ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート105 世界最古の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群

 阿久遺跡は6000~5500年前頃の世界最古の巨大な集合墓地の「環状列石」と神山天神信仰の「立石(金精)から蓼科山へ向かう石列」の祭祀遺跡であり、中ツ原遺跡の「蓼科山信仰の楼観拝殿と仮面の女神像(国宝)」と合わせて縄文ノート104で明らかにしました。

 

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 蓼科山(女神山)信仰の「立石石列・楼観拝殿・女神像」の3点セットが同じ遺跡からは見つかっていませんが、HP(ホームページ)で検索していると阿久遺跡のすぐそばに阿久尻遺跡があり、なんと「20の大小の方形柱穴」があることが茅野市ホームページに掲載されていたのです。

 縄文人蓼科山信仰は阿久尻遺跡の「楼観拝殿」により補強され、棚畑遺跡の「縄文のビーナス(国宝)」を加えると5点セットになり、世界最古の神山天神信仰の宗教遺跡であることが明確となりました。「日本中央縄文文明」の世界遺産登録運動のシンボル施設として国営歴史公園への可能性が大きく開けてきました。

 

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1.20の方形柱穴列のある阿久尻遺跡

 「縄文ノート96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡」において、私は「現地の説明板によれば、7000年前頃の始祖集落から、6000年前頃には分散した氏族・部族の共同祭祀場に変わった可能性が高く、北の大早川と南の阿久川にはさまれた台地全体に遺跡が分布している可能性が高いと考えます。未発掘の環状集積群の南半分とともに、国史跡指定範囲よりさらに広く発掘調査が必要と考えます」「中ツ原遺跡の蓼科山を望む8本巨木跡、三内丸山遺跡八甲田山を望む6本巨木跡からみて、この地にも同じ規模の巨木楼観拝殿と女神像があった可能性が高いと考えます」と書きましたが、なんと、方形柱穴の阿久尻遺跡の写真が茅野市のホームページにあったのです。

 その写真(右)には穴の中に人が立っており、その大きさと深さが判ります。

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 その場所をHPの写真と国土地理院地図で調べてみると、大早川と阿久川にはさまれた台地の阿久遺跡の下流の台地でした。

 

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2.施設配置

 20の方形木柱列の配置は図5の通りです。図4のA区に15軒、B・C区に24軒 の住居跡と20の方形柱穴が検出されています。

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 古墳など見ても明らかなように、建築物や建造物は、一般的に「小から大、大から小」へと技術的・社会的に拡大期から衰退期への変化しますから、環状墓地に近いA区・B区の小さな方形柱穴が古く、C区の大きなものが最盛期で、その周辺の小さなものが衰退期であった可能性が考えられます。

 両側を川に挟まれた台地の一番高い東の阿久遺跡に環状列石(墓地)と立石・石列の墓地を置き、窪地を隔てた西の丘に順に西に向けて方形木柱列を建てていったと考えれられます。「前に祭祀施設・後ろに墓地」の前方後方墳前方後円墳の原型のような配置と考えます。

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  地盤高と大きなC9(図7)、C7,C5、C11、C10、C14の配置からは、「縄文お祭り広場」を中心とした円形の配置が浮かびあがります。その中央に立石などの祭祀遺構はなかったのでしょうか?

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 阿久尻遺跡・三内丸山遺跡・中ツ原遺跡の方形・矩形柱列の規模・時期は表1のとおりですが、建築時期からみて、四周を多くの柱で囲った「阿久尻型建物」を基本として、巨木化とともに柱を間引いた「三内丸山型6本柱建物」「中ツ原型8本柱建物」が派生したと考えられます。

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 人口が増え、各地に分住するようになった氏族が、各集落から氏族の霊(ひ)信仰の神木を持ち寄り、始祖の地で霊(ひ)信仰の共同祭祀を行った可能性が高く、それが8~18本の柱を方形に立てた神殿になったと考えれらます。

 今も各集落から山車・神輿・屋台などに各家の祠から神霊を移し、集落者、村社や郷社に運び、御旅所に運んで天に送り、再び迎えてまた各家に帰す行事が想定されます。

  なお、図8のように霧ケ峰・蓼科山八ヶ岳山麓(霧蓼八高原と仮名)には多くの旧石器・縄文遺跡があり、阿久尻遺跡と中ツ原遺跡の約1000年の間の縄文前期後半(6000~5000年前頃)の方形列穴遺跡が環状列石とワンセットで他にもある可能性が高く、「霧蓼八縄文巨木建築文明」という視点から他すべての縄文遺跡の「巨木柱痕」の再分析が求められます。

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3.阿久尻遺跡の方形木柱列は女神山・蓼科山信仰の楼観拝殿

 縄文ノート「23 2020八ヶ岳合宿報告縄文」「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「35  蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「40 信州の神那霊山(神名火山)と霊(ひ)信仰」「96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡」「104 日本最古の祭祀施設―阿久立棒・石列と中ツ原楼観拝殿」などにおいて、私はスサノオ大国主一族の神名火山(神那霊山)信仰のルーツとして、中ツ原遺跡の8本柱の巨木建築は蓼科山を女神山として信仰する高楼神殿(拝殿)であると主張してきました。

 そして、他にも同様の蓼科山信仰の拝殿があるはずであると予想しましたが、なんと隣接する阿久尻遺跡に20もの方形柱穴があり、図9のように、それらは1例除き、全て蓼科山を向いているのです。

 

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 これらの木柱列の建物は死者の霊(ひ)が神山・蓼科山から天に昇り、降りてくるという神山天神宗教の拝殿であり、生産力の向上と氏族・部族人口の増大により巨大化し、天に近づけるよう2000年近くかけて阿久尻遺跡から中ツ原遺跡の8本柱巨木楼観拝殿へとより高く、巨木柱になったと考えられます。

 阿久尻遺跡の方形木柱列内には生活痕がなく、かなり広い範囲から大勢の氏族・部族のメンバーが集まって方形木柱列周辺の竪穴式住居に一時的に住み、御柱祭のようにかなりの時間を掛けた共同作業が行われたと考えられ、阿久遺跡の環状列石の集団墓地の中心広場に置かれた立石(金精=女神の神代・依り代)と2列の石列(女神の霊(ひ)を運ぶ神使の通路)と同じく蓼科山を向いているのです。

 重要な点は、現代まで蓼科山が女神山(めのかみやま)として信仰され、蓼科神社の信仰が続き、御柱祭が続いていることで、世界遺産登録の決め手となります。

 

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 さらに興味深いのは阿久遺跡と蓼科山を結ぶ線状の途中に尖石(とがりいし)があり、古代から信仰されてきた痕跡があります。

 平津豊氏のHPによれば三角錐の石の頂点からの斜辺が蓼科山を向いているのです。

 また私は現地では確かめていませんが、平津豊氏の図が正確で見通しがいいなら、もう1つの斜辺は糸魚川断層帯にそって富士山に向かい、残る斜辺は西を向いているはずです。

 阿久遺跡から蓼科山を目指して歩いた縄文人はこの尖石を見つけ、その向きから神聖な石と考え、その傍に集落を築き、信仰していたのに違いありません。

  

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4 阿久遺跡・阿久尻遺跡を国営歴史公園に!

 関係者のご努力で県営金沢工業団地の建設にあたって阿久尻遺跡は工場の敷地から外されて緑地化されており、ここに10数棟の巨木楼観拝殿や竪穴式住居からなる史跡公園を建設することは可能です。

 

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 史跡保存と工業開発の併存を図ったケースとして、世界遺産登録の条件をクリアすると考えます。その景観を想像してみて下さい。

 一方、阿久遺跡は残念ながら中央自動車道が遺跡を分断していますが、高速道路の地下トンネル化ができれば、世界遺産登録の条件を満たすと考えます。立石と石列から蓼科山へ向かう眺望が確保されないと世界最古の神山天神信仰世界遺産としての価値はないと考えますが、そのような遺跡を分断した国の責任は重大です。

 

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 世界でもっとも古い新石器時代(土器時代:通称は縄文時代)の神山天神信仰の施設であり、巨木楼観拝殿を作り上げることが可能な焼畑農耕の部族社会の成立を示す遺跡として、全世界からの見学客を受け入れるためには、アプローチ整備が不可欠であり、原PAの「スマートIC」化と両遺跡の「ぷらっとパーク」化、さらには「原PAの下りパーキングエリア整備」が必要と考えます。

 

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 「日本中央縄文文明世界遺産」の登録運動のセンター施設として、その整備にあたっては、国営歴史公園としての取り組みを求める必要があると考えます。

 

5 世界最古の「神山天神信仰の巨木楼観拝殿」「焼畑農耕文明」の再確認へ

 前回の「縄文ノート104 日本最古の祭祀施設」の再掲になりますが、12000~8000年前の「人類最古の神殿・トルコのギョベクリ・テペ」は遺跡・遺物しか残っておらず、その宗教もこの遺跡を作った文明の姿も明らかになりませんが、阿久・阿久尻遺跡は「女神・神山信仰の天神信仰」を明確に示す世界最古の文明遺跡であり、さらに世界最古の焼畑農耕を示す遺跡として現代のお山信仰・神籬(霊洩木)信仰・金精信仰や御柱祭焼畑農業の伝統やソバの食文化などに続いています。

 今後、必要なことは「よそ者、若者、ばか者」による世界遺産登録運動であり、「縄文研究4巨人(藤森栄一・宮坂英弌・児玉司農武・今井野菊)」の伝統を持つ信州の市民歴史研究の底力の発揮と「日本ロマンチック街道」の長野・群馬・栃木の連携、さらに「千曲川信濃川文化」連携、「八ヶ岳山麓の「日本遺産」連携、「黒曜石・ヒスイ・塩の道」連携などの広がりが求められます。

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□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/