ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

「縄文ノート81 おっぱいからの森林農耕論」の修正

 記憶力がとみに衰え、「縄文ノート24 スサノオ大国主建国からの縄文研究」において「高天原(甘木高台)からのニニギの『天下り』逃避行ルート」の図を書いていたことをすっかり忘れていましたので、追加しました。

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 縄文論とは直接には関係しませんが、「縄文時代」→「弥生時代」→「古墳時代天皇家建国)」という「ドキドキバカ史観」が横行し、記紀や魏書東夷伝倭人条、三国史記新羅本紀などの記載を無視した弥生人(中国人・朝鮮人天皇家による建国などという空想がまことしやかに信じられ、「縄文時代」を野蛮・未開時代とする「断絶史観」が幅を利かせている状況に対し、縄文時代からスサノオ大国主の建国へと連続した内発的発展歴史観の確立に向けて、図を1枚、追加しました。

 「縄文ノート24 スサノオ大国主建国からの縄文研究」から図と次の文章を再掲します。「高天原」=卑弥呼の宮殿の位置については、魏書東夷伝倭人条の「正使陸行・副使水行」の距離・日程計算から旧甘木市の高台であることを突き止めていますので、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)をご参照下さい。

  

  古事記日本書紀によれば、笠沙天皇家初代のニニギの「天下り」は、「筑紫日向(ちくしのひな:旧甘木市蜷(ひな)城)の高天原(甘木=天城の高台)」→「猿田毘古」(佐田)→「浮橋」(浮羽)→「丘:ひたお」(日田)→「久士布流岳」(久重山)→「膂宍之空国(そししのむなくに:猪の背骨のような国のない九州山地)」→「高千穂峰」(高千穂峰などのある霧島連峰)→「笠沙阿多吾田長屋竹屋」(アンダーラインは記紀記載地名)と「空国」の九州山地を縦断した薩摩(狭投馬:さつま)半島南西端への逃避行であり、高天原からの征服王の移動ではありません。卑弥呼の後継者争いで破れた男王派の山人族(やまと:狩猟民)の小部隊が平野部の敵地の国々を避けての逃走経路です。

 

 記紀の神話の全てを8世紀の創作とするトンデモ説が見られますが、大和の官僚たちが地図もない時代にこのような地名を知るわけもなく、また、ニニギが笠沙にたどり着いて『ここは韓国に向い、笠沙の御前(岬)を真来(真北)とおりて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。いとよき地だ』と述べたというのは真実の伝承を伝えている「秘密の暴露」がみられます。

 8世紀に遣唐使などとして漢文を学んだ官僚たちが建国史を創作するなら、大和の三輪山二上山などへ天皇家の祖先は天から天下った、と書けばよいのであって、薩摩半島南西端に3代が猟師(山幸彦=山人)として暮らしていたなどと創作する必要はないのです。

 高天原からのニニギの天下りは、垂直移動ではなく、具体的な地名・地理を述べた水平移動であり。それは征服王の移動などではなく、卑弥呼の後継者争いで破れた男王派の山人族(やまと:狩猟民)の小部隊が平野部の女王・壹与派の敵地の国々を避けて逃走経路であることを記紀は隠していないのです。