国際縄文学協会主催の今井一氏の「国民投票」の講演を聞きに行ったのですが、なんと、京大工学部建築学科西山研究室の大先輩の上田篤氏(当時、助教授)の講演が同時に行われたのです。その40年ぶりの偶然の出会いから私が上田さん主宰の縄文社会研究会に参加したのは2013年のことでした。
年4回の例会ではいろんな分野の方を講師に招いており、スサノオ・大国主建国論に取り組んでいた私は「古代国家形成からみた縄文時代―船・武器・稲作・宗教論」「卑弥呼(霊御子)モデルの4人のアマテラス神話」から縄文社会を見るという提案を行いました。
その後、上田さんがご高齢のために京都と東京に分かれて会を持つことになり、東京では2019年に島薗進上智大教授の講演以来、コロナの影響で翌2020年の尾島山荘での八ヶ岳合宿から長らく活動を休止していましたが、11月18日に例会が開かれました。
私は「八ヶ岳合宿2020報告(縄文ノート22)」と「信州の女神調査報告(縄文ノート96~102)」「世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群(縄文ノート22)」「吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕論(縄文ノート22)」を提案しましたが、日本中央縄文文明世界遺産登録などで盛り上がりました。
1 「文明・文化論」について
会では「文明(civilization)ではなく文化(culture=農耕)とするか、別の言葉にすべきでは」という重要な意見がでましたが、これは私もずっと悩んできた点でした。
「civil(市民)」が原語の「civilization(文明)」は、奴隷制社会の上に成り立った軍国主義国の「ギリシア・ローマ型文明」からの定義であり、「氏族・部族社会」に当てはめるには狭すぎる概念です。ギリシア・ローマ奴隷制社会の城郭都市型の西欧文明の「civilization」を使うと、そもそもエジプト・メソポタミア・インダス・中国文明や縄文社会などは「文明」の定義には当てはまりません。
「cultivate(耕す)」が原語の「culture(農耕)」だとより普遍的な概念になりますが、この場合の「農耕」については、4大文明の沖積平野農耕以外の「焼畑農耕」の「いも・雑穀・トウモロコシ農耕」は省かれてしまいます。また、古代の「文化」というと「宗教」が中心となりますが、ユダヤ教化したキリスト教の西欧中心史観は「一神教=文明段階」「多神教=野蛮・未開社会」という位置づけになってしまいます。「世界と人を作った絶対神」と「死ねば誰もが神となる八百万神」とは「神」の概念がそもそも違いますから、「文化=宗教」の時代については議論がかみ合いません。
「縄文ノート48 縄文からの『日本列島文明論』」では、西欧中心史観の文明論を批判する梅原猛・梅棹忠夫・安田喜憲氏らの森林文明・遊牧民文明・生命文明・海洋文明などの産業や生活をベースにした「文明論」を紹介するともに、次のような提案を行いましたが、まだ「文明」用語を使っていました。
「このような外発的発展説に対し、私は海洋交易民である縄文人は「石器―土器―鉄器」時代の内発的発展をとげたと考えており、「イモ豆栗6穀」の縄文農耕と土鍋食文化の延長上にスサノオ・大国主一族の鉄器水利水田稲作の普及による建国があり、記紀に書かれたスサノオ・大国主建国神話を真実として考えています。
この内発的発展史観においては、森と多雨の自然と調和した「イモ豆栗6穀農業」と健康長寿の土器鍋食文化、妻問夫招婚・歌垣の母系制社会、霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教に基づく海神・水神・地神・山神・木神・天神・神籬(霊洩木:ひもろぎ)・神那霊山(神名火山:かんなびやま)信仰、天と海・川・地・山を結ぶ神使の蛇(龍蛇)神・雷神・鳥・狼・鹿崇拝、巨木楼観建築や環状墓地などは、精神的・物質的な豊かな独自の『部族共同体文明』であり、自然と世界を支配しようとした西欧型文明の行き詰まりに対し、東アジア文明としてその役割を果たすべきと考えます」
今後、世界遺産登録に向けては英語で表記が必要であり、「civilization」「culture」の概念を拡張して提案するか、「縄文文化・文明」に合った新しい英単語を見つけるか造る必要があると考えています。
学生時代に羽仁五郎氏の『都市の論理』を読み、ハードな「都市計画」ではなく、「都市」での個の確立、市民社会の成立と市民革命を知り、「都市計画=都市づくり=市民社会づくり」でなければならないと考えましたが、西欧のアフリカ・アジア・アメリカ侵略と帝国主義支配、奴隷制社会形成、部族社会の軍閥による抵抗・支配が未だに根強いアジア・アフリカ地域の政治体制や内戦・戦争を考えると、「civilization」という白人の血で汚れた文明概念で世界の未来社会を考えるわけにいかないようにも思います。
霊(ひ:現代語に言い換えるとDNA)信仰を中心に置いた「ひと(霊人=人)」の「霊継(ひつぎ)」の宗教文化を中心に置いた文化・文明概念を示す新しい世界語を考える必要があると思いますが、考えてみませんか。言語学の得意な会員の参加を期待したいところです。
2 「生贄論」について
「生贄論」の鋭い提案がありましたが、私は3つに分けて考える必要があると考えます。
第1は、「縄文ノート71 古代奴隷制社会論」「縄文ノート84 戦争文明か和平文明か」で書いた「狩猟・戦争・奴隷文明」の「奴隷生贄」論です。「ギリシア・ローマ帝国文明史観」やマルクス・エンゲルスの「原始共同体→奴隷制社会」説からの「ヨーロッパ農耕民による狩猟採集民の征服」説や、それをそのまま輸入した「弥生人による縄文人征服」説という「征服史観」がまだまだ横行していますが、日本列島においては「氏族社会から部族社会、封建社会」への移行は内発的発展であり、スサノオ・大国主の八百万神信仰による百余国の建国は奴隷制社会への移行ではありません。
第2は、氏族・部族社会における共同体のための自己犠牲の「殉死」「人身御供」「特攻攻撃」などです。北欧などの「湿地遺体」や魏書東夷伝倭人条の「持衰(じさい)」、日本の「即身仏」「特攻隊」などは氏族・部族共同社会思想の犠牲死であり、奴隷殺害の「生贄」とは区別する必要があると考えます。
第3は、ピラミッドの上で生贄を殺すアステカ文明やユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの絶対神(を代弁する司祭者)の命令による殺戮と「自爆攻撃」です。この「宗教的生贄」に入るように
「霊(ひ)信仰」のもとで「霊継(ひつぎ)」を一番の価値に置く縄文社会や、その延長にある八百万神信仰の1~2世紀のスサノオ・大国主の建国においても生贄はなかったと私は考えますが、卑弥呼(霊御子=霊巫女)の邪馬壹国における「殉葬奴婢百余人」が部族社会の「殉死」なのか「奴隷生贄」なのか、どのような社会的変化があったのか、さらに整理が必要と考えます。
3 中ツ原遺跡8本柱と御柱祭
「5000年前頃の中ツ原遺跡の8本の巨木痕と記録上は1500年前からの御柱祭との関係について不明」という意見がありました(補聴器が壊れていて発言を聞き取れておらず、いただいたレジュメからのまとめです)。
中ツ原遺跡の8本巨木柱の建物や6700~6450年前の阿久尻遺跡の19の方形列柱建物については、女神山として今も信仰されている蓼科山を向いていることから神名火山(神那霊山)信仰の楼観拝殿(神殿)として私は考えており、宗教思想と巨木建築思想・技術の両方において縄文宗教とスサノオ・大国主一族の建御名方の宗教は繋がっており、各氏族・部族(部落)が巨木を持ち寄って柱を建てるという共同の祭りとして「御柱祭」に引き継がれたと考えています。―縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「40 信州の神那霊山(神名火山)と『霊(ひ)』信仰」「44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」「104 日本最古の祭祀施設」「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列」参照
「縄文人=自然宗教=野蛮・未開社会」「西欧人=絶対神信仰=文明社会」という西欧中心史観から離れ、「縄文人=霊(ひ)信仰の霊継(ひつぎ)宗教=DNA継承の命の宗教」として、縄文時代から現代社会への連続性を誇るべきと考えます。
写真は上田市の生島足島神社の御柱信仰の神棚に飾る神具で、「日本中央 式内大社 生島足島神社」と称しています。青森県東北町の「日本中央」の平安時代伝承の石碑と「日本中央」が重なるので気になって購入しました。私が長野・新潟・群馬・山梨の縄文遺産について「日本中央縄文文明」と称しているのは「中部高地地方」とするか迷いながら、この生島足島神社の「日本中央」によっています。縄文社会が「中央集権的」イメージを持たれるのは望むところではありませんので、さらに議論いただければと考えます。
なお「生島」は古事記のイヤナミの国生み神話の最後に書かれた表現であり、「足島」は「満ち足りた島」ですから、国土創生神話に由来する名前の神社になります。
4 「正味亭尾和」へ
散会後、長野県人の2人に連れられ、新橋駅前ビル1号館2階の「正味亭尾和」で一杯やりましたが、オーナーの上田市出身の「尾和正登」さんは、私のこの日の報告に書いた諏訪の「大和(おわ)」と関係していたのです。
かなりのへそ曲がりの私は、小学校で「大和」「飛鳥」を「やまと」「あすか」と読むと習って「嘘だろう」と教師の言うことを信じませんでしたが、古事記を読むようになって「大和」はもともとは「倭(わ)→大倭(おおわ)→美和(みわ)→三輪」であり、古事記に登場する山幸彦(山人)・海幸彦(隼人)兄弟のうちの山人(やまと)族が三輪の大物氏の権力を奪って「大和」を「やまと」と呼ばせるようになったと考えています。―『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』等参照
同じように、「あすか」は「あ須賀」でもともとは「かすが(か須賀=春日)」であり須賀=素鵞=蘇我一族の拠点と考えます。琉球弁が「あいういう」3母音5音であることからみて、「す=そ」で「須賀=蘇我」であり、接頭詞の「あ」は「あっち、こっち」、「か」は「かなた、こなた」など方角を指してると考えます。
大和(だいわ)書房代表の大和岩雄さんの本は読んだことがありましたが、名字の「大和」は「だいわ」と読むものとばかり思っていたのですが、なんと諏訪の建御名方伝説の「尾掛松」を探していると「大和(おわ)」の地名があったのです。―「縄文ノート100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」参照
この地には奈良の「大和(おおわ)」から大国主の御子の建御名方が移住し、「大和(おおわ→おわ)」地名ができ、そこから「大和・尾和」名字が生まれたと考えます。
東京へ出かける機会は減りましたが、「正味亭尾和」、また飲みに行きたい店です。昔、秋田で食べて気に入った「みず」をかけた冷ややっこと奄美の黒糖焼酎「龍宮」はお勧めです。
私は「龍宮=琉球」であり、琉球の始祖「アマミキヨ(海美聖)」をルーツとする海(あま=海女=海人・海部=海士)族は「奄美→天海→天草・甘木(天城:高天原=邪馬台国)→天ケ原(壱岐)・天下原(加古川市)」と北上したと考えており、記紀に書かれた薩摩半島西南端の笠沙の阿多を拠点とした山人(やまと:山幸彦)族の3代目のワカミケヌ(若御沼毛:8世紀に神武天皇の諡号)の祖母と母は龍宮=琉球の姉妹なのです。
初代大和天皇家の母方のルーツであり、戦後に昭和天皇がマッカーサーに差し出した「龍宮=琉球」の歴史と現状・将来に思いをはせながら、味わっていただければと思います。「大和・尾和」つながりの不思議な縁という以外にありません。
□参考資料□
<本>
・『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)
2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)
2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)
<ブログ>
ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/
帆人の古代史メモ http://blog.livedoor.jp/hohito/
邪馬台国探偵団 http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/