ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート122 「製鉄アフリカ起源説」と「海の鉄の道」

 記紀神話などは8世紀の創作、魏書東夷伝倭人条は信用できない、金印は偽造であるなどと考えておられる方は「トンデモ説」と思われるでしょうが、私の「縄文人はドラヴィダ系海人(あま)・山人(やまと)族」「委奴国王はスサノオ大物主大神」「大国主・大物主連合による百余国の建国」「スサノオ大国主王朝による鉄器水利水田稲作の豊葦原の水穂国づくり」「大国主の国譲り=筑紫・出雲・越の御子の後継者争い」「倭国大乱は葦原中国からの筑紫大国主家30国の分離・独立」「邪馬壹国(やまのいのくに)は筑紫日向(ちくしのひな:蜷城(ひなしろ))の甘木高台(高天原)」「天皇家のルーツは薩摩半島西南端の笠沙・阿多の山人(やまと=山幸彦)一族」「大物主の美倭(みわ)国・大倭(おおわ)国を乗っ取った天皇家の大和(やまと)国」「箸墓は大物主・モモソヒメ夫婦の墓」説などについては証明できたという自信があります。ただ「スサノオ=朱砂王説」「オロチ吉備王説」「スサノオ物部氏吉備国後継説」「八坂・守矢氏=物部氏説」については、さらに検証が必要と考えています。

 これから述べる「製鉄アフリカ起源」「海の鉄の道」説については、日本文明・文化を全て「アフリカ→中央アジア→中国→朝鮮」ルートと固く信じている人たちからは、とんでもない空想と批判されそうです。

 しかしながら、人類の誕生がアフリカであり、「海の道人類拡散説」の私としては、時代が異なるとはいえ、アフリカからの鉄伝来もまた「海の道」の可能性が高いと考えています。西欧中心史観の「石器―青銅器―鉄器」歴史区分を鵜呑みにし、銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏡研究に没頭して鉄器分析をおろそかにしてきた「大和中心史観」への批判として、「石器―土器―鉄器」文明史観の一環として、鉄のアフリカ起源説を取り上げておきたいと考えます。

 縄文論とは無関係と思われるでしょうが、「ウォークマン史観」や「騎馬民族史観」の思い込みから離れ、アフリカから言語・ヒョウタン(水や種子)・黒曜石・文化・宗教などを持って人類は竹筏で「海の道」を全世界に拡散したという私の「ラフトピープル史観(筏民史観)」からすると、時代は異なりますが「鉄の海の道」を考えないわけにはいきません。

 前回、「縄文ノート120」でも少しふれましたが、縄文時代の鳥浜遺跡や三内丸山遺跡から西アフリカのニジェール川流域原産のヒョウタンと種が見つかっていることから、私は蓼科山など縄文時代から続く神名火山(神那霊山)信仰のルーツもまたアフリカと考えて調べ始め、アフリカ高地湖水地方の万年雪を抱くキリマンジェロやケニア山信仰がルーツと最初は考えました。

 ところがテレビ番組でギザのメンカウラーのピラミッドが上が白・下が赤のツートンカラーであることを知って衝撃を受け、「母なるナイル」の源流に万年雪を抱き下が赤土の山がないかネットを検索したところ、木村愛二氏のホームページにたどり着きました。ナイル源流の赤道直下に万年雪のルウェンゾリ山があり、その麓には8000年前頃とされるイシャンゴ文明(最近になって9万年前の骨製の銛の発見)があったのです。―縄文ノート「62 日本列島人のルーツは『アフリカ高地湖水地方』」「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」参照 

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 ウィキペディアによれば、木村愛二氏は防衛大学を中退して東大に入学し、安保を闘い、日本テレビでの労働争議でフリーのジャーナリストになり、ホロコースト見直し論で批判を受けたという異色の人物です。ホロコースト否定論には同調できませんが、氏の「製鉄アフリカ起源説」は先駆的な労作であり、氏の『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』ホームページを紹介しながら、製鉄起源の真実に迫りたいと考えます。

 

1 「古代製鉄アフリカ起源説」への経過

 諏訪の蓼科山の神名火山(神那霊山)信仰のルーツを追究していた私は、これまで、次のように書いてきました(緑字は引用文、黒字はコメント)。

 

⑴ 縄文ノート57 4大文明と神山信仰 210219

 ・「もともとエジプトとヌビアは同一の祖先から別れた国であった」(注:ヌビアはエジプト南部からスーダンにかけて古代の国)

 ・「ヌビアは古代から金や鉄、銅などの鉱物資源に恵まれた」「ヌビア文明は、世界で最も古い文明のひとつである」

⑵ 縄文ノート90 エジプト・メソポタミア・インダス・中国文明の母系制 210822

・「古代エジプトの王・ファラオは全て『生きるホルス』と考えられており、その母の豊穣の女神イシスは王座の形をした頭飾りや日輪と雌牛の角を頭に乗せた姿であり、ナイル上流ヌビアのアスワンのフィラエ島にイシス神殿(世界遺産ヌビア遺跡群)が造られるなど、古代エジプトで最も崇拝された女神とされています」

 

 この時は縄文社会の神名火山(神那霊山)信仰や女神信仰、縄文焼畑農耕などのルーツをテーマとしていたので、木村愛二氏の「アフリカ製鉄起源説」については触れませんでした。しかしながら、青銅器のノミで石材を切り出してピラミッドをつくったと教師から教わって信じることができなかったへそ曲がりな私は、木村氏の説にはただちに賛同しました。青銅は貴重品であり、青銅の硬度(HV)50~100に対し、鋳鉄は160~180とはるかに硬いのです。

 4600年前頃からのピラミッドや神殿、スフインクス、都市建設の膨大な石を採掘し、加工した道具が柔らく希少な青銅器であったという証明はそもそもされていません。また、ヒッタイト製鉄起源説が通説ですが、アナトリア半島(今のトルコ)の敵対国であった3600~3200年前頃のヒッタイト王国からエジプトが膨大な鉄器を入手できたとはとても考えられません。エジプト人の故地であり「母なる豊穣の女神イシス」信仰の中心地のヌビアこそが鉄生産の拠点であり、ヒッタイトにはアフリカ西海岸から製鉄技術が伝わった可能性があります。

 このヌビアでは4600~1700年前にかけてクシュ文明が栄え、エジプトを征服して第25王朝ファラオ(2800~2700年頃)として君臨した時期もありした。エジプトの約120基のピラミッドに対し220基ものピラミッドを建てており、エジプトをしのぐ鉄の武器とノミ・ハンマーの「鉄の王国」であったのです。

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 横道に逸れますが、宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」に登場する強国トルメキアのクシャナ皇女の名前は「トルコ」と「クシュ王国」名からとったのではないか、などと夢想して楽しんでいます(宮崎監督には未確認です)。

 エジプトに鉄鉱石も製鉄遺跡もなく、ヒエログリフに製鉄の記録が残っていないことからみて、エジプトでは製鉄は行っておらず、鉄の入手はヌビアから行い、最高の機密としてその入手先を記録に残さなかったのです。

 「紀元前2613年にはスネフェルが即位し、エジプト第4王朝が始まる。この第4王朝期には経済が成長し、またピラミッドの建設が最盛期を迎えた。スネフェル王紀元前2600年頃にヌビア、リビュア、シナイに遠征隊を派遣して勢力範囲を広げる一方、まず屈折ピラミッドを、さらに世界初の真正ピラミッドである赤いピラミッドを建設した」(ウィキペディア)という歴史から見て、エジプトは鉄を直接求めてヌビアに侵攻し、大量の農具と鉱工具用の鉄を確保して「鉄器農耕のピラミッド文明」を築くことができたのです。

 原料調達が容易で、銅の1085℃よりも融点が400~800℃と低くて製造が簡単で、ナイル川を使って大量の重量物の運搬ができるヌビア(今のスーダン)の安価な鉄の利用こそエジプト文明を生んだのです。

 

⑶ 縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと 210422

ニジェール川の源流域であるギニア高地にはカニを食べるチンパンジーが生息しており、中流は砂漠・ステップ(サバンナ)地帯、下流には熱帯雨林があります。下流のナイジェリアの人口は約2億人でアフリカ最大、世界第7位で、石油を産しアフリカ最大の経済大国です。「母なる大河ニジェール川」と言えるように思います。

 この地に住むY染色体Eグループのコンゴイド人種(ニジェール・コンゴ語族やナイル・サハラ語族)から日本人に一番多いY染色体Dグループは分かれたのであり、ナイジェリアには残されたDグループのDNAを持つ人が3例見つかっています。

 私たち日本人の故郷がこのニジェール川流域であることは動かしがたいと考えます。」

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<若月利之島根大名誉教授からの返事>・・・

⑥ 西アフリカの湖水地方は、東アフリカの南北に延びる湖水地方ほど目立ちませんが、西のセネガル川―マリの内陸デルタ―ナイジェリア北方からチャド湖―南スーダンのスッド湿地―スーダンのハルツーム―そしてナイルデルタに繋がる、乾燥地帯(サヘル帯び)ですが、川水が流れ込み、広大な湿地帯を形成しています。私たちのアフリカ水田農法Sawah Technologyの、現時点での最大のターゲットはこの「湖水地帯」です。これは図を添付します。このサヘル帯に沿って分布する湿地帯(内陸デルタ)はエジプトのナイルデルタ10ケ分くらいの価値があると思います。」

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 私は「縄文ヒョウタンの原産地ニジェール川流域」から「全イネ科植物ニジェール川流域起源説」「チンパンジー生息熱帯雨林人類誕生説」「『主語-目的語-動詞』言語アフリカ西部起源説」「Y染色体D型のルーツ西アフリカ説」に進み、さらにスーダン(古くはヌビア)からギニアにかけての「アフリカ横断湿地帯」を若月氏から教えられ、調べていくとそこにはアフリカ横断東西交易路があり、ニジェール川支流のブルキナファソには4000~3000年前世界文化遺産の「ブルキナファソ古代製鉄遺跡群」があることが判りました。

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 ヌビア(スーダン)からブルキナファソまで、4000年前頃から「アフリカ横断アイアンロード(鉄の道)」があったのです。そして、その製鉄炉は縦型の赤土を焼いて固めた簡便な炉でした。

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 当然ながら、この「アフリカ横断湿地帯」では鉄器を使った農耕がおこなわれるとともに、エジプトと「麦鉄交易」が行われていた可能性が高いと考えます。

 現在、ヌビア(スーダン)のクシュ王国の製鉄遺跡は発見されておらず、「製鉄ヌビア起源説」の直接的な証明はできていませんが、出雲の荒神谷青銅器遺跡と同じようにいずれ必ず発見されると私は考えています。

 

2 木村愛二氏の「製鉄アフリカ起源説」

 私が製鉄アフリカ起源説に出会った木村愛二氏の『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』(第4章 鉄鍛冶師のカースト)から主なポイントを抜き出すと次のとおりです。茶色字が引用、黒字は私のコメントです。https://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-39.html

 

① アフリカ人は、鍛冶師をカーストの最上位に置いていた。彼らの神話はすべて、神から直接に金属を与えられたということを語っている。独自の技術に誇りをもってもいた〔次の写真は、この章の扉絵と同じで、アフリカの土製の高炉(『黒色人文化の先行性』より)〕 。

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→このアフリカ製鉄神話からみて、4000~3000年前の「ブルキナファソ古代製鉄遺跡群」はアフリカ独自の製鉄起源を示しています。ヒッタイトからエジプトが製鉄技術をえて、この地に製鉄を広めたということは考えられません。

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② ザイール(コンゴ)盆地の広大な熱帯降雨林の中心部にいるバトワ民族(ピグミー)は、彼らの一族のなかに鉄鍛冶師がいたという伝説を語りつたえている。鍛冶師の氏族は、アコアとよばれていた。「彼らは、だれよりもさきに、鉄の矢と槍と斧と刀をつくった」

→彼らはY染色体E型のコンゴイドであり、D型のわれわれ日本人とは近い関係にあり、遺伝子調査を進めればD型の人たちもいる可能性があります。

 「赤目(あこめ)砂鉄」「赤穂(あこう)」と「赤」(倭音:あか、呉音:セキ、漢音:シャク)を「あこ」と読むことに疑問を持っていましたが、「アコア(鍛冶師)」との関係が気になります。

 農業・宗教関係の倭音倭語のルーツがドラヴィダ語であるように、製鉄関係の呉音漢語・漢音漢語ではない倭音倭語のルーツが南インドやアフリカ(コンゴイド人種)にある可能性を調べる必要があります。―「縄文ノート42 日本語起源論抜粋」参照

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③ 古典時代のギリシャ人は、やはり、鉄を物々交換で手にいれていた。鉄は、彼らにとって、どこからともなく運ばれてくる金属であった。彼らは、鉄鉱石の存在すら知らなかったのである。また、アッシリア人は、やはり鉄鉱石のない平野部にいたから、物々交換で鉄を手にいれていた。・・・アフリカの狩猟民族を、石器時代に区分するのは、大変なまちがいである。彼らは、ヨーロッパ人がアフリカにやってくるよりずっと前から、鉄器を使っていた。実際、アフリカ人で鉄器を使用しない民族は、どこにもいなかった。

→「ブルキナファソの古代製鉄遺跡群」からみて、遅くとも4000年前頃にはアフリカは鉄器時代に入っており、ギリシア青銅器時代に先行していました。

 「石器―青銅器―鉄器」時代区分は特殊ギリシア・ローマ文明であり、世界共通の文明時代区分ではないのです。マルクスの特殊ギリシア・ローマの「原始共同体―奴隷制社会―封建社会」時代区分を世界標準とし、四大文明などの「アジア的生産様式」を特殊化する西欧中心史観=白人中心史観と同じです。

 「石器―土器―鉄器」文明区分と「氏族社会―部族社会―封建時代」社会区分を世界標準とするアフリカ・アジア中心史観に変えるべき時です。日本の西欧崇拝・拝外主義の「輸入翻訳学」の歴史・考古学からの転換を目指す若い人たちは、人類学者とともにアフリカ・中東・インドに出かけるべきです。

 

④ 現在のスーダンには、メロエという古都があったのだが、そこには、約10メートルもの高さの2つのボタ山があった。調べてみると、これは鉄をとりだしたあとの鉱石のカス(鉱滓、カナクソ)であった。しかも、どうおそく見積っても、このメロエの製鉄業は、紀元前6世紀ごろにははじめられていた。

→ヌビア(現在のスーダン)の5100年前頃からのクシュ文明(ケルマ王国→ケルマ王家→ナパタ王家→メロエ王家)の製鉄起源は西アフリカの4000~3000年前の「ブルキナファソ古代製鉄遺跡群」よりさらに古い可能性が高いと考えます。

 

⑤ 鉄の技術史を研究した市川弘勝は、鉄は意外に早くから知られていたと主張しており、つぎのように書いている。「紀元前約3000年ごろにつくられたといわれるケオプスのピラミッドの石材のつぎ目から鉄製のナイフが発見され、カルノック・スフィンクスの一つの足もとからは鉄製の鎌が発掘されているので、鉄は相当早くから人類に知られていたものと思われる。」(『鉄鋼』、p2)

→最盛期のエジプト第4王朝のスネフェル王4600年前頃にヌビア、リビュア、シナイに遠征隊を派遣したのは、ヌビア・リビュア南部の鉄、シナイの青銅を略奪するためであった可能性が高く、ナイル川中流の古代首都テーベ(ルクソール)のカルナック(カルノック)神殿などは4000年前頃から建設されており、発見された鎌は南のヌビア製とみて間違いないと考えます。

 

⑥ バルカン半島の山岳地帯は、古代からの製鉄業の中心地であった。ところが、バルカン半島の周辺には、謎めいた歴史がある。

 まず、面白いことに、このあたりの製鉄地帯の地名と、旧約聖書にでてくる伝説的な鍛冶師の名前とか、古代エジプト語の金属や鉄のよび名とかが、結びつくのである。

→農業・宗教語から日本語の起源をドラヴィダ語とし、地名と地名由来の人名からスサノオ大国主国史や邪馬壹国を解明してきた私には木村氏の言語分析は賛同できる方法論です。長くなるの具体的な引用は割愛しますが、興味のある方はぜひ氏のホームページをみて頂きたいと思います。https://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-36.html

 

⑦ フォーブスは、古代エジプトで、ベンガラ(酸化第二鉄の赤い顔料)が使用されていたことを認めているが、これを、鉄鉱石の熱処理による製品だと考えていない。これも大変に矛盾した考え方である。現在では、硫化鉄鉱の熱処理によって、ベンガラがえられることがわかっている。また、ベンガラは自然にころがっているものではない。ベンガラを最初につくりだした民族は、鉄鉱石の熱処理を知っていたにきまっている。https://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-37.html

世界遺産登録された11000~7000年前頃リビアの「タドラルト・アカクスの岩絵遺跡群」やリビアスーダンの国境近いエジプトの「ギルフ・ケビール遺跡」の10000~5000年前頃の岩絵、ニジェールに近いリビア南東部の「タッシリ・ナジェール遺跡」の新石器時代に遡る岩絵など赤絵具は古くから「アフリカ横断湿地帯」で愛用されており、赤土を加熱してベンガラにする技術が製鉄とともに行われていた可能性が高い考えます。―「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」参照

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⑧ ラテライトは、熱帯地方特有の分解土壌のことであるが、シュレ=カナールによると、最近では、「古鉄土」という総称がつかわれている。この中には、酸化鉄分の含有量が非常に高いものが多く、砂状、礫状、粘土状、岩盤状などの形をとっている。砂の状態のものは、砂鉄として採集されるし、礫、岩盤状のものは、鉱石として採掘される。https://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-38.html

→この指摘はとりわけ重要です。「石器→青銅器→鉄器」時代ではなく、アフリカでは豊富な鉄原料から「石器→鉄器」時代へと世界に先駆けて金属器時代に移行したのです。

 

⑨ ラテライト性の鉄鉱石は、それゆえ、アフリカ大陸の平野部にいくらでもある。山岳地帯に採鉱師がいく必要はなかった。こんな有利な条件がアフリカ大陸にはあった。しかも、自然に起きた金属の沈澱物の中には、マンガン、ニッケル、コバルトなどの重金属が含まれていたので、最初から特殊合金鋼ができた。

→シリアのダマスカスで作られていた鋭利な刃物で有名なダマスカス鋼は、古代南インドで紀元前6世紀に開発されたるつぼ鋼のウーツ鋼の別称とされ、その木目状の模様は鋼材に不純物として特にバナジウムが必要であったとされています。そしてウーツ鋼とダマスカス刀剣の生産が近代まで持続しなかった原因をインドでバナジウムを含む鉄鉱石が枯渇したことによると推測しています。

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 しかしながら、バナジウム産地が南アフリカにあることからみて、バナジウムが混じったラテライトを使った「南アフリカ鉄」がシリアやイラン、インドに輸出され、イギリスの植民地化により南アフリカの製鉄業が潰滅したことによりダマスカス鋼が消滅したと見るべきでしょう。

スサノオが酒を飲ませて暗殺したオロチ王の「都牟刈大刀(つむがりのおおたち)」は別名を「蛇の麁正(おろちのあらまさ)」と書かれ、天皇家では「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)草薙剣(くさなぎのつるぎ)」として皇位継承の「三種の神器」の1つとしていますが、私は赤目砂鉄の荒真砂(あらまさ)を製鉄して鍛えた硬い鉄刀で、「天叢雲剣」の名前は日本刀の乱れた「刀紋」か、地肌が「八雲肌」のような大刀であったと考えてきました。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

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 それは鍛造によってできる模様と書きましたが、バナジウムを含む砂(愛媛県大洲市の神南山神南石など)が紛れ込んだのか、あるいは鉄の融点を下げるために投入したカルシウム材の貝殻にバナジウムが含まれていてできたのか、ことによると南インドのウーツ鋼を使った大刀であった可能性も考えられます。いずれにしても、オロチ王→スサノオ天皇家ヤマトタケル(播磨の印南の大国主系の王女)と伝わり、王権の武力の象徴とされたことを見るとたいへん珍しい、よく切れる美しい大刀であった大刀であったことは確実です。

 

⑩ アフリカの農耕民の社会では、技術者の最上位のカーストは、鉄鍛冶師とされている。ところが、シュレ=カナールの研究によると、ほとんどどこでも、このカーストの女性は陶工、または土器製作者である。・・・

 ところで、明らかに鉄器よりも、土器の方が先に発明されている。ということは、土器をつくっていた女たちが、鉄の製法を発見し、男たちに力仕事、つまり加工作業を手伝わせたとも考えられる。その鍵になるものは、ラテライト、または「古鉄土」のもうひとつの特殊性である。つまり、「古鉄土」は粘土状でも存在する。そして、土器の原料と同じ形で、地表にあった。この条件が決定的なものではなかろうか。・・・

 そして、もちろん、アフリカ人は早くから土器をつくっていた。紀元前6000年ケニア高原の遺跡について、コルヌヴァンは、「とりわけ豊富な土器」という表現さえ使っている。

 では、どういうことをしているうちに、鉄の製法が発見されただろうか。偶然だろうか。わたしは、これも必然的な結果として考えている。・・・

 古鉄土性の粘土が多い地方では、土器製作過程で海綿鉄の塊まりが得られるという可能性は、充分に考えられる。・・・

 長い間、土器をつくっていた女たちは、その上に、実験的訓練を経ていたし、出来上りのよさ、色彩を競いあったにちがいない。女たちの研究心は旺盛であった。奇妙な黒い鉄の塊まりの利用方法に気づくのも、人一倍早かったにちがいない。

 さらに、発見された最初の鉄塊で、何がつくられたか、ということも考えなくてはならない。歴史学者は、刀剣類に重点を置く傾向がある。しかし、石器と同様に、金属器も最初は生産用用具、とくに農耕用具として開発されたと考えるのが、本筋であろう。

→この指摘はさらに重要です。私は木村氏のホームページでルウェンゾリ山を見つけて神山信仰のルーツと考えて有頂天になり、製鉄についてのこのような指摘を読んでいませんでした。

 女性が古鉄土性(ラテライト)で土器を造り、その時に500~700度C以上の高温で鉄塊ができることに気付き、女性が中心であった農耕具として利用した可能性を木村氏が指摘したのは画期的な着想です。土器製造と鉄器製造をセットでとらえており、私の縄文農耕・縄文食論からの「石器―土器―鉄器」時代区分と同じとなり、この時代区分をアフリカ・アジアの世界標準としてよいことになります。―縄文ノート「8 『石器―土器―鉄器』時代区分を世界へ」「58 多重構造の日本文化・文明論」「108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説」等参照

 また、私の女性主導の進化論・教育文化論・農耕論・道具論・共同体論・宗教論についても、氏はすでに土器・鉄器論から指摘されており、その先進性にはびっくりです。―縄文ノート「13 妻問夫招婚の母系制社会1万年」「32 縄文の「女神信仰」考」「72 共同体文明論」「81 おっぱいからの森林農耕論」「88 子ザルからのヒト進化説」「92 祖母・母・姉妹の母系制」等参照

 なお私は「縄文ノート89 1段階進化説から3段階進化説へ」において、ナイジェリアとコンゴの間のカメルーンにある「偉大な山」と呼ばれるカメルーン山の噴火が人類の火の使用の始まりとなったのではないかと書きましたが、土器や鉄器づくりもまた、火山噴火に伴う溶岩流による古鉄土性の粘土の加熱を観察したことから始まった可能性もあると考えます。

 

⑪ (注:ナイジェリア中央部に)ノクという地名の錫鉱山があった。そして、この鉱山の採掘現場から、大量のテラコッタ(焼き粘土の意)、つまり土製の人物像(日本のハニワに似ている)が出土した。これはノクの小像文化ともよばれているが、このテラコッタには、鉄の鉱滓(カナクソ)がこびりついていた。しかも、コルヌヴァンはこう書いている。「いくつかの発掘地点では、通風管の破片、鉄の鉱滓、溶鉱炉の痕跡が、実際に発見された」(『アフリカの歴史』、p.158)・・・

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 ノクの一地点で4つの炭化した木片が採集された。そして、カーボンテストの結果、紀元前約3500年、2000年、900年、紀元後200年という年代を示した。ところが、最初の2つの数字は除外されて、あとの数字の中間が採用されている。

ウィキペディアは「ノク文明」を「紀元前10世紀から紀元後6世紀頃に栄えた鉄器文化」とし図のような溶鉱炉を載せています。

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 4000~3000年前の「ブルキナファソの古代製鉄遺跡群」が世界遺産登録されている現在、「紀元前約3500年、2000年」の測定結果を再検証し、その起源を確定すべきでしょう。

 前述のように、ニジェール川河口部のナイジェリアでは日本人に多いY染色体D型の人が発見されており、この地域に多いY染色体E型のコンゴイド人種の居住地でもあり、ナイジェリアチンパンジーや西ゴリラの生息地で、この地域の熱帯雨林こそが人類の誕生地であると私は考えています。―縄文ノート「62 日本列島人のルーツは『アフリカ高地湖水地方』」 「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」参照

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⑫ アフリカ人は、特殊鋼をやすやすとつくりだした。そして、東海岸まわりで、インドや地中海方面にも輸出していた。デヴィドソンも、「ソファラの鉄は、その豊富なこと、良質なことで、インドの鉄より有名」だったとしている。ソファラは、現在のモザンビーク海岸に古くから栄えた貿易港のことである。また、12世紀のアラブ人は、このソファラの鉄がインドで高く売れる、と書いていた。[下図参照]・・・

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 アフリカ東海岸を通して、アラブ、インド方面に、大量の鉄が輸出されていた。すくなくとも中世期のアフリカは、むしろ製鉄業の中心地であった。そして、わたしの考えでは、古代においても、たしかにそうだったにちがいない。

→私はY染色体D型の日本列島人がE型のコンゴイド族(ビアフラ内戦で虐殺されたイボ族など)からニジェール川流域で分かれ、ヒョウタンやイモ・イネ科穀類などを持って高地湖水地方に移住し、竹筏で「海の道」を通って南インドに移住し、さらに東進したとしてきましたが、同じように「鉄の海の道」があったことを木村愛二氏は「モンスーン航路」として明らかにしています。

→アフリカでバナジウムを含む古代・中世の特殊鋼はまだ発見されていませんが、伝承によれば「鉄の海の道」があったことは明らかです。なお、下図を見て頂ければあきらかなように、ローデシアから南インドまでの航海距離と南インドから日本列島までの距離はほぼ同じであり、水・食料の乏しい草原・砂漠地帯よりはるかに容易に人類はヒョウタンに水を確保して移動したと考えます。

⑬ アフロ・アメリカ人の歴史学者、ウッドソンは、1947年に出版された『われわれの歴史における黒色人』の中で、つぎのように主張している。 「大陸の中心部に近いアフリカ人は、この貴重な金属の効用を最初に知った人たちである」(『黒人の歴史』、p.6、再引用)

 「1902年にドイツの学者フェリクス・ルーシャン……(1854~1924)……が、鉄の溶解と熱処理の最初の発明者はネグロで、他の民族はこの技術を彼らから学んだのであり、したがって鉄の冶金術はアフリカから西ヨーロッパに伝ったのだと確信をもって述べた。……これにかんして注目される考古学の記念物は、北ローデシアのムンブア洞窟で、そこでは新石器時代の用具とともに鉄の溶炉趾と鉄鏃が発見された。この記念物は、きわめて疑問が多いが、紀元前2000年紀と年代づけられている」(『原始文化史概説』、p.198~199)

 ほかにも、やはりソ連のペシキンが『鉄の誕生』の中で、同じようなことを書いている。彼の表現は、より確定的であり、アフリカ大陸で、「何回も発掘が行われた結果、紀元前2000年にアフリカでは鉄の熱間加工がひろく普及していたことが確認ざれた」、となっている。

 また、すでにベックが、1880年代に、西アフリカの「古い土着の製鉄業」にも注意を向けていた。そして、現在のスーダン西部の民族が「大昔からの鉄鍛冶として有名」だったとしており、「非常に進んでいた」と評価している。

 だが、いずれ、決定的な調査結果もでるにちがいない。というのは、デヴィドソンによれば、ローデシア周辺だけでも、古い鉱山の遺跡は、「おそらく6万ないし7万に達する」。アフリカ大陸全体では、数十万ケ所といってよいだろう。

→アフリカ製鉄起源説について1880年頃からこのような研究があったことは知りませんでした。それらが無視され、未だに「アフリカ石器時代」イメージを流布している「帝国主義国」の西欧中心史観には怒りを覚えます。

 

3 日本列島への2つの「鉄の道」

 私は日本列島への製鉄の伝播には、記紀神話に見られるスサノオによる「新羅」からの伝播とともに、インドからの「海の道」ルートがあると考えてきました。一番大きな理由は、前掲のように製鉄関係用語が倭音倭語と呉音漢語・漢音漢語の3層構造になっており、南インドドラヴィダ族の宗教・稲作用語の伝播と同じであることですが、スサノオの「韓鋤剣(からすきのつるぎ)」がオロチ王の「蛇の麁正(おろちのあらまさ)天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」に当たって欠けたという神話もあります。

 長くなりますが、「縄文ノート53 赤目砂鉄と高師小僧とスサ』を以下、再掲しておきます。

 

⑶ 製鉄伝播の経路

 では、このスサノオ新羅からの入手した製鉄技術より前の、吉備のオロチ王はどこから高度な製鉄技術を獲得したのでしょうか? 韓鋤剣(からすきのつるぎ)が銑鉄刀であったことからみて新羅経由ではなかった可能性が高いと思われます。

 「NHKスペシャル アイアンロード~知られざる古代文明の道」(2020年1月13日、10月13・20日)では、「ヒッタイト(紀元前1500~2000年頃)→スキタイ→中国→朝鮮→倭」への「絹の道」よりも古い「鉄の道」の存在を伝えています。

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 一方、日立金属HPの「たたらの由来」では、「たたら」の語源として「百済新羅との交渉の場のたたら場、たたら津」説とともに、窪田蔵郎氏の「ダッタン語のタタトル(猛火のこと)からの転化説」、安田徳太郎氏の「古代インド語のサンスクリット語でタータラは熱」説を紹介し、東インドからインドシナ半島ルート説と、雲南高地経由の中国南方ルート説を紹介しています。

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 後者の雲南経由は銅鐸のルーツが春秋戦国時代(紀元前770~221年)の「越」であるという説や長江流域稲作ルーツ説、照葉樹林文化説と矛盾のない説になります。

 しかしながら、日本列島人起源論(チベット等のY染色体Ⅾ系統)や日本語起源論(ドラヴィダ系)、ジャポニカ稲作・食文化起源論でみたように、私は「東インド・東南アジア高地→ミャンマー海岸部→スンダランド(水没)→琉球」のドラヴィダ系海人・山人族の日本列島への「海の道」を考えており、この「海の道」を通っての何次にもわたる移住によるインド鉄の伝来があったと考えます。―「Ⅴ-1(縄文ノート43) DNA分析からの日本列島人起源論」「Ⅳ-1(縄文ノート41) 日本語起源論と日本列島人起源説」「Ⅱ-4(縄文ノート28) ドラヴィダ系海人・山人族による日本列島稲作起源」参照

 

 アフリカ・インドの製鉄法、中国・新羅の製鉄法と日本の古代製鉄の比較検討はできていませんが、スサノオ大国主一族建国の紀元1~3世紀の製鉄遺跡の発見が待たれます。

 

4 「製鉄ヒッタイト起源説」の軍国主義歴史観

 これまで製鉄の起源については「紀元前1700年頃ヒッタイトではバッチ式の炉を用いた鉄鉱石の還元とその加熱鍛造という高度な製鉄技術により鉄器文化を築いたとされる。トロイ戦争でのヒッタイトの敗北により製鉄技術はヨーロッパ全土に広がった」(ウィキペディア)とされてきました。

 さらに2019年3月25日の朝日新聞デジタルなどは、トルコ・アナトリア地方のカマン・カレホユック遺跡で「中近東文化センターアナトリア考古学研究所」(大村幸弘所長)が、紀元前2250~同2500年の地層から最古級の分銅形の直径約3センチの鉄塊を発見したことを伝えています。

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 その説明ではその遺跡が「『鉄と軽戦車』を武器に古代オリエント世界で栄えたヒッタイト帝国(紀元前1200~同1400年)の中心部に位置する」としているのですが、ヒッタイト帝国と戦ったエジプト軍もまた鉄器で戦ったのであり、すでに詳しく明らかにしたように、その鉄の生産地はアフリカであったのです。

 エジプト軍は紀元前1457年のカナン軍とのメギドの戦いにおいて戦車1000両を用いており、紀元前1285年のカデシュの戦いでは戦車2000両を用い、3500両のヒッタイトとは苦戦しますが、両軍とも鉄の車輪と武器での戦いでした。鉄器のヒッタイト軍が有利に戦ったなどというのは後世の創作です。

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 考古学者やマスコミの悪い癖で、関係したフィールドの成果だけを「最古級」などと公表しますが、その時には、他の「最古級」の4000~3000年前の「ブルキナファソ古代製鉄遺跡群」なども合わせて紹介し、今後、さらなる発掘によって製鉄起源地と起源年が動く可能性も示唆すべきでしょう。

 また、朝日新聞デジタルは特殊ギリシア・ローマ文明の「銅器・青銅器」時代区分図を載せ、おまけに『鉄と軽戦車』を基準とした古くさい「軍国主義歴史観」の解釈を載せていますが、エジプト文明など沖積平野での水利・農耕文明に鉄器が果たした役割こそ紹介すべきでしょう。

 ドイツの「鉄血宰相」ビスマルクの「現在の問題は演説や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」という軍国主義歴史観に影響され、「人類史上『最大の発明』の一つとされる製鉄の歴史が変わるかもしれない」などと、ヒッタイトの鉄を武器としてしかみないような「鉄と血」「鉄は国家なり」の軍国主義的解釈をマスコミはすべきではないでしょう。その軍国主義の末路がドイツの第1次世界大戦とヒトラーの第2次世界大戦という暗黒時代であるということを考古学者やマスコミは自覚すべきです。

 

5 「石器―土器―鉄器」時代区分の日本史へ

 中国・西欧コンプレックスの塊の日本の考古学者や歴史家たちは、「石器―青銅器―鉄器」時代区分を頼りにし、「大和中心史観(天皇国史観)」の確立に向けて銅鏡の分析に力を入れてきました。「鉄は錆びて見つからない」というのがその表向きの理由としてあげられてきましたが、鉄滓(金糞)からの分析は可能なのです。柱穴から建築物を推定するとの同じ方法でいいのです。

 そして出雲にはめぼしい青銅器の遺跡・遺物がないとして、「大和中心史観(天皇国史観)」は記紀建国神話の中心であるスサノオ大国主国史を無視してきましたが、1983年に荒神谷遺跡から日本最大の青銅器の集積が見つかったことにより、青銅器時代スサノオ大国主建国を証明することになり、「大和中心史観(天皇国史観)」は大ピ0ンチに陥ることになりました。

 さらに、大和では鉄器出土数がもともと少なかったため「鉄器時代」を持ち出すことはタブーであり、「石器―縄文式土器弥生式土器―古墳」という青銅器も鉄器も抜きにしたガラパゴス時代区分を考えだしました。ところが、筑紫や出雲・伯耆などから大量の鉄器が発見されるに及び、もはや「大和中心史観(天皇国史観)」は完全崩壊です。そこで最後の悪あがきとして、記紀神話や魏書東夷伝倭人条を全面否定しながら卑弥呼とアマテルだけをつまみ食いし、大国主・大物主一族の箸墓や纏向遺跡卑弥呼やアマテルと結びつけるという禁じ手にかけていますが、掘れば掘るほどスサノオ大国主建国を証明することになってきており、私としては大歓迎です。

 先生の教えに素直ではなかった私は、「石器―青銅器―鉄器」時代区分と「石器―縄文式土器弥生式土器―古墳」時代区分の関係はいったいどうなるんや、と子どもながらに納得ができず、ずっとその疑問を抱えたままでしたが、60歳を越えてやっと自分で考えはじめ、現在は「石器―土器―鉄器」時代区分を世界に向けて提案すべきと考えるに至っています。

 一方、アフリカ・アジアの「四大古代文明」から遅れをとったギリシャローマ帝国、さらにその支配を受けて劣等感の塊となったゲルマン民族は、自らのアイデンティティを肌の色と言語に求めて、「コーカソイド説(白人コーカサス起源説:グルジアアルメニアアゼルバイジャン)」「アーリア人種説(ヨーロッパ、ペルシャ、インドの共通の祖先)」「インドヨーロッパ語族説(インド・ヨーロッパの諸語は共通する起源)」などを考案してナチスの世界支配のイデオロギー的根拠を与えました。

 また、鉄器文明でエジプトやスキタイ(トルコ)に後れをとったギリシア・ローマは「石器―青銅器―鉄器」時代区分を考えだし、ユダヤ人はメソポタミアから方舟に乗って大洪水から逃れたノアがコーカサスアルメニア)のアララト山にたどり着き、さらに南下してエジプトの支配下にあった「カナン」を唯一絶対神の命令として征服支配したとする歴史を創作します。メソポタミア・エジプトの農耕文明の周辺民族でありながら、「唯一絶対神」の選民宗教を作り出し、他民族殺戮・支配を正当化する宗教共同体を作り上げます。

 このように西欧人は黒色・褐色・黄色人の「四大古代文明コンプレックス」から、「コーカソイド説」「アーリア人種説」「インドヨーロッパ語族説」「唯一絶対神主教」を作り出し、その延長上でコーカサスに近いアナトリア半島(今のトルコ)の「製鉄ヒッタイト起源説」で補強しようとしていると私は考えます。

 彼らが「製鉄アフリカ起源」を示す遺跡や伝承をことごとく無視しているのは、この劣等感からくる西欧中心史観とともに、製鉄・綿織物を中心とした工業革命によって「鉄と血」「鉄は国家なり」の帝国主義思想によりアフリカ・アジア植民地支配を正当化するために、特にアフリカを「石器時代暗黒大陸」とみなして先進的であった「鉄器文明」を隠蔽したのです。

 従って、西欧人には「製鉄ヒッタイト起源説」を支持する非常に根強い動機があり、それを覆すのは容易ではありませんが、今こそ、日本の考古学・歴史学はアフリカからアジアの東端にやってきた民族として、アフリカ・アジア中心史観を打ち立てるべきと考えます。

 武器中心史観ではなく、農業・食生活中心史観として「石器-土器―鉄器」時代区分を考えてみようではありませんか。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/