ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート106 阿久尻遺跡の方形柱列建築の復元へ

 私は建築の実施設計はやっていませんが、その前段階の建築基本計画(ニーズ調査・建築基本理念・基本方針・施設構成・規模・施設配置・アプローチ・環境景観・イメージ図など)や地区・地域・再開発計画はかなりやっており、阿久尻遺跡の方形柱列巨木建築の復元には興味があります。

 中ツ原遺跡の8本柱や三内丸山遺跡の6本柱の建物の再現が中途半端に終わり、出雲大社の復元模型が誤っている点については、縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』」考」「50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」「78 『大黒柱』は『大国柱』の『神籬(霊洩木)』であった」で指摘してきましたが、阿久尻遺跡方形柱列の建物の再現にあたって同じ間違いがないよう、これまで考えてきたことを整理しておきたいと思います。

 

1 「柱穴」からの木造文明論

 もし阿久尻遺跡の数本の方形柱列建物が復元されたとしたら、新石器時代(土器時代)の「木造文明」を世界に示すインパクトのある景観ができあがります。石造文明は形が残りますが木造文明は消えてしまいますから、復元作業を行わなければ「木造文明などなかった」ことにされてしまいます。そもそも「旧・新石器時代」という西欧歴史学の歴史区分を私はおかしいと考えており、日本列島の建築・土木・道具文明では「石土木竹時代・土器時代」というべきと考えています。

 「石文明」を重んじる日本の歴史・考古学者たちが「縄文文明」を認めようとしないのは、柱穴から「巨木建築」や人々の生活や信仰・文化をイメージできない創造力の貧困ではないでしょうか?

 形のある石器・土器の研究こそが「科学」であり、成果を出せると思っている人たちの一方で、岡本太郎氏は「縄文芸術」に注目して世界に広めたのです。

 木や竹の古い遺跡・遺物のほとんどは目に見えて残りませんが、古代人の生活文化・建築技術・宗教などは、諏訪の「御柱祭」や播磨の「三ツ山大祭・一つ山大祭」、伊勢神宮の「式年遷宮」などのように現代にまで継承されてきた可能性が高いのです。

 

f:id:hinafkin:20211107194700j:plain

 幸い、諏訪地方にはおびただしい数の縄文遺跡から「柱穴」が見つかっています。土しか残っていない「柱穴」から縄文技術・文化・社会の研究を進める穴大好きの「柱穴研究者」が信州からでてきて欲しいものです。土器の穴から粘土やシリコン樹脂で豆やイネなどを検出する手法が確立されているのですから、掘削して埋め戻した柱穴痕ではなく、柱跡を直接検出する方法を確立すべきです。

 

2 阿久尻遺跡の方形柱列建物は同時に何棟あったか?

 阿久尻遺跡の20の方形柱列建物が同時に何棟か存在したとして再現するのか、それとも1つの時代には1本だけであったとして復元するのかは大問題です。

 ちなみに、出雲大社は1108年の地震か台風による倒壊を除くと、1061年、1108年、1109年、1141年、1172年、1235年の6回の建て替えの記録によれば、建て替え年数は平均で43年です。

 一方、縄文人の平均寿命が31歳(茅野市ホームページ参照)ですから、一生のうちに方形柱列建物の建設を一度は体験できるようにするためには、20年ほどで建て替えを行う必要があります。

 もし、7年おき(御柱祭)、20年おき(射楯兵主神社の三ツ山大祭、伊勢神宮式年遷宮)に建てられたすると、43年/7年=6回、43年/20年=2回となり、少なくとも6~7本から2~3本の方形の建物が同時に存在していた可能性が高く、復元されれば世界に類のない7000年近く前の壮大な宗教景観が出現します。

 

f:id:hinafkin:20211107194738j:plain

 

3 「阿久尻→中ツ原・三内丸山」遺跡への「小から大」

 「ヤマト王権の成立期には、従前のものより格段に大規模な墓(前方後円墳)が奈良盆地を中心に登場している」(ウィキペディア)という記述にみられるように、「古墳=前方後円墳時代」とし、それ以前のものは「弥生墳丘墓」と分類するという奇妙奇天烈な歴史を私たちは習ってきました。

 天皇家により「前方後円墳前方後方墳・円墳・方墳」という身分秩序に合わせた新たな「墓制」が始まったという文献の裏付けのない空想説なども生まれ、それ以前のたつの市の養久山古墳群などの丘の上の「前方後円墳」は無視され、スサノオ大国主一族の建国史と宗教・墓制は「空白の4世紀」などとして記紀神話とともに抹殺されてきました。

 「前方後円墳」は天皇家の墓制とされてきましたが、もっとも古い前方後円墳があり、もっとも多くあるのは播磨であり、「播磨のスサノオ大国主一族の小さな前方後円墳から次第に大きな大和の箸墓古墳などが生まれた」と見るべきなのです。なお、箸墓古墳に埋葬されたモモソヒメは大物主(代々襲名:大物主大神の御子の大年の一族)の妻であり、民の半数以上が亡くなるという恐ろしい伝染病を大物主大神スサノオ)を祭って退散させたとされた大物主(大田田根子)こそ、「昼は人作り、夜は神作る」(日本書紀:昼は天皇家が作り、夜はスサノオ大国主一族が埋葬施設を作った)とされる箸墓古墳に妻とともに埋葬されたと私は考えています。―「縄文ノート74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」 「Seesaaブログ『ヒナフキン邪馬台国ノート』:纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」参照

 前置きが長くなりましたが、天竺様の東大寺南大門や大仏殿、世界最大の吊橋の明石海峡大橋などもいきなり巨大なものができたのではなく、前者は兵庫県小野市の浄土寺でテストしており、後者は若戸大橋関門橋などの経験をもとにしているのです。

 三内丸山遺跡(5900~4200年前頃)の6本柱巨木建築や中ツ原遺跡(5000~4000年前頃)の8本柱巨木建築においてもより小さな先行した巨木建物があったはずであり、私はそれこそが阿久尻遺跡(6700~6450年前頃)の20の方形柱列建築であると考えます。―縄文ノート「23 縄文社会研究会 八ヶ岳合宿報告」「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群」等参照

 その意味でも、阿久尻遺跡の方形柱列建物の復元は欠かせないと考えます。

 

f:id:hinafkin:20211107194833j:plain

 なお、その際には竪穴式住居が細い丸木を使った「円錐型垂木構造」から、規模拡大や積雪荷重に耐えられるように内部に太い丸太の方形柱と梁・桁を補強した「方形軸組垂木構造」へと変わったり、湿気や増水を避けるために高床に変わるような技術的転換も合わせて考えておく必要があります。

f:id:hinafkin:20211108123428j:plain

 

4 蓼科山信仰の方形巨木柱列

 茅野市教育委員会の『阿久尻遺跡― 県営金沢工業団地建設に伴う造成工事に係る埋蔵文化財緊急発掘調査報告書1993』は、「各方形柱穴列からは柱穴以外の炉址や土器・石器などが検出できていないことから住居や祭祀建物ではなく、主に食料 を貯蔵する高床式の倉庫などの施設が考えられよう」としています。

 しかしながら、大事な食料保管の「倉庫」なら日常的に使い盗難を防ぐためにも集落の中心に建て、多数の巨木など使わない1層の高床式建物にすればよく、倉庫説は成立しません。

 1つを除く19の方形柱列建築が阿久遺跡の立石からの石列の向きと向じように蓼科山を向き、必要以上の多数の列柱を用いており、蓼科山が女神山(めのかみやま)として信仰されてきた歴史からみても、祭祀施設として見るべきと考えます。

 

f:id:hinafkin:20211107195002j:plain

 阿久遺跡と阿久尻遺跡は一体的にその機能を考えるべきであり、日本の神名火山(神那霊山)信仰・お山信仰の伝統から判断すべきと考えます。なお、古事記で最初に登場するスサノオの「須賀の宮」、次いで登場する大国主出雲大社大物主大神スサノオ)を祀る美和(三輪)の大神(おおみわ)神社、建御名方を祀る諏訪大社など、それぞれ背後の神山(神名火山)を崇拝する神社信仰にもに引き継がれているのです。

 塩尻市の平出遺跡には神名火山型の大洞山の前に縄文集落があり、その竪穴式住居の中心の広場には立石が置かれています。阿久遺跡の環状列石と立石はこの立石広場の回りに配置された住宅の配置のパターンを模したものである可能性が高いと考えます。

 

f:id:hinafkin:20211107195054j:plain

 なお、この平出遺跡の地には「大洞=大穴:大穴持=大国主」、「比叡の山:大年(大物主)の子の大山咋(おおやまくい)の日枝山」「宗賀(そうが)蘇我・曽我・素鵞」、「伊夜彦社;イヤナミ(伊邪那美)が葬られた揖屋)、「平出(ひらいで)=ひないで:日名鳥命」など、スサノオ大国主ゆかりの地名・氏名が集中しています。―「縄文ノート23 縄文社会研究会『2020八ヶ岳合宿』報告」参照

4 阿久遺跡(環状墓地)と阿久尻遺跡(祭祀施設)の関係

 「縄文ノート105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列」で私は阿久遺跡の環状列石は部族社会の「集団墓地」、阿久尻遺跡は「蓼科山信仰の共同祭祀場」であり、方形柱列建築は蓼科山(女神山)信仰の拝殿(神殿)とする説を提案しました。

 

  f:id:hinafkin:20211107195331j:plain

 古墳をみても、元々は埋葬と祭祀を同じ円墳や方墳の墳丘の上で行っていたものを、後には墓地の円墳や方墳の手前に扇形や長方形などの祭祀場所を設けるようになっており、縄文時代においても埋葬場所と祭祀場所を分離する「葬祭空間分離」が行われたと考えられます。

 記紀神話ではアマテル(本居宣長説はアマテラス)の墓の前で天宇受売(あめのうずめ)が「胸乳をかき出で、裳緒を陰(ほと)に押し垂らし」てアマテルの石棺の上蓋(石屋戸)の上に桶を置いてその上で足音を鳴り響かせて神がかりして踊り、「八百万神ともに笑う」とし、魏書東夷伝倭人条では「喪主は哭泣し、他人は就きて歌舞飲食す」と書かれ、沖縄や津軽では墓前で祖先霊ととともに食事をする伝統が残っているように、元々は「葬祭同空間」であったものが、「葬祭空間分離」に変わった可能性が高いと考えます。

 図7に見られるように、阿久遺跡と阿久尻遺跡の間には遺跡の「空白ゾーン」があるとされ、茅野市教育委員会の報告書では別々に考察していますが、500mの距離というと難なく歩ける「徒歩圏」として商業施設計画では重要な基本単位であり、阿久遺跡と阿久尻遺跡は別々に考えるのではなく統一的に分析すべきと考えます。

 

f:id:hinafkin:20211107195416j:plain

 さらには大規模な環状共同埋葬遺跡と共同祭祀遺跡を作った周辺の集落との関係についても統一的にとらえ、防衛的な「都市」を形成しない「分散集落ネットワーク型」の分業・交易・共同祭祀の「部族文明社会」の解明を進めるべきと考えます。

 阿久遺跡と阿久尻遺跡については、単に忙しいから連携ができていないだけだと思いますから、原村と茅野市の関係者は協力して分析・展示・復元に取り組んでいただきたいものです。

 

5 阿久尻遺跡の方形柱列建物の建設段階

 阿久尻遺跡の20の方形柱列建物がどのような順番で建てられたかについでは、成長期の「小から大」とともに、衰退期の「大から小」へ流れもあった可能性があり、その配置とともに検討する必要があります。

 A区には12本柱のA1号方形列柱(唯一蓼科山を向いていない)が15棟の竪穴式住居の中心部にあり、B・C区は19の方形列柱に24の竪穴式住居があり、方形列柱の一番小さなものはC6号の8本柱で、最大のものはC9号で18本柱です。

f:id:hinafkin:20211107195534j:plain

 私の仮説は、もともとA区に方形拝殿(神殿)を建てた始祖集落があり、墓地は一段高い阿久遺跡に設け、やがて次々とそこから分離して周辺に氏族単位の集落が点々とでき、共同環状墓地を阿久遺跡としてつくり、共同祭祀場としてB・C地区に巨木の方形拝殿(神殿)を最盛期では18の氏族がそれぞれ神木を持ち寄って造るようになった、というものです。

 放射性炭素年代測定などによって20の方形柱列のおおまかな建造時期が判るものなのかどうかは確かめていませんが、復元にあたってはA区とB・C区の前後関係だけでもはっきりさせたいものです。

 A区では竪穴式住居とA1号方形建物からなる集落の復元、B・C区は2~3本の方形建物といくつかの竪穴式住居の復元の検討が求められます。

 

6 復元建築の例

 柱穴・柱痕しか残されていない建物の復元では、わが国ではこれまで「出雲大社型・中ツ原遺跡型・三内丸山型・吉野ヶ里型」の4タイプの例が見られます。

 

f:id:hinafkin:20211107195749j:plain

 一番基本的なのは出雲大社型で、地面に柱根の大きさ示す表示を行うとともに、その近くに3本柱を束ねた復元展示を行い、島根県立古代出雲歴史博物館に復元模型を展示しています。

 中ツ原遺跡は2種類の高さの柱を復元し、三内丸山遺跡は発掘した柱穴をドームで覆って見学できるようにするとともにその前に6本柱の屋根のない塔を復元し、吉野ヶ里遺跡原の辻遺跡は魏書東夷伝倭人条に書かれた「楼観」として復元しています。

 西洋・中国文明への劣等感の強い拝外主義の日本の考古学者・歴史学者たちは「縄文人=野蛮・未開人」「弥生人=中国・朝鮮系の文明人」という強い思い込みにとらわれ、吉野ヶ里遺跡6本柱建物や壱岐原の辻遺跡の9本柱建物には屋根を付けながら、縄文時代の中ツ原遺跡では柱だけ、三内丸山遺跡縄文人の巨木建築は屋根のない建物として区別して復元しています。

 三内丸山遺跡では、大型建物や竪穴式住居、高床式建物には屋根や壁を付けながら、大人数の人々の共同作業のもっとも重要な巨木建築に屋根を付けず、朽ちるに任せたと考えているようですが、私には到底理解・承服できません。

 

       f:id:hinafkin:20211107200437j:plain

 技術には「小から大」の法則があり、建物も小さなものから大きく、高くしたと考えられ、縄文人の建築技術者も当然ながらそうしたに違いなく、竪穴式住居から高床式建物、さらには6本巨木柱建築へと技術を発展させたのは確実で、少なくとも屋根をつけた建物にすべきでした。屋根(や壁)を付けないよほどの合理的理由がないかぎり、屋根(と壁)を付けるべきなのです。

 世界遺産登録によって「縄文人野蛮・未開人説」を世界に広めた最悪の見本が三内丸山遺跡の「屋根(壁)なしタワー」です。岡本太郎氏は縄文芸術家を見出して世界にアピールしましたが、三内丸山遺跡では縄文建築家や縄文とび職人はいなかったことにされてしまいました。

 あのような素晴らしい縄文土器を造ることなど到底できない私は縄文芸術家たちを尊敬していますが、同じように巨木建築家やとび職人たちがいた可能性が高いと考えます。建築経験のない考古学者たちはそもそも「屋根なし壁なし建築」などという空想的な創作など行うべきではなかったのです。

 

7 復元建築の縄文・弥生断絶史観の誤り

 日本の考古学者・歴史学者のもう1つの大きな問題点は、「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」であり、「縄文人=原住民=土人」=「野蛮・未開人」=「竪穴式住居民」「弥生人=征服民族」=「文明人」=「高床式住居民」とする戦争侵略史観・断絶史観・外発的発展史観に陥っていたことです。

 中国文明を取り入れながらも、「主語-目的語-動詞」言語構造を崩すことなく、倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3層構造とした縄文人の主体的・独創的な内発的発展など、自分の頭で考えることもない情報輸入学者たちには想像もできないようです。

 縄文遺跡から竪穴式住居と高床式住居が同時に出てくるとともにDNA分析や言語分析が進み、さすがにこのような時代錯誤の軍国主義的な征服史観は少数派になりつつありますが、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録において「屋根も壁もない縄文建築」の誤ったイメージを世界に広めた責任は重大です。―「縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」参照

 三内丸山遺跡の6本柱建築復元の誤りを認めて正さないというなら、「高床式住居から6本柱巨木建築への移行は技術的・文化的にありえない」「縄文人は屋根や壁を作ることができなかった」などの証明を今からでも行うべきです。

 それが証明できないのなら、せめてあの縄文文明を否定した恥知らずの「見張り台」に今からでも屋根を付けるべきです。

 古代には48mあったという杵築大社(出雲大社)、インドネシアパプア州コロワイ族の地上30mの樹上住宅(NHK地球イチバン「コロワイ族・樹上の家」図書博文著)、12~17mの諏訪大社御柱などは、サルのDNAを受け継いだ人類には高所作業が得意な立派なとび職人がいたことを示しているのです。

 世界最長の明石海峡大橋を建設した技術者・とび職人のように、技術は継承され、発展するものなのです。

   f:id:hinafkin:20211107200623j:plain

5 記紀神話の無視した復元建築

 「世界を照らすアマテラス絶対神」の子孫の現人神(あらひとがみ)の天皇を国民に信仰させ、侵略戦争を思想的に推進した「皇国史観」(天皇中心の神国史観)への批判・反省から、戦後の日本の考古学者・歴史学者の多くは古事記日本書紀記紀と略記。最古の歴史書古事記を主に引用)のスサノオ大国主一族の建国史を8世紀の創作神話として捨ててしまったのですが、この戦後の偏狭した「反皇国史観=反記紀神話史観」もまた、スサノオ大国主国史から縄文研究へと進む手掛かりをはく奪してきました。

 記紀で、最初に現れる祭祀施設は出雲の揖屋にあった「天之御柱」で、その周りをイヤナミ・イヤナギ(伊邪那美伊邪那岐:私説は邪馬台国の「邪=や」と同じ読み。通説はイヤナギ:イヤナギ読み)は左右に分かれて「廻り逢い」、イヤナミが先に「あなにやし、えをとこ」(あら、いい男ね)と言って「美斗(みと=美しい容器=美門=ホト)のまぐわひ」を行ったとしています。

 この記述を何の先入観もなく読めば、吉野ヶ里遺跡佐賀県)や平原遺跡(福岡県前原史)の墓の前の「立柱」や広峯神社姫路市)や諏訪大社などの「御柱祭」のルーツはイヤナミ・イヤナギ以前からあった縄文人の「御柱」にあり、しかも、女が男を選んで結婚する母系制社会であったことが明らかです。―縄文ノート「13 妻問夫招婚の母系制社会1万年」「78 『大黒柱』は『大国柱』の『神籬(霊洩木)』であった」参照

 

f:id:hinafkin:20211107200714j:plain

  また、壱岐対馬を拠点とする「海人(あま)族」のナギが揖屋にやってきたとき(揖屋のナミはナギと一緒にやってきたのではなく、この地の王女であったと考えれられます)、そこには「天之御柱」と「八尋(やひろ)殿」(両手を伸ばした幅160㎝×8=13mほど)があったというのですから、出雲大社本殿の13mとほぼ同じ大きさの巨大な建物があったことになります。―「『季刊山陰』38号「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」「縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」参照

 

                               f:id:hinafkin:20211108123700j:plain

 この「八尋(やひろ)殿」神話は出雲大社を参考にして「八尋」の大きさにした可能性もありますが、揖屋縄文人が前から「八尋殿」を立てており、大国主はそれを高くした可能性も大きいと考えます。

 なお、6000~5500年前頃の中ツ原遺跡の8本柱の長軸方向が6尋以上あり、5900-4200年前頃の三内丸山遺跡の6本柱間が8.4m(5尋ほど)であることからみても、紀元1世紀の揖屋の「八尋殿」の大きさは誇張ではなないと考えます。

 さらに古事記スサノオの「須賀の宮」と「稲田の宮」(八重垣の宮)を載せ、大国主を「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」の王とし、大国主の「住所(すみか)」「天の御舎(みあらか)」「天の御巣(みす)」「天の新巣(にいす)」の建築の様子を具体的に述べています。―「縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」参照

         f:id:hinafkin:20211107200953j:plain

 この古事記の記載によれば、「水穂(みずほ=水稲)」の栽培開始は、大国主より500~1000年前になります。大国主の即位年を31~50代天皇の即位年の最小二乗法による計算で「紀元122年頃」と私は推定していますが、そこから「千秋長五百秋」となると紀元前900~400年前頃となり、佐賀県唐津市の菜畑遺跡から始まり各地に広まった水田遺跡の年代と符合します。―「縄文ノート24 スサノオ大国主建国からの縄文研究」「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者(『季刊山陰』38号)」参照

 この紀元2世紀の大国主の「住所(すみか)」である杵築大社(きずきのおおやしろ)出雲大社本殿は屋根と壁がある魏書東夷伝倭人条に書かれた「楼観」(観望用の楼(高い建物))であることが明らかであり、3世紀頃の吉野ヶ里遺跡原の辻遺跡の「屋根あり壁なし楼観」=見張り台としての復元もまた誤っていると私は考えます。

 古事記によれば2900年前頃からの「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」の後継王が大国主であると認識されていたことが明らかであり、縄文農耕の内発的発展としてスサノオ大国主一族の百余国の建国が行なわれたのであり、当然ながら建築技術もまた「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の木造国」として縄文時代から継承されていた可能性が高いのです。

 記紀神話の無視ではなく、記紀・魏書東夷伝倭人条などの文献をもとに、縄文時代からスサノオ大国主建国への「建築思想・技術の継承性」を踏まえて吉野ヶ里遺跡原の辻遺跡の巨木建物は復元される必要があると考えます。

 

6 宗教と文献を無視した出雲大社再現模型

 部族社会において多くの氏族が集まり長期間かけての共同作業となると、共同祭祀の宗教施設か集会施設、防衛・防災・備蓄のための建物とみて間違いありません。

 その中で、高さを求めた大型の建物となると、天神信仰の宗教建築物に絞られますが、この「楼観」は死者の霊が天に昇る神木(神籬(霊洩木)=御柱)を「心御柱」として立てた建物であると同時に、神山(神名火山(神那霊山)を遠望する拝殿であったと考えます。

 

f:id:hinafkin:20211107201112j:plain

 「縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考において私は次のように書きましたが、構造的にも弱く耐久性のない直階段としたのは「引橋長一町」の資料を木デッキ(桟橋)ではなく、階段と誤って解釈したためです。

 

 48mの中古の出雲大社は外直階段ではなく、神籬である「心御柱」を中心にした廻り階段であり、後の仏塔の「心柱」に受け継がれたと考えます。外階段は横風を受けて構造的に弱く、廻り階段の内階段だと建築用の足場を外側に組む必要がなく合理的です。

 考古学者や建築家たちが長い外階段と錯覚したのは、金輪造営図の本殿前の「引橋長一町」と書かれた長方形の図を直階段と勘違いしたもので、階段なら「きざはし(階)」と書いたはずですし、「登る橋」なら階段になりますが「引く橋」では階段になりません。「引橋長一町」は100m長の海岸から本殿へ続く木デッキであり、全国各地からの神々の舟を引いて係留し、本殿に人々を導いたのです。-「縄文ノート50 『縄文6本・8本巨木柱建築』から『上古出雲大社』へ」参照

 

 日本書紀の巻第二の一書第二には「汝(注:大国主)が住むべき天日隅宮は・・・・汝が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋及び天鳥船をまた造り供えよう。又天安河には、打橋を造ろう」と書かれており、天日隅宮(天霊住宮=出雲大社本殿)の前には海に出て鳥船(帆船)で遊ぶための高橋(木デッキ)と浮橋(浮き桟橋)があり、天日隅宮の傍の天安河(素鵞川か吉野川の旧名の可能性)の打橋(木か板を架け渡しただけの取りはずしの自由な橋)があったのです。

 前者の「高橋+浮橋」が「金輪造営図」に書かれた「引橋長一町」であり、条里制の「一町」=109mで計算すると、拝殿前の銅の鳥居(四の鳥居)のあたりが水辺であったと考えられます。

 

f:id:hinafkin:20211107201635j:plain

f:id:hinafkin:20211107201726j:plain

 「引橋長一町」を直階段とした福山敏男元京大教授(私は日本建築史を教わりましたが学究肌の真摯で厳格な先生でした)のこの誤りを直すと、出雲大社は直階段のない「心御柱」を巻いた廻り階段の高層拝殿(神殿)となり、魏書東夷伝倭人条に書かれた3世紀の「楼観」と同じになり、縄文建築の拝殿(神殿)の伝統を受け継いだ可能性は高いと考えます。

 では大国主はこの神殿(楼=古代中国では2階以上の建物)に住み、何を「観」ていたのでしょうか。直接には背後の八雲山と思われますが、仏教山・琴引山・三瓶山・大黒山などの神山(神名火山=神那霊山)、さらには海人(あま:天)族の故地である対馬などを崇拝するととともに、出雲平野全体を「国見」し、神在月(各地は神無月)に全国から神々が集まる稲佐の浜などを観望したと考えます。同時に、出雲の人々や全国各地から「神在月(神無月)」に集まる大国主の180人の御子やその一族などにとっては、目印(ランドマーク)であり崇拝の対象であり、夜には灯台の役割も果たした可能性もあります。

 

f:id:hinafkin:20211107201845j:plain

 さらに日本書紀によれば、スサノオは御子のイタケル(五十猛)とともに新羅に渡り、出雲に帰ってきていることからみて、出雲と新羅には「宗像~沖ノ島~津島~新羅」ルートとは別に、「出雲~新羅」の直行の「米鉄交易ルート」があった可能性も高く、その目印として重要な役割を果たした可能性もあります。

 

f:id:hinafkin:20211107201907j:plain

 縄文時代の阿久尻遺跡の列柱建築の復元にあたっては、文献上明らかであり、その後も再建が繰り返されてきて具体的に建設の様子が書かれた紀元2世紀の大国主の世界最高の48mの出雲大社を参考にすべきであり、単なる空想で計画すべきではありません。

 石造文明の巨大宗教建造物のように廃墟として残るのではなく、木造文明は「建て替えられてきた歴史的遺跡」「祭りとして伝えられてきた文化」として見るべきであり、現存する出雲大社御柱祭をもとに阿久尻遺跡の列柱拝殿(神殿)の復元が図られるべきです。

 石造文明の固定概念にとらわれた西欧中心史観の文明観が重きをなしている可能性の世界遺産登録の規定に対しては、「木造文明」の歴史的価値の回復について強力に主張する必要があると考えます。

 

10 「屋根壁一体型建物」か、「屋根壁分離型建物」か?

 「縄文遺跡から屋根や壁、床などの痕跡が見つかっていない以上、科学的には柱しか再現できない」という意見もありそうです。

 戦後の反皇国史観には「考古学こそが科学であり、考古学から歴史を書き換えよう」という極端な「唯物(ただもの)科学主義」の主張も見られましたが、今や民族学文化人類学民俗学や宗教学、神話学などを「非科学」と否定する人など少数と考えます。

 阿久尻遺跡の列柱拝殿(神殿)の復元にあたっては、いろんな考えうる限りの仮説案を出し、もっとも矛盾の少ない仮説案を採用する「最少矛盾仮説法」によるべきと考えます。

 そこで前からずっと私が頭を悩ましてきたのは、「屋根壁一体型の竪穴式住居型」とするか、「屋根壁分離型の高床式建物型」とするかでした。

 というのは、6世紀前半の今城塚古墳(第26代継体天皇陵)の家形埴輪などには寄棟型建築の屋根に斜めに大きな煙り出し屋根(仮に大破風屋根と名付けます)を乗せた2段屋根(おそらく2階建て)が見られるからです。「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3重構造の言語文化の例からみて、倭人の文化はスクラップ・アンド・ビルド型ではなく重層構造型であり、縄文の建築文化を引き継いで2種類の屋根構造の建物にした可能性が高いと考えます。

           f:id:hinafkin:20211107202107j:plain

 出雲大社など古い建物や漁家民家が妻入(短辺から入る)であることからみて、上の大破風の屋根型が古く、寄棟の仏閣などの平入の下の屋根型が新しいと考えれられます。

 そこである年代以上の方はすぐに鮮明に思い出されると思いますが、インドネシアの「トアルコトラジャ」珈琲が出てきた時、マークの逆台形の屋根の民家の写真が紹介されたときに、おそらく強いインパクトがあったはずです。私もどうしてこのような形になったのか不思議でしたが、古代史をやるようなって家形埴輪の上に乗った屋根の形とそっくりであることに気づき、家形埴輪の上の大破風屋根はもともとは南方系であった可能性が高いと考えるようになりました。

    f:id:hinafkin:20211107202140j:plain

 雨の多い赤道直下で鉄器による板材の製造などできなかった石器時代にトラジャ族(「高地の人々」の意味)が木や竹、ヤシの葉などで高床式の建物をつくるとなると、雨が降り込まないようにして開け閉めできる窓のある壁をつくることなど難しく、平側(長軸側)は屋根壁一体型とし、妻側を出入りと明り取り、煙り出しの開口部とし、屋根を前にせり出して雨の吹込みを防ぐ形にするのはきわめて合理的です。

 「つま(妻)、おっと(夫)」の呼び名は、客を迎える明るい入口の妻側にいる女性を「妻」とし、奥にいる男性を「奥人(おくと→おっと)」とした可能性があります。

 日本列島において、寒さをしのぐ窓のない暗い竪穴式住居から、湿気を避けた風通しのいい高床式建物への移行を図るとしたら、「屋根壁一体型」の大きな明り取りと煙り出しがある竪穴式住居をそのまま持ち上げ、雨を防ぎ明りを取り入れ、煙だしのために屋根先を前に突き出した屋根壁一体型構造とした可能性が高いと考えます。

 弥生時代中期後葉(紀元前1世紀頃)の鳥取県米子市の稲吉角田(いなよしすみた)遺跡の土器図のA図は屋根だけで、B図には大破風屋根の下に竹を編んだ網代壁のような居室を書いた図になっていますが、Aの「屋根壁一体型」が古く、Bの「屋根壁分離型」が新しいと考えます。―「縄文ノート50 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ」参照

 

f:id:hinafkin:20211107202246j:plain

 弥生中期の堺市和泉市の池上・曽根遺跡の大型建物のような「屋根壁一体型」建物が本来の姿であり、世界遺産に登録された岐阜県富山県白川郷五箇山の合掌造りは一階部分を除くと上の階は妻側しか窓がない構造であり、縄文時代からの建築の伝統を受け継いでいると考えます。点線のような屋根とし、1階部分を柱だけとしたものが縄文時代の高床式住宅ではないでしょうか?

 

f:id:hinafkin:20211107202323j:plain

 大湯環状列石では寄棟屋根だけの建物を復元し、三内丸山遺跡では寄棟屋根と切妻屋根の屋根壁分離型の板壁建物を復元し、出雲大社の復元模型は切妻型のの屋根壁分離型の建物としていますが、私は池上・曽根遺跡の「屋根壁一体型建物」の復元こそが正解と考えます。

 

f:id:hinafkin:20211107202521j:plain

11 棟持柱と氷木(千木)のルーツ

 「縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」ではチカモリ遺跡(金沢市)・真脇遺跡能登町)・桜町遺跡(小矢部市)の環状木柱列を取り上げましたが、それらは単なる列柱ではなく、「円形平面竪穴式住居」から「方形平面高床式建物」への移行期の中間の「円形平面高床式建物」であると私は考えます。―「縄文ノート69 丸と四角の文明論(竪穴式住居とストーンサークル)」参照

 出雲大社心御柱(しんのみはしら)の周りに6本の側柱(がわばしら)をもうけ、その外側にせり出した棟木(むなぎ)を支える棟持柱(むなもちばしら)を設けているのとトラジャの大破風(はふ)の棟木を棟持柱で支えている構造は同じであり、両者の屋根は建築技術的にも類似性があります。

 

f:id:hinafkin:20211107202653j:plain

 6世紀前半の今城塚古墳(第26代継体天皇陵)でも大破風の棟が前にせり出した屋根がシンボリックに使われていることや出雲大社の棟持柱からみて、縄文時代の円形竪穴式住居の大きな明り取りと煙り出しの屋根構造が、方形の高床式に変わったときにも継承されて妻入屋根の屋根壁一体構造になった可能性と、東南アジアから直接に伝わった可能性の両方があると考えます。

 

f:id:hinafkin:20211107202757j:plain

 2019年10月に大学のOB会で茅野市の与助尾根遺跡の竪穴式住居を見学した時、煙り出しと明り取りの開口部の大きさにびっくりするともに、神社建築の千木(ちぎ:古事記では「氷木=ひぎ:筆者説は霊木」)のルーツは縄文時代の竪穴式住居の屋根の垂木を伸ばして棟木を支えたものと考えました。

 

f:id:hinafkin:20211107202838j:plain

 現場には伝統文化とモダニズムの融合を図ろうとした著名な建築家である堀口捨己氏設計の復元住宅とその骨組みも再現されていましたが、残念なことに垂木(屋根を面的に構成する材)を伸ばした千木(氷木)を設けていなかったものの、神社建築の千木(氷木)のルーツが竪穴式住居にあることを構造的に確認することができました。

 ただ堀口氏の復元住宅では斜めの垂木を支える妻側の梁(はり)しか設けておらず、平側の垂木を支える桁(けた)は設けていない点は不完全と考えます。前掲の図3の狭山市博物館の円錐型垂木構造の中に方形軸組を設けた構造とすべきではなかったかと考えます。

 また、前掲図3の今岡克也氏の図や堺市教育委員会の下田遺跡の説明図では方形柱・梁・桁軸組構造としていますが、垂木は棟木から地面まで連続しておらず、「垂木2段屋根構造」になっています。

 

         f:id:hinafkin:20211107203010j:plain

  円形平面の竪穴式住居から方形平面の切妻型高床住宅への転換期においては、複数のタイプの住宅があったと考えられます。

 竪穴式住居に「方形柱・梁・桁構造」の取り入れた転換期の構造の解明には、全ての柱穴の大きさと傾きの正確な調査が必要であり、さらに精密な発掘が求められます。

 なお、東南アジア山岳地帯には千木(氷木)のある建物は多く、日本の神社建築の千木(氷木)のルーツもまた、竪穴式住居からの「内発的発展」である可能性とともに、東南アジアから大破風や棟持柱とともに伝わった可能性も高いと考えます。

 「ピー信仰」が「霊(ひ)信仰」として伝わっていることやイモ食・もち食文化、ソバや温帯ジャポニカのルーツなどからみて、建築・住まい関係の言語の調査が求められます。

 

f:id:hinafkin:20211107203053j:plain

 

12 方形列柱建築復元の残された検討課題

 以上の検討により、さらに未解明の点がでてきており、列挙して各方面からの調査・研究を期待したいと思います。

① 高さをどう想定するか?(巨木柱長とするか、周辺の樹高を超えるとするか、など)

② 屋根材は何か?(茅・ワラ・檜皮・竹など)

③ 床材は何か?(丸太・板・竹)

④ 梯子・階段はどのように設けたか?

⑤ 阿久尻遺跡の正方形列柱建物から、中ツ原遺跡や三内丸山遺跡の長軸が蓼科山八甲田山を向いた長方形列柱建物では神山を崇拝するための窓がある構造ではなかったか?

⑥ 方形列柱建築の共同作業に関わった縄文集落の範囲は?(石や土器の分析など)

⑦ 建築に要した期間と必要な食料備蓄は?(縄文農耕の証明)

 

13 縄文文明を世界文明解明の基準に

 「縄文ノート48 縄文からの『日本列島文明論』」において、私は次のような表で「縄文文明」の規定を提案しましたが、赤字を部分を追加したいと思います。

 「世界四大文明」からの文明規定ではなく、アフリカ・アジア・アメリカの消え去った森林・木造・焼畑農耕文明や海人族文明などの全体的な解明に向け、世界でもっとも発掘調査が進み、侵略がなくて古い文明がそのまま現代にまで継承されてきた縄文文明の提案が求められます。

 そのためには、森林・木造文化を示すシンボルとして「縄文巨木建築の再現」とともに「日本中央縄文文明」の世界遺産登録運動が必要と考えます。

 

f:id:hinafkin:20211107203133j:plain

 

<参考「ヒナフキンの縄文ノート>

48 縄文からの「日本列島文明論」 

49 「日本中央縄文文明」の世界遺産登録をめざして

51 縄文社会・文明論の経過と課題

57  4大文明と神山信仰

58 多重構造の日本文化・文明

59 日本中央縄文文明世界遺産登録への条件づくり

72 共同体文明論

77 北海道・北東北の縄文世界遺産登録の次へ

82 縄文文明論の整理から世界遺産登録へ

84 戦争文明か和平文明か

90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制

 

□参考資料□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/