ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート65 旧石器人のルーツ

 「スサノオ大国主建国論」から縄文社会研究会に参加し、さらに日本列島人起源論にまで遡ってきました。

 その方法論は、①縄文遺跡で発見されるヒョウタンやウリ、イネなどの起源、②魚介イモ雑穀食や粘々(ねばねば)食の起源、②「主語-目的語-動詞」言語族の起源、③呉音漢語・漢音漢語より前の倭音倭語の起源、④霊(ひ)信仰の神山天神(神名火山)信仰の起源、⑤黒曜石利用の起源、⑥DNAの起源、という6つの起源を段階的・総合的に追究する作業でした。

 1946年生まれの私は、北京原人シナントロプス・ペキネンシス)とジャワ原人ピテカントロプス・エレクトス)を習い、日本の明石原人など旧石器人のルーツは中国大陸か東南アジアという多地域進化説でずっと理解していましたが、DNA分析などによりアフリカ単一起源説が定説となり、この説を否定する人はもはやいないと思いますが、上記の①~⑥を総合的にアフリカ単一起源説から検討する動きはまだ出てきていません。

 私は縄文人のルーツがドラヴィダ系海人・山人族であり、アフリカ高地湖水地方をルーツとしていることは確信できましたが、日本列島に3万年前頃より前にやってきた原人や旧石器人のルーツがどこなのかについては、ずっと迷ってきており、ここで整理しておきたいと考えます。

 

1 旧石器人の手がかりは旧石器と人骨と現代人のDNA

 縄文人は土器・土偶を始めとした石・土・木・骨・貝などの道具類(食料・生活用具)、人骨(DNA・骨格)、生活痕(食事・住居・装身・宗教痕等)など手がかりが多いのですが、原人や旧石器人となると石器と人骨くらいしか直接証拠はありません。しかも火山灰の多い酸性土では骨が溶けるため、人骨はサンゴ礁からできた琉球石灰岩沖縄県で発掘されたわずかな旧石器人しか手がかりがありません。

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 もう1つの重要な手掛かりは、現代人のDNAの地域分布から推測する方法です。ただし、現代人には旧石器人や縄文人だけでなく、その後にやってきた人たちのDNAや日本列島内で移動した人たちのDNAが混じっていることです。この「サンプル誤差」を考慮しながら検討する必要があります。

 

2 私が迷ってきた点

 縄文人については、縄文遺跡が東日本に多いことや日本最古の16000年前頃の土器が青森県の大平山元(おおだいやまもと)1遺跡で出土していることなどから北方起源説が根強く残っていますが、この説は2つの「サンプル誤差」の可能性が高いと考えます。

 第1は、旧石器人や縄文人は「定住民」ではなく、アフリカやインドネシアなどで大噴火を経験した活発な「移住民」であり、7300年前の鬼界カルデラ噴火により、西日本の縄文人は東へ大移動した可能性が高いことです。―「縄文ノート27(Ⅱ-3) 縄文の「塩の道」「黒曜石産業」考」参照

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 この抜きがたい「定住民史観」が誤りであることは、鹿児島県霧島市桜島火山灰層の中から9500年前の上野原遺跡が発掘されたことによって証明されました。

 第2は、古代から開発が進んだ西日本では縄文遺跡の新発見が困難であるのに対し、地方圏のように道路や工業団地などの新規開発に伴う縄文遺跡発見の可能性がそもそも低いことです。

 従って、考古学からの北方起源説の根拠はそもそも怪しいと言わなければならず、現代人のDNA分析は北方起源説にとどめを刺しています。

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 私は縄文遺跡のヒョウタンなど南方起源の植物、神山天神信仰(神名火山信仰)と火山由来の黒曜石の利用、Y染色体D型がアンダマン諸島(インド領:ミャンマー沖)やチベットだけでなく、バイカル湖周辺のブリヤート人にも見られることなどから、1万数千年前頃に日本列島にやってきた縄文人(新石器人)はY染色体D型のドラヴィダ系海人・山人族が南方の「海の道」から、北方からはドラヴィダ系山人族が「マンモスの道」を通り、南北2ルートからやってきたという結論に達しています。―「縄文ノート43(Ⅴ-1) DNA分析からの日本列島人起源論」参照 

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 沖縄からアイヌまで全国的にY染色体D2型や言語・生活(魚食)・文化)に共通性と異質性が見られるのはドラヴィダ系という同じルーツでありながら、南と北ルートから分かれて流入して分布したからと考えます。金関丈夫・埴原和郎氏の「二重構造説」は縄文人を南方系、稲作民を北東アジア系としていたのに対し、篠田謙一・崎谷満・斎藤成也氏らは縄文人を北方系、稲作民を篠田・崎谷氏は長江系、斎藤氏は北方系としていますが、いずれも縄文人を南方・北方どちらかの一方向で考えるという「仮説誤謬」を犯していると考えます。

 残る問題は、1万数千年前からの縄文人より早くに日本列島にやってきた旧石器人のルーツが南方系なのか、それとも大陸・朝鮮半島・シベリア系なのかです。

 黒曜石文化から私は旧石器人のルーツもまた南方系のドラヴィダ系海人・山人族ではないかと考えていましたが、日本で最初に発見された旧石器時代岩宿遺跡の黒曜石の打製石器が30000年前頃であり、2020年9月に報道された京丹後市の36000年前頃の上野遺跡の黒曜石が隠岐の島産であることから、崎谷満氏の出アフリカ38300年前頃説のF型系統から分岐した02b型、03型ではないかと考えていましたが、Y染色体D型の出アフリカ時期の38300年前頃説が多少前にズレるとすると、黒曜石文化は出アフリカ38300年前頃説のⅮ2型系統のドラヴィダ系海人の可能性もあります。

 従って、旧石器人と縄文人の移動についての私の図は、次のように旧石器人については、インドネシアより西については書いていませんでした。

 

3.「Y染色体亜型DNAからみた日本列島人」再掲

 「縄文ノート43(Ⅴ-1) DNA分析からの日本列島人起源論」(今回一部を修正しました)から、次の部分を青字で再掲し、表1には赤の補助線・補助図を追加し、追加コメントを入れました。

 

<女性に引き継がれるミトコンドリアDNA>

① ミトコンドリアDNA亜型は女性に受け継がれる遺伝子です。

② 篠田謙一著『日本人になった先祖たち』などによれば、図5のように「本土日本」「沖縄」はⅮ4型を「山東遼寧」「韓国」とほぼ同等に多くもち、「南方海人族系」「南方大陸系」「北方大陸系」が混じった「多DNA民族」であることが明らかです。

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 一番重要なポイントは、このⅮ4型を北方系の縄文人とみるか、南方系とみるかです。後述する表2の男性に受け継がれるY染色体DNAの崎谷満氏の分析を見ると、日本人に14~26%みられ、華北に66%、朝鮮に38%みられるO3型に対応しており、O型は東南アジアに多いことから見て南方系の可能性が高いと考えます。

③ 一方、M7a型が多いという独自性を持つとともに、北方大陸系の「山東遼寧」「韓国」と較べてM7c~M10型が少なく、南方大陸系の「台湾先住民」「広東」に多いB4・F・R型が少ないという特徴を持っています。

③ 「沖縄」に多く、次いで「本土日本」、さらに「韓国」に少し見られるM7a型が「台湾先住民」「広東」「山東遼寧」のどちらにもほとんど見られないことは、日本列島と韓国には南から陸路を通らずに「海の道」を通り、直接日本列島にやってきた「南方海人族系」の人たちがいたことを示しています。日本人のルーツは「ミトコンドリアDNAのM7a型を持つ南方系」であることが明らかであり、男性だけの漂着ではなく、女性を伴った民族移動であったのです。

④ 「南方系」の型、「南方系海人族」のM7a型、「南方大陸系」の広東・台湾先住民に多いM7a・B4・F型、「北方大陸系」の山東遼寧・韓国のM7c~M10型がどのような順番で日本列島にどこからやって来たかですが、日本人が「主語―目的語―動詞」構造言語で「主語―動詞-目的語」構造の中国語や東南アジア語の影響を受けていないことからみて、M7a型海人族はミャンマー・インドあたりをルーツとし、「海の道」をスンダランドを経て竹筏・丸木舟でやってきたことは明らかです。その途中で、東南アジア系のM7a・B4・F型と混血したと考えられます。

⑤ 「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造からみて、紀元前3世紀の徐福など長江流域からの「呉音漢語」のM7a・B4・F語系の移住・漂着があり、最後に「北方大陸系」の山東遼寧・韓国系のM7c~M10型が移住してきた、と考えられます。

 

<男性に引き継がれるY染色体DNA>

① Y染色体のDNA亜型は男性に受け継がれる遺伝子です。崎谷満氏の『DNAでたどる日本人10万年の旅』(2008.1)は、5.3万年前にアフリカを出たN系統(日本:わずか)とO系統(ある程度)、3.83万年前にアフリカを出たⅮ系統(高頻度)、2.75万年前にアフリカを出た系統(わずか:シベリア系)が日本列島にやってきたとしています。―図5参照

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③ 崎谷満氏の本からY染色体DNA亜型のデータをまとめたものが表2ですが、沖縄南を除く日本に26~88%と一番多いⅮ系統は東アジア・シベリアにはなく、その圏外がルーツであることが明らかです。

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 次に沖縄に30~67%と多く、朝鮮にも51%と多いO2b系統は沖縄・韓国の伝承からみて、海の彼方の東南アジア諸島からかなり早い時期に黒潮に乗って沖縄南をへて対馬暖流で朝鮮に伝わったと考えられます。

 沖縄南・アイヌを除く沖縄北・本土に14~26%のO3系統は中国・台湾・東南アジアに広く分布しています。

 沖縄・本土にはほとんど見られずアイヌに13%のC3系統はシベリア系になります。

 

<追加考察>

 崎谷満氏の『DNAでたどる日本人10万年の旅』(2008.1)のデータと分析が正しいとして、次の点を補足・強調したいと思います。

① 沖縄南を除き、日本人に多い男系のY染色Ⅾ2型と女系のミトコンドリアM7a型の縄文人は東アジア・東南アジアの外から、各地を経由することなく、「海の道」を日本列島に直接やってきたことが明らかです。

② 「奈良時代初期の人口は血統からみて、北アジア系が8割あるいはそれ以上」「縄文系が2割またはそれ以下」という埴原和郎氏の仮説はY染色体Ⅾ2型(ドラヴィダ系)が日本全体に多く、中国・朝鮮に存在しないことから見て成立せず、「埴原の仮説は、遺伝子のDNA分析・・・などによっても裏付けられている」という鬼頭宏氏(『人口から読む日本の歴史』2000.5)の主張もまた誤りであることが明らかです。「東高西低」の遺跡数から縄文人の人口推計を行った小山修三・鬼頭宏両氏の計算もまた遺跡発掘条件(喜界カルデラ噴火と都市開発の影響)を無視した誤りという以外にありません。

③ なお前述のように埴原和郎氏は縄文人を南方系としたのに対し、篠田謙一・崎谷満・斎藤成也氏らは縄文人を北方系としていますが、Y染色体の分析からは埴原説が正しいと考えます。

④ 表1の赤の矢印で示したように、島しょ部であるインドネシア・フィリピン・台湾のO1型から、赤線で囲った東アジア・東南アジア各地へO2a型・O2b型・O3型が「海の道」を広がったことが明らかです。O型が「熱帯・熱帯雨林の道」「オアシス(草原)の道」「マンモスの道」などを通って華南・華北にまず入り、そこを中心に東アジア・東南アジア全体に広がったとみるのは、海や舟が嫌いなのか、それとも「漢才拝外思想」の錯覚でしょう。

⑤ O2b型は沖縄南67%、朝鮮51%、O3型は九州26%、朝鮮38%、台湾60%、華北66%であり、日本と朝鮮・台湾・華北とは相互に交流があったことは明らかですが、O2b型インドネシア少数民族に20%、O3型がマレー少数民族に31%、ベトナム少数民族に41%あることからみて、東南アジアから日本・台湾・華北・朝鮮に拡散したと考えます。

  

4 旧石器人の黒曜石と鏃(矢尻)

 旧石器時代の代表的な痕跡は次のとおりです。

 

<中期旧石器時代

① 12~110000年前頃:島根県出雲市の砂原遺跡の前期旧石器(疑問が出されている)② 12~50000年前頃:明石原人(?)発見場所に近い藤江川添遺跡のメノウ製握斧

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③ 9〜80000年前頃:岩手県遠野市宮守町の金取遺跡の中期旧石器

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④ 8~60000年前頃:明石原人(?)発見場所の地層から人工的加工痕のある木片

 

<後期旧石器時代

⑤ 36000年前頃:沖縄県那覇市の山下町第一洞穴遺跡の山下町第一洞人

⑥ 36000年前頃:京都府京丹後市の上野遺跡の後期旧石器152点(5点は隠岐諸島黒曜石

⑦ 32000年前頃:東京都府中市の武蔵台遺跡の神津島和田峠麦草峠産の黒曜石

⑧ 30000年前頃:群馬県みどり市岩宿遺跡から相沢忠洋氏によって発見された旧石器(含む黒曜石

⑨ 27000年前頃~:沖縄県石垣市白保竿根田原洞穴遺跡の白保人(19体以上)

⑩ 23000年前頃:沖縄県南城市のサキタリ洞窟(3万年前頃)の巻貝製の釣り針2本

⑪ 22~20000年前頃:沖縄県八重瀬町の港川フィッシャー遺跡の港川人(4~7体)

⑫ 20000年前頃:東京都板橋区の茂呂遺跡の旧石器22点(含む黒曜石

⑬ 19~18000年前頃:高原山(福島県矢板市等)の高原山黒曜石原産地遺跡群

 

 これらの旧石器時代の遺跡は沖縄から岩手県まで広い範囲に見られますが、①~④の12~5万年前頃の中期旧石器と、3.6万年前頃からの黒曜石と人骨の⑤~⑬の後期旧石器の人々は連続しているのか、それとも異なるのか、という悩ましい問題があります。さらに、この黒曜石人(後期旧石器人)と15000年前頃からの土器鍋人(縄文人)とが連続しているのかどうか、も重要な論点です。

 鋭い貫通力・切断力がある一方、すぐに欠ける黒曜石は斧や農機具などには使えず、その利用は槍の穂先や弓矢の鏃、肉や魚料理の調理器具、革や布を切るナイフなどに利用されたと考えられます。そして、小動物や魚を投槍で仕留める非効率な追跡猟ではなく、弓矢による効率的な待ち受け猟はイモ類や雑穀などの耕作に伴う鳥獣害対策ではないか、と私は考え、黒曜石の鏃と縄文農耕をセットで考えてきましたが、さらに旧石器時代に遡って考える必要がでてきました。―「縄文ノート27(Ⅱ-3) 縄文の『塩の道』『黒曜石産業』考」参照

 最古の弓矢が6.4万年頃の南アフリカのシブドゥ洞窟で発見され、アジアではスリランカのファ・ヒエン・レナ熱帯雨林洞窟で4.8万年前頃の鏃が発見されていることからみて、日本列島の旧石器人もまた4万年前頃からの黒曜石時代には弓矢を利用していた可能性が高いと考えます。スリランカはドラヴィダ海人族の拠点ですから、黒曜石利用の旧石器人もドラヴィダ系海人族であり、アフリカ高地湖水地方から黒曜石と弓矢を持って南インドスリランカアンダマン諸島を経て4~5万年前に日本列島にやってきた可能性は大いにあります。―「縄文ノート62(Ⅴ-6) 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」参照

 長弓の和弓から人類学者の金関丈夫氏は『発掘から推理する』で「射魚用から起こった日本の弓」論を書き、「東南アジアでは現代でも弓矢を使用して漁をする事例が しばしば確認できる(青柳 2011)」(2014.11.1大工原豊:岩宿フォーラム)とされていますから、狩猟だけでなく、銛(もり)漁・簎(やす)漁から弓矢漁への転換があったと考えられます。

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 なお、3万年前頃の沖縄県南城市のサキタリ洞窟から、2.3年前頃の世界最古の釣り針2本(巻貝製)が発掘されていることからみて、これまで縄文時代と考えていた釣漁・網漁・籠漁・壺漁などのうち、釣漁は後期旧石器時代に遡ることが明らかです。

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 旧石器時代は「石器の種類の豊富化とレベルアップ」で前期・中期・後期と区分されていますが、弓矢の発明や初期農耕の開始という道具革命・産業革命があったと考えます。石器の種類や形は結果であって、それを生み出した人間活動・社会で時代区分すべきです。「モノ分析こそが科学」というような「タダモノ史観」で人や社会を区分すべきではないと考えます。銛(簎)で魚を突いていた旧石器人が弓矢で魚を獲ることを思いつかないことなどありえないと私は考えます。

 私の子どもの頃には、岡山や播磨の川ではどこでも大きなフナやコイが悠々と泳いでいるのを橋の上から見ることができ、仕事先で通った北海道ではサケが川を埋め尽くすほどでしたから、銛(槍)の魚突き漁だけでなく、弓漁の可能性は高いと考えます。子どもの頃の私たちはチャンバラ遊びとともに弓矢を作ってよく遊び、子どもや孫におもちゃの弓矢を与えても夢中になって遊ぶことからみて、私たちのDNAには弓矢利用の記憶が埋め込まれているのではないか、と考えたりします。

 

5 最古の石鏃は?

 縄文時代には多くの石鏃や石鏃工房が発見されていますが、日本最古の石鏃はいつ頃になるのでしょうか? 

 津軽半島青森湾に面した外ケ浜町の大平山元遺跡の石鏃については、「大平山元遺跡で発見された世界最古の石鏃、世界最古級の土器の出現は、1万6,500~1万5,500年前」(大学ジャーナルONLINE)、「石鏃(せきぞく)。こちらも同じく15,000年前につくられたもの」(まるごと青森HP)などと紹介され、弓矢と石鏃利用は縄文時代からと考えていましたが、果たしてそうでしょうか? 

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 プロの皆さんの仕事に素人が口を挟むなどおこがましいのですが、旧石器人が黒曜石を3.6万年前頃から使用していた以上、黒曜石が採れるアフリカやインドネシアから神山天神信仰とともに弓矢文化を持って日本列島にやってきた可能性を考えるべきではないでしょうか。 

 写真7・8からの判断ですが、黄色点線で囲った石器は私には単なる石片ではなく鏃に見えます。さらに前掲の写真1の砂原遺跡の「3」も鏃の可能性があります。繰り返し使うのではなく使い捨てであっれば、矢竹の先の重しとして打撃力と直進性を増し、肉を切り裂く尖った石を付ければよく、最初は自然石を拾ってきた付けたでしょう。そのうちに、探し回る手間より、石を割って尖った鏃にする方が効率的であると考えたはずです。

 旧石器捏造事件があっただけに、「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」で過度に慎重になっていないか、素人の素朴な疑問としてあげておきます。

 

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5 中期旧石器人のルーツ

 12~11万年前頃の出雲市砂原遺跡、12~5万年前頃の藤江川添遺跡、9〜8万年前頃の金取遺跡から考えて、この頃に中期旧石器人が日本列島にやってきたことは明らかです。

 19~5万年前頃のインドネシア旧人フローレス人と同じようにY染色体O型グループは海を越えて竹筏でやってきたと考えられますが、熱帯雨林に留まらずにさらに北に向かったことをみると、東インドミャンマーの山岳地帯へ移動したⅮ1型グループと同じく、温帯気候で万年雪の山のあるアフリカ高地湖水地方をルーツとした可能性が高いと考えます。

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 彼らが7.5~7.0万年前頃のインドネシアスマトラ島のトバ火山の大噴火による「火山の冬」(平均5℃も気温低下)の時代に生き延びたかどうかは不明ですが、アフリカ高地湖水地方をルーツとしていたならトバ異変の寒冷化に適応し、後にやってきたドラヴィダ系海人・山人族と融合した可能性は高いと考えます。

 彼らがネアンデルタール人・デニソワ人やフローレス人のような旧人なのか、それともいち早く進化を遂げた新人(9万年前頃とされる現生人類:ホモサピエンス)なのかは判りませんが、12~11万年前頃の砂原遺跡、9〜8万年前頃の金取遺跡に石鏃が含まれるとすると、弓矢を利用した新人とみてよいと考えます。

 直良信夫(明石原人)・相沢忠洋(旧石器)・児玉司農武(黒曜石)・宮坂英弌(縄文集落)・藤森栄一(縄文農耕)氏らを継いで、中期旧石器時代(弓矢石器時代)の鏃の発見者が現れることを期待しています。槍猟・銛漁石器時代、石鏃石器時代、農耕石器時代、土器時代などの時代区分を考えてみませんか。

 

6 後期旧石器の白保人のDNA

 石器の種類と加工度が高まる後期旧石器時代になると、黒曜石の鏃とともに、3.6万年前頃の沖縄県那覇市山下町第一洞人や2.7万年前頃の石垣市白保人(19体以上)などの人骨が大きな手掛かりとなります。

 前掲の図5・表1に示した崎谷満氏のY染色体DNA分析が正しいとして、白保人らが53000年前頃にアフリカを出たO型系統なのか、38300年前頃にアフリカを出たⅮ系統(高頻度)の縄文人なのか、それとも両者がスンダランドあたりから一緒にやってきたのなど、ずっと悩みました。

 白保人については、2013年国立科学博物館の篠田謙一氏らの分析により、2~1万年前頃の人骨4点のうち2点は母系のミトコンドリアDNAはM7a型であり、東南アジア起源とされており、縄文人系統になります。ところが、他の2点が何型なのか、さらに父系のY染色体DNAの分析ができたのかできなかったのか、その結果はなぜか今も公表されていません。

 一方、前掲の崎谷満氏の「表1 各Y染色体亜型DNAのルーツ」によれば、現在の沖縄人に30~67%と多く九州・徳島にみられないY染色体O2b型は朝鮮・インドネシアベトナムに多く、台湾に43~98%と多いO1型、インドネシアベトナム・華南に多いO2a型は南北の沖縄人には見られません。

 この点から考えられるのは、日本の旧石器人O2b型はO2a型とインドネシアベトナムで分岐し、前者は沖縄・朝鮮に「海の道」を黒潮にのって北上し、後者はベトナムから中国に移住を広げた可能性もあります。

 たった2点の人骨から縄文人か旧石器人かの結論を出すのは早計ですが、黒曜石文化や神山天神宗教については、旧石器人O2b型、縄文人Ⅾ2型とも、アフリカ高地湖水地方で受け継ぎ、それぞれインドネシア(スンダランド)経由で日本列島に持ってきた可能性が高いと考えます。

 

7 白保人の顔つきは南方系?

 沖縄県石垣市の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡の2.7万年前の4号人骨の生前の顔が県立埋蔵文化財センターと国立科学博物館、複数の専門家でつくる研究グループでデジタル復元され、3次元プリンターで骨格をつくり肉付けが行われ、「鼻の付け根が落ち込む彫りの深い顔立ちで、中国南部や東南アジアの古人骨や、のちの縄文時代人と似ることが確認できた」と2018年4月21日の朝日新聞デジタル編集委員中村俊介)は伝えています。

 

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 一方、2.2~2.0万年前頃の沖縄県八重瀬町の港川フィッシャー遺跡の港川人の復元に際して、科博の海部陽介研究主幹は「港川人は本土の縄文人とは異なる集団だったようだ。港川人は5万~1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来した可能性が高い」としています。

 白保人は前掲の図5のミトコンドリアDNAのM7a型、表1のY染色体O系統にあたるという考えであり、一方、港川人は「縄文ノート62(Ⅴ-6) 日本列島人のルーツは『アフリカ高地湖水地方』」で掲載した次の図6のC1b3系統あるいは(オーストラロイド)とみているようです。 

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 白保人と港川人のY染色体DNAの分析結果が公表されていませんのでなんとも言えませんが、顔つきから縄文人系ではなく「現在の人類ならば、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近い」と判断したのだったとしたら「驚き桃の木山椒の木」で、港川人もびっくりしているのではないでしょうか。

 

8 まとめ

 旧石器捏造事件によって、ほとんどの旧石器研究者は見抜けなかったのですから信用を無くしてしまい、委縮してしまっているのではないかと心配です。

 また、DNA分析などの分析が進みながら、その分析結果をどう総合的に他の研究結果や経験則に照らして判断するか、となるともっと心配です。また、自説を新たに展開する以上、それまでの他の旧説を認めるのか批判・否定するのかはっきりさせるべきです。

 私は日本列島の旧石器人は、黒曜石鏃革命を起こしており、縄文人と文化・技術の面で連続し、融合したと考える「内発的発展論」ですが、旧石器人と縄文人縄文人弥生人など「断絶史観」「外発的発展史観」「征服史観」「拝外漢才洋才史観」が大好きな歴史学者・考古学者の方が多いようです。

 みなさんはどうでしょうか?

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/