ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート24(Ⅰ-5) スサノオ・大国主建国からの縄文研究

 私の原点であるスサノオ大国主建国論からの縄文研究の方法について整理しました。

 日本の縄文研究が足踏みしている第1の根本的な原因は、古事記日本書紀記紀)神話に書かれたスサノオ大国主16代の神話を後世の創作として、建国史の解明を放棄した点にあり、紀元1~4世紀の具体的な歴史から遡って縄文社会・文化・宗教の解明をしなかったことです。

 第2の原因は、水田稲作開始を3000年前頃からとし、「弥生人(長江流域中国人)による水田稲作開始」と「呉音漢語の導入」により文明社会が始まったとし、文字記録のない倭音倭語の1万数千年の縄文時代を「未開時代」「原始時代」「前文明社会」に押し込めてしまった拝外主義の断絶史観にあります。甚だしきは「弥生人による縄文人征服説」「日本人の8割が弥生系」「弥生人天皇による建国説」「3世紀のアマテル(アマテラスは本居宣長説)=卑弥呼建国説」など、縄文社会・文化への関心がなかったことです。

 第3の原因は、「弥生人による縄文人征服説」「奈良時代の縄文系2割以下説」など、縄文時代弥生時代を断絶したものとし、縄文社会・文化の価値を低くみたことです。

 第4の原因は、天皇を神とする戦前の皇国史観への反省から、遺跡・遺物の分析こそが科学であるという「ただもの史観」「物証史観」に陥り、縄文社会・文化・宗教の解明への意欲を失ってしまったことです。

 第5の原因は、武士社会からの「米中心史観」「農地(生産手段)支配史観」を引き継ぎ、自然の価値や縄文農耕、共同体社会の価値を見出せなかったことにあると考えます。

 私は縄文時代(土器時代)の解明はスサノオ大国主国史(農耕・生活・文化・宗教)の解明から遡るべきと考えており、私の縄文研究の方法論を紹介するとともにこれまで書いてきたスサノオ大国主建国論の簡単な紹介を行いたいと思います。

                             201212 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

      Ⅰ-5 スサノオ大国主建国からの縄文研究

                                                                                               200913→1212 雛元昌弘

 1.「考古学と文献のデータ限界」を超える仮説検証型の縄文研究へ

① 縄文考古学のデータ限界の克服:多くの発掘は開発に伴う偶然の産物であり、仮説検証型の発掘・分析(微量定性分析・DNA分析等)と再現実験による仮説検証型の縄文研究に転換すべきと考えます。

② スサノオ大国主国史から遡る縄文研究へ:『漢書』『論考』など中国文書と文字のない縄文遺跡・遺物というデータ限界から不可知論に陥るのではなく、記紀神話と伝承の真偽判断から紀元1・2世紀のスサノオ大国主7代の建国史を明らかにし、そこから遡って縄文生活・文化・宗教・社会・文明を解明すべきと考えます。

③ 日本列島人・倭語・農耕起源からの縄文研究へ:「日本列島人起源説」「倭音倭語起源説」「農耕起源説」から縄文社会・文化・文明の解明を進めるべきと考えます。

 

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 ④ 内発的発展史観による縄文研究へ:「弥生人による縄文人征服説」などの外発的・断絶型発展史観、「原始・未開の縄文時代、進んだ弥生時代」の拝外史観で縄文時代を見るのではなく、交易・妻問社会の内発的発展型の縄文社会・文化・文明の解明に進むべきと考えます。

⑤ 倭人・倭音倭語・倭食からの総合的縄文研究へ:海人(あま)族の海洋交易文化と山人(やまと)族の照葉樹林文化と海人(あま)族の海洋交易文化を持った「主語-目的語-動詞」言語族の日本列島への移動と倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3層構造からの縄文社会・文化の解明、イモ・縄文6穀の農耕・食文化の伝播を総合した縄文社会・文化・文明の解明を進めるべきと考えます。

⑥ 最少矛盾仮説による仮説検証型の縄文研究へ:「日本列島人・倭語・農耕起源」「記紀神話と地名・伝承」「縄文考古学」を総合した縄文社会・文化・文明説から「最少矛盾仮説」を採用します。

 

2.「新旧皇国史観」「反皇国史観」が無視した記紀神話

2-1 「皇国史観」が無視した記紀神話   

⑴ 記紀神話スサノオ大国主建国の無視

① 古事記記載の始祖「3神2霊」の「別天ツ神5柱」は出雲大社正面に祀られており、建国神話は海人(あま=天)族のスサノオ大国主一族の神話であることが明らかです。天皇家は神産日・高御産日(日本書紀では神皇産霊・高皇産霊)しか祀っていません。

② 古事記序文の「二霊(ひ)群品の祖」の夫婦神の「高御産巣日・高皇産霊(たかみむすひ)」「神産巣日・神皇産霊(かみむすひ))」は「霊(ひ)を産む神信仰」「霊継(ひつぎ)信仰」を示しており、始祖神は「太陽神アマテル(本居宣長説ではアマテラス)」ではありません。

③ 記紀神話の大部分は、スサノオ大国主の「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂(みずほ)国」「葦原中国(あしはらなかつくに)」建国神話であり、元々は葦原であった沖積平野での大規模な水利水田稲作普及による建国を示しています。

④ 古事記大国主は少彦名と「国を作り堅め」、少彦名の死後には美和の大物主と「共に相作り」とし、日本書紀大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」「動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」、「百姓(おおみたから)、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」とし、出雲国風土記大国主を「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と書き、大国主を「建国王・天下経営王・農業技術王・百姓王・五百鋤王・天下造王」としています。天皇家はこの稲作革命による建国とは無関係です。

⑤ 「真金(まがね)吹く」が「吉備」「丹生」にかかる枕詞であることからみて、赤目砂鉄(赤鉄鉱)を原料として鉄とともに鉄朱(ベンガラ)が作られていたことを示しています。素戔男(すさのお)の漢字表記は「素+戈+戈+男:多くの戈(ほこ)の素材の男」であり、新羅へ行き製鉄技術を習得した「朱砂王(すさのおう)」=赤目砂鉄製鉄王であったことを示しています。

⑥ スサノオは「朱砂王」、大国主は「五百鋤王」であり、鉄先鋤による水利水田稲作を百余国に広め、「委奴(いな)国=稲国」を建国したことを示しています。記紀神話スサノオ大国主英雄神話なのです。

⑦ 邪馬台国畿内説派は「記紀神話からのアマテラスつまみ食い史観」であり、記紀スサノオ大国主建国を無視した大和天皇家中心史観の新皇国史観となっています。

 

⑵ 記紀神話の笠沙3代天皇家の無視

① 笠沙天皇家初代のニニギの「天下り」は、「筑紫日向:ちくしのひな(旧甘木市(ひな)城)の高天原(甘木=天城の高台)」→「猿田毘古」(佐田)→「浮橋」(浮羽)→「丘:ひたお」(日田)→「久士布流岳」(久重山)→「膂宍之空国(そししのむなくに:猪の背骨のような国のない九州山地)」→「高千穂峰」(高千穂峰などのある霧島連峰)→「笠沙阿多吾田長屋竹屋」(アンダーラインは記紀記載地名)と九州山地を縦断した薩摩(狭投馬:さつま)半島南西端への逃避行であり、高天原からの征服王の移動ではありません。卑弥呼の後継者争いで破れた男王派の山人族(やまと:狩猟民)の小部隊が平野部の敵地の国々を避けての逃走経路です。               

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② 2代目は笠沙の漁師=海幸彦=隼人(はやと)=海人(あま)と猟師=山幸彦=山人(やまと)であり、縄文から続く2つのグループ、海人族と山人族を示しています。薩摩半島水田稲作の困難なシラス台地の部族であり、沖積平野の農耕民ではありません。

③ 2代目山幸彦・ホオリ(=ホホデミ)と3代目ウガヤフキアエズの妻は龍宮(琉球)の姉妹のトヨタマヒメ・タマヨリヒメとされており、4代目の若御毛沼(ワカミケヌ:8世紀に神武天皇命名)の祖母・母は琉球生まれになります。それは天皇家の殯(もがり)の葬送儀式が琉球奄美風葬・洗骨を継承していることからも裏付けられます。

 

⑶ 大国主の国譲り神話は壱岐・筑紫日向(ひな)・出雲・越の御子の後継者争い

① 古事記スサノオ大国主7代の系譜を載せており、スサノオの娘・スセリヒメと大国主が結ばれる神話は、スサノオ名が代々襲名(襲名の習慣は現代にも一部に残っています)されていたことを示しています。スサノオ時代のアマテルに対し、7代目の大国主が国譲りすることなどありえません。

 ② スサノオ、アマテル、大物主が襲名しているとすれば記紀神話の多くの矛盾は解消します。この3名の神話は、襲名した異なる時代の人物を、あたかも1人の人物と思わせているのです。「天武天皇の命令に背いて真実は書けないが、嘘は書かない。誤読するか真実を見抜くか、それは後世の歴史家に任せる」というのが歴史家・太安万侶なのです。

③ 新唐書の「天御中主(あまのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ:笠沙天皇家3代目ウガヤフキアエズ)、凡三十二世・・・居筑紫城」に対し、古事記は天御中主から彦瀲まで16代しか記載せず、途中に16代のスサノオ大国主一族の名前を掲載して32代としています。さらに太安万侶は、神武~仁徳天皇の16代の天皇の年齢を2倍にするとともに、ホホデミが580歳あまり生きたとし、「天皇家欠史16代」の種明かしを行っています。スサノオ大国主16代の建国をそれとなく忍ばせながら、巧妙に天皇家の建国史であるかのように書き、さらに2つの種明かしの暗号を残してるのです。この太安万侶の功績を評価できず、架空の人物扱いした後世の歴史学者というのは情けないものです。

④ 古事記の記載順にスサノオ大国主16代を含めた32代が連続していたとして最少二乗法で推計すると、スサノオの即位年は紀元60年で、「委奴国王」の遣使57年(後漢書)、4代新羅王の倭人・脱解との国交59年(『三国史記新羅本紀)の王とほぼ一致しています。

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 これは日本書紀スサノオ新羅訪問を記載していることによって裏付けられます。日中韓の3国の歴史書は「委奴国王」がスサノオであることを示しています。

⑤ 古代天皇の平均在位年数は約10年(安本美典氏)であり、スサノオ大国主7代は新唐書の「百余国」の「住(とど)まるところ七~八十年」の男王の記載と一致します。

⑥ 記紀によれば、スサノオは出雲の揖屋のイヤナミ(伊邪那美:通説はイザナミ読み)を母とした長兄であり、アマテルの弟ではありません。筑紫で生まれたアマテル・月読・綿津見3兄弟(阿曇族)、筒之男3兄弟は義妹・義弟になります。

⑦ スサノオはイヤナギ(伊邪那岐)から「海の支配王」を命じられており、義弟の月読(暦を管理)や綿津見3兄弟・筒之男3兄弟、宗像族(宗像3女神はスサノオの子)、子のイタケル(五十猛=委武=壱岐の壱武)らを率いた航海交易王であったのです。後漢光武帝からの「漢委奴国王」の金印が綿津見一族の総本社である志賀海神社のある志賀島から発見されたのは、スサノオの使いとして綿津見3兄弟が後漢に派遣されたことを示しています。

⑧ 大国主の国譲り神話はスサノオ7代目の大国主の時代のことであり、大国主に国譲りさせた襲名アマテルは大国主が筑紫日向(ひな)で妻問いした鳥耳の尊称です。大国主の国譲りは180人の御子のうちの、天若日子壱岐:暗殺される)、穂日(筑紫日向:鳥耳の子)・日名鳥(穂日の子:天鳥船の別名)、事代主(出雲)、建御名方(越→諏訪)の後継者争いです。霊(ひ)・霊継(ひつぎ)の法則からみて、穂日・日名鳥親子が大国主を祀るのに対して出雲の人たちが反乱を起こすことなく従ったのは、彼らが大国主の子孫であることを示しています。

⑨ 高天原のアマテルとスサノオの後継者争い神話は、記紀をまともに読む限り、ありえません。この神話は、スサノオ大国主16代の後の筑紫大国主王朝11代目の卑弥呼(アマテルを襲名)と弟王の争いをもとに、16代繰り上げてスサノオの時代に置き換えて創作したものと考えます。

⑩ 『新唐書』の「天御中主、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以「尊」爲號(ごう)、居筑紫城。 彦瀲の子神武(じんむ)立」と遣唐使が中国側に自言していることからみて、スサノオ大国主16代の出雲・筑紫王朝に、薩摩半島南西端の「ニニギ―ホホデミ(山幸彦)―ウガヤフキアエズ」の笠沙3代をプラスしたのが真実の歴史と考えます。

⑪ 記紀神話は「スサノオの義妹アマテルを実の姉」にし、「3人のアマテルを合体」し、英雄スサノオを「泣き虫の乱暴者で出雲へ追放」とした部分を除けば真実の歴史を記述しています。太安万侶はこの真実の歴史が解明できるよう、幾つもの暗号(16代天皇の年齢を2倍にするなど)を忍ばせたのです。

 

⑷ 皇国本主・天王スサノオ天皇家の公認

 桓武天皇第2皇子の第一流の文人・書家であった52代嵯峨天皇は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張津島神社に贈り、66代一条天皇は「天王社」の号を贈っています。スサノオが初代・天王であり、この国の本主であることは天皇家が公認しているのです。

 

⑸ 皇国史観は「筑紫日向(ひな)」を宮崎県の日向(ひむか)に置き換え

① 高天原の所在地「筑紫日向橘小門阿波岐原」は、福岡県の旧甘木市の「蜷城(ひなしろ)」の北にある高台です。近くの橘には斉明天皇中大兄皇子の橘広庭宮が置かれ、筑紫大国主王朝の波岐=杷木の王「羽白熊鷲(羽白=羽城=波岐)」を神功皇后は討ちスサノオを祀って九州各地から兵を集めており、この地が「凡三十二世・・・居筑紫城」とされる王都であったことを示しています。

② 宮崎県の「日向」名称は元の「子湯県」を12代景行天皇が「日向(ひむか)と号した」と日本書紀は記していることからみて、高天原の「筑紫日向」とは無関係です。

③ ニニギが天から宮崎県の高千穂峰に天下ったとする新旧の皇国史観は、記紀に書かれた「高天原の所在地である筑紫日向橘小門阿波岐原」の無視とともに、「ニニギの高天原から笠沙への平野部を避けての九州山地の逃避行」「笠沙天皇家3代の歴史」を無視した空想というほかありません。

 

2-2 「反皇国史観」に不都合な記紀神話

① 一方、反皇国史観はアマテル神話を8世紀の創作として否定するだけでなく、スサノオ大国主建国神話を道連れにして後世の創作とするという、「盥水とともに赤子を流す」という文献分析無視の誤りを犯しています。「不合理な神話的表現で真実を伝えようとした太安万侶の努力は凡庸な後世の歴史家によって無視されてしまい、太安万侶は無能な歴史家にされてしまいました。

② その反皇国史観の紀分析の方法は、キリストの存在を疑った近代懐疑主義者の方法論の安易な引き写しであり、記紀記載の不合理な点を羅列しただけであり、その背景・理由を掘り下げて考えてはいません。裁判において自白の信ぴょう性を争うようなレベルでの個々の記述の厳密な真偽判断を行っていません。

③ 荒神谷遺跡・賀茂岩倉遺跡の大量の青銅器発見で出雲神話を後世の創作とした説は破たんした以上、記紀神話を歴史的記述として全面的に見直す作業を行うべきであったにも関わらず、梅原猛氏と一部考古学者を除き、いまだに「反皇国史観派」は自らの誤りを見直す検証作業を行っていません。記紀神話の要であるスサノオ大国主建国の記述を無視したままです。

④ 荒唐無稽に思われる神話的表現は、太安万侶らが真実の歴史を巧妙に後世に伝える工夫として分析すべきです。古事記は笠沙天皇家初代のニニギが醜い岩長比売を妻とすることなく父のもとに返したことにより、その父の呪いで「今に至るまで、天皇命たちの御命長くない」と書きながら、3代目のホホデミは「580年」生きたとしており、「欠史16代」の真実を伝えようとしたのです。

 「ホホデミ580歳」「16代天皇2倍年齢」などの不合理な記載から記紀神話を虚偽と決めつけるというのは、あまりにもお粗末というほかありません。嘘をつくならもっと巧妙にやるでしょう。

 「〇〇憎けりゃ、×××まで憎い」ではありませんが、最も重要な歴史書を葬り去り、太安万侶らへのまっとうな評価・尊敬を欠いた冒涜といわなければなりません。

⑤ 天皇神格化を行い侵略戦争に協力した神社批判により、神社・民間伝承を全面否定し、個々の記紀記述の真偽判断の検証を避けているのもまた信じられません。神社は祖先霊を子孫が祀っているのであり、記紀の記述に合わせて天皇系の神を合祀したり、伊勢神宮参拝を薦めていたとしても、真実の祭神の歴史を子孫が残そうとした努力を全面否定すべきではないと考えます。

 

2-3 左右のイデオロギーから離れたスサノオ大国主神話からの縄文社会・文化・文明論へ

① 縄文遺跡・遺物からの縄文社会・文化解明の最大の手掛かりは、記紀風土記などのスサノオ大国主神話と伝承と考えます。「遺跡・遺物分析」=科学、「日本・中国・朝鮮の文献・民間伝承」=非科学というような思い込みから離れ、全てのデータを活用すべきです。

② 特に、天皇国史観の「弥生人(中国人・朝鮮人)征服説」などの拝外主義の後進国史観・外発的発展史観・武力征服史観のイデオロギーから離れ、縄文時代(土器時代)1万数千年の歴史からスサノオ大国主建国へと連続した内発的発展史観による縄文社会・文化・文明論への転換が求められます。

 

3.「弥生人征服史観」による「縄文未開社会・弥生文明社会史観」からの決別へ

⑴ 「弥生時代」規定の破綻

① 陸稲栽培は12,000年前に遡る可能性があり、今のところ水田稲作開始が3000年前頃とされたことにより、歴史家たちは「弥生式土器時代」から「土器外し」を行い、「水田稲作開始」を「弥生時代」と言い換えましたが、歴史研究の門外漢としては納得できません。

② あくまで土器様式で時代を区分する「ドキドキ時代区分」にこだわりたいのなら、3000年前頃はまだ縄文土器時代ですから、「弥生時代はなかった」と言うべきでしょう。

③ そもそも土器様式を時代区分に持ち込み、「石器-土器―土器―古墳」という「石と土の日本文明史観」が誤りであったのであり、あくまで石土文明史観に固執するなら「石器-縄文-水田-古墳」の時代区分とすべきでしょう。

④ 時代区分を道具で行うのなら「石器時代-土器時代(縄文時代)-鉄器時代」であり、生産様式で区分するなら「漁撈狩猟採取時代-焼畑時代-水利水田稲作時代」、社会政治体制で区分するなら「共同体社会-部族社会-古代統一国家」などの区分が考えられます。

⑤ 歴史を学び始めてから、教師の教えに素直でない私は「日本には鉄器時代はなかったのか?」とずっと疑問に思っていたのですが、邪馬台国論を読むようになって分かりました。「鉄器時代」を考えると先進地は筑紫・出雲であり大和は後進地域になり、邪馬台国畿内説は成立しなくなるのです。大和中心史観が破綻するため、歴史学者たちは「鉄器時代」を隠し続けたとしか考えられません。

⑥ 王墓を「弥生式墳丘墓」と「古墳」に分け、後者を天皇家支配のシンボルとしたのも素人にはずっと意味不明でした。共同体墓地の一角に部族リーダーの墓をもうけるのではなく、「天神思想」のもとに小高い丘の上に世襲王の墓を築くようになった時代は「百余国」の委奴国王の時代であり、墓で区分するなら「個別墓地-共同体墓地-丘上墓地」で区分すべきと考えます。

 

⑵ 水田稲作からの「弥生人征服説」の破綻

① 「弥生人朝鮮人による縄文人征服説」が言語論、DNA分析から行き詰まり、稲作開始を長江流域とし「弥生人=中国人による縄文人征服」あるいは「弥生人=中国人の西日本への大量移住」という新たな外発的発展史観がでてきました。

② しかしながら、日本語が中国・東南アジアの「主語-動詞-目的語」言語ではなく、インドのドラヴィダ語系の「主語-目的語-動詞」言語構造であることや、日本語が「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」3重構造であり、弥生人と稲作がセットできたのなら稲作・米食言語は呉音漢語になるはずなのにそうなっていないことからみて、「弥生人=長江流域中国人による縄文人征服」説は成立しません。倭語=縄文語とともに稲作などの農耕は伝来したのです。

③ 「縄文人弥生人の二重構造」説が見られますが、日本がベトナムインドネシア・フィリピン・台湾のような多言語多文化の多民族国にならなかったことからみて、部族単位の何次にもわたる移住はなく、母系制縄文社会へ少数男性や小規模家族の継続的な漂着と亡命により、共通言語・文化社会となったことが明らかです。縄文1万年に毎年10人の漂着者・移住者があれば10万人の人数になります。

④ 「和魂漢才」「和魂洋才」の学者・官僚・宗教者たちの伝統により、わが国では「縄文未開段階・弥生文明段階」という拝外主義的な思い込みが強く、土器(縄文)時代の産業・生活・文化・宗教・社会から現在まで続く日本文化・文明解明が弱いのですが、水利水田稲作の開始時期の見直しから、古代史観の再検討が求められます。

 

⑶ 「縄文農耕」の内発的発展によるスサノオ大国主による「鉄器水利水田稲作」史観へ

① 水田稲作の開始を「弥生時代」と歴史家たちは再定義しましたが、ここには米を年貢とし、土地争奪戦にあけくれた鎌倉~江戸の武士たちの「米崇拝」の影響が強く残っていると考えます。

 農地を持てなかった百姓の次男・三男などは貴族の用心棒=武士となる以外になく、実権を握ると農地への執念から農地争奪戦にあけくれ、その経済思想は信長―秀吉の明国征服の野望まで生みだし、さらには小作制度のもとで土地を失った国民の熱狂的な支持のもとで朝鮮・中国侵略戦争が支持され、満蒙開拓団が生まれたのです。

 交易による経済発展ではなく、この武士たちの「米崇拝=農地拡張願望」を基本とした歴史観大東亜戦争の敗北まで引き継がれ、水田稲作を中心とした食料生産の歴史観を生み出し、「3000年前頃からの弥生時代」という水田稲作による歴史区分を生み出します。

 この「米崇拝史観」「農地願望史観」から離れ、縄文人の食料確保と食生活からの縄文時代の分析が求められます。

② 「畑(火+田)」「畠(白+田)」字がいつ生まれたのか確かめていませんが、この2字は漢語漢字ではなく、れっきとした倭音の倭製漢字です。「火+田」の焼畑農業と、「白+田」の乾田農業、「田」の水田農業がわが国では行なわれていたことを示しており、「田」についても小川や沼・池などのほとりの湿地での「水辺水田」と鉄先鋤によって沖積平野の葦原を開拓して水路を整備して田を造った「鉄器水利水田」に分けて論じる必要があると考えます。

 今、佐賀県唐津市の菜畑遺跡が「現在日本最古の水稲耕作遺跡である」として、紀元前930年頃から「弥生時代」とするのが定説とされてきていますが、「米崇拝史観」「農地獲得史観」や「弥生人征服史観」から離れてみれば、菜畑遺跡は1つの「水辺水田」跡にすぎず、この時から稲作が始まったとも、倭人の食生活が変わったとも、階級分化による古代国家形成の転換点となったとも言えません。

 1769年のフランスでの蒸気自動車の発明や1903年ライト兄弟の有人飛行を、自動車時代、飛行機時代としないのと同じです。

② 縄文時代焼畑農業による陸稲(熱帯ジャポニカ=ジャバニカ)や雑穀の栽培は約6000年前(12,000年前説も)、天水・自然水利用の水辺水田による温帯ジャポニカ栽培は約2800年前、温帯ジャポニカの水利水田稲作は紀元前4世紀ころで全国的な普及は紀元1・2世紀のスサノオ大国主建国によるという「4段階稲作発展説」を私は考えており、縄文農耕と縄文土器鍋による縄文穀物食があった、と私は考えています。

③ 大和天皇家国史観から離れ、縄文時代からの内発的自立的発展として、紀元1・2世紀のスサノオ大国主一族の鉄器水利水田稲作による百余国の「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂(みずほ)国」建国史観への転換へむけた研究が求められます。

 

⑷ 世界の共同体文明の中での「土器(縄文)文明」の解明へ

① 活発な交易・妻問夫招婚の焼畑・水辺水田(乾田)による縄文農耕(イモ・縄文6穀・栗)と土器鍋食による自然と調和した豊かで平和な、満ち足りた生活の「土器(縄文)時代」を特殊日本的文明とみるのではなく、世界の他の共同体文明と比較対照しながら解明する必要があると考えます。

② これまで、鉄器・都市・文字などを持たない社会は未開社会とされ、戦争と興亡を繰り返した大河下流の大規模灌漑農耕のナイル、インダス、黄河・長江の古代専制国家の成立からが文明社会とされてきましたが、今やこの狭い西欧文明基準の文明史観は変わってきています。縄文研究においても、この世界的な潮流の中で、「未開縄文社会史観」を見直す必要があります。

 

□参考原稿□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(『季刊 日本主義』26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(『季刊 日本主義』31号)

 2016秋「建国史からみた象徴天皇制と戦後憲法」(『季刊 日本主義』35号)

 2016冬「古代ー現代を通底する『和』と『戦』の論理(『季刊 日本主義』36号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2017冬「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018春「スサノオ大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(季刊日本主義43号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

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  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

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