ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート44(Ⅴ-21) 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石

 日本人はアジア各地から人々がやってきた「多DNA民族」ですが、その中ではY染色体Ⅾ2型が多く、そのルーツはチベットブータンあたりの山岳地域のドラヴィダ系山人(やまと)族であり、ミャンマー沿岸やその沖のアンダマン諸島のドラヴィダ系海人族と協力して「海の道」からやってくるとともに、バイカル湖畔(ブリヤート人)に進んだドラヴィダ系山人族はシベリアからオホーツク海に進んで日本列島に到達し、南からと北から1万数千年の縄文文化を作り上げたことを、日本語・稲作・霊(ひ=pee)信仰・神那霊山信仰などのルーツと合わせて明らかにしてきました。

 そして「弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服はなかった」とし、「石器・土器・土器・古墳」時代区分という「石・土文明史観」による弥生人天皇家による4~8世紀の建国史観を批判し、「石器―土器―鉄器」時代区分による1~2世紀のスサノオ大国主建国という、縄文人内発的発展史を解明したきました。

 残る問題としてずっと私を悩ませてきたのは、4~3年前に日本列島に住み始めた旧石器人と、1万数千年前からの土器人(縄文人)との関係です。

 「資料21 縄文人の山岳地域移住の理由 201014」のレジュメの題名を「神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」と変更し、細石刃・黒曜石文化論などを追加して修正しました。                           210120 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

 

       Ⅴ-21 縄文人の山岳地域移住と黒曜石

                           201014→210120 雛元昌弘

1.奥深い山間部や高原に居住した縄文人

 現役時代、仕事先の尾瀬ケ原の麓の群馬県片品村では奥深い谷間に縄文遺跡がいくつもあり、長野県南牧村では近世初期まで家や集落がなかった高原野菜栽培で有名な1000mを超える野辺山高原に黒曜石の鏃が畑からよく見つかると聞き、降雪があり寒いこのような場所を選んでなぜ縄文人は移住したのか、ずっと不思議に思っていました。縄文人の広域的な交流・交易からみても「平家の落人伝説」のように、追われて山奥に逃げ込むというような理由も考えられません。

 今回、HPで検索してみると、野辺山高原の矢出川遺跡群は日本列島ではじめて細石刃と細石刃核が発見された遺跡として有名な遺跡であり、2004年の調査では土坑が検出され、旧石器時代以降の人間の営みがあったことが確認できました。群馬県の温泉地の草津町は元々は夏だけ人々は住み、冬には下の元六合村(現中之条町)に住み、「冬住の里」と呼ばれれていましたが、縄文人は「二地域居住」あるいは「多地域居住(マルチハビテーション)」ではなく、山岳地域を好んで居住していたのです。

 

2.山岳地域居住は生活の必要性からか?

 「縄文ノート27(資料5) 縄文農耕からの『塩の道』『黒曜石産業』考 200729→0829→0903」においては、「縄文人はなぜ『縄文中期』に内陸部へ移住したか?」として次の仮説を考えました。

・仮説1 縄文前期の人口増による移動説(温暖化による食料増と喜界カルデラ噴火による東日本への人口移動)

・仮説2 寒冷化による豪雪地からの移住説(日本海沿岸の海人族が中部中央・関東などに南下)

・仮説3 猪鹿ハンター説(温暖化により増えた中小型動物を追って内陸部へ移動)

・仮説4 焼き畑農耕説(雪の少ない地域での秋ソバや冬小麦は冬春の食料確保を可能にした可能性)

・仮説5 黒曜石産業説(鳥獣害対策を必要とする縄文農耕は黒曜石鏃産業を生んだ)

 私は、「縄文農耕が鳥獣害対策の必要から鏃・槍先に使う黒曜石鏃産業を生み出し、ワンセットで信州への人口移動が起き、黒曜石・縄文6穀と塩の交易により、海岸部では縄文製塩が始まった」と考えました。

 なお、海岸部から内陸部への移住には塩の確保が必要であり、ヒマラヤ岩塩(チベット岩塩など)が有力な交易品であったように、塩尻・塩田・塩野などの地名があり石灰岩がある信州でも岩塩がないかと考え、岩塩採掘・交易による縄文人の内陸部への定住という仮説も考えたのですが、渋温泉地獄谷(温泉につかる猿で有名)が岩塩産地であると鉱物データベースに出てくるのと、明治に入ってから大鹿村の塩鹿温泉で海水並みの強塩水泉を使って山塩づくりを行っていることが分かっただけで、縄文時代の信州での塩生産については確認できませんでした。

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 塩の確保から考えても、山岳地域での居住は大変であるにもかかわらず、なぜ海岸部から移住したのでしょうか?

 

3.高原山黒曜石原産地をどうやって旧石器人は見つけたか?

 鬼怒川温泉に行く機会があり、そこから鬼怒川を遡って北に見える高原山(たかはらやま:日光市塩谷町那須塩原市矢板市)で黒曜石が採れることを知りました。

 

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 ホームページで調べてみると、最高峰の釈迦ヶ岳(1795m)の東の剣ヶ峰(1540m)から大入道(1402m)と続く大きな稜線の南斜面の森林限界を400mも超えた1440mの高地に日本最古の後期旧石器時代初頭(19000~18000年前頃)の黒曜石の露頭と採掘・加工跡(高原山黒曜石原産地遺跡群)があり、しかもこの地の黒曜石が静岡県三島市、長野県信濃町、神奈川県相模原市等の遺跡で見つかっているのです。鬼怒川を下り相模川をさかのぼるルート、あるいは日光から沼田へでて長野に向かう「日本ロマンチック街道ルート」などがあったに違いありません。

 なぜ旧石器人が1400~1800mもの高山に登ったのかですが、狩りのためとは考えにくい場所です。長野県の和田峠や星糞峠の黒曜石の採掘地(縄文時代草創期:16000前頃)だと峠越えや、そこを通る獣道での待伏せ猟と追跡猟でたまたま発見した可能性がありますが、高原山は中通りと日光―会津を結ぶ会津西街道に挟まれた高山であり、和田峠や星糞峠のような人や獣の通り道ではありません。また、黒曜石が鏃や槍の穂先などの製作に最適の材料であることをどこで知っていたのでしょうか?
 海岸部なら居住条件はよく、海産物がとれ、近くの野山で猪や鹿などの猟が十分に可能であるにも関わらず、なぜ、奥深い高原山などの高山に人々が登り、黒曜石を見つけたのか、考え込んでしまいました。それも旧石器時代のことであり、縄文時代草創期(16000前頃)の和田峠や星糞峠の黒曜石原産地遺跡よりも2~3000年も古いのです。登山靴などなく、険しい山道を毛皮で足を覆って登ったのでしょうか?

 なお、この高原山は日光市(古くは二荒)の男体山の北東30㎞に位置し、二荒山神社では大国主と田心姫(たごりひめ=たきりひめ)(宗像3女神の沖ノ島の祭神:代々襲名と考えられる)夫婦と、子の味耜高彦根あじすきたかひこね)(鋤=鍬の神、迦毛大御神と呼ばれ、誕生地は播磨)がやどる3山を祀っており、日光と西隣の片品村尾瀬の麓の村)との境の女体山(日光白根山)・金精山では性器信仰が行われており、紀元2世紀頃にはこのあたりの山奥には日本海側から海人族が出していたと考えられます。

 東南アジアの海人族やシベリア平原でマンモスなどの大型動物を追ってきた旧石器人が奥深い谷に進み、猟などできない森林限界を超えた高山に登ることは考えられません。

 縄文人のルーツが東インドインドシナ高地のドラヴィダ系山人であることは、Y染色体Ⅾ2系と倭音倭語、熱帯・温帯ジャポニカ・ヤムイモ・サトイモのルーツなどから証明されたと考えますが、高原山で黒曜石露頭を見つけた人たちもまたドラヴィダ系山人族であることを裏付けています。

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 第1の仮説は、チベットの高地で居住していたドラヴィダ系山人族が、チベットバイカル湖周辺(ブリヤート人が居住)→オホーツク海→北海道経由で旧石器時代にやってきて、祖先霊を天に送る「山神信仰」を受け継いて聖なる山の高原山に登り、その途中の稜線で黒曜石を発見したという可能性です。近くの塩谷・塩原の地名からみて、チベット岩塩を知っていた彼らは交易品となる貴重な塩を採掘するためにこの地にやってきて、葬送の信仰拠点として高原山に登った可能性があります。

 チベットブータンなどでは各部族がそれぞれの聖山で鳥葬・風葬を行い、死者の霊を天に送っていますから、日本列島に移住したドラヴィダ山人族もまた居住地近くに聖山を決め、登る途中で黒曜石露頭を見つけた可能性です。

 第2の仮説は、東南アジアの海人族が「海の道」を通って4~3万年前の旧石器時代に黒曜石文化を持って日本列島にやってきて各地に移住し、高原山で黒曜石を発見した可能性です。

 この説が有利なのは、火山のないチベットやシベリアには黒曜石はなく、インドネシアの火山地帯で旧石器人は脆いが鋭い黒曜石の価値を知り、日本列島でも黒曜石原石を捜した可能性が高いからです。縄文人が海を渡り、隠岐島神津島で黒曜石を見つけて各地に運んでいることも南方海人族による黒曜石発見・利用説を補強します。

 また、時代はずっと後の紀元1~2世紀以降になりますが、高原山の近くの日光に海人族のスサノオ大国主一族の神那霊山(神名火山)信仰を残していることもまた、高原山での黒曜石採掘がドラヴィダ海人・山人族の可能性を示しています。かれらはドラヴィダ山人族の高山天神信仰を受け継いでいたのです。

 

4.細石刃文化の2つのルーツ

 黒曜石の利用としては、鏃や槍の穂先に使うとともに、細石刃(細石器)を木や動物の骨の溝にはめ込んで替え刃式の槍にした細石器があります。

 

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 この細石刃文化(19000~12,000年前)の遺跡は全国で500個所を超え、特に北海道と九州に多く、北東日本型と南西日本型の二つの分布圏に分かれたとされています。

 これまで、この北海道・九州を起点とした細石刃文化の広がりと、日本列島最古の16,500年前の青森県外ヶ浜町の大平山元I遺跡の土器、14000年前の帯広市の煮炊き痕のある土器などから、旧石器人・縄文人とも北方系とみる説が多かったのですが、私はY染色体Ⅾ2型の北方系と南方系の分布から考えて、細石刃文化もまたドラヴィダ系山人族とドラヴィダ系海人・山人族により、北方・南方の2つのルートからもたらしたと考えるにいたりました。

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 前記の高原山黒曜石原産地の発見者の仮説1はドラヴィダ系山人族、仮説2はドラヴィダ系海人・山人族によるものであり、両仮説とも成立するという考えです。

 ただ、問題はこれまで縄文時代は土器文化が始まる16000年前頃とされてきましたが、後期旧石器時代初頭(19~18000年前)の高原山遺跡とは2~3000年ほど年代が合いません。

 「縄文ノート43 DNA分析からの日本列島人起源論 200924・1002」では、「マンモスの道ルート」の移動は少雨となって草原がシベリアに広がった寒冷期と考え、「海の道」の移動は温暖化が進んで高地に移動したドラヴィダ系山人族が17000前頃からの寒冷化により山を下り、ドラヴィダ系海人族と共同でスンダランドを経由し、最初のグループは16000年前頃に日本列島へ到達し、さらに多くはスンダランドの水没が始まる12000年前頃以降に日本列島にやってきたとしましたが、ドラヴィダ系海人・山人族はもっと早く19~18000年前頃には日本列島にやってきていた可能性を検討する必要がでてきました。また、土器製作と煮炊き土器鍋文化とドラヴィダ系海人・山人族の移動をワンセットで考えてきていましたが、旧石器時代後期から断続的に日本列島に移動してきた可能性を考える必要がでてきました。

 いずれにしても、日本人固有のY染色体Ⅾ2型を持ったドラヴィダ系山人・海人族は、死者の霊(ひ:pee)が死体から離れて高山から天に昇る聖山・天神信仰を持ち、日本列島にやってきて各地の高山を聖地として登った可能性が高く、その途中で黒曜石を見つけたのではないかと考えます。

 なお、現在、アフリカで「主語-目的語-動詞」言語の部族はエチオピアケニアなどの「アフリカの角」あたりに居住しており、エチオピアケニアタンザニアは黒曜石の豊富な産地であり、エチオピアとはお辞儀文化が共通することからみても、エチオピアの旧石器人が黒曜石文化を持ち、海岸に沿って東進し、インドネシアの火山地帯で再び黒曜石に出合い、さらに日本列島にやってきて死者の霊(ひ)を祀る信仰上の理由から高山に登り、その途中で黒曜石を見つけ黒曜石文化を確立した可能性が高いと考えます。

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5.神名火山(神那霊山)信仰のルーツ

 私はもとは「縄文人=海人族説」でしたが、海神・地神・山神・天神・神那霊山・龍神信仰を霊(ひ)信仰として統一的に考え、今は「縄文人=海人・山人族説」に変わっています。

 「縄文ノート37 『神』についての考察」において、「⑦ 大野氏はタミル語の『ko』は『神・雷・山・支配』を、『kon、koman』は『神・王』を表し、『pee(ぴー)』は『自然力・活力・威力・神々しさ』を表すとしていますが、日本語の『カム・カン・コマ』と『霊(ひ:fi)』の関係を統一的に説明できていません」と書きましたが、大野氏が日本の「霊(ひ)」がドラヴィダ語の「pee(ぴー)」に由来することを明らかにした功績は大きいものの、倭音倭語の「ひもろぎ(霊洩木)」に「神籬」の漢字を当てていることから日本人にとって「神=霊」であることを国語学者として言及されなかったのは実に残念でなりません。

 高原山での黒曜石原産地発見は、ドラヴィダ山人族の死者の霊(ひ)が聖山から天に昇る天神信仰だけでなく、もう1つの重要な「神名火山(神那霊山)信仰」のルーツを示していることに注目する必要があります。

 「縄文ノート38 霊(ひ)タミル語pee、タイのピー信仰」で書きましたが、「かんなびやま」には「神名火山・神名樋山」(出雲国風土記万葉集)「神奈備山・甘南備山」(万葉集)の漢字が当てられていますが、私はイヤナミ(伊邪那美:通説はイザナミ)が比婆山(ひばやま)に葬られたとの古事記の記載から、意味的には「神那霊山」(神の那(場・国)の霊の山)と見るべきとしてきました。―『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』参照

 この死者の霊(ひ)が聖山から天に昇るとする山上天神思想は褶曲山脈のヒマラヤ地域で生まれたとしても、日本の神名火山(神那霊山)信仰は円錐形のコニーデ型火山(成層火山)を選んで信仰するという大きな違いがあります。山ならなんでもいいというのではなく、「神名火山」という火山信仰だったのです。

 お盆や正月にお墓から「霊(ひ=祖先霊)」を提灯の火に移して持ち帰り仏壇の灯明に移す、という日本独自の仏教の習慣からみても、「霊(ひ)=火」であり、「霊山=火山(ひのやま)」であったのです。

 聖山天神信仰がヒマラヤ山地で生まれたとしても、「神の名(な=那=場・国)である火の山」信仰のルーツは別と考えます。私はドラヴィダ海人・山人族は聖山信仰を移動の途中にインドネシアやフィリピンなどのコニーデ型火山に出合ったことにより「神名火山」信仰に変わったのではないか、と考えています。

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 高原山の剣が峰や鶏頂山、日光の男体山出雲国風土記に書かれた4つの神名火山はいずれも左右対称のきれいな富士山型の火山であり、全国各地で信仰されている神名火山(神那霊山)と同じです。

 

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 私は神名火山(神那霊山)信仰を、スサノオ大国主建国論では大国主の八百万神信仰として考えてきましたが、19000~18000年前頃の高原山の黒曜石原産地からみて、その信仰は後期旧石器時代に遡ることが明らかとなりました。

 ドラヴィダ海人・山人族の日本列島への何次にもわたる移住は2万年前頃に遡らせる必要が出てきました。

 

6.3万6000年前頃の京丹後市上野遺跡の隠岐島産の黒曜石の衝撃

 日本の旧石器が在野の相沢忠洋氏によって最初に発見されたのは群馬県みどり市岩宿遺跡の黒曜石の打製石器で約3万年前頃と覚えていましたが、今や、約12万年前の砂原遺跡(出雲市)、9〜8万年前の金取遺跡(遠野市)など、さらにはるかに古い時代の旧石器が発見されています。

 この旧石器人がどこからきたのかの直接的な手掛かりは、石垣島白保竿根田原洞穴遺跡の2点の約2~1万年前の人骨のミトコンドリアDNAM7aから南インドシナ系であることが明らかになっていますが、限られたサンプルであり、旧石器人の全体が南インドシナ系かどうかはまだ判りません。

 現代の日本人の多様なDNAはアジア各地からの移住を示していますが、一番多いY染色体Ⅾ2型などからはドラヴィダ海人・山人族が主なルーツであることが明らかであり、私は16000年前頃に土器文化を開始した縄文人はドラヴィダ海人・山人族であり、さらに2万年前頃の高原山黒曜石原産地遺跡から細石器文化と黒曜石文化、神名火山信仰もまたドラヴィダ海人・山人族によると考えるようになりました。

 ところが、2020年9月17日付毎日新聞は、丹後半島北端の京丹後市の上野遺跡について「後期旧石器時代の石器など152点出土 3万6000年前と推定 京都・上野遺跡」と報道しており、さらに再考を余儀なくされました。

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 しかも、ななんと「5点は隠岐諸島島根県)の黒曜石と判明。隠岐産の黒曜石が使われた後期旧石器時代の石器は島根、岡山両県などでも見つかっているが、同時期の遺跡での発掘例としては上野遺跡が国内最東端」というのです。

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 この発見はスサノオ大国主建国を裏付けた大量の青銅器が発掘された荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の発見に匹敵する、日本列島人起源論が北方系か南方系かの決着をつける大発見ではないかと私は考えます。「新発見により定説はいつでも覆る可能性がある」という考古学の怖さを見事に示しています。

 隠岐島産の黒曜石が丹後半島の北端で見つかったのですから、この黒曜石は対馬暖流に乗って琉球から移動した海人族旧石器人によるものとみて間違いありません。

 3.6万年前に上野遺跡に黒曜石を持ち込んだのは、53000年前頃に出アフリカを果たした「主語―動詞-目的語」言語の南インドシナ系の海人族であり、その後、20000年前頃から12000年頃にかけてドラヴィダ系海人・山人族が日本列島に何次かにわたって移住した、と考えられます。そして、彼らのうちの山人族は中部・関東・東北の内陸部へ移住し、蓼科山榛名山赤城山男体山や高原山などを神名火山(神那霊山)として信仰し、山に登った際に高原山で黒曜石を見つけたのではないでしょうか。

 なお、細石刃文化が12000年前頃に終わりを迎えたのは、槍を主とした大型・中型動物の狩猟から、小型動物を主とした弓矢による狩猟に変わった可能性を示しており、それはドラヴィダ海人・山人族の新たな移住によってもたらされた可能性があります。

 

7.旧石器人(インドネシア系海人族)と縄文人(ドラヴィダ海人・山人族)の関係?

 Y染色体C1・2系統で「主語―動詞-目的語」言語、長足ほっそり体形のインドネシア系海人族と、新参のY染色体D2系統の「主語-目的語―動詞」言語、短足がっしり体形のドラヴィダ海人・山人族との関係はどうだったのでしょうか?

 主動目(SOV)言語のY染色体C1・2系統の旧石器人が東南アジア諸島に移住し、4~3万年前頃に第1波として日本列島にやってきて黒曜石文化を確立し、遅れて20000~12000年前頃にY染色体Ⅾ2型の主目動(SOV)言語構造の多数のドラヴィダ海人・山人族がスンダランドから第2波として日本列島へ大移動し、旧石器人の黒曜石文化を引き継いだ、という2段階の渡来が考えられます。このY染色体Ⅾ2型人は沖縄北部39%、本土26~40%、アイヌ88%であり、沖縄経由のドラヴィダ海人・山人族と、シベリア経由のドラヴィダ山人族であったと考えられます。

 日本列島にやってきた先住民の東南アジア系の旧石器人と遅れてやってきた多人数のドラヴィダ海人・山人族の関係は、もともと両者はスンダランドで交流があり、豊富な海産物や山の幸にもとで敵対的・支配的な関係になることはなく、多数派のドラヴィダ系海人・山人族への婚姻・同化と文化的融合が進んだものと考えられます。

 これまで、縄文人は長江流域・朝鮮半島などからのY染色体O2・3型系の弥生人の渡来によって、北と南に追いやられたという「二重構造論」が支配的でしたが、同じY染色体D2系統のドラヴィダ系海人・山人族が南から、ドラヴィダ系山人族が北から移住した「二方向来住」であったのです。

 Y染色体Ⅾ2型とともに現代に続く稲作、イモ・米・雑穀食文化、宗教・言語はドラヴィダ系海人・山人族の可能性が高いと考えますが、特に、縄文土器鍋によるイモや穀類、野菜・魚介・肉の「煮炊き食文化」は、南方系のイモ・魚の「石蒸し食文化」から独自に日本の縄文人が発展させたと考えます。

 ただ、以上の私の考察は崎谷満氏のY染色体D型の人たちが13000年頃に日本にやってきたという推計とは年代がズレていますが、今後の研究課題と考えます。また、今のところ最古の土器が青森県外ヶ浜町、最古の土器鍋が北海道の帯広市で発見されていることは、日本列島人北方起源説、縄文文化北方起源説の有力な根拠となっていますが、西日本は7300年前の喜界カルデラ噴火の降灰の影響や開発の影響を受けており、今後の発掘により最古の土器と縄文土器鍋の新発見の可能性があると考えます。

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 いずれにしても、南方系の食文化と神名火山信仰・黒曜石文化・言語からみて、「徒歩人(ウォークマン)史観」の日本列島人北方起源説は、「海人(シーマン)史観」の日本列島人南方起源説に道を譲るべき時と考えます。また、大陸・半島からの弥生人朝鮮人・中国人)が水田稲作を携えて縄文人を征服し、北海道と沖縄に追いやったとする「外発的発展史観」の2重構造論(仮説)が成立しないことはDNA分析、言語分析、稲作分析、宗教・民俗分析からすでに明らかであり、誤った仮説を棄却すべきと考えます。

 

8.時代区分の総合的検討

 これまで、私は縄文人の「土器鍋煮炊き食文化」を文明の大転換期ととらえ「石器-土器-鉄器」の時代区分とすべきと私は考え、「石器-土器-稲作-古墳」(イシドキドキバカ)の時代区分を批判してきましたが、さらに検討が必要と考えるようになりました。

 旧石器時代新石器時代縄文時代)の区分はこれまで打製石器磨製石器によって区分されてきましたが、弓矢使用の狩猟への転換からみて黒曜石利用は画期的であり、黒曜文化は旧石器時代とするのではなく縄文時代に移し、磨製石器の斧による建築技術と丸ノミ石斧による丸木舟づくりとあわせて、新石器時代=土器時代に含め、「石器-土器-鉄器」時代区分とした方が統一性がとれてくると考えます。

 その際には、縄文農耕の開始に伴う鳥獣害対策が大量の黒曜石の鏃・槍穂先の生産を必要としたこととの整合性を考え、黒曜石採掘・利用は新石器時代から土器時代にずれ込ませる必要がでてきます。

 さらに、広い沖積平野での大規模開墾と水利工事による水田稲作の開始は、鉄先鋤なしには困難であり、「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と呼ばれた大国主やその子の「鉏(すき)」の名前を付けた「阿遅鉏高日子根(あぢすきたかひこね)」などによる鉄器稲作の「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国」の建国を新たな「鉄器時代」とすべきと考えます。そして「陸稲(おかぼ)栽培」や自然水利の「水辺水稲栽培」は縄文農耕として「土器時代(縄文時代)」に移すべきと考えます。

 なお、磨製石器の「丸ノミ石斧」による丸木舟づくりの飛躍的レベルアップにより、「竹筏航海から丸木舟航海への転換」がおこり、縄文人の活発な交流・交易・移住による日本列島全体の統一的な土器・言語文化形成をもたらしたと考えてきましたが、「36000年前の京都・上野遺跡の隠岐産黒曜石」が事実となると、新石器時代=土器時代=丸木舟時代とはならず、旧石器時代から海人族は竹筏舟などにより活発な移動・交易を行っていたことになります。

 今後の課題として、「竹筏航海→丸木舟航海」の移動・交易時代区分、「漁撈・狩猟・採取時代→縄文イモ・豆・7穀栽培時代(陸稲を含む)→水辺水稲稲作時代→鉄器水利水田稲作時代」の産業時代区分、「石器-土器-鉄器」の道具時代区分、「焼食→石蒸し食→土器鍋煮炊き食」の食文化時代区分、「倭音倭語→呉音漢語→漢音漢語」の言語時代区分、「Y染色O1.2系統(東南アジア海人族)→Y染色D2系統(ドラヴィダ系海人・山人族、ドラヴィ系山人族)→Y染色O3系統(中国・朝鮮)・Y染色C3系統(シベリア系)」のY染色亜型系時代区分、「スサノオ大国主建国(1~3世紀)→天皇家権力奪取(4~8世紀)」の政治時代区分の総合的な検討・整理が求められます。

 

◇参考◇

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論         http://hinakoku.blog100.fc2.com/