ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

170 スサノオ・大国主建国論からの妻問夫招婚の母系制社会論

 妻問夫招婚の縄文母系制社会論について、私は記紀風土記に書かれた大和朝廷に先立つスサノオ大国主一族の建国から出発しました。

 まず、その経過を振り返りながら、縄文母系制社会の妻問夫招婚がスサノオ大国主の百余国の「委奴国」から大和朝廷さらには鎌倉時代まで続いていることを明らかにしたいと思います。

 

1.スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』より

スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院)や「『古事記』が指し示すスサノオ大国主建国王朝」(『季刊 日本主義』18号2012年6月)などにおいて、スサノオ大国主7代の建国について、特に大国主古事記に書かれたように「島の埼々、磯ごとの若草の妻」を持ち、180人の御子をもうけたのは母系制社会の妻問夫招婚によるものであることを明らかにしました。ここでは、前者から引用します(茶色字)。 

        

「鬼(霊(ひ)、魂)」を祀った卑弥呼

 この「霊巫女(ひみこ)」が祀った祖先の霊(ひ)とは、いったい誰の霊(ひ)であろうか?それは、三〇国を含む百余国の偉大な王の霊(ひ)、三十国の王の共通の祖先の王の霊(ひ)でなければならない。

 記紀の記載からみて、卑弥呼の「鬼道」は、妻問い婚で百余国に一八〇人の御子(みこ)・(御子人(みこと)=命(みこと))を設けたとされる大国主神の霊(ひ)を祀る宗教であったことが明らかとなる。

 

須佐之男大神の光武帝への遣使

 記紀や神社伝承などによれば、須佐之男(すさのお)大神※1は、八嶋士奴美(やしまじぬみ)神―布波能母遲久奴須奴(ふわのもぢくぬすぬ)神―深淵之水夜禮花(ふかぶちのみずやれはな)神―淤美豆奴(おみづぬ)神―天之冬衣(あめのふゆぎぬ)神―大国主神と続く出雲の子孫を残しながら、子の大歳(おおとし)神と吉備―讃岐―大和へと移動し、子の五十猛(いたける)神とは筑紫―播磨―紀伊へと移動している。 ※1 出雲のスサノオの子孫は代々、スサノオを襲名

 土地を守り、王都から周辺に国土を拡張していく農耕部族国家では、このような行動は理解できない。しかし、「船に乗り南北に市糴(してき)」し、各地で妻問婚を行う交易部族であるとすると、須佐之男大神の行動は理解できる。各地でその国の王※2と婚姻関係を結びながら交易拠点の国(環濠に囲まれた城(き))を築き、稲作を広めながら勢力を拡大していったと考えられる。 ※2 王=王女

 農耕部族の国では、光武帝の金印はその王都に置かれたであろう。しかし、交易部族の須佐之男大神にとっては、後漢との交易・外交に便利な交易・外交拠点※3の後継王に金印を託して置く、これが妥当な行動であったと考えられる。 ※3 筑紫の御子の綿津見(わたつみ)3兄弟の拠点である志賀島

 

大国主神八千矛神)の妻問い

 古事記によれば、大国主神は稲羽(因幡)の八上比売(やがみひめ)須佐之男大神※3の娘の須勢理毘売(すせりひめ)、越国の沼河比売(ぬなかわひめ)、宗像の多紀理毘売(たきりひめ)神屋楯比売(かみやたてひめ)、鳥耳神(とりみみかみ)須佐之男大神の子の八嶋士奴美(やしまじぬみ)神の娘※4)と結婚し、五人の子どもを設けている。一方、別の所では「僕が子等、百八十神」としている。※3 スサノオは代々襲名※4 記紀ではこの鳥耳神(天照大御神)は、大国主の後継者争いにおいてその御子の菩比(ほひ)(穂日)に国譲りさせた。

 古事記には越の沼河比売を訪ねて門前で歌を交わし、婚(よば)いした時の様子が記載されているが、同じように大国主神は各国の王女を訪ね、一八〇人の王子・王女をもうけたと考えられる。各国の王家※5と婚姻関係を結び、それぞれ一~二人の子どもをもうけたとすると、「百余国」を統一した王の姿が浮かびあがる。※5 女王家

 

少彦名命の死と大物主大神との協力(銅槍圏と銅鐸圏の統一)

 この須佐之男大神~大国主神の国づくりの方法は、武力制圧というよりは、古事記播磨国風土記に描かれているように、交易と稲作の普及、霊(ひ)信仰の宗教、妻問による政略結婚、神集い(後の参勤交替のルーツ)などによったと考えられる。・・・

 ④ 大国主神の各国への妻問い婚と、そこで設けた王子・王女を出雲に集め、結婚させる「縁結び」(神前結婚)

 

2 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)より

 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)でスサノオ大国主一族の妻問夫招婚による建国について書いた部分は次(茶色字)のとおりです。

 なお、ボク(歴史文化財学芸員)、ヒメ(推理小説家)、カントク(映画監督)、長老(大学教授)、マル(まちづくりコンサルタント)、ホビット(トレジャーハンター)、ひな(大学院生)の7人のネットミーティング形式です。

            

海人族の妻問夫招婚

  • ひな

 対馬壱岐を拠点とした海人(あま)族は、倭人条に書かれているように「南北に市糴(してき)」した海洋交易部族で、日本海対馬海道や瀬戸内海道を縦横に往き来していたと思います。

  • 長老 

 クレタ、トロイ、ギリシアなどを見ても、通商航海民族の移動範囲は広いからね。

  • ひな8

 記紀では、イヤナギとイヤナミが一緒に天降ってきたことになっていますが、壱岐対馬から揖屋(いや)に海(あま)下ってきたのはナギだけで、揖屋の王女のイヤナミに妻問いして結ばれてイヤナギを名乗り、その死後、筑紫に移って各地の王女に妻問いしたと思います。

  • ヒメ

 その根拠はあるの?

  • ひな

 出雲にはイヤナギを主祭神とする神社4社に対し、イヤナミを主祭神とするのは8社、イザナギイザナミ主祭神とするのは5社です。イヤナミを主祭神として祀る神社の方が多く、しかも、その中心の揖屋神社はイヤナミを主祭神としていますから、イヤナミは出雲の女性、イヤナギは妻問した対馬壱岐の海人族の男性と思います。そして、筑紫にはイヤナギを主祭神とした麻氐良布(まてらふ)神社が朝倉市にあります。

  • ヒメ

 イヤナギやスサノオも、大国主のように「島の崎崎 磯の崎」に若草の妻を持ったのね。母系制の縄文人の子孫の妻問夫招婚の海人族なら当然かな。

  • マル

 「移動性のある海人族」の「母系制社会の妻問夫招婚」から記紀神話は見直す必要がある。イヤナギが「筑紫日向」で禊ぎしてアマテル・スサノオ・月読などの神々を生んだなど、これまで荒唐無稽な後世の創作とされてきたことも見直さないとね。

  • ひな

 稲作と鉄器の急速な伝搬と普及は、「弥生人」の武力征服によるのではなく、壱岐対馬の海人族の米鉄交易活動によるものだと思います。イヤナギは出雲でスサノオ、「筑紫日向(ひな)」でアマテル、博多で綿津見3兄弟と住吉3兄弟、対馬で綿津見大神、壱岐で月読、瀬戸内海道の大三島で大山津見(大山祇(おおやまつみ))をもうけ、その最後は記紀に書かれたように、淡路島か近江の多賀で亡くなったと考えられます。

  • 長老

 土地に縛られ、農地を長男から長男へと継承してきた農民の歴史、土地を奪い合って戦った武士の歴史の前に、海の上を自由に往き来して交流・交易を行い、妻問(つまと)いで各地に子どもをもうけ、国づくりを行ってきた海人族の歴史を世界的な視野で見直す必要があるね。

 スサノオ大国主一族の妻問いの「産霊(むすひ)・霊継(ひつぎ)」を大切にした「八百万神(やおよろずのかみ)信仰」の平和な建国は、土地の争奪戦に明け暮れてきた文明史観に対して、交流・交易・外交による海人族文明史観を提起することができる。

 また、スサノオ大国主の頃から、女性向けの絹織物・ヒスイ・真珠・朱(口紅・長寿の薬)と米を輸出産業としてきたということは、わが国のこれからの産業像を示しているんじゃないかな。

 

「襲名」と「妻問夫招婚名」

  • ひな

 古代王の名前でもう1つ注意しなければならないのは、妻方に合わせた名前を入り婿がつける「妻問夫招婚」の「逆玉婚名」があることです。大国主に別名が多いのは、彼が各地で妻問いを行って180人の御子をもうけ、その先々で「○○姫の夫の○○彦」などと呼ばれていたからと思います。

 例えば、丹波出雲大神宮では大国主は「三穂津彦大神・三穂津姫」の夫婦名で祀られています。妻の「三穂津姫」の名前に合わせて「三穂津彦」と名乗っていたのです。

  • マル

 大国主は各地の国々を征服し、略奪婚で180人もの子どもをもうけた大セクハラ王だな。

  • ひな

 大国主が高志(こし)国の沼河比売(ぬなかわひめ)を婚(よば)う時、2人が交わしたと伝わる長歌古事記に載っており、これを見ると略奪婚というより母系制社会の妻問・夫招婚と思います。ただ、大国主沼河比売(ぬなかわひめ)のもとに住まなかったから恨まれたでしょうね。

  • ボク 

 播磨国風土記には、大国主が安師比売(あなしひめ)に妻問いしたが姫は受け入れず、大国主は怒って彼らが造った川=用水路の源をふさいだという嫌がらせの物語が書かれていることを見ても、征服婚ではないと思います。

 

 「ウケヒ」が示す妻問夫招婚

  • ヒメ

 「ひな族」の姫としては、古事記に書かれたアマテルとスサノオの「受け霊(ひ)」競争が面白いね。セックスを「ウケヒ」というのは、女の立場からの表現だからね。男だと「霊(ひ)入れ」「霊(ひ)付け」「霊(ひ)漏らし」じゃあない?

・・・

  • ヒメ

 そう、私が「ウケヒ」にこだわったのは、これは、母系制社会の言葉ということなのよ。当時は、男が女のもとに通う「妻問夫招婚」だったから、女性が主人公となって男から霊(ひ)を受けたのよ。

  • 長老

 アマテルが主人公だから「ウケヒ」になるんだね。

 

母系制社会の女王国

  • カントク

 脱線は楽しいけど、古事記の「ウケヒ(受け霊)」が邪馬台国とどう関係するかなあ?

  • マル

 アマテルとスサノオが「ウケヒ」で子どもを作って競争したという物語は、その場所が母系制のセックス社会であった、ということなのよ。

  • ひな

 宗像(むなかた)族は、宗像三女神(多紀理毘売(たきりひめ)、多岐津比売(たきつひめ)、市寸島比売(いちきしまひめ))を宗像大社に祀っています。また、宇佐神宮の中央には「比売大神」が祀られ、宗像3女神とされています。「比売大神」は壹与(いよ)説もありますが、いずれにしても女神を祀っています。

 また、景行天皇記には神夏磯媛(かんなつそひめ)、速津媛(はやつひめ)、諸県君泉媛(もろかたのきみいずみひめ)、八女津媛(やめつひめ)神功皇后記には田油津媛(たぶらつひめ)、豊後風土記には久津媛、五馬媛(いつまひめ)などが登場しており、女王国が北九州には多く見られます。

  • 長老

 播磨国風土記には安師比売神など、大国主が娶誂(つまどい)した女性の名前が何人もでてくるけど、彼女たちもまた、女王の可能性が高いね。

 それと、記紀の「神武東征」では、和歌山には「名草戸畔(なくさとべ)」(地元では名草姫)、「丹敷戸畔(にしきとべ)」という女王がおり、ワカミケヌ達が殺している。

  • ひな

 出雲の神那霊山型の施設配置のところで権現山の麓の神代(かむしろ)神社についてふれましたが、祭神は宇夜都弁(うやつべ)とされています。宇夜都弁(うやつべ)は「たちつちつ」3母音時代には「うやとべ」と発音し、漢字では「とべ=戸畔=戸部=門部」とも書くことができますから、名草戸畔(なぐさとべ)と丹敷戸畔(にしきとべ)スサノオ大国主一族であった可能性が高いと考えます。

 

3.縄文時代スサノオ大国主建国の連続性

 古代史分析において、私は「石器時代縄文時代弥生時代古墳時代」という征服史観・天皇中心史観の時代区分の通説に対し、石土文明基準の「イシドキドキバカ」史観(たいへん失礼な言い方で恐縮ですが、批判を込めて敢えてこう表現します)と批判し、「石器時代―土器時代―鉄器時代」の時代区分を提案をしてきました。―縄文ノート「4 『弥生時代』はなかった」「8 『石器―土器―鉄器』時代区分を世界へ」「24 スサノオ大国主建国からの縄文研究」「28  ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」「83 縄文研究の7つの壁―外発的発展か内発的発展か」、『『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照  

 なお、縄文文明について検討を深めた現在では、「木石器時代―土器時代―鉄器時代」の時代区分に変えたいと考えます。

 

 

 「進んだ弥生人(中国人説、朝鮮人説)が遅れた縄文人を征服・支配した」などという、「和魂」なしの「漢才」の右派、「洋才」の左派の征服史観が幅をきかせているわが国では、弥生人(中国人、朝鮮人)が縄文人を支配して稲作と弥生式土器を全国に広め、その子孫の天皇家が古代国家を建設したとする拝外史観が未だに根強く支配しています。

 しかしながら、古事記は、大国主が少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、美和(三輪)の大物主と「共に相作り成」したと書き、その国名を「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきながいほあき)の水穂国」とし、日本書紀は、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営し、動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め、百姓、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝えています。そもそも陸稲栽培や水辺水稲栽培は縄文時代に遡り、沖積平野の葦原で鉄先鋤により水路・水田開拓を行い、温帯ジャポニカの水利水田稲作を全国に普及させたのはスサノオ大国主一族なのです。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』」「26  縄文農耕についての補足」「28 ドラヴィダ系山人・海人族による日本列島稲作起源論」、「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)参照

 出雲国風土記大国主を「五百つ鉏々(いおつすきすき)取り取らして天の下所造らしし大穴持命」とし、播磨国風土記大国主親子が陸稲・水辺水稲栽培の縄文人首長たちを指導し、時には抵抗を受けながら、水路をつくり水利水田稲作を普及する様子がリアルに描いています。スサノオ大国主一族が中国系あるいは朝鮮系の征服者であるなどとはどこにも書いていません。

 さらに、桓武天皇の第2皇子の52代嵯峨天皇は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張津島神社(全国天王総本社)に贈り、さらに66代一条天皇は「天王社」の号を贈り、スサノオこそが「皇国の本主」の「天王(てんのう)」と認めているのです。―縄文ノート「50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」「78 「大黒柱」は「大国柱」の「神籬(霊洩木)」であった」、『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』参照

 

      

 このように、この水穂国の建国者が委(倭)人のスサノオ大国主一族であり、鉄器稲作の普及者であることは、国史風土記に記され、嵯峨・一条天皇が公認しているにも関わらず、考古学者・歴史学者たちは空想の「ドキドキバカ史観」のねつ造を続けています。

 では、このスサノオ大国主一族が弥生人(中国人、朝鮮人)であるとの証拠があるのでしょうか?

 古代中国史に登場する倭人は同民族とは描かれておらず、そもそも「主語-目的語-動詞」構造の倭語は「主語―動詞-目的語」構造の中国語・東南アジア語とは異なります。また、「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造の日本語は、活発な交流と中国大陸からの漂着・流入者により英語と同じように漢語の借用語が増えただけであり、朝鮮語の痕跡はほとんど見当たらず、倭語が現在まで続いているのです。弥生人征服説を裏付けるような言語の転換は起こっていません。―「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊日本主義』42号)、縄文ノート「41 日本語起源論と日本列島人起源説」「93 『かたつむり名』琉球起源説―柳田國男の『方言周圏論』批判」「94 『全国マン・チン分布考』からの日本文明論」「97 『3母音』か『5母音』か?―縄文語考」「153 倭語(縄文語)論の整理と課題」等参照

 『三国史記新羅本紀』は、4代新羅王の倭人の脱解(たれ)は「倭国の東北一千里のところにある多婆那国」からきて紀元59年に倭国と国交を結んだと書き、『後漢書』は光武帝が紀元57年に「漢委奴国王」の金印を付与したとしていますが、どちらの記録も委奴(いな、ひな)国王が朝鮮・中国系とは書いていません。

          

 さらに古く『漢書地理志/燕の条』は、「然して東夷の天性柔順、三方(注:南蛮北狄西戎)の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、もし海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分かれて百余国を為す。歳時をもつて来たりて献見すると云う」と記され、さらに『魏書東夷伝倭人条』も「倭人は帯方の東南の大海の中にあり」としており、別民族としているのです。

 古事記はイヤナギがスサノオに「汝命(なんじみこと)は、海原を知らせ」と命じたとし、日本書紀一書にはスサノオが子のイタケル(五十猛=委武)を連れて新羅に渡ったという記載がありますから、紀元57・59年に後漢新羅と外交・通商を行った「委奴国王」は文献上、このスサノオしか考えられません。

 古代天皇の平均在位年数は約11年(安本美典氏)であり、スサノオ大国主7代の在位77年となり、魏書東夷伝倭人条に書かれた「住(とど)まるところ七~八十年」の委奴国の男王と符合します。さらに古事記記載順にスサノオ大国主16代を含めた神話時代32代(新唐書記載)が連続していたとして最少二乗法で推計すると、スサノオの即位年は紀元60年になります。―『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』、縄文ノート「24 スサノオ大国主建国からの縄文研究」「41 日本語起源論と日本列島人起源」「83 縄文研究の7つの壁―外発的発展か内発的発展か」、ヒナフキンスサノオ大国主ノート「神話探偵団132 古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」参照

 なお、古事記日本書紀とも笠沙(かささ)天皇家初代のニニギが高天原(筆者説は筑紫日向(ひな)の甘木高台)から天下った場所を薩摩半島西南端の笠沙・阿多(吾田)としており、古事記は2代目の兄の火照命(ほでりのみこと)=海幸彦は「鰭(はた)の広物・鰭(はた)の狭物(せばもの)」を獲る漁師、弟の火遠理命(ほおりのみこと)=山幸彦は「毛の麁物(あらもの)・毛の柔物(にこもの)」を獲る猟師としています。その天下りルートの地名は全て九州内であり、高天原大和説、高天原朝鮮半島説とも成立しません。

 

        

 天皇家のルーツは水田耕作の「弥生人」などではなく、薩摩半島笠沙・阿多の漁労・狩猟の縄文人として記録されているのです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)、縄文ノート「24 スサノオ大国主建国からの縄文研究」「144 琉球の黒曜石・ヒスイ・ソバ・ちむどんどん」参照

 以上のように、スサノオ大国主一族こそが「乗船南北市糴(してき)(糴=入+米+羽+隹」)」し、新羅と米鉄交易を行い鉄器製造開始による「鉄先鉏(鋤、鍬)」で葦原を開拓して水利水田稲作を100余国に広めて「水穂国づくり」を主導し、妻問夫招婚により「百余国」の「委奴(ひな=いな)国」を建設したことは日中朝の記録から明白です。―縄文ノート「6 古代国家形成からみた縄文時代―船・武器・稲作・宗教論」「53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」「121 古代製鉄から『「水利水田稲作」の解明へ』「125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論」等参照

 土器時代(土器鍋時代、通称:縄文時代)から海人(あま)族のスサノオ大国主建国へは縄文人内発的発展であり、スサノオ大国主の母系制社会の妻問夫招婚は土器時代(縄文時代)から連続しているのです。縄文社会研究会において、石飛仁さん(ノンフィクション作家、父が出雲出身の出雲研究家)は「スサノオは縄文最後の王」とし、私は「スサノオ大国主一族は鉄器稲作王」としましたが、縄文時代鉄器時代を連続してとらえるのは同じでした。

 そして、高群逸枝氏が画期的な労作『招婿婚の研究』『母系制の研究』『女性の歴史』などですべての古代文献から詳細に分析したように、天皇家天平平安時代から武家社会の鎌倉時代まで招婿婚は続き、ようやく室町時代になって父系制の嫁取婚へと変わったのです。

 

 

4.「招婿婚(婿取り婚)」か「妻問夫招婚」か?

 高群逸枝氏は母系制社会の婚姻様式を「招婿婚(婿取り婚)」としましたが、古事記に書かれた大国主が越の沼河比売(ぬなかわひめ)に婚(よば)い(用婆比(よばひ))したときの様子をみると、海人族の大国主が妻問(用婆比=夜這い)して求婚の歌を詠み、沼河比売が返歌し、翌日になって承諾して迎え入れています。

 歌垣で男女が結ばれる婚姻方法からみると、家族・財産・祖先霊信仰の継承を判断基準とした女性主体の主体の「妻問婚・招婿婚(婿取り婚)」より、男女が合意の「妻問夫招婚」とした方がいいと私は考えました。―「『季刊日本主義』44号「海洋交易の民として東アジアに向き合う」、縄文ノート「10 大湯環状列石三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰」「12 琉球から土器(縄文)時代を考える」「13 妻問夫招・夜這いの『縄文1万年』」「103 母系制社会からの人類進化と未来」等参照 

 

 イモ・マメ・ソバ・アワ・キビ・陸稲などの採集・栽培、魚貝類採集を母子で行って食料を確保し、家を守り親と子を養い祖先霊信仰をおこなった女性に対し、丸木舟による漁船漁業から海洋交易に従事するようになった男たちは装身具などの贈物を持って各地で妻問を行い入り婿となるとともに、男たちと妻問用の装飾品などを交易しあい、船や交易財などの継承を行っていたと考えられます。

 縄文時代の装飾品の貝輪が東北・北海道に運ばれ、越(糸魚川市)のヒスイが東北・北海道や種子島など各地に運ばれ、銚子のコハクが茅野市の中ツ原遺跡や秦野市の東開戸遺跡から見つかっているのを妻問夫招婚の土産とみたのは縄文社会研究会を主催した上田篤元阪大教授ですが(『縄文人に学ぶ』など)、同時に、これらの装飾品は妻問夫招婚の男性から女性への贈物として珍重され、大規模に交易されたと考えます。―縄文ノート「27 縄文の『塩の道』『黒曜石産業』考」「112 『縄文2021―東京に生きた縄文人―』から」等参照

 卑弥呼へ魏皇帝からの100枚の銅鏡や絹織物、真珠・鉛丹などの付与は、邪馬壹国など国もまた女王国であったことを示しています。

  

 以下、「縄文ノート103 母系制社会からの人類進化と未来」より、これまで母系制社会―妻問夫招婚について書いてきた内容をコピーして添付します。

 

『季刊日本主義』44号「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(原題「未来を照らす海人(あま)族の『海洋交易民文明』―『農耕民史観』『遊牧民史観』から、『海洋交易民史観』へ」)  180816→1127→190219

 遊牧民文明の一神教ユダヤ・キリスト・イスラム教)の優生思想・選民思想のもとでの『自然支配思想(農耕・牧畜・養殖・エネルギー・都市化を含む)』『武力征服思想』『世界経済支配思想』の行き詰まりに対し、海洋交易民の死者は海と大地に帰り、蘇り(黄泉帰り)再生する」という母なる自然崇拝、死者の霊(ひ)を祀り受け継いでいく祖先霊信仰、死者の霊(ひ)を神として祀る八百万神信仰、信仰心を持たない動物も神となり神使となるという類愛思想、妻問婚の母系制・母父系制社会、『妻問婚と言向和平』による交流・交易・外交による平和な国づくりなど、世界に向けて新たな文明観を提案すべきと考えます。・・・

 アフリカ北西部を源流とする『主語―目的語―動詞』構造の日本語が、どのように日本列島で広まったのかについてさらに検討を行うことにより、母系制の土着性と父系制の交流性を合わせもった縄文経済・社会・文化を明らかにするとともに、始祖が遠い海の彼方からやってきたという琉球海人族の『アマミキヨ』始祖伝説と、記紀の『アマテラス』始祖伝説(筆者説:アマテル)のどちらが先であったかの検討をさらに進め、アマテラスが派遣した天孫ワカミケヌからの万世一系の男王支配の皇国史観の歴史改ざんの誤りを明らかにしたいと考えます。

 

縄文ノート10 大湯環状列石三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰 200307

 三内丸山遺跡からは、北海道・長野県霧ヶ峰の黒曜石や、新潟県糸魚川翡翠岩手県三陸琥珀秋田県アスファルトなど、各地からの産物が発見されています。

 一般的な考えは、漁民であった縄文人が丸木舟に乗って広く交易を行っていたという仮説ですが、縄文人母系制社会であると考えると、これらの貴重品は単なる交易によるものではなく、男は貴重な黒曜石のナイフや槍の穂先、鏃、装飾品の翡翠琥珀などの贈り物を持って、各地から妻問いにこの地を訪れた可能性が高くなります(上田篤著『縄文人に学ぶ』新潮新書)・・・

 女性を形取った土偶は、女性を神とあがめる母系制社会の信仰を示しており、女性が死んだ後、その霊(ひ)が宿る土偶を壊し、母なる大地に帰すという地母神信仰を示しています。もし、男系社会であれば土偶は男ばかりでしょう。・・・

 古事記には、大国主の妻が「打ち廻る 島の崎崎 かき廻る 磯の崎落ちず(もれず) 若草の 妻持たしめ」と嫉妬して詠んだとされる歌が載せられていますが、彼は糸魚川から筑紫まで船で行き来し、各地の「島の崎崎」「磯の崎」で妻問いし、180人の御子を設けたのです。大国主の時代もこの国の海人族が母系制社会であったことを示しています。

 

縄文ノート11 「日本中央部土器(縄文)文化」の世界遺産登録をめざして 200307

 母系制社会を示す地母神信仰の遺跡・遺物と宗教行事が残っている(性器信仰、片品村の赤飯祭り、女体山・男体山・金精山信仰、神使の猿追い祭り、女性土偶、黒曜石・ヒスイ妻問交易圏など)。

 

縄文ノート12 琉球から土器(縄文)時代を考える 200314

 今でも漁村では、家計は女性が握っていて女性の地位が高く、漁民社会であった縄文人もまた母系制であった可能性が高いと言えます。海にでる男性はいつも死と隣り合わせであり、魚との物々交換・売買など家の経済や子育ては女性に任せる、という漁民・海洋交易民の伝統は石器・土器時代に遡るとみるべきと考えます。一方、海の上は男性社会であり、舟の継承などは男系であったと考えられます。

 

縄文ノート13 「妻問夫招・夜這いの『縄文1万年』」  181201→190308→200401

 日本民族」はDNAからみれば、3~4万年に渡って絶えずアジア各地から多様なDNAを受け入れ融合してきていますが、「日本文明」という視点からみれば、沖縄から北海道まで活発に交流・交易し、1万年にわたる豊かで平和な時代を築き、土器文明、自然と調和した健康で安定した煮炊き食文明、始祖神を女性とし霊(ひ)継ぎを行う母系制社会会同・座起に「父子・男女無別」の平等な母父系制社会、芸術的な土偶・土器文化、死者の霊(ひ)は海と大地に帰り、黄泉帰って霊(ひ)人・霊(ひ)子・霊(ひ)女・霊(ひ)御子・霊(ひ)留子・霊(ひ)留女などになるという海神信仰・地神(地母神)信仰など、独自の文明を形成してきました。私は地中海文明とともに、多島海日本列島の海洋交易民の「日本文明」こそ、豊かで交流・交易・外交による平和な世界の構築へ向けたモデルとなると考えます。

 

縄文ノート14・31 大阪万博の「太陽の塔」「お祭り広場」と縄文 191004→200726→210404

 「魂」字は「雲+鬼」で「天上の鬼=祖先霊」なり、「魏」字は「委(禾+女)+鬼」で「鬼(祖先霊)に女が稲を捧げる」という字になります。「姓名」の「姓」は「女+生」(女が生まれ、生きる)ですから、もともと中国の姫氏の周時代は母系性社会であった可能性が高く、魏はその諸侯でした。孔子の「男尊女卑」も「尊(酋(酒樽)+寸)」「卑(甶(頭蓋骨)+寸)」からみて、「女は頭蓋骨を掲げ、それに男は酒を捧げる」という宗教上の女性上位の役割分担を表しており、孔子は周時代の母系制社会を理想としていたことを示しています。

 卑弥呼の「卑」字は「甶(頭蓋骨)+寸」からなり、「祖先霊を手で支える」という意味であり、八百万神信仰の倭語では「霊(ひ)巫女」になります。「巫女」は「御子」であり、死者の霊(ひ)を祀る子孫の女性を表します。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

  ヒナフキン邪馬台国ノート      http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/