昔、ある冤罪事件の再現実験で人間の視覚・聴覚の不思議さにびっくりしたことがあります。人の視覚は瞬時に望遠レンズ、広角レンズに切り替えて情報を絞り、広げて対象を見ることができ、聴覚も同じなのです。
これまでイネ科の「米」などの起源を書き、同じくイネ科の竹の「筏{竹+伐(人+戈)}」について書きながら、両者の起源を結び付け、「引き撮影」(ズームアウト)していなかったことに気づき、さらに「ノアの方舟」は「ノアの箱筏」とすべきと思い至り、この原稿を書き始めました。夜の3時半ころ、夢か現(うつつ)かの時に思い付きました。
1 イネ科について
「縄文ノート25(Ⅱ-1) 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』の冒頭で、私は次のように書きました。
次女のニジェール土産のヒョウタン細工のランタンから、12000~5000年前の鳥浜遺跡から見つかったヒョウタンがアフリカ西海岸のニジェール川流域が原産地であることを確かめ、土器人(通説は縄文人)がヒョウタンに水を入れ、竹筏に乗って「海の道」をやってきたことを確信し、2014年5月に「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構―海洋交易民族史観から見た鉄器稲作革命」(『季刊日本主義』2014夏に掲載)を書きました。
さらに考えてもみなかったのですが、アフリカに稲があることを次女から聞き、ナイジェリアに水田稲作の指導に行っている元鳥取大学名誉教授の若月利之さんからアフリカ稲が陸稲であることなどを教えられ、イネ科の稲や麦などのルーツもまたアフリカではないかと考えるようになりました。
この小論は2014年6月に書いたものに一部、加筆したものです。
うかつなことに、この時、私は食べものとしてのイネ科について関心が集中しており、次のように書きながら、イネ科の竹についてまで考えが及びませんでした。
小麦と米は同じイネ科であることから、「米・小麦同一地域起源説」がアフリカ中央部の熱帯地域において成立する可能性はないでしょうか?
さらに、飛躍した仮説になりますが、イネ科のトウモロコシやアワ・ヒエ・キビ、サトウキビ、竹などを含めて、全て単一の「マザー・イネ科」のルーツがアフリカの可能性はないでしょうか?
パンゲア大陸(ペルム紀から三畳紀)の時代でみれば、アフリカのニジェール川流域は南アメリカの東端に接しており、アメリカ大陸にしかないトウモロコシのルーツは西アフリカに近接していたこの地域の可能性が高いといえます。
通説では最初の被子植物はジュラ紀(約2~1.5億年前)に裸子植物から分化したとされていますが、その前の三畳紀(約2.5~2.1億年前)に分化したとする説もあり、後者であればその可能性は大です。
人類の「アフリカ単一起源説」と同様に、「小麦・米・とうもろこしのイネ科三大穀物単一起源説」を検討してみるべきと考えます。
なお、ウィキペディアによれば、イネ科植物は次のように主食となるだけでなく、タケはゴリラやパンダを、牧草は草食動物を養い、さらにタケは食器や籠などの容器や家の材料になり、矢竹は弓矢という飛び道具として使われ、太い竹は竹筏・竹舟として魚を摂り、人類が移動・移住する道具、さらには竹簡という紙替わりにもなったのです。
竹文化のない西欧人には竹の全体的・総合的な歴史的価値など理解しにくいと思いますから、私たちの出番でしょう。
2 竹筏について
同じく「縄文ノート25」などにおいて、私は「竹筏」について、次のように書きました。
なお「筏」は「竹+伐」ですから「竹筏」に決まっているのですが、筏というと日本の木材運搬の「筏流し」やヘイエルダールのコンチキ号の南米の軽い「木筏(バルサ材)」、アンデスのトトラ(カヤツリグサ科)の「浮島・草舟」やエジプトのパピルス(前同)の「葦船」などを思い浮かべる人が多いと思いますので、誤解のないように「竹筏」とします。
・中尾説は米をサバンナ農耕文化に入れていますが、「主語-目的語-動詞」言語族の東進に伴い、雨量が多く、高低差による気温変化のある東インド・ミャンマーでアフリカ陸稲原種の水稲化(熱帯ジャポニカ)と冷涼高地での温帯ジャポニカの誕生という2段階の種の多様化が起きた「南・東南アジア起源農耕文化」を私は考えてきました。同じように、雑穀の伝播についてもイネとともに雲南地域から長江を下った可能性だけでなく、竹筏による「海の道」の伝播を考えたいと思います。
私が育ち、仕事で通った瀬戸内海各地などではいたるところでカキ養殖筏を目にしており、私にとっては筏=竹筏です。私も子どもの頃、池で竹に乗って遊んだことがあり、かつて総合計画づくりの仕事をした山口県油谷町(現長門市:楊貴妃伝説あり。安倍元首相の父の出身地)では、夏、子どもたちが油谷湾に浮かべた竹筏の上でテントを張ってキャンプを行っていました。
海部陽介氏ら国立科学博物館は草舟・竹舟・丸木舟と順に台湾→沖縄渡海実験を行うまえに、竹筏による黒潮による東南アジアからの渡海仮説を立てて実験すべきであったのです。「旧石器人は台湾から沖縄に渡った」という誤った仮説を立てる前に、草舟があるかどうか、竹筏移住か竹舟移住か、季節ごとの風はどうなのかなど、経験則に基づく仮説を重視すべきだったのです。
さらに筏の利用の文献上での裏付けについては、2000年7月に次のように書きました。―「縄文ノート32(Ⅲ-2) 縄文の『女神信仰』考」参照
周王朝の姫氏の諸侯であった「魏」(禾(稲)+女+鬼)は「鬼(祖先霊)に女性が禾(稲)を捧げる国」であり、魏の曹操は「われは文王、姫昌(きしょう)たらん」と述べ、孔子が理想とした周王朝を再建したいという「志」を持っていました。
魏国が鬼道の女王・卑弥呼(霊御子)に対して格段の「王侯」に匹敵する金印紫綬を与えたのは、姫氏を想起させる母系制社会であったからと考えます。また、宦官のトップの中常侍(ちゅうじょうじ)で一流の儒学者であった祖父の曹騰(そうとう)から教えを受けた曹操は、孔子の「道が行なわれなければ、筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう」を知らないはずはないと考えます。陳寿(ちんじゅ)が三国志魏書東夷伝の序に「中國礼を失し、これを四夷(しい)に求む、猶(な)を信あり」と書き、朝鮮半島の鬼神信仰に対し卑弥呼にだけ「鬼道」という尊称にしたのは、倭国を「道・礼・信」の国としてみていたことが常識であったことを示しています。
また「縄文ノート41(Ⅳ-1) 日本語起源論と日本列島人起源」と「縄文ノート43(Ⅴ-1) 日本列島人起源論」では、次のように筏による移動を書きました。なおこの段階では、「旧石器人は竹筏」、「縄文人は竹筏・丸木舟」による移住を考えていましたが、旧石器人は「竹筏・竹舟」による移住とすべきでした。
「縄文ノート41」
寒冷期に入ると高地のドラヴィダ山人(やまと)族は山を下り(第4次移動)、海岸部やアンダマン諸島などに住むドラヴィダ海人(あま)族と協力し、マラッカ海峡を南下して半陸地化していたスンダランド(今の南シナ海)に竹筏で移住し(第5次移動)、温暖化によってスンダランドの水没が進むと「海の道」を竹筏と丸木舟で日本列島にやってきた(第6次移動)と考えるようになりました。
弓矢が得意で勇敢な狩猟採取栽培ドラヴィダ族(山人:やまひと)と航海が得意で冒険心に富んだ漁撈栽培交易ドラヴィダ族(海人:あまひと)が協力し、一定の人数で移動すれば、途中、他民族から干渉・攻撃を受けることなく平和裏に移動・移住できたと考えられます。
「縄文ノート43」
第4は、「海が嫌い」なほとんどの研究者が「海の道」を通っての「海人(あま=天)族」の民族移動ルートと中継居住地についての検討が弱いことです。寒暖差の激しい砂漠や草原地帯ではなく、四季を通して海産物や果物・イモ類、塩分がとれる暖かい海岸線をそって人類は移動したと考えるべきであり、日本列島人起源説では「竹筏による旧石器人、竹筏・丸木舟による縄文人の移動」を主として考えるべきです。
3 竹筏のルーツについて
「竹」についてウィキペディアは「タケは気候が温暖で湿潤な地域に分布し、アジアの温帯・熱帯地域に多い」「タケ、ササの分布は北は樺太から南はオーストラリアの北部、西はインド亜大陸からヒマラヤ地域、またはアフリカ中部にも及ぶ」としていますが、原産地については触れていません。
「竹+原産地」をネットで検索すると「中国などの温帯アジア原産」「竹の原産地は東南アジア」「タイ国や中国が代表的な産地」などで、「アフリカ+竹筏」で検索すると東南アジアやインド・中国は多くでてきますがアフリカはでてこず、竹筏文化はアフリカには残っていないようなので、「竹筏」移住はインド→東南アジア→日本で考えていました。
ところが「縄文ノート64(Ⅴ-8) 人類拡散図の検討」で写真だけを紹介しましたが、JICAの「ケニアで広がれ!竹の利用!」(笹原千佳)の報告では、竹について「1900年代初頭に、アフリカの大地へインドや中東から商人が進出してきた際に東南アジアからの竹も導入されるようになり」と書く一方で、「アジアで竹を食べる動物というとパンダが有名ですが、アフリカではゴリラが有名です。かつてケニア西部にもゴリラがいたとのことですが竹林の衰退とともにゴリラも衰退してしまいました。現在もアフリカにはゴリラが生育している地域は多く、その地域は竹も繁茂しています」とも書いており、イネ科植物アフリカ起源説の私としては、竹もまたアフリカ起源と考えるようになりました。
「縄文ノート55(Ⅱ-7) マザーイネのルーツはパンゲア大陸」では、アフリカのケニア・タンザニアがマダカスカルを挟んでインドと接していたゴンドワナ大陸時代に野生イネが赤道地域に分布していることを示した1976年の国際イネ研究所T.T.チャン論文(:佐藤洋一郎著『イネの文明 人類はいつ稲を手にしたか』掲載)の図4を載せましたが、同じイネ科のタケもまた同様に分布していた可能性が高いと考えます。
また、「縄文ノート46(Ⅴ-4) 太田・覚張氏らの縄文人『ルーツは南・ルートは北』説は!?」では、図5の夏の南西からの季節風を示しましたが、この季節風に乗れば、アフリカ東海岸からアラビア半島東海岸を通り、インドに行くのは容易です。
この夏の季節風に吹かれて図6のように、インド洋北部には海岸に沿ってモンスーン海流(南西季節風海流)が右回りに流れており、安全にインドまで風任せ・波任せて到達できるのです。
「猿は水が苦手だ。旧石器人も同じであったに違いない」「旧石器人が帆を使うなどありえない」という思い込みからか、「海や舟が嫌い」という考古学者・歴史学者が多いようですが、犬は泳ぎ、鳥は空を飛ぶのです。
旧石器人は現代人と同じレベルの知能と知恵を持っていた(昔『サイエンス』にそのような記述がありました)と考えるべきです。
アフリカに竹筏があったという証明はできませんが、それは、「ヒマラヤ山麓移動説」や「海岸移動説」も同じです。旧石器遺跡から人類はヒマラヤ山麓を東に移動したという推測が見られますが、海岸からインダス川、ガンジス川を遡ったヒマラヤ山麓に点々と旧石器遺跡があるに過ぎないのです。
「縄文ノート56(Ⅲ-11) ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「縄文ノート61(Ⅲ-12) 世界の神山信仰」で書きましたが、万年雪のルウェンゾリ山などが見える「アフリカ高地湖水族」は海を移動して新天地に来ると、川を遡ったところ神山と故地と似た居住地を見つけたに違いないのです。
4 「ノアの方舟(箱舟)」は「ノアの筏船」
日本の記紀神話に対しては、「すべてが8世紀の創作」とする日本神話創作説が未だに幅をきかせていますが、私は「シュリーマンに戻れ」と考え、記紀神話から真実の歴史(スサノオ・大国主建国)と虚偽(天皇家建国)とを分離分析してきており、明白な神話的虚偽表現にして真実を後世に密かに伝えた太安万侶は日本最初の歴史家・「史聖」であると考えています。
この私の方法論から、ウィキペディアに掲載された旧約聖書『創世記』の次のような「ノアの方舟(Noah's Ark)」伝説を分析したいと思います。
主は地上に増えた人々の堕落(墜落)を見て、これを洪水で滅ぼすと「主と共に歩んだ正しい人」であったノア(当時500~600歳)に告げ、ノアに方舟の建設を命じた。方舟はゴフェルの木でつくられ、三階建てで内部に小部屋が多く設けられていた。方舟の内と外は木のタールで塗られた。ノアは方舟を完成させると、妻と、三人の息子とそれぞれの妻、そしてすべての動物のつがいを方舟に乗せた。洪水は40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくした。水は150日の間、地上で勢いを失わなかった。その後、方舟はアララト山の上にとまった。
この「ノアの方舟」伝説は、紀元前13〜1200年頃にまとめられた『ギルガメシュ叙事詩』に書かれた、古代メソポタミアの伝説的な王ギルガメシュを巡る物語をもとにしたと考えられており、「神の怒りで洪水がおこることを英雄は前もって警告を受け、床面が正方形の船に英雄は家族と動物を乗せ、洪水が引くと船は山(バビロニア神話;ニシル山。聖書:アララト山)の頂上に着地した」などの共通性を持っています。
なお、イランのニシル山(ピル・オマル・グドルン山、別名ピラ・マグルン山)はアララト山よりもメソポタミア中心部に近く、洪水後の漂着地としては妥当ですが、アララト山の付近には写真3のような舟型の地形があるというのです。
この「ノアの方舟」伝説についての私の解釈は次のとおりです。
① 『ギルガメシュ叙事詩』に書かれた大洪水を「方舟」に乗って免れた、という史実はあったと考えます。
② 「方舟(箱舟:アーク)」というのは、文字通りに解釈すれば、筏の上に四角の家を置いた「浮き家」と考えられ、波を切り分けて進む抵抗の少ない笹の葉型の流線形の船(ボート)ではありえません。
③ 神山であり、近くで黒曜石を産するアララト山に登った後世のユダヤ人の羊飼いなどが、両側を水流で削られてボート型になった地形を見つけて、古代メソポタミア伝説の「方舟」と勘違いし、ニシル山をアララト山に置き換え、それが旧約聖書の伝説になったと考えられます。
④ 「三階建て」というのは、「竹筏ヤム号」のように、竹を3層にして浮力をつけた「3層構造の竹筏」の伝説が「三階建ての方舟」に置き変わったものと考えられます。
⑤ 「妻と三人の息子夫婦、すべての動物のつがい」を方舟に乗せたというのは、「ギルガメシュの家のすべての動物(犬や羊、鶏など)」であったものが、「すべての動物」に置き換わったと考えられます。
⑥ 乾燥したメソポタミア地方には竹はなく、竹筏はアフリカで作られて交易のために持ち込まれたものを利用した可能性が高いと考えます。ただ、この「竹筏で洪水から逃れる」という伝承はアフリカ高地湖水地方」の伝説であったものが、メソポタミアに伝わった可能性もあります。
ネットで筏を検索していると、ケニアでドラム缶の上に鉄骨で組んだ筏にキリンを載せて増水した島から救出する記事(msnニュース:Kenji P. Miyajima 2020/12/23 23:00、https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/ar-BB1cb5r1)を見つけましたが、まさに「キリンの方舟」です。
5 まとめ
イネ科のタケや竹筏など知らず、植民地化を進め、近代奴隷制度を作り上げたアフリカ蔑視の「西欧中心史観」の歴史家たちの視点を私たちはクリアしてからでないと、人類誕生からの旧石器文化や人類拡散の「ウォークマン史観」を克服することはできません。
同時に日本に根強い「拝外漢才史観」もまた、注意する必要があります。日本文明は地中海とちょうど同じ大きさの東シナ海と日本海に面した「日本列島」という特殊な環境条件にあり、「海・森・木の文明」とともに「竹の文明」を検討する必要があると考えます。タケノコを愛でるみなさんはどうでしょうか?
□参考□
<本>
・『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)
2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)
2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)
<ブログ>
ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/
帆人の古代史メモ http://blog.livedoor.jp/hohito/
邪馬台国探偵団 http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/