ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート38(Ⅲ-8) 霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰

 私は父方の先祖の墓に刻まれた「日向(ひな)」名から古代史研究に入り、「日」が太陽ではなく「霊(ひ)」を表しているという結論に達し、大国主を国譲りさせた「武日照(たけひなてる:武夷鳥)」からスサノオ大国主建国説にたどりつき、さらに高天原の所在地である「筑紫日向橘小門阿波岐原」の「日向(ひな)」から、邪馬壹国の位置が旧甘木市の「蜷城(ひなしろ)」であることを突き止めました。

 また、栃木方言では「ひな」がクリトリス(陰核)を指しているという指摘を受け、「ひな」が母系制社会の女性器信仰を示し、そのルーツが琉球にあることを突き止めました。

 さらに「霊(ひ)信仰」から縄文研究に入り、そのルーツがインド原住民のドラヴィダ族に遡るという思いがけない結論に達しています。

 「眉唾もの」と思われるでしょうが、「定説などにこだわらないよ」という方はお付き合いいただければと思います。            210108 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

     Ⅲ-8 霊(ひ)とタミル語pee、タイ・ピー信仰

                         201026→210108 雛元昌弘

1.大野晋氏の「霊(ひ)」=タミル語「pee(ピー)」説

 「縄文ノート37 『神』についての考察」において、「⑦ 日本語の『霊(ひ:fi)』はタミル語の『pee(ピー):自然力・活力・威力・神々しさ』に対応する。(筆者注:沖縄では古くは「ひ(fi)」は「ぴ」)」と私は大野晋氏の説を紹介しました。

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 専門分野外であり計量比較言語学に立ち入った評価はできませんが、統計的分析方法は正しいとしても、数詞や人体語などの「基礎語200」をサンプルとして機械的に選び出してあらゆる言語について比較する方法は科学的とはいえません。「科学的に集められたデータ」でないと「科学的な統計処理」は正しい結果を出せないからです。

 各国の支配的言語同士の比較においては「基礎語200サンプル」は有効と思いますが、ある国の被支配言語(少数派言語)は支配言語(多数派言語)の影響を受けやすい言葉を避け、影響が及びにくい言葉、希少性(固有性)・伝承性(恒常性)があり、被支配者において残存率が高い種類の言葉を「基礎語」として選ぶ必要があるからです。

 日本語の場合は中国から直接支配をうけることがなかったために倭音倭語を維持しながら、借用語として呉音漢語、漢音漢語を使用する3層構造となっていますが、タミル語などの被支配言語は支配言語の影響を強く受けている可能性が高いのです。朝鮮語においても、元の南方系の海人族語は満州からの扶余族や漢民族などの支配を受け、「基礎語200」はとりわけ大きな影響を受け、海人族系の単語は消滅してしまっている可能性が高いと思われます。

 大野説はタミル語と倭語を、主に宗教と食生活・農作業などの希少性(固有性)・伝承性(恒常性)が高い言葉についてその類似性を指摘しているのであり、数詞や人体語などについては類似性を認めていません。特に、祭りの掛詞の「ポンガ」(タミル語)と「ホンガ」(秋田・長野)という希少性(固有性)・伝承性(恒常性)の高い言葉の同一性を明らかにしていることは重要です。

 安本美典氏ら計量比較言語学者は、インド・ヨーロッパ語族の分析方法の「基礎語200」をそのまま真似して東アジア地域に持ち込んだ点において明らかに誤っており、希少性(固有性)・伝承性(恒常性)のある宗教・食生活・農作業関係用語などの被支配言語を抽出し、統計的検討を行うべきだったのです。

 中国文化の多大な影響を受けた日本語が倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3層構造であるように、ドラヴィダ語もまた2層構造であり、さらに日本列島に伝わる過程では東南アジア諸国の言葉の影響を強く受けていると見なければなりません。宗教や生活・産業文化などの伝播の検討と合わせて、言語を選択して比較しないと日本語のルーツは見えてきません。言語学歴史学・考古学・人類学・民俗学・遺伝子学はワンセットで検討されなければならないのです。

 日本の学者にはかつては中国、今は欧米崇拝の「翻訳模倣学者」が多いのですが、被支配者の視点からのまともな言語分析が求められます。

 

2.民族学者・佐々木高明氏の「ピー・モ」と「ピー信仰」

 私は『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)など、「霊(ひ)信仰」からスサノオ大国主7代建国史など古代史の分析を始め、国語学民族学の本をいくらか読み始めたのはこの8月からですが、大野晋氏のタミル語(ドラヴィダ語の一部)の本で「pee(ピー)」を見つけ、続いて民族学者の佐々木高明氏(元奈良女教授、国立民族学博物館長)の『山の神と日本人―山の神信仰から探る日本の基層文化』の中に、「ピー・モ」と「ピー信仰」について書かれているのを見つけました。

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 その中で大林太良氏の『葬制の起源』は、「死者の霊魂が村を見下ろす山の上や霊山におもむく『山上霊地の思想』がわが国に広く分布する」「この種の山上他界観の文化系統を考える上で目を引くのは、中国西南部の山地焼畑農耕を営む少数民族の人たちである」とし、雲南省のロロ族の「ピー・モ」(巫師)は「なんじ死霊は今からロロ族の故郷である大涼山に到着するまで長い旅立ちをしなければならない」と何度も繰り返し唱えることなどを紹介しています。そして、死霊(祖霊)が聖なる山に集まるという山上(中)他界の観念や習俗は中国南部から東南アジアの照葉樹林帯の焼畑民の間に広く存在し、水田稲作民に伝えられたとしています。

 さらに、文化人類学者の岩田慶治氏はタイの農耕民社会に広く見られるピー(先祖、守護神)信仰について紹介し、「浮動するピー」「去来するピー」「常住するピー」の3段階があり、「常住するピー」は屋敷神として屋敷地の片隅に祀られるというのです。

 私の岡山県の山村と兵庫県の平野部の祖父母の家にはどちらにも仏壇と神棚と屋敷神の石祠の3つの祭壇があってご飯を供え、お墓や神社、お寺に参ってはご先祖を拝むように言われ、悪さをすると「天から祖先が見ている」と言われ、幼児の頃、「ご先祖はどこにいるのか」混乱して祖母を問いただしたことがありましたが、やっと屋敷神の石祠の疑問が解けたように思います。東南アジアからきた古い信仰様式だったのです。

 私の住む埼玉県さいたま市でも犬散歩の途中、昔からの農家であったと考えられる家の庭には、現代化された住宅の庭にも写真1のような小さは祠がよく目に付きますが、そのルーツは東南アジアの「ピー信仰」であり、日本では音韻変化して「ひー(霊)信仰」になったのです。

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 写真2は『山の神と日本人―山の神信仰から探る日本の基層文化』に掲載されたタイの「ピーを祭る小祠」で、写真3は諏訪大社上社の神長官守矢邸の裏の山際にある建築家の藤森照信氏が実家の畑に立てた茶室「高過庵(たかすぎあん)」「低過庵(ひくすぎあん)」「空飛ぶ泥舟」の同じ敷地内にあった祠です。石や木造になる前の藁やカヤなどで作った、タイの祠と同じような形状でびっくりします。「他人の空似」、あるいは藤森氏が遊び心でタイの祠を真似をして作ったものかもしれませんが・・・

 

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 なお、佐々木高明氏は柳田國男氏らの「山の神祖霊説」に対し、「山の神霊威(精霊)説(アニミズム説)」を主張していますが、事例として紹介している雲南省のロロ族やタイ農耕民の「ピー信仰」は死者の霊(ひ)信仰であり、むしろ柳田説を裏付けています。

  「縄文ノート41   日本語起源論と日本列島人起源」「縄文ノート43 DNA分析からの日本列島人起源論」で分析したように、「ドラヴィダ海人(あま)・山人(やまと)族」が日本の旧石器人・縄文人の主要なルーツであり、それは「霊(ひ)」信仰からも裏付けられたのです。

 チベット・ネパール・ブータンや東南アジア高地の死者の霊(ひ)が山上から天に昇る「天神信仰」は、縄文人の長野県蓼科山に向いた阿久遺跡の石柱からの石列や中ツ原遺跡の8本柱楼観神殿、縄文土器土偶にみられる「蛇・龍(トカゲ蛇)デザイン」や、スサノオ大国主一族の神名火山(神那霊山)信仰や高層の出雲大社などに繋がっています。

 

3.日本の「霊(ひ)」信仰

 死者は海や大地(黄泉)に帰り、黄泉がえるという海神・地神(地母神)信仰とともに、死体から「霊(ひ)=魂(たましひ:玉し霊)」は離れて山上に、さらには天に昇ると考える山神信仰・天神信仰が行われてきました。これまで書いてきたものと重複しますが、簡単に紹介したいと思います。

⑴  人を産む二霊「 高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)

 記紀は始祖5神(参神二霊)の「二霊(ひ)群品の祖となりき」とし、高皇産霊(たかみむすひ)と神皇産霊(かみむすひ)を人々の「霊(ひ)を産む神」としました。古代人はDNAの働きを「霊(ひ)」ととらえ、親から子へと受け継がれていくと考えていました。この始祖2神は紀元前1世紀の頃と考えられます。

 

⑵  「霊(ひ)継ぎ儀式」と柩・棺(ひつぎ)

 天皇家皇位継承は「日継(霊(ひ)継)」とされ、死者は内部を子宮に見立て朱で赤くした柩・棺(ひつぎ:霊継ぎ)に入れて葬られます。

 

⑶  「霊人(ひと)」の名称

 新井白石は「人=霊人(ひと)」とし、角林文雄氏は『アマテラスの原風景』で「人、彦、姫、聖」は「霊人(ひと)、霊子(ひこ)、霊女(ひめ)、霊知(ひじり)」としています。「人」字は倭音「ひと」、呉音 「ニン」、漢音「 ジン」であり、「霊(ひ)」を継ぐのが「人、彦、姫、聖」であり全て倭語です。

 なお「人(ひと)」の「ひ」を略して「と」と読んだと考えれれる例として次のような多くの単語があります。

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 また、死者を演じる能楽者や歌舞伎役者、神社で神事や送葬に携わる人たちが江戸幕府によって「非人」とされましたが、元々の意味は「霊人」であり、死者の霊をあつかい畏怖される対象であっても差別されることはなかったと考えます。

 猿回しも「非人」にされますが、比叡山(日枝山)を神那霊山(神名火山)としてスサノオの子の大年の子の大山咋(おおやまくい)を祀る大津の日枝大社(全国約3,800社の日吉・日枝・山王神社の総本社、通称:山王権現)の神使が猿であることや日光東照宮で神事に携わり、有名な「見ざる聞かざる言わざる」などの猿が神馬とともに祀られていることからみて、「霊人」であったと考えられます。

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⑷ 神那霊山(かんなびやま)・神籬(ひもろぎ)信仰

 神奈備山・神名火山(かんなびやま:神那霊山)信仰や神籬(ひもろぎ:霊洩木)信仰は、祖先霊が木から山へと天に昇り、降りて(洩れて)くるという木神・山神・天神信仰という古い霊(ひ)信仰(祖霊信仰)を示しています。詳しくは後述します。

 

⑸ イヤナミ(伊邪那美)の「比婆山」「伊賦夜坂」神話

 古事記には出雲の揖屋のイヤナミ(伊邪那美:通説はイザナミ)は火神(日本書紀一書:火産神)のカグツチ軻遇突智)を生んで亡くなり、出雲国と伯伎国の堺の比婆山1264 mに葬られたとする一方、イヤナギ(伊邪那伎:通説はイザナギ)がイヤナミを黄泉の国に訪ねた入口の黃泉比良坂は、出雲国の「伊賦夜坂」と書かれ、松江市東出雲町揖屋揖屋神社(古くは伊布夜社)の地とされています。

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 日本書紀の一書第9はその場所を「殯(もがり)の処」としていますから、イヤナミの死体が置かれた「黄泉」というのは「夜海(よみ)」であり、海水に洗われる入江の奥の暗い洞窟であったと考えられます。イヤナミの子のスサノオを祀る京都など各地の八坂神社(弥栄神社:やさか神社・いやさか神社)は、この揖屋の黃泉比良坂を指しており、「揖屋坂神社→屋坂神社→八坂神社・弥栄神社」と変遷したと考えられます。

 このイヤナミ神話は、死体から霊(ひ)が分離し、比婆山霊場山=霊山(ひやま)霊場、山上霊地に飛んでいくという山神信仰・天神信仰を示しています。この殯の風習は祖母と母を「龍宮(琉球)」の姉妹とする初代神武天皇を始祖とする天皇家に受け継がれ、沖縄や奄美には近年まで洗骨の風習が残り、そのルーツはチベットなどの風葬・鳥葬に遡ると考えます。

 なお、島根県安来市にある比婆山331mを神話の比定地とする安本美典氏などの異説が見られますが、比婆山連峰が出雲・伯耆・吉備の三国の境にあり、肥河(斐伊川)、日野川、江(ごう)の川(上流は可愛(えの)川で三次市から支流の西城川比和川)の源流域が比婆山であることからみて、海から川、川から山、山から天への「霊の道」を繋ぐ聖地として三国の境の比婆山連峰が信仰地として選ばれたと考えます。イヤナミを祀る神社をみても、三国県境の比婆山にはスサノオゆかりの熊野神社であるのに対し、安来比婆山にあるのは久米神社でイヤナミ・スサノオ一族とは無関係であり、後世になって三国県境比婆山を身近に移したと考えられます。

 

⑹ 八百万(やおよろず)神信仰の汎神思想

 出雲大社では旧暦10月10日から全国の八百万神が集まり神議(かむはかり)を行う神在祭がおこなわれ、この10月は出雲では「神在月(かみありづき)」、全国各地には神がいなくなるので「神無月(かんなづき)」と呼ばれたとされています。新年から子どもが生まれる「十月十日」に合わせた行事であり、出雲で生まれたスサノオの筑紫の異母弟である月読(壱岐に月読神社の本社がある)は月の動きを観察して「神無月」などの独特の月名の倭暦を作成していたと考えられます。

 古事記では大国主は「嶋の埼々、かき廻る磯の埼落とさず」に「若草の妻」を持ち、180人の御子をもうけたとされていますから、委奴国(いな国=委国=倭国)を構成する百余国のヒコ・ヒメ(霊子・霊女)を集めて祖先霊を祀る祭事を行い、月読命一族が定めた暦を配るとともに、大国主一族の霊継ぎを相談し、ヒコ・ヒメたちの縁結びを行ったと考えられます。

 なお、八百万(やおよろず)神という表記は「数が多い」とされていますが、重要な点は、特定の民族・選民、王など選ばれた人、宗教心の厚い人、修行をつんだ人、善行を積んだ人、多くの寄付を行った人などでなく、「すべての死者は神になる」という汎神思想であり、信仰心を持たない動物なども神使になる宗教思想です。

 「やおよろず神」は「やさか」と同じく、もともとは揖屋の地で生まれた「揖屋」の「尾(お:子孫)」を表し、「揖屋百万(いやおよろず)屋尾百万(やおよろず)百万(やおよろず)」神とした、イヤナミ(伊耶那美・伊邪那美)の「揖屋」族の子孫を指していた可能性があります。この部族宗教であったものが、大国主の百余国の建国に伴い、国家宗教として生類の汎神宗教へと転換したと考えます。

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 この母系制の汎神宗教こそ、共同体社会の特徴であり、日本の宗教の原点なのです。

 修行した高僧の仏絵や地獄絵ではなく、弟子や信者、動物が群れなす日本の釈迦の涅槃図は、この全ての生類の霊(ひ)=DNAの継承を願う汎神宗教、共同体宗教の延長上にあるのであり、日本仏教はわが国の古神道に影響を受け、死者の霊(ひ)があの世とこの世を行き来する独自の仏教になったと考えられます。ドラヴィダ族の霊(ひ)信仰とアーリア族の仏教がこのアジア東端で出会い、合体したのです。

 

4.神籬(ひもろぎ:霊洩木)・神名火山(かんなびやま:神那霊山)考

⑴ 神籬(ひもろぎ:霊洩木)考:ひ=神

 神籬(ひもろぎ)日本書紀に「起樹天津神籬(天津神籬の樹を起て)」と書かれていることからみて「樹を起てた」(柱を立てた)ものであり、「持天津神籬(天津神籬を持ち)」は切った常緑樹、霊(ひ)が宿る榊(さかき:木+神)=木神を指しています。

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 ウィキペディアは「『ひ』は神霊、『もろ』は天下るの意の『あもる』の転、『き』は木の意とされ、神霊が天下る木、神の依り代となる木」と説明しています。

 古い母音と考えられる琉球弁の「あいういう」3母音からは「もる=もろ」なので、「ひもるぎ」が「ひもろぎ」に変わったのであり、私は「霊洩木」の漢字を当てて表記しています。

 ここでもっとも重要な点は、日本書紀が「ひもろぎ」を「神籬」と表記し、「ひ」に「神」字を使っていることであり、古事記にかかれた「群品の祖」の始祖神を「高御産巣日・神産巣日」を日本書紀は「高皇産霊(たかみむすひ)、神皇産霊(かみむすひ)」とし、「霊を産む神」としていることと符合します。倭人にとって「神=霊(ひ)=霊を産む祖先霊」なのです。

 なお、古事記によれば大物主大神スサノオの御子の大年)が蛇となって活玉依毘売のもとに夜這いして鍵穴から帰っていった三諸山(みもろやま)の「三=み=己=蛇」であることから元々は「蛇洩山(みもろやま)」であり、大神神社(おおみわじんじゃ=大美和神社=大三輪神社)が蛇神を祀っていることと符合します。

 出雲大社では、旧暦10月10日より、全国の八百万(やおよろず)の神々が出雲の国に集まる神在月(他の土地では神が留守になる神無月)の「神迎祭(かみむかえさい)」が行われ、稲佐の浜には2本の神籬(ひもろぎ)と神使の龍蛇神が置かれ海をやって来た神々を迎える「神迎神事(かみむかえしんじ)」が行われ、神々の霊(ひ)が乗り移った神籬は絹垣で覆われ、龍蛇神が先導して「神迎の道」を出雲大社へ行列が向かいます。

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 この神事には、八百万神の霊(ひ)が依り付く「霊洩木」信仰と、海(龍宮=琉球)と大地(黄泉国)と川と神那霊山(比婆山霊場山)と天を繋ぐ「龍神=龍蛇神」信仰が1つの儀式として示されています。

 神道は「教典や具体的な教えはなく、開祖もいない。神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづくアニミズム的・祖霊崇拝的な民族宗教である」(ウィキペディア神道国際学会HPよりの引用)として創唱宗教以前の原始・未開宗教に位置付けていますが、縄文時代から続く霊(ひ)信仰を統合した大国主の八百万神信仰の体系は大和天皇家によって隠蔽されたのであり、その全体像の解明を放棄した神道学者の責任は大きいと言わざるをえません。

 なお、「神籬(ひもろぎ)」の「籬(和語:まがき=前垣)、漢音・呉音漢語:リ」を漢字分解すると「竹+離」で竹垣で結界された斎場(祭場)を示しており、「離」を漢字分解すると「离(大蛇)+隹(鳥)」であり、空を飛ぶ大蛇=龍を表し、祖先霊が天から降りてきて、天に帰るという「龍神信仰」「天神信仰」が行われる場所を示しています。

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⑵ 神那霊山(かんなびやま:神奈備山・神名火山)考

 ウィキペディア神奈備(筆者説:神那霊)について「神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を擁した領域のこと。または、神代(かみしろ)として自然環境を神体(しんたい)とすること」としています。

 そして神奈備山について「神(かん)並び」説、賀茂真淵の「神の森」説、折口信夫の「神の山」説、武田祐吉の「神隠山」説、高崎正秀の「神蛇山」説を紹介していますが、これれらの説は、「かんなびやま」について「かんな+びやま(ひやま)」とは考えず、「び・ひ(霊)」の分析を欠いています。

 日本の歴史学者には、記紀国津神の霊信仰の出雲神話を無視し、日(太陽)信仰の天津神神話だけを解釈する皇国史観と、記紀神話全体を後世の創作として無視する「反皇国史観」という左右のイデオロギーに影響されたままですが、記紀神話を無視した分析など、シュリーマン以前の水準です。キリスト非実在説(キリスト神話説)が流行った19世紀時代の水準であり、シュリーマン以降の考古学は神話が史実を反映していることを裏付けてきています。

 すでにみたように、記紀にはイヤナミ(伊邪那美)は火神(火産神)のカグツチ軻遇突智)を生んで亡くなり、死体は出雲の揖屋の黄泉の国の「殯(もがり)の処」に置かれ、死者の霊は出雲国と伯伎国の堺の「比婆山」=霊場山に葬ったと書かれており、魂魄分離の思想に基づく山神信仰・天神信仰が行なわれていたことを伝えています。

 さらに出雲国風土記によれば、4つの神名火山(神名樋山)があり、身近な生活圏から見えるランドマークとなる三角形の富士山型の山が信仰の祖先霊の依り付く山として信仰の対象となっています。大和においてはスサノオ大神らを祀る「三諸山(美和山・三輪山)」が神奈備山・神名備山・神名火山・甘南備山とされ、すでにみたように「みもろ山=蛇洩山」の可能性があり、ここでも大国主・大物主連合による山神信仰・龍神信仰・天神信仰が行われていたことを示しています。

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⑶ 記紀が避けた神那霊山・神籬信仰

 神奈備山・神名火山(筆者説:神那霊山)は記紀のどちらにも登場せず、出雲国風土記には神名火山・神名樋山が登場し、万葉集には7表記 (22首、23例)あるとウィキペディアは紹介しています。

 神籬(筆者説:霊洩木)は古事記出雲国風土記には登場せず、日本書紀万葉集にわずかに登場します。

 これらの事実は、万葉集と較べてみると、出雲神道から仏教へと国教を変えようとした大和天皇家による記紀風土記は、スサノオ大国主一族の宗教について意図的に排除した可能性が高いとみる以外にありません。

 

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 特に、記紀に書かれた少彦名の死後、大物主(代々襲名)が「三諸山(後の美和山・三輪山)に大物主大神を祀る」ことを条件にして大国主の国づくりに協力することが記され、それを裏付けるように三輪山山麓の間城・磯城には大物主の拠点があり、その北の穴師山の麓の纏向(間城向)には大国主が拠点を置き、万葉集には両者が三諸山を神奈備山・神名備山・神名火山として信仰していることが歌われ、三諸山は蛇の姿の大物主が住む山として記紀に書かれているのです。

 記紀などに書かれていないという表面的な判断ではなく、神社伝承や和歌などを含めた総合的な分析を行い、スサノオ大国主時代、さらには縄文時代に起源をもつ霊(ひ)信仰の解明が求められます。

 

5.女性器名「ヒー、ピー、ヒナ」について

今は廃止になりましたがYAHOOブログ『霊(ひ)の国:スサノオ大国主の研究』で第46回の「『霊(ひ)の国』のクリトリス『ひなさき(吉舌、雛尖、雛先)』」(2011年2月)において、私は次のように書きました。

 

 ある研究会で、元大学教授から「私の田舎では、クリトリスのことを『ひなさき』といっていた。『霊(ひ)』が宿る場所『霊那(ひな)』の先にあるから『ひなさき』ということなんだな」というような話を聞いたのである。

仕事に疲れた合間にホームページで調べてみると、なるほど、古くはクリトリス(陰核、さね)のことを「ひなさき(吉舌、雛尖、雛先)」と呼んでいたようである。「吉舌」(ひなさき)の出典は、平安時代中期に作られた辞書、「和名抄(和名類聚抄:わみょうるいじゅしょう)」なので、その起源は古い。

さらに調べてみると、沖縄や鹿児島では、女性の性器を「ひー」と呼び、熊本では「ひーな」と呼んでおり、「ひなさき」のルーツは明らかとなった。・・・

なお、「昔の茨城弁集」(http://www1.tmtv.ne.jp/~kadoya-sogo/ibaraki-hi.html)を見ると、死産のことを「ひがえり、ひがいり」というそうであるが、「霊が留まる」の逆で「霊が帰る」ということであろう。「ひしぬ」「ひすばる」「ひだるい」などの「ひ」も『霊』の可能性があるかも知れない。

 

 私は「ヒナちゃん」「ヒナもっちゃん」などと呼ばれていましたので、「お××ちゃん」と呼ばれていたことになり、がぜん面白くなってきました。

 さらに2018年になり、柳田國男氏の『蝸牛考』(1930年)の「方言周圏論」を批判して「『カタツムリ名』沖縄起源説」(180816)を書き、さらに「松本修著『全国マン・チン分布孝』の方言周圏論批判」(181204)を書きましたが、そこでは女性器名が南から北、東へと次のような伝播をたどることを明らかにしました。

     

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 日本語は南から北、東へと伝わっていたのであり、「ヒー、ピー」は女性器名であり、同時に霊(ひ)=神であったのです。石棒(金精さま)を女神の山に捧げ、地母神である大地の円形石組に立てるのもまた「ヒー、ピー」信仰を示しており、そのルーツは東インド・東南アジア山岳地域から「海の道」を伝わったことを示しているのです。

 

6.「日」か「霊」か?

 「かんなび」は万葉集では「神奈備」「神名備」「神名火」「甘南備」と書かれ、「な=奈、名、南」「ひ・び=火、備」と表音漢字で書かれています。

 万葉仮名は奈良時代以前には厳格に甲類、乙類の音韻で区別して用いられていたとされており、「火、備」は乙類であり、「斐、肥、樋、干、簸」と同類となり、神奈備・神名火と「肥国、肥河(斐伊川)、樋社(斐伊神社)」は同じ語源となります。

 一方、「比、毘、氷、卑、日」は甲類であり、「比売・毘売、比婆山、宇気比(受けひ)、卑弥呼、氷川」などの「ひ・び」は別の語源の可能性があります。

 

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 一方、「むす(産)ひ」の「ひ」は古事記では「日」、日本書紀では「霊」と書かれており、「霊」が万葉仮名なら私の次のような「ひ=霊」説は成立しなくなります。

 

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 そこで「霊」が万葉集で使われている例を検索すると、「霊(たま)振れど」「霊(たま)き春」「御霊(みたま)賜ひて」「言霊(ことたま)」「霊(たま)ちはふ神」「霊母(くすしく)も」「霊(あや)しきもの」「見れども霊(あや)し」であり、全て表意文字の訓読みで「たま」「くす」「あや」で魂と同じ意味で使われており、万葉仮名として使われている例は見あたりませんでした。

 唯一、日本書紀で「霊=ひ」と書かれているのですが同様に訓読みの表意文字で「魂(玉し霊)」として使われていたのです。

 なお、「霊」を漢字分解すると「雨+口×3+巫)」であり、「神降ろしをする巫女が雨を呼び寄せる」という字になります。

 「神」字が「礻(示)+申」で「申」は「日+|」で雷を表し、「示」は「高杯にものを乗せて示す」とされていますから、「天と地を繋ぐ稲妻」となって天神(天の上の祖先霊)が降りてきて人々に示したと考えられます。同じように「雨」もまた天から降りてきて、また、海や川、大地、山から水蒸気となって天に昇ることから、天の祖先霊が下ってくる依り代として考えられていた可能性があり「霊」字になったのではないでしょうか。

 海と川、地下、山を繋ぐものとして蛇やトカゲが神使とされ、「龍神」とされて雨や風の神とされたのは、この水神信仰と天神信仰によるものと考えられます。

 以上、「霊」は表意文字であり、その音の「ひ」は万葉仮名の甲類・乙類と組み合わされて使用されたと考えられます。

 この「霊」の「日」にした古事記作者の太安万侶は、古事記編纂を命じた天武天皇大海人皇子)が雷岳(いかづちのをか)に行幸した時、柿本人麻呂が奉げた歌、「大君は 神にしませば 天雲(あまくも)の 雷の上に いほりせるかも」を知っていたことは間違いなく、「海人(あま)」=「天」として古事記編纂にあたり、人の始祖母神である「神産霊(かみむすひ)」を「神産日」に置き換え、スサノオ大国主一族の八百万神・祖先霊信仰の「霊」を隠し、「天照」信仰の「日」に置き換えたと考えます。

 スサノオ大国主一族の「霊=火」の「神名火山=神那霊山」信仰こそが、旧石器・縄文時代からのドラヴィダ海人・大人族の伝統を受け継いだものです。

 

7.「日の国」史観から「霊の国」史観へ

 私の父の実家は岡山県の30戸の山村の林家ですが、全戸が「ひな」と称しており、江戸中期からの墓には「日向」と彫られ、提灯には「日南」と書き、近くには「日名」「日南」「日向」の地名もあります。明治になり本家であったため「日本(ひなもと)」(日向本を縮めたと思われる)の名字を届けたところ、勝手に「雛元」の名字にされて一族は憤慨していると伝わっており、ずっと気になっていました。

 たまたま2003年に仕事先の青森県東北町で「日本中央」の石碑(12世紀の『袖中抄』には坂之上田村麻呂が書いたとしていますが、文屋綿麻呂であろう)に出会い、さらに八甲田山連峰の一番手前に二等辺三角形の美しい「雛岳」を見つけて以来、「日本(やまと)」から遠く離れ、北東の方角にあたる「夷(ひな)」の地の「日本」は「日(太陽)の本」ではなく、「霊那(ひな)本」の可能性がある、という仮説を思いつきました。

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 その後、記紀を読み始め、大国主命を国譲りさせた「建比良鳥命(古事記)」が日本書紀では「武鳥命・天鳥命・武照命」と書かれ、天日名鳥神社(鳥取市)などに祀られていることから、「ひな」が「夷・日・日名・比良」と表記されることを確かめました。ホームページで調べると、「日向」を「ひな」と読む事例が岡山・広島にいくつも見つかり、もともと「ひな」の地名に「日」一字を宛てていたものを、和銅6年(713年)の「好字二字令」によって「日向」と表記するようになった可能性があると考えるにいたりました。

 さらに、古事記は「群品の祖」である始祖神2霊を、「高御産巣日(たかみむすひ)・神産巣日(かみむすひ)」、日本書紀は「高皇産霊尊神皇産霊尊」と記しており、「日=霊(ひ)」であったことが明らかとなりました。私は最初、「日向=日那(奈)」で「太陽がよく当たる所(那、奈)」という意味で考えていましたが、「霊那(霊奈)」であって「祖先霊が降りてくる所」の可能性がでてきました。

 さらに新井白石・角林文雄氏の「人=霊人」「彦(日子)=霊子」「姫(媛、比売、毘売)=霊女」説に出会い、出雲では妊娠すると「霊(ひ)が留まらしゃった」というと級友の馬庭稔氏から聞き、人は「霊人=霊留」であると確信しました。そこから、『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)をまとめました。

 記紀の「日」は本来は「霊(ひ)」であったのであり、これまでの「太陽神信仰」の記紀解釈や古代史の諸説は大転換を迎えることになります。

 第1は、皇国史観を作り出し、大東亜戦争を導いた本居宣長の「世界を照らす太陽神アマテラス」説の崩壊です。

 「天照大御神(あまてるおおみかみ)」は尊称であり、日本書紀に書かれた本名(各地の神社にもその名前である「大日孁(おおひるめ)」は「大霊留女」であり、「卑弥呼=霊御子」と同じく「霊(ひ)を継ぐ王女」あるいは「女王」であり、祖先霊を祀る「巫女」を表しているのです。唯一・絶対神の、世界をあまねく照らす(支配する)太陽神などではありません。

 第2は、アマテルが天岩屋戸に隠れた(葬られた)時、高天原葦原中国も自ずと闇になったという神話は卑弥呼が死んだときの皆既日食をもとにして作られたという「太陽神アマテラス=卑弥呼説」が成立しないことです。

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  NASAデータによれば240~260年の間に発生した2つの皆既日食は九州も大和も通っておらず、仮に皆既日食であったとしても数秒~数分の間とされており、「常夜」の間、神々が集まり後継者を相談し、鉄鏡を作ったり、勾玉と5百の珠のネックレスを作ったりすることなどできません。

 このような場面は、巨大噴火の何日にもわたる降灰の記憶をもとにしたものであり、アマテラス=卑弥呼=太陽神説は成立しません。ましてや、そのような火山活動がない邪馬台国大和説を否定しています。

 第3は、天皇家皇位継承の「日継・日嗣」は「霊継」、死者を葬る柩・棺は「霊継」になり、イヤナミ(イザナミ)の死体が置かれた黄泉(よみ)の入口の「黄泉比良坂」は「黄泉霊那坂」であり、イヤナミの神霊が運ばれた「比婆山」は「霊場山」で、そこを源流域として出雲・伯耆・吉備三国を流れる「斐伊川日野川比和川」は「霊河・霊の川・霊和川」になります。また、「神籬(ひもろぎ)」は「霊洩木」、「神名火山・神奈備山・甘南備山(かんなびやま)」は「神那霊山」になります。

 記紀などの「ひ(日、火、比、斐、肥、卑など)」は「霊(ひ)」として検討することによって、その意味を合理的に解釈でき、変更すべき点が出てくるのです。

 第4は、記紀に書かれたスサノオ・アマテルらが生まれたとされる「筑紫日向橘小門阿波岐原」の「日向」はずっと後の12代景行天皇が名付けたとされる「日向(ひゅうが)国」の「ひゅうが(ひむか)」読みではなく、「筑紫のひな」と読むべきであり、旧甘木市(甘木=天城)の「蜷城(ひなしろ=ひなぎ)」の地こそが比定地になります。

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 この地は神功皇后が羽白熊鷲王(羽白=羽城=はき=波岐王)を滅ぼし、斉明天皇中大兄皇子が「橘広庭宮」を置いたとされる場所であり、「筑紫日向橘小門阿波岐原」の「日向(ひな)・橘・波岐」の3地名が現在に続いていることからみて、旧甘木市蜷城(ひなしろ)の北にある高台こそが「高天原」の可能性が高いことです。この地に卑弥呼の宮殿があったことは、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)に詳しく書いたとおりです。

 第5は、大国主の娘の高比売が歌った「夷振(ひなぶり)古事記」「夷曲(ひなうた)日本書紀」や万葉集の枕詞の「天離(ざ)かる鄙(ひな)日本書紀:夷)」「鄙(ひな)離かる越」「しな(之奈)ざかる越」について、これまで「ひな」に「夷、鄙」字を当てて「都から遠い田舎」と解釈されてきましたが、位置関係からみて、「天比登都柱(天一柱=壱岐)」「天之狭手依比売(津島=対馬)」などの「天」の付く玄界灘一帯の島々が「天(海人)」であり、そこから対馬暖流を下った「ひな」が出雲になり、さらに下ると「越(今の福井から庄内)」「科(信濃)」になるのです。「天→田舎→越」「信濃→越」では意味不明です。出雲国が「霊那(ひな)国」(霊の国)を名乗っていた時期があったと私は考えています。

 大国主の筑紫妻の鳥耳の2代目の妻には尊称の「日名照」が付き、5代目の妻の名前は「比那良志比売」であり、大国主に国譲りさせ、出雲国造となった「穂日」「天夷鳥命・武日照・建比良鳥」親子からみて、日名=比那=夷=日=比良であり、「筑紫日向(ちくしのひな)」にあったとされる高天原こそが彼らの本拠地であり、大国主の国譲りは筑紫日向(ひな)の妻・鳥耳の御子と出雲の事代主、越・諏訪の建御名方の争いであり、この鳥耳こそが代々襲名していた甘木(天城)の高天原の天照(アマテル)であることを示しています。

 第6は、魏書東夷伝倭人条に書かれた対馬国・一大国・奴国・不弥国の副官の「卑奴母離」(ヒナモリ)や、筑前国の「夷守(ひなもり)駅」(福岡市の日守神社)、日向国の「夷守(ひなもり)駅」(宮崎県小林市)、越後国の「夷守郷」(妙高市の美守(ひだもり))、美濃国の比奈守(ひなもり)神社(岐阜市)などは、辺境(夷・鄙(ひな))の役人や守備隊を指すのではなく、「霊那(霊の国)」を守る各国の高官・武官を指し、「駅」はその役所・駐屯所を指していると見るべきです。対馬国・一大国・奴国・不弥国は辺境などではなく、文明国・後漢に近い先進地なのです。

 第7は、後漢皇帝からの金印が「漢の委奴(ひな)国王」であり、スサノオを指している可能性が出てくることです。「委」は「倭」であり「ワ」と読まれてきましたが、当時の中国の発音では「委」は「ヰ(wi)」に近い発音であり、倭人は「ヒ(fi または pi)」を「委」と表記し、「委奴」=「ひな」であった可能性があることです。なお「委奴国」は「ふぃな国=いな国=稲国」という説も考えており、まだ整理がついておらず迷っているところです。

 以上、天皇中心史観・大和中心史観と「弥生人(中国人・朝鮮人)征服説」の外発的発展史観から離れ、冷静に記紀神話を分析すれば、縄文時代からの霊(ひ)信仰を受け継ぎ、鉄器水利水田稲作を全国に普及させたスサノオ大国主の建国とその宗教・文化の全体像が明らかとなります。

 さらに、DNA起源と倭語起源、農耕起源、霊(ひ・ぴー)信仰起源から解明された「日本列島人(ジャポネシアン)」=「ドラヴィダ系海人・山人起源説」(通称:ドラえもん説)と合わせて検討すれば旧石器2万年・縄文1万年から連続スサノオ大国主建国500年の歴史全体の解明は可能です。

 

8.「ドラヴィダ族」の歴史の解明

 「主語-目的語-動詞」言語(SOV言語)は世界で48%を占め、英語や中国語などの「主語-動詞-目的語」言語(SVO言語)32%より多数を占め、そのうちドラヴィダ語族は2億人を超えるとされ、日本語約1億人(世界9位)をプラスするとドラヴィダ語系は3億人を越えることになり、中国語約14億人、英語約5億人、ヒンズー語・スペイン語各約4億人に次いで、世界5位になります。

 さらに、日本語は中国文化の恩恵を受け「倭音・呉音・漢音」の3重構造で漢字を使用しており、漢字を見れば中国語約14億人と意思疎通が可能です。

 このようなインド・中国両文明の影響を受けながら独自の発展をとげた言語・文化条件を考えるならば、南インドを中心にアジアに散在する「ドラヴィダ語系」の言語・文化・歴史・文明研究において、日本はさらに重要な役割を果たすことが求められます。「縄文文化・社会・歴史研究」と「記紀風土記万葉集の国語・歴史研究」に「照葉樹林帯農業・文化・民俗研究」「海洋交易民のジャポネシア文化」を有効に組み合わせた「共同体文明論」として世界に情報発信すべきと考えます。

 なお、「記紀風土記万葉集」に書かれた倭音倭語の表意文字表音文字の万葉仮名は古代倭語の解明を可能にし、一方、ドラヴィダ語(タミル語はその一部)は南インドスリランカの紀元前6世紀前のブラーフミー文字を起源として研究が進んでおり、その影響を受けた東南アジアの少数民族の言語の解明がさらに進めば、世界の「共同体文明・文化」の解明は大きな転換点を迎えるものと期待しています。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論         http://hinakoku.blog100.fc2.com/