ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート39(Ⅲ-9) 「トカゲ蛇神楽」が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体

 「縄文ノート36 火焔型土器から『龍紋土器』へ」で私は新潟に多い火焔型土器の縁突起が「龍神」を示しており、その龍紋デザインは「蛇+トカゲ」であり、東南アジアを起源としていることを明らかにしました。

 そのレジュメを送ったところ、『蘇れ古代出雲よ』などの著者のノンフィクションライターの石飛仁さんより「出雲神楽ではヤマタノオロチは『トカゲ』である」とのメールをいただき、ヤマタノオロチ王(『古事記』:八俣遠呂智、『日本書紀』:八岐大蛇)の正体を明らかにするとともに、「蛇神・トカゲ蛇神・龍神」信仰が縄文時代から続いていることが諏訪地方の明確に裏付けれられました。この龍神信仰は、海神・水神・地神(地母神)・山神・天神信仰が、祖先霊の「霊(ひ)信仰」として繋がっていることを示しており、大国主が八百万神信仰の古神道・原神道の体系を示しています。

 「縄文時代スサノオ大国主建国を繋ぐ鍵は諏訪・信濃・出雲にある」「日本列島人のルーツを解く鍵は諏訪・信濃・出雲にある」という視点から、古代史を再検討していただければと考えます。    210109 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388 

 

 Ⅲ-9 「トカゲ蛇神楽」が示す龍蛇神信仰とヤマタノオロチ王の正体

                           201020→210109 雛元昌弘

1.経過

 「縄文ノート36(資料15  火焔型土器から『龍紋土器』 へ 200909)」において私は次のように主張しました。

 

① 出雲大社の「海蛇=龍神」信仰、大神神社の「蛇」信仰(三諸山:み=己=蛇で蛇洩山か?)、諏訪大社の神長官守矢家の「みさく神=ミシャクジ神(御左口神=御蛇口神:シャ=蛇)信仰からみて、海と大地、天を繋ぐ「龍神信仰」はスサノオ大国主時代には確立している。

② 蛇や龍(竜)、トカゲは「5穀名」や「神」などの名詞と同じく、和音和語、呉音漢語、漢音漢語の3層構造になっており、中国から呉音・漢音の漢語が伝わる以前からの古い倭音・倭語=縄文語とみてよい。

 

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 ③ 茅野市の「蛇体把手土器」や新潟・長野・福島等の「火焔型土器」の縁飾りからみて、海と大地、天を繋ぐ水神の「龍神信仰」は縄文時代に遡る可能性が高い。

 火焔型土器の4つの把手は、「足があり尻尾を上げてジャンプするトカゲと蛇」を組み合わせて龍とし、波の上を歩くデザインとした「龍紋土器」とみられる。

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④ 黄河流域の夏王朝龍神信仰は、龍の文様の入った玉璋(ぎょくしょう:刀型の儀礼用玉器)のデザインがベトナム→四川→二里頭(黄河流域)とシンプル化していることからみて東南アジア起源で、龍神は背中に突起があるトカゲをモデルにしたものである可能性が高い。

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⑤ 「海や川を泳ぎもぐる」「頭と背中にはギザギザがある」「尻尾が長い」というモトイカブトトカゲ・ミズオオトカゲと蛇を組み合わせた「龍神」像がインドネシアインドシナ地域で生まれ、縄文人によって日本に伝わった可能性が高い。

⑥ 日本とチベットアンダマン諸島ミャンマーの南のインド領)に見られるY染色体Ⅾ系統の部族が住む地域と、大野晋氏の日本語タミル語起源説(2億人のドラヴィダ語族の一部)のタミル人は海人族で南インド海岸部・スリランカミャンマーアンダマン諸島に住み、モトイカブトトカゲとミズオオトカゲの生息地と重なる。

 また温暖化に伴いヒマラヤ地域に移住したドラヴィダ山人族は死者の「霊(ひ)」が山から天に昇る「山神信仰」となり、海と大地と天を行き来する蛇とミズオオトカゲを結び付け、霊(ひ)を運ぶ神使であり、水と風、雷(神鳴り)を支配する「龍蛇」信仰となり、竹筏と丸木舟により日本列島に持ち込んだ可能性が高い。

⑦ 薩摩半島南西端の笠沙(かささ)天皇家4代目の若御毛沼(8世紀に初代神武天皇命名)の祖母・豊玉姫と母・玉依姫は龍宮(琉球)の姉妹であると記紀は伝え、古事記豊玉姫を「ワニ」、日本書紀は「龍」としており、天皇家の殯(もがり)の葬送様式は琉球奄美大島に近年まで残っており、鳥葬・風葬チベットでも行われていることからみても、天皇家は南方系である。

 

2.石飛仁さんからの「オロチ=トカゲ」神楽のメール

 私の上記の縄文ノート36に対し、父親が出雲出身のノンフィクション作家・石飛仁さんから次のようなメールをいただきました。「龍=トカゲ蛇」仮説は裏付けられました。

 

 「小さい頃郷里で大蛇殺しの神楽を見て育ちましたが、木次(きすき)の斐伊神社(氷川神社の本管)は、大東の神主神楽として、無形文化財になっていますが、此の神楽を関東に招きたいと思っています。実は、この神主神楽だけは、大じゃ・オロチではなく、トカゲなんです。

 此のわけが判らなかったのですが、トカゲは中近東からシルクロードを経て、伝わった説もあり、いやまてよ、我が縄文発の新興ハ虫類かもしれない、縄文時代には、オオトカゲは残っていたようで、中国山脈には、サンショウウオが生き続けていましたから。オロチよりトカゲのほうが古いように思えています。

 斐伊神社は、樋社ともいい、比の神社です。出雲ではヒと発音できなくてフです。」

 

3.「トカゲ蛇」神楽が伝える「龍神」信仰

① 斐伊神社(ひいじんじゃ)は、島根県雲南市木次町にある神社で、『出雲国風土記』では樋社とされ、斐伊神社の古史伝によると埼玉県の氷川神社(旧官幣大社)は5代孝昭天皇5年に斐伊神社から分祀されたものとしています(ウィキペディア)。その西100mほどのところの八本杉の場所が素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した場所と伝承されています。

② 島根県立古代出雲歴史博物館の企画展「『島根の神楽』~芸能と祭儀~」では、「島根県の神楽で花形となっている『八岐大蛇退治』の舞。各地でさまざまなスタイルの大蛇があります。ここでは、大蛇の姿を実物展示します。具体的には石見神楽の提灯蛇胴の大蛇。奥飯石神楽の幕蛇。出雲神楽一般のトカゲ蛇。佐陀親王の立ち大蛇。島前神楽の座り大蛇」と紹介されています。

③ 松江市最南端の大川端の素盞鳴尊を祀る川端総荒神三宝荒神)の「大川端三寶大荒神三十三年式年神楽」では、出雲國大原神主神楽の演目の「八頭 YATO」について、「須佐之男命が出雲の簸の川で八俣遠呂智(八岐大蛇)を退治なされるという古事記で有名な神話に基づいている。この『大蛇』は能楽にもあるが、特にわが神楽においては、もっとも古い形態の大蛇で『トカゲ蛇』である点に特色があり、他の神楽には見られないもので極めて迫力があり勇壮である」としています。 http://www.mable.ne.jp/~cat7-w-.inkk/rekisi.html

④ 須我神社例大祭の動画から『トカゲ蛇』の姿を見ると、角を4本生やし、牙がなく、手足があり、胴体の長い形になっており、出雲大社の神使の「海蛇」が「龍神」信仰に変わるとともに、「龍」を「トカゲ」と考えた出雲の人たちは、ヤマタノオロチを「大蛇」とし、さらに「トカゲ蛇」=「龍神」として神楽にした可能性が考えられます。

 

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⑤ ドラヴィダ系海人・山人族は西進して東南アジア(水没前のスンダランド)で「トカゲ+蛇」から生まれた「龍神信仰」と出会い、スンダランドから日本列島にたどり着き、「火焔型土器」と名付けられた煮炊き用の土器鍋から沸騰して天に昇る蒸気から、天と海・川・大地と天を繋ぎ、雨を降らせる龍神を土器の縁飾りとしたと考えられます。

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 ドラビダ海人族は東インドミャンマー海岸部から、熱帯雨林マラリアなどを避けて山岳高地に移住してドラヴィダ系山人族となり、チベット・ネパール・ブータンミャンマー雲南などの霊(ひ)が高山から天に昇るという天神信仰を確立し、寒冷期に海に戻って東進し、東南アジアの「トカゲ+蛇」の「龍神信仰」と出会い、日本列島に伝えたと考えます。そして縄文土器鍋から吹きこぼれる泡がはじけて蒸気が天に昇ることから「龍紋」を土器鍋に縁飾りとし、天神に料理を捧げたと考えます。この龍神信仰はは雨・風・雷の神としてスサノオ大国主一族の「龍神信仰」へと続いたと考えます。

 

4.「オロチ(大蛇)」とされた「ヤマタノオロチ王」の正体

 スサノオの『八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治』は記紀神話でもっとも有名であり、毎年、出雲にやってきて娘を食べるヤマタノオロチをやっつける英雄としてスサノオは描かれています。

 しかしながら、『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム:2009年)で少し触れ、レジュメ「スサノオ大国主建国論4 『鉄器王』スサノオ大国主 181029」、さらに『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本:2020年第2版、第6章 鉄器王・稲作王・交易王の誕生1『鉄器王』スサノオ」)で詳しく書きましたが、オロチの都牟刈大刀(つむがりのおおたち)、別名、蛇の麁正(おろちのあらまさ)天皇家皇位継承三種の神器の1つとされていることは、この神話が「オロチ王→スサノオ大国主一族→天皇家」への王位継承神話であることを示しています。オロチは山賊の類などではありません。

 そして、年に1度、オロチ王が「高志(越し)」て出雲にやってくるという本拠地について、スサノオがオロチ王を切った十拳剣(とつかつるぎ)、別名、韓鋤剣(からすきのつるぎ)岡山県赤磐市の赤坂にある石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社(備前国一宮)に置かれたことからみて、オロチ王は出雲を支配した吉備王であるという説を提案しました。

 オロチ王の大刀に当たり、スサノオの「韓鋤」の鉄を鍛えなおして作った剣が欠けたという神話は、オロチ王が最先端の製鉄技術を持っていたことを示しています。

 図に示すように、出雲の製鉄技術は播磨の千草町から吉備津神社のある吉備中山、鳥取県日野町を経て伝えられたと伝わっており、その途中に石上布都魂神社はあるのです。その地の赤坂には後に国府が置かれ、播磨の明石(赤石:朱生産に携わる一族の丹生神社がある)、赤穂(日本最大級の80㎝の銅鐸鋳型発見)の地名からみて、この播磨・吉備の一帯は赤鉄鉱・赤目砂鉄(あこめさてつ)の産地でした。

 

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  オロチ王は赤目砂鉄製鉄王であり、その地を奪ったスサノオは「朱砂(すさ)の王」と呼ばれたのではないか、と考えています。

 紀元1~2世紀頃のスサノオ大国主時代の製鉄遺跡はまだ発見されていませんが、万葉集で「真金(まがね)吹く 丹生(にう)の真朱(まそほ)の色に出て・・・」、古今和歌集で「真金吹く吉備の中山・・・」と歌われたように、この一帯は赤目砂鉄製鉄と丹(水銀朱、鉄朱=ベンガラ)生産の拠点であり、後の鎌倉時代からの長船(おさふね)派の名刀で有名な刀剣の産地となります。

 オロチ王がスサノオ大国主の建国に繋がる有力な王であったことは、古事記に書かれた太安万侶の暗号など、整理すると次のようになります。

 第1は、すでに述べたように、オロチ王の大刀が天皇家皇位継承の「三種の神器」とされ、ずっとこの国の武力支配の象徴とされたことです。

 第2は、日本書紀(一書3)はオロチを切ったスサノオの剣が「吉備の神部が許に在る」としており、物部氏の石上布都魂神社(備前国一宮)に支配の象徴として置かれていることから見て、この地がオロチ王の本拠地であったと考えられることです。「吉備の神部」は物部氏を指しており、スサノオの御子の一族とみて間違いないと考えます。

 第3は、八俣遠呂智古事記)・八俣大蛇(日本書紀)の「八俣」は8つの頭を持っていた大蛇とされ、東南アジアに伝わる頭が7つあるインドの「ナーガ(蛇神)」や、仏法の守護神の八大竜王をイメージさせる偉大な王名としていることです。

 第4は、オロチに「遠呂智」と「遠い国の呂(呂尚:周の建国を支えた軍師で後の斉国王。太公望として有名)のような智者」をイメージさせる漢字を当てていることです。よく使われている万葉仮名なら「意路知」、オロチの尾からでた大刀のイメージなら「尾漏血」などになるでしょう。

 第5は、長野県佐久市の山田神社ではヤマタノオロチが白鳥となって飛んできてその魂が乗り移った白青石の蛇石(へびいし)を神体とし、水の神様の宗像3女神を祀るようになったと伝えられており、オロチは水をつかさどる蛇神として「山田」を開発した偉大な王として認識されていた可能性があることです。沖積平野での水田稲作には水利工事が不可欠であり、大国主は「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と呼ばれ鉄先鋤で水路を切り開いた農業革命王とされていますが、オロチ王の一族はこの大国主の「水利水田稲作」に先立つ「水辺水田稲作」の普及者であった可能性があります。

 以上、「スサノオヤマタノオロチ退治」は架空の神話ではなく、鉄生産と水田稲作の開始、吉備による出雲支配を巡る重要な歴史的大事件を神話形式で密かに伝えたものであり、「オロチ(大蛇)」名は蛇神・龍神信仰のルーツを示しています。

 

5.吉備(きび)は「きみ(き蛇)」の可能性

 蛇を「はみ」と呼ぶ方言や「みどし(巳年)」「みのこく(巳の刻)」の呼び方からみて、蛇は倭音倭語では「み、へび」、呉音漢語で「ジ」、漢音漢語で「し」であり、蛇を「み」と読むのは原日本列島人由来になります。

 さらに、蛇(へび)には「はみ」の他に「はむ」「はび」「はんぷ」「はぶ」などの方言があり、古くは「くちはみ」「ふぇみ」であったとされていますから、「ふぇみ→ふぁみ(はみ)→へび」へと呼び方が変わったことが明らかです。

 「さびしい→さみしい」、「島又=柴又(しまた→しまた)」、「蜷城=美奈宜(なしろ→みなしろ→なぎ)」のように、ま行とは行が置き換わる例からみると、「き(吉備)」は古くは「き=き」であった可能性があり、その王が「大蛇(おろち)」とされ、神楽では「トカゲ龍」とされた可能性があります。

 「吉備」=「黍」と考えてきていましたが、1つの仮説として問題提起しておきたいと思います。

 また、「信濃」の南、木曽川長良川揖斐川貫流する「美濃」は古くは「三野・御野」と書かれており、「各務野・青野・賀茂野(または大野)の三野説」などがありますが、水の豊かな水神の「蛇野」であった可能性もあります。単なる語呂合わせかもしれませんが、1仮説として付記しておきます。

 

6.諏訪大社の「ミシャグチ」信仰と薙鎌(なぎかま)

 「ミシャグチ・ミサクジ・ミサグチ(御左口神)」「ミシャグジ」「サグジ」などで呼ばれる諏訪大社諏訪明神の「シャ」は漢音で「蛇」であることから「御蛇口神」であり、出雲大社の海蛇・トカゲ蛇信仰、大神大社の大物主大神スサノオ)が蛇となって鍵穴から三輪山に帰ったという日本書紀の記述などからみて、スサノオ大国主一族は蛇・龍を信仰していたことが明らかです。

 以下、主にウィキペディアからの引用ですが、中世まで行われた諏訪上社の冬祭りでは、御室(みむろ)の中に藁、茅、またはハンノキの枝で作られた数体の蛇形、「そそう(祖宗)神」が安置され、翌春まで大祝がそこに参籠し、物部氏の神長官守矢氏とともに祭事を行い、諏訪神社の神体は蛇で、神使も蛇であるとされています。

 ここで思い出されるのは、古事記スサノオ(代々襲名)のもとに大国主スサノオ7代目)が訪ね、スセリヒメ(須勢理毘売)に妻問した時、スサノオ大国主を「蛇の室」に寝かせたという神話です。これまで、試練を与えて大国主を試した英雄談と解釈されてきましたが、大国主に蛇神の祖先霊信仰を継承させるスサノオ7代目を襲名させる儀式であったことが、諏訪上社の御室の中に蛇形を置いて大祝(おおはふり)が参籠する儀式から裏付けられます。

 なお、オロチの吉備国の支配と石上布都魂神社の祭祀を物部一族に任せたことからみて、物部氏スサノオ一族であり、諏訪上社の大祝の守矢氏(守屋氏=物部氏)もまたスサノオ一族として、蛇を神体として祀ったと考えられます。

 水の神・風の神とされる諏訪明神は巨大な蛇・龍として長野県や群馬県に伝わり、「神無月に神々が出雲に集ったとき、諏訪明神が龍(蛇)の姿で現れたが、体があまりにも大きすぎて集いの邪魔になったので明神は出雲に行かなくなった」「出雲には龍神の頭だけが現れ、体はいくつもの国にまたがり、尾は諏訪湖の高木(尾掛松)に掛かっていたといい、そこから大和(おわ、諏訪市)と高木(下諏訪町)の地名が生まれた」という伝承なども伝わっています。

 また、『日本書紀』の持統天皇記には「使者を遣わして、龍田風神、信濃須波・水内(みのち)等の神を祭らしむ」とあり、諏訪と水内郡(長野県北部)の神は朝廷に風の神・水の神として崇敬されていました。

 諏訪地方には古くから、暴風を鎮めるために諏訪明神御神体・御神幣とされる薙鎌(なぎかま)を竿の先に結びつけて風の方向に立て、あるいは神木、神輿、建物に打ち付ける習慣があるとされています。その形は「蛇(龍)または鳥にも見える」とウィキペディアは解説していますが、尻尾が上がり、背中にギザギザがある形は蛇ではなく、すでにみたように「トカゲ蛇」型の龍神であり、火焔型縄文土器の把手の形に起源がある可能性があります。

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 「トカゲ」姿の龍神を伝える薙鎌(なぎかま)について、そのデザインが縄文時代龍神信仰に遡るのかどうか、これまで「蛇」「サンショウウオ」「蛙」などとされていた諏訪地方の縄文土器のデザインについても再検討が求められます。

 

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7.大野晋氏のタミル語「パームブ(Pamp-u)」語源説

 『日本語とタミル語』で大野晋氏はタミル語(ドラヴィダ語に一部)の「パームブ(Pamp-u)」と日本語の「ファブ(Fa-bu)」が対応するとしています。

 日本語の「は」は古くは「ふぁ」「ぱ」であったとされ、沖縄の方言では「はひふへほ」は「ぱぴぷぺぽ」であり、奈良時代から江戸時代にかけて「p → f → h」と変化する音を残しており、「蛇(へび:はむ)」の古語の「ぱむ・ぱぶ」はタミル語の「パームブ(Pamp-u)」と対応している可能性が高いといえます。大野説について、ドラヴィダ山人(やまと)族の「蛇・龍信仰」や「山神信仰」を調査し、希少性・継承性性・相同性からの証明が求められます。

 

8.おわりに

① 古事記は、大国主は少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、美和(三輪)の大物主と「共に相作り成し」たとし、その国名を「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国(みずほのくに)」とし、日本書紀の一書(第六)は、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」、「動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」、「百姓(おおみたから)、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝えています。

 この大国主の鉄先鋤による水穂国づくりは出雲国風土記では「五百(いほつ)鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」として書かれ、さらに具体的に伝えているのは播磨国風土記の「大水(おおみず)神・・・『吾は宍(しし)の血を以て佃(つくだ:開墾して作った田)を作る。故、河の水を欲しない』と辞して言った。その時、丹津日子(大国主の御子)、『この神、河を掘ることにあきて、そう言ったのであろう』と述べた」「(大神の)妹玉津日女(たまつひめ)命、生ける鹿を捕って臥せ、その腹を割いて、稲をその血に種いた。よりて、一夜の間に苗が生えたので、取って植えさせた。大国主は、『お前はなぜ五月の夜に植えたのか』と言って、他の所に去った」などの記述が裏付けています。

 猪や鹿の血で苗や稲を育てる縄文稲作(陸稲栽培と水辺水田稲作)に対し、大国主親子は鉄先鋤によって水利を整備して耕地面積を増やし、田植えを「五月」より遅らせてウンカの被害を防ぐ方法を教えたのに、大水神(増水時に水を張れる川辺の水田を持っていたのであろう)も大国主が妻問いした玉津日女も従わなかった、というのです。

② 「高天原神話」の皇国史観も「記紀8世紀創作説」の反皇国史観も、スサノオ大国主建国神話を無視していますが、記紀風土記、各神社・民間の神々の伝承や祭り、地名・国名などを総合的に検討すれば、1~2世紀のスサノオ大国主7代の一族の建国は証明され、それは蛇神・トカゲ蛇神・龍神・山神・天神信仰からも裏付けられます。

③ これらの宗教が縄文時代にさかのぼるかどうかですが、山神信仰は原村の阿久遺跡の石棒(金精)を起点とした石列が蓼科山を向き、茅野市の中ツ原遺跡の8本柱もまた蓼科山信仰の楼観神殿である可能性が高いことから裏付けられ、蛇神信仰は井戸尻遺跡などの土偶縄文土器文様から裏付けられます。さらに信濃川流域の新潟・長野の「火炎型土器」の突起文様は明確に「トカゲ神」からの「龍神信仰」を示しています。

④ これらの信仰は、DNA・言語・イネの起源・食文化などからみても、インド・東南アジアの蛇神・山神・天神・龍神・性器信仰をルーツとしていることが明らかです。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論         http://hinakoku.blog100.fc2.com/