ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート4  「弥生時代」はなかった

 この小論は私が子どもの頃から「弥生式土器時代」に抱いていた疑問を老人になってからまとめたものです。奇をてらうものではなく、真面目に「縄文時代はなかった」という結論に達しました。

 ただ、まともな小中高生は混乱すると思いますので、読むことはお勧めしません。私のような「へそ曲がり」なら、読んでみて下さい。 

 

1.「弥生式土器時代」「弥生時代」はあったか?

 教師の言うことをそのまま信じず、何にでも「ほんとかいな」「なぜだろう」と疑問を持ってしまう「へそ曲がり」だった私は、登呂遺跡の写真の載っている教科書で「稲作が始まって、米を貯蔵するために弥生式土器が生まれた」と説明を受けて、納得できませんでした。父母の田舎では米は米俵に入れて乾燥した納屋に保存し、台所では木の米びつに入れていたからです。土器に入れる理由が考えられませんでした。
 次にいつ頃でしたか、重い縄文式土器から軽い弥生式土器に変わった、と説明を聞いたか本を読んだかした時には、すんなりと納得できました。この説だと、稲作開始と弥生式土器は無関係だ、ということになります。
 「狩猟漁撈・採取時代から稲作農耕時代へ」、「重い土器から軽い土器へ」という転換はそれぞれ認められますが、稲作が弥生式土器を生み出すことも、弥生式土器が稲作を生み出すことも考えられません。
 その後、岡山県の朝寝鼻貝塚からは約6000年前、南溝手遺跡や津島岡大遺跡の土器胎土内から約3500年前のプラント・オパールや籾痕のついた土器が見つかっており、稲作は縄文時代に遡ることが明らかとなり、佐賀県唐津市の菜畑遺跡からは約2930年前の水田の跡が見つかっています。小学生の時の私の疑問が正しかったことが証明されました。紀元前4世紀ころからの「弥生式土器時代」という時代区分は誤りだったのです。
 ところが、それまでの誤りを訂正することもなく、いつの間にか考古学者・歴史学者たちは「縄文式土器時代」「弥生式土器時代」から「式土器」をとって、意味不明な「縄文時代」「弥生時代」と言い換え、稲作をその転換点とするように言い変えています。「縄文」という土器デザインと「弥生」という地名、このバラバラの名称を稲作前後の時代区分としたのです。この言いかえは「嘘の上塗り」の「恥の上塗り」という以外にありません。
 「狩猟漁撈・採取時代」を「縄文時代」、「稲作時代」を「弥生時代」と名付けるなど、考古学者・歴史学者の呪文という以外にありません。「採取時代」と「農耕時代」と区分するなら分かりますが。
 また、そもそも「縄文時代」とされる1万年の間の土器が、全て「縄文デザイン」であったわけではありません。あの有名な火焔型土器や土偶などに縄文が見られるか捜したことがありますが、どこを見ても縄目を押した「縄文」なんて見られません。デザインでいえば、無文土器、押型文土器、条痕文土器、圧痕文土器、刺突文土器、沈線文土器、隆線文土器などに分類されるというのですから、この時代を「縄文時代」というのもまた意味不明です。

 

2.竪穴式建物と高床式建物

 登呂遺跡の写真で、縄文時代は「竪穴式建物」、弥生時代になって米を保管するために「高床式建物」が生まれた、という教師の説明は納得していました。
 しかしながら、「縄文時代」の三内丸山遺跡で巨木の6本柱の再現施設を見たときには、強い違和感を覚えました。屋根や囲いがない見張り台のような理解不能な施設が再現されていたのです。雨が多いわが国において、雨や風を防ぐ屋根や囲いのない見張り台など考えられません。遺跡内には多くの小さな高床式建物がありますから、彼らには高床式建物を建てる技術はあったのです。巨木を使っていることからみて、他の食物保存用の高床倉庫などとは別の用途の高い巨大な建物であったのです。
 昔、各集落ごとにあった火の見櫓をみても、1~2人が昇る見張り台なら2本柱か3本柱、4本柱で十分であり、巨木を使った6本柱の見張り台などありえません。
 「竪穴式建物は縄文時代、高床式建物は弥生時代」というドグマに支配され、縄文時代三内丸山遺跡には6本柱の「高床式建物」などありえないという思い込みから、屋根も囲いもない見張り台にしてしまったのです。これは、とうてい納得などできませんでした。
 その後、吉野ヶ里遺跡に竪穴式住居がいくつもあり、大湯環状列石遺跡で多くの高床式建物があるのを見たり、文献で各地の縄文遺跡で高床式建物が見つかっているのを知り、「縄文時代は竪穴式建物、弥生時代に高床式建物」という通説は誤りであることを確信しました。
 三内丸山遺跡の「屋根のない見張り台」復元施設は、「縄文時代=竪穴式建物、弥生時代=高床式建物」という非科学的な誤った古い縄文観を記念した再現施設であると説明板で解説すべきです。それが嫌なら、撤去するか、屋根付きの高床建物に建て替えるべきです。世界遺産登録など、恥ずかしいと言わなければなりません。
 なお、長野県茅野市の「仮面の女神」が出土した中ツ原(なかっぱら)遺跡の8本立柱などについても、「立柱」として再現しているのには同じ問題を感じます。
 見張り台なら6本柱や8本柱にする必要がなく、高床倉庫ならこんなに太い柱は必要ありません。三内丸山遺跡には掘建て式の大きな集会用あるいは作業用の建物がすぐ前にありますから、別の用途と考えられます。
 柱の太さから見て、高さのある建物であり、死者の葬祭を行う宗教施設、あるいは宗教施設を兼ねた部族長・長老たちの政治施設の可能性が高いと考えます。
 いずれにしても、「竪穴式建物」「高床式建物」のどちらもが縄文時代から続いており、「弥生時代」や「稲作時代」への転換の示すとは考えられません。 

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三内丸山遺跡青森市

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中ツ原(なかっぱら)遺跡(茅野市



3.「農耕」は「縄文時代」から

 稲作開始にこだわるなら、「弥生時代」という言い方は止めて「稲作時代」の名称に変え、約3500年前をその開始時期とし、「縄文時代後期・晩期」を繰り入れる必要があります。その場合には、高温で薄くて堅い「弥生式土器」という土器分類による時代区分は諦め、「弥生時代はなかった」としなければなりません。
 その場合に問題になるのは、「縄文時代は採取、弥生時代は稲作農耕」としてきた分類にそもそも意味があるのか、という新たな問題点です。
 最近は、若狭の鳥浜貝塚(12000~5000年前)や三内丸山遺跡などの研究から、縄文人が野菜や果物、栗の栽培を行っていたことが明らかとなっています。鳥浜貝塚では南方系のヤシの実やヒョウタン(西アフリカ原産)・リョクトウ(インド)・シソ(ヒマラヤ・ビルマ・中国)・エゴマ(東南アジア)・ウリ(西アジアから北アフリカ)が見つかっており、これらは「海の道」を通って種が持ち込まれ、栽培されていたことが明らかです。
 工学系の「仮説検証型」の研究・計画方法の私には、考古学者の研究方法は知らないのですが、アフリカや東南アジアの人々の主食であったタロイモサトイモ)やヤムイモ(ヤマイモ)、麦やソバ、粟・黍・稗、緑豆などもまた同時に「海の道」をきたとの仮説を立て、その痕跡(歯石など)を分析したり、遺伝子分析でルーツを探らないのは、理解不能です。
 「縄文時代」の磨り臼と磨り石、石鍬と石包丁、高床倉庫らしき建物や、委奴(イナ)・吉備(キビ)・阿波(アワ)・日枝・比叡(ヒエ)・牟岐(ムギ)などの古代の国名や地名、明治まで広く行われていた焼畑農業、今に伝わる「イモ雑煮」(それを模した丸餅雑煮)などから見て、私など素人は「縄文農耕があった」と考えます。
 「採取社会」から「農耕社会」への転換を言うなら、それは土器鍋を発明した「縄文社会」が転換期であったと私は考えます。日本列島最古の土器は青森県の大平山元I遺跡から出土した無文土器で16,500年前のものとされていますが、その用途について通説は魚・肉・ドングリを炊くためとしていましが、私は主食のイモや麦・ソバ、粟・黍・稗、豆(小豆や緑豆)などの栽培作物の煮炊きに使った、と考えます。
 栽培農業革命に合わせて土器鍋煮炊き料理革命が同時に起こったのであり、「縄文土器時代」ではなく、「土器鍋時代」「土器鍋文明」と呼ぶべき食料革命が遅くとも16,500年前頃には起こったのです。この土器鍋食は健康で安定した食生活を保証し、豊かな土器・土偶芸術を生み出し、「和食」「出汁」文化として、今、世界に広まっているのです。


4.「石器→縄文→弥生→古墳」時代区分から「石器―土器―鉄器」時代区分へ

 そもそも「石器時代縄文式土器時代→弥生式土器時代→古墳時代」という「石―土器―土器―墓」(イシドキドキバカ)の時代区分には、私は子どもの時から疑問を持っていました。わが国には「金属器時代青銅器時代鉄器時代)はなかった」「石と土の前文明社会であった」などというのはウソだろうと思ったのです。
 「石―土―土-土」なら素材基準として統一がとれていますが、「道具―道具―道具―信仰施設」、「道具―道具―水田稲作―信仰施設」という時代区分となるともはやバラバラ事件です。「掘った、出た、並べてみた」という、何の統一的な論理もない即自的な基準と言わざるをえません。
 なぜこのような時代区分になったかと考えると、天皇中心・大和中心の「皇国史観」で歴史を組み立てようとすると、「稲作を広めた弥生時代のチャンピオンの天皇家」という仮説が成立し、それに合わせて、大和中心の巨大古墳時代をまず立て、その前には水田稲作時代=弥生式土器時代を置き、その前の未開時代は土器分類からとりあえず「縄文土器時代」とし、その前は旧石器時代としておこう、ということになったのではないでしょうか。青銅器時代鉄器時代焼畑農業時代やいも食・雑穀・豆食時代など入る余地はでてきません。縄文時代は糖質として栗やどんぐりを食べていたことにしておこう、ということにしました。
 では、いも・雑穀・豆栽培の第1次農業革命と土器鍋食革命が同時に起こり、次に陸稲(熱帯ジャポニカ)栽培から水稲栽培への第2次農業革命がおこり、そこから古代王権が誕生したとして、どのような時代区分が考えられるでしょうか?
 私は生産・生活用具を時代区分の基準として、「石器―土器(鍋)―鉄器」の時代区分にすべき、と考えています(『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本・第2版)参照)。
 「石器時代」は黒曜石の矢じりの弓や石穂先の槍で狩りや漁を行う「狩猟漁労・採取の時代」、「土器(鍋)時代」はイモや五穀(麦・ソバ・粟・黍・稗)・豆などを栽培し、キノコ、魚介類、肉などと合わせて土器鍋で食べる健康で安定した食生活と定住、交流・交易、土器・土偶・建築文化などをつくりあげた時代、「鉄器時代」は米鉄交易により、鉄先鋤により原野を開拓し、水路を整備し、水田稲作を全国に波及し、百余国の「委奴国」が誕生した時代、と考えています。
 古事記は、大国主は少彦名(すくなひこな)と「国を作り堅め」、少彦名の死後には、美和(三輪)の大物主と「共に相作り成」したと書き、その国名を「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国」としています。日本書紀は、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営し、動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め、「百姓、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝えています。そして、出雲国風土記大国主を「五百つ鉏々(いおつすきすき)取り取らして天の下所造らしし大穴持命」としています。
 以上の記載からみて、大国主一族こそが鉄先の「鉏(鋤、鍬)」を配って水田稲作を100余国に普及させ、「天下造所」したことが明らかであり、「木鋤(こすき)」から「鉄先鋤」への農耕用具革命を行い、水田稲作農業革命という「水穂国づくり」を行ったのです。
 「弥生式土器」ではなく、鉄器時代の「鉄先鋤」こそが、水利水田稲作時代を全国に広め、妻問夫招婚により百余国からなる古代統一国家「委奴国」(いな国=稲国)をつくりあげたのです。
 以上、「石器―土器(鍋)―鉄器」という生産・生活用具から、「狩猟漁労・採取時代―イモ・五穀・豆栽培の土器鍋食時代―鉄器稲作時代」という、世界に類のない生産・生活様式の時代区分、文化・文明時代区分を考えてきました。
これまで「弱肉強食・戦争進歩史観」は武器を基準として「石器時代鉄器時代」の時代区分を世界標準としてきましたが、この日本列島においては、「生産・生活史観」により、「石器時代・土器(鍋)時代・鉄器時代」の時代区分が成立することを世界に提案したいと考えます。
 さらに産霊・霊継(ひ=祖先霊:DNA)を中心とした自然信仰、地神・海神信仰から天神信仰への移行、世界一の出雲大社の造営、多民族・共通言語文化社会形成、妻問夫招の母系制社会、五味(甘味・酸味・塩味・苦味・うま味)食文化など、海人族(海洋交易民)の新たな「文明」像の提起へ進みたいと考えます。