ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰

 江戸中期からの父方の先祖の墓には「日向」、提灯には「日南」と書いて「ひな」と名乗っており、明治になって30戸の本家であったため「ひなもと=日本」の名字を届けたところ役場が「雛元」漢字に変えたため一族は憤慨している、というきわめて珍しく、面白い先祖の歴史があり、さらに仕事先の青森県東北町で平安時代とされる「日本中央」の石碑に出合い(青森の中に東北があり、さらに日本中央があるという逆立ちの面白さ!)、私は「ひな」の全国の地名や記紀の研究に入り、多くの「ひ」は「日」ではなく「霊」ではないか、との結論に達しています。

 「縄文ノート128 チベットの『ピャー』信仰」では冒頭で次のように書きました。

 

 神々を産んだ始祖神の「むすひ=産日(古事記)=産霊(日本書紀)」夫婦、「人・彦・姫・聖・卑弥呼・日嗣‣棺・神籬(ひもろぎ)・神名火山(かんなびやま)」は「霊人・霊子・霊女・霊知・霊巫女・霊継・霊洩木・神那霊山」、出雲では妊娠を「霊がとどまらしゃった」ということ、「ぴー=ひ(沖縄)=ひな(天草)」が女性器名であること、霊(ひ)信仰のルーツが南インドのドラヴィダ語(タミル語)の「pee(自然力・神々しさ)」や雲南省ロロ族の「ピー・モ」(巫師)、タイ農耕民の「ピー(先祖、守護神)」信仰にあることなど明らかにしてきました。

 

 素人の気楽さで、「思い切った仮説をたてるのが素人の役割」「仮説検証は各分野の専門家に任せればいい」と考えているため、記紀ウィキペディアのデータで徹底的に考え抜いて「最少矛盾仮説」をまとめ、あとで関係資料を読むことが多いのですが、今回も今頃になって『東南アジア史Ⅰ 大陸部』(石井米雄・桜井由躬雄)を読み、10世紀までのミャンマービルマ)のイラワジ川に沿って「ピュー人」が住んでいたという図に出合いました。

 ドラヴィダ系海人・山人族が日本列島人のルーツと考えてきた私の説に、新たな裏付けが加わりました。

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1 ミャンマーの「ピュー人」

 『東南アジア史Ⅰ 大陸部』では、ミャンマーのイラワジ川沿いに「ピュー人」の記載を見つけましたが、残念ながら本文には記載がありません。

 ウィキペディアは次のように書いています。

 

 ピューは他称で、漢文史料の「驃」「剽」などの表記、ビルマ語のピュー(Pyu)に由来する。古くはPruと発音され、『ハンリン・タマイン(由来記)』には「微笑む」を意味するPrunに由来すると記されている。

 

 なお、モン人のタイが今も「微笑みの国」と言われていることからみて、チベットビルマ語系の「ピュー」の語源がオーストロアジア語族のモン語の「Prun:微笑む」であるという説には疑問があります。

 「ピュー人」がチベットビルマ語系とされていることからみて、チベットの「ピャー(祖先霊)」信仰からきており、バラモン教が入ってきた時点で本来の「ピュー」の意味は忘れられた可能性があります。

 

 唐会要第100巻には「魏晋の間(3世紀)に『西南異方志』及び『南中八郡志』なる著ありて云わく『永昌、古の哀牢国(注:雲南省南西部地方に建国した西南夷の国)なり。伝え聞く、永昌の西南のかた三千里に驃国あり。君臣、父子、長幼に序あり。』と。然れども史伝に見るものなし。

 

 この記載から、3世紀には「驃国」(驃:呉音「ビョウ」、漢音「ヒョウ」)があったことは確実です。

 なお沖縄の「あいういう」3母音と本土の「あいうえお」5母音の関係から見て、「ゆ=よ」で「Yuo」音であり、ミャンマーでは「ピュー」、漢人は「ヒョー」と聞いたと考えられます。

 

 10世紀以前に建設された7つのピューの城郭都市が発見されている。・・・かつてエーヤワディー川流域では一大文化圏が形成されていたと考えられており、その文化圏はピュー文化圏と呼ばれている。・・・1-2世紀から3-4世紀にかけて存続していたベイッタノーが最古の城郭都市であるが、一部にはベイッタノーをピューの城郭都市と見なすことに疑問を投げかける意見もある。・・・ピュー語はチベットビルマ語派に属することが判明したが、ピューの言語は完全に解読されていない。1,2世紀ごろに南インドの人間が下ビルマに移住し、300年ごろに文字を初めとするインドの思想・学問がピューに伝わり、ビルマ土着のナッ信仰や竜神信仰にインド伝来のバラモンの思想がまじりあった。

 

 この記述からみると、紀元1~2世紀頃の南インドからのバラモン教の移住民より前に住んでいた原住民が「ピュー人」であったと考えられます。

 

2 チベットの「ピャー」信仰

 「縄文ノート128 チベットの『ピャー』信仰」の繰り返しになりますが、「ピュー人」との関係を探るために要点を再掲しておきます。

 7世紀にチベット高原を支配していた「吐蕃王家」の始祖王ニャティ・ツェンポの父もしくは祖父は「ピャー」と呼ばれ、敦煌資料では一族の神は「ピャーのうちのピャー」と呼ばれていたとされており、「ピャー=神=祖先霊」を指していることが明らかです。

 このニャティ・ツェンポ王はインドから流離する形で現れ、天から降りてきた縄を登ってこの世から去ったとされる天神信仰であり、この「ピャー族」は西チベットからきたとされていることからみて、インダス川を遡り、聖山・カイラス山(仏教では須弥山)を祖先霊が宿る聖山とし、チベットを東西に流れるヤルンツァンポ川(ブラマプトラ川上流)を下った「ピャー族=神族」と考えられます。―「縄文ノート57 4大文明と神山信仰」参照

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3 台湾の卑南族

 「縄文ノート91 台湾・卑南族と夜這い・妻問夫招婚の『縄文1万年』」では、台湾の東南部山地の約1万人の卑南族(現地ではピューマ、呉音ではヒナ・ヒナン)族について、「原住民の祭礼・祭祀に欠かせない祖霊部屋は巫女信仰のアニミズム」「豊年祭 - 粟の収穫を祈願する祭祀; 収穫祭 - 粟の収穫を感謝する祭祀; 大狩猟祭」「祖霊部屋(巫師部屋)、少年会所、青年(男子)会所」「頭目制度と男子会所による年齢階級組織が混在した母系社会」などはわが国の民俗と似たところがあることを紹介しました。

 ピー信仰と関係がある部族名の可能性があります。

             

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4 「ピュー」「ピャー」「ピー」「ひ・ぴ」が示すもの

 「縄文ノート38 霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰」で取り上げたタイの「ピー」、ロロ族(雲南のイ=夷=倭族)の「ピー」、ドラヴィダ語(タミル語)の「ピー」、倭語の「ヒ=ピ」と、ミャンマーの「ピュー」、チベットの「ピャー」、台湾卑南族の「ピュー」を整理すると、表1、図1のようになります。

 

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 これらの「ピー・ヒ」の祖先霊信仰はチベット族の伝承とドラヴィダ族のルーツからみてアフリカの神山天神信仰を起点とした可能性が高く、北のチベットと西(南インドミャンマー)へ広がり、日本列島にまでたどり着き、霊(ひ)を継承する「人(霊人:ひと)」「霊神(ひじん=ひのかみ:蓼科山)」などの縄文文化へと続いたと考えられます。―縄文ノート「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「57  4大文明と神山信仰」「61 世界の神山信仰」参照

 図4のアジアの「ピー・ひ」宗教の分布で特徴的なことは、琉球から北海道までの海人族・縄文人の活動範囲が非常に広いことです。その島々からなる細長い交易ルートは「海の道」しか考えられず、そのスケールは「アフリカからインド」「インドから東南アジア」への距離と匹敵し、海人族が伝え運んだ可能性が高いと考えます。

 

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 ただ、現在のドラヴィダ人Y染色体はH型33%、O・L・R1a・J型がそれぞれ14~11%であり、紀元前53000年頃にアフリカ東岸からインド南西部に移住したのに対し、日本人(沖縄北39%、九州28%、東京40%、アイヌ88%)やチベット人などに多いY染色体D型は残っておらず、Y染色体D型族は南インドから残らず移動したと考えられます。しかし、「ピー」信仰やポンガルの赤米・烏祭り、宗教・農耕のドラヴィダ語(タミル語)などの文化をドラヴィダ族に残し、北のチベットと東のミャンマーなどに移住したと考えます。―縄文ノート「28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」「38 霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰」「30 『ポンガ』からの『縄文土器縁飾り』再考」「37 『神』についての考察」「38 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」「41 日本語起源論と日本列島人起源」「42 日本語起源論抜粋」参照

 従って、日本列島人のルーツはドラヴィダ族ではなく、「ドラヴィダ系海人・山人族」と考えています。

 

5 「イ族」と照葉樹林文化論

 ウィキペディアによれば、イ族(旧族名: 夷族、倭族、自称:ロロ族)は南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきており、現在では雲南に最も多く居住し、南詔王国を建国した烏蛮(うばん)族が先祖だと言われています。北方から徐々に南下したこれらイ語系種族集団(烏蛮)は、それまでその地に先住し勢力を有していた白蛮(広義のタイ系諸族)と対立抗争を繰り返し、白蛮系の高い文化の影響を受けた烏蛮系が台頭して先住の白蛮系をおさえ、唐代にはリス族、ナシ族とともに烏蛮を形成したとされています。

 ピー・モが主催する祖先霊信仰を行う焼畑民でトウモロコシ、米、ジャガイモ、麦、ソバ、豆類などを栽培し、ヤギや豚などの家畜を飼育し、伝統的な主食はツアンパという炒ったムギ粉を水で練ったもので、チベット族の食習慣に近いとされ、火祭りや独自の相撲があります。

 注目したいのは、イ族(夷族、倭族)の先祖の烏蛮(うばん)族が南東チベットをルーツとし、ピー=霊(ひ)信仰の「烏(う=カラス)」を神使とする部族であることです。

 「縄文ノート73 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき)」などにおいて書いたように、平安時代から近代にかけての礼服において男子が「雛尖(ひなさき:クリトリスを前に付けた烏帽子(えぼし=からすぼうし)を被り、住吉大社熊野大社(本宮・速玉・那智)、厳島神社安芸国一宮)などスサノオ一族が烏を神使とし、青森・秋田・茨城・新潟・長野で小正月(1月15日)にカラスに餅や米、大豆の皮や蕎麦の殻、酒かすなどを与える「ホンガ」のカラス神事が残っており、そのルーツがドラヴィダ族の可能性が高いこと、ドラヴィダ族がインダス文明を作ったことからみて、烏蛮(うばん)族のイ族(夷族、倭族)が倭人と同じくドラヴィダ族を先祖としている可能性が高いことが符合します。

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   私は「委奴国=いなのくに」、「倭国=いのくに」、「一大国=いのおおくに」「邪馬壹国=やまのいのくに」と読んでおり、イ族(夷族、倭族)との符合は偶然ではなく、チベット人と日本人がY染色体D型が多いこととも符合します。

 文化人類学者の中尾佐助氏や佐々木高明氏らは、「根栽類の水さらし利用、絹、焼畑農業陸稲の栽培、モチ食、麹酒、納豆など発酵食品の利用、鵜飼い、漆器製作、歌垣、お歯黒、入れ墨、家屋の構造、服飾などが圏の特徴として挙げられる」(ウィキペディアより引用)とし、中国雲南省を中心にヒマラヤ、ブータン、華南、台湾、西日本に広がる地域を照葉樹林文化圏と名づけており、私はこの照葉樹林文化の類似性については認め、継承していますが、「照葉樹林文化圏中国雲南省中心説」「長江ルート渡来説」については次節のようにDNA・言語・農耕などから同意できません。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」「26 縄文農耕についての補足」「28 ドラヴィダ系山人・海人族による日本列島稲作起源論」「43 DNA分析からの日本列島人起源論」「62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」参照 

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6 日本列島人の起源について

 中尾佐助氏や佐々木高明氏らの「照葉樹林文化論」とは、次の点で私は異なります。

 第1は、鳥浜遺跡で発見されたアフリカ西部のニジェール川流域が原産地とされるヒョウタンや北アフリカが原産地のウリ、さらには琉球から東北にかけての対馬暖流交易圏からみて縄文人は海人族の性格が強く、海の道から日本列島にやってきた可能性が高いことです。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」「26 縄文農耕についての補足」参照

 第2Y染色体D型人はE型人(コンゴイド)とニジェールコンゴ川流域の海岸部で誕生し、糖質・魚介食によって知能を発達させ、アフリカ高地湖水地方を経て南インド、さらには東南アジアへと熱帯雨林を移住し、糖質・魚介食・土器鍋食文化(特にさしみ)を維持してきており、乳製品・肉・糖質食文化のチベットから雲南にかけての山岳地域を主要なルーツとしてはいません。―縄文ノート「81 おっぱいからの森林農耕論」「85 『二足歩行』を始めたのはオスかメス・子ザルか」「89 1 段階進化論から3段階進化論へ」「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」「62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」参照

 ただし、Y染色体D型人の一部は山岳地域に移住してドラヴィダ系山人族として照葉樹林文化を育んでおり、寒冷化を迎えた時にイラワジ川を南下し、ドラヴィダ系海人と共同で東に「海の道」を進み、日本列島にやってきたと考えています。―「縄文ノート28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」参照

 

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    第3は、Y染色体D型族の分布と「主語-目的語-動詞」言語構造からみて、チベット・東南アジア山岳地帯・雲南から長江流域を下って「主語-動詞-目的語」言語構造の漢民族の間を縫って日本列島にやってくることができた可能性は低く、「シベリアの道」から北海道へやってきたアイヌ系とミャンマーからアンダマン諸島をへて「海の道」をやってきた南方系の2ルートが日本列島人の起源であるとするのが私の「主南方系・従北方系日本列島人形成説」です。―縄文ノート「41 日本語起源論と日本列島人起源」「42 日本語起源論抜粋「43 DNA分析からの日本列島人起源論」参照 

 日本語が倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3層構造となっているのは、倭音倭語の旧石器・縄文人がベースとなり、徐福をはじめ中国の戦乱を逃れ、あるいは中国南方の沿岸漁業民が流されて日本列島に漂着して呉音漢語がもたらされ、さらに邪馬台国の遣使、遣隋使・遣唐使や仏師の受け入れ、琉球王国の交易などにより漢音漢語が加わったことによると考えます.

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 第4は、「照葉樹林文化圏中国雲南省中心説」が成立しないことです。前述のようにイ族(旧族名: 夷族、倭族、自称:ロロ族)は南東チベットをルーツとしており、Y染色体D型がチベット人(43~52%)やミャンマー沖のアンダマン諸島(73%)に濃厚であることや、モチイネ・茶・ソバ・納豆の分布中心からみて、「照葉樹林文化圏」の中心はイラワジ川上流のミャンマー高地の可能性が高いと考えます。―縄文ノート「28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」参照

 なお、「畑=火+田」の焼畑由来の和製漢字や「ソバ」の語源からみても、「蕎麦食」は中国伝来ではなく、もっと古い縄文焼畑によるソバ栽培からと私は考えます。―「縄文ノート109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑」参照

 

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7 まとめ

 ミャンマービルマ)のイラワジ川に沿って「ピュー人」が住んでいたという図に出合い、「ぴー・ひ」信仰の日本列島の「ひと=霊人」のルーツについてアフリカからのジグゾーパズルが完成しました。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/