ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート25(Ⅱ-1) 「人類の旅」と「縄文農耕」、「3大穀物単一起源説」

 2014年6月に縄文社会研究会に向けて書いたレジュメを2020年2月に「縄文ノート5」としてアップしましたが、「2020八ヶ岳合宿」に向けて修正し、さらに修正したものです。

 生物や人類、犬などの系統樹が作成されながら、農産物や植物のDNA分析から系統樹(図参照)が作られていないのはおかしい、という素朴な疑問から出発し、イネ科植物の「マザーイネ」のルーツが西アフリカのニジェール川流域ではないか、という壮大な仮説です。

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 その発端は鳥浜遺跡などのヒョウタンですが、「ヒョウタンから駒」ならぬ、「ヒョウタンから米」「ヒョウタンからSOV(主語-目的語-動詞)言語族の移動」「ヒョウタンから日本列島人の大移動」「ヒョウタンからドラヴィダ語」「ヒョウタンから照葉樹林文化」に到達しています。              201213 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

  Ⅱ-1 「人類の旅」と「縄文農耕」、「3大穀物単一起源説」

                                                 140613・17→190131→200730→0903→1213 雛元昌弘

 次女のニジェール土産のヒョウタン細工のランタンから、12000~5000年前の鳥浜遺跡から見つかったヒョウタンがアフリカ西海岸のニジェール川流域が原産地であることを確かめ、土器人(通説は縄文人)がヒョウタンに水を入れ、竹筏に乗って「海の道」をやってきたことを確信し、2014年5月に「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構―海洋交易民族史観から見た鉄器稲作革命」(『季刊日本主義』2014夏)を書きました。

 さらに考えてもみなかったのですが、ニジェールに稲があることを次女から聞き、ナイジェリアに水田稲作の指導に行っている鳥取大学名誉教授の若月利之さんから陸稲のアフリカ稲があることなどを教えられ、イネ科の稲や麦、雑穀、サトウキビなどのルーツもまたアフリカではないかと考えるようになりました。

 この小論は2014年6月に書いたものに一部、加筆したものです。

 

1.鳥浜遺跡のヒョウタンと米の関係

 島根や岡山・鹿児島の稲作の起源が13000~6000年前(縄文時代草創期・早期・前期)となる一方で、若狭の鳥浜貝塚(12000~5000年前)では南方系のヤシの実やヒョウタン・リョクトウ・シソ・エゴマ・コウゾ属・ウリが北方系の植物とともに発見されながら、米は見つかっていません。

 若狭での米の栽培はもっと後のことになり、多様な人々が、何次にもわたってこの国に来て、各地に分散したようです。

 ちなみに、ヒョウタンは西アフリカ、ウリは西アジアから北アフリカ、リョクトウはインド、シソはヒマラヤ・ミャンマー・中国、エゴマは東南アジアが原産地とされ、いずれも熱帯・亜熱帯方系ですから、これを持ってきた人たちは寒いシベリアや乾燥した砂漠・草原地帯からではなく、熱帯・亜熱帯の「海の道」をやってきたのは確実です。

 「ヒョウタン・ウリ系」の人々が日本列島に定住した後、「熱帯ジャポニカ」系の人々、続いて「温帯ジャポニカ系」の人々がこの日本列島にやってきたと考えられます。

 

2.アフリカイネとアジアイネ(インド型、ジャワ型、日本型)の起源について

 人類の起源が「多地域進化説」から「アフリカ単一起源説」変わったように、イネ科の栽培穀類の起源もまた、「多地域起源説」から「アフリカ単一起源説」に変わる可能性があると考えます。

 その場合、「種の多様化」を考えると、陸稲水稲の原産地がアジアで陸稲だけがアフリカに伝わったとみるより、稲の原種(マザーイネ)はアフリカの陸稲で、アジアにわたり、雨季に水没する条件のもとで陸稲水稲の「種の多様化」が生じたと見る方が自然です。

 ヒョウタンに水や種子を入れ、アフリカの「マザーイネ」は温暖多雨で高度差のあるインド東部・ミャンマーあたりでまず雨季に生き延びるインディカ(水陸稲)や熱帯ジャポニカ陸稲)に変異をとげ、さらに高地の冷涼地で温帯ジャポニカ水稲)に多様化し、「海の道」を竹筏に乗った人々により日本に到達した可能性が高いと考えます。

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 ミャンマー高地から雲南に伝わり、長江を下ったルート、ラオスベトナムを経て長江に伝わったルートも考えられますが、稲作や米食の言語・文化からみて「海の道」伝播説の可能性が高いと考えます。

 人の動きを下図の「Y染色体亜型」の分布からみると、日本列島に多く見られる「Ⅾ」型は中国・朝鮮・シベリアには見られず、チベットあたりにしか見られないことからみても、このあたりの山岳地域で寒さに強い温帯ジャポニカが生まれ、「海の道」を通って日本列島に持ち込まれた可能性が高いと考えます。

 

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  さらに、別のY染色体Ⅾ系統1a2aグループの分布からみると、インド東部・東南アジア高地のドラヴィダ系山人(やまと)族は、寒冷期に南北に分かれ、チベット高原から草原が広がったシベリアへ向かった「狩猟民ドラヴィダ族」(ブリヤート人などマンモスハンター)と、寒冷期に高地を下り、アンダマン諸島ミャンマー海岸部の「ドラヴィダ系海人族」と協力し、スンダランドを経て竹筏・丸木舟で日本列島へ向かって縄文人となった「ドラヴィダ系海人・山人族」に分かれて日本列島に向かったと考えます。―「縄文ノート43 DNA分析からの日本列島人起源論 200924→1023」参照

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 なお日本語の単語が漢字の読みで「倭音、呉音、漢音」の3層構造であることは、中国から呉音漢語が入る前に独自の倭音倭語が成立していたことを示しており、稲作・米食の言語は長江流域から呉音漢語が伝わる前から定着していたことが明らかです。

 中国・東南アジア諸国の「主語―動詞-目的語」言語構造ではなく、次図のように「主語-目的語―動詞」言語構造がギニア周辺・エチオピア・インド・チベットブータン・ネパール・ミャンマー・日本・韓国朝鮮と続いていることからみて、1万数千年に日本列島にやってきた縄文人は倭音倭語を話しており、次に中国からは戦乱を逃れてやってきた人たちや漁に出て漂着してきた海人族が呉音・漢音を持ち込み、縄文人に同化したと考えます。 

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 温帯ジャポニカ稲はアッサム・ミャンマー雲南の山岳地域起源説(アッサム・ミャンマー雲南→長江下流)と、長江(揚子江)流域から直接あるいは朝鮮半島をへて日本にたどり付いたという長江中流域起源説がみられますが、ヒョウタン・ウリ・リョクトウ・シソ・エゴマがワンセットで鳥浜遺跡で発見されていることや日本人の遺伝子、稲作・米食の言語や行事食文化などからみて、熱帯から亜熱帯にかけての「海の道」から陸稲の熱帯ジャポニカ、続いて水稲の温帯ジャポニカが日本列島に直接もたらされたとしか考えられません。

 長江中下流域で自然に生えた稲から栽培稲が誕生したことがDNA分析で証明されたという説がありますが、種の多様化がインド東部・ミャンマーの熱帯から冷涼な高地にかけての地域で起こり、多種類の稲の原種とともにインディカ米や熱帯・温帯ジャポニカ雲南から長江を下った伝わったという可能性が高く、長江中流域起源説は必要十分条件を満たした証明とは言えません。「北京原人アジア人起源説」と同じ運命をたどることになるでしょう。

 「長江流域起源説」のみなさんは、稲作・米食言語が倭音倭語であり、赤米・赤飯・もち米文化がどこから日本に伝わったのかについて合理的な説明を行うことなしに「稲作長江中流起源説」に同意すべきではないと考えます。

 

3.人類の移動と食物について:いつまで「ギャートルズ」?

 これまで、人類の旅(グレートジャーニー)と、ヒョウタンやウリ、稲の伝搬、日本語の起源、縄文研究などはそれぞれ別々に論じられてきましたが、そろそろ、統一的な検討が必要と思います。

 人類が石器を持ってマンモスなどのほ乳類の獲物を追って世界に拡散したという西ヨーロッパ発の肉食史観、「はじめ人間ギャートルズ」のギャグ漫画史学(「チャンバラ考古学」とそっくり)はそろそろ卒業すべき段階でしょう。

 元々、樹上で果物や木の実、昆虫などを食べていた人類の祖先であるアフリカの黒人は、動物の肉だけでなく様々な穀類やイモ類、魚貝類を食べながら、世界に拡散したと考えます。野生のチンパンジーの食物の95%が植物性であることをみても、「マンモスハンター説」のような「焼き肉食原始人」から「食物多様性原始人」イメージに変える必要があると考えます。

 2019年11月からNHKスペシャルで始まった食の起源の「第1集『ご飯』~健康長寿の敵か?味方か?~」によれば、アフリカの旧石器人の摂取カロリーの5割以上が糖質で主食が肉というのは間違いであり、でんぷんを加熱して食べると固い結晶構造がほどけてブドウ糖になって吸収され、その多くが脳に集まり、脳の神経細胞が増殖を始めるとされています。火を使うでんぷん食に変わったことにより脳は2倍以上に巨大化したというのです。肉食獣の脳が大きいこともなければ、脳の中は筋肉ではないのですから、「肉食進化説」は棄却されるべきでしょう。

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 さらに、「第3集『脂』~発見!人類を救う“命のアブラ”~」ではオメガ3肪酸(青魚・クルミ・豆類など)が脳の神経細胞を形作り、樹状突起同士を結び付け、高度な神経情報回路を生み出すのを促したとされています。

 猿から人間への頭脳の発達には魚食と穀類の組み合わせが有効であったのであり、海岸・河川地域での魚介類やイモ・イネ科穀類などの摂取こそが人類を猿から進歩させたのです。日本列島における世界に先駆けた縄文土器鍋によるイモ・豆・栗・雑穀・野菜・茸・魚・貝・肉などの煮炊きによるバランス食文化は、これからの人類にとって重要な示唆を与えると考えます。土器鍋は人類初の主食調理器具の偉大な発明であり、石器時代に次いで土器時代(土器鍋時代)という時代区分を採用すべきと考えます。

 肉食の弊害(アンモニア処理の肝臓・腎臓への負担、尿酸の蓄積、血液酸性化による骨からのカルシウム溶解、カルシウムのリンの置き換え、焼き焦げによるがんの発症)を考えると、魚食と穀物・豆・ナッツ・野菜を組み合わせたバランス食による健康長寿化により、祖父母から孫への教育・文化継承が可能となり、縄文土器のような高度な芸術・文化を生み出した可能性が高いと考えます。

 

4.「3大穀物(米・小麦・トウモロコシ)単一起源説」について

 小麦は、中央アジアコーカサス地方から西アジアのイラン周辺が原産地で、1粒系コムギの栽培は1万5千年前頃に始まり、7500年前頃に普通コムギの栽培がメソポタミア地方で始まり、5000年前ごろにヨーロッパやアフリカに伝えられたとされています。

 一方、水田稲作は、揚子江下流の彭頭山ほうとうざん)遺跡で8000年前頃、河姆渡(かぼと)遺跡で7000年前頃から開始されたとされ、日本のこれまでの定説では3000年前頃とされています。

 しかしながら、灼熱の気候のアフリカ・インド・東南アジアでは有機物は痕跡を残さす、植民地化され近代化が遅れた国々では、旧石器時代新石器時代の研究は遅れている可能性があります。「考古学のデータ限界」です。

 小麦と米は同じイネ科であることから、「米・小麦同一地域起源説」がアフリカ中央部の熱帯地域において成立する可能性はないでしょうか? 

 さらに、飛躍した仮説になりますが、イネ科のトウモロコシやアワ・ヒエ・キビ、サトウキビ、竹などを含めて、全て単一の「マザー・イネ科」のルーツがアフリカの可能性はないでしょうか? 

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 パンゲア大陸の時代でみれば、アフリカのニジェール川流域は南アメリカの東端に接しており、アメリカ大陸にしかないトウモロコシのルーツは西アフリカに近接していたこの地域の可能性が高いといえます。通説では最初の被子植物ジュラ紀裸子植物から分化したとされていますが、その前の三畳紀に分化したとする説もあり、後者であればその可能性はあります。

 人類の「アフリカ単一起源説」と同様に、「小麦・米・とうもろこしのイネ科三大穀物単一起源説」を検討してみるべきと考えます。

 

5.焼米・焼麦と農耕開始について

 新石器時代に土器が出来て、米や小麦を煮て粥にし、その後に粉にして焼くようになり、穀物が食べられるようになった、と思い込んでいました。しかし、昨年の秋、妻がベランダでのイチゴ栽培の苗床用にもらってきた藁に残っていた稲穂の籾を見つけ、焼いて孫に食べさせたことがあり、私も子どもの頃に田舎のどんど焼きで焼米を食べたことがあることを思い出しました。米は脱穀して煮なくても焼いて食べられるのです。

 縄文人脱穀した米の「お粥」を食べるとともに、「焼米」を食べていた痕跡が残っており、たき火をしていた旧石器人もまた、野生の稲を燃やした時に白くはぜ(爆ぜ)、こうばしい香りのする焼米などを見つけ、穀類を食べ始めた可能性があります。

 また、子どもの頃、田舎に行くと「はったい粉」を熱湯で練って食べたことがよくありましたが、炒った麦を粉にして食べる「むぎこ」「むぎこがし」「はったい粉」のルーツは、パン・クッキーよりもはるかに古い可能性があります。「食べられるおいしい麦茶」が2013年7月30日にNHKあさイチ」で【すご技Q 麦茶パワー】として紹介されていましたが、麦もまた「パン食」より前に「焼麦」として食べられ始めた可能性があります。

 棒で穴を掘って種を植えれば、気象条件さえあえば穀類は育つのです。穀類の栽培は旧石器時代に遡り、ヒョウタンの故郷、ニジェール川流域がイネ科穀物の採取・利用のルーツの可能性があります。

 この「ニジェール川流域イネ科植物単一起源説」説については、ヒョウタンや稲、麦などのDNA解析により、決着が付けられるのを待ちたいと思います。

 

6.アワ・ヒエ・キビ(雑穀)の栽培

 アワ・ヒエ・キビは雑穀と呼ばれていますが、米・麦・トウモロコシ・サトウキビと同じイネ科であり、西アフリカ原産ではないか、という仮説を私は考えてきました。

 縄文時代からアワ・ヒエ・キビは栽培されている痕跡があり、沖縄の久高島には「イシキ浜に流れ着いた壺(またはヒョウタン)の中に麦・粟・アラカ(もしくはクバ=ビロウ)・小豆の種子が入っていた」という伝承が伝えられており、アフリカ西海岸原産のヒョウタンに種子が入れられ、「海の道」を通ってやってきた可能性があり ます。

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 ヒエは三内丸山遺跡などの縄文遺跡から見つかり、「日本ではかつて重要な主食穀物であったが、昭和期に米の増産に成功したことで消費と栽培が廃れた」(ウィキペディア)とされています。古事記スサノオによる5穀起源の記述では「稲・粟・小豆・麦・大豆」があげられ、新嘗祭の供物として米とアワが用いられていることからみても、縄文時代にはアワ・ヒエ・キビを栽培して主食としていた可能性があると考えます。

 「阿波・安房」や「淡路」、「日枝・日吉・比延・比叡」「吉備」の地名や、古事記の国生み神話の「淡道」「粟国」「吉備児島」は、アワ・ヒエ・キビが主要な穀物であった可能性を示しています。

 また、古日本語の「あいういぇうぉ」が、「あいういう」(沖縄方言に今も残っています)と「あいうえお」に分岐したと私は考えていますが、出雲の「斐伊川(ひいかわ)」は「ひえかわ」であった可能性があります。

 

7.小豆は日本産の可能性

 大豆・小豆の原産地は東アジアとされていますが、原種のツルマメ、ヤブツルアズキは日本にも自生しており、紀元前4000年頃より栽培化されたことが明らかとなっています。

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 アマミキヨを始祖神とする海人族(天族)の沖縄の久高島の伝承に「小豆」があり、古事記の国生み神話に「小豆島(あづきしま)」地名があり、スサノオの5穀神話に「小豆」が見られることからみても、豆類の栽培がおこなわれていたことは確実です。

 赤飯を重要なお供え物、行事食とする習慣は「赤米」に由来するとされており、赤米の稲作とともに「白米+小豆」の栽培が縄文時代に行われていた可能性が高いといえます。

 

8.イモ食のルーツ

 旧石器人・縄文人の主食を論じる時、すっぽり抜け落ちているのは、籾やプラントオパール、土器圧痕などの痕跡が残らない「イモ類」です。

 アフリカ原産のタロイモ(タイモ、エビイモ、タケノコイモ、サトイモ)やヤムイモ(ヤマノイモ、山芋)を主食とした熱帯・亜熱帯・温帯のイモ食文明の解明は「穀物文明史観」のもとで遅れているといわざるをえません。

 現在、ヤムイモの生産地はナイジェリアが7割近くを占め西アフリカが中心で、タロイモもナイジェリア34%を占め、中国17%、カメルーン16.%、ガーナ14%、マダガスカ2%と続いています。

 ヒョウタンや稲と同様に、「マザーイモ」もまた西アフリカを原産とし、「海の道」を通ってタロイモ・ヤムイモは東進し、日本にたどり付いた可能性があります。「田芋・里芋(タロイモ)」「山芋(ヤムイモ)」の「田・里・山」の名称区別や「タロ=田」「ヤム=山」の名称の符合からみて、芋栽培の起源は旧石器時代に遡る可能性があります。

 中秋の名月サトイモを備えて月見する芋名月や、輪切りにしたサトイモを模した「丸餅」を雑煮として西日本で食べる習慣などからみて、その起源は稲や粟を備える祭りより古い可能性があります。縄文土器の底のおこげの再現実験や縄文人の歯石の分析など、イモ食文化について本格的な研究が求められます。

 

9.繰り返した人々の渡来

 20万~15万年前にアフリカに生まれた原生人類は、約10万年前に火を起こすようになったとされており、この頃、すでに焼米を食べていたかも知れません。

 人類の「出アフリカ」は7万年前頃とされていますが、さらに遡り約12万年前という説も出されています。彼らは、手ぶらで石器だけ持って動物を追って各地に移動したのでしょうか。熱帯地域の果物や穀類、イモの味を忘れ、貝やカニ、魚は食べようとしなかったのでしょうか? 塩分が補給できる海岸に沿って移動しなかったのでしょうか?  ヒョウタンに水や種子を入れ、舟で旅をすることはなかったのでしょうか? 塩を必要とはしなかったのでしょうか?

 日本の旧石器時代は4~3万年前から、縄文時代は16500年前(鳥浜貝塚は12000~5000年前)から、稲作は13000年前頃からとされています。

 旧石器人が南からまず住み着き、ヒョウタンやウリを持った南からの人々、北方野菜を持った北からの人々、さらに南からイネを持った人々など、何次にもわたってこの国に人々が住み着いたことが明らかです。

 「はじめ人間ギャートルズ」的なマンモスハンターの肉食旧石器人史観、子どもの頃に筏や舟遊び、潮干狩りや釣りをしたことのない学者が机上で考えたウォークマン史観、魚介中心の和食を忘れた狩猟採取の縄文人史観から卒業し、「芋と魚介食の海人族の旧石器人」「芋栗縄文6穀と魚介・猪鹿鳥の土器鍋食の縄文人」像へ転換するとともに、「弥生時代稲作農耕説」から「縄文時代(土器時代)焼畑・水辺水田農耕説」への転換が求められます。

 

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団               http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論           http://hinakoku.blog100.fc2.com/