕」を縄文時代から同時に行っていた可能性が高く、そのルーツは東インドミャンマー高地の照葉樹林文化に遡ることを示しています。このドラヴィダ系山人族はドラヴィダ系海人族と協力しないかぎり、「海の道」を日本列島にやってくることができなかったことは言うまでもありません。

 歴史学者の皆さんに提案したいのは、漢語・英語などによらない、倭音倭語による古代史の全面的な再検討と舟遊びです。そこには皆さんが気付くことのなかった別世界が開けてくるはずであり、「日本列島文明論」を書きたくなるはずです。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団          http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論      http://hinakoku.blog100.fc2.com/