ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート120 吉備津神社と諏訪大社本宮の「七十五神事」

 私のフェイスブックを見て、岡山市の古代史研究家の丸谷憲二さんから連絡をいただき、吉備の物部氏と諏訪の守矢氏との宗教上の繋がりを示す資料や、備前赤坂(現赤磐市)の赤土などからの製鉄再現実験の資料を送っていただきました。

 今回は、氏のレジュメ「吉備津神社 七十五膳据神事の七十五の起源についての考察」をもとに、縄文ノート119・120で明らかにした、記紀、播磨・伊勢国風土記、神社・民間伝承のからの諏訪と伊勢・大和・播磨・備前スサノオ大国主一族の氏族・宗教・製鉄の繋がりについての分析を補強したいと考えます。

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 縄文論から外れるとのお考えもあるとは思いますが、「スサノオ大国主国史から遡って縄文社会・文化・宗教を解明する」=「縄文社会・文化・宗教の延長上にスサノオ大国主建国がある」という私の基本的な縄文解明の方法論の延長上にあります。

 なお、丸谷さんの「製鉄実験」などについては、次々回に紹介したいと考えます。

 

1.守矢氏は狩猟民系か農耕民系か?

  これまでの「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」の「石器→縄文土器弥生土器→古墳」時代区分に対し、私は「石器・土器(縄文)人の内発的・自立的史観」にたち、農耕具・調理具から「石器→土器鍋(縄文土器)→鉄器」時代区分を提案してきました。

 その延長で諏訪の「守矢氏=縄文系、諏訪氏=弥生系=大国主系」説に対し、私は信濃の石器・土器時代の人たちも守矢・八坂・伊勢・諏訪氏も同じ霊(ひ)信仰(魂魄分離の地母神信仰・神名火山(神那霊山)信仰)を受け継ぎ、信濃の地に鉄器水利水田稲作文化を持って吉備スサノオ系の守矢氏、吉備・伊勢スサノオ系の八坂氏、出雲大国主系の建御名方、播磨大国主系の伊勢津彦(大和政権以降)が順に信濃に入り、妻問夫招婚によりこの地に根付いたと考えました。

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 そして「縄文時代=採集漁撈狩猟時代」ではなく、「石器農耕具・黒曜石鏃・落とし穴・石皿(石臼・石すり皿)・縄文土器鍋」の5点セットから、縄文(土器鍋)時代には芋・豆・6穀(ソバ粟稗黍麦陸稲)の「焼畑農耕時代」に入り、鉄器時代になって「水利水田稲作時代」に入ったと考えました。

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2.守矢氏は諏訪土着民か備前赤坂ルーツの物部氏系か?

 守矢氏を諏訪土着の縄文人ではなく、備前赤坂のオロチ王系のスサノオ一族と考えたのは、次の7点からです。

① 古事記が伝える大国主が出雲スサノオ家6代目(代々襲名)の娘のスセリヒメ(須勢理毘売)に妻問いした時に蛇室に寝かせた王位継承の儀式が守矢氏の御室神事に継承されている。―「縄文ノート39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体」参照

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② 守矢氏は祭祀に鉄鐸を使う鉄器部族であり、銅鐸祭祀圏(BC4~AD2世紀:大国主・大物主連合による八百万神信仰により消滅)をルーツとしており、日本最大級の銅鐸の鋳型が備前赤坂の隣の播磨の赤穂(赤生)で発見されている。―「縄文ノート53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」参照

③ スサノオヤマタノオロチ王を切った十拳剣(韓鋤剣)は備前赤坂の石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)物部氏により祀られており、この地は「真金吹く吉備」と歌われた古代赤目砂鉄製鉄の拠点であり、物部氏スサノオ系の製鉄部族であった。

④ 長野県佐久市の山田神社ではヤマタノオロチが白鳥となって飛んできてその魂が乗り移った白青石の蛇石(へびいし)を神体としており、「やまたのおろち」=「山田のおろち」説と「山田神社」名が符合する。―「縄文ノート39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体」参照

⑤ 播磨・丹後・尾張などを拠点とした物部系の天照国照彦天火明の部下に八坂彦がおり、八坂彦(代々襲名の可能性)の娘の八坂刀売(やさかとめ)諏訪大社上社前宮と下社春宮・秋宮に主祭神として祀られており、守矢氏は前宮の祭祀を継承している。古事記がオロチ王について「八岐」(岐:山道で枝状にわかれたもの)の字を当て、「八頭八尾」があり「八谷峡八谷」にわたり、腹は「常に血爛れ」でいたというのは、8つの谷で赤目(あこめ)砂鉄を水に流して選別(鉄穴(かんな)流し)したことを神話的表現で伝えたものであり、「八坂」もこの「八岐」「八谷峡八谷」の製鉄地由来の名前の可能性が高い。

⑥ 大国主の後継者争いで筑紫大国主家のホヒ・ヒナトリ親子に敗れた建御名方は越の母・沼河比売、さらに諏訪スサノオ系の八坂氏一族を頼り、八坂刀売に妻問いしたと考えられる。

⑦ 守屋姓は岡山県に一番多く、蘇我氏に敗れた物部守屋備前をルーツにしていた可能性がある。

⑧ 信濃各地に物部守屋伝承があり、蘇我氏に敗れた物部守屋一族は諏訪物部系の八坂氏を頼って落ち延びた可能性が高い。

 

 なお、美和(三輪)のスサノオの御子の大年の一族が大物主を代々襲名し、スサノオ大物主大神を大神(おおみわ)神社に祀っていることからみて、「大物=大神」から「物=神」になります。物部氏スサノオ大物主大神)がオロチ王女に妻問いした一族と考えられ、大年(大物主)の部下として大和の現在の天理市に移った物部氏は後に大和朝廷の鉄器の生産・管理を行うとともに、備前赤坂の石上布都魂神社のスサノオの剣を天理市石上神宮に移し、スサノオ祭祀を行ったと考えます。

 

3.温羅は吉備のスサノオ物部氏の製鉄王

 備前赤坂(現赤磐市)の石上布都魂神社は備前国一宮でしたが、岡山市北区吉備津(古くは真金(まかね))の吉備中山の北東麓の吉備津彦神社に移されます。さらに美和・大物主の権力を奪った第10代崇神天皇(筆者推定:370年頃即位)の命により、第7代孝霊天皇の第三皇子の彦五十狭芹彦命(ひこいせさりひこ)が温羅を滅ぼした時、温羅から吉備冠者(実際は吉備王であろう)の名前を奪い、彦五十狭芹彦命吉備津彦と名乗り、中山北麓の備中国一宮の吉備津神社に鎮座します。吉備津彦神社と吉備津神社はどちらも現在は天皇一族の吉備津彦を祭神としていますが、私は元々はどちらも温羅一族の物部氏を祀る拠点であったと考えます。

 『古今和歌集』で「真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の音のさやけさ」と歌われたように、この吉備中山は製鉄の拠点であり、金屋子神の「播磨国宍粟郡→吉備中山→伯耆→出雲」ルートの製鉄技術伝播の伝承や、スサノオヤマタノオロチ王を切った十拳剣(韓鋤剣)が備前赤坂の石上布都魂神社に置かれたことからみて、この吉備中山の地もまたスサノオ一族の物部氏の製鉄拠点であったと考えます。―縄文ノート「53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」「119 諏訪への鉄の道」参照

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 なお、吉備津神社から西に直線距離で2.4㎞のところには紀元2世紀後半の楯築(たてつき)墳丘墓があり、さらにその西には全国第4位の巨大前方後方墳の5世紀前半の造山(つくりやま)古墳や7位の5世紀中頃の作山(つくりやま)古墳、備中国分寺などがあり、この足守川(上流に血吸川)一帯が備中の中心地であったことが明らかです。

 楯築墳丘墓(私は古墳と言うべきと考えています)は上に5本の巨石を立てた双方中円墳であり、を整形したものであり、中央部の木槨の中の棺には30㎏以上の朱が敷かれており、鉄と朱生産を行う王墓であったと見られます。

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 そして、この地は吉備津彦に滅ぼされた温羅(吉備冠者)伝説が色濃く残り、その頭は吉備津神社御釜殿の下に埋められ、妻の阿曽媛に神饌を炊かせ、その鳴釜神事は現在に続いています。この温羅退治をもとに室町~江戸時代に「岡山桃太郎」のおとぎ話が作られています(他にも香川県や愛知県、さらには岩手県から沖縄県まで日本各地に桃太郎伝承があります)。

 温羅が捕まったとされる鯉喰神社は楯築墳丘墓から700mほどのところにあり、吉備中山からこのあたりにかけては温羅=吉備物部氏の拠点であり、温羅の血で染まったという血吸川・赤浜はこの地が赤土=赤目(あこめ)砂鉄製鉄の拠点であったことを示しています。温羅の妻の阿曽媛の出身地の血吸川上流の阿曽郷(九州の阿蘇がルーツであろう)からは古代製鉄跡が多数発掘されており、阿曽地 区から血吸川をさらに遡った鬼城山(鬼ノ城は温羅の本拠地)の麓の奥坂には千引カナクロ谷製鉄遺跡(千引=血引であろう)があります。

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 千引カナクロ谷製鉄遺跡は現在のところ6世紀中ごろの日本最古の製鉄遺跡とされています。今後、さらに古い時代の製鉄遺跡が備前赤坂やこの阿曽地区から発見される可能性が高いと私は考えています。

 

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4.吉備津神社「七十五膳据神事」と守矢氏の「七十五鹿頭の御頭祭」「年内七十五度の神事法秘伝」

  前置きが長くなりましたが、丸谷憲二さんからの吉備津神社の「七十五膳据神事」の紹介に入りたいと思います。

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 私事で恐縮ですが、私は小学生になるまで、両親が岡山空襲で焼け出されて疎開していた吉備津神社御釜殿の真裏の借家で育ち、吉備津神社の本殿から御釜殿などへの400m近い急な回廊(県指定文化財)をスケーター(鉄車輪でやかましい)で下っては遊んでいて、父は宮司さんから「すごいことをするなあ」と感心されたというので得意でした。今なら「危険」「文化財を壊す」と大目玉でしょうが、当時は子どもの遊びや冒険を大目にみるというのんびりした時代で、前の宇賀神社の島のある池に落ちたことなどもありました。

 しかしながら、父から聞いた御釜殿には吉備津彦が犬に食わせた温羅の頭蓋骨が埋めてあり、温羅の唸り声が止むことがなかったので鳴釜神事を今も行って祀っているという話は怖く、鳴釜神事の神主の祝詞御釜殿から聞こえて来た時には前から逃げ出していました。

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 この吉備津神社に「七十五膳据神事」があることを先日の丸谷さんのメールのレジュメで初めて知りましたが、「備中国内の諸郷から新穀をはじめとする産物を一宮である吉備津神社に献納し感謝するお祭りと説明されている。300メートルに及ぶ廻廊の端にある御供殿(ごくうでん)から、七十五膳や神饌、神宝類、奉供物を前日までに準備し、それぞれの膳には春は白米、秋は玄米を蒸して円筒形の型にはめて作った御盛相(おもっそう)を中心に鯛や時節の山海の珍味で四隅をはり柳の箸がそえてある」というのです。

 そして「七十五という数について、① 往古の最大吉数八十一の次の吉数である七十五説。② 神座数が七十五あり一膳ずつ献供説。③ 村落数が七十五あり各村々から一膳ずつ献供説 等がある。吉備津神社では、この神事は祭神の温羅を退治し凱旋した時の模様を加味しているとし、村落数説がもっとも有力な説としている」と紹介しています。

 さらに丸谷氏は「諏訪大社の御頭(おんとう)祭の神饌(しんせん)は「75 頭の鹿の頭」であった」「守矢神長家には、一子相伝として「年内神事七十五度の秘法」が伝授されていた」ことに気づきます。

 そして、御杖柱(みつえばしら) =御贄柱(おにえはしら)に御神(おこう)と呼ばれる子供を縛りつけたという神事を『旧約聖書』創世記のアブラハムがひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き神に捧げたを燔柴(はんさい)(火+番+柴で、火に柴を順番に燃やす)の儀式と類似しているとし、『新約聖書』の「ヨセフは使をやって、父ヤコブ七十五人にのぼる親族一同とを招いた」「75 頭の鹿の首の中に必ず一匹だけ耳裂け鹿がいるというのは、角をやぶに掛けている一頭の雄羊を捕え子のかわりに燔祭としてささげた」などの符合がみられることから、イスラエルの失われた十支族の一支族が信濃に渡来してイサク奉献伝承を忘れないために御頭祭を創作したと推測しています。

 しかしながら、羊飼いのユダヤ人がカナン(パレスチナ)を侵略・支配したのは紀元前1200年頃とされ、イスラエル王国が滅び「失われた十部族」が生まれたのは紀元前721年の頃であり、紀元前1万数千年頃からの縄文文化・宗教との共通性を見出すことはできません。

 御頭祭を狩猟民の祭祀とみる説が見られますが、霊(ひ)信仰のわが国においてはアイヌの熊送りの祭りに見られるように動物の魂を天に送り返す儀式はあっても、神に焼肉を捧げる儀式はありません。私は御頭祭は鳥獣害駆除の農耕祭と考えています。―縄文ノート「7 動物変身・擬人化と神使(みさき)、狩猟と肉食」「98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社」参照

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 また「モリヤ」と守屋山・守矢の符合についても、宗教用語すべての符合をドラヴィダ語のようにチェックすべきであり、単なる偶然の一致と考えます。―縄文ノート「37 『神』についての考察」

 イスラエル王国成立・滅亡時期と縄文時代の食い違い、ユダヤ教の唯一絶対神縄文人の霊(ひ)信仰の違い、「動詞―主語―目的語(VSO)型」又は「主語―動詞―目的語(SVO)型」のヘブライ語と「主語―目的語―動詞(SOV)型」の日本語との違いなどから、私は日ユ同祖説は成立しないと考えます。―縄文ノート「38 霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰」「縄文74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」「97 3母音か5母音か?―縄文語考」等参照

 

5.「七十五神事」の起源について

 丸谷氏の「ユダヤ人起源説」には私は同意できませんが、「七十五神事」がアフリカあるいはメソポタミアで始まり、それがイスラエルと日本に別々に伝わり、吉備から諏訪に伝わった可能性はある、と私は考えます。

 私の縄文研究は次女がアフリカのニジェール青年海外協力隊員として行き、鳥浜遺跡や三内丸山遺跡の「ヒョウタンのルーツがニジェール川流域」であり、人類大移動の水筒として「海の道」を通って日本列島に伝わったのではないか、という南方起源説からでした。「人類手ぶら大移動」ではなく、人とともに、物や文化・宗教なども伝わったと考えたからです。

 そして「Y染色体Ⅾ型」「主語-目的語-動詞(SOV)言語」「宗教語・農耕語」「イネ科植物」「粉食」「魚介食」「モチ食・そば食」「黒曜石」「おじぎ文化」「白山信仰(神山天神信仰)」「ヒ(ピー:霊)信仰」「社叢(鎮守の森)」「妊娠女性・女神信仰」「性器信仰」「小正月のホンガ(ポンガ)のカラス行事」「山車とワッショイの掛け声」「龍神(トカゲ龍・龍蛇)信仰」など、私は人類大移動とともにアフリカ・メソポタミア・インダス・インド東南アジア高地などからDNAや言語、農耕、文化、宗教が日本列島に伝わったことを明らかにしており、「七十五神事」もまた同じようにそのルーツがアフリカ・アジアの移動ルート上のどこかにある可能性高いと考えます。

 もちろん、技術・文化・宗教なども「多地域発展」の「偶然の一致」もあるとは思いますが、人類が石槍だけもって世界に拡散したとは考えられず、人類の発展史と同じように「アフリカ単一起源説」でまずは考え、そこから「多地域発展」の部分を引き算すべきと考えます。

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 丸谷氏発見の吉備津神社「七十五膳据神事」と守矢氏の「七十五鹿頭の御頭祭」「年内七十五度の神事法秘伝」の「七十五祭祀」の一致は重要な指摘であり、私が考えて来た諏訪の守矢氏のルーツが備前赤坂のスサノオ物部氏一族という説と符合しますが、さらにそのルーツは世界的な視野で研究する必要があると考えます。

 この「七十五神事」について、吉備と諏訪の地元のみなさんを始め、さらに探究が進むことを期待したいと思います。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/