縄文ノート81 おっぱいからの森林農耕論
雑誌では『日経サイエンス』『ナショナル ジオグラフィック』、テレビでは『サイエンスZERO』をよく見るのですが、6月13日のNHKの「おっぱいの科学 “神秘の液体”の謎に迫る」は「肉食・戦争進化説」批判の「糖質・平和進化説」にかっこうの材料を与えてくれました。6月26日(土)午前11:00~30に再放送しますから見ていただければと思います。
今、「文明論」についてまとめているのですが、パーツで未整理な部分がいろいろと見えてきました。「神山信仰」や「神籬(霊洩木)信仰」については分析したものの、梅原猛・安田喜憲氏の「森の文明」論や中尾佐助・佐々木高明氏らの「照葉樹林文明論」との関係は未整理のままでした。
梅原・安田氏の「森の文明」論については、「縄文の「森の文明」に対し、長江文明を携えた弥生人による「稲作漁撈文明」という旧来の2重構造論であり、「イモ豆栗6穀」の縄文農耕やバランスの取れた豊かな土器鍋食文化とその延長上にある鉄器水利水田稲作へと連続するスサノオ・大国主建国を認めない外発的発展史観・征服史観の枠組みから抜け出せていないのはちょっと残念です」(縄文ノート48 縄文からの『日本列島文明論』)といささかわかりにくいコメントしましたが、「森の文明」を「採取漁撈狩猟文明」とみるのか、「縄文農耕」(照葉樹林文明の焼畑農耕)として位置づけるのか、どちらか整理しておく必要がでてきました。
以下、「おっぱい」→「糖質・食進化説」→「森林農耕説」として検討したいと思います。
1 「おっぱい」からの糖質進化論
「哺乳類」が進化をとげて人間になったという以上、「乳」にこそ人類進化の鍵があるとみるのはあながち荒唐無稽とは思えません。
世界の石器時代の女性像に巨乳像が見られるのも無関係ではないと考えます。―「縄文ノート75 世界のビーナス像と女神像」参照
「おっぱい博士」の浦島匡(ただす)帯広畜産大教授によれば、オットセイには脂肪分が多く、キリンには水分が多いなど、環境に合わせておっぱいの成分が異なるというのです。
そして、人のおっぱいには牛と較べて糖質の割合が倍近く多くてタンパク質が少なく、しかも、糖質の割合が生後3~300日の間、増加しているのに対し、タンパク質は50%近く低下しているのです。
この事実は、動きの少ない人の乳児はタンパク質を必要としないにも関わらず、脳の活動がきわめて活発で糖質を必要としていることを示しており、糖質こそが人間の脳の活動を支え、進化を促したという説を裏付けます。
「縄文ノート25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」において、私は次のように書きましたが、強力な裏付けになります。
2019年11月からNHKスペシャルで始まった食の起源の「第1集『ご飯』~健康長寿の敵か?味方か?~」によれば、アフリカの旧石器人の摂取カロリーの5割以上が糖質で主食が肉というのは間違いであり、でんぷんを加熱して食べると固い結晶構造がほどけてブドウ糖になって吸収され、その多くが脳に集まり、脳の神経細胞が増殖を始めるとされています。火を使うでんぷん食に変わったことにより脳は2倍以上に巨大化したというのです。
肉食獣の脳が大きいこともなければ、脳の中は筋肉ではないのですから、「肉食進化説」は棄却されるべきでしょう。
さらに、「第3集『脂』~発見!人類を救う“命のアブラ”~」ではオメガ3脂肪酸(青魚・クルミ・豆類など)が脳の神経細胞を形作り、樹状突起同士を結び付け、高度な神経情報回路を生み出すのを促したとされています。
猿から人間への頭脳の発達には魚食と穀類の組み合わせが有効であったのであり、海岸・河川地域での魚介類やイモ・イネ科穀類などの摂取こそが人類を猿から進歩させたのです。日本列島における世界に先駆けた縄文土器鍋によるイモ・豆・栗・雑穀・野菜・茸・魚・貝・肉などの煮炊きによるバランス食文化は、これからの人類にとって重要な示唆を与えると考えます。土器鍋は人類初の主食調理器具の偉大な発明であり、石器時代に次いで土器時代(土器鍋時代)という時代区分を採用すべきと考えます。
「肉食と戦争が人類を進化させた」という西欧中心史観の「肉食戦争進化説」が未だに『日経サイエンス』や『ナショナル ジオグラフィック』にも時々顔を出し、「糖質食平和進化説」に対抗していますが、糖質こそ人間の脳の働きを助け、進化させてきたのです。「脳の中には筋肉が詰まっている」のではなく、「脳の中には大量の血液が流れ、糖質が脳の働きを支え、脳の神経細胞を増殖させた」ことこそが人類進歩の鍵なのです。
また、青魚やナマズなど、さらには母乳に多く含まれるオメガ3脂肪酸のDHA(ドコサヘキサエン酸)は脳、網膜、神経、心臓、精子に多く含まれ、「発達期の赤ちゃんに欠かせないDHA」「子供にDHAサプリ」などという製薬会社の宣伝の片棒を担ぐつもりはありませんが、DHAには「脳神経を活性化し、記憶力の向上などの効果がある」「学習機能向上作用(記憶改善、健脳作用)がある」とされています。
サルから人間への進化において、糖質食とともに魚介食が果たした役割も大きいと考えられ、西アフリカや東アフリカ湖水地方での「イモ・豆・穀類・魚介食」の研究が求められます。―「縄文ノート縄文55 マザーイネのルーツはパンゲア大陸」「縄文ノート62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」参照
縄文人に多いY染色体D型と分岐したE型がニジェール川流域のイボ人などに多く、若狭の鳥浜遺跡や三内丸山遺跡で見つかったヒョウタンの原産地がニジェール川流域であることからみて、この地域で糖質・魚介食によりサルからヒトになった可能性が高いと考えます。
2 美味しい香りの焼米・焼麦・焼豆・焼稗・焼きイモからの農耕起源説
「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」では樹上生活を維持した「チンパンジーは主に果実を食べるが種子、花、葉、樹皮、蜂蜜、昆虫、小・中型哺乳類なども食べる」とし、「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」ではチンパンジーやよりヒトに近いボノボが泳ぎ、ギニアのチンパンジーが「水たまりの沢ガニを日常的に食べている」ことや、ボノボが「乾いた土地や沼を掘ってキノコや根粒菌などを食べる」「ヤゴや川虫を食べる」ことを明らかにしています。
チンパンジーやボノボが森林で種子やマメ科の根粒から糖質をとっていたとすると、火事によって森林が焼けた野原の中には香ばしい香りのする焼米や焼麦・焼稗などの穀類やササゲなどの焼豆やゴマ、土中の焼けた根粒やイモ類の美味しい匂いが漂っていたはずで、好奇心の旺盛なチンパンジーやボノボはその匂いに引き付けられて食べる機会があった可能性は高いと考えられます。
「縄文ノート25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」では私は次のように書きました。
5.焼米・焼麦と農耕開始について
新石器時代に土器が出来て、米や小麦を煮て粥にし、その後に粉にして焼くようになり、穀物が食べられるようになった、と思い込んでいました。しかし、昨年の秋、妻がベランダでのイチゴ栽培の苗床用にもらってきた藁に残っていた稲穂の籾を見つけ、焼いて孫に食べさせたことがあり、私も子どもの頃に田舎のどんど焼きで焼米を食べたことがあることを思い出しました。米は脱穀して煮なくても焼いて食べられるのです。
縄文人は脱穀した米の「お粥」を食べるとともに、「焼米」を食べていた痕跡が残っており、たき火をしていた旧石器人もまた、野生の稲を燃やした時に白くはぜ(爆ぜ)、こうばしい香りのする焼米などを見つけ、穀類を食べ始めた可能性があります。
また、子どもの頃、田舎に行くと「はったい粉」を熱湯で練って食べたことがよくありましたが、炒った麦を粉にして食べる「むぎこ」「むぎこがし」「はったい粉」のルーツは、パン・クッキーよりもはるかに古い可能性があります。「食べられるおいしい麦茶」が2013年7月30日にNHK「あさイチ」で【すご技Q 麦茶パワー】として紹介されていましたが、麦もまた「パン食」より前に「焼麦」として食べられ始めた可能性があります。
棒で穴を掘って種を植えれば、気象条件さえあえば穀類は育つのです。穀類の栽培は旧石器時代に遡り、ヒョウタンの故郷、ニジェール川流域がイネ科穀物の採取・利用のルーツの可能性があります。
この「ニジェール川流域イネ科植物単一起源説」説については、ヒョウタンや稲、麦などのDNA解析により、決着が付けられるのを待ちたいと思います。
火の使用はこれまで「焼肉」と結びつけられてきましたが、焼畑や畔焼き・野焼きを行うと小動物が焼かれた匂いとともに焼米・焼麦・焼豆・焼イモの香りが漂い、人類は火の使用を始めて糖質・DHAを摂取して進化した公算が高いと考えます。
若月利之島根大名誉教授によれば、「ヒョウタン」「Y染色体D型の縄文人」の故郷、ナイジェリアの農業と食は次のとおりです。―「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」参照
③ イボの根作は多様性農業の極致です。
④ イボ(とヨルバ)の主食はヤムもち(日本の自然薯と同種)で、大鯰と一緒に食べるのが最高の御馳走。古ヤムのモチは日本のつき立てものモチよりさらにおいしい。貝は大きなタニシをエスカルゴ風に食べます。男性の精力増強に極めて有効。
西アフリカでの火を使った「穀実豆芋魚食」の糖質・DHA摂取こそがヒトの知能を発達させた可能性が高く、火の使用とセットになって焼畑の芋豆穀類の栽培が開始された可能性が高いと考えます。その栽培は木の棒さえあれば簡単にできます。
私は「3大穀物単一起源説」(縄文ノート25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」)の仮説を立てて調べ、中尾佐助氏の「サバンナ雑穀農耕起源説」説(縄文ノート26 縄文農耕についての補足)やT.T.チャン氏の「ゴンドワナ大陸イネ起源説」(縄文ノート55 マザーイネのルーツはパンゲア大陸)に出合いましたが、さらにDNA分析による雑穀やイモ類の総合的な証明が期待されます。
3 「持続可能な森林農耕」論へ
これまで「縄文農耕」「イモ・豆・栗・縄文6穀農業」「縄文焼畑・水辺水田農耕」「根栽農耕文化と照葉樹林農耕文化(焼畑)」「『火+田』の焼畑が『畑』、『白+田』の乾田が『畠』の和製漢字」などについてバラバラと書いてきましたが、これらを大河沖積平野の灌漑農耕とは区別し、持続可能な「森林農耕」として農耕の起源に位置付ける必要があると考えるに至りました。
「縄文ノート77 『北海道・北東北の縄文遺跡群』世界文化遺産登録の次へ」(修正)で私は次の図を掲載しましたが、縄文農耕を滅び去った歴史的なエピソードとするのではなく、森林を農地・はげ山に変えて砂漠化を招いた自然収奪型の多収奪型の工業的農業・牧畜ではなく、再生可能な農耕文明の一段階として位置づける必要があると考えます。
森林農耕は人類に糖質摂取をもたらし、農耕による「分担・分業生産、交換・交易」による言語・コミュニケーション・数学能力の飛躍的な進歩を人類にもたらしたという歴史的エピソードとして無視することはできません。人類誕生は森林農耕によって実現され、文明のスタートはこの西アフリカで起こった「森林農業」にあると考えます。
西欧中心史観は焼畑農業を未開段階の農業とし、その生産性の低さや森林破壊・CO2排出を非難して潰滅に追いやり、熱帯地域において大規模プランテーションによる工業型農業に変えてきていますが、都市・住宅建設や製塩・製鉄・製瓦・造船・製紙・熱資源利用による森林伐採と合わせて、森林破壊は再生限度を超えて進行してきています。
降雨量の減少、河川流量や地下水の減少、農地の塩害、河川・湖・海・農地の貧栄養化、黄砂・砂塵嵐被害、CO2吸収の減少、生態系の破壊(種の絶滅)、気候変動による異常気象など、今や深刻な危機を地球規模でもたらしているのです。
2015年、国連は「持続可能な開発のための2030アジェンダ」と17の「持続可能な開発目標(SDGs)」を採択し、2016年には気候変動に関するパリ協定が発効しましたが、17の目標のうちの「2.飢餓をゼロ」「6.安全な水とトイレを世界中に」「13.気候変動に具体的な対策を」「14.海の豊かさを守ろう」「15.陸の豊かさも守ろう」には、「森林の保全・回復」と「再生可能な森林農耕」は欠かせないテーマなのです。ここに「森林農業」という自然共生型農業は、現代的な意味を持っていると考えます。
4 「弥生人(中国人・朝鮮人)稲作説」の空想から縄文人稲作説へ
日本では「弥生人(中国人・朝鮮人)による稲作開始説」による「弥生人天皇建国史観」が根強く、農耕=文明の始まりを天皇家の大和朝廷と結び付け、「縄文農耕」を否定する歴史家が多いのですが、このような「新皇国史観」が成立しないことは、畑作・稲作・食事関係の言語からだけでも明白です。
もしも多数の弥生人が長江流域や朝鮮半島から稲を持ってやってきて建国したのなら、農業関係の言語は全て呉音漢語か原朝鮮語のはずです。
ところが「縄文ノート28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」で示した前掲の表1のように、畑作・稲作・食事の言語には倭音倭語があり、それはタミル語(ドラヴィダ語)に近いのです。これは、縄文人ルーツであるY染色体D型がチベットやその周辺の山岳地帯やアンダマン諸島に多いことと符合しているのです。
さらに、13,000年前の島根県飯南町(神戸川上流)の板屋Ⅲ遺跡、12,000年前の鹿児島県の薩摩火山灰下層、約6000年前の岡山市の彦崎貝塚や朝寝鼻貝塚からイネのプラント・オパールが見つかり、天草市大矢遺跡の5000〜4000年前の土器の稲もみの圧痕跡が見られることなどからみて、熱帯ジャポニカ(陸稲)の栽培は縄文時代に遡り、約3000年前の佐賀県唐津市の菜畑遺跡の最古の水田跡などにしても、それらは自然河川の水辺水田であり、鉄器を使った沖積平野での大規模な水利水田稲作は紀元1~3世紀のスサノオ一族や「五百鋤々なお所取らして天の下所造らしし大穴持命」と呼ばれた大国主一族による「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国水穂国」「葦原中国」の建国へと連続しているのです。
紀元2世紀の大国主の時代からみて「千秋長五百秋」は紀元前930年前頃の佐賀県唐津市の菜畑遺跡や紀元前4世紀頃からの水田稲作の広がりとほぼ符合しているのです。適当に「千秋長五百秋」と書いたのが偶然に一致したのではない可能性もあるのです。
わが国の稲作は、「焼畑稲作(森林農耕)」→「水辺水田稲作」→「葦原(沖積平野)水利水田稲作」と連続した内発的発展を示しているのであり、「弥生人稲作開始説」「弥生人征服説」の空想など成立する余地はありません。
それは、佐藤洋一郎総合地球環境学研究所名誉教授によるRM1遺伝子の国別分布で、日本はa・b・c型で、中国・朝鮮にみられるd・e・f・g型が見られないことからも裏付けられます。―「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」参照
朝鮮に日本に多いb型がないことからみて、朝鮮から日本に稲作が伝わった可能性は否定されます。さらにd・e・f・g型が見られないことも、日本の温帯ジャポニカは中国・朝鮮からではなく、別ルートの可能性が高いことを示しています。
a~g型の多様な品種のうちabc型だけが長江流域や朝鮮半島から日本に持ちこまれたり、選択的栽培により日本列島だけでa・b・c型に純化した可能性が考えられないでもありませんが、倭人だけが特別の育種技術を持っていた可能性は少ないように思います。さらに他の麦・粟・稗・黍・ササゲ・ゴマやイモ類などのDNA分析による証明が求められます。これらも呉音・漢音とは別に、倭音が今も使われているからです。
さらに、「縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源説」「縄文ノート29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」「縄文ノート30 『ポンガ』からの『縄文土器縁飾り』再考」でも次のように書きましたが、赤飯などを撒き、カラス与える神事と囃し言葉が日本に伝わっているのです。
大野晋氏は『日本語とタミル語』の冒頭で南インドに始めて調査に出かけた時の1月15日の「ポンガル」の祭りを体験した時の劇的な出会いを紹介しています。2つの土鍋に牛乳を入れ泡が土鍋からあふれ出ると村人たちが一斉に「ポンガロー、ポンガロー」と叫び、一方の土鍋には粟と米(昔は赤米)と砂糖とナッツ、もう一方の土鍋には米と塩を入れて炊き、カラスを呼んで与えるというのです。日本でも青森・秋田・茨城・新潟・長野に小正月(1月15日)にカラスに餅や米、大豆の皮や蕎麦の殻、酒かすなどを与える行事が残り、「ホンガ ホンガ」「ホンガラ ホンガラ」と唱えながら撒くというのです。「ホ」は古くは「ポ」と発音されることは、沖縄の「は行」が「ぱ行」となる方言に残っていますから「ポンガ=ホンガ」であり、なんと、インド原住民のドラヴィダ族の小正月の「ポンガ」の祭りが日本にまで伝わっているのです。
赤米神事が長崎県対馬市の多久頭魂神社、鹿児島県種子島の宝満神社、岡山県総社市の国司神社に残り、赤飯を大地に投げ、こぼす神事が群馬県片品村に残っていることをみても、稲作がドラヴィダ系海人・山人族により伝わり、縄文時代から現在にいたるまで続いていることを示しています。
5 天皇一族は縄文人か、弥生人か?
「弥生人天皇建国史観」という根強い「征服王朝史観」による「縄文・弥生断絶史観」について触れておきたいと考えます。縄文文化・文明を日本人の原点とするか、弥生人の征服からを文明社会と考えるかの重要な論点ですので、縄文論とは切り離せないテーマとして補足しておきたいと考えます。
記紀をそのまま読めば、天皇家の祖先の笠沙天皇家3代(ニニギ・ホオリ・ウガヤフキアエズ)は鹿児島県の薩摩半島西南端の笠沙・阿多・長屋・竹屋の「毛のあら物、毛の柔物」を取る「山幸彦(山人:やまと)」であり、初代ニニギの妻の名は阿多都比売で、笠沙天皇家4代目の初代大和天皇家のワカミケヌ(若御毛沼:8世紀に神武天皇と命名)の母と祖母は龍宮(琉球)出身の姉妹です。
右派は「天皇家のルーツは日向」としてこれらの記載を無視し、左派は「記紀神話は8世紀の創作」としていますが、この記載は動かせない事実です。この点では左右の歴史家は協力して、笠沙天皇家3代の歴史を闇に葬ってきたのです。
重要な点は、この笠沙天皇家3代の歴史を裏付けるような遺跡がいくつもこの地で発見されていることです。
南さつま市栫ノ原遺跡からは国内最古の丸木舟製作用の12000年前頃の丸ノミ石斧やくんせい施設が発見され、後期旧石器時代から中世までの集落遺跡が連続しています。万之瀬川対岸の「阿多」には縄文前期の阿多貝塚があり、南西約10㎞のところには「笠沙」、南西約4㎞のところには「長屋」、西約2㎞のところには「竹屋神社」があり、天皇家のルーツがこの地であるとする記紀の記載を正確に裏付けています。
図6のように縄文時代前期の曽畑式土器文化圏は沖縄から韓国に及び、南九州に分布中心があり、ウィキペディアは「朝鮮半島の櫛目文土器とは表面の模様のみならず、粘土に滑石を混ぜるという点も共通しており、櫛目文土器の影響を直接受けたものと考えられている」「南方性海洋性民族(南島系海人族)の担い手が、櫛目文土器の造り手(ウラル系民族)との接触により、影響を受けたものと考えられる」と単に土器様式の説明に終始していますが、「南九州の海人族が沖縄から朝鮮半島まで活発に交易を行っていた」と歴史として論じることを避けています。
文化・文明は中国・朝鮮からもたらされた、という「和魂を忘れた漢才」の拝外主義的歴史観は未だに根強いことを思い知らされます。「曽畑」という地名から「蕎麦田」を思い浮かべてソバの花粉が縄文時代の地層にないか調べるなど、視野を広げた研究を望みたいところです。
なお、古事記はニニギが『ここは韓国に向い、笠沙の御前(岬)を真来(真北)とおりて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。いとよき地だ』といって宮殿をたてて阿多都比売を娶ったと伝えていますが、この地の海人族が韓国と九州西岸を通る対馬暖流に乗って交易していたことを知って驚いたというのです。武器づくりに必要な鉄を入手できる可能性があるからです。実際には、琉球から鉄器を入手したことが、鉄の釣り針を巡る海幸彦との争いとして描かれています)。
記紀に書かれた地名をきちんと読めば、図7に示したように天皇家の先祖とされるニニギの「天下り」のルートは、北九州からこの地に九州山地を通って笠沙・阿多にやってきたのです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照
卑弥呼なきあとの後継者争いの「相攻伐」で女王(壹与)派に敗れた男王(弟王)派のニニギの逃避行であり、天皇家の祖先が龍宮(琉球)と関りの深い薩摩半島の縄文人の末裔の「山人(やまと)」であることを記紀は隠しておらず、「弥生人天皇建国史観」など何の根拠もないことが明らかです。
紀元1~3世紀の百余国のスサノオ・大国主一族も、反乱を起こした30国をまとめた卑弥呼も、笠沙3代からの天皇家も、全て縄文人の末裔なのです。
「弥生人(中国人・朝鮮人)による稲作開始説」「弥生人による縄文人征服説」「弥生人天皇家建国説」「二重構造論」などは、「古事記・日本書紀・各国風土記・魏書東夷伝倭人条・三国史記新羅本紀」やヒト・イネDNA分析、「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造の日本語などを無視した空想という以外にありません。それらは「新皇国史観」とでも言うべきイデオロギーの妄想なのです。
縄文時代(私は土器時代というべきと考えますが)1万年からの連続した文明・文化として、日本史を見直すとともに、世界文明史の解明に向けての役割を果たすことが求められます。
5 「森林文明」の時代へ
地下水の大量利用による大規模農業や工業、都市化により化石水が枯渇する危機については1960・70年代から指摘されてきましたが、2030年には大穀倉地帯であるアメリカなどで危機的になり、世界的な食料危機が心配されはじめました。NASAの研究(ナショナルジオグラフィック・ニュースなど)では、人間の使用量は雨水の供給量を超え、地下水位は2002~2008年に毎年平均30センチ低下しているというのです
これまで「焼畑農耕」は過去の原始的な農耕として論じられてきましたが、再生不可能な工場生産型農業が化石水の枯渇から行き詰まりを見せている現在、水資源と生態環境について再生可能な「森林農業」の可能性を論じるべき時と考えます。
日本は鳥取大学の乾燥地研究センターが1949年より先進的に砂漠緑化・砂漠農業などに取り組んできており、高吸水性樹脂を使った砂漠緑化や点滴灌漑農業が提案され、世界の中で重要な役割を果たしてきましたが、水循環の基本となる世界の森林の保全・再生に向け、縄文から続く豊かな「森林文明」の提案が今こそ重要と考えます。
「おっぱい」の原点からの提案です。
□参考□
<本>
・『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)
2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)
2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)
<ブログ>
ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/
帆人の古代史メモ http://blog.livedoor.jp/hohito/
邪馬台国探偵団 http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/