縄文ノート53(Ⅵ-28) 赤目砂鉄と高師小僧とスサ
前回で縄文社会研究会・東京の八ヶ岳合宿関係の資料の紹介は終えようと思っていたのですが、「縄文時代の終章」をとして、諏訪地方における「鉄器時代」の始まりについて書いたレジュメを追加したいと思います。
もしも縄文文明論・日本列島文明論を「中国文明」の一部としてではなく、世界文明史の中に位置付けて発信し、「日本中央縄文文明」の世界遺産登録を目指すなら、「旧石器-縄文-弥生-古墳」などという土石文明史観の時代区分はあまりにもお粗末であり、「石器-土器(新石器)-鉄器」時代区分とすべきと私は主張してきました。
私は日本の石器・土器研究などは素晴らしいと考えますが、この重要な文明史時代区分の決定を石器・土器好きの考古学者だけで決めていいとは考えません。「文化を含めた文明」となると、言語学・宗教学・民族学・民俗学・生態学・農学・建築土木学・遺伝子学などの関係者全体で「日本列島文明時代区分検討プロジェクト」を立ち上げて決めるべきでしょう。
縄文社会研究会・東京では、石飛仁氏はスサノオ・大国主を「縄文最後の王」説を提唱し、私は「鉄器水利水田稲作時代を切り開いた建国王」説を提案してきましたが、諏訪の地はそのフィールドワークを行ううえで恰好の地と考えます。そのような視点で、機会がありましたら、是非とも訪ねてみていただきたいと思います。210208 雛元昌弘
※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。
Ⅵ-6 赤目砂鉄と高師小僧とスサ
201106・09→210208
「縄文時代」はいつ終わったかについて、通説は紀元前10世紀頃の「弥生時代」という「弥生式土器」などない「縄文式土器時代」に遡らせるという言葉の誤魔化しを行ってきています。弥生式土器は「東京都文京区弥生」から出土しており、東京から新しい時代が始まったなどという名称は捨てるべきでしょう。
「土器分類」から離れて、紀元前930年頃の佐賀県唐津市の菜畑遺跡の「水田稲作開始」から新しい文明時代に入ったというなら、その発見地にちなんで「菜畑時代」と言い換えるべきでしょう。
それにしても土器区分から稲作開始に歴史基準を変えるのなら、「焼畑陸稲稲作→水辺水田稲作→沖積平野での鉄器水利水田稲作」という稲作の歴史の発展段階のどこを基準にするか、徹底的に議論して決めるべきでしょう。水辺水田稲作段階のたった1つの菜畑遺跡で縄文時代の終わり、水田稲作時代の始まりとするなど、科学とは程遠いフライイングと言わざるをえません。「土器1つ、遺跡1つで歴史時代は変わる」など、素人の私には考古学・歴史学はまともな科学とはとても思えません。
渡来人(朝鮮人、長江流域江南人)が唐津に上陸して水田稲作技術を始めたので「漁撈狩猟採取の縄文時代は終わり、水田稲作時代が始まった」というなら、稲作に関わる用語は朝鮮語か中国語のはずですが、そのすべてが「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層言語構造になっており、しかも倭音倭語はドラヴィダ語と似ているのです。さらに米を土鍋で炊いてカラスに与える南インドの「ポンガ」と青森・秋田・茨城・新潟・長野の「ホンガ」の宗教行事が同じであり、日本人に一番多いY染色体Ⅾ型のDNAがチベットやブータン、ミャンマー・ラオスなど東南アジア高地に見られ、赤米(赤飯)やもち米を好む同じ嗜好性がこの照葉樹林帯に見られることをどう説明し、どう整合性を図るのでしょうか?
土器好きの考古学者・歴史学者だけで、日本列島人の歴史区分を決めていいというものではないでしょう。
私は縄文土器鍋によって健康で豊かな「煮炊きイモ豆栗6穀食」を確立し、その稲作技術・米食文化の上に葦原の沖積平野で鉄器水利水田稲作を広めた、スサノオ・大国主の「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」「葦原中国(あしはらのなかつくに)」(古事記・日本書紀)の建国があったと論証してきており、スサノオ・大国主時代を縄文時代からの転換点と考え、「石器―土器―鉄器」の時代区分を提案してきています。
この2020八ヶ岳合宿関係のレジュメの連載の最後として、諏訪地方における「縄文時代の終わり」と「鉄器時代」について考察しておきたいと考えます。
1.物部氏と製鉄
私は縄文1万数千年からの大きな転換点は紀元前10世紀からの「弥生人(中国人・朝鮮人)の水田稲作開始による弥生時代」という外発的発展説ではなく、紀元1~2世紀の「スサノオ・大国主7代からの鉄器水利水田稲作」による建国という内発的発展説であり、その「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂(みずほ)国」「葦原中国(あしはらなかつくに)」建国は、「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と呼ばれた大国主と阿遅鉏高日子根親子らの鉄先鋤による百余国の葦原の沖積平野への水利水田稲作の普及によるものと書き続けてきました。
日本書紀の一書(第六)は、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」「動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」「百姓(おおみたから)、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と彼らが水穂国王・鉄先鋤王・天下造王・天下経営王・農業革命王であったことを伝えています。―「縄文ノート24 スサノオ・大国主建国論からの縄文研究の方法」参照
新羅と米鉄交易を行っていたスサノオが十拳剣(韓鋤之剣:韓製の鋤の鉄先を鍛えなおして作った剣)でヤマタノオロチを切った時、オロチの大刀(草薙大刀)に当たった十拳剣は欠けたと古事記は伝えていますから、オロチはより高度な鉄技術を持っていたことを示しています。この草薙大刀は後に天皇家の「三種の神器」の1つとされていることからみて、オロチは大蛇などではなく製鉄王であり、オロチ王→スサノオ→天皇家へ王位継承が行われたことを神話形式で示してます。
そしてオロチ王を切った韓鋤剣(からすきのつるぎ)が吉備の赤坂(岡山県赤磐市)の石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社(備前国一宮)に置かれたことからみて、オロチは吉備の赤坂を拠点とした製鉄王であり、その国の支配を任された物部氏はスサノオ一族とみて間違いありません。
この赤坂郡は後に備前の国府や国分寺が置かれた拠点であり、「真金吹く」が「丹生」「吉備」にかかる枕詞であることからみて、近くの赤穂や明石と同じく赤鉄鉱の「赤目砂鉄(あこめさてつ)製鉄」の拠点であった可能性が高く、その吉備国を出雲王スサノオが奪い、物部一族に支配させたという歴史を伝えていると考えます。
この物部氏は安曇族(イヤナギの子:出雲で産まれたスサノオの筑紫の異母弟)とともに1世紀頃に諏訪地方に入り、スサノオ7代目の出雲の大国主の御子の建御名方は筑紫の大国主の御子・穂日との後継者争いに敗れて2世紀にこの物部氏(物部守矢氏一族)を頼って出雲から越を経て諏訪に逃げてきたと考えます。物部氏は製鉄部族であり、大和朝廷のもとでは石上神宮を拠点として武器製作・管理・支配を任されており、諏訪の地にも製鉄技術をもたらしたと考えます。
「守矢氏は縄文系、建御名方は弥生系」という弥生人による縄文人支配説も見られますが、同じ出雲系であると私は考えます。
⑵ 製鉄王スサノオと物部一族
播磨国風土記は「鉄生う」とされる宍禾郡(しそうぐん:粟宍郡)で大国主は安師(あなし)比売に妻問いし、その南の讃容郡(さようぐん:佐用郡)では大国主の妻の佐用都比売が「金(かね)の鞍を得たまひき」の記述があり、さらにその南の赤穂郡では最大級の銅鐸の鋳型が発見され、出雲にたたら製鉄を伝えた金屋子神は宍禾郡から備前赤坂、備前中山(吉備津神社あり)をへて、日野市を出雲の奥日田に移動したことが各地の伝承に残っていることからみて、わが国の製鉄のルーツは赤目砂鉄や赤鉄鉱を産する西播磨から備前にかけての地域と考えられます。
日本では紀元前4~紀元2世紀にかけて高度な鋳造技術を要する銅鐸が製作されており、同時に鉄が伝来したことが明らかとなっていますが、国内での製鉄遺跡は未発見です。しかしながら3世紀の送風管が博多・出雲・小松・大和(纏向)で、送風管と砂鉄が徳島市で、鍛冶工房跡が三原市で発見されていることからみて、3世紀には西日本全域で鍛冶が行われていたことが明らかであり、それに先立って製鉄が行われていたことは確実と言えます。
酸化鉄の還元は「400度から800度あれば進行でき、温度が低ければ固体のまま還元して酸素を失った孔だらけの海綿上の鉄になり、もっと温度が高ければ、粘いあめ状の塊になる。これを鍛錬して鉄でない部分を十分に除去すれば、立派な鉄となる」(中沢護人『鋼の時代』岩波新書)とされます。一方、銅鐸や銅槍(通説は銅剣)・銅鉾を製造していた職人は、フイゴで炭火をおこし、青銅の融点 875℃、銅の融点1085℃以上で銅を溶かしていたのであり、鍛冶職人は600~900℃で鉄を打っていたことからみて、赤目砂鉄を使った400~800℃の低温でできる銑鉄(鋳鉄、銑(ずく))の製造は技術的には容易であったと考えられます。
この銑鉄は硬いが割れやすく、スサノオの韓鋤剣(からすきのつるぎ)がオロチ王の都牟刈大刀(つむがりのおおたち)、別名、蛇の麁正(おろちのあらまさ)に当たって刃こぼれしたという神話は、スサノオの韓の鋤先の鉄を鍛えなおして作った銑鉄の剣は脆く、オロチ王の大刀は粘りのある鋼(はがね、鋼鉄)であったと考えられます。米鉄交易を通して新羅の地で製鉄技術をえたスサノオは、赤目砂鉄のとれるオロチ王の赤坂の地でさらに高温の製鉄法を習得し、「朱砂王=すさのおう=赤目砂鉄製鉄王」と呼ばれたと私は考えています。
天皇家の「三種の神器」として武力支配の象徴とした「麁正(おろちのあらまさ)」はこの最先端の製鉄技術の鋼鉄剣であり、その「真金吹く」と歌われた備前赤坂の地を支配していたのが製鉄部族の物部氏なのです。この赤坂(現赤磐市)には後に備前国府と国分寺が置かれすが、その南の長船(おさふね)は鎌倉時代の名刀「備前長船」の産地として全国に名がとどろいています。
⑶ 製鉄伝播の経路
では、このスサノオが新羅からの入手した製鉄技術より前の、吉備のオロチ王はどこから高度な製鉄技術を獲得したのでしょうか? 韓鋤剣(からすきのつるぎ)が銑鉄刀であったことからみて新羅経由ではなかった可能性が高いと思われます。
「NHKスペシャル アイアンロード~知られざる古代文明の道」(2020年1月13日、10月13・20日)では、「ヒッタイト(紀元前1500~2000年頃)→スキタイ→中国→朝鮮→倭」への「絹の道」よりも古い「鉄の道」の存在を伝えています。
一方、日立金属HPの「たたらの由来」では、「たたら」の語源として「百済、新羅との交渉の場のたたら場、たたら津」説とともに、窪田蔵郎氏の「ダッタン語のタタトル(猛火のこと)からの転化説」、安田徳太郎氏の「古代インド語のサンスクリット語でタータラは熱」説を紹介し、東インドからインドシナ半島ルート説と、雲南高地経由の中国南方ルート説を紹介しています。
後者の雲南経由はは銅鐸のルーツが春秋戦国時代(紀元前770~221年)の「越」であるという説や長江流域稲作ルーツ説、照葉樹林文化説と矛盾のない説になります。
しかしながら、日本列島人起源論(チベット等のY染色体Ⅾ系統)や日本語起源論(ドラヴィダ系)、ジャポニカ稲作・食文化起源論でみたように、私は「東インド・東南アジア高地→ミャンマー海岸部→スンダランド(水没)→琉球」のドラヴィダ系海人・山人族の日本列島への「海の道」を考えており、この「海の道」を通っての何次にもわたる移住によるインド鉄の伝来があったと考えます。―「縄文ノート43 DNA分析からの日本列島人起源説」「縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源」「縄文ノート28 ドラヴィダ系海人・山人族による日本列島稲作起源」参照
朝鮮・中国南方から製鉄・鉄加工技術などが伝わったのなら、関係する言葉は朝鮮語・中国語になるはずですが、金属・金属器の倭音・呉音・漢音を調べてみると、全てに倭音倭語があり、借用読みとしては「金・銅・鋼・刀」は呉音・漢音、「鉄・剣」が漢音、「鏡」が呉音で、「鑪(たたら)」や元々石製・木製であった日常生活用具や武器の「槍・鉾・鏃」などには呉音・漢音が借用されていません。
「かね(金・鉄)」から「あかがね(銅)・くろがね(鉄)・はがね(鋼)」の倭音倭語が生まれた可能性が高いことからみても、江南の呉や河北の漢から「呉音・漢音」読みの金属や金属器が伝わる以前に、わが国には金属の「かね」の倭音倭語があり、さらに道具・武器類の倭音倭語もあったことが明らかです。
この倭音倭語のルーツは「縄文ノート38 『霊(ひ)』とタミル語『pee(ぴー)』とタイ『ピー信仰』」「縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源」などでみたように、ドラヴィダ系海人・山人族の可能性が高いと考えます。宗教や稲作言語が倭音倭語であり、インド東部・東南アジア高地から「海の道」ルートを通り、わが国に旧石器時代、縄文時代に何次かに分けて到達した可能性が高いことからみて、第1段階の「かね(鉄)」技術もまた「海の道」ルートからわが国に伝わった可能性が高いと考えます。
その後に江南から直接九州に呉音漢語とともに第2段階の「テチ・テツ(鉄)」技術が伝達された可能性が高く、浙江省から紀元前210年に始皇帝の命令で「東方の三神山(蓬莱・方丈・瀛州)」に長生不老の霊薬を求めて出港した徐福などもその有力な候補として考えられます。呉音漢語の漢字を持ち込んだとなると、文字が読み書きできる儒学者か高級官僚しか考えれられず、徐福一行は最有力候補となります。
徐福は諏訪富士の別名を持つ蓼科山に住んで双子を儲けたとされ、彼らが遊んだ場所を「双子池」や「双子山」と名付けたという伝承が佐久市に残っていますが、佐賀市・伊根町・熊野市・新宮市など他に全国9か所に徐福伝説が残っており、この蓼科山徐福伝説を安易に無視することはできません。
私が仕事したことのある山口県油谷町(現長門市)には楊貴妃伝説が、静岡県御津町(現豊川市)には大国主上陸伝承が、青森県東北町には坂上田村麻呂が「日本中央」と石に刻んだという記録がありますが、関係者がやってきたことは事実で、それが楊貴妃や大国主、坂上田村麻呂がやってきたと置き換わったと私は考えており、蓼科山徐福伝説も3000人とされるうちの1人かその子孫の可能性があると考えます。
⑷ 諏訪地方の製鉄
諏訪地方の縄文社会・文化が次のスサノオ・大国主一族の「葦原中国」時代の鉄器水利水田稲作にどう続いているのかの解明においては、スサノオ一族の物部氏の「守矢氏」と、スサノオ7代目大国主の子の建御名方の役割が重要であり、「縄文ノート39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍蛇神信仰とヤマタノオロチ王の正体」において、スサノオの製鉄について触れるとともに、スサノオ6代目(大国主の義父:代々襲名)と守矢氏の蛇信仰について触れましたが、守矢氏と製鉄の関係について説明していませんでした。
諏訪に移った物部氏(守矢氏)はこの地でも製鉄を行っていた可能性が高く、以下、考察を進めたいと考えます。
2.富士見町の製鉄遺跡
富士見町の井戸尻考古館と歴史民俗資料館は、縄文農耕と製鉄研究にとって極めて重要なレベルの高い展示を行っており、「縄文ノート21 八ヶ岳縄文遺跡見学メモ」において「私はスサノオ・大国主一族により、紀元1~2世紀に播磨(明石・赤穂)・吉備(赤坂)の地で『赤目(あこめ)砂鉄製鉄』が行われていたという仮説を立てていますが、この館には赤目砂鉄を含む様々な鉄鉱石が展示してあり、学芸員の問題意識のレベルの高さを感じました。近くに金沢という地名があることからみても、この地で『赤目(あこめ)砂鉄製鉄』が行われていた可能性が気になりました」と書きましたが、この館の展示は製鉄研究において大きな価値があると考えます。
井戸尻考古館と歴史民俗資料館は第1級の重要な縄文・製鉄の施設でありながら、現状ではありふれた地方の縄文・民俗資料の展示施設として見学者も少なく、注目されていないのが実に残念です。せめて展示方法を一新するか、もっとテーマ性を強く打ち出してホームページを大幅に更新していただきたいものです。ここでは、製鉄に関してその重要性を明らかにしたいと思います。
⑴ 米鉄交易と古代の鉄生産
魏書東夷伝辰韓条の「国、鉄を出す、韓・濊(わい)・倭皆従いてこれを取る。諸市買、皆鉄を用いること、中国の銭を用いるが如し」によれば、倭国へは「従いて取る」という方法と「諸市買、皆鉄を用いる」という2つ方法で辰韓(後の新羅)から鉄が輸出されていたことが明らかです。
『三国史記』新羅本紀によれば、4代目新羅国王の脱解(たれ)は倭人で、紀元59年に倭国王と国交を結んだとしていますが、古事記はスサノオが「海を支配」をイヤナギから命じられ、日本書紀はスサノオが新羅に渡った記述がありこれを裏付けています。
さらに神話時代32代の王の即位年の統計的推計(安本美典氏の方法を神話時代に遡らせた)によればスサノオの即位年は60年頃となり、57年に後漢から金印を与えられ、59年に新羅と国交を結んだ倭王(委奴王)はスサノオ以外にありえないことが明らかです。―『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』、『季刊山陰』38号参照
魏書東夷伝倭人条によれば対馬・壱岐国の人たちは「乗船南北市糴(してき)」していたとされ、「糴」を漢字分解すると「入+米+羽+隹」で、彼らは「鳥(隹)の羽のような帆船に乗り、辰韓の市で米を売って鉄を入手」する南北交易を行っていたことが明らかです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照
寒冷化が進んだ当時、寒冷な新羅では稲の不作に陥り、深刻な食糧危機に直面し、倭人・脱解を王として倭国王スサノオと国交を結び、米鉄交易を開始したと考えられます。「委奴(いな)国」は「稲(いな)国」であり、「葦原中国」は温暖な「豊葦原の水穂国」であったのです。
「従いて取る」は委奴国王スサノオとの国家交易、「諸市買、皆鉄」は対馬・壱岐の人々との民間交易という2つの方法による「有無の交易」(有=米、無=鉄)の米鉄交易が紀元1~3世紀には確実に行われていたのです。鉄先鋤による葦原の沖積平野の水利工事・開墾・開田は飛躍的なコメ生産を促しますから、米鉄交易はウインウインの拡大再生産をもたらしたのです。
なお「従いて取る」は鉄交易ではなく鉄鉱石の採掘権を与えられたことを示しており、倭人は新羅で製鉄を行い、帆走丸木舟で鉄製品を運んでいたのです。薄くて軽い弥生式土器は、海水に塗れないように米を運搬するために使われ始めたと考えられ、重い米を入れた土器や鉄はバラスト(重し)として、帆走には欠かせないものであったと考えます。
⑵ 「赤目(あこめ)砂鉄」製鉄・「高師小僧」製鉄の可能性
日本書紀によればスサノオ・五十猛命(いたける:委武)親子は新羅で宮殿を建て、船を作る木や燃料用の木など種々の木種を持って渡ったものの、「住みたくない」と早々と出雲に帰ってきて、国内で植林したとされています。おそらく赤鉄鉱石からの製鉄技術を習得し、国内生産を考えたものと思われます。当時、赤鉄鉱や赤目(あこめ)砂鉄は出雲にはなく、中国山地南側の吉備や播磨、安芸などにしかありませんから、スサノオはオロチ王を殺して吉備の地を支配して製鉄を開始した可能性が高いと考えられます。
スサノオの名称は「朱砂(すさ)王」であり、「真金吹く吉備」と歌われた吉備(赤坂)と播磨国風土記に出て来る播磨東部(赤穂:巨大銅鐸の鋳型発見)などが製鉄の拠点であったと考えてきましたが、長野県富士見町もまた物部氏の製鉄拠点であった可能性があります。
富士見町歴史民俗資料館には金屋製鉄遺跡の鉄滓(てっさい:金糞(かなくそ)、ノロ、スラグ)、鉧(けら:選別された良い部分は玉鋼(たまはがね))、赤目(あこめ)砂鉄、高師小僧(アシや水田のイネの根の周囲に鉄バクテリアにより生成される褐鉄鉱。地名からの命名)が展示されていますが、注目すべきは「炉壁 スサ入り」の展示も見られることです。
これまで、日本の製鉄と言えば出雲の磁鉄鉱の「真砂(まさ)砂鉄」を使った「たたら製鉄」が注目されてきましたが、純度は高くないが加工がしやすいとされる「赤目(あこめ)砂鉄」製鉄や「高師小僧」製鉄の痕跡こそ追究すべきと考えます。これまで「赤目砂鉄」や「高師小僧」について取り上げた展示施設を私は目にしたことがなかったのですが、昨年秋に始めて富士見町歴史民俗資料館で目にして感動を覚えました。
今年の8月の縄文社会研究会・東京の八ヶ岳合宿において、「守矢氏」の御左口神信仰(ミシャグチ神=御蛇口神)を確認することができ、守矢氏とスサノオ一族の物部氏の備前赤坂を拠点とした製鉄との繋がりを明らかにすることができたことにより、諏訪における古代製鉄研究の必要性を強く感じています。
富士見町の金屋製鉄遺跡は「平安時代」とされていますが、物部一族による紀元2~3世紀の遺跡が見つかる可能性があると考えます。
3.井戸尻考古館・富士見町歴史民俗資料館への期待
富士見町には2つの素晴らしい展示施設がありますが、残念なことに町にとっても全国民にとってもこの価値のある宝を活かしきれていないと感じます。
諏訪地方の縄文観光は、地の利と施設レベル、2つの女神像から「尖石縄文考古館」が多くの見学客を集めていますが、その価値から言えば、井戸尻考古館と富士見町歴史民俗資料館は同等、あるいはそれ以上の重要な位置を占めていると私は考えており、他の諸施設と連携を図りながら磨き上げ(ブラッシュアップ)を検討してほしいものです。
⑴ 「縄文農耕・縄文食」のテーマ博物館化
他の施設が土器や土偶などを中心にした「遺物展示施設」であるのに対し、縄文農耕・縄文食のテーマ博物館とした日本初の施設として、照葉樹林文化論の紹介なども含めた世界的な視野での展示とし、「イモ栗豆6穀の里づくり」など民間の健康食の取り組みとの連携も視野に入れて欲しいところです。
⑵ 「蛇神信仰」のテーマ博物館化
スサノオ・大国主一族の「龍神(トカゲ龍)信仰」を諏訪大社神長官・守矢氏の「御左口神(御蛇口神)」信仰は受け継いでおり、「巳を戴く神子」像や縄文の「結び(産す霊(ひ))」から蛇神信仰が縄文時代に遡る可能性があり、インド・東南アジア・中国の蛇・龍信仰などの紹介を含めた展示に広げられないでしょうか?
⑶ 「赤目砂鉄・高師小僧製鉄」のテーマ博物館化
① 「赤目砂鉄・高師小僧製鉄」展示室
HPに「たたらの歴史」を掲載している日立金属など企業の協力もえて研究会を発足し、富士見町歴史民俗資料館の一室などを利用してスタートできないでしょうか。
金属探知機を使って金屋遺跡や赤目砂鉄・高師小僧産地周辺の鉄滓捜し、最古のスサノオ・大国主時代の製鉄遺跡の発見を目指す市民参加型の調査ができないかと思います。民間研究者が大活躍した長野らしい取り組みです。
③ 「赤目砂鉄製鉄・高師小僧製鉄」の成分分析と年代測定
金屋製鉄遺跡の鉄滓(のろ)や鉧(けら)、炉壁のスサの成分分析により、製鉄原料が赤目砂鉄・高師小僧のどちらか解明するとともに、鉄滓などに木炭片を見つけてC14分析により生産年代を推定してほしい。信州大学や長野県工業技術総合センターなどの協力をあおぎます。
④ 「赤目砂鉄製鉄・高師小僧製鉄の再現実験」
ヒッタイトやスキタイ、古代中国などの小型炉などを参考にし、赤目砂鉄・高師小僧製鉄の再現実験をクラウドファンディングによる資金集めで行えないでしょうか。信州大学や工業高校、信州打刃物工業協同組合(信濃町)などの協力を得て、世界遺産登録運動の一環とした取り組みを目指します。
⑤ 赤目砂鉄・高師小僧の国天然記念物の指定申請
高師小僧は国の天然記念物として名寄高師小僧(北海道名寄市)、別所高師小僧(滋賀県日野町)が、都道府県指定天然記念物として豊橋高師小僧(愛知県豊橋市)が、市町村指定天然記念物として釜無川右岸高師小僧(山梨県韮崎市)が指定されていますが、赤目砂鉄について物部氏の製鉄遺跡の可能性を解明して申請すべきと考えます。
⑷ 「縄文デザイン」の参加型テーマ博物館化
入館者に縄文デザインの謎解きを一緒に考えることを呼びかけるポップを付けた展示とともに、ホームページでも詳細な写真により、研究・提案を呼びかけ、新たな「参加型博物館」を目指すべきと考えます。
□参考□
<本>
・『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)
2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号
2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)
<ブログ>
ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/
帆人の古代史メモ http://blog.livedoor.jp/hohito/
邪馬台国探偵団 http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/