ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート12 琉球から土器(縄文)時代を考える

  2017年6月に書いたレジュメ「『縄文と沖縄』~戦争なき1万年」は、大幅に加筆して「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」として『季刊日本主義』40号(171225)に掲載しましたが、この小論は元のレジュメのタイトルを変え、海人族の分布、Y染色体亜型の分布、「稲作伝搬図」と「主語・目的語・動詞・言語部族の移動図」などを加えたものです。
 日本民族南方起源説からの海人族による土器(縄文)時代論です。 雛元昌弘

はじめに

 2013年から大先輩の上田篤氏(京大建築学助教授→阪大教授→京都精華大教授)が主催する「縄文社会研究会」に、私は古代史(スサノオ大国主建国論)からのアプローチで参加してきました。
 そして、「海人族(あまぞく:漁労・交易民)論」「霊(ひ)信仰論(自然信仰説・太陽信仰説批判)」「スサノオ大国主一族による鉄器稲作による国家統一論(米鉄南北交易論:弥生人征服説批判の縄文人自立発展史観)」「大国主の妻問い婚による百余国の統一(母系制社会と父系制社会の融合論:武力征服史観批判)」「石器―土器―金属器時代区分論(ドキドキバカ時代区分説批判)」「母系制社会の地神(地母神)・海神信仰から父系制社会の天神信仰への移行」「卑弥呼モデルのアマテラス創作神話説」などを提案してきました。

 

    「セキ・ドキ・ドキ・バカ時代区分」から、「石器・土器・鉄器時代区分」へ f:id:hinafkin:20200314122308j:plain

  この会は考古学・歴史学の専門家ではなく、様々な分野から、縄文時代(私は土器時代説)の「生活・社会・文化」の解明をこれからの社会・文化目標として位置づけようというユニークな会で、考古学の「物」分析中心の「タダモノ史観」ではなく、生活史・文化史・宗教史・経済史や気象学・生態学などからの検討を進めてきました。上田氏は専門の建築史・住居学や、沖縄とアメリカ原住民の「社会・文化」を手がかりにした解明を進め、私は古代史や言語学、地名学、宗教学などからのアプローチを行ってきました。
 今回、私が住むさいたま市の「カフェギャラリー南風」オーナーの山田ちづ子氏が主宰する第2回「沖縄の歴史に学び、平和を祈るツアー」(2017年6月15~18日、埼玉・沖縄文化交流会)に参加し、沖縄の歴史・文化から縄文社会解明の様々な手掛かりをえることができましたので、本稿をまとめました。
 久賀島などに残された宗教儀式・伝承や、今回、訪れたガンガラーの谷の2万年前の人骨や石垣島白保竿根田原洞穴遺跡の2万7千万年前の19体の人骨などのDNA分析により、石器時代からの日本民族形成の歴史が明らかになる可能性あり、私は石器・土器時代の海人族(漁撈・交易民)の文化遺産として世界遺産登録が可能と考えます。さらに、それは霊(ひ)信仰の繋がりにおいて、出雲大社世界遺産登録に繋がるものと考えます。

1 沖縄と出雲を繋ぐ勾玉(曲玉)

 首里城には、琉球神道における最高神女(ノロ)である「聞得大君」(きこえおおぎみ)が儀礼の時に身に着ける首飾りが展示してありましたが、越・糸魚川~出雲・玉造由来の翡翠の「勾玉(曲玉)」信仰が沖縄でも続いていることを示しています。

 

    聞得大君(きこえおおきみ)が儀礼の時に身に着けた曲玉(勾玉):首里城展示

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  勾玉(曲玉)は石垣島から沖縄本島の各地でも発見されていますが、土器時代から沖縄と日本海を結ぶ「ヒスイの道」があり、共通の宗教圏を構成し、それが女性によって担われていたことを示しています。
 勾玉については、動物牙形説、胎児形説、魂(霊)形説、破損耳飾再利用説などがありますが、これらの説は「形状論」からですが、私は「宗教論」(機能論)から分析し、「胎児形を模した霊(ひ)信仰のシンボル」と考えています。
 霊(ひ=魂=祖先霊)が親から子へ、さらに孫へと代々受け継がれていくという信仰から、「胎児形を模した玉」が「先祖代々受け継がれていく霊(ひ)のシンボル」となり、神女が身に着けたのであり、意味もなく「胎児形」を好んだのではありえません。
 さらに、首里城ガイド役の赤瓦ちょーびん氏(民俗学専攻)の説明では、首里城首里森御嶽(うたき)はもともと祖先神が葬られた場所であり、各地の御嶽も起源は墓地であり、祖先霊を祀る場となった、ということでした。

 

                                     首里城首里森御嶽(うたき)

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  勾玉と御嶽という、現代にまで続く沖縄の宗教は、霊(ひ)信仰であり、さらに、女性が霊(ひ)信仰を担う宗教であることを示しています。

2.海人(漁労・交易)族論

 北海道など東日本の多くの縄文遺跡から発見されるイモガイやオオツタノハ貝などのうち、イモガイ・ゴホウラ・スイジガイなどの多くは奄美群島以南に産し、沖縄諸島などではこれらを大量に加工したとみられる遺跡も見つかっています。

 

                   イモガイ・ヒスイ・黒曜石・アスファルトの交易図 

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  1988年に発掘された有珠モシリ遺跡から見つかった貝輪は、ダイミョウイモという琉球諸島以南の貝であることが明らかとなり、日本海に「貝の道」があったことが証明されました。ガンガラーの谷の武芸洞の約3千年前の人骨は巻貝のビーズの腕輪を付けており、北海道など東日本に多い貝輪の装飾文化との連続性が見られます。

 

    有珠モシリ遺跡の「イモガイ」で作られた約2000年前のブレスレット(伊達市HP)

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  一方、糸魚川のヒスイは北は北海道、南は種子島にヒスイ製大珠が運ばれており、海人族の交易が琉球から北海道まで活発に行われていたことを伺わせます。
 領土を奪い合う戦国時代からの発想ではなく、縄文時代1万年の海人族の「海洋交易」の戦争なき歴史から、わが国の歴史観は再構築する必要があると考えます。

3.煮炊き土器鍋からの土器文明論

 これまで、「縄文土器時代―弥生式土器時代―古墳時代」「縄文時代弥生時代古墳時代」という世界史の歴史区分から孤立した「ドキドキバカ」「ドキイネバカ」のガラパゴス的時代区分が行われてきましたが、「紀元前400年頃の稲作開始と米保存用の弥生式土器」という時代は合わず、稲作開始は紀元前1000年頃の縄文土器時代に遡り、もはや「弥生時代はなかった」というべきです。
 では、「石器時代」からいきなり「鉄器時代」とすべきかというと、私は「土器時代」を置くべきと考えます。水や穀類を運ぶ土器がないと長い航海はできず、土器による煮炊き食文化は石器時代とは大きく生活・文化・生産様式を変えたと考えるからです。雑穀やイモなど多様な食材は土器鍋による「煮炊き」によって容易に食べられます。
 「丸木舟時代」と「土器鍋時代」という2点において、日本列島は「竹筏時代」「石器時代」とは異なる時代に入ったと考えます。肉食文化圏の武器発展史観からの発想である「石器―金属器」の時代区分ではなく、生産・生活文化から「石器―土器―金属器」時代区分に変えるべき、と私は提案してきました。
 沖縄には縄文・弥生土器がなく、米作の普及が遅れたため、これまで、沖縄には「縄文―弥生時代」はなく、「貝塚時代」とすべきという考えがみられますが、「土器時代」という時代区分を日本列島全体の歴史区分とすることによって、沖縄を含めて日本列島共通の時代区分として世界に提案できると考えます。
 この時代には縄文土器だけでなく、無文土器、押型文土器、条痕文土器、圧痕文土器、刺突文土器、沈線文土器、隆線文土器などがあり、「縄文時代の土器すべてが縄目文様を施すわけではなく、さらに縄文時代を通じて土器に縄文を施さない地域もある」などというのですから、「弥生式土器時代」と同様に「縄文土器時代」の名称もまた考古学者の世界だけのインチキ名称であり、「沖縄にも土器時代があった」としなければならないと考えます。「沖縄には縄文式土器がなかった」という主張はそのデザイン分類基準そのものが意味のないものであったのです。
時代区分として注目すべきは、石器とは異なる土器鍋による煮炊き食文化と水・穀物の保存・運搬機能であり、土器のデザインや製法ではありません。
「ガンガラーの谷」内にあるサキタリ洞からは約8,000年前の土器が見つかっており、「沖縄の土器時代」の解明が進められる必要があります。

 

                                    サキタリ洞から約8,000年前の土器

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  この沖縄の「土器時代」には「貝の道」「ヒスイの道」と同様に、日本列島全体で土器の交流が行われていたことを示しています。
縄文時代前期(約5,000年前)の曽畑式土器は、朝鮮半島南部の釜山市にある東三洞(とうさんどう)貝塚から九州全域,さらに沖縄の読谷(よみたん)村の渡具知東原(とぐちあがりばる)遺跡,同県北谷(ちゃたん)町の伊礼原(いれいばる)C遺跡などに及び、海人族は対馬暖流に乗って琉球から朝鮮半島まで活発に交流・交易を行っていたと考えられます。

 

                             曽畑式土器の分布(鹿児島県上野原縄文の森HPより)

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  海や舟を知らない漢字・漢文大好きな考古学者には、文化は中国・朝鮮からくるものと思い込んでいる人が多いようで、曽畑式土器もまた朝鮮半島からきたとしてる説をみましたが、交易・交流を担った琉球の海人族の役割や分布中心の南九州から南北に広がった可能性こそ考えるべきと思います。
 芋・雑穀・野菜・魚介類・肉の「土器鍋煮炊き食文化」は、栄養豊富なバランス食であり、安定した通年の食料確保を可能とし、食中毒や生活習慣病のない健康な食生活が実現できました。その結果、長寿化によって祖父母から孫世代への教育・技術・文化・芸術の継承を可能にしました。
 この「祖父母→孫教育体制」は、忙しい「父母→子教育体制」よりも優位性があり、世界史でもまれな1万年の豊かで平和な「土器時代」が可能となったと考えます。あの火炎式などの芸術性の高い縄文土器は、この教育システムと豊かな生産力による分業体制がないと難しいのではないでしょうか?

 

4.「海の道」稲作伝搬論

 かつては稲作は何の根拠もなく朝鮮半島からと信じられてきましたが、現在、揚子江ルート(長江文明)から稲作が伝わったとする説が主流となりつつあります。しかしながら、倭音・呉音・漢音の単語を駆使して中国文明の影響を強く受けながら「主語―動詞―目的語」言語構造に変えることなく、「主語―目的語―動詞」言語構造を維持し続けていることからみて、私はミャンマー南インドからの海の道による稲作伝搬説(熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの2段階)を提案しています。
紀元1世紀の「委奴国」は「禾+女+女+又」の国であり、「倭国」は「人+禾+女」の国で、女性が稲を女性器、人に奉げる国であり、「委奴=いな=稲」の国を国名していたのです。

                         熱帯ジャポニカ・温帯ジャポニカの稲作伝搬図
    (『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)より)

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                      「主語―目的語―動詞」言語部族の拡散(前同)

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 これまで長江流域あるいは南方からの「海の道」稲作伝搬説が主流とならなかったのは、歴史学者たちが舟や竹筏に疎かったのに加えて、琉球での米栽培の痕跡が見られなかったからです。
 稲作が琉球を素通りしたのは、石灰岩台地上の石灰質土壌には保水力がなく、そもそも琉球では水田稲作が難しく、それに加えて頻繁に来襲する台風が稲作を困難にしたからと考えられます。さらに、芋・雑穀・野菜・魚介類・肉・果物の豊かな「土器鍋煮炊き食文化」があったため、強制力・集団力を必要とした労働力集約型の稲作が受け入れられなかった、という社会的要因も考えられます。苦労して稲を栽培しなくても豊かに暮らしていけたのです。
 1950~60年代に瀬戸内海で育った私の経験だと、海に釣りにいくとすぐに飽きてしまうほどキスやテンコチは釣れましたし、貝もいくらでも採れました。琉球でも同じような状態であったなら、苦労してリスクの多い稲作を始めたとは思いません。琉球に稲作が定着しなかったからと言って、琉球経由で本土に稲作が伝わったことを否定はできません。
 沖縄の歴史についてはまだほんの少し本をかじった程度であり、煮炊き土器文化、特に芋文化(里芋・山芋)や雑穀文化などの学習・調査はこれからです。

 

5.母系・父系制社会論

 今でも漁村では、家計は女性が握っていて女性の地位が高く、漁民社会であった縄文人もまた母系制であった可能性が高いと言えます。海にでる男性はいつも死と隣り合わせであり、魚との物々交換・売買など家の経済や子育ては女性に任せる、という漁民・海洋交易民の伝統は石器・土器時代に遡るとみるべきと考えます。一方、海の上は男性社会であり、舟の継承などは男系であったと考えられます。
 古事記は、この国の始祖神を、天之御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日(たかみむすび)(日本書紀:高皇産霊(たかみむすひ))、神御産巣日(かみむすび)(同:神皇産霊(かみむすひ))、宇摩志阿斬訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)、天之常立の5神とし、この5神は出雲大社正面に祀られ、皇居には祀られてはいません。さらに、アマテル(本居宣長のアマテラス読みは採用しません)もスサノオもその父母のイヤナギ・イヤナギも皇居には祀られていません。なお、伊邪那岐伊邪那美はこれまでイザナギイザナミと読まれてきましたが、彼らは出雲の揖屋(いや)を拠点としており、地名から名前をとることが多いことからイヤナギ・イヤナミと読むべきと考えますが、これらの神々は全て出雲の神々であり、天皇家の祖先でないことは明白です。
 特に神皇産霊(かみむすひ)は霊(ひ)を産む女性神であり、大国主の「御祖」として彼を死から2度も蘇らせ、出雲神話では重要な「御祖」の役割を果たします。また、アマテラス神話は天皇家の始祖を女性としている点に留意すべきであり、古事記神話を採用するなら母系天皇こそこの国の伝統として位置づけるべきと考えます。
 さらに古事記に書かれた大国主神話では、「打ち廻る 島の崎崎 かき廻る 磯の崎落ちず(もれず) 若草の 妻持たしめ」と妻のスセリヒメが嫉妬して歌ったように、大国主は海を廻って180人の御子を島々や磯ごとにもうけたとされ、その範囲は越から筑紫まで及んでいます。古事記には越の沼河比売を訪ねて門前で歌を交わし、婚(よば)いした時の様子が記載されており、妻問婚であったことが明らかです。なお、漢書地理志と魏書東夷伝倭人条に書かれた「100余国」の王は、もし大国主が各国に2人の御子を設けたとすれば「180人の御子」とほぼ合致し、記紀に書かれた神々の中では、大国主以外に百余国の王ははありえません。
 さらに、日本書記・豊後風土記に書かれた女王国は図のように九州各地に及んでおり、古事記では紀ノ國にも女王がいたとされています。また、播磨国風土記でも各地に女王がいたことが明らかです。

 

                                   日本書記・豊後国風土記の女王国

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 久高島は琉球創世神アマミキヨがたどり着いて国づくりを始めたとされる琉球神話の聖地とされ、「男は海人、女は神人」の諺が伝わっています。琉球王朝時代に沖縄本島最高の聖地とされた斎場御嶽(せいふぁうたき)は、この久高島に巡礼する国王が立ち寄った御嶽であり、久高島からの霊力(セジ)を最も集める場所と考えられていました。イザイホーは12年ごとに、ニルヤカナヤ(ニライカナイ)から神を迎え、すべての既婚女性は30歳を越えると神女となるという儀式が伝わっていました(1990年から休止)。
 これらの文献や伝承からみて、日本はもともとは母系制社会であったと考えられ、その古い歴史を沖縄では現在も伝えています。

 

                              久高島のイザイホー(ウィキペディアより)

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6.霊(ひ=祖先霊)信仰論

 新井白石は「人」を「ヒ(霊)のあるところ(ト)」とし、角林文雄氏は『アマテラスの原風景』の中で、「姫」「彦」「卑弥呼」「聖」を「霊女」「霊子」「霊巫女」「霊知り」と解釈しています。さらに、「大日孁(オオヒルメ:アマテル)、蛭子」は、「大霊留女、霊留子」と見られます。
 前述のように『古事記』で天之御中主神に次いで2番目・3番目に登場する神は高御産巣日(たかみむすひ)・神産巣日(かみむすひ)ですが、『日本書紀』では「高皇産霊」「神産霊」と書かれていることからみて「日」=「霊」であり、この二神は序文で「二霊群品之祖」としていることからみても「霊(ひ)」を産んだ夫婦神と見られます。王や天皇の王位継承儀式の「日継(ひつぎ)・日嗣(ひつぎ)」は「霊(ひ)継ぎ」、「柩・棺」は「霊(ひ)を継ぐ入れ物」、「神籬(ひもろぎ)」は「霊洩ろ木:後の御柱」であり、霊(ひ)信仰を示しています。
古事記では、アマテルとスサノオの「宇気比(うけひ=受け霊)」により、アマテルの勾玉(まがたま)から天皇家の祖先が産まれたとしており、出雲では現在も女性が妊娠すると、「霊(ひ)が留まらしゃった」と言い、茨城では死産のことを「ひがえり(霊帰り)」といっています。
 『和名抄(和名類聚抄:平安時代中期の辞書)』では、クリトリス(陰核、さね)のことを「ひなさき(吉舌、雛尖、雛先)」といい、茨城・栃木では今もその名称が残っていますが、古くは女性器を「ひな」(霊の留まる場所。はな、あな、なら等から「な」は場所を指す)と言っていたことが明らかです。熊本県天草郡の 方言では「ひな」は ずばり、女性器の名称です。沖縄の旧平良市(現宮古島市)や与那国村では女性器を「ヒー」と言い、古代からの「霊(ひ)が留まるところ」という用法が現在に続いているといえます。
 今回、首里城ガイドを務めていただいた赤瓦ちょーびん(砂川正邦)氏と比嘉正詔氏に質問した限りでは、沖縄が祖先霊信仰の地であることが確認でき、首里城首里森御嶽(うたき:神話の神が存在・来訪する場所であり、祖先神を祀る場)や、ガンガラーの谷の崖を利用した石積みのお墓の前でも祖先の祭を行っているというガイドの説明を受けました。

                           ガンガラーの谷の崖を利用した石積みのお墓

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  この国は死ぬと誰もが神(鬼)となる「鬼道(魏書東夷伝倭人条)」の「霊(ひ)の国」、祖先霊信仰の「八百万神(やおよろずのかみがみ)」の国だったのですが、天皇家徳川幕府による仏教の国教化(死ぬと仏になる)と、明治以降のアマテラス太陽神一神教のオカルト神道により、「八百万神(やおよろずのかみがみ)」の霊(ひ)信仰は否定され、縄文・古代は「自然神信仰」「精霊信仰(アニミズム)」であるする歪曲が未だに通説となっています。
 また子孫に祀られない非業の死を遂げた人が「怨霊」になって祟るのは、霊(ひ)信仰の裏返しである「怨霊信仰」ですが、赤瓦ちょーびん氏の話しでは沖縄には怨霊信仰はないとのことでした。「鬼」については、写真集『糞から金蠅』の金城実氏と意見交換するつもりでしたが予定が合わず、次回に持ち越しです。

7.「東鯷人」(とうていじん)=琉球人説

 漢書地理志/燕の条には、「然して東夷の天性柔順、三方(注:南蛮北狄西戎)の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、もし海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分かれて百余国を為す。歳時をもつて来たりて献見すると云う」と記されています。
なお、孔子が行きたいと願った九夷とは、『爾雅』を注釈した李巡(漢霊帝のときの中常侍で、皇帝の傍に侍り、様々な取次ぎを行い、絶大な権力を誇った)が『夷に九つの種がある。一に玄莵、二に楽浪、三に高麗、四に満飾、五に鳧更、六に索家、七に東屠、八に倭人、九に天鄙』と記しており、これによれば「天鄙(テンヒ:あまのひな)」は「倭人」よりもさらに先に位置していることが明らかです。この霊帝のころ、我が国では、7~80年続いた「百余国」(私はスサノオ大国主7代の国と考えています)が大国主の退位(国譲り)後の後継者争いで反乱し、30国が分離・独立し、内部抗争の後に卑弥呼によって邪馬壹国として統一されたと考えています。
九州に30国の邪馬壹国があり、残る70余国が大国主系の出雲とスサノオの子の大年(大物主)系の美和の連合国がその東にあり、「八に倭人、九に天鄙」となったと考えます。
 さらに漢書地理志/呉の条には、「会稽(注:浙江・福建省)の海外に東鯷人有、分かれて二十余国を為す。歳時を以て来たりて献見すると云う」と記されています。

                       

          楽浪海中の「倭人」と会稽海外の「東鯷人」

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  楽浪郡が置かれたのは紀元前108年から西暦313年であり、漢書地理志が書かれたのは紀元1世紀で、書かれた内容は紀元前1世紀頃の頃からとされています。
 この「東鯷人」については、これまで「倭人」と同じとする説が見られますが、起点が「会稽」と「楽浪」、国の数が「二十余国」と「百余国」で明らかに異なっており、別の地域とみるべきと考えます。
 「鯷」(てい又はだい)は中国では「ナマズ(鯰)」とされていますが、漢字が明らかに違う上に、海中にナマズがいるはずはありません。国訓では「ヒシコ」(ヒシコイワシ:カタクチイワシのこと)とされており、この呼び名は沖縄・東京・水戸で今も残っており、地理的条件からみて「東鯷人」は「ヒシコ」を獲っていた沖縄人を指し、後の呉の国と交流・交易があったと私は考えます。
 このように、琉球漢書地理志に書かれた紀元前1世紀頃には呉と交流・交易(朝貢貿易)し、燕と交流・交易していた「倭人」(後に倭人と天鄙に分裂)とは別の地域でした。

8.「海人(あま)」族の分布

 琉球開びゃくの祖は「アマミキヨ」とされていますが、図のように北に行くと「天城町」や「奄美大島」があり、九州には「天草」や「甘木」「天瀬」「天久保」「天ケ原」、隠岐には「海士(あま)(古くは海部)」などの地名があります。

 

                                あま(天、甘、海士)地名の分布 

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  「アマミキヨ」については、「天照大御神」の名前から創作されたという大和中心史観の解釈が見られますが、地名から名前を付けられることが多いことから見て、元々、琉球の地が「あま」と呼ばれており、人々の北上(黒潮対馬暖流の海人下り)とともに、各地に「天(あま)」地名が広がったと考えられます。
 和語の「あま」は漢字で書くと「海、海人、海士、海女、海部」と書かれるように、旧石器・縄文時代には「海」「海人」を指していたと思います。
出雲大社正面にはこの国の始祖神「天御中主(あめのみなかぬし)」から始まる「別天神(ことあまつかみ)5柱」が祀られていますが、この出雲大社の神使は「龍神(りゅうじん)様」とされ、神在月(出雲以外は神無月)に稲佐の浜では「龍蛇(りゅうじゃ)神」が神々を迎える神迎神事が今に続いています。海で死ぬことの多い海人族は、海の底に死者の国=龍宮があると考えていたのです。
古事記作成を太安万侶に命じた「天武天皇」の元の名が「大海人皇子」であることからみても、「天=海人=あま」であり、古事記の始祖神「天御中主(あめのみなかぬし)」は元は「海御中主・海人御中主」であり、壱岐の「那賀(なか)、仲触(なかふれ)、立石仲触(たていしなかふれ)」などの地名が残るあたりを中心とした玄界灘の海人族の王であったと考えられます。この壱岐の北端には「天ケ原」の地名があることをみても、海人族の拠点であった可能性は高いといえます。
 なお、琉球の始祖の「アマミキヨ」は海の彼方のニライカナイから来たと伝わっていることからみて、中国大陸からではなく、南方から黒潮に乗ってやってきたことを示しています。

9.DNA分析について

 DNA分析については、私には基礎的知識が欠けており確かなことは言えませんが、石器時代から絶え間なく多くの人々がこの地にたどり着き、活発に交流・交易・妻問夫招婚を繰り返して多DNA民族となった、という点は確かではではないでしょうか。
 フィリピンや台湾のような多言語・多文化の多民族にならなかったのは、部族単位での大移動はなく、単身の男性漂着者や戦乱を逃れた男性が絶え間なく母系制社会に漂着し、活発な交流・交易・妻問夫招婚が行われ、単一言語・文化の土器(縄文)社会が形成された可能性が高いと考えます。

                   東南アジア人・モンゴル人・中国人・日本人のDNA
               (斎藤成也監修『DNAでわかった日本人のルーツ』)

 

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  仮に土器(縄文)時代の1万年の間に毎年10人が漂着したとすれば、10万人の人口になります。しかも、7300年前の喜界カルデラ噴火(巽好幸神戸大教授による破局噴火)では西日本は壊滅的な打撃を受けており、4世紀後半の崇神天皇期には「伇病多起、人民死為盡(役病が多く起こり、人民が死に尽きんとする)」(古事記)、「民有死亡者、且大半矣(民の死者あり、まさに大半であろう)」「百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之(百姓流離し、あるいは背叛し、その勢い徳をもって治め難し)」(日本書紀)という大疫病が発生しており、日本人の東西の人口構成は大きく変わった可能性があり、土器(縄文)時代人と現代人のDNAを比較する上ではこの変動を考慮する必要があります。
 
                7300年前の喜界カルデラ噴火による火砕流と火山灰の範囲

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  縄文社会に大挙して弥生人朝鮮半島あるいは揚子江流域から稲作技術を持って渡来し、九州・中四国・近畿などでは縄文人を征服・駆逐して、大和朝廷を建国したというような「征服王朝史観」はDNA分析、言語分析、稲作分析、人口論などから否定されている、と見てよいと思います。
 前掲の図15(図はいずれも『DNAでわかった日本人のルーツ』による)のように、縄文人のDNA分析例はまだまだ乏しく、それを現代の本土日本人、アイヌ人、琉球人、中国人と並べて分析したのでは確かなことは解らない、という段階と考えます。
 今後、沖縄で相次いで発見されている新旧石器人などの骨からDNA分析ができれば、旧石器時代から日本にたどり着いた人々のルーツが明らかとなり、人類拡散の海上ルートについて新たな発見ができる可能性があります。
 下図の「Y染色体亜型」の分布からみると、日本列島に見られる「Ⅾ」型(図の黄緑色)はチベットにしか見られず、「O型」がミャンマーに見られることからみて、このあたりの地域で熱帯ジャポニカから変異した温帯ジャポニカタロイモやヤムイモとともにわが国に伝わったのではないでしょうか?西アフリカのニジェール川流域が原産地のひょうたんと種子が若狭の鳥浜縄文遺跡や靑森の三内丸山遺跡で発見されていることからみても、ひょうたんを水タンクとして海の道を竹イカダなどで「海の道」をやってきた可能性が高いと考えます。

 

          Y染色体亜型の分布(中田力『科学者が読み解く日本建国史』より)

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 なお「O型」は中国からきたとも考えられますが、日本語が「倭音、呉音、漢音」を併用しながら、中国や東南アジアの「主語―動詞-目的語」言語構造を受け入れず、「主語-目的語―動詞」言語構造を維持し続けているいることからみて、旧石器人・土器(縄文)人のルーツはインド東北部からミャンマーにかけての山岳地帯であると考えます。
 神澤秀明氏は『縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く』において、下図のように縄文人早期渡来説を唱えており、わが国への「熱帯ジャポニカ陸稲)」「温帯ジャポニカ水稲)」の2段階の導入や言語構造論と符合します。

 

                 核ゲノム解析による新たな仮説(縄文人早期渡来説)
   ―神澤秀明氏 生命誌ジャーナル「縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く」より―
     (https://www.brh.co.jp/publication/journal/087/research/1.html

 

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  今後、琉球人の旧石器時代・土器時代の人骨はさらに発見される可能性が大いにあり、本土の土器(縄文)人とともにDNA分析が進み、チベットミャンマーから移住も考えられます)やミャンマーの人たちとのDNA比較ができれば、彼らが琉球にもっと早く到達し、その後、黒潮対馬暖流を北上して展開し、中国大陸や朝鮮半島、北方から何度も様々な人たちが流入して現日本人が形成されたという「土器(縄文)人南方起源説」が証明される可能性は大いにあると考えます。

 

                                        『竹筏ヤム号漂流記』

      (1977年に倉嶋康毎日新聞記者raが行ったフィリピンからの航海記)

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