ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート152 朝鮮ルート、黒潮ルートか、シベリアルート、長江ルートか?

 3万数千年前頃からの旧石器人と1万数千年前からの縄文人(土器人:新石器人)はどこからきたのか、そもそも同じDNAグループなのか、それとも様々なDNAグループが何次にもわたってやってきたのか、まだ未解明の点が多く残されています。しかも、発掘されている旧石器人、縄文人のDNAはあまりにも少ないというデータ限界があります。

 日本列島へのルートとしては、陸続きであった頃にナウマンゾウなどの大型動物を追ってやってきた朝鮮半島ルート説やヤシの実の漂着からの黒潮ルート説を子どもの頃には習いましたが、Gm遺伝子や細石刃文化からのシベリアルート説や照葉樹林文化や稲作からの長江ルート説なども出てきており、複数ルート説なども出てきています。

 私は西アフリカ原産のヒョウタンが若狭の鳥浜遺跡や青森の三内丸山遺跡から発見されていることと日本人に多いY染色体D型のDNAからみて、縄文人はアフリカ西海岸の熱帯雨林で7万年前頃に誕生したC型人から4万年前頃にⅮ型人とE型人(西アフリカのコンゴイド)が別れ、Ⅾ型人はドラヴィダ族の住む南インドから東インドミャンマー高地に移動し、海の道と草原の道の2ルートに別れ、東南アジアを経由した黒潮ルートと中央アジアを経由のシベリアルートを通り日本列島で出会ったと考え、それより以前の石垣島沖縄本島で発見されたY染色体O型の旧石器人は東南アジアから黒潮ルートで日本列島にやってきたと書いてきました。―縄文ノート「43 DNA分析からの日本列島人起源論」「46 太田・覚張氏らの縄文人『ルーツは南・ルートは北』説は!?」「62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」等参照

 

  

 

 しかしながら、縄文ノート「148 『地・姓・委・奴・卑』字からの中国母系社会論」「149 『委奴国』をどう読むか?」をまとめる中で、雲南などに住む「イ(委・倭)族」が、「ピー」信仰であり、「すべての音節の末尾が母音で終わる開音節言語」で、「a、 i、 u、 e、ie、 o、uo」母音であるということや、ブリヤート人の住むバイカル湖あたりをルーツとしていたモンゴル族匈奴を「ヒュン・ナ」と読み「委奴国:ふぃな(ひな、いな)の国」と読む私の説と符合することなどから、「長江ルート」「朝鮮ルート」「シベリアルート説」「黒潮・シベリアルート合流説」について再検討する必要がでてきており、DNAデータの見直しを含めて再検討したいと思います。

 なお、ここで掲載した図は高緯度地方の距離・面積が著しく拡大されるメルカトル図法によるものであり、実際には図2のようにシベリアルートは図の1/2ほどの距離であり、徒歩による草原の道の移動は困難ではなかったと考えます。

 

    

1 NHKの「マンモスハンター説」「黒潮民説」「長江稲作民説」

 20年以上前になりますが 2001年放映のNHKスペシャル「日本人 はるかな旅 第1集 マンモスハンター、シベリアからの旅立ち」では、松本秀雄大医科大学名誉教のGm遺伝子分析により、マンモスハンターのバイカル湖畔起源のブリヤート人が氷河期末期(1万年前頃)に陸続きのカラフト経由で北海道にやってきたとしていました。

 肉好きで「はじめ人間ギャートルズ」をよく見ていたからなのか、NHKスタッフたちは、マンモスハンター日本人説をトップに持ってきています。

      

 「第2集 巨大噴火に消えた 黒潮の民」では、氷河期にインドシナインドネシア・フィリピンの間にあったスンダランドから銛を持った魚食系の海人族が1万2千年前頃に黒潮に乗ってやって来て定住し、貝がら紋土器文化を育んでいたものの、6300年前の喜界カルデラ薩摩硫黄島)の大噴火で消滅したという説を紹介しています。槍を持ってマンモスなどを追いかける縄文人イメージとは大 きく異なります。

             

 「第3集 海が育てた森の王国」では、氷河期が去り、対馬暖流が日本海に流れ込んで日本列島は温暖で雨や雪の多い気候となり、栗やドングリの育つ豊かな森が生まれ、縄文文化が生まれたとしています。「クリグリ大好き縄文人説」です。

 「第4集 イネ 知られざる1万年の旅」では、6千年前頃から「熱帯ジャポニカ」が栽培されていたという説から、縄文稲作のルーツをラオスや長江流域などに求め、今も利用されている竹筏で黒潮を横切ってイネとともに日本列島にやってきたという説です。

             

 子どもの頃に習った陸続きの朝鮮半島からナウマンゾウなどを追ってやってきたという説については、旧石器人がやってきた4~3万年前頃には対馬海峡朝鮮海峡)は陸続きではなかったことなどからでしょうか、NHKは取り上げていません。

 これらは20年以上前にまとめられた番組で、時代的な限界もありますが、次のような問題点があると考えます。

 第1は、「日本人 はるかな旅」としていますが、4~3万年前からの全国に1万カ所以上ある旧石器遺跡についてふれていないことです。「縄文人 はるかな旅」とすべきでしょう。―「縄文ノート65 旧石器人のルーツ」参照

 第2は、東南アジアや中国・台湾のように多くの少数民族がそれぞれ部族社会を形成するのではなく、琉球から北海道まで対馬暖流にそって「貝の道」「黒曜石の道」「ヒスイの道」「土器の道」があり、海人族の縄文人は活発な交流・婚姻(妻問夫招婚)・交易を行い、共通する言語・宗教・縄文農耕・生活文化(縄文文明)を育んでいた可能性についてにふれていないことです。

 第3は、女性・子ども中心の採集・漁労や栽培など想像もせず、遊牧民ユダヤキリスト教の西欧中心史観の狩猟・肉食・男性主導進化説を引き継ぎ、魚介食民族であったことを忘れてしまっていることです。

 第4は、縄文時代の妊娠土偶や女神像、円形石組・石棒、環状列石などの宗教遺物を無視し、地母神信仰の母系制社会であった可能性を検討していないことです。なお、甲骨文字時代の「地」字は「土+女性器」の象形文字であり、「姓=女+生」字からみても中国も殷・周時代は母系制社会であり、春秋・戦国・秦・漢時代に父系制に変わった可能性が高いと考えます。

 第5は、イモや陸稲・粟・ソバなどの森林を切り開いた畑(火+田)の焼畑農業の縄文農耕の可能性を検討していないことです。

 

 NHKは「日本人 はるかな旅」をそのまま流通させるべきではなく、早急に修正・改定を行うべきです。

 

2 NHKクローズアップ現代の台湾-沖縄渡海実験の紹介

 2019年7月24日には、NHKクローズアップ現代は「独占密着!3万年前の大航海 日本人のルーツに迫る」として、照葉樹林帯文化論や長江流域稲作起源説などをふまえ、海部陽介東大教授の「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」の長江・台湾・沖縄ルート説を取り上げています。

 このプロジェクトはたまたま沖縄でポスターを見て知ったのですが、再現実験考古学の手法は高く評価しますが、仮説実験を行うなら草舟・竹舟・丸木舟だけでなく、竹筏についても移動実験を行うべきであり、仮説の絞り込みが間違っていると思いました。

             

 私はカヌーやヨットが好きで、倉嶋康毎日新聞記者が1977年に行った竹イカダでフィリピン・ルソン島から鹿児島まで34日間かけて航海した『竹筏ヤム号漂流記』(毎日新聞社)やハイエルダールの『コンチキ号漂流記』などを愛読していましたから、水や食料・種子などを積んだ多人数の部族が、積載量のない草舟や竹舟、丸木舟を人力で漕いで黒潮を横断したとする再現プロジェクトは「古代人を馬鹿にしたプロジェクト」と思わずにはいられませんでした。―「縄文ノート63 3万年前の航海実験からグレートジャーニー航海実験へ」参照

         

 そもそも、屈強な若者だけが日本列島に丸木舟を漕いで移住したのでしょうか? 女・子どもや年寄り、犬・ブタなどの動物は積んでいなかったのでしょうか?

 孔子が「道が行なわれなければ、筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう」と述べたように筏は戦乱の春秋時代には使われており、「日本人 はるかな旅 第4集 イネ 知られざる1万年の旅」でも紹介されたように浙江省の漁民は今も竹筏舟で漁を行っているのです。―縄文ノート「41 日本語起源論と日本列島人起源」「43 DNA分析からの日本列島人起源論」「66 竹筏と『ノアの箱筏』」等参照

 そして「今でもたまに日本まで流される漁師がいるんです。台風とか海が荒れた時のことです。私が知っているだけでも7人の漁師が日本まで流されました」という話からみても、風が吹いただけで 船は流されるのであり、竹を編んで帆をつくる知恵は春秋時代より前からあった可能性は高いのです。

 実際、カヌーで遊んでいると誰もが体験していると思いますが、艇だけでなく、体が帆の役割を果たして追い風を受けて快適に進んだり、逆に向かい風では実に漕ぐのがしんどくなるのです。帆が欲しいと思い、カヌーにお取り付けられる簡単な帆を購入したこともありましたが、さらに「アクアミューズ」というカヌーヨットを手に入れ、ヨットの製作まで行ったことがありました。 

 わが国での帆の使用は紀元前2~1世紀頃の銅鐸(福井県坂井市春江町)しか証明するものはなく、古代エジプトの帆船も5000年前近くしか確認できていませんが、竹筏での帆の利用は「古代人的合理性」からみてさらに古い可能性は高いと考えています。

         

 梅原猛氏の『森の思想が人類を救う』や安田喜憲氏の『森を守る文明・支配する文明』『森の日本文明史』、NHKの「日本人 はるかな旅 第3集 海が育てた森の王国」なども縄文社会を「森の文明」「森の王国」として捉えていますが、小学校まで岡山、中高と姫路で過ごした私の感覚だと、東南アジアでは「竹の文明」にもっと注目すべきと考えます。

 私の子どもの頃、肥後守(ひごのかみ:折り畳みナイフ)を誰もがよくポケットに入れていましたが、木よりも竹で遊ぶことが多く、刀や弓矢、釣り竿にしたり、陣地(隠れ家)をつくって遊んだり、切って放置されていた竹を沼に浮かべて筏にして遊んだこともありました。東南アジアのような竹の家の文化はありませんでしたが、民家は編んだ竹に粘土を塗って土壁にしていたのは、竹の家の延長であった可能性があります。竹垣や竹簾はどこにでもあり、田舎では半割の竹を交互に重ねて屋根にした小屋や竹床のベランダを見たことがあります。また、竹は水筒や食器、ザルや籠として利用され、イネ科の筍は春には欠かせない食材でした。

 

 竹は虫に食われてボロボロになるため交換して使用され、構造材・道具・竹簡などとして残りにくく歴史家からは注目されていませんが、石器で伐採・加工できる身近で加工しやすい材料であり、「木の文化」以上に「竹の文化」を位置付けるべきであり、竹筏は丸木舟よりも古くからの移動手段であった可能性が高いと私は考えます。

 「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」は、経験則から導きだされる旧石器人・縄文人的合理性から考えて「竹筏移住説」仮説から出発すべきであったと考えます。

 

3 日本列島への4移住ルート説の論点整理

 民族学者・人類学者は人骨や遺伝子(Y染色体ミトコンドリア・gm遺伝子など)に、歴史学者・考古学者は石器・土器・骨角器・木器に、農学者は栗やイネ、粟、ヒョウタンなどに、言語学者は倭音倭語の起源に、文化人類学者や民俗学者はもち食文化や宗教・神話などにそれぞれ主な関心がありますが、私はそれらのどの専門家でもありませんので、各分野の成果を浅く広く総合的に検討するということになります。

 ただ、「スサノオ大国主建国論」については20年ほど研究を継続しており、その霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰や神山天神信仰・烏信仰、地母神信仰の黄泉帰り宗教、母系制社会、蛇・龍蛇・トカゲ龍・龍神信仰や、「主語-目的語-動詞」言語や倭音倭語、宗教語・性器語・農耕語の起源、農耕の起源などが縄文時代に遡るという仮説を系統的に分析し、さらにそれらの起源がアフリカ・アジアに遡る可能性について検討を進めてきており、それらを合わせて日本列島への移住について「最少矛盾仮説の総合的検討」を行いたいと考えます。

 この「朝鮮半島ルート説・黒潮ルート説・長江ルート説・シベリアルート説」の総合的な仮説検証作業の論点を整理すると次表1のとおりです。

 

 図4~7には、「縄文ノート64 人類拡散図の検討」で使用した各説の主なルート図を示しますが、本やネットで参考にした篠田謙一・中田力・海部陽介氏やウィキペディアの図がずっと今も同じ説なのか、それとも現在は異なる説なのかは確かめられていません。

 またY染色体D型の分布図(ウィキペディア)が、その調査サンプルの選定(地域別・部族別のサンプル数)が適切なのかどうかについても疑問があり(日本でも沖縄人・関西人・アイヌではDNA構成が異なります)、また旧石器人や縄文人のDNAデータがごくごく少ないという前提で見ていただきたいと考えます。

 これらの図4~7から明らかなことは、日本列島とチベットビルマ沖のアンダマン諸島バイカル湖畔(ブリヤート人)、アムール川下流樺太などに見られるY染色体D型を繋ぐ合理的な移動ルートとなっていないことです。 

 私は図5の中田力氏の「海の道」移動説図を基本に、チベットから北へ進みシベリアを横断する草原の道ルートを合体させた図8の2ルート合流説を考えました。

    

         

4  「海の道」「草原の道」ルート合流説(筆者)と疑問点

 「朝鮮半島ルート説・黒潮ルート説・長江ルート説・シベリアルート説」に対し、私はY染色体D型の分布、海人族である縄文人の貝・ヒスイ・黒曜石などの対馬暖流ルートでの交易、西アフリカ原産のヒョウタンの若狭・陸奥湾の移動、東インドミャンマー高地での熱帯ジャポニカからの温帯ジャポニカからの温帯ジャポニカの誕生、焼畑文化といも・赤米・麦・ソバ・もち・納豆食文化、「主語-目的語-動詞」言語族の分布、倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3層構造言語、大野晋さんから直接教わった宗教・農耕語等ドラヴィダ語ルーツ説、ドラヴィダ族やミャンマー、東南アジア山岳地域・雲南の「ピー・ピャー・ヒ」(霊)、神山天神信仰や蛇神・龍蛇神信仰や火祭り、女神(地母神)信仰・性器信仰、縄文人の海人族(漁民)と山人(やまと)族(狩猟民)、焼畑農耕民の性格、南からきたというチベット族の伝承、などを総合的に検討し、前掲図1・図8の「黒潮ルート・シベリアルート移住合流説」を提案してきました。

 その概要は、次の表2のとおりです。

 

 この「黒潮ルート・シベリアルート移住合流説」に対し、縄文ノート「148 『地・姓・委・奴・卑』字からの中国母系社会論」「149 『委奴国』をどう読むか?」をまとめる中で、新たに次のような疑問点が浮かび、「長江ルート」「シベリアルート説」などについてさらに考える必要がでてきました。

① 「主語-目的語-動詞」言語構造であり、「すべての音節の末尾が母音で終わる開音節言語」であり、「a、 i、 u、 e、ie、 o、uo」母音であるという共通性を持つ「イ(委・倭)族」が「委奴(いな)・倭(い)」のルーツの可能性はないか?―縄文ノート「97 『3母音』か『5母音』か?―縄文語考」「147 『ちむどんどん』からの古日本語(縄文語)解明へ」参照

② 蛇神・龍蛇神・龍神信仰や「呉音漢語」は華南沿岸部一帯に住んでいた「イ(委・倭)族」の移住によってもたらされた可能性はないか?―縄文ノート「13 妻問夫招婚の母系制社会1万年」「36 火焔型土器から「龍紋土器」へ」「149 『委奴国』をどう読むか?」「149 『委奴国』をどう読むか?」「148 『地・姓・委・奴・卑』字からの中国母系社会論」参照

③ お尻の蒙古斑匈奴(ヒュン・ナ)と「委奴(ふぃな=ひな・いな)国」の類似性を持ち、Y染色体D型のブリヤート人が住むバイカル湖畔をルーツとする蒙古族系の匈奴(ヒュン・ナ)が縄文人のルーツの可能性はないか?

 

5 イ(委・倭)族ルーツ説―イ(委・倭)族と「委・倭(い)族」は同族か?

⑴ Y染色体D型のルーツの検討

 今回、イ(委・倭)族のY染色体の型を探していると、ウィキペディアに「Y染色体ハプログループの分布 (東アジア)」というデータが見つかりましたので、表3に主な部分を抜粋しました。―「Y染色体ハプログループの分布 (東アジア) - Wikipedia」参照

 

 結論から言えば、イ族(サンプル数D=125人)にはY染色体D型は0.8%しかみられず、漢族(D=166人)の0.8%と同じであり、台湾原住民(D=246人)が0.0%であることからみても、DNAからは日本人(Ⅾ=259人)の34.7%とは差が大きく、イ族から縄文人が分岐して台湾をへて日本列島にやってきた可能性はないように思われます。

 またイ族はK型が28.0%あり、ウイグル族(Ⅾ=70人)と近い可能性が高く、日本人が0.0%であるのとは違い、同じ照葉樹林帯地域に住んでいた別のDNA族であったとみられます。

 縄文人Y染色体D型のチベット人(Ⅾ=46人)41.3%、アンダマン人(Ⅾ=37人)73.0%と近い可能性が高く、東アジアの各国では1~3%しか見られないことから見て、他部族と交わることの少ない「海の道」を日本列島にやってきた可能性が高いと考えられます。

 日本人にはD型34.7%に次いでO1b型が31.7%で、韓国人(Ⅾ=506人)の32.4%、ベトナム人(Ⅾ=70人)の32.9%、マレーシア人(Ⅾ=50人)の32.0%と似ており、漢族は16.3%です。

 さらにO2型は日本人20.1%に対し、韓国人44.3%、漢族55.4%、ベトナム人40.0%、タイ人(Ⅾ=34人)35.3%、マレーシア人(Ⅾ=50人)30.0%、チベット人39.1%です。

 これらのY染色体O型族は東南アジアから黒潮に乗って北上して日本列島に直接やってくるとともに、華南沿岸部の海人族が日本列島に漂着を繰り返したり、中国・朝鮮から戦乱を逃れてやってきた人たちである可能性が高いと考えます。

 「イ(委・倭)族」と縄文人焼畑農耕・食文化、母音、宗教、部族名など多くの共通性が見られることは表2のとおりですが、Y染色体D型のDNAからみて「イ(委・倭)族」と縄文人は同じ地域で同じ文化を共有していた時期があった異なる部族であることを示しています。

 その場所は「イ(委・倭)族」の住む雲南よりチベット高原に近い東インドミャンマーの山岳地域と私は考えています。

 

⑵ Y染色体D型族の華南沿岸居住の可能性

 倭語は「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造であり、表4~6のように農業食物語・宗教語などのルーツは南インドのドラヴィダ語(タミル語)であり、さらに表6のように性器語などに東南アジア語が混じるとともに、全ての言葉に呉音漢語と漢音漢語が加わる3層構造説になっていることからみて、委奴族・委族は日本列島に移住する途中、東南アジアのスンダランドや華南沿岸部に定住していた時期があった可能性はどうでしょうか?

 

 倭音倭語には性器語などに東南アジア語が混じっているのに対し、農業・食物語や宗教語などでは倭音倭語に呉音漢語・漢音漢語がそれぞれ対応している3層構造からみて、Y染色体D型族は東南アジアのスンダランドあたりにはしばらく居住したものの、長江流域や華南沿岸部には居住することはなかったと考えます。

 「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」で、「呉音漢語は徐福一行などが紀元前3世紀に、漢音漢語は紀元1世紀の委奴国王・スサノオの遣漢使や7~9世紀の遣隋使・遣唐使がもたらしたと考えられ、倭音倭語の水田稲作起源がそれ以前に長江からではなく伝わった可能性が高いことを示しており、日本列島に定着したのは『海の道』をやってきた『主語-目的語-動詞』言語の倭音倭語族であることは明らかです」と書きましたが、Y染色体D型族は長江流域で稲作や呉音漢語を覚えたのではなく、インド南部で陸稲のインディカ米を栽培し、さらに東インドミャンマーの雨季・乾季地域で水稲の熱帯ジャポニカの栽培し、さらにマラリアなどの害を避けて冷涼な高地に移住して温帯ジャポニカを栽培して農耕・食べもの関係の倭音倭語を確立し、皮膚の色を赤褐色から黄色に変え、寒冷期にスンダランドをへて黒潮の道を直接、日本列島にやってきたと考えます。

 イネのDNAが日本はa・b・c型で、中国・朝鮮にみられるd・e・f・g型が見られないことからみても、海上移住に伴うボトルネック効果が働いていることが明らかであり、東インドミャンマー山岳部で生まれた寒さに強い温帯ジャポニカは、「海の道」を通って日本列島に伝えられたことが裏付けられます。―縄文ノート「26 縄文農耕についての補足」、「28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」参照

 また、農業・食物語はドラヴィダ語(タミル語)・呉音漢語・漢音漢語がきれいに分離しており、倭音倭語はドラヴィダ語系であり、山人(やまと)族・焼畑族のイモ食・もち食・赤飯・ソバ・焼畑文化とともに日本列島にやってきており、長江流域の農耕文化がルーツではありません。―縄文ノート「28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」、「109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑」、「140 イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生」、「145 『もちづき(望月)』考」参照

 

6 匈奴(ヒュン・ナ)ルーツ説―匈奴(ヒュン・ナ)と「委奴(ふぃな=ひな)族」は同族か?

 なんども書いたことの重複になりますので詳しい説明は省きますが、私は「委奴国」を「ふぃな(ひ:い)の国」(ひなの国、いなの国)と読んできました。―『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』「縄文ノート149 『委奴国』をどう読むか?」等参照

 不勉強な私は、今頃になってやっと紀元前4~紀元1世紀の匈奴が「ヒュン・ナ」の漢字表記であることを知り、匈奴「ピー」信仰の可能性が高いことを確認するととともに、匈奴(ヒュン・ナ)と紀元1世紀の「委奴(ふぃな=ひな)国」が同族の可能性がでてきてビックリしています。―「縄文ノート149 『委奴国』をどう読むか?」参照

 「縄文ノート43 DNA分析からの日本列島人起源論」では、「『モンゴル秘史』はチンギスカンの始祖を『上天より命ありて生まれたる灰白色の狼(ボルテ・チノ)ありき。その妻なる青白き牝鹿(コアイ・マラル)ありき。大海を渡りて来ぬ』と書いており、バイカル湖の南で、黄色い肌のドラヴィダ系山人族の男と湖を渡って北からきた白人の女が出会ってブリヤート人となったことを伝えています」と書きましたが、Y染色体D型のブリヤート人モンゴル族のルーツの可能性があり、匈奴もまたその可能性があるのです。

 ウィキペディアの「Y染色体ハプログループ」より、中央・東・東南・北アジアにかけて多い、Ⅾ型、C型、O型、N型の分布図を示すと次のとおりです。―Y染色体ハプログループ - Wikipedia参照

 なお、Ⅾ型については、前にウィキペディアから引用していた図12も添付します。 

         

 

 これらの図と表3から明らかなことは、D型・O型は東南アジアルーツの南方系、C型・N型は中央・北アジアルーツの北方系であり、前者は「海の道」「川の道」を移住した海人族で、後者は「草原の道」を移住した狩猟・遊牧民であると考えられます。

 なお、黒曜石文化は火山の多いアフリカ高地湖水地方エチオピアをルーツとし、スマトラ半島から日本列島に神山天神信仰(ピー信仰)とともに伝わったものであり、「委=禾/女」の焼畑農耕文化、「夷=弓+矢」の弓矢の得意な部族などのルーツは、東インドミャンマーの山岳地域の山人(やまと)族であり、「海の道」の途中で黒曜石の鏃を手に入れ、ヒョウタンにコメやソバ、イモなどを入れて日本列島に移住したと考えられます。

 図10・11ではD型がチベットからバイカル湖あたりに移住したように見えますが、ウィキペディアの「ブリヤート人」をみると、ハプログループC2が63.9%、次いでハプログループNが20.2%としており、表3のモンゴル族の53.0%、10.6%と似ています。漢族とは異なるとされた匈奴もまたモンゴル系の可能性が高く、ブリヤート人に見られるⅮ型族の可能性は低くく、「匈奴(ヒュン・ナ)」と「委奴(ふぃな=ひな)」は単なる偶然の一致なのかもしれません。

 ただ、遊牧民の部族は多民族から形成されており、そもそもサンプル数が少ないこともあり、現代人のDNA構成から人類の起源・拡散に迫るには限界があり、アジアの旧石器人と縄文人の人骨からのDNAデータが増えることが望まれます。

 

7 まとめ

 縄文ノート「148 『地・姓・委・奴・卑』字からの中国母系社会論」「149 『委奴国』をどう読むか?」において、「イ(委・倭)族ルーツ説」(イ(委・倭)族と倭(い)族同族説)」「匈奴(ヒュン・ナ)ルーツ説(匈奴(ヒュン・ナ)と委奴(ふぃな=ひな)族同族説)を思いつき、悩んできましたが、以上のようにこの両説は成立せず、元の「海の道」「草原の道」ルート合流説が最少矛盾仮説として揺らぐことはありませんでした。

 最初に述べたように、私はどの分野の専門家でもなく、ネットと本(最新ではなく古いものが多くあります)の情報をもとにしたものであり、それらの誤りや古い情報による誤りを犯している危険性が大いにあります。各分野の専門家によるさらなる取り組みを期待しています。

 

□参考□ 

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/