ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート173 「原始、女は太陽」か、「原始、女は霊(ひ)を産む神」か

 平塚らいてうは女性文芸誌『青鞜』の創刊号で「原始、女は太陽だった」と女性の権利獲得・解放を象徴するインパクトのある提案を行い、共に女性史研究・女性運動を進めた高群逸枝もまた太陽神・天照大御神本居宣長:あまてらすおおみかみ、筆者:あまてるおおみかみ)を始祖神として認めています。

 皇国史観の絶対主義天皇制の支配のもとで、女性の権利を主張するためにアマテル信仰を逆手にとった苦し紛れの選択ともいえますが、結果として「世界を照らすアマテル太陽神」信仰の皇国史観に同調し、女性たちを「聖戦」の侵略戦争に駆り立てる役割を果たしたのです。しかしながら、高群逸枝の「母系制」「婚姻史」研究の成果は「神話時代」以降については損なわれることはない、と私は考えます。

 記紀神話分析から「原始、女は霊(ひ)を産む神だった」ことを明らかにしておきたいと考えます。

 

1 「ひ」は「日」か「霊」か?

 私は青森県東北町で「日本中央」の石碑に出合い、先祖の江戸中期の墓に彫られた「日向(ひな)」、提灯の「日南(ひな)」名字(屋号)のルーツを求めて古代史研究に入り、最初は「日向=日の当たる場所=日那(ひな)」説からスタートしましたが、全国の「ひな」地名(日向、日南、日名、日夏、日撫、日那、日奈、比奈、火那、陽、雛、夷、蜷)や、大国主に国譲りさせた今の出雲家のルーツである武日照(たけひなてる)命=武夷鳥(たけひなとり)命=天夷鳥(あまのひなとり)命=建比良鳥命の名前、高天原の所在地である「筑紫日向橘小門阿波岐原」に対応した筑後川流域の旧甘木市の「蜷城(ひなしろ)」地名、古事記が始祖神を「高御産巣日(たかみむすひ)神・神産巣日(かみむすひ)神(日本書紀:高皇産霊(たかみむすひ)尊・神皇産霊(かみむすひ)尊」としていることから、「ひな=霊那」説に到達しました。―『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』参照

 「ひ」を「日」と書くか「霊」と書くかで、この国の始原宗教が「太陽信仰」か、それとも死者を神として崇拝する八百万神の「霊(ひ)(死霊・祖先霊)信仰」であるか、大きな違いがでてきます。なお、「霊=雨+巫(フ:みこ)」で、巫女(みこ)が雨乞いをしている祖先霊を指し、倭音「ひ、たま」、呉音「リョウ」、漢音「レイ」と読みます。

 ちなみに、沖縄の宮古地方では女性器を「ぴー、ひー」、天草地方では「ひな」と呼び、倭名類聚抄はクリトリス(陰核)のことを「ひなさき(雛尖・雛先・雛頭)」と書き、栃木や茨城の方言に「ひなさき」は残っています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 さらに、平安時代からの男子正装の際の烏帽子の先には「雛形」と「雛尖(ひなさき)・雛頭(ひなさき)」が付けられており、この「カラス信仰+女性器信仰」のルーツはさらに古い可能性があります。

 

 中国の烏帽子の例から見ても、中国山岳部のイ族(夷族・倭族)の烏蛮(うばん)、さらには小正月に赤米粥を炊いて食べカラスに与える南インドのドラヴィダ族のポンガロの祭りがルーツの可能性が高いと私は考えます。―縄文ノート「73 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき)」「41 日本語起源論と日本列島人起源」等参照 

 また、出雲地方では女性が妊娠すると「ひがとどまらしゃった」といい、これらの例は「ひ」が「日(太陽)」ではなく「霊(ひ)」であることを示しています。

新井白石は「人」を「ヒ(霊)のとどまる所(ト)」「霊人(ひと)」とし、角林文雄氏は『アマテラスの原風景』において「人、彦、姫、聖、卑弥呼」は「霊人(ひと)、霊子(ひこ)、霊女(ひめ)、霊知(ひじり)、霊巫女(ひみこ)」としていることや、死者を入れて葬る甕棺・石棺・木棺などを棺・柩(ひつぎ=霊継)と言い、天皇家皇位継承を「ひつぎ=日嗣=霊継)ということからみても、古代人は親から子へDNAが受け継がれることを霊(ひ)が受け継がれると考えていたことは明らかです。

 歴史上の死者を演じる能楽師や歌舞伎役者、死者の葬送を行う神社の神人(じにん)などの「霊人(ひにん)」を徳川幕府は「非人」身分として差別したことや、非業の死を遂げて子孫への霊継(ひつぎ)を断たれて子孫に祀られることのない死者の怨霊を神として祀る例をみても、霊(ひ)信仰は裏付けられます。

 

2 「原始、女は霊(ひ)を産む神だった」

 幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えた本居宣長は、「世界を照らす天照大御神」を始祖神とする太陽神信仰の皇国史観の元祖ですが、彼の古事記研究は武士支配を終わらせ天皇制に置きかえたいという政治思想からきた大きな歪曲があります。

 古事記はこの国の始祖神を高天原の天御中主(あめのみなかぬし)・高御産巣日(たかみむすひ)・神産巣日(かみむすひ)・宇摩志阿斬訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)・天之常立(あめのとこたち)の5神として、序文では「参神造化の首(はじめ)と作(な)り、陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品の祖(おや)と為(な)りき」と書き、神産巣日御祖(かみむすひみおや)命は大国主を何度も助ける「御祖(みおや)」として書かれているのですから、まともに古事記を読めばこの国の始祖神を女神の神産巣霊になります。しかしながら、本居宣長天皇制国家を復活させるために始祖神をアマテル太陽神に置き換えるというねつ造を行ったのです。

 なお出雲大社本殿の正面にはこれら5神が「別天ツ神(ことあまつかみ)」として祀られていますが、皇居には祀られていません。

 高群逸枝は当然ながらこれらのことに気付いており、スサノオ大国主一族の御祖(みおや)が女性神である神産霊神であることを認めていますが、アマテル始祖神説を批判せず、「原始、女は太陽だった」として「世界を照らす太陽神アマテル」の大東亜戦争に「わが『たをやめ』は家族心を生命としており、世界の家族化を願望してやまない。・・・今次の大聖戦に私どもは『女なれども』ではなく、『女なればこそ』立ち上がっているのである」(山下悦子高群逸枝論』より)などと積極的に協力したのです。

 天皇人間宣言から80年近くたった今こそ、彼女たちの限界を指摘するとともに、高群逸枝が解明した「母系制」「招婿婚」研究の成果を八百万神信仰のスサノオ大国主国史にまで遡らせ、「原始、女は霊(ひ)を産む神だった」として世界に向けてアピールすべきと考えます。

 

3 高群逸枝の婚姻史への疑問

 高群逸枝の『招婿婚の研究』『日本婚姻史』などは、新撰姓氏録をはじめとする古代からの全文献をもとに各氏族の婚姻の分析を行い、招婿婚(婿取婚)が鎌倉・南北朝まで行われていたことを明らかにした労作であり、次表のようにまとめています。

 私は武士社会が成立した鎌倉時代に母系制社会から父系制社会へ移行したと考えていたのですが、政治的な変革より社会的文化的な変化はワンテンポ遅れたようです。

 各氏族の婚姻の分析について原典に遡って高群説を検証し、評価する作業は専門家に任せるほかはありませんが、次表について私の意見を述べておきたいと考えます。

 

⑴ 妻問婚は「大和」からか?

 第1の疑問点は、「原始(無土器・縄文・弥生)」を群婚(属内婚、族外婚)とし、「大和(古墳)」から妻問婚としていることです。

 戦前の皇国史観のもとではやむをえなかったといえますが、記紀スサノオ大国主一族の「葦原中国(あしわらのなかつくに)」の建国を記し、桓武天皇第2皇子の第一流の文人で日本3筆の一人であった52代嵯峨天皇が「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を、66代一条天皇は「天王社」の号をスサノオを祀る尾張津島神社に贈っていることからみても、天皇家スサノオを「皇国の本主」の「天王(てんのう)」と認めているのです。ところが、高群説ではスサノオ大国主一族の建国史がすっぽりと抜け落ちています。―「縄文ノ-ト24 スサノオ大国主建国論からの縄文研究」参照

 その結果、古事記に書かれたスサノオとアマテルの宇気比(受け霊)や大国主沼河比売への用婆比(夜這い)などイヤナギ・スサノオ大国主一族の妻問婚による百余国の委奴(ふぃな)国の建国(部族連合国)を認めることなく、妻問婚を「大和(古墳)」時代からとする誤りを犯しています。

 なお、古事記によれば、スサノオは筑紫日向(ちくしのひな)生まれのアマテルの弟とされていますが、出雲のイヤナミを母とする記述もあり、実際にはアマテルの異母兄であり、さらに大国主スサノオ7代目とする家系が記されており、大国主に国譲りさせたアマテルは襲名した別人(大国主の筑紫日向の妻の鳥耳)になります。

 

⑵ 「原始時代群婚説」は成立するか

 第2点は、原始時代を「無土器・縄文・弥生時代」とし、猿集団のような群婚としていますが証明がないことです。

 縄文時代は家族単位の竪穴式住居であり、そのまま鉄器稲作時代(通説は弥生時代)に引き継がれていることが明らかであり、「群婚」説が成立する裏付けはありません。私は縄文の女神信仰などからみて、縄文人の妻問夫招婚はスサノオ大国主建国にそのまま引き継がれたと考えています。なお、後述するように、竪穴式住居内に石棒(金精:女神の依り代)からみて、竪穴式住居は母系制社会を示していると考えます。

 

⑶ 「原始(無土器 縄文 弥生)」説について

 第3点は、高群説の問題というより日本史そのものへの私の批判となりますが、「石器・土器・土器・古墳」という「イシドキドキバカ史観」の問題であり、私はDNA・言語・水利水田稲作などから弥生人(中国・朝鮮系)による縄文人征服などなく、縄文人の内発的・自立的発展としてスサノオ大国主一族の建国があったと考えています。

 『魏書東夷伝倭人条』や『三国史記新羅本紀などにおいて倭人倭国が中国系あるいは朝鮮系の民族などとは書かれておらず、紀元前4世紀頃の弥生式土器と紀元前10世紀頃の水田稲作開始説はズレており、「弥生時代」という名称は意味をなさなくなっています。

 この4時代区分は「石器(狩猟道具等)―縄文時代(煮炊き保存土器と土偶)―弥生時代(保存土器、水田稲作)―古墳時代(巨大墓)」というバラバラの基準であり、考古学者の発掘成果を並べたものにすぎません。

 八百万神信仰のスサノオ大国主一族16代の建国説に立つ私は、「木石器―土器―鉄器」時代区分により、紀元1世紀からの海人族のスサノオ大国主一族の鉄器水利水田稲作の普及と妻問夫招婚による建国(部族連合国家)が大きな転換点と考えています。

 

⑷ 全世界で普遍的であった母系制社会の未解明

 第4点は、高群説というよりユダヤキリスト教の影響を受けた西洋中心史観、マルクス主義史観への批判になりますが、古代国家成立以前の氏族社会・部族社会段階の「共同所有」の「原始時代」とみなし、母系制社会の存在を無視し、父系制社会の古代国家建設や西欧諸国のアフリカ・アジア・アメリカ侵略・植民地化を正当化してきた戦争史観の差別性を問題にしていないことです。

 高群逸枝は「招婿婚(婿取婚)」から「母系制社会」説にたどり着きながら、「招婿婚(婿取婚)」を文献分析からアマテルをルーツとする天皇家の建国からとしたため、「母系制氏族」の存在を認めながら、「原始時代」(氏族・部族社会)が母系制社会であったとする歴史解明ができていないことです。

 高群説には母系制社会が世界の人類史に普遍的であったという視点がないです。

 

4 「妻問夫招婚」を示す夫婦名

 高群逸枝の「招婿婚」研究の限界は、スサノオ大国主16代の建国史の分析を避けている点にあります(『高群逸枝全集』など全ての著作に目を通していないため見落としがあるかもしれませんが)。

 古事記には「高御産巣日(たかみむすひ)神・神産巣日(かみむすひ)神」に続いて「神世7代」では角杙(つのぐひ)神・妹活杙(いもいきぐひ)神、宇比地邇(うひぢに)神・妹須比智邇(いもすひぢに)神、意富斗能地(おほとのぢ)神・妹大斗之辨(いもおほとのべ)神、於母陀流(おもだる)神・妹阿夜訶志古泥(いもあやかしこね)神、伊邪那岐(いやなぎ)神・妹伊邪那美(いもいやなみ)神の5組の夫婦神が登場します。

 重要な点は、夫婦名に「産巣日(むすひ)」「杙(くひ)」、「比地邇(ひぢに)・比智邇(ひぢに)」「意富斗能(おほとの)・大斗之(おほとの)」「伊邪(いや)」の共通名が見られることであり、これは婚姻後に妻側か夫側に名前を合わせたことを示しています。

 亀岡市にある丹波国一宮の出雲大神宮では、大国主は「三穂津彦大神・三穂津姫」の夫婦名で祀られており大国主は妻の「三穂津姫」の名前に合わせて「三穂津彦」と名乗っていることが明らかであり、播磨国一宮の伊和神社で大国主が「伊和大神」と呼ばれているのは「伊和媛=石比売(いわひめ)」に妻問いして名前を合わせたことを示しています。

 このような例からみても、似通った夫婦名は妻問いして婿入りした夫が妻の名前に合わせたのであり、「伊邪那岐(いやなぎ)伊邪那美(いやなみ)夫婦神」は、揖屋の地の伊邪那美のもとに婿入りした海人族の男が伊邪那岐を名乗ったことを示しています。なお、この「伊邪」を日本書記は「伊弉」と書いて「いざ」と読ませていますが、「邪馬台国」の「邪」を「や」と読むなら、「いや」と読むべきです。

 大国主の妻のスセリヒメが「打ち廻る 島の崎崎 かき廻る 磯の崎落ちず(注:もれず) 若草の 妻持たしめ」と嫉妬して歌ったように、大国主対馬暖流に乗った「米鉄交易」により筑紫~出雲~越にかけて180人の御子を各地の島や磯の「百余国」でもうけたのであり、同じように対馬壱岐の海人族の伊邪那岐もまた、出雲で伊邪那美に妻問してスサノオをもうけ、その死後には筑紫で綿津見3兄弟、筒之男3兄弟やアマテル、月読などをもうけたのです。

 大国主が多くの名前で呼ばれていることから、「何人かの人物を集合して後世に創作された人物」という主張が見られますが、小林旭の『昔の名前で出ています』の「♪♪♪ 京都にいるときゃ 忍と呼ばれたの 神戸じゃ渚と 名乗ったの ♪♪♪」のように、妻問夫招婚の先々で大国主は妻の名前に合わせていろんな名前を使っていたのです。

 

5 「ひな(女性器)」は霊継(ひつぎ)のシンボル

 死者の記憶がいつまでも人々の間に残ることから、古代人は肉体は母なる大地に帰って黄泉帰り、死者の霊(たまし霊=魂)は天に昇り永遠に残るという「魂魄分離(魂=霊、魄=肉体)」の考えを持ち、さらに親子が似ているというDNAの働きを親から子へと霊が受け継がれると考えたのです。

 「生物はDNAの入れ物」(リチャード・ドーキンス博士の利己的遺伝子仮説)という考え方のはるか昔から、縄文人や古代人は「ひと」は「霊留(ひと)」(霊が留まるところ)であり、「人は『霊(ひ)』の入れ物」「霊(ひ)の器」と考え、「ひな(霊那)=霊が留まる場所=子宮」に模した壺棺や甕棺(かめかん)に死者を赤く染めて葬っていたのです。―「縄文ノート7 動物変身・擬人化と神使、肉食と狩猟」参照

 縄文人が死んだ子供の亡骸を壺に入れて竪穴式住居の入口に埋めたのは、そこをまたぐ母親の性器(ひな=霊那=霊が留まる場所)に死んだ子供の霊が帰ってくると信じていたと考えられています。

 古事記によれば、アマテルの死後、天宇受売(あめのうずめ)が石棺の蓋(岩屋戸)の上に「槽(うけ)伏せて踏み轟こし、神懸かりして、胸乳をかき出で、裳緒を陰(ほと)に押し垂らし」て踊ったとされており、死者の霊が陰(ほと)(ひな)に還ってくることを願った宗教儀式であったと考えます。そして「八百万神共に咲(わら)ひき」というのは、女性器を見せて男たちに子づくりを促し、死を生への起点とする儀式でもあった可能性があります。

 さらに日本書紀の一書によれば、ニニギの天下りに際し、道を閉ざした猿田彦大神に対し、天鈿女(あめのうずめ)はここでも「胸乳を露わにかきいでて、裳帯を臍の下に抑(おした)れて」説得したというのであり、天鈿女(あめのうずめ)は性器を見せて重要な交渉を行った、セックスを武器とした母系制社会の文化があったことを示しています。

 男子が「雛形、雛尖(ひなさき)・雛頭(ひなさき)」を前に付けた烏帽子を正装としてかぶっていたのは、女性器「ひ、ひな」を掲げて「言向和平(ことむけやわす)」という平和的な交渉が行われていた母系制社会の伝統を残っていたことを示しています。

 

6 ひ(霊)信仰のルーツはー南インドチベット・モンゴル、ミャンマー・東南アジア・雲南

 縄文ノート「37 『神』についての考察」「38 霊(ひ)タミル語pee、タイのピー信仰」などにおいて、私は次のことを明らかにしてきました。

① 日本語の『霊(ひ:fi)』は、南インドのドラヴィダ族(インダス文明の担い手)のタミル語の『pee(ピー):自然力・活力・威力・神々しさ』に対応しています。(沖縄では古くは「ひ(fi)」は「ぴ」)―「縄文ノート37 『神』についての考察」参照

 

② チベット系の雲南省イ族(夷、、ロロ、烏蛮(うばん):871万人)の「ピー・モ」(巫師)は「死霊は今からロロ族の故郷である大涼山まで長い旅立ちをしなければならない」と繰り返し唱えます。―「縄文ノート38 霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰」参照

③ タイの農耕民社会にピー(先祖、守護神)信仰は広く見られ、「浮動するピー」「去来するピー」「常住するピー」があり、「常住するピー」は屋敷神として屋敷地の片隅に祀られており、わが国の屋敷神の祠と符合します。―前同

 

④ チベット族の始祖王の父もしくは祖父は「ピャー」と呼ばれ、一族の神は「ピャーのうちのピャー」と呼ばれています。―「縄文ノート128 チベットの『ピャー』信仰」参照

⑤ ミャンマーのイラワジ川沿いには「ピュー人」(3世紀:驃(呉音:ビョウ、漢音:ヒョウ)国)のピュー文化圏があり、「ピュー語はチベットビルマ語派に属し、1、2世紀ごろに南インドの人間が下ビルマに移住した」とされています。沖縄の「あいういう」5母音と「ピ」、本土の「あいうえお」5母音と「ヒ」の関係から見て「ゆ=よ」「ピ=ヒ」であり、ミャンマーでは「ピュー」を漢人は「ヒョウ」と書いたと可能性があります。―「縄文ノート132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰」参照

⑥ 台湾の東南部山地には約1万人の卑南族(現地ではピューマ、呉音ではヒナ・ヒナン)族がおり、「巫女信仰のアニミズムの祖霊部屋」「豊年祭-粟の収穫を祈願する祭祀、収穫祭-粟の収穫を感謝する祭祀、大狩猟祭」「頭目制度と男子会所による年齢階級組織が混在した母系社会」はわが国の民俗と似ています。―「縄文ノート91 台湾・卑南族と夜這い・妻問夫招婚の『縄文1万年』」参照

⑦ 匈奴(ヒュンナ・ヒョンナ)や鮮卑(センピ)もその国名から「ピー・ヒ」信仰の宗教圏であった可能性があります。なお、「匈奴(ヒュンナ・ヒョンナ)」と「委奴国(ふぃなのくに)」の符合は偶然なのか、気になります。―「縄文ノート149 『委奴国』をどう読むか?」参照

 

 

⑧ 以上、言語学民族学民俗学から「霊(ひ)」信仰のルーツが南インドからチベット・モンゴル、ミャンマー・東南アジア・雲南・日本に広がった可能性を見てきましたが、「主語-目的語-動詞」(SOV)言語やY染色体D型、さらには照葉樹林帯の農耕・食文化とも重なり、単なる偶然とは思えません。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」「26  縄文農耕についての補足」「28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」「109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑」「41 日本語起源論と日本列島人起源」「43 DNA分析からの日本列島人起源論」「152 朝鮮ルート、黒潮ルートか、シベリアルート、長江ルートか?」参照

 

7 「妊娠女性像」「女神像」「女性アクセサリー」が示す母系制社会

 高群逸枝は古代文献分析から「招婿婚(婿取婚)」を解明して「母系制社会論」へと進めましたが、縄文時代の解明には縄文人の精神性=宗教を示す物証の分析が欠かせません。

 

 縄文ノート「32 縄文の『女神信仰』考」「75 世界のビーナス像と女神像」「86 古代オリンピックギリシア神話が示す地母神信仰」「90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制」などで明らかにしましたが、世界に見られる「妊娠女性像」「女神像」や女神神話は母系制社会を示しており、縄文人の腕輪(貝輪)やペンダント・ネックレス(ヒスイ・コハク・貝)・耳飾り・赤漆塗櫛などは女性が自ら採取・製作し、琉球から北海道まで流通させたというより、妻問夫招婚の贈物として男が用意したとみられます。

 なお縄文女神像については、火焔型土器などと合わせて「縄文芸術家」がいた分業社会が成立していたことを示しています。

 

8 「石棒(金精)」が示す母系制社会

 わが国には縄文時代から石棒(金精=男根)信仰があり、現役時代に全国各地の仕事先で時に見かけることがあり、私は男性社会のシンボルあるいは女性が出産を願うシンボルと思っていました。

 しかしながら、群馬県片品村尾瀬のある村)の仕事で、女体山(日光白根山)に金精(男性性器型)を男性だけが奉納する上小川地区の登拝行事や、男が性器型などのツメッコを作り甘い汁粉に入れて煮て、裏山の十二様(山の神)に供え帰って食べ、十二様が嫉妬するので集落の十三歳以上の女性は甘酒小屋に集まり参加できないという十二様祭り(針山地区)や、女装した男性が拝殿の前で東西に2列に並び、「エッチョウ」「モッチョウ」と言いながら赤飯を交互に投げ合う花咲地区の猿追い祭りから、金精(石棒)は男性が女神に捧げる祭りであり、女性主体の赤飯投げ行事を合わせて、母系制社会の信仰の名残であることがわかり衝撃を受けました。

 そこで2015年6月に「金精信仰と神使(しんし:みさき)文化を世界遺産に」という提案を村に対して行ったのですが採用にはいたらず、その後、インドやブータンに男性器信仰がみられることや、ドラヴィダ族に赤米粥をカラスにやる「ポンガロー」の小正月の行事が青森・秋田・茨城・新潟・長野(長野の行事は鳥追い祭りに変質)の「ホンガ ホンガ」「ホンガラ ホンガラ」のカラスへの赤飯やり行事を大野晋さんの『日本語とタミル語』で知り、さらに縄文時代の石棒信仰などから、女神信仰や神山天神信仰などと合わせて世界遺産登録は2015年の「祖先霊信仰(金精・山神・地母神信仰)と神使文化を世界遺産に」へと拡張した提案となっています。

 

<参考資料:縄文ノート>

29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論

30 「ポンガ」からの「縄文土器縁飾り」再考

34 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)について

49 「日本中央縄文文明」の世界遺産登録をめざして96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡

77 北海道・北東北の縄文世界遺産登録の次へ

98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社 210924

99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡 210930

100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松 211003

102 女神調査報告6 石棒・男根道祖神 211213

160 「日本中央部縄文遺跡群」の世界遺産登録にむけて

 

9 「霊継(命のリレー)」を大事にする母系制社会へ

 以上、高群逸枝説の文献のみによった「母系制論」は、その後の全世界の考古学、類人猿学、DNA人類学、民族学文化人類学民俗学言語学、宗教学、農学などの発展をふまえ、「原始、女は霊(ひ)を産む神」であった母系制社会としての解明が求められます。

 人類は狩猟・肉食と戦争によって進歩・発展したという男性中心史観が根強く見られますが、母系制社会であった平和な1万数千年の縄文社会の歴史や妻問夫招婚によるスサノオ大国主一族の建国をみるならば、たかだか1千年の父系制社会の殺戮の歴史の延長上に未来を展望することなどできません。パリ大学文化人類学者のマルセル・モースに学んだ岡本太郎ではありませんが、今こそ「縄文に帰れ」「本土が沖縄に復帰するのだ」と言いたくなります。

 地球環境破壊が進んで食料危機が心配され、格差が拡大してウクライナ戦争など戦争と地域紛争の多発する現在、「共同体、食、家族、民主主義、自由、宗教、平和」の全てにわたって母系制社会と父系制社会の原理に立ち返り、未来を考えてみるべきではないでしょうか。

 

 

<参考資料:縄文ノート>

13 妻問夫招婚の母系制社会1万年

84 戦争文明か和平文明か

103 母系制社会からの人類進化と未来

139 『サピエンス全史』批判5 狩猟採集民の「平和と戦争」

159 縄文1万5千年から戦争のない世界へ

164 女と男の「民主主義・平和・宗教」 230413

172 女と男の『共同体・食・家族・民主主義・自由・平和・宗教』 

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

  ヒナフキン邪馬台国ノート      http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/