ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート21(Ⅰ-2) 2019八ヶ岳縄文遺跡見学メモ 

 

 2019年10月30・31日に八ヶ岳周辺の縄文遺跡を見学後に作成したメモです。仕事のついでに群馬県新潟県の縄文関係の博物館・資料館は見ていたのですが、お恥ずかしことに八ヶ岳周辺の施設見学は初めてでした。

 あまりにも初歩的な感想ですが、これまで「スサノオ大国主建国論」「霊(ひ)信仰論」や「日本民族南方起源説」「倭語論」「龍宮=琉球論」など雑誌やブログ、研究会レジュメで書いてきたことが、この八ヶ岳周辺の博物館・資料館の見学でかなり裏付けられ、確信を深めました。

 2020年8月3~5日の縄文社会研究会に向けて修正し、さらに再修正しました。 

                              201207 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388 

 

      Ⅰ-2 2019八ヶ岳縄文遺跡見学メモ 

                           191102→200729→201207 雛元昌弘

はじめに

 原村で大学のOB会があり、いくつかの考古館・遺跡を見て回りましたが、私の縄文知識が古いことを思い知らされました。

 私の古代史との関りは、専門的には「施設立地計画」「建築」「歴史まちづくり」「観光」「市町村総合計画」などで関係し、これまで取り組んできたテーマでは「スサノオ大国主建国論」から「邪馬壹国=筑紫大国主王朝論」に進み、さらに「日本民族起源論(海人(あま)族論)」「言語論(主語・目的語・動詞の言語構造、倭音・呉音・漢音の3層構造、方言北進・東進論、漢字分解による倭流漢字用法)」「宗教論(霊(ひ)信仰の地神・海神・天神信仰論、神名火山(神那霊山)信仰)」「海人族の母系制論」「天皇家の女系ルーツ龍宮(琉球)論」などです。

 かつて関わった愛媛県今治市の「歴史まちづくり」の計画では、教科書のように古代から現代へと検討を進めるのではなく、現代から古代へと遡り、まちづくりへのヒントを探ろうという方法論を提案しましたが、縄文研究においても、スサノオ大国主建国から遡る方法論を考えており、縄文の専門研究者とは異なる視点からの感想をメモしておきたいと思います。 

1.井戸尻考古館 長野県諏訪郡富士見町境7053 TEL 0266(64)2044 小淵沢IC

  石鍬(耕起用・畝立用・除草用)を現在の農機具と対照させ、その用途を推定しているのはオリジナルの素晴らしい分析・展示と思います。「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持(大国主)」の鉄先鋤による「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国(みずほのくに)」の建国を分析し、丸ノミ石器などの石器による竹筏や丸木舟づくりに関心が高い私にとって、この館の石器農具・石器食器具の分析はまさに最先端の展示と感心しました。

 石包丁や石鍬、磨り臼・磨り石を合わせて考えると、この地では4~5000年前頃に「粟(西+米)」「稗(禾(ワ:稲)+甶(頭蓋骨)+寸(手))」「黍(禾(ワ:稲)+人+水)」「麦(麥=來(来)+夂(足))」などのイネ科穀物やソバ(タデ科)の栽培が行われており、縄文農耕が確立していた可能性が高いと考えます。それは温帯ジャポニカの水辺水田栽培が佐賀県唐津市の菜畑遺跡で確認された3000年前頃よりも、1000年も早い時期です。

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 残念なのは、これらの石器農具・食器の展示と合わせて、和食のルーツである縄文食の解明・展示が行われていなかったことです。「阿波・安房」「比叡・日枝」「吉備」「牟岐・妻木・野麦」などの地名が各地にあり、信州はソバの名産地であるにも関わらず、縄文農耕や縄文食の分析・展示が弱いのは残念です。

 「縄文クッキー」などよりも、縄文土器鍋の底にこびりついた「おこげ」の再現実験により、イモや穀類などの煮炊きの土器鍋食にこそ焦点を当てるべきと考えます。

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 また、私は縄文土器文様の意味(象形デザイン説、宗教的シンボル説、文字説など)を前から考え続けてきましたが、「蛇とカエルと月と女性器」に着目している点に、興味を惹かれました。その意欲的な「仮説検証」の試みを高く評価したいと思います。

 ただ、その検証にあたって古代中国に例を求めているのは、短絡的と私は考えます。私は「産霊(むすひ:結び)」の縄文デザイン(後に神社のしめ縄に使われる)こそが一番重要な縄文デザインと考え、石棒、円形石組・立石と合わせて、縄文人の霊(ひ=祖先霊)信仰・女性器信仰のシンボルとして考えてきており、「蛇とカエルと月」には疑問を感じました。さらに、それらを中国由来とするのは、日本民族起源論(主語-目的語-動詞の言語構造と倭音)からみても疑問です。

 特に、3本指の手の人間様のデザインを「カエル」(前4本、後5本)の指としているのは、違和感があります。また「蛇頭」のデザインは「亀頭」で「結び(産す霊(ひ))」の縄文デザイン、石棒、円形石組・立石とセットで考えるべきではと考えます。

 今後、すべての縄文デザインパーツの解釈仮説を出しあい、謎のデザインを解明したいものです。

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 この井戸尻考古館の裏手にある富士見町歴史民俗資料館(同一見学料金)も見逃せません。私はスサノオ大国主一族により、紀元1~2世紀に播磨(明石・赤穂)・吉備(赤坂)の地で「赤目(あこめ)砂鉄製鉄」が行われていたという仮説を立てていますが、この館には赤目砂鉄を含む様々な鉄鉱石が展示してあり、学芸員の問題意識のレベルの高さを感じました。

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 古事記・梁国風土記では鉄を「金」と書いており、近くに金沢という地名があることからみても、この地で「赤目(あこめ)砂鉄製鉄」が行われていた可能性が気になりました。

 この地の縄文文化が衰退に向かったのは、寒冷化によるものか、あるいは縄文焼畑農耕から水稲栽培に適した標高の低い平地部への移住が起こったのかなど、今後の検討課題と考えます。

 

2.中ツ原(なかっぱら)遺跡(中ツ原縄文公園) 長野県茅野市湖東6407-1  

  「仮面の女神」の出土(写真右側の建物位置)で有名ですが、私は中ツ原(なかっぱら)遺跡の8本立柱に特に興味を惹かれました。井戸尻遺跡と同じ4~5000年前頃の遺跡で、現在、あたりは農地・宅地として開けていますが、当時は、うっそうとした森林の中の立柱であった可能性があります。

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 三内丸山遺跡の6本柱は、青森湾の魚や舟を見る見張り台として復元されていますが、真面目で慎重な信州人は見張り台か穀物保存用の高床式建物か、あるいは楼観神殿か分からないということで、ただ長短の2種類の柱を立てたものと思われます。

 もっとも、吉野ヶ里遺跡の楼観のように床があれば屋根があるはずであり、三内丸山遺跡の6本柱見張り台のように屋根がないことはありえず、足して2で割った中途半端な再現としか言いようがありません(好意的に解釈すれば、見る人に疑問を持たせて考えさせよう、ということなのでしょうか)。

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 中途半端ではどっちもどっちですが、有料の観光施設化した三内丸山の6本柱見張り台にはインパクトがあり、「仮説検証」の科学の在り方としても、縄文文化のアピールという点においても有効に機能していると考えます。

 私の一番の関心は、5500~4000年前頃の三内丸山遺跡の6本柱と5000~4000年前頃の中ツ原遺跡の8本柱の施設に関係があるのか、ないのか、さらに、現代に続く諏訪大社御柱や、9本柱の大国主の「天之御舎(あめのみあらか)」「天日隅宮(あめのひすみのみや)」「出雲大社(いずものおおやしろ)」、原の辻・吉野ヶ里遺跡の楼観などと関係があるのかないのかです。

 私は記紀に書かれた始祖女性神の「神産霊(かみむすひ)・神産日(かみむすひ)」から、元々は「日=霊(ひ)」で、「霊人(ひと)」「霊子(ひこ)」「霊女(ひめ)」「霊御子(ひみこ)」「霊留子(ひるこ)」「霊知(ひじり)」の「産霊(むすひ=結び)」の古代史を探求してきており、6本柱と8本柱の建造物は、見張り台、倉庫ではなく、霊信仰の共同体祭祀の宗教的シンボル施設=楼観神殿と考えます。

 他の高床建物の例からみて、倉庫だとするともっと細い材で十分で、このような太い材は必要ありません。見張り台だと1~2人が昇れればよく、昔の火の見櫓のように1本柱・2本柱・3本柱か4本柱で十分です。太い柱の6本、8本の建物となると、その上に大人数が昇ることができる高層高床の高楼であり、多くの人々の共同作業が必要であることからみて、「仮面の女神」とセットになった宗教施設としか考えられません。

 記紀によれば、イヤナギ・スサノオ神話は「地神(地母神)信仰」、山幸彦神話は「海神信仰」であり、大国主が「天神信仰」への宗教改革を行い、出雲大社正面に神産霊ら始祖神5柱を祀った自らの住居を「天日隅宮(あめのひすみのみや)=天霊住宮」と称し、48m(上古には98mという伝承も)の宗教施設を建てさせた、と私は考えています。縄文人が高層高床の宗教施設をどのような宗教思想に基づいて建てたのかについては、まだ検討中です。

 第1の仮説としては、地神(地母神)信仰の縄文人は、母なる大地から生え、長らく生き続けた巨木を神聖視し、巨木の上に祭壇を築き、そのあたり一帯のシンボル宗教施設とした、という可能性です。

 第2の仮説は、御柱は祖先霊が神那霊山(甘南備山、神名火山)から天に昇り、降りてくるという天神信仰から、集落の祭祀場所に大木を立てて依り代(神籬(ひもろぎ=霊漏)としたものであり、この中ツ原(なかっぱら)遺跡の8本柱高層高床の宗教施設は天神信仰の可能性もあります。

 海人(あま)族の糸魚川のヒスイと和田峠・星糞峠などの黒曜石の北海道・東北に及ぶ交易圏から考えて、私は中ツ原遺跡の8本の立柱施設の影響で三内丸山遺跡の6本の立柱施設ができた可能性があると考えます。

 八ヶ岳山麓縄文遺跡のシンボル施設として、中ツ原遺跡の巨木8本柱の高層祭殿の再現を行うべきではないでしょうか? 八ヶ岳の8と中ツ原遺跡の8本柱は単なる偶然でしょうか? 八甲田山の8と三内丸山遺跡の6本柱は合いませんが・・・

 「仮面の女神」については、時代が大きく離れますが、私は卑弥呼の「鬼神信仰」=「鬼道」(わが国は孔子が憧れた道の国であった)との関係を考えます。

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 「鬼」(祖先霊)は「甶(頭蓋骨又は仮面)+人+ム(私)」であり、「仮面をかぶった人」は鬼神=卑巫女(霊巫女)であったと考えます。「卑」字は「甶(頭蓋骨)+寸(手)」で、「鬼」字と同じく、祖先霊を掲げる女性を表しています。

 「姓名」の「姓」が「女+生」であることからみて、中国の周王朝は母系制社会であり、祖先霊(鬼)を継ぐ「霊継(ひつぎ)(棺、柩)」宗教の祭祀は女性の役割であったと考えます。

 

注1:周(姫氏)の諸侯であった「魏(禾(稲)+女+鬼)」は鬼(祖先霊)に女性が禾(稲)を捧げる漢字であり、魏の曹操は「われは文王、姫昌(きしょう)たらん」と述べ、孔子が理想とした周王朝を再建したい、という「志」を持っていました。これに対して、「委奴国」は「禾(稲)+女+女+又(手)」の国名で、「倭国」は「人+禾(稲)+女」の国名で、女性が稲を捧げる人の国でした。

孔子が述べた「男尊女卑」の、「尊」字は「酋(酒樽)+寸(手)」、「卑」字は「甶(頭蓋骨・仮面)+寸(手)」で、女は祖先霊が宿る頭蓋骨を手で支え、男はそれに酒を捧げるという意味であり、「男は尊い、女は卑しい」というのは後世の儒家の歪曲です。

注2:子が親と似ていることから、古代人は霊(ひ)が受け継がれると考えたのだと思います。古代人はDNAの働きを霊継(ひつぎ)と考えたのです。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』では、「人は遺伝子の乗り物」と表現していますが、「霊人(ひと)」はまさにその遺伝子の役割を示した言葉です。

注3:「姓」が「女+生」であることや、孔子の「男尊女卑」の「卑=甶(頭蓋骨)+寸」、「尊=酋(酒樽)+寸」であり、「女が掲げる頭蓋骨に男は酒を捧げる」という宗教上の役割分担を表しており、周時代の中国は母系制であった可能性が高いと考えます。

注4:ちなみに「ほとけ」(仏=人+ム)は、倭語では「ほと+け」で「女性器の化身」であり、倭人の性器信仰に仏教が合わせたと考えられます。

 

3.茅野市尖石縄文考古館  長野県茅野市豊平4734-132  0266-76-2270

 ① 茅野市尖石縄文考古館は「縄文のビーナス(棚畑遺跡)」「仮面の女神(中ツ原)遺跡」だけでなく、様々なデザインの縄文土器土偶、ヒスイペンダント・耳飾り、石棒、黒曜石道具、ベンガラなどの展示とともに、土器・土偶・織物など様々な体験施設をもうけた、素晴らしい総合的な施設です。

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 展示としては、土器・黒曜石・ヒスイを通した中国地方や関東甲信地方との交易を意識している点が注目されます。

 ただ、多様な素晴らしいデザインで、謎の多い縄文土器と、「縄文のビーナス」「仮面のビーナス」などの豊富な遺物の展示に力が入り、縄文人の生活や社会、文化(宗教)についての言及が弱いのが残念でした。

 縄文人の産業・生活・文化(宗教)がどう現代とつながっているのか、という問題意識での展示が必要と感じます。例えば、「肉食が脳の巨大化をもたらした」「私有財産の集中による国家形成が文明を発展させた」「戦争が人類を発展させた」という文明観に対し、「糖質が脳の活動を促した」「文化の伝承が人類を発展させた」「長寿化による祖父母から孫への教育が人類を発展させた」「交易と交流が文明を発展させた」という文明観との間で論争が行われていますが、その論争に問題提起するような役割が期待されます。

 この地域は、「星降る中部高地の縄文世界」として日本遺産に登録され、本館はその中でも重要な役割を担っていると考えますが、「世界遺産登録」を狙ったレベルの展示になっていないという点で、物足りなさを感じました。例えば、土器の広域的な繋がりが示されていても、それが共通の祭祀に基づくのか、妻問婚の贈物なのか、職人の移動を示すのか、土器に入れた物(例えば塩や塩蔵品)の運搬を示すのかなど、縄文人の生活や交易、宗教、文化など考えさせる展示になっていません。

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 三内丸山遺跡の展示は、日本全体の縄文史の中で三内丸山を位置づけようとしているという印象を受けましたが、本館においても、今後、さらに全国の縄文研究や世界の旧石器文明と日本の縄文土器文明の対比などに視野を広げた展示が必要と思いました。

 「和食」が世界遺産になっている現在、「縄文農耕」や「縄文食」に言及していない展示は、物足りなさを感じました(井戸尻考古館も縄文農具の展示を行っていましたが、縄文食への取り組みが見られませんでした)。土器・土偶などの豊富な出土品に圧倒され、縄文社会・文化の解明に向けての分析が弱いのは残念でした。

 ただ、本館で行われた縄文ゼミナールの講演記録の『文様解読から見える縄文人の心』(武居幸重著)は私にとっては実に興味深い内容でした。昔、縄文文様の研究をされている大谷幸市氏から相談を受けたこともあり、縄文文様の解読という知的冒険に挑まれた武居幸重氏には敬意を表したいと思います。

 人体交合、大山椒魚穀物、母娘唐草、父息子畑作、生誕祝祭(人の嬰児と蛙の重想)、月日、蛇・蛙・カマキリなどの文様の抽出と氏の直感的な解釈については、今後、私が追求してきた霊(ひ)信仰論から検討を行っていきたいと考えます。

 なお、氏は壊された土偶を女神像としていますが、私は大地(土)に帰った祖先神の霊(ひ)が宿る安産のお守りであり、子供に霊(ひ)が移って無事に生まれたときに壊された、と考えています。「仮面の女神」と壊された妊娠土偶とは明らかに異なります。

 氏は縄文人の精神構造を「万物宿霊観」(自然崇拝)としていますが、私は霊(ひ)信仰の八百万神信仰のルーツと考えています。大国主の八百万神信仰は死者が神=霊(ひ)となるという霊(ひ)信仰(祖先霊信仰)であり、自然信仰やアニミズム(精霊信仰)とは区別して論じる必要があると考えます。私も「生類の霊(ひ)信仰」と考えていますが、その中心は「霊人(ひと)の霊継(ひつぎ)信仰(命のリレー)」と考えています。

 私は「旧石器時代縄文時代弥生時代古墳時代」という「石・土器・土器・墓」という石土文明論の時代区分を批判し、「石器―土器―鉄器」の時代区分に変えるべきと主張してきていますが、「縄文」には「産霊(むすひ=結び)」という特別の宗教的な意味があると考えており、単なる「土器」ではなく命を繋ぐ煮炊き・蒸し料理器具の「縄文土器鍋」とすべきと考えており、縄文土器の文様論においては、「縄文」の解釈からスタートする必要があると考えています。

 私は「倭音―呉音―漢音」の3層構造の漢字利用(例えば、「日」は倭音では「ひ」、呉音では「ニチ」、漢音では「ジツ」)からみて、3万年旧石器人に続く1万年縄文人の言語は倭音倭であったと考えています。呉音・漢音を受け入れながら、中国・東南アジアの「主語-動詞-目的語」構造とは異なるドラヴィダ語系の「主語-目的語―動詞」の言語構造を維持し、インドネシアやフィリピン・台湾のような「多DNA・多言語・多文化」ではなく、活発に交流・交易・移住・婚姻を行い、「多DNA・単一言語・単一文化」の社会を縄文人は作り上げたと考えており、そのシンボルが「縄文」という「産霊(むすひ=結び)」の共通文化であると考えます。

 縄文土器の文様分析においては、形の類推から「蛇とカエルと月と女性器」のように、「動物と月と人」を並列的に考えるのではなく、まずは「縄文」デザインの意味の解明からスタートすべきと考えています。

 世界遺産登録を目指すなら、既存の博物館のリニューアルとともに、原村には縄文博物館がまだないことから、縄文社会・文化を明らかにする世界遺産登録運動の拠点となる博物館として整備することも考えられます。「縄文農耕と縄文土器鍋食」「母系制の妻問夫招婚」などの新たな切り口からの博物館づくりです。

 

4. 黒耀石体験ミュージアム(星糞峠黒曜石原産地遺跡) 長野県小県郡長和町大門3670-3

① カーナビで長和町中心部にあった旧施設に行ってしまい、引き返して閉館時間になった駆け込みでしたが、学芸員のご好意で終業時間まで見せてもらうことができました。じっくりと見ることはできませんでしたが、黒曜石の採掘から流通まで、全体が網羅されていました。縄文人を広域交易民として位置付けている点は素晴らしいと思います。

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 ただ、日本各地の黒曜石の産地・流通の全体像が展示されていなかったのは残念です。隠岐の黒曜石はシベリア沿岸に運ばれており、対馬暖流に乗った海人族の活動全体が明らかにされるべきと考えます。

 世界の黒曜石産地は紹介されており、長和町広報から「世界遺産登録」を目指している志の高さが分かったのは大きな収穫でした。

 長野県南牧村群馬県片品村の仕事をした際に、普通の畑から石鏃が見つかり、落とし穴が発見されることから、私は「縄文農耕」が行われて、そこに餌を求めてやってくる猪や鹿、鳥などを狩猟した待伏せ猟を行っていたのではないか、と考えていましたが、黒曜石の矢じりがどのような狩猟に使われたのか、追跡猟か待伏せ猟かの分析・展示は行われていませんでした。

 縄文研究は「物」の研究は進んでいるものの、縄文人の産業・生活や文化を明らかにする総合的な解明と展示はまだまだ、という印象を受けました。特に、膨大な黒曜石は他地域の何と交易されていたのか、の展示は見られませんでした。

 世界遺産登録を目指すなら、黒曜石の採掘・加工・流通だけでなく、それが縄文農耕や狩猟、地域分業などとどう関わるかを含め、縄文社会・文化全体の解明に向けた取り組みとする必要があると考えます。

 ユダヤ・キリスト・イスラム教は一神教世界宗教として世界に影響を与え、八百万神の祖先霊信仰や自然宗教などは未開文明に位置付けられていますが、気候変動と格差社会化が進む中で、人間中心主義の一神教文明は限界を迎え、宗教戦争に進む危険性をはらんでいます。

 また「文明」の本来の意味はギリシア文明からきた「シビライゼーション」=「市民社会化」であり、古代専制国家文明や一神教文明ではなく、海洋交易民の多神教の母系制社会の共同体社会の発展としての「市民社会文明」として現代に繋げるべきと考えています。

 このような現代的な課題に対し、健康長寿食の和食や妻問夫招婚の母系制社会の縄文社会・文化は世界にインパクトを与えることができ、世界遺産登録の価値があると考えます。 

5.諏訪大社 上社本宮 諏訪市中洲宮山1 0266-52-1919 

  4世紀あるいは8世紀の「天皇家建国説」に対して1・2世紀からの「スサノオ大国主建国論」に取り組んできた私にとって、大国主と奴奈川姫の子である建御名方を祀る諏訪大社は、姫川のヒスイと御柱祭とともに、強い関心がありました。

 大国主は「島の埼々、磯ごと」に「若草の妻」を求めて妻問を行い、180人の御子を百余国でもうけ、神在月(神無月)に出雲大社に御子たちを集めて「縁結び」を行い、八百万神信仰の国づくりを行いました。

 その後継者争いで、建御名方は筑紫で大国主記紀はアマテルに改ざん)が鳥耳との間にもうけた穂日(ほひ)・日名鳥(ひなとり:夷鳥(ひなとり)・比良鳥(ひらとり)・日照(ひなてる))親子に敗れ、姫川から「ヒスイの道」を通って諏訪の地に逃れたと考えますが、この諏訪大社上社本宮はその歴史を裏付ける風格のある古社でした。

 この神社の四隅に建てられた御柱が、縄文時代の中ツ原(なかっぱら)遺跡の立柱施設の流れを受けたものか、スサノオを祀る牛頭天王社総本宮の姫路の広峯神社御柱祭りや、大国主天神信仰のシンボルである「天日隅宮(あめのひすみのみや:天霊住宮)」や「神籬(ひもろぎ:=霊漏木)」を受け継いだものなのか、さらに県内の伝承などを確かめたいと思います。

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 6.まとめ 

 米・粟・稗・黍・麦・ソバなどの縄文6穀農耕と縄文土器鍋による煮炊き料理について確信を持てたこと、中ツ原(なかっぱら)遺跡の8本立柱施設と三内丸山の6本立柱施設は共通の宗教施設「高楼神殿」の可能性があること、縄文土器デザインの謎解きが取り組まれていること、縄文人を広域交易民としてとらえていたこと、世界遺産登録を追及している町(長和町)と博物館があったこと、などが今回の見学の大きな成果でした。

 駆け足での見学であったため、見落としがあったかもしれませんが、海洋交易・広域分業の海人(あま)族の活動、縄文農耕や健康長寿の縄文土器鍋食、霊(ひ)信仰、妻問夫招婚の母系制社会など世界遺産としての文化的価値が十分に認識されていないこと、展示・再現施設が世界的な歴史文化観光として位置づけられていない点など、今後の課題を感じました。 

□参考原稿□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(『季刊 日本主義』26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(『季刊 日本主義』31号)

 2016秋「建国史からみた象徴天皇制と戦後憲法」(『季刊 日本主義』35号)

 2016冬「古代ー現代を通底する『和』と『戦』の論理(『季刊 日本主義』36号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2017冬「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018春「スサノオ大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(季刊日本主義43号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団          http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論      http://hinakoku.blog100.fc2.com/