ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート83 縄文研究の7つの壁―外発的発展か内発的発展か

 私は建築学科出身で、建築計画や地域計画、都市計画、まちづくりなどの仕事をしてきた歴史・考古学の門外漢ですが、全国各地の仕事先でスサノオ大国主伝承に出合い、霊(ひ)信仰からスサノオ大国主建国論をまとめ、さらに縄文社会研究に進みましたが、私には縄文研究には立ちふさがる大きな壁があることを感じてきました。

 これまで、個別に論じてきたことのまとめになりますが、縄文研究を阻む7つの壁として、ここに整理しておきたいと考えます。重複が多くて恐縮ですが、お付き合いください。

 私が学んだ建築というのは、デザイン・構造・設備・造園・環境・街なみ景観・住まい方・地域計画・都市計画・住民運動など、利用者(施主や住民)や利害関係者、行政、事業者など様々な分野の意見を聞き、協力がないと成立しません。考古学や歴史学も同じではないでしょうか?

 若い歴史・考古学の関係者の皆さんはセクショナリズムに陥ることなく、どんどん他の芸術・国語学民俗学民族学・食物学・生物学・農学・遺伝子学などの分野と交流し、縄文研究を土器や遺物などの「モノ研究」に閉じ込めることなく、縄文文化・文明としてその全体の解明に乗り出し、世界に情報発信し、世界の旧石器・新石器時代の解明に貢献して欲しいと考えています。

 

第1の壁 弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観

 私は父が風呂で詩吟をうなっていた影響や、大学時代には日本の侵略戦争の実態を知り、金達寿さんの労作『日本の中の朝鮮文化』などを読み、この10年ほどは「漢和詩(漢字だけの和詩)」を年賀状に書くなど、中国・朝鮮文化に親しみを持つと戦争責任を感じており、「反中・反朝」「嫌中・嫌韓」派には組するつもりはありませんが、中国・朝鮮・アメリカなどの戦争・侵略の軍国主義派には反対し、共同・和平派と連帯したいと考えている、全ての民族の尊厳・自立・均等発展を願う汎地域主義(グローカライゼーション)です。

 その上で、日本の歴史においては、専制・戦争派と共同・和平派の2つの勢力が対立して歴史観を形成してきたとして分析する必要があると考えています。そして古代史では「弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服史観」をまずは正す必要があると考えています。

 縄文時代弥生時代を断絶したものとして切り離す外発的発展史観の「弥生人(中国人・朝鮮人)征服説」か、縄文時代からスサノオ大国主建国まで連続した内発的発展の「縄文人自立発展説」のどちらが正しいか、についてはこれまで折に触れて書いてきました。

 「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層言語構造や多層DNA構成(ミトコンドリアY染色体)に見られるように、日本人は縄文人をベースにしながら多様な人々が南・西・北からバラバラと日本列島にやってきた「DNA多様性民族」であり、中国語のような「主語―動詞-目的語」言語とならずに「主語-目的語-動詞」言語構造を維持しつづけていることをみても、「弥生人(中国人)征服説」は成立する余地などないのです。朝鮮語を含む4層構造言語となっていないことをみても、「弥生人朝鮮人)征服説」が成立する余地はなく、戦乱を逃れた移住者は多かったでしょうが言語には影響を与えていません。―「縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源説」「42 日本語起源論抜粋」参照

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 仮に毎年10人、竹筏の漁師が中国南方から流れ着いたなら、1万年で10万人になるのであり、それらの人々は「妻問夫招婚」の縄文社会の中に溶け込み、フィリピンや台湾のような多民族国になることも、イギリスのように侵略者の言語・文化が支配的となることもなかったのです。

 私は縄文文明全体の世界遺産登録を願っていますが、ユネスコ無形文化遺産の「山・鉾・屋台行事」「和食」と世界遺産の「厳島神社熊野古道、富士山信仰、宗像・沖ノ島遺産群」と縄文文明を切り離し、縄文時代を「未開時代」として申請するか、それとも縄文時代スサノオ大国主の「葦原中国」時代の宗教行事や農耕・食文化、宗教遺産を連続したものとして申請するか、今こそ明確にする必要があると考えます。「外発的発展の断絶史観」から「内発的発展の連続史観」への転換です。―「縄文ノート24 スサノオ大国主建国論からの縄文研究」参照

 縄文論をまともな科学レベルにするためには、まず根強い「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」による「縄文-弥生断絶史観」の壁を突破する必要があります。 

 

第2の壁 石器-縄文-弥生-古墳時代区分

 教師の教えに素直ではなかったへそ曲がりな私は「石器-縄文-弥生-古墳」時代という「石器・土器・土器・古墳」の「石土素材」基準の時代区分には小学生の時から「なぜ金属器時代が日本にはないのか」と疑問を持ち続けてきました。

 「素材」を基準にした時代区分にするなら、世界標準の「石器-土器-鉄器」時代区分に変えるか、森の国・日本としては「石器・木器-土器-鉄器」時代区分にすべきであり、そうしないなら、「鉄器」を時代区分から外す理由をはっきりと世界に示すべきです。

 素材ではなく用途を基準に「石器-縄文-弥生-古墳」時代を考えてみても、「道具(農具・工具)・武器-器具-器具-墓」という分類になり、統一基準のないバラバラ事件になります。道具・武器を基準とするなら「木器-石器-鉄器」基準になり、食器など器具を基準とするなら「木器-土器-鉄器」になるでしょう。

 このようなガラパゴス的な「イシドキドキバカ」時代区分により、「石器・縄文式土器時代=野蛮・未開、弥生式土器時代=文明」という外発的発展史観の「縄文・弥生分断」が生まれ、「稲作とともに、米を保存するために軽くて硬い弥生式土器が生まれた」などという奇妙な説明を私は小学校で教わってきたのです。米の保存なら軽くて湿気を閉じ込めて腐らせることのない米俵(米+田+藁)か木箱を使うのではないか、という疑問です。

 ところが佐賀県唐津市の菜畑遺跡から紀元前930年前頃の水田遺跡が見つかり、水稲栽培が弥生式土器よりも5~600年ほど古いそれまでの縄文式土器時代に遡ることが明らかになると、歴史・考古学者たちは「弥生式土器時代」から「土器時代」を取って「弥生時代」という地名名称に置き換え、縄文式土器時代に弥生時代を遡らせるというインチキ手品を行ったのですから、彼らには分類学の基礎ができておらず、論理性・科学性のかけらもないと言わざるをえません。

 東京都文京区の「弥生貝塚」からの地名を水田稲作開始の「弥生時代」とするなど問題外であり、発見場所の地名を尊重する考古学者なら「菜畑時代」として「石器―縄文―菜畑―古墳」時代と言い換えるべきでしょう。

 水稲栽培を転換点としたいのなら「弥生時代」を「水稲時代」に言い換え、「石器-土器-水稲-古墳」時代という時代区分にすべきでしょう。しかし、それでも「材料・道具・武器-器具-農耕-墓」の分類学バラバラ事件は解決しませんが。

 鉄器類の発掘が進んだ今こそ、森林文化や土器鍋食という特徴のある日本列島においては「石器・木器-土器-鉄器」の時代区分に変え、縄文時代が「芋豆栗6穀」栽培による土器鍋食文化の時代であったことを検討すべきでしょう。

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第3の壁 大和中心史観

 私は「日本に鉄器時代がないのはおかしい」と考え続けていましたが、邪馬台国論争の安本美典氏の鉄器の分析や最近の出雲・伯耆での大量の鉄器発掘でようやくその理由が明らかになりました。

 北九州・出雲で発掘されるようになった大量の鉄器と比して、大和では鉄器の出土がごくごく少量なのです。私も昔、橿原考古学研究所附属博物館や唐古・鍵考古学ミュージアムを見学してびっくりしたのですが、卑弥呼の時代の大和の石剣など、まだ石器時代ではないかと感じました。

 大和中心史観にとって、大和には少ない「鉄器」を論じることはタブーであり、時代区分から「鉄器時代」を外さないと邪馬台国九州説に対抗できなかったのです。その代わりに土器や三角縁神獣鏡の様式分析に熱中するとともに、「大きいことはいいことだ」と前方後円墳の箸墓を「ヤマトトトヒモモソヒメ=卑弥呼=アマテル(本居宣長説はアマテラス)」の墓としてアピールしているのです。

 王墓の研究についても、全国の王墓全体の設置場所・形状・大きさの歴史的変遷を総合的に分析することもなく「弥生式墳丘墓」と「古墳」を断絶したものとしてまず区分し、播磨の養久山古墳のような山上の前方後円墳を起源とするのではなく、大和の巨大な箸墓から新たな「古墳時代」が始まったかのような空想の歴史を創作しているのです。

 「銅鏡」もまた同じです。紀元前から輸入されていた漢鏡や仿製鏡・国内鏡などの全国的な分布からではなく、三角縁神獣鏡のみをクローズアップし、それを卑弥呼が魏皇帝からもらった鏡とするとともに、出雲で集中して発見された銅槍(通説は銅剣)・銅矛・銅鐸の全国的な分布をもとにした「青銅器時代」の主張を行っていません。

 「土器」だけでなく、王墓や銅器についても大和中心史観による「断絶史観」がまかり通っているのです。

 出雲国風土記は「五百つ鉏々猶所取り取らして天の下所造らしし大穴持命」として、大国主が鉄先鉏(鉏=金+且(かさねる)、鋤=金+助)で「水穂」の国づくりを行った王であり、鉄器農具の普及による葦原(沖積平野)で水利水田稲作の普及を行った王であることをはっきりと記しています。また播磨国風土記大国主と御子たちの水利水田稲作の普及をリアルに伝えています。―「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(『季刊 日本主義』26号2014夏)参照

 魏書東夷伝倭人条は壱岐対馬の人々が「乗船南北市糴(してき)」(船に乗って南北に市糴(してき)する)と書かれており、「糴(てき)」は「入+米+翟」で、「翟(てき)=羽+隹(とり)」ですから、「糴(てき)」(入+米+羽+隹)は鳥が羽を広げたような帆船を自在に操って米を入れる」ということを示しており、魏志東夷伝辰韓条では「国、鉄を出す、韓・濊(わい)・倭皆従いてこれを取る」と書き、魏志東夷伝弁辰条では「諸市買皆用鐵」と書き分けていることを見ると、辰韓新羅)では倭国との「鉄取る」の米鉄管理交易(鉄鉱石の採掘・製鉄・輸入)、弁辰(辰韓の南)では市での米鉄交易が行われていたことを示しています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

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 さらに三国史記新羅本紀は紀元59年に4代新羅王の倭人の脱解(たれ)が倭国と国交を結んだと書いており、古事記はイヤナギがスサノオに「汝命(なんじみこと)は、海原を知らせ」と命じたとし、日本書紀一書にはスサノオが子のイタケル(五十猛=委武)を連れて新羅に渡ったという記載があり、後漢光武帝は紀元57年に「漢委奴国王」の金印を付与していますから、後漢新羅と外交・通商を行った「委奴国王」はスサノオしか考えられません。

 古代天皇の平均在位年数は約11年(安本美典氏)ですから、スサノオ大国主7代の在位77年となり、魏書東夷伝倭人条に書かれた「住(とど)まるところ七~八十年」の男王と符合します。

 この百余国の「委奴(いな=稲)国」から「大乱」によって北九州の「三十国」の邪馬壹国が分離独立して「相攻伐」の後に卑弥呼(霊御子)を共立し、残る70余国はスサノオ大国主一族が中四国から大和(大倭:おおわ)まで支配し、邪馬壹国は弁辰と「市糴(してき)」の米鉄交易、スサノオ大国主一族は辰韓と「鉄取」の米鉄国家交易を行っていたことが明らかです。

 大和中心史観は記紀風土記に書かれた鉄器農具普及と水利水田稲作の主体を隠し、製鉄の起源を遅らせてあたかも大和朝廷主導のようにしていますが、考古学と記紀・魏書東夷伝三国史記新羅本紀・出雲国風土記播磨国風土記の記載を無視したフィクションであり、「鉄器文明」の担い手は紀元1~4世紀のスサノオ大国主一族であったという定点から古代史を再構成すべきです。

 播磨国風土記に「(大神の)妹玉津日女(たまつひめ)命、生ける鹿を捕って臥せ、その腹を割いて、稲をその血に種いた。よりて、一夜の間に苗が生えたので、取って植えさせた。大国主は、『お前はなぜ五月の夜に植えたのか』と言って、他の所に去った」(讃容(さよう)郡)、「大水(おおみず)神・・・『吾は宍(しし)の血を以て佃(つくだ:開墾して作った田)を作る。故、河の水を欲しない』と辞して言った。その時、丹津日子(注:大国主の御子)、『この神、河を掘ることにあきて、そう言ったのであろう』と述べた」(賀毛(かも)郡雲潤(うるみ)里)と書かれているように、鹿や猪の血を捧げて行う呪術的な農耕に対し、大国主親子が稲を植える時期を遅らせてウンカの害を防ぎ、水路を引いて行う水田耕作を指導していたにも関わらず従わなかった氏族があったことをリアルに伝えています。―「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構(『季刊 日本主義』2014年)」参照

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 「大和中心史観」のフィクションから抜け出し、「陸稲栽培を行っていた縄文人スサノオ大国主一族の鉄先鋤の普及により水利水田稲作に転換した」「スサノオ大国主一族は新羅との米鉄交易王であった」という紀元1~4世紀の定点から遡り、縄文時代陸稲栽培の分析に進むべきです。

 

第4の壁 水稲農耕史観

 「縄文・弥生断絶史観」による「縄文=採取漁撈狩猟社会、弥生=水稲農耕社会」との歴史区分は、歴史学だけでなく考古学においても根強いようです。農耕開始は弥生時代水稲栽培からとする「弥生農耕史観」のフィクションです。

 私はスサノオ大国主一族の国を「豊葦原水穂国」「葦原中国」と記紀が記したところに注目しますが、「委奴(いな=稲)国」のように単純に「稲(いな)国」「米(こめ)国」と書かずになぜ「水穂国」と書き、わざわざその場所を「葦原」と書いたのかです。

 「水穂(みずほ)」と書いたということは「陸穂=陸稲(おかぼ)」が別にあり、「葦原(あしはら)」と書いたということは「原(はる=岡原・丘原(おかはら・おかばる)」とは異なる葦の生えた「葦原」での農耕による建国であったことを示しています。「岡原・丘原」での「陸穂=陸稲」栽培から、沖積平野の「葦原」を鉄先鋤で開拓して水利水田(佃=人+田)での「水穂」栽培が行われたことを正確に記録しているのです。

 「豊葦原水穂国」は森を焼いた「原(はら、ばる)」での縄文人天水に頼る焼畑農業に対し、スサノオ大国主一族の「鉄先鋤による沖積平野の葦原での豊かな水穂国」の建国をたたえた名称なのです。

 ヤムイモを「水芋・里芋」の名前で区別したのと同じように、稲についても「水穂・陸穂」の区別が行われていたのです。

 「はたけ」について「畑(火+田)」「畠(白+田)」の2つの倭製漢字が使い分けられていることもまた同じです。焼畑の「畑作(火+田+作)」とともに、秋から春にかけて水田から水を抜いた乾田(畑=白+田)で「畠作」が行われており、区別するために2種類の「畑・畠」の倭製漢字が作られたのです。

 例えば、「蕎麦(そば)」は「蕎+麦」であり、「蕎(和音:そば、呉音:キョウ・ギョウ、漢音:キョウ)」は「サ+夭(人の走る姿)+高」ですから、「高地人の草の麦」というような意味になり、森を切り開いた山人族の焼畑農耕を示しています。

 子どもの頃、母方の播磨の田舎に行くと、芋名月で甘い団子ではなく「サトイモ」を供えるのは意味不明でありがっかりしたものですが、「中秋の名月サトイモを備えて月見する芋名月や、輪切りにしたサトイモを模した「丸餅」を雑煮として西日本で食べる習慣などからみて、その起源は稲や粟を備える祭りより古い可能性」(縄文ノート25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」)があるのです。

 出雲風土記に「嶋根郡・楯逢郡に芋サトイモ、意宇郡・嶋根郡・秋鹿郡・楯逢郡・飯石郡・大原郡に薯蕷ヤマノイモが産物」(縄文ノート26 縄文農耕についての補足)と書かれていることからみても、縄文芋食は裏付けられます。

 水稲中心の農業・食生活しかイメージできず、戦前まで山村で行われていた芋豆栗6穀(陸稲・麦・粟・稗・黍・蕎麦)の焼畑農業を認めない「縄文・弥生断絶史観」は、農耕用語が全て「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造で、倭音倭語がドラヴィダ語に近いという事実や、3国のイネのDNA分析の結果からみて中国・朝鮮からの伝来ではないこと、縄文土器のおこげと吹きこぼれの成分分析でC3植物である「イネ、オオムギ、ダイズ・アズキ、イモなど」が含まれている可能性が高いこと、縄文人由来のY染色体D型が中国人には見られないことなど、国語学や生物学・人類学を無視した偏狭・非科学的な縄文学と言わざるをえません。―「縄文ノート29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」参照

 なお、「縄文ノート29」で指摘しましたが、南川雅男北大教授の古人骨の分析はC3植物の対照分析として「ドングリ等」だけをあげ、「イネ、オオムギ、ダイズ・アズキ、イモなど」の可能性を排除しており、吉田邦夫東大准教授・西田泰民新潟県立歴史博物館専門研究員の縄文土器のおこげの分析もまた、C3植物の対照分析で「イネ、オオムギ」を排除しており、いずれも縄文農耕を可能性を否定するための偏った報告と言わざるをえず、科学的とはとても言えません。

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 いくら骨とおこげのDNA分析が科学的であっても、対照サンプルがイネやムギを排除した偏ったものであったのでは、「縄文農耕を否定するためのエセ科学」という以外にありません。

 大野晋氏の農業関係言語ドラヴィダ語説やドラヴィダ族の「ホンガ」の鳥追い行事の長野・新潟・秋田・青森への伝播、佐藤洋一郎総合地球環境学研究所名誉教授らのRM1遺伝子の分析などからみて、「縄文時代は採取漁撈狩猟の未開段階」「水稲稲作からが農耕時代」とする歴史・考古学者たちの主張はもはや成立しません。―「縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源説」「42 日本語起源論抜粋」「30 『ポンガ』からの『縄文土器縁飾り』再考」「26 縄文農耕についての補足」参照

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 「森林焼畑農耕」からの1万数千年の縄文文明・文化の見直しが求められます。

 

第5の壁 文献・伝承無視史観

 イギリスの歴史家のアーノルド・J・トインビーやアメリカの国際政治学者のサミュエル・ハンチントンが「日本文明論」を主張しているにもかかわらず、日本の歴史・考古学者は確たる「文明論」を持たず、縄文時代については「未開社会」とし、彼らの「日本文明は中国文明の衛星文明・派生文明」という位置づけを容認しています。

 推古天皇聖徳太子蘇我馬子の遣隋使派遣・冠位十二階制度・十七条憲法制定や、中大兄皇子中臣鎌足による大化の改新から文明国家となった、などと学校で教えられてきたのですから当然といえば当然なのですが、確かに漢字・儒教文化や政治制度でいえば中国文明の影響が大きく、倭音倭語や仏教文化はインド文明の影響を受けてきていますが、縄文1万数千年の文化・文明には独自のものがないのでしょうか?

 縄文文化・文明の独自性の主張するためには縄文遺跡・遺物からだけでは無理であり、記紀風土記などに書かれた紀元前後から4世紀にかけての倭国神話や民間伝承をもとに、縄文遺跡・遺物に見られる文化・文明を読み解くことが必要なのです。ところが日本の歴史・考古学者たちは記紀は8世紀の創作として全否定するか、都合のいいところだけをピックアップして利用してきたのですから、縄文文化・文明解明の手掛かりを放棄してしまっているのです。左派・リベラルの「記紀神話全否定派」と右派の「つまみぐい派」です。

 天皇一族の建国を信じたい右翼は、アマテル神話(アマテラスは本居宣長説)の高天原のある「天安川 (あまのやすかわ)」「筑紫日向(ひな)の橘小門(たちばなのおど)の阿波岐原(あわきばる)」という具体的な地名や天下りに登場する地名、薩摩半島西南端の笠沙の猟師・山幸彦(山人)の龍宮(琉球)訪問の物語、初代大和天皇ワカミケヌ(若御毛沼)の祖母・母が龍宮(琉球)の姉妹であるとする記紀の記述などは都合が悪く、記紀神話の大部分を占めるスサノオ大国主建国神話とともにすべてを排除し、アマテルだけをつまみ食いし、7代孝霊天皇の皇女のモモソヒメ(スサノオの子の大物主を襲名したオオタタネコの妻)とし、さらには卑弥呼にしてしまうという「アマテル=モモソヒメ=卑弥呼」という三位一体の空想を繰り広げていますが、この空想は記紀否定によって始めて可能になるのです。

 一方、戦後の左翼・リベラル派もまた、本居宣長の「世界を照らすアマテラス太陽神」空想説を受け継ぎ天皇絶対神とした命令によって国民を侵略戦争に駆り立てた神道と神社への反発から、記紀神話を全面否定し、歴史書として分析することを回避してきましたから、縄文時代解明の手掛かりも興味なくしてしまいました。

 右派の「高天原空想説」「笠沙3代天皇無視説」「アマテルつまみ食い説」「スサノオ大国主建国否定説」と左派・リベラルの「記紀神話全否定説」とは記紀風土記等の文献や神社伝承無視という点において、共謀・共闘が成立しているのです。

 天皇を無視したい左派・リベラルはともかくとして、右派のみなさんは歴代天皇で最高の文化人・知識人である52代が「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張津島神社(祭神はスサノオ)に贈り、66代一条天皇は「天王社」の号を贈っていることを否定すべきではないでしょう。「天皇(てんのう)の前にスサノオ天王(てんのう)あり」を天皇家は公認しているのです。そしてスサノオは「天王(てんのう)さん」として各地で祀られ、親しまれてきているのです。

 なお、この津島神社の領主でスサノオを祀る剣神社の神官一族の末裔であった織田信長は、5階は正八角形(夢殿や6代天皇陵の形)、6階は正四角形(出雲の方墳や前方後方墳の形)の自室を設けた「天主閣」とした安土城を建設し、自らをスサノオの血を受け継ぐ天主=天王とする絶対君主制を確立しようとしたのです。

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 右派は本居宣長の「世界を照らすアマテラス太陽神」信仰を受け継ぎ、縄文遺跡のストーンサークルや円形石組を太陽神信仰としていますが、そもそも天皇家が太陽信仰の祭典を行ったことなどなく、宮中にアマテルを祖先神として祀っておらず、空想の積み重ねという以外にありません。

 左翼・リベラル派は記紀神話全てを8世紀の創作とし、紀元1世紀からのスサノオ大国主一族の百余国の「委奴(いな=稲)国」の建国記述や、侵略戦争に全面協力した神社の伝承など、全てを否定したため、縄文研究に欠かせない八百万神の「霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰」なども無視せざるをえず、縄文宗教を分析する手掛かりを失っています。

 私は古代史研究は歴史学者が大好きな「呉音漢語・漢音漢語」ではなく、「倭音倭語」での分析が必要と考えていますが、記紀風土記を歴史書として倭音倭語による分析を行い、真偽をきちんと分析するところから再構築し、その上で縄文研究に入るべきと強く主張したいと思います。

 それができない限り、スサノオ大国主一族に由来する「山・鉾・屋台行事」「和食」「4つの宗教世界遺産」と「縄文文明の世界遺産登録」は無関係とする以外になく、縄文文明解明の手掛かりは封印されたままになります。

 

第6の壁 拝物・物量史観 

 「弥生人征服史観」が未だに続いている理由として、日本の歴史・考古学者たちが自然環境を軽視し、芸術や言語・民俗・宗教などの「芸術・文化・宗教」を「低級」な科学対象外とし、「物分析」を科学として考えるという薄っぺらで偏狭な科学主義と、ピラミッドやジグラット箸墓古墳などの「大きなことはいいことだ」の「物量崇拝」の文明観にあると考えます。

 この「拝物思想」は「拝金思想」とともに現代の主流思想となっていますから、根強い多数派説を形成しています。しかしながら、日本が科学技術・経済大国から転落しつつあるように、巨大なピラミッドやジグラット、古代都市の古代文明が滅び、中国の統一王朝が民衆反乱により滅亡を繰り返してきたことみても、「物質・物量崇拝」文明を最高の価値観とする文明史観はこれからの「SDGsエス・ディー・ジーズ:Sustainable Development Goals:持続可能な発展目標」の未来への道標にはならないと考えます。

 そもそも「縄文芸術・文化」を世界に認知させ、縄文研究に光を当てたのは芸術家の岡本太郎氏であり、そのことは誰も否定できないと思います。縄文土器を単なる「生活用具」とみるのではなく、芸術作品としての価値を世界の人々は認めたのです。

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 そうである以上、縄文時代の分析・解明にあたっては「芸術・文化」にまず光を当てるべきであり、当時の人々の価値観の中心にあった宗教分析を重視すべきなのです。その手掛かりは、本居宣長の「世界を照らすアマテラス太陽神」という空想ではなく、スサノオ大国主建国の八百万神の「霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰」と考えます。

 未だに、冬の寒い時期に女性が土器を作っているイメージが流布していますが、私は縄文芸術家が生まれ、霊(ひ)信仰の神器としてデザイン性の極めて高い火焔型土器(私はホンガ(沸騰)を祝う龍紋土器と考えます)や女神像を製作した、と考えています。黒曜石採掘・流通と同様に、祭器としての土器の分業・交易体制が確立していたのです。

 「山・鉾・屋台行事」「和食」「4つの宗教世界遺産厳島神社熊野古道、富士山信仰、宗像・沖ノ島遺産群)」などを「科学」外の別世界として縄文文化・文明と切り離して考えてきた歴史・考古学者の物神崇拝に対し、縄文時代からスサノオ大国主建国へと連続した芸術・文化・宗教文明としてとらえ、世界にアピールし、世界遺産登録を果たすべきと考えます。

 明治政府は「金精信仰」などは野蛮・未開の民俗として禁止しましたが、縄文時代の石棒・円形石組・ストーンサークルは性器信仰として江戸時代で続き、明治政府の禁止にも関わらず今も祭りとして各地で細々と続いているのです。

 神名火山(神那霊山)や神籬(ひもろぎ:霊洩木)、磐座(いわくら)信仰とともに、重要な宗教・文化遺産として位置づけるべきと考えます。

 

第7の壁 天皇中心史観

 第1から第6の「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」「石器-縄文-弥生-古墳時代区分」「大和中心史観」「水稲農耕史観」「文献・伝承無視史観」「ただもの(唯物)史観」がなぜこれほどまでに根強く、歴史・考古学者たちの論理的・統一的・科学的な思考を阻んできたのか、その根本的な理由を考えてみたいと思います。

 古事記によれば「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国」「葦原中国」はスサノオ大国主一族の国であり、「大国主と少彦名が力を合わせて天下を経営し、鳥獣・昆虫害を払い、百姓から今も恩頼りにされている」(日本書紀)とはっきりと書いており、記紀の神話時代のほとんどはスサノオ大国主建国に関わる内容です。

 「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」に固執し、鉄器時代を認めず、大和の箸墓古墳をシンボル化し、縄文稲作を頑として認めず、記紀神話を無視し、宗教分析を輸入概念の「アニミズム」「マナイムズ」などに押し込めるのも、全ては天皇一族がこの国の「本主」「天王」であるという新皇国史観を確立したいからではないでしょうか。

 一方、天皇制にとらわれることのない左翼・リベラル派ですが、朝鮮人・中国人差別への反対からか「天皇一族は弥生人(中国人・朝鮮人)」「稲作は長江流域・朝鮮半島から伝播」とし、記紀神話全否定の「物証分析こそ科学」にこだわり、皇国史観の先兵となり国民を戦争に駆り立てた神社批判と氏族社会身分制度への反発から「神社・民間伝承無視」に陥っているのです。

 右派は天皇を神とする戦前の荒唐無稽な「皇国史観」からは脱し、「天皇中心史観」の再構築を迫られており、「スサノオ大国主一族中心の建国神話」や「高天原の位置を示す天安川・筑紫日向(ひな)の橘小門の阿波岐原などの地名」「猟師(山幸彦=山人)の笠沙天皇家3代」「笠沙2・3代目の妻が龍宮(琉球)の姉妹」などの記紀記載をことごとく無視し、天皇家のルーツは宮崎県の日向(ひむか:景行天皇命名日本書紀が記載した後世の地名)とし、記紀記載を無視して卑弥呼=モモソヒメ、アマテル=卑弥呼=モモソヒメ説というウルトラ空想説まで持ち出し、「高天原・笠沙・琉球ルーツ隠し」の「大和中心史観」に陥っています。

 そして、「物証科学」のシンボルとして三角縁神獣鏡と箸墓を位置づけ、「卑弥呼=モモソヒメ=アマテル」空想説のもとで、右派と左派・リベラルは「大和中心史観」と「ドキドキバカ史観」の共同戦線を張っているのです。

 「弥生時代はなかった」「弥生人(中国人・朝鮮人)征服などなかった」「スサノオ大国主一族も天皇一族も縄文人であった」「弥生人天皇一族による建国は空想」と私は考えていますが、皆さんは「スサノオ大国主一族、天皇一族は弥生人(中国人・朝鮮人)」というフィクションをいつまで信じ続けますか?

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まとめ

 批判というのは創造的作業ではなく、めんどくさくて面白くもない作業なのですが、縄文論を世界にアピールしようとすると、縄文論ををおとしめ、「未開」の閉じ込めてきた歴史・考古学者の「7つの壁」を突破する必要があります。

 すでに「縄文文明論」は芸術・哲学・植物学・農学・民族学民俗学・地理学・経済学・宗教学・社会学国語学・遺伝子学などを網羅した総合的な展開を見せており、必要なのは歴史・考古学者のみなさんが「7つの壁」から外に出てきて、世界標準を目指すことだけだと考えます。

 「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録の次に、縄文の世界遺産登録を目指すのであれば、不可欠の作業と考えます。

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/