ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート26(Ⅱ-2) 縄文農耕についての補足

 縄文社会研究会・東京の2020八ヶ岳合宿に向けた資料「『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」(縄文ノート25)の補足資料です。

 チンパンジーの分布と食性、「麦・粟・稗・黍」の海の道、縄文イネのルーツ、穀物名などの倭音・呉音・漢音の比較、サトイモの祭り、古人骨からの食物の分析などを追加し、「縄文農耕」説を補足しています。           201214 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

       Ⅱ-2  縄文農耕についての補足

                                                                      200725→0829→0904・09→1214 雛元昌弘

 「『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」(縄文ノート25)の補足として7月25日に書いて縄文社会研究会・東京の2020八ヶ岳合宿の資料とするとともに、加筆・修正しました。

 

1.「チンパンジー」の食性

 『サイエンス』(コピーが探し出せず掲載号は不明)

 ・野生のチンパンジーの食物の95%は植物性。

② ウィキペディア

 ・ミトコンドリアDNAの解析では487万年前±23万年にチンパンジー亜族とヒト亜族が分岐。チンパンジーとヒトのDNAの違いは1~4%程度。

 ・チンパンジーは主に果実を食べるが種子、花、葉、樹皮、蜂蜜、昆虫、小・中型哺乳類なども食べる。

③ 考察

 ・「ヒト上科」から順に類人猿のオランウータン、ゴリラ、チンパンジーが分岐してヒト族となった進化からみて果実・種食の歴史は連続し、肉食進化説は成立しないと考えます。

 ・「畑作農耕文明」(英巨石文明・縄文巨木土器文明・古マヤ文明・古アンデス文明)は、農耕論において沖積平野の大河灌漑型の「4大古代文明論」に変更を迫るものと考えます。

 

2.「チンパンジー」の分布と「ヒョウタン、マザー・イネなどの誕生地」の重なり

① ニジェール川流域原産のヒョウタンが若狭の鳥浜遺跡から発見されていることからみて、容器であるヒョウタンにイネ科植物の種を入れて人類が西アフリカからコンゴ川沿いに遡って東アフリカ、さらには海の道を通ってインド、若狭までたどり着いた可能性が高いと考えます。

② 現人類は東アフリカ起源とされていますが、チンパンジーの分布地域とヒョウタンの移動、イネ科植物の発生源、「主語-動詞-目的語」言語族の分布から見て、西アフリカから中央アフリカを起源とする可能性が考えられます。

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③ 寒冷化と乾燥化による熱帯雨林の果物の減少により、原人・人類が地上に降りたとしても、小・中型哺乳類を主食としてサバンナや砂漠に進出するより、その移動は猿や類人猿と同じ分布の可能性が高く、果物を得やすい赤道付近の熱帯雨林沿いで、貝やカニ、小魚などを獲れる海岸沿いから河川に沿った東西移動が主であり、南北移動は次の段階と考えられます。

④ 今のところ考古学的には人類の誕生地はアフリカ東海岸とされていますが、気候・植生などからみてアフリカ西海岸地域の可能性が高く、ヒョウタンやイネ科植物の原生地とも符合します。

 

3.「麦・粟・稗・黍」の海の道 

① イネ科の麦、米、アワ、ヒエ、キビなどの種子作物の分布は、自然の伝播ではなく、人類の移動、陸路と海路に重なります。

 

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② アワについて、ウィキペディアは「イネ科エノコログサ属の多年草」で、「アフガニスタンおよびパキスタン西北部のアワが原始的な特徴を保存している系統であることから、中央アジアからアフガニスタンインド亜大陸北西部あたりを原産地とする説が有力視されている」「寒冷地の春アワと、温暖地の夏アワに生態が分かれている」とし、「日本へはイネより早く伝来し、縄文時代には栽培されていたことが確認されており、日本最古の穀類作物とされている」としています。 

③ ヒエについてウィキペディアは「イヌビエより栽培化され、穎果を穀物として食用にする農作物である。栽培化が行われたのは日本列島を含む東アジア領域と推測されている」「サハラ砂漠以南のアフリカでは、ブルグ(バンバラ語)など数種が利用されている」とし、「日本ではかつて重要な主食穀物であったが、昭和期に米の増産に成功したことで消費と栽培が廃れた」とされています。

④ キビについてウィキペディアは「東アジアから中央アジアにかけての大陸性気候の温帯地域が原産地と考えられている。ただ起源はユーラシア大陸起源説、東アジア起源説があるがはっきりしていない。ヨーロッパ、中央アジア、インド、中国など有史以前から広く栽培されていた。紀元前新石器時代からの人類の食用穀物で、中国の華北地方では、アワとともに古代の主要穀物であった。日本へはアワ、ヒエ、イネなどよりも遅く渡来したと考えられている」としています。しかしながら、鳥浜遺跡のヒョウタンから考えると、「アフリカ起源・海の道経由説」が成立する可能性も考えられます。

⑤ 穀類ではありませんが、「サトウキビ発祥の地は、現在のニューギニア島あたりで、紀元前6000年前後に現在のインド、さらに東南アジアに広まったといわれている」(ウィキペディア)、「サトウキビは、赤道近くのパプアニューギニアで、1万7千年前から作物として栽培されていたようです。琉球には、インドネシア、インドのガンジス川、中国をたどって伝わったといわれます」(沖縄県HP)とされていますが、沖縄への伝来時期は不明です。

⑥ これらの分析は米・麦・粟・稗・黍・トウモロコシ・サトウキビ・タケなどを含めてイネ科植物全体の起源について論じておらず、特に、研究が遅れているアフリカについて論じていないという欠陥があります。トウモロコシがアメリカ大陸にしか見られないことからみて、人類単一起源説と同じようにイネ科植物単一起源説にたつべきであり、「マザーイネ」の起源は西アフリカ熱帯地域とするDNA研究が求められます。

 

4.中尾佐助氏の雑穀中心のサバンナ農耕文化論と雑穀伝播論 

① 中尾佐助著の『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書、1966年)は、農耕文化として根栽農耕文化、サバンナ農耕文化、地中海農耕文化、新大陸農耕文化をあげています。

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             雑穀の伝播(中尾佐助) 

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② この中尾説はネットで粟・稗・黍を検索していてやっと昨日になって気づいたという不勉強な次第ですが、私の次女が赴任していたニジェールヒョウタン土産と鳥浜遺跡の結びつきから立てていた「イネ科植物西アフリカ起源説」「アフリカ陸稲原種のインド・ミャンマーの熱帯・高度差地域での多様化説(アフリカ原種→インディカ・熱帯ジャポニカ→温帯ジャポニカ)」と「主語-目的語-動詞言語族の東北アフリカ起源説」「縄文人海人(あま)族説」と符合します。

 

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③ 中尾説は米をサバンナ農耕文化に入れていますが、「主語-目的語-動詞」言語族の東進に伴い、雨量が多く、高低差による気温変化のある東インドミャンマーでアフリカ陸稲原種の水稲化(熱帯ジャポニカ)と冷涼高地での温帯ジャポニカの誕生という2段階の種の多様化をとげており、「稲作農耕文化」は独立させるべきと私は考えます。

④ 日本列島へは熱帯ジャポニカ陸稲)と雑穀がまず竹筏により「海の道」を通って持ち込まれ、次の段階で温帯ジャポニカがスンダランドから「海の道」をやってきたと考えています。

 

5.縄文稲は東南アジア、長江流域、朝鮮半島のどこからきたか

① 熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの発生を長江流域での稲作栽培によるとし、そこから日本に水稲が伝わったとする「長江稲作起源説」については、(独)農業生物資源研究所他による米の粒の幅を決めるqSW5遺伝子の調査から熱帯ジャポニカの起源は東南アジアであることが2008年に明らかとなっています。

② 次に述べるように、倭音「こめ、よね」が呉音「マイ」、漢音「ベイ」、倭音「いね、いな」が呉音「ドウ」、漢音「トウ」であることや、餅食の習慣、赤米や赤飯を行事食として食べる習慣などからみて、わが国には熱帯ジャポニカが南方から「主語-目的語-動詞」部族の海人族によって直接に伝わった可能性が高いと考えます。

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③ (独)農業生物資源研究所他は、qSH1遺伝子の変化をもつ系統が中国や日本でしか見られず、東南アジアでは見つからなかったことから、熱帯ジャポニカが長江流域に伝わり、水田化されて温帯ジャポニカになり、日本へ伝わったいう2段階説をとっています。原データを見ていませんが「考古学のデータ限界」を考えると、温帯ジャポニカが「東南アジアでは見つからなかった」は「今のところ」とすべきと考えます。

④ 佐藤洋一郎総合地球環境学研究所名誉教授によるRM1遺伝子の国別分布をみると、日本はa・b・c型で、中国・朝鮮にみられるd・e・f・g型が見られません。朝鮮にb型がないことからみて、朝鮮から日本に米が伝わった可能性がまず否定されます。さらにd・e・f・g型が見られないことは、日本の温帯ジャポニカは中国からではなく、別ルートの可能性が高いことを示しています。

 

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⑤ そもそもRM1遺伝子のa~g型の多様化がアッサム・ミャンマー雲南の冷涼な高地で起きたのか、それとも長江流域で起きたのかですが、雲南から長江を伝ってa~g型の遺伝子の米が下流に伝わった可能性があり、b型が多いという種の選択もすでに雲南高地での栽培によって起きていた可能性があります。

⑥ もし中国から日本にイネが伝わったのならd・e・f・g型も見られるはずですが、これらがない原因としては、インド東部・ミャンマー高地からd・e・f・g型が生まれる前に持ち込まれた可能性が高いと考えます。

⑦ a~g型の多様な品種が長江流域から日本に持ちこまれ、その後に倭人が収穫量の多い米の選択的栽培を先進的に行い、a・b・c型に純化した可能性を考えられないことはありませんが、倭人だけが特別の育種技術を持っていたという証明は難しいように思います。この説に固執するならさらに他の遺伝子の比較対照が求めらます。

⑧ 「朝鮮半島経由稲作伝搬説」については、RM1遺伝子のB型が中国・日本に多いにも関わらず朝鮮に見られないことなどからみて、成立しないといえます。朝鮮半島には南方からb型を含まない多様な品種の稲が海人族によって持ち込まれ、栽培による「種の選択・集中」がa型について行われたことを示しています。

⑨ 日本列島人のルーツが「主語―動詞-目的語」言語構造とY染色体亜型Ⅾ型の分布から東インドミャンマー高地の可能性が高いことから見みて、イネの種の多様化もまた高度差のあるこの地域で生まれ、日本列島に持ち込まれた可能性が高いと考えます。

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6.記紀琉球・中国朝鮮の「6穀」名

① 日本語は「倭音倭語-呉音漢語-漢音漢語」の3重構造であり、6穀の「倭名」は次表のように、呉音・漢音とは異なっており、「主語―目的語―動詞」言語の南インドミャンマーから竹筏などにより直接的に「海の道」をヒョウタンに入れられて伝播した可能性が高いことを示しています。

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  なお、農耕民族系(殷・燕系)、騎馬民族系(扶余)が征服する以前の南朝鮮の韓国、辰国(しんこく)、濊(わい)国の言語については古い文献で確かめることができませんが、残存する可能性の高い民俗関係に倭音倭語との共通性は見られません。

 

       6穀の「倭語(和語)」と「漢語(呉音・漢音)

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② 古事記では、国生み神話に「淡道」「粟国」「小豆嶋」「吉備児嶋」が登場し、五穀の誕生として、スサノオが大気津比売を殺したところ、目から稻種、耳から粟、鼻から小豆、陰(ほと)から麦、尻から大豆が生まれ、神産巣日(神産霊:かみむすひ)の御祖(みおや)がこれを取らせて種としたとしています。

③ 「稗」については、古事記では、帝紀・本辞(旧辞)を読んだ稗田阿禮と、スサノオの子の大年(大物主)の子の大山咋(おおやまくい)が「日枝山」(比叡山)に祀られたとしており、日本書紀の一書はスサノオではなく月夜見が保食神を殺して「額上に粟、眉上に蚕、眼中に稗、腹中に稻、陰に生麦と大小豆」としています。

④ 「黍」については、記紀ともにスサノオ・月読の「5穀起源談」に登場しませんが、イヤナギ・イヤナミの国生み神話に「吉備」が登場することからみて、起源はさらに古いと考えられます。

 

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⑤ 古事記大国主を「豊葦原の千秋長五百秋の水穗国」の支配者とし、日本書紀の一書(第六)は、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」、「動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」、「百姓(おおみたから)、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」とし、出雲国風土記は「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」としており、葦の生い茂る沖積平野での水利水田耕作の開始は大国主からとしています。

⑥ 木鋤では深掘りは困難であり、鉄器を豊富に輸入・生産した「五百鉏王」の大国主の鉄先鋤の普及によって始めて大規模な水利農業土木工事が可能となり、原野の開墾ができ、深掘りの水田耕作によって安定した収穫が可能となったのです。イモと豆・稲・麦・粟・稗・黍・蕎麦の縄文6穀には縄文農耕の長い歴史があり、稲作開始を「弥生式土器」に合わせた「農耕開始」には何の意味もありません。スサノオ大国主一族による新羅との米鉄交易による鉄器輸入、続いて赤目砂鉄製鉄による大量供給により「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」の「鉄先鋤による水利水田稲作」の爆発的な普及が進み、米鉄交易と妻問夫招婚による百余国からなる「葦原中国(あしはらなかつくに)」「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂(みずほ)国」=「委奴(いな)国」が成立したのであり、紀元1世紀からの本格的な鉄器時代こそ新たな時代の始まりとすべきと考えます。

⑦ 私は小学校で「米を保存するために、薄く軽くて固い弥生式土器が生まれた」と教えられた時、へそ曲がりの私は「嘘だろう。米は米俵か米びつに保存するもんだ。腐ってしまう」と納得しませんでした。正確には「海人族の米鉄交易の海上交通の運搬手段として弥生式土器が生まれ、地母神信仰から八百万神の天神信仰への転換により地母神が宿る縄文土器の生産が終わった」のであり、「石器―土器―土器―前方後円墳」時代区分を捨て、「石器―土器―鉄器」の時代区分へ転換すべきと考えます。

⑧ 記紀スサノオを「5穀王」、大国主を「水穂国王」として書き分けており、縄文農耕時代からスサノオ大国主の稲作農耕時代は連続した「内発的発展」であることを示しています。紀元1~2世紀のスサノオ大国主7代の80~90年の男王の「委奴国=稲国」の時代に、畑作中心の5穀の縄文農耕から鉄器水利水田稲作への転換がおきたことを記紀は正確に伝えています。

⑨ 「委奴」国名は漢字分解すると「禾(稲)+女+女+又」になり、「縄文絵文字」の伝統を受け継いだ倭流漢字用法で「禾(稲)を女が、子を宿す女の又(子宮)に捧げる母系制の国」であることを表したものであり、委奴国王・スサノオ後漢への使者に持たせた国書に倭人側が書いた国名であると私は考えます。「いな=いね」の国を倭人が「委奴(いな)」と国書に表記したのであり、後漢側が「卑字」として使ったものではないのです。―詳しくは『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 

7.「芋(薯)食」について

① 「縄文ノート25『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」で明らかにしたように、タロイモ(タイモ、エビイモ、タケノコイモ、サトイモ)やヤムイモ(ヤマノイモ、山芋)もまたアフリカ原産であり、ヒョウタンやウリ、イネとともに「主語―述語―目的語」の海人族によって「海の道」を東進したと考えられます。

② 芋(薯)について記紀には記載が一切ありません。しかし出雲風土記には、嶋根郡・楯逢郡に芋(サトイモ)、意宇郡・嶋根郡・秋鹿郡・楯逢郡・飯石郡・大原郡に薯蕷(ヤマノイモ)が産物として書かれ、豊後国風土記には、景行天皇豊前の国仲津の郡の中臣村に来た時、白鳥が飛来し、菟名手(うなで)が見に行かせたところ、「まず餅に化し、次に芋草に化して茂った」と芋を天皇に献上したところ、天皇は喜び、菟名手に豊国直(とよくにのあたひ)の名前を与えたとの記載があります。「豊かな国」は「芋の国」であったことを天皇家は認めているのです。

③ 南西諸島の各地では田芋・タロイモが栽培されており、屋久島と奄美大島の間にあるトカラ列島では日本で最後(1955年)まで焼畑農業が残り、現在も、サツマイモや田イモ(タロイモ)などを変わりなく栽培しています。口之島の霜月(シモツキ)祭りでは、田芋や里芋の祭りを中心とし、カワの宮(集落内の中心にある泉)では田芋祭りをして、その場で田芋を神と共食しています。

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http://www.pref.kagoshima.jp/ab10/kyoiku-bunka/bunka/museum/shichoson/toshima/shimotsuki.html

④ 館山市十二所神社の『茂名の里芋祭』では、毎年2月20日には90個の里芋を独特の形に積み上げたお供えを十二所神社へと奉納しており、茂名地区では里芋を食べると病気にならないと伝えられ、旧正月になると地区をあげて里芋を奉納しています。

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https://tabi-mag.jp/mona-satoimo/

「日本の基層文化(世代を越えて継承されていく文化)は稲作中心だと思われてきましたが、近年では里芋を主とした畑作系の基層文化の存在が指摘されています」と紹介されています。

⑤ 子どもの頃、たつの市の祖母の家の縁側では月見のお供えとして里芋を供えており、なぜ里芋なのか不思議に思ったものですが、今頃になってその歴史的な理由がわかりました。

 

8.「ドングリ・栗食縄文人イメージ」から「穀物縄文人」へ

① 妻が読んでいた福岡伸一著『動的平衡』より、南川雅男北大教授の「安定同位体で古代人の食生態変化を読む」(季刊誌『生命誌』21号)の研究を知ったところです。

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 古人骨に残っているコラーゲンの安定同位体である炭素C13や窒素N15の割合を分析し、遺跡から出土する獣骨、魚骨、植物破片の分析と、現存の野生動植物の分析結果を照合しています。

 その結果、北海道は海産物に強く依存し、本州以南は植物依存型食生活の傾向があらわれてくるなどとしています。

 炭素13は、C3植物と比べてC4植物の方が若干大きいとされ、食物連鎖から人間やその他の動物の主食を決定できるとされています。

② 物理的な確かな証明のように思われますが、問題はサンプルにあります。南川教授の図は縄文人の糖質摂取を「ドングリ等」「ヒエ・アワ等」の2種類と思い込み、「イモ・麦・小麦・豆・熱帯ジャポニカ」食の可能性を検討していないという大前提に問題があります。南川教授はC3植物を「ドングリ等」としていますが、C3植物の「イネ、コムギ、ダイズ」が抜け落ち、イモ類の可能性もあります。

③ 南川教授の図(筆者が点線赤〇を追加)から明らかなのは、現代人はバランスの取れた食事をしているということであり、中部地方(山地)縄文人は、現代人と較べて魚貝類の摂取が少なく、「イネ、コムギ、ダイズ、ドングリ、イモ」などの糖質をより多く食べていたことが明らかです。

④ また南川教授の「寒冷化・乾燥化にともなう自然生態系の変化が本州以南で大きく,豊かな資源が消えていったのではないかと想像している」もまた強い思い込みと言わざるをえません。「寒冷化・乾燥化にともなう自然生態系の変化」はむしろ東日本の落葉広葉樹の栗やブナなどに影響を与えた可能性が高いのです。

⑤ さらに「野生資源の種や量の減少は,食生態の変化をうながし,それが栽培,とくに稲作の普及を助ける結果になったのではないだろうか」としていますが、C3が九州中国地方の「縄文人より弥生人」の方がより高いのは、「野生資源の種や量の減少」という理由よりも稲作の普及とみるべきです。

⑥ 縄文人についてみると、中部>関東・東北>九州・中国>北海道の順に「イネ、コムギ、ダイズ、ドングリ」食の割合が高くて「ヒエ・アワ」食の割合が低く、九州・中国地方が北海道に近いなど、気温や西高東低の稲(熱帯ジャポニカ)の伝播経路と一致しないことからみて、「考古学のデータ限界(立地条件の偏りなど)」を免れていない可能性があります。土器付着の炭化物・おこげの分析などを含めて、より細かく地域を分けた精密な分析が求められます。

 

8.「たべもの」からみた日本文明論

① 日本民族については「南方起源説」「北方起源説」に加えて、「朝鮮半島渡来説」「揚子江流域渡来説」があり、その根拠としては、遺伝子、石器・土器様式、食物、言語(言語構造と語彙)、宗教などがあります。

② 私は「Y染色体Ⅾ1a2aの分布」「主語―述語―目的語の言語構造」「丸木舟製作道具の丸ノミ石斧と曽畑式土器の琉球から東九州にかけての分布」「鳥浜遺跡や三内丸山遺跡ヒョウタンなど南方系野菜」「イモ・雑穀の焼き畑農業」「熱帯・温帯ジャポニカの2段階流入」「琉球から九州・山陰・近畿への方言分布」「縄文時代琉球と北海道までの貝とヒスイの交易」を総合的に考えて「南方起源説」です。

③ イネの多様性(熱帯ジャポニカ、温帯ジャポニカ)が生じたのは標高差による温度変化のある東インドミャンマーであり、この地域から陸稲だけがアフリカに西進したとは考えられません。

④ これまで民族移動は「徒歩史観」「騎馬史観」でしたが、積載量とスピードに優れた「筏・舟帆走史観」にたつと、「大陸文明」とは異なるギリシア文明や日本文明などの「海人族文明」「海洋交易文明」像が浮かび上がります。

⑤ 「森林文明」を壊滅させた家畜飼育を伴う「大規模灌漑大河文明」に対し、持続的発展可能な「森林・焼畑農業文明」「水田農業文明」や、領地・国土争奪戦争にあけくれることのない「海洋交易文明」など、新たな文明論の検討が求められます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団          http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論      http://hinakoku.blog100.fc2.com/