ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑

 私は小学校までは岡山、中高は姫路で育ちましたが「そば」を食べた記憶がなく、大学の京都、その後の奈良・大阪でもほとんど食べることはなく、埼玉に引っ越してから少しずつソバを食べるようになり、ソバを主に食べるようになったのはかなりたってからです。

 ただ基本的にはうどん好きであり、それも昆布の出汁を飲む関西風の出汁が染みやすい、柔らかいうどんが大好きです。コシのある讃岐うどんは仕事で香川県に通うようになって食べ始めて小麦のおいしさを感じるようになったのですが、関東の鰹節ベースの出汁やつけ汁のうどんは今でも好きではありません。

 「三つ子の魂」で子どもの頃に覚えた味は忘れられないもので、「そば好き」の食文化もまた同じように持続されると考えます。「そばは救荒食」などと位置づけるべきではなく、縄文時代から「そば好き文化」があったと考えるべきでしょう。

 NHKの「新日本風土記 蕎麦」が9月に再放送され、やっと録画を見ましたので、さらに「縄文そば農耕とそば食文化」について考察したいと思います。

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1.世界そば博覧会で

 私にソバ体験で印象に残っているのは、大阪市から狭山市に越して黒いつゆの駅そばにびっくりしたことや「そばがき」を初めて食べたこと、フランスに詳しいコンサルから「フランスではクレープはソバを使う」と聞いたこと、熊本県五木村で太くて短いそばにびっくりしたこと、信州の仕事先で十割そばを食べたことや家族旅行でソバ打ちを体験したこと、山形のそば街道や隠れ蕎麦屋の里しらたか、さいたま市に越してから「そばもち」をたべたこと、そしてなんといっても1992年に富山県利賀村の「世界そば博覧会」に行き、15か国のソバ料理を知りロシアのそばがゆなどソバ食の豊かさを感じたことは大きな体験でした。なお、夜には鈴木忠志さんの早稲田小劇場のSCOT(Suzuki Company Of Toga)の公演があり、人口600人の利賀村は村おこしで有名でした。

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 縄文人はソバを食べたのだろうか、「そばがゆ」「そばがき」「そばもち」「そばおやき」「そば流し焼き(和製クレープ)」「そばお好み焼き」「そばすいとん」などどのように料理したのであろうかか、当時を思い出しながらあらためて考えてみたいと思います。

 

2.ソバについて書いてきたこと

 ソバについては、これまで栽培が縄文時代に遡り、そのルーツが縄文人Y染色体D型のルーツと重なることなどを明らかにしてきました。

 

⑴ 縄文ノート21 2019八ヶ岳縄文遺跡見学メモ

・石包丁や石鍬、磨り臼・磨り石を合わせて考えると、この地では4~5000年前頃に「粟(西+米)」「稗(禾(ワ:稲)+甶(頭蓋骨)+寸(手))」「黍(禾:稲)+人+水)」「麦(麥=來(来)+夂(足))」などのイネ科穀物やソバ(タデ科)の栽培が行われており、縄文農耕が確立していた可能性が高いと考えます。

・「阿波・安房」「比叡・日枝」「吉備」「牟岐・妻木・野麦」などの地名が各地にあり、信州はソバの名産地であるにも関わらず、縄文農耕や縄文食の分析・展示が弱いのは残念です。「縄文クッキー」などよりも、縄文土器鍋の底にこびりついた「おこげ」の再現実験により、イモや穀類などの煮炊きの土器鍋食にこそ焦点を当てるべきと考えます

・米・粟・稗・黍・麦・ソバなどの縄文6穀農耕と縄文土器鍋による煮炊き料理について確信を持てたこと

 

⑵ 縄文ノート27 縄文の「塩の道」「黒曜石産業」考 

2.縄文人はなぜ「縄文中期」に内陸部へ移住したか?

 <仮説>

④ 焼畑農耕説(雪の比較的少ない地域での栗・ドングリや秋ソバや冬小麦は冬から春の食料確保を可能にした可能性)

 

⑶ 縄文ノート29 「吹きこぼれ」と「おこげ」からの縄文農耕論   

・「吹きこぼれしない縄文土器鍋」で縄文人は何を煮炊きしていたのでしょうか? 私の料理経験など限られますが、ソーメンやうどん、ソバ、里芋、大豆をゆでた時に吹きこぼれを経験しており、麺に付いた小麦粉や溶けだしたデンプンが汁に粘り気を与え、泡ができて吹きこぼれるようです。

  縄文人が食べていたと考えれられる次のような炭水化物(糖質(糖+デンプン)+食物繊維)のうち、炭水化物の多い穀類が吹きこぼれの主な原因と考えれられます。

 

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・分析していない他のC3植物(イネ、オオムギ、ソバ、ダイズ・リョクトウ等)の可能性が残されます。

ブータン二条大麦六条大麦の野生種が発見されていることやタロイモサトイモ)の原産地がインド・スリランカミャンマー、ソバの原産地が雲南省北部、リョクトウの原産地がインドであることなどから考えると、ドラヴィダ系海人・山人族により、「熱帯・温帯ジャポニカ(特に赤米・もち米)、オオムギ、ソバ、タロイモ」はワンセットで縄文時代に日本に伝来した可能性が高いと考えます。

 

⑷ 縄文ノート32) 縄文の「女神信仰」考

「イモ・豆・栗・縄文6穀(米・粟・稗・黍・麦・ソバ)農耕」は「鉄器水利水田稲作」へのスムーズな展開を容易にし、「縄文土器鍋による煮炊蒸し料理」は健康で豊かな、安定した食生活を実現し、現代の「和食の世界遺産登録」に繋がっています。

 

⑸ 縄文ノート83 縄文研究の7つの壁―外発的発展か内発的発展

蕎麦(そば)」は「蕎+麦」であり、「蕎(和音:そば、呉音:キョウ・ギョウ、漢音:キョウ)」は「サ+夭(人の走る姿)+高」ですから、「高地人の草の麦」というような意味になり、森を切り開いた山人族の焼畑農耕を示しています。

 

⑹ 縄文ノート96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡

地母神信仰は冬に植物が枯れて大地に帰り、春に芽吹いてくることから生まれたと考えられ、子どもを産むとともに、採集から芋豆6穀(特にソバ)の焼畑農耕(畑=火+田)を開始した女性による信仰と考えれられます。

・「蓼科」の名称については、「品(しな、ひん)」「品野(しなの)」の地名や「ヒジン様」から「たてひな」の可能性があると考えていますが、後に「蓼」字を当てていることは、古くからのソバの産地であったことから「たて」に「蓼」字が当てられた可能性があります。

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 「畑=火+田」の和製漢字からみても、「ソバ」の語源からみても、中国伝来ではなく、もっと古い縄文焼畑によるソバ栽培の可能性が高いと私は考えます。

 なお、ソバの原産地をウィキペディアは「雲南省北部の三江併流地域」としていますが、日本人の41~47%(アイヌ88%)にみられるY染色体D型のドラヴィダ系山人族の居住地、東インドミャンマー高地(チベット人43~52%)と接しており、赤米や「ピー信仰」などとともに、ミャンマー沿岸やアンダマン諸島(73%)のドラヴィダ系海人族とともに日本列島にやってきたと考えています。

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⑺ 縄文ノート98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社

 この祖先霊の「ピー信仰」は日本人に多いY染色体D型の分布やソバの原産地と重なっており、さらに「pee」信仰は南インドのドラヴィダ族にもみられ、国語学者大野晋氏によれば小正月(1月15日)のカラスに赤米を炊いて与える「ポンガ」の祭りは青森・秋田・茨城・新潟・長野の「ホンガ」「ホンガラ」の祭りに繋がるとともに、屋敷神の石祠を敷地の西北に設ける信仰とも似ています。

 

⑻ 縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ

 東南アジア山岳地帯には千木(氷木)のある建物は多く、日本の神社建築の千木(氷木)のルーツもまた、竪穴式住居からの「内発的発展」である可能性とともに、東南アジアから大破風や棟持柱とともに伝わった可能性も高いと考えます。

 「ピー信仰」が「霊(ひ)信仰」として伝わっていることやイモ食・もち食文化、ソバや温帯ジャポニカのルーツなどからみて、建築・住まい関係の言語の調査が求められます。

 

⑼ 縄文ノート108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説

② 土器圧痕調査

 日本中央高地など縄文土器について、籾・大豆・小豆・ソバの実などの穀物痕や豆痕の顕微鏡観察・シリコンレプリカ法などによる調査が行われていないようであれば、悉皆的な調査が求められます。

③ 焼畑調査

 縄文集落や阿久・阿久尻祭祀施設周辺などの焼畑の可能性のある地形場所を選び、ハンドオーガー(手動土壌採取器)で土壌を採掘して炭片層の有無を調べる調査が求められます。ハンドオーガーを役所や測量会社などで借りるか買っても数万円であり、市民グループでも調査可能です。

④ 花粉調査

 焼畑調査の土壌ボーリング調査をもとに、焼畑調査・プラントオパール調査と合わせて、イネ属やソバ、イモ類などの花粉調査が求められます。諏訪湖湖底堆積物の花粉化石調査は行われていますが、ピンポイントの調査が求められます。

 

3.縄文時代に遡る焼畑ソバ栽培

 ウィキペディアは「ソバの日本への伝来は縄文時代まで遡るとされワシントン大学の塚田松雄教授によると、島根県飯石郡頓原町(筆者注:現飯南町)から一万年前の蕎麦の花粉が発見され、高知県高岡郡佐川町では九千三百年前、更に北海道でも五千年前の花粉が出ているとある」としています。

 文献では続日本紀に722年に発せられた詔に「今夏無雨苗稼不登・・・種樹晩禾蕎麦及大小麦」(この夏雨がなく苗が伸びす・・・晩稲・蕎麦・大麦小麦の種を植えよ)と書かれており、広く蕎麦が栽培されていたことを示しています。

 2021年9月2日の再放送のNHK BSプレミアム「新日本風土記 蕎麦」(2016年放送)では、9300年前のソバ属の花粉を春野中教諭の野川寿子さんが高知県佐川町で見つけ、土中の炭から焼畑の可能性があったことを紹介していました。

 

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 そして、焼畑においてソバはもっとも栽培が容易であり、井上直人信州大教授によれば、ソバは根からシュウ酸を出して酸性土壌を中和し、アルミなどの毒物質を抑えて根が伸びなくなるのを防ぎ、水が少なくても育ち、痩せた土地から僅かな養分を吸収する力があるとしています。「昔はそばが宝物だった」「朝夕の食事やおやつでそばを食べない日はなかった」「そばは75日でとれるから上手くいったら年に2回とれる」「北海道に入植して、木を切って草を刈ったりして火をつけて焼いてそれで焼畑をやった。そういう状態で耕さないでまくのはそばしかできない。そばが頼りの暮らしでした」「会津ではそばは御馳走で、祝いの席では『そば口上』を述べた」など、各地の声を伝えています。

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 ウィキペディアにおいても、「日本列島においては縄文時代中期・後晩期段階での粗放的な縄文農耕が存在したと考えられており[13]、遺跡からは蕎麦、麦、緑豆などの栽培種が発見され、かつては縄文後期に雑穀・根菜型の照葉樹林文化が渡来したという研究者もいる[14]が、近年の成果から縄文前期に遡ると指摘する研究者もいる」として、『縄文時代の考古学三 大地と森の中で―縄文時代の古生態系ー』(小杉康,谷口康浩,西田泰民,水ノ江和同,矢野健一、同成社、2009年)、 佐々木高明『縄文以前』(日本放送協会、1971年)をあげています。

 小畑弘己・真邉彩氏(熊本大・鹿児島大)の『三内丸山遺跡北盛土出土土器の圧痕調査の成果とその意義』によれば、「タデ類の中でミゾソバが検出されているが、これも食料としての利用は可能である。このように土器製作時に紛れ込むほど、三内丸山遺跡の集落内にはこれらの野生・半野生のデンプン質種子類が多量に持ち込まれ、利用されていたことが裏付けられた」とし、「SNM 0001(円筒下層式・縄文前期 後半)・SNM 0003(円筒下層 d1 式・縄文前期 後葉)・SNM 0034(円筒上層式・縄文中期前半)  種子は三角形状、尖頭、1 稜に沿って広い溝 があるが、圧痕は痩果の状態である」としています。

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 また山田悟郎氏(北海道開拓記念館)の『雑穀栽培からみた北海道と大陸』では、「北海道では縄文時代前期末の南茅部町ハマナス野遺跡から出土したー粒のソバが最も古い大陸起源の栽培植物である。その後、後期中葉の忍路土場(おしょろどば)遺跡からソバ属花粉、シソ属、ゴボウが、後期中葉から末葉の苫小牧市柏原5遺跡と千歳市キウス4遺跡、晩期の札幌市N30 遺跡からアサが出土する。

 ソバ属花粉は晩期の奥尻町東風泊遺跡と千歳市ママチ遺跡からも検出され、本州で出土した大陸起源の栽培植物が北海道まで伝播していたことを物語っている」としています。

 これらの研究結果からみて、縄文ソバ栽培の可能性は高いと考えます。

 なお、補足しておきますと、1万年前の蕎麦の花粉が発見されたとされる島根県飯石郡頓原町(筆者注:現飯南町)の南には琴引山があり、「縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ」の図17で取り上げたように出雲大社の南方に位置し、出雲国風土記によれば、「琴引山・・・古老の伝えに云へらく、此の山の峰に窟あり。裏に所造天下大神の御琴あり・・・又、石神あり・・・故、琴引山と云ふ」と書かれ、大国主が琴を弾いて神意を聞いていた重要な神名火山(神那霊山)とされており、神在月八百万の神々は「琴引山」を目印に集まり、神戸川を下って日本海へ出て稲佐の浜より上陸したとされています。

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 このような出雲族の聖山・琴引山のある頓原町から日本最古の1万年のソバの花粉が見つかっており、現在も出雲そばが有名であることからみて、ソバ栽培の起源についてはさらなる研究を期待したいところです。

 

4.日本列島そば好きライン

 2019年産のソバ(乾燥子実)の生産量(千t)は44.8で、1位北海道が19.3(43.1%)、次いで長野3.9(8.8%)、栃木2.85(6.4%)、茨城2.77(6.2%)、山形2.18(4.9%)、福島2.12(4.7%)、福井2.01(4.5%)、秋田1.55(3.5%)、岩手1.16(2.6%)、鹿児島0.73(1.6%)と続いています。輸入は玄そば(殻付き)・抜き実合計で61千t(アメリカ47%、中国32%、ロシア14%)で国産をわずかに上回っています。

 蕎麦マニアではないので詳しくはありませんが、名物そばで私が体験しているのは、熊本県五木村や四国の祖谷の太くて短いそば、出雲そば、長野の信州そば・戸隠そば、山形の板そば、岩手のわんこそばなどですが、長野か北海道にかけては縄文ソバの痕跡と現在の産地と符合しています。

 出雲から長野、栃木、山形、秋田・岩手・青森、北海道への「日本列島そば好きライン」が浮かびあがるとともに、さらに鹿児島・四国から連続していた可能性が高いと考えます。

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 ネットで調べただけですが、島根・高知から青森の間は「縄文そば空白ゾーン」のようですが、出雲の荒神谷遺跡と賀茂岩倉遺跡の大量の青銅器の発見のように、「ない」のではなく「発見されていない」だけと考えます。

 「そば=救荒食=米麦の取れない山地の貧しい食べもの」という上方文化のにおいの濃い既成概念を見直し、インド・東南アジア・中国のアジア山岳地帯(照葉樹林帯)の「そば好き文化」の伝播として位置づける必要があると考えます。

 また、文化・文明は中国・朝鮮からもたらされた、という「和魂を忘れた漢才」の拝外主義的歴史観は未だに根強いことを思い知らされるのでが、熊本県宇土市の曽畑貝塚「曽畑」という地名から「蕎麦田」を思い浮かべてソバの花粉が縄文時代の地層にないか調べるなど、視野を広げた研究を望みたいところです。―縄文ノート「12 琉球から土器(縄文)時代を考える」「26  縄文農耕についての補足」「27 縄文の『塩の道』『黒曜石産業』考」「81 おっぱいからの森林農耕論」「93 『かたつむり名』琉球起源説からの母系制論―柳田國男の『方言周圏論』批判』参照 

4 「ソバ」の語源

 これまで「ソバ」の語源について、次のように述べてきました。

 

 「蕎麦(そば)」は「蕎+麦」であり、「蕎(和音:そば、呉音:キョウ・ギョウ、漢音:キョウ)」は「サ+夭(人の走る姿)+高」ですから、「高地人の草の麦」というような意味になり、森を切り開いた山人族の焼畑農耕を示しています。―「縄文ノート83 縄文研究の7つの壁―外発的発展か内発的発展か」参照

 

 この段階では、倭音倭語の「そば」の語源については検討しませんでしたが、『日本語源大辞典』は「実に角があることからソバ(稜)に」「畑の傍(そば)に植えるから」「麦に次いで美味であるから」として、「形から説」「栽培地から説」「味から説」という3つの解釈を行っています。

 倭人が「蕎(呉音:キョウ・ギョウ、漢音:キョウ)」に「麦」字を足して「蕎麦(そば)」と表記するようになったか考えて、3つ目の「味から説」が出てきたと思われますが、それなら「麦のような味であるから」「麦と同じような食べ方をするから」とすべきであり、「麦より味がおちる」という解釈は「うどん好き人」の偏見という以外にありません。

 「そば」を「蕎米・蕎粟・蕎稗・蕎黍」字で表記しなかったのは、「麦と同じ場所で栽培していた」か「麦と一緒に栽培していた」ということから「麦」字を付けたしたと私は考えます。前者は、春そば(4・5~6・7月)・秋そば(7・8~9・11月)」の収穫後に秋まき大麦・小麦を9~11月に植えたからと考えられ、後者は畑を使い分けて両方を栽培した(水利条件や土質など)のどちらかの可能性が考えられます。

 では「そば」音のルーツがどこから生まれたかですが、「米(こめ)・麦(むぎ)・粟(あわ)・稗(ひえ)・黍(きび)・蕎麦(そば)」の全てが倭音倭語と呉音・漢音は一致しないことや朝鮮語由来でもないようであり、6穀の全ては中国・朝鮮半島経由で日本列島にきたという可能性は少ないと考えます。

 

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 「縄文ノート28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」から大野晋氏の『日本語とタミル語』より作成してた表を転記しますが、農業・食物関係の倭音倭語がドラヴィダ(タミル)語起源である可能性が高く、熱帯のドラヴィダ地方に似た語がない「むぎ、ひえ、きび、そば」はドラヴィダ語族が日本列島にやってくる途中に、冷涼な照葉樹林帯のアジア高地からもたらした可能性が高く、少数高地族(山人族)の言語の調査が必要と考えます。

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 「実に角があることからソバ(稜)に」「畑の傍(そば)に植えるから」という、「稜(そば=物の角)」や「傍・側(そば=近く)」字からの当てはめと解釈する江戸時代レベルの俗語解釈で終わるのではなく、人類移動とともに穀類と言葉が同時に伝わった可能性をまず検討すべきと考えます。

 

5 「縄文そば研究空白ゾーン」での取り組みを

 「信濃では月と仏とおらが蕎麦」と言われ、北海道に次ぐ生産地であり、縄文農耕論の発祥の地でありながら「縄文そば研究空白ゾーン」となっているように感じます(ネット情報での判断で専門文献は読んでおらず、誤った判断かもしれませんが)。

 「日本列島そば好きライン」の空白を埋めるよう、「信濃では山と(山人)縄文おらが蕎麦」へと世界遺産登録を視野に入れて縄文そば研究に取り組んでいただきたいものです。

 

□参考資料□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/