ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート27(Ⅱ-3) 縄文の「塩の道」「黒曜石産業」考

 縄文社会研究会・東京の「2020八ヶ岳合宿」に向けた縄文農耕論のレジュメ「縄文農耕からの『塩の道』『黒曜石産業』考」にその後、加筆・修正しました。

 人類が基本的に海岸ルートで拡散したと私が考えた理由は、年間を通して貝やカニ、小魚などの食料確保の容易さと塩分の確保です。肉からも塩分はとれますが、元々、アフリカの赤道に近い海岸部の樹上にいたチンパンジーから進歩し、平原に降りてはるかに運動量が多くなって汗をかき、カリウムの多い果物やイモや穀類を食べていた人類にとって塩分確保は不可欠であり、海岸部を移動したと考えていました。その「海の道」をやってきた縄文人が、信濃などの内陸部でどうやって塩分を確保していたのか、ずっと気になっていました。

 また、八ヶ岳周辺などの黒曜石の大規模な採掘は鳥獣害対策のための鏃生産ではないかと考えており、縄文農耕の裏付けとして「塩」と「黒曜石」の分析を行ったものです。                          201216 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

     Ⅱ-3 縄文農耕からの「塩の道」「黒曜石産業」考

                                                                          200729→0829→0903→1216 雛元昌弘

1.人類と塩

① 生命誕生は海からであり、魚から両生類、爬虫類、哺乳類に生物進化をたどっており、陸上生活になっても塩分を必要としました。70㎏の人の体は105gのナトリウムと塩素、合計210gを含み、胃酸による消化・殺菌、細胞内外の浸透圧による濃度調整、神経細胞の刺激伝達に塩は必要不可欠とされています。

② 漁撈狩猟・採取時代には、人類は海岸部に住み、魚介類や肉類から塩分摂取が可能でした。

③ 米カンザス大学の研究では、「美味しい食品」は「糖質と塩分」「脂肪と塩分」「脂肪と砂糖」の組み合わせとされ、穀物食への移行により製塩が行われるようになったと考えられます。 https://annababytokyo.hateblo.jp/entry/badfoods_delicious 

④ 縄文人は次の方法で塩分をとっていたと考えられ、海岸部から内陸部への移住には塩の確保が必要です。次のような方法が考えられます。

 ・魚介類・海藻からの直接摂取(魚・貝の干物・塩わかめ等)

 ・縄文土器製塩(縄文後期4,500年前頃 ~:灰塩→藻塩焼き製塩法)

 ・海水(塩分濃度3.5%)を天日で15~20%にしたかんすいや食塩泉(温泉)の利用

 ・チベットのヒマラヤ岩塩のような岩塩利用

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<仮説>

・日本中央内陸部へは「塩蔵魚介類の道」「塩の道」があった。

 ―内陸部の黒曜石と縄文6穀(米・粟・黍・稗・麦・蕎麦)との交易のために、海岸部で縄文製塩が開始された可能性がある。

 

2.縄文人はなぜ「縄文中期」に内陸部へ移住したか?

<仮説>

① 縄文前期の人口増による移動説(温暖化による食料増と7300年前の喜界カルデラ噴火による東日本への人口移動)

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② 寒冷化による日本海沿岸の豪雪地からの南下説(中部中央・関東などに南下)

③ 猪鹿ハンター説(温暖化により増えた中小型動物を追って冬の狩りが有利な内陸部へ移動)

④ 焼畑農耕説(雪の比較的少ない地域での栗・ドングリや秋ソバや冬小麦は冬から春の食料確保を可能にした可能性)

⑤ 黒曜石産業説(鳥獣害対策が必要な縄文農耕とセットで黒曜石産出地域へ移住)

⑥ ドラヴィダ系山人(やまと)族移住説(東インドミャンマー高地の高地農業と山岳信仰の継承)

 

 以上の仮説について、私は複合的な要因で何次かにわたる移住があったと考えています。

 なお、小山修三国立民族学博物館名誉教授の縄文人の遺跡数からの予測による「東高西低人口説」は、西日本における「早期の都市化に伴う縄文遺跡の未発見」の偏りと「喜界カルデラ噴火による遺跡埋没と東への人口移住」を考慮しておらず、縄文農耕を否定した「クリクリ食史観」を前提にしたものであり、方法論的にも原因の考察においても誤っていると考えます。

 ましてや、日本人北方起源説の根拠とはならないと考えます。   

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3.縄文農耕が鳥獣害対策の「黒曜石」需要を生み出した可能性

① 中山間地域での栽培農業は、今も「鳥害・獣害」との戦いです。岡山の山間部の林家であった祖父は猪がでてくるようになると、叔父に「そろそろ猟師に使いを出せや」と命じていたのを覚えています。対馬や岡山の山間地域では今も5面を金網で覆った区画の中で野菜などを栽培しています。

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② 日本書紀一書(第六)は、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」「動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」「百姓(おおみたから)、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝えています。これを裏付けるように、播磨国風土記には大国主が狩りを行う記述が3回でてきます。

② さらに、古事記薩摩半島西南端の笠沙(かささ)天皇家3代の2代目を山幸彦(火遠命、穂穂手見命)を「毛のあら物、毛の柔(にこ)物を取っていた」猟師、山人(やまと)としており、播磨国風土記には応神天皇が各地で狩りをする記述が10回も書かれており、食用・軍事訓練とともに、鳥獣害(猪鹿兎鳥)を防ぐために狩りをしていたことがうかがわれます。

③ 群馬県片品村、長野県の南牧村で仕事をした時、高原の畑から黒曜石の鏃がよく見つかると聞いており、この事実は冬季の積雪期に山野に猪鹿熊を追っての追跡猟によるものではなく、畑に現れる猪鹿兎などを待ち受けた「待ち受け猟」の弓矢猟や落とし穴猟が行われていたことを示しています。猟犬を使った追跡猟や多人数の巻狩り猟より効率的であったに違いなく、現在の猪鹿害対策も罠猟が中心です。

④ 子どもの頃、たつの市の母方の田舎では、また従兄弟たちの「木の兎罠」や「霞網猟」の遊びについていき、岡山市では近所の青年の空気銃撃ちについていったりしましたが、たまたま兎を見つけてもあっという間に逃げられ、野鳥も人の動きを察してすぐに逃げるので空気銃で撃つなどできるものではありませんでした。

 「追跡猟」など困難・非効率で、縄文人は「待伏せ猟」をやったに違いなく、長野県原村に多数の「落とし穴」が見られることからみても、イモや豆・穀類などの栽培がおこなわれていたことが明らかです。

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⑤ 縄文中期に黒曜石の需要が急増したのは、人口増加に伴う獣肉や毛皮の確保のためだけでなく、縄文畑作(焼畑農業)の鳥獣害被害対策のためであったことを示しています。焼畑農業革命と併行して、黒曜石産業が生まれたのです。

 

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4.縄文土器製塩はなぜ日本海側・西日本で進まなかったか?

① 製塩縄文土器は今のところ茨城・青森・岩手・宮城で縄文後期に発見され、紀元1~2世紀年頃からはスサノオ大国主一族による水利水田稲作の普及とともに西日本中心に弥生式土器で行われるようになります。

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② 縄文土器製塩が関東・東北でおこなわれた理由としては、茨城・青森では信州などとの交易品、岩手・宮城では内陸部との交易品として生産されたと考えられます。

⑶ 西日本の縄文時代に見られないのは、海辺居住の西日本の海人族は日本海・瀬戸内海・太平洋から塩分を含む海産物干物などの入手が容易であり、製塩を必要としなかった可能性が考えられます。また7300年前の喜界カルデラ噴火により、上野原遺跡のように降灰により縄文時代早期の西日本の縄文遺跡や製塩土器の多くは埋もれている可能性や、都市化が進んで居住条件のいい丘陵部などの遺跡が未発見の可能性も考えられます。

 

4.「塩の道」と「ヒスイ・コハクの道」「黒曜石の道」について

① 琉球の貝を対馬暖流の「海の道」を通って東北・北海道まで運んだ海人族の広域交易性は、縄文山人族が中部・関東内陸部に移住しても維持され、「川の道」を通り、海と内陸部を繋ぐ広域交易交通網を維持したと考えます。

② 図のように、「貝と黒曜石とヒスイ」「丸ノミ石斧」「曽畑式土器」の分布は、海人族である縄文人は活発に交易を行い、妻問夫招婚を行う冒険心にあふれた海洋交易民であったことを示しています。

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③ その痕跡は茅野市棚畑遺跡(5000年前頃)などで発掘された糸魚川のヒスイ、銚子産のコハク、瀬戸内海周辺で作られた土器や、糸魚川のヒスイが関東・北陸・東北・東海に運ばれていることから裏付けられます。この「ヒスイの道」「コハクの道」「土器の道」は内陸から海岸部への「黒曜石の道」でもあり、双方向に交易・交流と妻問婚がおこなわれていたことを示しています。そして、銚子との「コハクの道」は同時に「塩の道」「魚介干物の道」であった可能性が高いと考えられます。

 

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④ 記紀に登場するスサノオ大国主時代(紀元1~2世紀)の2000年前の地名が現在まで濃厚に塩尻市の平出遺跡の地に残っていることからみても、海人族の交易は長い歴史を持っていたと考えられます。

⑤ 縄文の「塩と黒曜石・ヒスイ・コハクの道」は、そのまま中・近世の「塩の道」に引き継がれた可能性が高いと考えます。         

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5.海人族の「黒曜石の道」「ヒスイの道」「コハクと塩の道」「土器の道」などを含めた世界遺産登録へ

① 「信州・黒曜石文化を世界遺産へ」という意欲的な取り組みが長和町と明治大学黒耀石研究センターで取り組まれていますが、「黒曜石文化」というフレーム(枠組み)は世界的にみても縄文文明全体から見ても狭すぎるように思います。

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② 「縄文農耕」や「土器鍋文化(煮炊蒸し料理や宗教デザイン性)」「和食に繋がる塩・魚介類の道」「母系制社会の女神信仰」「縄文巨木楼観神殿」などと合わせて、総合的な縄文文化論、海人・山人族の海洋交易民文明論としての位置づけが必要と考えます。

③ 「信州・黒曜石文化を世界遺産へ」から、「厳島神社紀伊山地の霊場と参詣道、富士山―信仰の対象と芸術の源泉、『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の4つの世界遺産と「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録申請、「和食、山・鉾・屋台行事」の2つの世界無形文化遺産とリンクした「日本中央部縄文文明を世界遺産へ」という豊富化とスケールアップが必要と考えます。―「縄文ノート49 「日本中央縄文文明」の世界遺産登録をめざして」参照

④ 黒曜石文化でいえば、火山地域のエチオピアケニアインドネシア→フィリピン→日本の神名火山(神那霊山)信仰の繋がりと一体となった「黒曜石の道」の可能性を「主語-目的語-動詞」族の移動、Y染色体Ⅾ型族の移動、イモ・縄文6穀の縄文農耕の伝播と合わせて総合的に検討すべきと考えます。―「縄文ノート57  4大文明論と神山信仰」参照

⑤ 地域的な範囲としては、長野を中心に新潟・群馬・山梨のネットワークが考えられます。特徴的な遺跡(黒曜石・ヒスイ・石棒円形石組・巨木建物・土器・女神像・土偶・耳飾り)と常設博物館・考古館・資料館をもうけた研究・教育・観光体制、現代に続く御柱祭や性器信仰などから考えると、この4県になると考えます。巨木遺跡を含めると能登真脇遺跡なども入り、都県・市町村立博物館・資料館や埋蔵文化財センターを含めると、東京・神奈川・静岡も入ることになりますが、1ランク下がると考えます。

 

 □参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団          http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論      http://hinakoku.blog100.fc2.com/