ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート29(Ⅱ-5)  「吹きこぼれ」と「おこげ」からの縄文農耕論 

 イネや粟のプラントオパール、イネのDNA分析などから縄文時代の米や雑穀栽培は物理的に証明されていると考えますが、「弥生時代命」のみなさんはどうしても認めたくないようです。

 私は「CSI:科学捜査班シリーズ」や20年を超える連続ドラマの最長記録の「科捜研の女」をよくみていましたが、「縄文食」の直接的な証明は縄文土器の「おこげ」の再現実験などから可能と考えます。

 「縄文ノート25 『人類の旅』」と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』」で紹介したNHKスペシャル・食の起源の「第1集『ご飯』~健康長寿の敵か?味方か?~」ではバルセロナ自治大学のカレン・ハーディ教授が石器時代の人骨の歯石からでんぷん粒子を見つけだしていましたが、わが国では縄文土器鍋の「おこげ」の再現実験から「縄文農耕と縄文食」の証明をさらに進めるべきと考えます。

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

          Ⅱ-5 「吹きこぼれ」と「おこげ」からの縄文農耕論

                                                                                                               201130 雛元昌弘

1.「縄文土器鍋隠し」の考古学

 口縁部が広がっている縄文土器鍋が「吹きこぼれない鍋」であることは定説と言ってよいと思います。現代の吹きこぼれない炊飯土鍋や煮物用のステンレス鍋などの口縁部と機能的に同じ形状だからです。和食の土鍋料理のルーツは縄文時代に遡ると考えます。

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 ところが、考古学者には写真のような炊飯土鍋や水炊き用の土鍋もただの「深鉢」「深鉢型土器」にしか見えないようなのです。

 内部におこげや吹きこぼれ跡がある土器に「土器鍋・土鍋」の名称が付けられていないのです。考古学者は機能、料理や食材、食文化よりも「ただ物(唯物)」としての土器に関心があるようです。

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  後の古墳時代から平安時代の須恵器になると「煮る・蒸す」土器として展示している例が見られますが、縄文土器には「煮る・蒸す」役割の土器鍋・土鍋の表示はありません。稲作が始まった「弥生時代」からは「煮る・蒸す」土器鍋はあったと認めるけれども、縄文時代に土器鍋があっては困る、縄文人が穀類の農耕を行っていたことになってしまうではないか、「深鉢」にしとこう、という暗黙の約束があるようです。

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 写真のように、縄文土器と須恵器は同じ口縁部が広がった同じ土鍋の形状をしており、それは現在の炊飯土鍋や電気炊飯器に受け継がれているという連続性から見て、縄文人が土器鍋料理を行っていたことは確実であり、「深鉢」などの名称は「縄文土器鍋」に名称変更すべきでしょう。「狩猟漁撈採取」の縄文時代には煮炊き料理はなく、「弥生時代」に稲作が始まってから始めて土器鍋ができたかのような展示には疑問を感じます。

 では、「吹きこぼれしない縄文土器鍋」で縄文人は何を煮炊きしていたのでしょうか? 私の料理経験など限られますが、ソーメンやうどん、ソバ、里芋、大豆をゆでた時に吹きこぼれを経験しており、麺に付いた小麦粉や溶けだしたデンプンが汁に粘り気を与え、泡ができて吹きこぼれるようです。

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 縄文人が食べていたと考えれられる次のような炭水化物(糖質(糖+デンプン)+食物繊維)のうち、炭水化物の多い穀類が吹きこぼれの主な原因と考えれられます。

 なお、興味深いのは、吹きこぼれの「泡」が穀物の「粟」と同じ倭音「あわ」であることです。水を沸かすとブクブクと出てくる「泡」から「粟」の名称が付けられたのか、「粟」の形から「泡」の名称がでてきたのか、どちらでしょうか?

 「Ⅳ-1(縄文ノート41) 日本語起源論と日本列島人起源」で紹介しましたが、大野晋氏は『日本語とタミル語』の冒頭で南インドに始めて調査に出かけた時の1月15日の「ポンガル」の祭りを体験した時の劇的な出会いを紹介しています。2つの土鍋に牛乳を入れ泡が土鍋からあふれ出ると村人たちが一斉に「ポンガロー、ポンガロー」と叫び、一方の土鍋には粟と米(昔は赤米)と砂糖とナッツ、もう一方の土鍋には米と塩を入れて炊き、カラスを呼んで与えるというのです。日本でも青森・秋田・茨城・新潟・長野に小正月(1月15日)にカラスに餅や米、大豆の皮や蕎麦の殻、酒かすなどを与える行事が残り、「ホンガ ホンガ」「ホンガラ ホンガラ」と唱えながら撒くというのです。「ホ」は古くは「ポ」と発音されることは、沖縄の「は行」が「ぱ行」となる方言に残っていますから「ポンガ=ホンガ」であり、なんと、インド原住民のドラヴィダ族の小正月の「ポンガ」の祭りが日本にまで伝わっているのです。縄文土器の縁飾りはこの「泡立ち=ポンガル」を表現しているのではないかと考えますが、別の機会に詳述したいと考えます.

 さらに次の表のように、泡や粟、お焦げ、鍋、土鍋の名称は呉音・漢音漢語よりタミル語(ドラヴィダ語の一部)の発音に類似性があり、「縄文ノート28 ドラヴィダ系海人海人・山人族による稲作起源説論」で掲載した農業・食物語の比較と同じ傾向を示しています。

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 ドラヴィダ語系のこれらの倭音倭語は、農作物(種子と種イモ)、農耕技術、料理・食文化とワンセットで「海の道」をドラヴィダ族によって伝えられた、と考えます。もし、長江流域から稲作だけ、あるいは稲作を中心にしてこの4点セットが伝わり、弥生人(長江流域中国人)による縄文人征服があったのなら、農耕・食文化の倭音倭語は全て呉音漢語になったでしょう。

 また、土器鍋文化が長江流域にあったのなら、「鍋(なべ)」字は「金+咼(呉音:ケ(クヱ)、漢音:カ(クヮ)、カイ(クヮイ))」にならず、「土」偏であった可能性が高いと考えられます。

 この土器鍋はインドからドラヴィダ系海人・山人族によってわが国にもたらされたのか、1万数千年のわが国独自の縄文土器鍋なのか、まだ証明はされていませんが、博物館・資料館の展示においては、植木鉢を思わせるような「深鉢」などと表示するのではなく、食文化の歴史を正しく伝えるべきでしょう。

 「ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)」「あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような・・・、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本」「顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある」「人間の創造的才能を表す傑作」として縄文文化・文明の世界遺産登録を目指し、世界の人々に見てもらうべきと私は考えていますが、英語で「Deep bowl」と表示するのか、「Clay pot」と表示するのか、「和食」の世界遺産登録と関連づけた全世界に向けた展示が必要と考えます。

 現代の文化と切り離して縄文時代だけを切り取った、遺跡ごと・年代ごと・旧称墨守の「専門家興味本位展示」ではなく、日本列島人の起源から未来の世界の人々の健康・生命、森との共生、食文化の共同性、創造性などのテーマに即した世界の一般人向けの「文明論的展示」「文化論的展示」が求められます。

 

2.「おこげ」の再現実験

 『CSI:科学捜査班』や『科捜研の女』が好きでよく見ていましたが、私のような工学系の発想だと縄文人縄文土器鍋でいったい何を食べていたのか、おこげの再現事件をまずやりたくなります。考古学だけでなく、冤罪事件や事故の究明などでも再現実験は欠かせません。

 キャンプの飯盒炊さんで火力が強すぎておこげがいっぱいできた失敗を経験した人は多いと思いますが、私が子どもの頃の祖父母の家の竈たきのご飯もよくおこげができていてました。また、私の経験では里芋を煮る妻の手伝いをしていた時に焦がしてしまい失敗したこともあります。

 ご飯を炊いた時のおこげは米粒がはっきりと炭化して形状が残るのに対し、縄文土器鍋にはそのような例は見られないようですから、米・麦・雑穀などのおこげの可能性はないと、と即断すべきではありません。子どもの頃、祖母の家で「はったい粉(香煎;こうせん)」を練ったものや葛湯(よくココアを混ぜておやつ代わり食べていました)、すいとんを食べた記憶があり、「蕎麦がき」は関東に来てから始めて体験しました。中尾佐助著氏の『料理の起源』によれば、各国で穀物の利用には「粉食」と「粒食」があるのです。

 縄文遺跡から石臼が数多く発見されている以上、縄文人が粉食を行っていたことは確実であり、ドングリから作ったとされる「縄文クッキー」だけでなく、穀類やイモ類の「土器鍋食」の可能性を検証しないということは考えられません。すいとんの場合だとおこげには穀物粒や豆粒は見られませんから、おこげ再現実験において穀類や豆類を排除すべきではありません。

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 「縄文クッキー」については再現実験で証明されているようですが、荒神山遺跡(諏訪市)や大石遺跡(原村)で発見されたおこげの中の粟粒は走査型電子顕微鏡で東南アジア原産のエゴマと確認されているにも関わらず、おこげの主な炭水化物はいったい何なのか、再現実験で確かめていないのは理解に苦しみます。石臼がある以上、未発見ですが「木臼・杵」(脱穀だけでなくイモ・穀類・豆類やナッツ類の粉砕)も考えて再現実験で検討すべきでしょう。ことによれば小豆を潰した「縄文お汁粉」などもあったかもしれません。

 なお、五穀などの倭音倭語のルーツを考えると、表3のように呉音・漢音漢語とは考えれず、タミル語(ドラヴィダ語)系の可能性が高いと考えますが、大野晋氏のタミル語調査からさらにドラヴィダ語系の高地民族の調査が求めれらます。

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 「荏(エ=荏胡麻)」は倭音倭語では「え」ですが、呉音漢語では「ニン(ニム)」、漢音漢語では「ジン(ジム)」であり、他の五穀・いもなどと同様に呉音漢音漢語が入る前からの縄文語であり、揚子江流域からの伝来とは考えれません。なお、大豆は野生ツルマメからの栽培種であり、日本原産の可能性が指摘されています。「おこげ再現実験」は私が見学した今回の茅野などの博物館では行われていなかったようなのですが、やっと先日になって、新潟県立歴史博物館の『火焔土器の国 新潟』(2009)の「考古科学が探る火焔土器」(吉田邦夫東大准教授・西田泰民新潟県立歴史博物館専門研究員)に目を通したところ、表4のような「縄文時代に食べられていたと考えられる食材」について吹きこぼれ・おこげの80回を超える再現実験が行われていることを知りました。

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 その結果は、「縄文土器に見られるような分厚いおこげができた例がない」「でんぷん質の豊富な材料の場合におこげができやすい」というのです。土器鍋による「クリクリ縄文料理」はありえないことが証明されたのです。

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 これらの食材を使ったおこげ再現実験が失敗したのですから、普通の科学者なら他のデンプン質の多い食材、ぶ厚いおこげが確実にできる米など、記紀で五穀としてあげている「米・粟・麦」などに対象を広げた再現実験を行うはずですが、その後、どうなったのでしょうか?

 これらの穀類の代わりに室町時代に伝わったとされる「モロコシ(コーリャン、高黍)」を選ぶなど、なんとも不思議な偏った実験と言わざるをえません。まるで「縄文農耕説」や「照葉樹林文化説」を否定するための仮説実験のようです。「弥生農耕」の予断を排し、縄文土器鍋のようなおこげができるまで食材の種類を広げた再現実験で縄文食材を突き止めるべきでしょう。

 

3.「おこげ」の成分

⑴ 南川雅男氏の分析

 「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」では、南川雅男北大教授の「安定同位体で古代人の食生態変化を読む」(季刊誌『生命誌』21号)の研究を紹介しましたが、この吉田・西田両氏の分析結果と合わせて考察したいと思います。

 南川氏は古人骨に残っているコラーゲンの安定同位体である炭素C13や窒素N15の割合を分析し、遺跡から出土する獣骨、魚骨、植物破片の分析と、現存の野生動植物の分析結果を照合していますが、吉田・西田両氏は土器底のおこげの炭化物について同じような分析を行っており、長期間の食材を示す骨と、一時期の食材を示すおこげの分析結果を総合的に考察すれば主要な縄文食が何であったか、サンプル数が少ないという限界は免れないもののある程度は確かめることができます。なお、炭水化物(糖質(糖類+デンプン)+食物繊維)は「炭素、水素、酸素」で、タンパク質は「炭素、水素、酸素、窒素、リン、硫黄」、脂肪は「炭素、水素、酸素」で構成されており、窒素はタンパク質の多い食事の指標となります。

 検討の前提として押さえておきたいのは、南川氏の分析結果の図ですが、植物の約95%を占めるC3植物を「ドングリ等」とし、C3植物として「イネ、オオムギ、ダイズ・アズキ、イモなど」を表記していないのは、「クリクリ縄文食史観」にとらわれた偏った図と言わざるをえません。C3植物について、穀類・豆類・イモ類・ドングリ類ごとに各食材の測定点を表示すべきと考えます。

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 なお、私の経験では漁師や海辺の住民の食べる魚の量は半端ではなく、海辺の漁師民宿や旅館の魚料理が多くてびっくりした経験をお持ちの方も多いと思います。さらに私の仕事先の瀬戸内海などの海辺の町では夕方になると主婦や高齢者、子どもがバケツと釣り棹を持って防波堤で夕食のおかずを釣っているのをよく見ましたし、瀬戸内海に面したたつの市の母の実家の私の体験でも、私が高校生までの頃だと魚や貝はいくらでもとれて飽きてしまうくらい獲物は豊富でした。揖保川で潜ると、「鮎の上を歩いて行けた」という四万十川で漁師から聞いた話が誇張ではないくらい、鮎が群れなしていたものです。

 縄文人の食事内容もまた、地方ごとの差よりも、分析した人骨が海人族(海幸彦)のものなのか、山人族(山幸彦)のものなのかの地域差によって大きく異なると考えられ、測定結果は人骨の発見場所に分けて表記すべきであったと考えます。分析方法が科学的であったとしても、データの扱いに誤りがあれば、正しい結果は導き出せません。なお、ナトリウムやマグネシウムなどの測定により、塩分摂取量により海人族・山人族の判定ができる可能性があります。

 以上の2点について疑問がありますが、南川氏の前掲の散布図を現代人を起点に黒の点線で4象限に分け、現代人に近い地域を黒点線、そこから外れた北海道を青点線、中部地方(山地)を橙色点線で囲い、現代人を起点にして3つのグループを結ぶ補助線(緑色点線)を加えて分析すると、次のようになります。

 第1は、北海道と中部地方(山地)を除き、赤点線に見られるように、縄文人は基本的に現代人に近いバランスの取れた食生活を送っていた可能性が高いことです。日本人の食材バランスは大きく変わることがなかった、と考えるべきです。

 第2は、中部地方、関東・東北地方、九州・中国地方、北海道へと右肩上がりになっており、C3植物をバースとしながら海産魚介類を組み合わせた食事であったことを示しています。

 第3は、南川氏の「北海道は海産物に強く依存」の分析はその通りと考えます。

 アイヌは一般的には狩猟民のイメージを持たれていますが、「アイヌは漁民である」とイタオマチプ(板綴り舟)を製作・展示していた秋辺得平氏(元北海道アイヌ協会副理事長)より聞いたことがありましたが、北海道の縄文人もまた海人族の食生活であることが明らかとなりました。「縄文人マンモスハンター」イメージが根強いのですが、縄文人=海人族イメージへの転換が求められます。

 第4は、海産物の入手が難しい中部地方の山人は、C3植物(イモ、イネ、オオムギ、アズキなどの糖質)と草食動物肉の土器鍋食であった考えられます。サトイモの栽培にはイノシシ、穀類栽培にはシカや鳥の鳥獣害がつきものであり、黒曜石の鏃を使った駆除が行われ、「芋と穀類、猪鹿鳥兎の土器鍋食」が成立したと考えます。

 第5は、関東・東北地方の縄文人は現代人より下側に分布しているところからみて、C3炭水化物と草食動物を中心にし、海産魚介類やC4炭水化物もある程度とっていた可能性が高いと考えられることです。

 第6は、九州・中四国地方の縄文人は現代人より右上側にシフトしており、海産魚貝類を豊富に食べていた可能性が高いといえます。

 第7は、九州・中四国地方の縄文人弥生人を較べると、弥生人は「C4植物・草食動物型」の食生活にシフトしていることです。

 南川氏はその原因として「寒冷化・乾燥化にともなう自然生態系の変化が本州以南で大きく,豊かな資源が消えていったのではないか」「野生資源の種や量の減少は,食生態の変化をうながし,それが栽培,とくに稲作の普及を助ける結果になったのではないだろうか」と想像していますが、鉄器による水利水田稲作の普及がC3植物の割合を増やすとともに、鳥獣害対策としてイノシシやシカ、ウサギ、鳥の駆除と食材化が進むとともに、猪を飼育して食べるようになったと考えられます。

 

⑵ 吉田邦夫・西田泰民両氏の分析

 南川氏の分析ではC3植物の種類の分布が分かりませんでしたが、吉田・西田氏の土器付着炭化物の分析からある程度は突きとめられます。

 吉田・西田氏の図2・3に遺跡分布を赤点線、図2にはナガイモを緑点線、クリ・コナラ・トチを橙色点線、図3にはサトイモを緑点線で囲った図を追加して考察します。

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 第1に、図2の炭素窒素同位体比と特に図3の炭素/窒素比をみると、タンパク質をほとんど含まないクリ・コナラ・トチ(青囲み)がおこげには含まれていなかったことが明らかです。おこげの再現実験結果と合わせると「クリやドングリは縄文土器鍋料理には使われなかった」と断定してよいと思います。

 第2に、おこげの分布中心を見ると、主な成分のC3植物は図2からはナガイモ(奇妙なことにサトイモのデータなし)、図3からはサトイモの可能性が高いと考えられます。

 ただ、分析していない他のC3植物(イネ、オオムギ、ソバ、ダイズ・リョクトウ等)の可能性が残されます。 

 第3に、図2・図3ともおこげの分布はほんのわずかに右肩上がりの傾向が見られますが、図2と図3では魚介類の位置が右上と右下で異なるため、新潟県内陸部の縄文土器鍋料理には、窒素を多く含む海産魚介類はほとんど使われていなかったと考えられます。

 このほんのわずかな傾きの他の影響としてはアズキや野菜、他の穀類の影響の可能性も残されます。

 第4に、私は倭音倭語の食材名と石器農機具、ねばねば食文化などから、ドラヴィダ系海人・山人族の縄文人は「焼き畑農業を行っていた」と考えてアワ・ヒエ・キビを想定していましたが、土器鍋で煮ていたのは主にサトイモでの可能性が高いことが明らかとなりました。ただ他のC3植物の可能性は残ります。

 第5に、長岡市の山下遺跡(■:黒点線囲み)、魚沼市の清水上遺跡(●〇:赤点線囲み)、旧塩沢町(現南魚沼市)の五丁歩遺跡(▲:青点線囲み)、湯沢町の川久保遺跡(×:橙色点線囲み)の違いを図3を拡大して図4を作成しましたが、食材差(地域差、季節差)、料理差(日常食か行事食か)、おこげ生成年代差などの違いまで明らかにするためには、さらに多くのアンプルが必要と考えます。

 第6に、以上のような結果を考えると、今のところおこげの主原因の炭水化物は「サトイモ・ヤマイモ」と考えられますが、さらに次のような分析により確定すべきと考えます。

① 他のC3食材(イネ、オオムギ、ソバ、ダイズ等)の分析を行い、おこげの炭水化物を絞り込むべきです。

 ブータン二条大麦六条大麦の野生種が発見されていることやタロイモサトイモ)の原産地がインド・スリランカミャンマー、ソバの原産地が雲南省北部、リョクトウの原産地がインドであることなどから考えると、ドラヴィダ系海人・山人族により、「熱帯・温帯ジャポニカ(特に赤米・もち米)、オオムギ、ソバ、タロイモ」はワンセットで縄文時代に日本に伝来した可能性が高いと考えます。

② 海浜部など各遺跡ごとにおこげのサンプルをさらに増やし、縄文土器鍋料理が縄文人の炭水化物・タンパク質・脂肪のバランスのとれた料理であったことを確定します。

③ 縄文土器の装飾性の高い縁飾りは蒸気が天に昇る「ポンガ(泡立ち)」を表し、縁飾りのある土器鍋食は「神(祖先霊)との共食の特別の料理」の可能性があり、日常食用の他の土器のおこげと分けて分析する必要があると考えます。

 対馬市豆酘(つつ)の高御魂(たかみむすび)神社(霊(ひ)を産む始祖神の高皇産霊を祀る)の赤米の神田の例のように、赤米食は特別の神聖な料理として、古くから特別の田で共同で生産していた可能性が高く、宗教行事食として赤米が縄文時代から食べられていた可能性があります。

④ おこげ測定により絞り込んだC3食材について、おこげ再現実験により、縄文土器鍋食の食材を確定します。

⑤ 私たちが目にすることの多いご飯のおこげには「米粒」の形が残りますが、前述のように行事食となると「つきもち」や「練りもち(米粉・麦粉のもち:団子やすいとん)」の土鍋料理についても検討する必要があります。

⑥ おこげに塩分(Na)がどの程度含まれれているのかどうかにより、おこげへの海産魚介類の存在を確かめることも考えられます。

⑦ マメ科植物に多いコバルト・ニッケル・鉄・銅・亜鉛がどの程度含まれるのかどうかなど、微量金属の分析も検討課題です。また、走査型電子顕微鏡によるおこげ表面形状の観察により、穀類のプラントオパール形状が確認できるかもしれません。

 

4.まとめ

 「縄文ノート26 縄文農耕について(『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』補足)」で私は中尾佐助氏の「サバンナ農耕文化(雑穀中心)」論と「稲の道」「主語―動詞-目的語」言語族の「言葉の道」を重ね、「麦・粟・稗・黍・豆」の海の道伝搬論を展開し、記紀の五穀神話や「芋(藷)食」文化を紹介し、「たべもの」からの日本文明論を展開しました。

 さらに「縄文ノート41 日本語起源論からみた日本列島人起源  」「縄文ノート43 DNA分析からの日本列島人起源論  」において、日本語起源論、日本民族DNA起源論と縄文農耕論の重ね合わせを行いました。 

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  また「縄文ノート28 ドラヴィダ海人・山人族による日本列島稲作起源論」においては、農業・食物の倭音倭語・タミル語・呉音漢音漢語の比較と長江流域温帯ジャポニカ起源説批判から、東インドミャンマー高地のドラヴィダ山人族とミャンマー海岸部のドラヴィダ海人族が連携したスンダランドを経由しての日本列島への移住説により、「米食中心史観」から「イモ・豆・縄文6穀農業・食史観」への転換を提案しました。

 これまで、縄文農耕論は公認されてきませんでしたが、南川雅男氏の人骨、吉田邦夫・西田泰民両氏縄文土器鍋のおこげの「炭素・窒素同位体」の分析と「吹きこぼれとおこげの再現実験」により、藤森栄一氏らの農耕石器論と以上の私の分析を総合することにより、縄文農耕論は明確に裏付けられたと考えます。さらに追加実験を行えば完全に証明されます。

 なお、中尾佐助氏は『栽培植物と農耕の起源』において、「根菜農耕文化」「サバンナ農耕文化(雑穀中心)」「地中海農耕文化」「新大陸農耕文化」をあげながら氏がこだわってきた肝心の「照葉樹林農耕文化」「水田稲作農耕文化」を農耕論に含めず、サバンナ農耕文化に含めるという中途半端な印象を受けます。多雨森林地帯での米や雑穀をサバンナ農耕に含めるのは私には理解できません。

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 森林を破壊した地中海農耕文化・新大陸農耕文化と牧畜・放牧・遊牧文化に対し、熱帯・温帯の根栽農耕文化と照葉樹林農耕文化(焼畑)・水田農耕文化は森林の天然養分(窒素、リン酸、カリウム、ケイ素、カルシウムなど)を活かした「持続的発展可能な農業」であり、森林保全型農業として独立して論じる必要があると考え、中尾氏の表に私の分類案を付加した表を添付します。

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 祖母の家で名月のお祝いに縁側に団子(神饌の1つの粢(しとぎ)を丸くしたもの:粢は米粉を練ったもの)と里芋を供え、赤飯を食べたことを思い出してみても、コメ(団子)とサトイモ、アズキはセットで伝来してきたと考えます。正月の雑煮の西日本の丸餅は、サトイモを輪切りにした形から来ているという説と合わせて、特別の「宗教行事食」として陸稲栽培と米食縄文時代からあったと考えます。

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 なお、記紀の死体からの五穀誕生神話について、これまで「枯れた植物の種から春になると再び芽生えて来る地母神神話」としてみてきましたが、むしろ種芋を切って植えるサトイモからきた神話ではないか、その再生力からサトイモをお月見に供えるようになったのではないか、と考えます。

 

5.世界遺産登録へ向けて

 旧石器時代からの人類の拡散、「主語―動詞-目的語」言語の拡散、農耕文化の拡散、霊(ひ:ピー:祖先霊)信仰、土器鍋文化など、記紀が伝える紀元1~2世紀のスサノオ大国主7代の建国神話から遡り、日本列島文明は総合的に明らかにすることができます。

 自由と独立、未知の世界への好奇心と冒険、諸民族との交流・交易を重んじ、アフリカ西海岸のニジェール川流域から日本列島までの大移動(グレートジャーニー)を成し遂げた、石器・土器・鉄器時代の文明の全体像を明らかにできる国として、日本列島縄文文明の世界遺産登録を行うべきと考えます。

 これからの日本は、中国・欧米の後追いではなく、これらのルート上の国々と友好関係を築きながら、独自の役割を果たすべきであると考えます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団          http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論      http://hinakoku.blog100.fc2.com/