ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート121 古代製鉄から「水利水田稲作」の解明へ

 沢口靖子さん主演のテレビ番組「科捜研の女」を昔からよく見ていますが、そこでは希少性のある微量証拠(繊維・植物・土・血痕・毛髪・指紋など)の定性・定量分析で犯行現場や犯人の移動場所、犯人(血液型・DNA・指紋・職業など)などを特定するとともに、打撲痕や刺し傷、絞・扼殺などの再現事件により凶器や犯人(利き手や力、体格など)・犯行の様子(順序・位置関係等)を予測する成傷器鑑定、頭蓋骨に粘土を肉付けして顔を復元する復顔法、写真や防犯映像などの画像や音声分析、死体の解剖などもあります。

 これらの手法は全て考古学の遺物や骨の分析とも重なりますが、工学部の私としては「再現実験」に特に関心があります。

 工学では仮説を立てて実験を行い、最適解を求めるという「仮説実験」「仮説検証」という手っ取り早い方法が一般的であり、仮説を立てるのはすでに解明されている科学法則から推定する方法と社会・生産現場の必要性から考える方法がありますが、後者が多いように思います。友人が学生時代にやっていた車の「エンジンのピストンとシリンダーの間隔とオイルの最適関係」では2つの条件を変えて組み合わせて多くの実験を行って最適解を求めていました。従って、工学では「仮説こそ発明の母」であり、「仮説命」というところがあります。

 私は「縄文焼畑農耕仮説」の証明をしたいと考え、農耕の倭音倭語を調べて大野晋氏の「ドラヴィダ(タミル)語起源説」にたどり着き、氏の著書から南インドのドラヴィダ族の小正月に赤米を炊いて沸騰を祝う「ポンガ」の祭りを教えられ、縄文土器の縁飾りは芋やソバ・米などを炊いた時の「泡と湯気と吹ききこぼれ説」「縄文土器の鶏冠説の突起はトカゲ龍デザイン説」に進み、「縄文土器のおこげは芋・ソバ・6穀仮説」を立ててその再現実験を提案しました。これは工学系人間の自然な発想、方法論と言えます。

 さらに記紀スサノオ大国主建国の分析から「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」ではなく「縄文農耕から鉄器・水利水田稲作への内発的発展」の仮説を考え、その証明のためには再現実験が必要と考えていたところに、すでに紹介した岡山市の古代史研究家の丸谷憲二さんからいくつかの吉備などでの製鉄実験の資料を送っていただきました。

 富士見町歴史民俗資料館に金屋製鉄遺跡の「赤目(あこめ)砂鉄」や「高師小僧(たかしこぞう)」が展示されていることは「縄文ノート53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ」で紹介しましたが、製鉄部族の吉備スサノオ系の八坂氏・守矢氏・建御名方が1~3世紀頃に諏訪に来ている以上、金屋製鉄遺跡がスサノオ大国主建国時代に遡る可能性についてさらに検討が必要と考えます。

   f:id:hinafkin:20220205155307j:plain

1 諏訪の製鉄材料と富士見町での製鉄実験

 諏訪地方における石器と鉄器の農機具の連続性については「縄文ノート23 縄文社会研究会『2020八ヶ岳合宿』報告」で書き、富士見町歴史民俗資料館展示の金屋製鉄遺跡については「縄文ノート53」で紹介しましたが、この時は「金谷製鉄遺跡9号炉 平安時代?」の説明を疑うこともなく写真を撮って終わりました。

 今回、縄文ノート「118 『白山・白神・天白・おしらさま』信仰考」「119 諏訪への鉄の道」「120 吉備津神社諏訪大社本宮の『七十五神事』」において、製鉄部族の八坂氏や守矢氏が諏訪へ入った時期から製鉄・水利水田稲作開始がスサノオ大国主建国時代に遡ることを明らかにできましたので、撮影した写真を見直してみると、富士見町内の「赤目砂鉄」「高師小僧」「磁鉄鉱」「褐鉄鉱」とともに、茅野市金沢字金山の「カンラン岩の砂鉄」、茅野市北山渋川・米沢鋳物師屋の「褐鉄鉱」、茅野市宮川静香鉱山の「含ニッケル磁硫鉄鉱」、下諏訪東山田字佛供田の「餅鉄類似の鉄鉱石」などが展示されており、さらに1985年5月・6月の製鉄実験で造られた鉄塊や鉄刀が展示されていたのです。

 なんと、富士見町は「縄文農耕研究」だけでなく、1985年の「製鉄再現実験」でも最先端であったのです。うかつなことに2度も見学しながら、関心が縄文社会に集中していて見逃していました。

 これらの製鉄資料は井戸尻考古館の裏にある歴史民俗資料館に農機具などと展示されているために気付かなかった人が多いと思いますが、これから見学される方は、是非、両館を合わせてみていただきたいと思います。

f:id:hinafkin:20220205155412j:plain

f:id:hinafkin:20220205155442j:plain

     f:id:hinafkin:20220205155509j:plain

 

f:id:hinafkin:20220205155533j:plain

 製鉄部族の八坂氏や守矢氏、建御名方、伊勢津彦らが武器だけもって手ぶらでこの地に来たとは考えられず、金谷製鉄遺跡が「平安期?」なのかどうか、それともさらに古い製鉄遺跡がどこかにあるのか、当時の技術で製鉄が可能であったのかどうか、是非とも地元で確かめていただきたいものです。

 

2.丸谷憲二さんらの製鉄分析と実験

 岡山市の「黄蕨の会」代表の丸谷憲二さんは「吉備津神社 七十五膳据神事の七十五の起源についての考察」とともに、古代製鉄について次のようなレジュメを送っていただきました。

  1992(平成4)年1月21日 吉備津彦伝承と古代製鉄

  2021(令和3)年11月17日 赤土からの製鉄・鉄成分(鉄含有)率の向上策の検討

  2021(令和3)年11月22日 赤土からの製鉄 課題(生本和弘氏の提案)

  2021(令和3)年11月25日 弥生時代の古代製鉄―吉備高原の赤鉄鉱(赤土)使用

  2021(令和3)年12月21日 赤土のトーチバーナー使用による磁鉄鉱への変化確認試験

  2022(令和4)年1月23日 吉備国の古代製鉄と熊山遺跡出土の陶製筒型容器  

 関心がおありの方は、氏のホームページ「黄蕨(きび)国の物語」かフェイスブックでお問い合わせしてみてください。http://kiwarabi.html.xdomain.jp/

 

 丸谷氏の資料の全面的な要約にはなりませんが、私が今後、気にかけておきたい点を引用してメモしておきます。

① 「下流に『赤浜』地名があり、吉備津彦伝説は赤泥が古代製鉄原料であったことを記録に残すための伝説という発想です。」

 →2020年2月よりAmebaブログ「太安万侶のミステリー」を書き始めて中断していますが、その第1回で「『太安万侶天皇家のための歴史書を書きながら、密かに真実を後世に残した偉大な歴史家』と考えています。天皇家のための『表の歴史書』を書きながら、スサノオ大国主建国の『裏の歴史』『真実の歴史』を伝え残した歴史家、というのが私の評価です」と書きました。吉備津彦伝承(実際は温羅伝承)だけでなく、古事記ヤマタノオロチの大刀(後に天皇家三種の神器に)・スサノオの鉄剣(物部氏の神剣)物語、山幸彦の鉄の釣り針物語(龍宮=琉球からの鉄の確保)なども全て真実の歴史を伝えていると考えています。

② 「総社市の古代製鉄遺跡も『カナクロ谷』、広島県世羅郡世羅町黒渕もカナクロ谷製鉄遺跡です。「かなくろ谷」と言う地名の由来は何でしょうか。」

 →『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)において、「『赤穂(あこう)』は赤土の多い『赤生』からきているという説もあったよ。吉備に接しており、弥生時代中期(注:紀元前1~2世紀)からの有年牟礼(うねむれ)・井田遺跡では鍛冶炉跡が見つかり、近くには黒鉄山がある。千種川をさらに10kmほど下ったところからは弥生中期では全国最大の約80cmの銅鐸鋳型が発見され、高校生が復元していたよ」と書きましたが、カナクロ=黒鉄=鉄鉱石と考えます。軍国主義少年であったころの記憶で恐縮ですが「守るも攻めるも 黒鉄(くろがね)の 浮べる城ぞ 頼みなる・・・」(軍艦マーチ)です。

③ 「愛知県稲沢市祖父江町の「祖父(そぶ)」は赤茶色の水を差しこれが町名の由来です。」

→祖父江は車で通ったことがあり、同名字の知人もいますので気になりますが、山間ではなく木曽川下流の沖積地であり、実に意外です。

④ 「鉄成分率を高めるために白石齊先生(陶芸)は、「①先ず赤土を300〜400度で焼きます。②焼けた赤土をたっぷりの水で撹拌します。③撹拌しながら上水を捨てます。④3〜5回程度繰り返します。⑤底に残る物が砂鉄です。」と教示されます。これを「鉄成分率を高めるため弁柄づくりの方法」と説明してくれたのが生本和浩氏です。」

→前掲書で「『真金(まがね)吹く』」が吉備や丹生にかかる枕詞であることからみて、赤鉄鉱(Fe2O3)や赤目砂鉄を原料として鉄とともに鉄朱(ベンガラ)が作られていたことを示している。」と書きました。

⑤ 「加越たたら研究会では『世の東西を問わず古代から、身近な原料・赤泥を使って製鉄をしていたにちがいない。』と考えています。』と。赤泥は究極の比重選鉱・水簸です。名古屋の明治村の赤泥が知られています。赤泥を原料とする加越たたら研究会等の国内古代製鉄実験は、全てタタラ製鉄を応用しています。須恵器焼成温度 1100℃以上で実験し成功しています。私たちの実験計画は縄文時代弥生時代の野焼き温度での製鉄です。国内では初めての実験です。」

→縄文ノート53において「酸化鉄の還元は『400度から800度あれば進行でき、温度が低ければ固体のまま還元して酸素を失った孔だらけの海綿上の鉄になり、もっと温度が高ければ、粘いあめ状の塊になる。これを鍛錬して鉄でない部分を十分に除去すれば、立派な鉄となる』(中沢護人『鋼の時代』岩波新書)とされます」と紹介しましたが、丸谷氏の縄文野焼きによる製鉄実験を期待しています。

⑥ 「『古代製鉄物語 葦原中津国の謎』に浅井壮一郎氏(農学博士・長岡技術科学大学客員教授)は「製鉄温度を下げるには燐酸鉄を含む黒土を溶融助剤として黒土を 6%加えると 1130℃の磁鉄鉱の融点が 950℃まで下がる」と報告しています。燐酸カルシュームが低温製鉄に必要だとの説です。黒土にはリン酸を吸着する性質があります。」

→これは「黒不浄(死体)があると鉄がよく涌いた」と伝わっている出雲のタタラの伝承と符合します。

⑦ 「小松原道郎工学博士の教示:石灰粉など溶剤となるアルカリ系の物質と少量の炭を使って一緒に焼成して、還元しながら低温製鉄で鋼にまで純化していくことが必要でしょう。これだと 800~900℃くらいの低温で鉄を作れる可能性はあります。」

  →前同

⑧ 「井原市郷土史家より『赤土から鉄を取っていた』と聞いた。」「井原市美星町烏頭の赤砂・鍛冶屋、井原市大江町の赤土・鍛冶の字地名」

→「赤砂」地名は諏訪湖畔北岸にもあります。個人的興味では、仕事で行ったことのある美星町は父の実家(古くは全戸が日向(ひな)と称す)の隣町であり、美星町の「日名」地名との関係について書いていました。

⑨ 「福岡大学、七輪炉、 鉄原料:パイプ状ベンガラ(渇鉄鉱)、1200℃以下、 鉄滓18.1g・海綿鉄9.1g・炉底塊240g」

広島大学 七輪炉、阿蘇リモナイト(渇鉄鉱:黄色土)、1150℃・2時間、 含鉄物質 66.2g」

→丸谷氏が指摘するように「箱型炉」の吉備・出雲などのたたら製鉄より以前は、土製や土器製の「円筒炉(こしき炉:甑炉)」により小規模分散型の製鉄が各地で広く行われていた可能性が高いと考えます。備前赤坂(赤磐市)の物部氏の石上布都魂神社で聞いた話でも近くの川から金屎(かなくそ)がいくらでも出てくるということでしたので、金糞遺跡の木炭などからの年代測定が課題と思います。

⑩ 「3ヶ所(岡山市瀬戸町塩納、瀬戸内市虫明赤土山、赤磐市加山)の赤土を採取し製煉実験し、全てが海綿鉄に変化し赤鉄鉱からの製鉄実験成功です。」「穴窯で海綿鉄と、粘いあめ状の鉄塊ができました。登り窯を使用すれば赤鉄鉱からの製鉄が可能です。」(令和3年)

→陶芸炉ではない再現実験を期待しています。

⑪ 『旧約聖書ヨブ記 第 28 章に「鉄は土から取り出す」と記録されています。」

→下が赤く上が白いギザのメンカウラ―のピラミッドから、私はそのルーツがナイル川上流の万年雪で上が白く下が赤い神山信仰にあると調べて縄文ノート「56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ」「57 4大文明と神山信仰」「61 世界の神山信仰」などで「もともとエジプトとヌビアは同一の祖先から別れた国であった」「ヌビアは古代から金や鉄、銅などの鉱物資源に恵まれた」などと書きましたが、木村愛二氏の「アフリカ製鉄起源説」については触れませんでしたので、次回に紹介したいと思います。

 

3.各地の製鉄実験

 丸谷さんからの資料で各地で製鉄実験が行われていることを知りましたので、ネットでの検索を含めて紹介します。

⑴ 加越たたら研究会福井県あわら市:旧金津町) 1991年~

 http://www3.fctv.ne.jp/~takae-u/

 https://www.facebook.com/kaetsu.tatara

 写真は1996年のオイル缶を3つ積み重ねた炉での実験と2016年6月11日の細呂木小学校でのワークショップの模様で、砂鉄と貝殻、赤泥などを1500度まで熱してたたら製鉄

f:id:hinafkin:20220205160718j:plain

 隣の三国町(現坂井市)には仕事で通い「あわら温泉」を見に行ったことがありますが、金津町という旧町名、金屋・赤尾などの地名など、古くから製鉄を行っていたことが伺われます。

 

⑵ 春日井たたら研究会(愛知県春日井市) 2004年頃~

 http://www.jpnet.link/tatara/  

 2004年、春日井市西山町の丘陵(近世には金屋浦と呼ばれる)で7世紀末~8世紀初頭の古代製鉄炉(西山製鉄遺跡)が発見されて会が発足し、砂鉄やソブ(赤茶色の鉄分)を使った製鉄実験のイベントなどを活発に行っています。

f:id:hinafkin:20220205160935j:plain f:id:hinafkin:20220205161023j:plain

 

⑶ 愛媛大学アジア古代産業考古学研究センター・同付属高校 2011年7月

 ―高大連携プログラム『古代製鉄を学ぶ』 

 http://www.ccr.ehime-u.ac.jp/aic/katudou_43.html

 リモナイト(褐鉄鉱、ベンガラの素材となる)の粉末を用いた製鉄実験。大阪在住の山内裕子さん(『古代製鉄原料としての褐鉄鉱の可能性』2013年)、交野市教育委員会の真鍋成史先生のアドバイスを受けながら作業し、小規模炉による褐鉄鉱の製錬で鉄ができることを確認。

f:id:hinafkin:20220205161128j:plain

 

⑷ 神奈川県立鎌倉高校科学研究会 2011~2016年度

 ―赤目砂鉄によるたたら製鉄

 https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-23979.html

 https://www.nakatani-foundation.jp/wp-content/uploads/c96fe663f86f5da250d8c4fd3c36ff60.pdf

 立命館大の山末英嗣准教授から協力を得て、滋賀県にある同大キャンパスで約300個のレンガを使って炉を組み立て、赤目砂鉄を炉に入れ木炭を加えて3~5時間、1300度以上に加熱し、底で溶けて固まった「ケラ」をつくり、後に刀工により刃渡り25.7センチ、重さ180グラムの短刀に。工程をまとめた論文は日本学生科学賞の一等に入選。

f:id:hinafkin:20220205161303j:plain

 

⑸ 浜松市立篠原中学校 1年生 鈴木雅人 2012年度 野依科学奨励賞 受賞

 ―縄文時代における鉱物利用の研究PART4 高師小僧の焼成実験(ベンガラ製造)

  https://www.kahaku.go.jp/learning/schoolchild/tatsujin/pdf/H24/awards_suzuki.pdf

 高師小僧(褐鉄鉱)を還元炎で焼成するとわずか1分間で強い磁性が現れ、高師小僧の採れた黄褐色粘土を焚き火で3時間焼成したところ、90%が磁性を帯びたが、磁鉄鉱になってしまい、赤鉄鉱にはならず、ベンガラを作ることはできていません。

        f:id:hinafkin:20220205161334j:plain

 

⑹ 山内裕子 論文は2013年10月「古文化談叢・第70集」に収録

 ―古代製鉄原料としての褐鉄鉱の可能性~パイプ状ベンガラに関する一考察~

 http://ohmura-study.net/405.html

 大阪(河内)の多くの弥生時代古墳時代までの鍛冶遺跡・鍛冶関連遺物の鉄原料が朝鮮半島からの輸入ではなく、近隣で比較的容易に採取・入手できるベンガラ(パイプ状ベンガラ)との仮説のもとに

大阪府交野市近隣から採取したパイプ状ベンガラを七輪2個を重ねた炉を用いた還元装置で実験し、鉄をつくり、刀匠により鍛造して小刀を作ることができることを証明しています。

 

⑺ まとめ

 全部を網羅できているわけではありませんが、小学校・高校・大学や市民グループなど、各地で砂鉄・赤目砂鉄・ソブ・高師小僧・リモナイト(褐鉄鋼:阿蘇黄土など)・ベンガラを使った製鉄実験が行われています。

 これらの実験は、それぞれの地域の原料と遺跡の年代に対応した実験を行っていますが、中には「縄文製鉄」「スサノオ大国主建国時代製鉄」の証明に繋がるものも見られます。

 「鉄器時代」の解明に向けてさらなる総合的な取り組みが必要と考えます。

 

4.古代製鉄研究から「石器―土器―鉄器」文明史観へ

 佐久地方には赤目砂鉄・高師小僧・褐鉄鋼・磁鉄鉱の全てがあり、製鉄部族のスサノオ大国主一族の八坂氏・守矢氏の伝承や、銅鐸文化を受けついだ鉄鐸や鉄の薙鎌を祭器とする宗教が今も続いており、縄文時代にはすでに黒曜石の分業生産と広域交易を行い、巨木建築を建てる技術と組織力があったのですから、その延長上で古代鉄生産が行われれていた可能性は高いと考えます。

f:id:hinafkin:20220122174656j:plain   f:id:hinafkin:20220205162421j:plain

 全国各地の製鉄実験と較べてみても、1985年の富士見町での赤目砂鉄製鉄実験は先進的であり、紀元1~2世紀のスサノオ大国主建国時代の製鉄遺跡の発見と製鉄再現実験の取り組みの継承・発展が期待されます。金屋製鉄遺跡をはじめ諏訪各地の製鉄遺跡の年代を割り出すととともに、製鉄再現実験を行って原料と製法を解明し、諏訪を古代製鉄研究と鉄器水利水田稲作研究の拠点にしていただきたいものです。

 これまでわが国の古代史は「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」の拝外主義の左右の思想的偏向(バイアス)により「縄文・弥生断絶史観」に陥るとともに、鉄器後進地域であった「大和中心史観(天皇中心史観)」から鉄器分析を避け、土器様式分析と青銅器分析の考古学に陥り、「旧石器―縄文―弥生-古墳」時代という世界には通用しない恥ずかしい「イシドキドキバカ」のガラパゴス史観に安住してきました。

 そして後発のギリシア・ローマ文明の「石器―青銅器―鉄器」という西欧中心主義の武器文明史観・帝国主義史観に追従し、農耕利用の鉄器利用先進地域であったアフリカ・アジア文明の農耕・粉食文明の時代区分の「石器―石窯ー鉄器」「石器―土器鍋―鉄器」の時代区分を考えることもなく、「鉄器農耕文明」「石窯・土器鍋食文明」などの解明を放棄してきました。

 そもそも、人類はアフリカで誕生し、「四大文明」は全てアフリカ・アジアの黒人・赤褐色・黄色人文明なのです。アフリカから武器の「石槍」だけを持って世界に散らばったのではなく、アフリカから言語や種子・農耕技術・生活文化・宗教を持って全世界に人類は拡散したのです。

 鉄器についてもアフリカ起源の可能性があることを、次回、検討したいと思います。

 ナチスの「アーリア民族説」や、「インド・ヨーロッパ語族説」「ヒッタイト鉄器起源説」など、ゲルマン民族の西欧中心史観を今だに定説としてあがめる「丸暗記お勉強」歴史・考古学から卒業すべきでしょう。

 荒神谷遺跡の大量の青銅器の発見により、銅鐸・銅鏡に依拠していた「青銅器大和中心史観」は崩壊しました。ギリシア・ローマ文明の「石器―青銅器―鉄器」史観から離れ、今こそ「石器―土器鍋―鉄器」史観の日本文明論の確立に向け、阿蘇・筑紫・出雲・伯耆・安芸・吉備・播磨・摂津・大和・美濃・尾張・諏訪など各地で紀元1世紀頃からの製鉄文明の仮説検証型の調査・再現実験を進めていただきたいものです。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/