ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート46(Ⅴ-23) 太田・覚張氏らの縄文人「ルーツは南・ルートは北」説は!?

 放射性炭素年代測定や遺伝子科学の進歩により、考古学は人類の歴史の年代と民族や農産物などの起源と拡散を明らかできるようになりました。

 縄文人の起源については、これまで「南方説」「北方説」で争われてきましたが、太田博樹東大教授と覚張(かくはり)隆史金沢大助教らの「ルーツは南、ルートは北」という説がでてきました。

 私は縄文人の「ルーツは南、ルートは南北合流説」のドラヴィダ海人・山人族説ですが、「ルーツ南」説が伊川貝塚人のDNAでも裏付けられました。残る「ルート」についても、私の「ルートは南北合流説」の北のドラヴィダ山人族説は裏付けられ、あとは「ルート南」の「海の道」のドラヴィダ海人・山人族の移動説が成立するかどうかです。

 一緒に考えてみていただければと思います。         210124 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

Ⅴ-23 太田・覚張氏らの縄文人「ルーツは南・ルートは北」説は!?

                                                                                                 201018→210124 雛元昌弘

  2010年10月18日の『東京新聞』は「縄文人のルーツは『南』に」という太田博樹東大教授と覚張(かくはり)隆史金沢大助教らの説を掲載しています。

 愛知県田原市の2500年前の伊川貝塚から発見された女性のDNAがアイヌ民族のDNAに極めて近く、バイカル湖近くで見つかった24000年前の人骨の影響は見られず、ラオスで出土した8000年前の人骨に近いというのです。

                    『東京新聞』 2010年10月18日(日)朝刊
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 私は2014年6月に「『人類の旅』と『縄文稲作』と『三大穀物単一起源説』」を書いて以来、日本列島人(ジャポネシアン)南方起源説を追い、2014年の「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(季刊日本主義26)ではアイヌと沖縄人が漁民であり、アイヌの「イタオマチプ」と沖縄の「サバニ」(奄美大島では「板付け船」)が丸木舟に舷側板を付けた同じ構造であることから、同じ海洋民の縄文人をルーツとしているのではないかと考え、検討を続けてきました。

 2020年10月15日には、縄文人のルーツについて「縄文人ドラえもん宣言(ドラヴィダ海人・山人族宣言)」をブログ・FBに書き、不当な批判を浴びた大野晋さんの「日本語タミル語起源説(タミル語はドラヴィダ語の一部)」の復権を果たしたいと考えていた私にとっては「縄文人のルーツは『南』に」のこの報道は大変うれしい説です。

 しかしながら、両氏のDNA分析の結果自体は高く評価したいのですが、その考察部分には同意できないところが4点あります。

 第1点は、「ルーツは南でも、日本列島に渡ってくるときは、北海道を経由した可能性がある」としている点です。

 太田・覚張両氏は海や舟が嫌いなのか、旧来ながらの「ウォークマン史観」の北方起源説に先祖帰りしているのです。

 東京新聞の添付図(図1)が正しいなら、ドラヴィダ海人・山人族の縄文人は4万年前の中国・田園洞人よりも遅く、アンダマン諸島ミャンマーの南のインド領)のオンゲ族と分かれて日本列島にたどり着き、2500年前の伊川縄文人は16000年前頃には土器製造を始めた縄文人の子孫になります。

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 図2に示すように、Y染色体Ⅾ系人はこのアンダマン諸島チベットブータンミャンマーラオス雲南山岳地域、日本、オホーツク海のシベリア沿岸、カムチャッカ半島サハリン島、北海道に集中しており、私はこの図からY染色体Ⅾ系人は、「海の道」経由とシベリアの「マンモスの道」経由の南と北の2方向から日本列島にやってきたという「南北合流説」を考えています。

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 縄文人が熱帯ジャポニカ陸稲の赤米やもち米)・ヒョウタン・ウリ・エゴマなど南方系の穀類・野菜を栽培し、東南アジア諸国の単語を多く吸収していることからみて、ドラヴィダ系山人族はミャンマー海岸部やアンダマン諸島などのドラヴィダ系海人族とともに「海の道」を通って日本列島にやってきたことが明らかです。一方、同じY染色体Ⅾ系のドラヴィダ系山人族はチベットから「マンモスの道」を通ってオホーツク海を目指し、アイヌ人になったと考えます。

 縄文人の大多数はドラヴィダ系山人族とドラヴィダ系海人族が協力して海を通ってスンダランドをへて竹筏と丸木舟で日本列島にやってきた、と考えるのが自然であり、縄文人の多数がチベット高原モンゴル高原を越え、シベリアからの困難なルートを大移動したドラヴィダ系山人族というのは合理的は判断とは思えません。

 まず、気候条件は熱帯・温帯がよく、寒暖の差が激しく、乾燥したチベット高原モンゴル高原・シベリアは厳しい生存条件となります。さらに魚や果物、イモ・豆・穀類などの食料や塩は「海の道」では簡単に確保できますが、草原・砂漠・ツンドラ地帯では容易ではありません。

 また「海の道」だと先住民のY染色体O型の部族を間を抜けるのは容易であり、食料争奪の争いもなく、仮に争いが生じても、竹筏や丸木舟で一斉に別の島や入り江・半島などに移住すればよく、安全です。ドラヴィダ系山人・海人族の場合、弓矢が得意で集団の狩猟に慣れている勇敢な山人族と航海術にたけた海人族がいますから、干渉されることもなく「海の道」を移動できたと考えられます。一方、マンモスなどの大型動物を追っての「陸の道」だと、同じ狩猟民同士の獲物などでの争いはし烈で、その間を抜ける大移動ははるかに危険で、困難であったと考えられます。

 「海の道」での平和な移動が容易であったことは、インドネシアやフィリピン、台湾に多くの少数民族が共存していることからみても明らかです。

 近年の東アジアでの集中豪雨の原因として、インド洋の高水温による水蒸気と太平洋の北東風による水蒸気が中国・朝鮮半島・日本列島で重なったことが原因と指摘されていますが、図3のように、夏の南西風を利用すれば、「アフリカの角」のエチオピアあたりの「主語-目的語-動詞」言語族が海岸沿いにインドに移動し、ドラヴィダ系海人族がスリランカからミャンマー海岸部・アンダマン諸島に航海することは容易であったと考えられます。

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 実際、4600~3800年頃に栄えたインダス文明を作ったドラヴィダ族はこの季節風を利用してメソポタミアと活発に交易していた海人族であることが明らかとなっています。

 帆船は横風を受けるもっともスピードがでることからみて、アンダマン諸島からマレーシア半島に沿って季節風を利用してスンダランドに移住し、さらに北東に進み、黒潮に乗って日本列島にやってくるのは海人族にとっては容易なのです。

 第2点は、日本の2500年前の伊川津人のDNAには、24000年前のバイカル湖付近の人骨のDNAの影響は見られないとしている点です。多民族が混じっている可能性が高いバイカル湖付近でたまたま発見されたDNAから、このような判断を下すのは適当ではありません。

 松本秀雄大医大名誉教授は、抗体を形成する免疫グロブリンを決定する遺伝子(Gm遺伝子)から「バイカル湖畔起源説」(ブリアート人説)を提案していますが、これはY染色体Ⅾ系統の分布とは矛盾しません。太田・覚張説は「偏ったサンプルリスク」を免れていません。

 第3点は、「ルーツは南、ルートは北」という太田・覚張両氏の北方経由説には、細石刃の槍くらいしか考古学の裏付けがないことです。ルーツ南・ルート北説を主張するなら、DNA分析以外の合理的な理由・根拠が必要です。

 それに対して、「ルーツ・ルートは南」の南方起源説には、南インドスリランカパキスタンアフガニスタン・ネパール・バングラデシュブータンなどで話されているドラヴィダ語族(約2億人)のうちの辞書があるタミル語(約7000万人)を日本語の祖語とする大野晋氏の研究があり、農学・植物学者の雑穀・イモ・熱帯・温帯ジャポニカ起源説、民族学者の照葉樹林文化(焼畑文化、茶やモチ・納豆などの食文化、歌垣・妻問婚の母系制など)、私の霊(ひ=pee)信仰や山上天神信仰、祭りや殯(もがり)などの宗教説、考古学者の丸ノミ石斧・黒曜石、ジャーナリストの竹筏航海実験などの裏付けがあります。

 第4点は、「北海道から少なくとも中部地方まで(遺伝的には)アイヌ民族の先祖にあたる人たちが住んでいた」という主張で、あたかも縄文人の遺伝子が北方のアイヌ人に引き継がれているような主張ですが、神澤秀明国立科学博物館研究員の図4の核DNA解析の結果によれば、現代の本土日本人は琉球人に近くアイヌ人とは離れており、「本土日本人は(遺伝的には)琉球人の先祖にあたる人たちが住んでいた」という主張が成立します。

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 三貫地縄文人アイヌ人、琉球人の距離は、たて軸では三貫地縄文人と現代の琉球人が近く、よこ軸では三貫地縄文人と現代のアイヌ人が近いという結果であり、図4に3本の補助線を加えた図5のように、本土日本人のルーツは「縄文人アイヌ人→本土日本人」よりも「縄文人琉球人→本土日本人」と見るべきでしょう。

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 この図上のどこに太田・覚張両氏の伊川貝塚人が位置するのかわかりませんが、遺伝子分析軸を増やすとともに、さらに縄文人DNAサンプルが増えることを期待したいと思います。

 

 以上を総合すると、太田・覚張両氏の「ルーツは南」は認めるとしても、「日本列島には北海道を経由した」という「ルート北説」には同意できません。私は「ルーツ南方・ルート南北合流説」ですが、太田・覚張両氏は「ルート南」説が成立しないという根拠を示さない限り、「ルート北説」は成立しません。

 いずれにしても、「縄文人ドラえもん宣言(ドラヴィダ海人・山人族宣言)」は太田・覚張両氏の「ルーツ南説」によって補強されたと考えます。

  

◇参考◇

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/