ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート13 妻問夫招婚の母系制社会1万年

   この小論は2014年8月のレジュメ「『縄文日本の会』での意見へのメモ―7.古代史に見られる民衆レベルの母系制社会について」と、2018年12月に書いたレジュメ「妻問夫招・夜這いの『縄文1万年』」を合体し、一部、言語論、土器(縄文)時代農耕論などを加筆しました。
 なおその後、「石器―土器―鉄器」時代区分を提案するようになり、「縄文時代」と書いていた部分を「土器(縄文)時代」と置き換えています。 雛元昌弘

 

1.海人族の土器(縄文)社会の均一性

 土器文化(土器鍋として使う縄文式土器)と煮炊き・蒸し食、竪穴式住居、言語、宗教(土偶・石棒・ストーンサークル)などからみて、1万年6千年前からの土器(縄文)社会はかなり均質であったと考えられます。
 私は2000年に「ひな(日、日向、日南、鄙、委奴、伊那)」の研究を始めた時から、台湾の卑南族(現地ではピュマ、漢語読みではヒナ・ピナ)族に関心を持ってきましたが、台湾の山岳部や東部に住む原住民は12以上の「族群」に分かれ、文化・言語を別にし、それぞれ勇敢で戦闘的であり、独立性を保っていたことに興味を惹かれていました。
 これに対して、わが国は南方・北方系に中国・朝鮮から多様なDNAの人々を受け入れながら、アイヌ以外に多様な原住民は存在せず、土器(縄文)時代の文化などの均一性という点で大きな違いがあり、その差をどう理解すればいいか考え続けてきました。琉球薩摩藩の信仰まで独立国であり、言葉もかなり違いますが言語学的には同一言語とされています。
 土器(縄文)社会は多様なDNAの人々から構成されながらも、なぜ均一な言語・文化社会となったかについては次の4つの理由が考えられます。
 第1は、海人族の活発な交流・交易が考えられます。平野部や山間部に定住する狩猟採取民、焼き畑農耕民であれば、各地にそれぞれ固有の文化が色濃く残ります。インドネシア・フィリピン・台湾と較べた違いではないでしょうか。インドネシア・フィリピン・台湾などとと同じ海人族・母系制社会でありながら多民族・多部族国にならなかったのは、好奇心が旺盛で、双方向に活発な交流・交易を好む民族性があった可能性が高いと考えます。装飾用の貝や黒曜石、ヒスイなどの流通や土器様式の伝搬、後の紀元前後の漢や辰韓(後の新羅)などとの外交・交易がその証拠です。
 第2は、海人族の妻問・夫招婚の開かれた母系制社会が、均一な文化社会を生み出したと考えられます。好奇心・冒険心に富み、移動性のある海人族男性が各地の母系制部族と交流・交易によって文化を均一化させた可能性です。土地に縛られた閉鎖的な父系制社会だと固有の部族文化が残る可能性が高いと考えます。
 第3は、海に囲まれた日本列島への漂着者・避難民が少数の単身男性か家族であり、部族・民族単位の移住ではなかったため、多民族・多部族国にならなかった可能性です。1万年の間、毎年10人の男性が漂着すれば10万人になります。弥生人征服説をとる必要はありません。
 台湾では東海岸にはいくつもの原住民の少数民族がいる一方、中国大陸側の西海岸では福建省南部から台湾海峡を流れる黒潮を越えてやってきた男性単身者が多く、平野部の「平埔(へいほ)族」と混血し、文化的に融合して「ホーロー人」と呼ばれ、「ホーロー語」が台湾では多数派を占めているとされています。家族・部族単位の移住ではなく、男子が少しずつ日本列島に移住し、妻問・夫招婚を繰り返すと、「ホーロー人」と同じように言語・文化を共通にするようになり、さらに活発に交流・交易を重ね、「土器(縄文)人」という言語・文化を同じくする社会が成立したと考えられます。
 第4は、土器鍋の発明により、早期に芋・豆・雑穀・堅果や野菜、茸、魚介や肉などの豊富で健康的な食生活を確保でき、活発な知的活動を促すとともに、多産による交流・交易・通婚圏の拡大、長寿化による祖父母から孫への教育の充実などが活発な文化交流、吸収・発展を実現し、共通の土器(縄文)社会を作ったと考えられます。
これまで、縄文式土器から1万年の縄文時代が考えられてきましたが、「縄文」という共通デザインの土器文化があったわけではなく、「土器鍋」という旧石器時代にはない、また世界独自の共通の食生活文化こそ、その歴史的発展段階ととらえるべきと考えます。
 カヌーやヨットでの日本一周の航海記を読むと、琉球から日本海にかけては北上する対馬暖流(琉球暖流と呼ぶべきと考えます)があり、沿岸部には南下する反流があって、夏には風がなく航行が容易であるという特殊条件が日本海にはあります。さらに、春から夏にかけては「南風(しろばえ)」が吹いて琉球から九州への渡海を容易にし、秋から冬の大陸からの北西風は九州から琉球朝鮮半島から日本列島への渡海を容易にします。
 この恵まれた海流・気象条件のもとで、交流(移住・婚姻を含む)・交易の活発な「多DNA・文化共同体」の1万年の土器(縄文)社会、土鍋食文化の文明社会が成立したと考えます。

2.母系制社会の妻問夫招婚

 最近ではネットで台湾の少数民族についても情報がえらえれるようになってきましたので、そのうちの卑南族についてメモしておきます。
 卑南族の言語は「主語―動詞―目的語」構造でわが国の「主語―目的語―動詞」構造言語とは異なりますが、「原住民の祭礼・祭祀に欠かせない祖霊部屋は巫女信仰のアニミズム」「豊年祭-粟の収穫を祈願する祭祀;収穫祭-粟の収穫を感謝する祭祀;大狩猟祭」「祖霊部屋(巫師部屋)、少年会所、青年(男子)会所」「頭目制度と男子会所による年齢階級組織が混在した母系社会」(ホームページ:沖縄写真通信)はわが国の縄文社会解明のヒントになると考えます。

   祖霊部屋(巫師部屋):三人の巫女に祈る聖なる場所(沖縄写真通信より)

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  『季刊日本主義』43号(181225)の「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(原題「未来を照らす海人(あま)族の『海洋交易民文明』―『農耕民史観』『遊牧民史観』から、『海洋交易民史観』へ」)において、私は「生活手段母系、生産手段父系」の母父系社会説を提案しましたが、卑南族では祖先霊(鬼)を祀り家を継承するのは女性であり、男性は食糧生産などに従事する組織を持っていたのです。
 漢字の「姓」が「女+生」であることや、周王朝が「姫(女+臣)」であることや、その一族の魏が「女+禾+鬼」で「女性が鬼神(祖先霊)に禾(わ:稲)を捧げる」という字であることからみて、中国も春秋・戦国時代を経て男系社会になる前は女系性社会であったと考えられます。わが国もまた卑弥呼(霊御子=霊巫女)の邪馬壹国など、各地に鬼道の女王国があり、母系制社会という点では卑南族と共通しているのです。
 片倉佳史著の『観光コースではない台湾』には、台湾には成人になると女子は家を建ててもらい、男を迎えるという「族群」があると書かれています。「『ケタガラン』とは、かつて台北盆地に住んでいた人々のことで、平埔(へいほ)族の1部族である」「彼らはマレー・ポリネシア系の南方アジア人種で、血統的には他の先住民族と同系であった」「ケタガラン族が母系制社会だったことである。特に結婚の風習が独特だった。彼らは娘が年頃を迎えると小屋を与える習慣があったという。そして、祭事の時など、女は気に入った相手にめぐり逢うと、男の手を引いて自分の小屋へ迎え入れたのだという。これが求婚となる」というのです。
 同じように、魏書東夷伝高句麗条でも「その風俗では、婚姻する時、話が決まると、女の家では母屋の後ろに小屋を作る。これを壻屋と言っている。婿は日が暮れると娘の家へ行き、戸外で名を名乗り、跪いて拝み、娘と一緒に泊まらせてくれるように頼む。これを再三くりかえす。娘の父母はこれを聞き入れて、小屋の中に泊まらせる。かたわらに銭と布地を積む。生まれた子が成長してから、妻を連れて家に帰る」と書かれており、「妻問・夫招婚」であったと考えられます。

3.記紀などに見られる母系制社会と妻問夫招婚

 古事記は、イヤナギ(伊邪那岐:通説はイザナギ)はイヤナミ(伊邪那美:通説はイザナギ)とともに天降ったとされていますが、「天の御柱」を廻わり、イヤナギが先に「あなにやし、えをとこ」(あれまあ、いい男)言ってセックスして水蛭子(ひるこ)がうまれたとしています。これは夫婦の会話というより、対馬壱岐から対馬暖流を下って出雲の揖屋のイヤナミのもとにやってきた時、二人が出会い、イヤナミがイヤナギを誘ってセックスしたという会話です。その結果、障がい者が生まれたので葦船に入れて流し、今度はイヤナギが先に「あなにやし、えをとめ」と言ってセックスし、大八島を生んだとされています。
 この神話は母系制社会から父系制社会に変わった後に、女性主導のセックスは悪く、男性主導がいいと教えたものであり、後のスサノオとアマテルの子づくり競争で、スサノオの子の宗像3女神ではなく、アマテルの生んだ5王子を高天原の後継王とする神話とも符合しています。
 イヤナギの死後、スサノオは筑紫に移り、アマテルや月読、綿津見3兄弟、筒之男3兄弟など26神を生み、大国主が越の沼河比売に婚(よば)いし、「島の埼埼」「磯の埼」に「若草の妻持ち」、180人の御子をもうけたのも、同じように母系制社会の妻問夫招婚を示しています。
 筑紫の高天原から薩摩半島南西端の笠沙(かささ)の阿多に天降ったニニギが阿多都比売をみそめてセックスし、「一宿に妊める。これ我が子には非じ、必ず国つ神の子ならむ」(この子は海幸彦)と疑う話や、ワカミケヌ(後に神武天皇命名)の死後、阿多の阿比良比売の子のタギシミミは父の嫡后(おおきさき)のイスケヨリ比売を妻としますが、これらもまた母系制社会を示す挿話のように思えます。
 魏書東夷伝倭人条には「其会同坐起、父子男女無別」(その会同で座起するのに、父子男女の区別はない)としており、家父長制ではなく、母系制社会であったことを示しています。また、出雲国風土記の意宇郡忌部の神戸では「出湯のある所、海陸を兼ねている。よりて、男女老少、・・・日に集い市を成し、さかりに燕楽(うたげ)す」とし、島根郡の「邑美の冷水」でも「男女老少、時々に叢集いて、常に燕会(うたげ)する」としており、「老若男女」が平等な母系制社会であったことを示しています。
 これらは紀元1世紀の古事記神話や3世紀の魏書東夷伝倭人条、8世紀の出雲国風土記の記述ですが、土器(縄文)時代の妊婦の土偶地母神信仰を示す円形石組・立柱などからみて、土器(縄文)時代からの続く母系制社会の妻問夫招婚を示しています。 
 そして海人族のスサノオ大国主の建国は、4大文明の古代専制国家型の領土争奪の征服戦争によるのではなく、土器(縄文)時代1万年の伝統をふまえ、米鉄交易と妻問夫招婚、八百万神信仰(鬼道)による百余国の建国を成し遂げたと考えます。 


4.「土器(縄文)時代農耕」による定住生活と移動性

 私は現役時代には全国各地の市町村総合計画(5年の基本計画、10年の基本構想)などの策定支援に携わってきましたが、その時、まちづくり・村おこしの地域資源として歴史文化の調査は欠かせませんでした。その時に疑問に思ったのは、長野や群馬などの高原・山間部の畑で黒曜石などの鏃が畑から数多く出てくることと、全国各地でニュータウンや工業団地開発の適地と考えた河川沿いの高台では必ずのように土器(縄文)時代の居住跡があり、どれだけの人々が住んでいたのか、驚かされたことです。
 単に野原や山で猪や鹿を追ったのなら、鏃の分布はもっと拡散して目立たないはずです。今の畑から数多く発見されるということは、当時すでに粟や稗、黍などの雑穀の栽培が行われており、猪や鹿、鳥などの獣害・鳥害を防ぐために、畑の場所で集中的に矢を射て狩りを行ったからではないか、と考えるようになりました。
 気付いたきっかけは、対馬や仕事先の岡山県井原市で鳥害を避けるために畑を金網で全面的に四角く覆っているのを見たことによります。

 

         鳥害・獣害よけの金網で囲った畑(岡山県井原市芳井町

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  思い出されるのは、今から70年近く前、山村の父の実家で囲炉裏を囲んで獣害が話題となった時、祖父が「そろそろ猟師に使いを出せや」と叔父に害獣駆逐を指示していたことです。猟師(山人:やまと)がいないと山村での農業は成立しなかったのです。ニニギが天降りしたとされる薩摩半島の西南端、いまの南さつま市の仕事では「海には亀(天然記念物)が来るし、山には猿や猪がでてくるし、何もできん」との嘆き節が聞かれましたが、それは全国各地の農山村で同じでした。
 また全国各地の仕事先の市町村で見た土器(縄文)人の居住跡の多さについては、①世代代わりとともに移住した、②病気が発生すると住み替えた、③狩猟・採取のフィールド確保のために世帯分離を行った、④焼き畑農業のために移住を繰り返した、⑤芋や豆、雑穀、木の実などの栽培が始まり、豊かな安定した煮炊き食により長寿化が進み、多産となって世帯分離が増えたなどにより、住居址が分散して数多く増えた可能性はあります。
 すでに豆の栽培は土器に残された穀物の痕跡などから考古学的に証明されており、雑穀の栽培についても、石鍬や石包丁や石臼の利用目的から考えてその可能性は高く、「農耕は弥生から」という思い込みから脱する時期と考えます。

 

        石鍬(長野県富士見町の井戸尻遺跡:井戸尻考古館) 

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              穀物の穂を収穫する石包丁(前同)

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             精穀用の石臼(前同)                 

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 さらに、次のような記紀アマミキヨの五穀伝承や五穀の「倭音(和音)」、さらに吉備国(黍の国)、阿波国(粟の国)、比叡山(稗の山)などの国名・地名からみても、水稲栽培の前に、陸稲とともに五穀の栽培が行われていた可能性が高いと考えます。土器鍋の世界に先駆けての開発は、栗やドングリを食用にしただけではなく、五穀栽培・食用の可能性が高いこと示しています。
 土器(縄文)時代農業と土器鍋食のワンセットの本格的な研究が求められます。

 

「倭音(和音)」と記紀琉球伝承などからみた土器(縄文)時代からの五穀栽培

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5.土器(縄文)時代からの「日本列島文明」論の提案

 以上、「海人族の土器(縄文)社会の均一性」「母系制社会の妻問夫招婚」「「土器(縄文)時代農耕による定住生活」と、今回は触れませんでしたが「霊(ひ)信仰」論を加えると、私は世界史の中で「日本列島文明」の主張が成立すると考えます。
 「縄文社会」を一国的な視点でとらえるのではなく、世界史の中での特徴的な「日本列島文明」として把握し、世界遺産登録運動すべきと考えます。