ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート63 3万年前の航海実験からグレートジャーニー航海実験へ

 2021年3月21日のBSフジのガリレオX第238回「自然物を手掛かりとするナビゲーション技術の科学」では、2019年7月24日にNHKクローズアップ現代の「独占密着!3万年前の大航海 日本人のルーツに迫る」などで紹介された台湾~沖縄の渡海実験が再び紹介されていました。

        f:id:hinafkin:20210324173036j:plain

 この国立科学博物館主催の海部陽介氏が中心となった2013~2019年の「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」について、私は2019年12月5日のレジュメ「『无間勝間(まなしかつま:丸木舟準構造)船』『打羽(うちわ)帆船』『魏使船』考」などで草船による航海実験(2016年)を批判しましたが、その後、竹舟や丸木舟による渡海実験が行われており、私の稲作起源論、日本語起源論、日本列島人起源論も進みましたので、再度、検討したいと考えます。

 

1.「黒潮北上ルート」説を考えない黒潮横断渡海実験

 海部陽介氏らの「ホモ・サピエンスは海を渡って日本に来た」という主張は、私の「海人族のスサノオ大国主建国説」、「縄文人ドラヴィダ系海人・山人族説」と合致します。徒歩史観(ウォークマン史観)・肉食史観(マンモスハンター史観)から抜け出せない旧説墨守派に対して、海の道史観・魚食史観の私としては、大歓迎です。

 「海部(かいふ)」は古代には「あまべ」と呼ばれる海(あま)族であり、海部陽介氏が「海の道」に関心を持たれるのは当然と思われます。ちなみに、大海人皇子(おおあまのおうじ)は壬申の乱で権力を奪い、「天武天皇」と名乗りますが、この時から「海=海人=あま」を「天(あま)」に置き換える操作が行われたと私は考えています。

 また、実験考古学の必要性・重要性についても、仮説実験作業で最適解を求める工学部卒として、また冤罪事件の解明において再現実験による自白や物証の検証が重要と考えて実行してきた私としては、このプロジェクトの方法論を大いに評価したいと思います。机上の空論ではなく、実験で再現性を確かめることは欠かせない手続きです。

 ただ根本的な問題点は、その前提となる仮説が他の諸科学に照らして正しいかどうかです。

 海部氏らは「海の道」を「対馬ルート」(38000年ほど前)、「沖縄ルート」(35000年ほど前)、「北海道ルート」(25000年ほど前)の3ルートとし、その中の「沖縄ルート」を確かめるために、台湾から琉球列島への「黒潮横断ルート」の渡海実験を行ったのですが、なぜか東南アジアからの「黒潮ルート」仮説を検討していないのです。

f:id:hinafkin:20210324173130j:plain

 海部陽介氏らはこの「黒潮北上ルート」説を検討しなかった理由を明らかにしていませんが、2017年10月19日に朝日新聞デジタルで紹介された「国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長らが白保人の骨の一部のDNAを解析したところ『これまで解析できたDNAでは、東南アジアや中国南部に特徴的な遺伝子型を持っていたことがわかった』と話す」(注:白保人は沖縄県石垣市石垣島白保竿根田原洞穴遺跡で発掘された19体の旧石器人で最古は約27000年前頃)とのコメントを知らないわけはなく、東南アジアからの「黒潮ルート」説を排除した偏った仮説実験と言わざるをえません。

 「縄文ノート43(Ⅴ-1) DNA分析からの日本列島人起源論」で書きましたが、さらに古い2007年の篠田謙一著『日本人になった先祖たち』に書かれたミトコンドリアDNA分析では、沖縄に多いM7a型は台湾先住民や広東には見られません。さらに2008年の崎谷満氏の『DNAでたどる日本人10万年の旅』のデータでは、現在の沖縄人に多いY染色体O2b型は朝鮮・インドネシアベトナムに多く、台湾に多いO1型、インドネシアベトナム・華南に多いO2a型は沖縄人には見られないのです。

 沖縄には台湾からの旧石器人の痕跡がないにも関わらず、台湾からの渡海実験を行うというのはいったい何を証明したいのか意味不明です。

 私は「『沖縄』に多く、次いで『本土日本』、さらに『韓国』に少し見られるミトコンドリアM7aが『台湾先住民』『広東』『山東遼寧』のどちらにもほとんど見られないことは、日本列島と韓国には南から陸路を通らずに『海の道』を通り、直接日本列島にやってきた『南方海人族系』の人たちがいたことを示しています」と書きましたが、ミトコンドリアDNA(女性に遺伝)・Y染色体DNA(男性に遺伝)のどちらもが、沖縄の旧石器人が台湾・中国系でないことを示しているのです。

 また、私が縄文人と考えるY染色体Ⅾ2型が東南アジア・中国・朝鮮に見られないことからみても、彼らもまた黒潮に乗って日本列島に直接やってきたことが明らかであり、旧石器人と同じ「黒潮ルート」でやってきた可能性が高いと考えるべきなのです。

 海部氏らの航海実験は、DNA分析結果を無視した「台湾~琉球黒潮横断ルート」仮説によったものであり、その証明はDNA分析結果や「黒潮ルート」説を否定できるようなものではありません。日本列島人台湾ルーツ説・台湾経由説は成立しません。

 

2.「草船・竹舟・丸木舟」仮説は正しいか?

 海部氏らが再現実験によって旧石器人の行動を確かめるという方法を私は支持しますが、その実験では人類の経験則や物理法則を無視しているという点において、もう1つの誤りを犯しています。

 子どもの頃、私が最初に池で遊んだのは竹の筏づくりで(重い木は浮力をえられませんでした)、次に艪で漕ぐ和舟(川舟、伝馬船)、お堀や海のオールの手漕ぎボート、川・湖・海のカヌー・シーカヤック、小型ヨット(キャットボート)へと変わってきました。御影石の石垣の水路(クリーク)が発達した岡山市西部の平野では、農家は「こえたんご舟・こえたご舟(肥担桶舟)」に農機具や肥料、収穫した稲穂を載せて運んでおり、友人の家の舟でどこまでも水路を探検したことがあります。動力は竿で水路底や石垣を押して進むという方法でした。

 普通に仮説実験を行うなら、経験則をまずは確かめ、竹筏、次に丸木舟を考えるべきでしょう。海部氏らの再現実験は渡海手段の選択において、経験則無視の誤りをおかしています。

 「筏」字が「竹+人+戈」(竹を人が戈で切ってつくる)であることを見ても、次の写真のようにインド・ビルマ・タイ・インドネシア・フィリピン・台湾・中国などでは身近に入手できる太い竹を使った竹筏を漁船や観光船に使用しているのです。直径0.7~1mもあるような重い巨木を熱帯雨林で捜して切り出して加工するより、入手容易で軽くて加工しやすい竹をまず使うでしょう。

f:id:hinafkin:20210324173219j:plain

  『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)でも書きましたが、2001年のNHKスペシャルの「日本人 はるかな旅」では、今でも上海あたりの漁師は竹筏に船外機を付けた舟で漁をしており、長崎あたりまで流されることがしばしばあり、1~3日で到着すると紹介されていました。風によって押し流され、対馬暖流を横切って自然と九州に流れつくのです。

 私の記憶に今もはっきりと残っているのは、1977年のフィリピンから鹿児島までの毎日新聞記者・倉島康氏ら7人による1か月の竹筏航海の冒険です。子どもの頃に読んだ『コンチキ号漂流記』でノルウェー民族学ヘイエルダールらが1947年に行ったチリからポリネシアへの太平洋横断に次ぐ快挙でした。

        f:id:hinafkin:20210324173248j:plain

 小学生の時に安田徳太郎氏の『人間の歴史』を読み、1962年の堀江謙一氏のマーメード号による94日かけての太平洋横断(『太平洋ひとりぼっち』)にも興奮した私としては、倉島氏らの黒潮漂流記によって日本人のルーツが南方系であることを確信しました。

 『竹筏 ヤム号 漂流記―ルーツをさぐって2300キロ』などで紹介されていますが、倉島氏らはフィリピンから鹿児島まで、竹を三層に組んで浮力を増した筏を作り、その上に竹製のキャビンを乗せ、パンダンと呼ばれる植物の葉で帆走しているのです。

        f:id:hinafkin:20210324173323j:plain

 家族連れの多人数の移住となれば、浮力の大きい竹筏をまず考えるに違いありません。海部氏らが竹筏を考えず、なぜ小さな「草舟」(7人乗り)を選び、次に「竹舟」(5人乗り)、丸木舟(5人乗り)に取組んだのか、理解に苦しみます。

f:id:hinafkin:20210324173425j:plain

 ウィキペディアによれば、葦船は古代エジプトメソポタミアで使われ、今もペルー、ボリビアエチオピアで、最近までケルキラ島(ギリシア東海岸)などで使われているというのですから、草船を航海実験に使うならアフリカのエチオピアからの「海の道」を考え、「黒潮北上ルート」を最有力の仮説に入れるべきでしょう。その最古の痕跡は12000年前頃のアゼルバイジャンの岩絵(ペトログリフ)にあり、7000年前頃の葦船の遺物がクウェートで見つかっています。

 なお、ネットで調べると、1946年6月、終戦を知らなかった9人の日本兵が長さ約6m、幅約1mの帆柱つきカヌーでフィリピンから脱出し、尖閣諸島を経て、鹿児島県の口永良部(くちのえらぶ)島に30日かけてたどり着いています。

 前述の竹筏ヤム号とほぼ同じであり、1か月ほどかければフィリピンから日本列島まで竹筏でもカヌーでも「黒潮ルート」でたどりつけるのであり、3万年前頃からの旧石器人、1万数千年前ころからの縄文人は「黒潮北上ルート」をやってきた、との仮説で実験を行うべきでしょう。

 

3.「手漕ぎ舟」か「帆掛け筏」か? 

 海部氏らの再現実験の第2の経験則無視の大きな誤りは、「風力」の無視です。

 海や湖・川で舟で遊んだことがある人なら、風を気にしないということはありえません。カヌーやシーカヤックで風上に漕ぎあがるのは実に大変です。本人の体と艇だけでも受ける風圧は強く、逆に背中から追い風を受けると、実にらくちんです。「行はヨイヨイ、帰りはコワイ」ではありませんが、行きと帰りの風向を気にしないなどありえません。

 江戸時代の遭難記などを読むと、暴風に巻き込まれた時に船を動かすのに欠かせない大事な帆柱(マスト)を切り倒していますが、それはマスト1本でも舟を倒すほどの風圧を受けるからです。

 旧石器人や縄文人が「手漕ぎ舟」の人力移動であったのか、それとも「帆掛け竹筏」「帆掛け丸木舟」の風力移動であったのかについては、今のところどちらも考古学の証拠はありません。

 縄文時代の丸木舟は全国で約160艘で、最古は7500年前頃の千葉県市川市の雷下遺跡の丸木舟で、7300年前頃の浦入遺跡(舞鶴市)、7000年前頃の(松江市)などを除くと、ほとんどは4000年~3000年前頃とされています。

       f:id:hinafkin:20210324173504j:plain

 そして、今のところ、外洋航海を伺わせる帆柱やアウトリガー(転覆防止の横に張り出した浮材)、波よけの舷側板(沖縄のサバニや奄美の板綴り舟、アイヌのイタオマチプのような)などは見つかっていません。私も各地の博物館などで丸木舟に帆柱を立てた痕やアウトリガーを縛り付けた痕がないか、必死になって探しましたが、そのような痕跡は見つかりませんでした。

 なお、小田静夫氏によれば、南さつま市加世田栫ノ原(かこいのはら)遺跡からは12000年前頃の世界最古の丸木舟製作道具と考えられる「丸ノミ形石斧」が発掘され、沖縄本島奄美大島五島列島、高知、和歌山、八丈島など対馬暖流と黒潮に沿って発掘されており、くり抜きのための工具からみて縄文時代の草創期から丸木舟が使われていたことは明らかです。―2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(季刊日本主義43号)参照

           f:id:hinafkin:20210324173710j:plain

 このように、3万年前の旧石器人が丸木舟を使った、風力を利用せず人力手漕ぎで移動したという考古学的な手掛かりは何もなく、経験則を頼りに検討する以外にありません。

 バランスの悪い細長い丸木舟は横風を受けるとすぐに転覆しますから、帆を使うのは図のように追い風の時しか考えられません。あるいは、アウトリガーを付けるか、2艇を繋いだ双胴船(カタマラン)にして転倒を防いで帆を使うかです。 

         f:id:hinafkin:20210324174013j:plain

 ところが、幅の広い筏では帆を付けても転倒する心配はありません。竹を利用して家を作ったり竹籠を作った経験があれば、竹で編んだ網代小屋を竹筏に乗せ、網代の帆を作ることは技術転用として容易です。

 仮に女・子ども・老人を含む10家族100人の移住で水や食料を含めると、40艇ほどの丸木舟が必要になりますが、浮力のある大型の竹筏だと10隻ほどでよく、幅広の竹筏なら竹で編んだ網代の小屋をもうけ、網代の帆を立てることも容易です。竹筏は割った竹をロープ代わりにして固定することができ、旧石器人でも容易に製作できたと考えます。また、網代小屋に住んでいたら、網代壁や屋根が受ける風圧を感じたはずであり、筏での移動に網代帆(材料は薄く削いだ竹や、笹などの葉)を利用した可能性は高いと考えます。

 人力移動のキン肉マン仮説にこだわり、風力利用仮説を考えない海部氏らの再現実験は、仮説実験としては明らかに誤っています。 

 

4.「風況」の無視

 海部氏らの再現実験の第3の経験則無視は、風況をおさえていないことです。季節によって海風の方向は決まっていますから、風向は航路を決める重要な手掛かりになるのですが、海部氏らの航海実験は季節風を利用したナビゲーション(方位決め)を考慮していない実に不思議な実験です。天候を読み、安定した「南風(はえ、はい)」を利用するなど、旧石器人のレベルの風の知識を前提とした実験とすべきでした。

 私は海なし県のさいたま市に住み、近くの彩湖や鉱害で強制廃村にされた矢中村があった渡良瀬遊水地でよく小型ヨットとカヌーで遊びましたが、冬の西北からの季節風を除き、午前中は東京湾から、午後は太平洋からの海風が主でした。さらに全国各地の湖や海に折り畳みのキャットボートを送って楽しみましたが、いつも風向を気にしていました。

           f:id:hinafkin:20210324174150j:plain

 瀬戸内や山陰、四国、九州沿岸の市町村計画の仕事では「カヌー・シーカヤックのまちづくり」を考え、風や潮流のことをよく質問しましたが、動力船以後の漁師の人たちはほとんど頓着しておらずびっくりしたものです。もはや潮流や風に詳しい漁師はいないと思いますから、代わりに海象(海況)・気象条件を調べ、人力移動時代の海人族のレベルの経験則を想定して再現実験を行うべきであり、海部氏らの人力航海実験は風の条件という再現条件を満たしていない科学性に乏しい実験という以外にありません。

 動力を失った中国の筏漁船の漁師たちが風に運ばれて九州に流れ着くことからみても、季節によっては台湾から沖縄に容易に渡海は可能です。上海あたりの漁師は竹筏で長崎あたりまで1~3日で流されているのに対し、海部陽介氏らの台湾から与那国島への手漕ぎの丸木舟実験では2.5日もかかっているのをみても、人力手漕ぎ航海よりも風に吹き流された漂流の方が早いのです。

 なお、海部氏らの実験によって、沖縄の旧石器人が台湾や中国から来たという証明にもならないことは言うまでもありません。

 

5.「移動実験」でなく「移住実験」が必要

 海部氏らの再現実験の第4の経験則無視は、海上移動にこだわり、海上移住を総合的に検討していないことです。単に数名が移動するのではなく、家族単位で水や食料、生産生活用具、動物などを載せての移住の再現実験を行っていないことです。「ノアの箱舟」型の移住実験とすべきなのです。

 仮に女・子ども・老人を含む10家族100人の移住で水や食料を含めると、40艇ほどの丸木舟が必要になりますが、浮力のある大型の竹筏だと10隻ほどでよく、幅広の竹筏なら竹で編んだ網代の小屋をもうけて生活ができ、網代帆を立てることも容易です。竹筏は割った竹をロープ代わりにして固定することができ、旧石器人でも容易に製作できたと考えます。

          f:id:hinafkin:20210324174244j:plain

 アフリカ4万年の間に現生人類は糖質食によりシナプスを活性化させ、現代人と同等の知能と技能を獲得したとされていますから、竹筏の製造と風の利用は容易に考えた可能性は高いと思われます。

 なお、使用後の筏はバラされて薪として燃やされ、イネ科の竹はパンダが主食としているようにデンプン質が多く、虫などに食べられてしまい痕跡を残して発見されることは期待できませんから、竹筏利用は経験則と合理的思考から判断する以外にありません。

 表のような8項目で竹筏と丸木舟の移住手段としての性能を比較すると、竹筏が圧倒的に有利です。

f:id:hinafkin:20210324174332j:plain

 なお、竹筏を利用していたなら、抵抗の少ない細長型の竹舟も考え付いたはずであり、「竹筏主・竹舟従」の舟団であった可能性が高いと考えます。

 

6.旧石器人・縄文人の言語は?

 日本列島を「黒潮の道」を通ってやってきた海人族は、言葉とともにやってきたことは言うまでもありません。リストアップすると次のようになります。

 f:id:hinafkin:20210324174401j:plain

 他民族支配による言語交代のなかったわが国では、「主語-目的語-動詞」言語構造が維持されるとともに、すべての言葉は倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3層構造をなしており、航海関係語でも「艪」だけを例外として倭音倭語が基本であり、それに熟語を中心に呉音漢語・漢音漢語が加わるという3層 構造を示しています。

 この日本語の3層構造は宗教関係語、農耕関係語などにおいても成立し、国語学者大野晋氏の分析により倭音倭語のルーツがドラヴィダ語(タミル語)系であることが明らかとなりました。―「縄文ノート41(Ⅳ-1) 日本語起源論と日本列島人起源」「縄文ノート42(Ⅳ-2) 日本語起源論抜粋」参照

f:id:hinafkin:20210324174427j:plain
 この大野氏の分析結果は、「縄文ノート43(Ⅴ-1) DNA分析からの日本列島人起源論」で示したように、DNA分布からも裏付けられます。

 

f:id:hinafkin:20210324174514j:plain

 日本列島には漂流したり戦乱を避けて中国大陸や朝鮮半島からの流入者がいたことは、DNAや呉音漢語・漢音漢語の例から見ても明らかですが、その割合がごく少数であったことはDNA分析から明白です。

 

8.「中国人・台湾人ルーツ説」は成立するか?

 私の父方は岡山県の山村の農林業家ですが、30戸の山村の全戸は「ひな」と称しており、江戸時代中期からの墓は「日向(ひな)」、提灯には「日南(ひな)」と書いていました。

 そこから「ひ」「ひな」の探求に入り、「日(ひ)」は元々は「霊(ひ)」であったと考えるようになり、『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』をまとめました。

 さらにスサノオ大国主一族は対馬壱岐を本拠地系した海人族と考え、そのルーツが南方系なのか朝鮮半島系なのかずっと考えてきましたが、台湾に「卑南族」がいることから、台湾ルーツ説についても検討してきました。

           f:id:hinafkin:20210324175002j:plain

 「卑南族」は現在「プユマ族」とされていますが、呉音漢語だと「卑南」は「ヒナ」になり、古くは「ヒナ族」であった可能性があります。

 この卑南族はもとは婿入り婚で現在でも長女の意見に重みがあり、伝説では石から産まれた一族と竹から産まれた一族の2系統があり、8つの集落(社)にちなんで「八社蕃」とも呼ばれています。日本の磐座(いわくら)巨石信仰や「八百万神」「八王子」「八幡神」などの呼称、神童の額に「八」と書く高砂市の曽根神社の祭りなどとの関係も気になります。また、竹の家など、竹を使い慣れている部族になります。

  f:id:hinafkin:20210324175139j:plain

 2018年12月のレジュメ「妻問夫招・夜這いの『縄文1万年』」では「卑南族の言語は『主語―動詞―目的語』構造でわが国とは異なりますが、『原住民の祭礼・祭祀に欠かせない祖霊部屋は巫女信仰のアニミズム』『豊年祭 - 粟の収穫を祈願する祭祀; 収穫祭 - 粟の収穫を感謝する祭祀; 大狩猟祭』『祖霊部屋(巫師部屋)、少年会所、青年(男子)会所』『頭目制度と男子会所による年齢階級組織が混在した母系社会』(沖縄写真通信)などは、縄文社会分析のヒントになると考えます」と書きましたが、女性が取り仕切る祖霊信仰は卑弥呼などわが国の古代社会と同じです。

       f:id:hinafkin:20210324175215j:plain

 このレジュメでは「台湾の山岳部や東部に住む原住民は12上の「族群」に分かれ、文化・言語を別にし、勇敢で戦闘的であり、それぞれ独立性を保っていたのに対し、わが国の縄文社会は均一性という点で大きな違いがあることをどう理解すればいいか考えてきました」とも書きましたが、海部氏らは「台湾―沖縄渡海実験」を行うなら、DNA・言語・宗教・民俗など、台湾人について総合的な分析を行い、日本列島人のルーツに迫るべきでしょう。

 

9.グレートジャーニー航海実験へ

 以上、間違いだらけの「3万年前の大航海実験」は、日本列島の旧石器人が35000年ほど前に台湾ルートからきたとする証明にはなっていません。

 また、「対馬ルート」(38000年ほど前)についても、DNA・言語分析からみて疑問があり、36000年前頃の京丹後市上野遺跡の隠岐島産の黒曜石の発見や、35000年前頃の高原山での黒曜石採掘などからみて、黒曜石のない中国や朝鮮半島からの移住ルートは裏付けられません。―「縄文ノート44(Ⅴ-2) 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」参照

f:id:hinafkin:20210324175329j:plain

 黒曜石利用文化は神山(神名火山)信仰によって黒曜石を発見した可能性が高く、アフリカのケニア山などでの黒曜石採掘からチグリスユーフラテス川源流のアルメニアアララト山近くのアルテニ山での採掘と普及をへて、インドネシアから日本列島に伝わったと考えています。―「縄文ノート61(Ⅲ-12) 世界の神山信仰」参照

 海部氏らの「3万年前の大航海実験」がいったいどのような意図で旧石器人が台湾から沖縄に渡ったという仮説に執着したのか、実に不可解なのですが、国立科学博物館主催である以上、海部氏と国立科学博物館は、国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長らが行ってきた東アジア人のDNA分析結果や白保人のDNA解析の「これまで解析できたDNAでは、東南アジアや中国南部に特徴的な遺伝子型を持っていたことがわかった」という発言とどう整合性を図るのか、きちんと説明を行う責任があります。

 私は旧石器人は東南アジア系、縄文人はドラヴィダ系海人・山人族と考えていますが、海部氏らは旧石器人はアフリカのどこからどのようなルートを経て、台湾経由で沖縄にたどり着いたのか、その全行程を「海の道」「海辺の道」全体について、再現実験を行うべきと考えます。

 海部氏は海人族としての自らのルーツを解明すべきであり、陸の道の「グレートジャーニー」に取り組んだ探検家・関野吉晴氏と組んだ取り組みを期待したいと考えます。

 f:id:hinafkin:20210324175348j:plain

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/