ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート5 「人類の旅」と「縄文農耕」,「3大穀物単一起源説」

 2014年5月に「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構―海洋交易民族史観から見た鉄器稲作革命」(『季刊日本主義』2014夏に掲載)を書いたとき、12000~5000年前の鳥浜遺跡から見つかったヒョウタンの種がアフリカ西海岸のニジェール川流域が原産地であることを知り、土器人(通説は縄文人)がヒョウタンに水を入れ、竹筏に乗って「海の道」をやってきたことを確信しました。
 さらにニジェールに行っていた次女からアフリカに米があることを知り、アフリカのナイジェリアに水田稲作の指導に行っている元鳥取大学名誉教授の若月利之さんからアフリカ稲が陸稲であることなどを教えられ、イネ科の稲や麦などのルーツもまたアフリカではないかと考えるようになりました。
 この小論は2014年6月に書いたものに一部、加筆したものです。

2020年9月4日に修正し、「縄文ノート18 縄文農耕について:『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」補足」を追加しました。

1.鳥浜遺跡のヒョウタンと米の関係

    岡山や福岡の稲作の起源が7000~5000年前(縄文時代草創期~前期)となる一方で、若狭の鳥浜貝塚(12000~5000年前)では南方系のヤシの実やヒョウタン・リョクトウ・シソ・エゴマ・コウゾ属・ウリが北方系の植物とともに発見されながら、米は見つかっていません。
 若狭での米の栽培はもっと後のことになり、多様な人々が、何次にもわたってこの国に来たようです。
ちなみに、ヒョウタンは西アフリカ、ウリは西アジアから北アフリカ、リョクトウはインド、シソはヒマラヤ・ビルマ・中国、エゴマは東南アジアが原産地とされ、いずれも熱帯・亜熱帯方系ですから、これを持ってきた人たちは寒いシベリアや乾燥した砂漠・草原地帯ではなく、熱帯・亜熱帯の「海の道」をやってきたのは確実です。
ヒョウタン・ウリ系」の人々が日本列島に定住した後、「熱帯ジャポニカ」系の人々、続いて「温帯ジャポニカ系」の人々がこの日本列島にやってきたと考えられます。

2.アフリカイネとアジアイネ(インド型、ジャワ型、日本型)の起源について

 人類の起源が「多地域進化説」から「アフリカ単一起源説」変わったように、栽培植物の起源もまた、「多地域起源説」から「アフリカ単一起源説」に変わる可能性があると考えます。
 その場合、「種の多様化」を考えると、陸稲水稲のアジア稲がアフリカに伝わって陸稲だけが残ったとみるより、陸稲のアフリカ稲がヒョウタンと同じようにアフリカからアジアに伝わり、高度差があり温度変化の大きいミャンマーあたりで「種の多様化」が生じたと見る方が自然です。
 「海の道」から竹筏に乗った人々がヒョウタンに水や種子を入れて鳥浜遺跡にたどり着いたのとは遅れて、アフリカの陸稲は高度差のあるミャンマーあたりで熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカが生まれ、「海の道」を竹筏にのった人々により日本に到達した、と考えます。

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 下図の「Y染色体亜型」の分布からみると、日本列島に見られる「Ⅾ」型(図の黄緑色)はチベットにしか見られないことからみても、このあたりの地域から温帯ジャポニカが持ち込まれた可能性が高いと考えます。
 

           Y染色体亜型の分布(中田力『科学者が読み解く日本建国史』より)

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  なお「O型」は中国由来と考えられますが、次の機会に詳しく述べるように、日本語が漢字の読みで「倭音、呉音、漢音」を併用しながら、「主語-目的語―動詞」言語構造であり、中国の「主語―動詞-目的語」言語構造ではないことからみて、多DNAの国でありながら、1万年の縄文人は倭語原語であり、そのルーツはインド東部からミャンマーにかけての海から山岳地帯にかけてであると考えます。

 

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 稲はミャンマー起源説(ミャンマー雲南揚子江下流)、雲南起源説、揚子江中流域起源説説がみられ、揚子江流域から朝鮮半島をへて日本にたどり付いたという説が見られますが、ヒョウタン・ウリ・リョクトウ・シソ・エゴマがワンセットで鳥浜遺跡で発見されていることなどからみても、熱帯から亜熱帯にかけての「海の道」から陸稲、続いて水稲もまた同じように日本列島までたどりついたとみるのが自然です。
   揚子江下流域や朝鮮半島南部の稲作もまた、雲南から揚子江下流した「川の道」よりも、「海の道」からの可能性が高いのではないでしょうか。


3.人類の移動と食物について:いつまで「ギャートルズ」?

   これまで、人類の旅(グレートジャーニー)と、ヒョウタンやウリ、稲の伝搬、日本語の起源、縄文研究などはそれぞれ別々に論じられてきましたが、そろそろ、統一的な検討が必要かと思います。
  人類が石器を持ってマンモスなどのほ乳類の獲物を追って世界に拡散したという肉食史観、「はじめ人間ギャートルズ」のギャグ漫画的史学(「チャンバラ考古学」とそっくり)はそろそろ卒業すべき段階でしょう。
  元々、樹上で果物や木の実、昆虫などを食べていた人類の祖先は、動物の肉だけでなく様々な穀類やイモ類、魚貝類を食べながら、世界に拡散したと考えます。野生のチンパンジーの食物の95%が植物性であることをみても、「マンモスハンター説」のような「焼き肉食原始人」イメージではなく、「食物多様性原始人」イメージに変える必要があると考えます。
  旧石器・縄文遺跡からは焼けた猪などの骨がでてきますが、縄文人の骨のコラーゲンの分析によれば、主なエネルギー源は木の実であったという研究もあり、季節によって多様な食生活であった可能性が高いと考えられます。
  2019年11月からNHKスペシャルで始まった食の起源の「第1集『ご飯』~健康長寿の敵か?味方か?~」によれば、アフリカの旧石器人の摂取カロリーの5割以上が糖質であり主食が肉というのは間違いでありでんぷんを加熱して食べると固い結晶構造がほどけてブドウ糖になって吸収され、その多くが脳に集まり、脳の神経細胞が増殖を始めるとされています。火を使うでんぷん食に変わったことにより脳は2倍以上に巨大化したというのです。

   主食は常にでんぷん質のものであった(NHKスペシャル「食の起源 第1集 ご飯」より)

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   さらに、「第3集『脂』~発見!人類を救う“命のアブラ”~」ではオメガ3肪酸(青魚・クルミ・豆類など)が脳の神経細胞を形作り、樹状突起同士を結び付け、高度な神経情報回路を生み出すのを促したとされています。
  猿から人間への頭脳の深化には魚食と穀類の組み合わせが有効であったのであり、海岸・河川そばでの人類の魚介類やイモやイネ科類の摂取こそが人類を誕生させたのであり、日本列島における世界に先駆けた土器鍋によるイモ・雑穀・野菜・茸・栗・魚・貝・肉などの煮炊きによるバランス食文化は、これからの人類にとって重要な示唆を与えると考えます。土器鍋は人類初の主食調理器具の偉大な発明であり、石器時代に次いで土器時代(土器鍋時代)という時代区分を採用すべきと考えます。
  肉食の弊害(アンモニア処理の肝臓・腎臓への負担、尿酸の蓄積、血液酸性化による骨からのカルシウム溶解、カルシウムのリンの置き換え、焼き焦げによるがんの発症)を考えると、魚食と穀物・豆食を組み合わせたバランス食による健康長寿化により、祖父母から孫への教育が可能となり、縄文土器のような高度な芸術・文化を生み出した可能性が高いと考えます。

4.「3大穀物(米・小麦・トウモロコシ)単一起源説」について

  小麦は、中央アジアコーカサス地方から西アジアのイラン周辺が原産地で、1粒系コムギの栽培は1万5千年前頃に始まり、7500年前頃に普通コムギの栽培がメソポタミア地方で始まり、5000年前ごろにヨーロッパやアフリカに伝えられたとされています。
  一方、水田稲作は、揚子江下流の彭頭山遺跡で約8000年前、河姆渡遺跡で約7000年前から開始されたとされ、日本では約2800年前頃とされています。
  しかしながら、灼熱の気候のアフリカ・インド・東南アジアでは有機物は痕跡を残さす、植民地化され近代化が遅れた国々では、旧石器時代新石器時代の研究は遅れている可能性があります。
  小麦と米は同じイネ科であることから、「米・小麦同一地域起源説」がアフリカにおいて成立する可能性はないでしょうか? 
  さらに、飛躍した仮説になりますが、イネ科のトウモロコシやアワ・ヒエ・キビ、サトウキビ、竹などを含めて、全て単一の「マザー・イネ」のルーツがアフリカの可能性はないでしょうか? 
  パンゲア大陸の時代でみれば、アフリカのニジェール川流域は南アメリカの東端に接しており、アメリカ大陸にしか見られないトウモロコシのルーツは西アフリカに近接していた地域の可能性が高いといえます。通説では最初の被子植物ジュラ紀裸子植物から分化したとされていますが、その前の三畳紀に分化したとする説もあり、後者であればその可能性はあります。

                         「マザー・イネ」の誕生地仮説:パンゲア大陸時代かも

 

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  人類の「アフリカ単一起源説」と同様に、「小麦・米・とうもろこしのイネ科三大穀物単一起源説」を検討してみるべきと考えます。

5.焼米と農耕開始について

  新石器時代に土器が出来て、米や小麦を煮て粥にし、その後に粉にして焼くようになり、穀物が食べられるようになった、と思い込んでいました。しかし、昨年の秋、妻がベランダでのイチゴ栽培の苗床用にもらってきた藁に残っていた稲穂の籾を見つけ、焼いて孫に食べさせ、私も子どもの頃に田舎のどんど焼きで焼米を食べたことがあることを思い出しました。米は脱穀して煮なくても焼いて食べられるのです。
  縄文人脱穀した米の「お粥」を食べるとともに、「焼米」を食べていた痕跡が残っており、たき火をしていた旧石器人もまた、野生の稲を燃やした時に白くはぜ(爆ぜ)、こうばしい香りのする焼米などを見つけ、穀類を食べ始めた可能性があります。
  穀類の栽培は旧石器時代に遡り、ヒョウタンの故郷、ニジェール川流域がイネ科植物のルーツの可能性があります。この「ニジェール川流域イネ科植物単一起源説」説については、ヒョウタンや稲、麦などのDNA解析により、決着が付けられるのを待ちたいと思います。

6.雑穀(ヒエ・アワ・キビ)の栽培

  アワ・ヒエ・キビは雑穀と呼ばれていますが、米・麦・トウモロコシ・サトウキビと同じイネ科であり、西アフリカ原産ではないか、という仮説を私は考えてきました。
  縄文時代からアワ・ヒエ・キビは栽培されている痕跡があり、沖縄の久高島には「イシキ浜に流れ着いた壺(ヒョウタン)の中に麦・粟・アラカ(もしくはクバ=ビロウ)・小豆の種子が入っていた」という伝承が伝えられており、アフリカ西海岸原産のヒョウタンに種子が入れられ、「海の道」を通ってやってきた可能性があります。
  ヒエは三内丸山遺跡などの縄文遺跡から見つかり、「日本ではかつて重要な主食穀物であったが、昭和期に米の増産に成功したことで消費と栽培が廃れた」(ウィキペディア)とされています。古事記スサノオによる5穀起源の記述では「稲・粟・小豆・麦・大豆」があげられ、新嘗祭の供物として米とアワが用いられていることからみても、縄文時代にはアワ・ヒエ・キビを栽培して主食としていた可能性があると考えます。

 

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  「阿波・安房」や「淡路」、「日枝・日吉・比延」「吉備」の地名や、古事記の国生み神話の「淡道」「粟国」「吉備児島」は、アワ・ヒエ・キビが主要な穀物であった可能性を示しています。また、古日本語の「あいういぇうぉ」が、「あいういう」(沖縄方言に今も残っています)と「あいうえお」に分岐したと私は考えていますが、出雲の「斐伊川(ひいかわ)」は「ひえかわ」であった可能性があります。

7.大豆・小豆は日本産の可能性

  大豆・小豆の原産地は東アジアとされていますが、原種のツルマメ、ヤブツルアズキは日本にも自生しており、紀元前4000年頃より栽培化されたことが明らかとなっています。
  アマミキヨを始祖神とする海人族(天族)の沖縄の久高島の伝承に「小豆」があり、古事記の国生み神話に「小豆島(あづきしま)」地名があり、スサノオの5穀神話に「小豆」が見られることからみても、豆類について縄文農耕が始まったと見るべきです。
  赤飯を重要なお供え物、行事食とする習慣は「赤米」に由来するとも考えられますが、稲作以前の縄文食に遡る可能性があります。

 

    鋳物師屋遺跡(縄文時代中期)の土器のダイズのレプリカ(南アルプス市文化財mなび)

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8.イモ食のルーツ

  旧石器人・縄文人の主食を論じる時、すっぽり抜け落ちているのは、骨や籾、プラントオパールなどの痕跡が残らない「イモ類」です。
  アフリカ原産のタロイモ(タイモ、エビイモ、タケノコイモ、サトイモ)やヤムイモ(ヤマノイモ、山芋)を主食とした熱帯・亜熱帯・温帯のイモ食文明の探究は「穀類文明史観」のもとで遅れているといわざるをえません。
  現在、ヤムイモの生産地はナイジェリアが7割近くを占め西アフリカが中心で、タロイモもナイジェリア34%を占め、中国17%、カメルーン16.%、ガーナ14%、マダガスカ2%と続いています。
  ヒョウタンや稲と同様に、「マザーイモ」は西アフリカを原産とし、「海の道」を通ってタロイモ・ヤムイモは東進し、日本にたどり付いた可能性があります。「田芋(タロイモ)」「里芋(タロイモ)」「山芋(ヤムイモ)」の「田・里・山」の名称区別からみて、「山芋(ヤムイモ)」も同時に主食としていた可能性があります。
  中秋の名月サトイモを備えて月見する芋名月や、輪切りにしたサトイモを模した「丸餅」を雑煮として食べる習慣などからみて、稲や粟を備える祭りよりその起源は古い可能性があります。縄文時の歯石の分析など、イモ食文化について本格的な研究が求められます。

9.繰り返した人々の渡来

  20万~15万年前にアフリカに生まれた原生人類は、約10万年前に火を起こすようになったとされており、この頃、すでに焼米を食べていたかも知れません。
  人類の「出アフリカ」は約6万年前とされていますが、さらに遡り約12万年前という説も出されています。彼らは、手ぶらで石器だけ持って動物を追って各地に移動したのでしょうか。果物や焼米など穀類、イモの味を忘れ、魚や貝は食べようとしなかったのでしょうか? ヒョウタンに水や種子を入れ、舟で旅をすることはなかったのでしょうか?
  日本の旧石器時代は5~3万年前から、縄文時代は1万6,500年前(鳥浜貝塚は12000~5000年前)から、さらに稲作は7000~5000年前からとされています。
  旧石器人が南と北からまず住み着き、ヒョウタンやウリを持った南からの人々、北方野菜を持った北からの人々、さらに南からイネを持った人々など、何次にもわたってこの国に人々が住み着いたことが明らかです。
  「はじめ人間ギャートルズ」的なマンモスハンターの肉食旧石器人、狩猟漁労採取の縄文人イメージから卒業し、筏や丸木舟に乗る「芋と魚介食の海人族の旧石器人」「芋栗縄文5穀と魚介・猪鹿鳥の土器鍋食の縄文人」像へ転換するとともに、「弥生稲作農耕」説から「土器時代農耕説(縄文時代農耕説)」への転換が求められます。