ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート101 女神調査報告5 穂高神社の神山信仰と神使

 9月11日、諏訪を後にして北上して安曇野穂高神社を見学し、佐久の北沢川大石棒と大宮諏訪神社の大石棒、原諏訪神社の男根道祖神を調査しました。縄文時代の男根信仰と安曇野に多い道祖神との関係などまとめて報告しょうと書いていましたが、穂高神社諏訪大社の比較などがあり、今回は穂高神社とその神使と鳥追い行事の関係だけを報告します。

 「漢夷奴国王」の金印が発見された博多湾入口の志賀島を本拠地とする海人(あま)族のスサノオの異母弟の綿津見3兄弟の安曇(あずみ)族(海人津見族)の穂高見氏がなぜ海を離れて内陸山岳地帯の信州に住み着き、奥穂高岳を神山としたのか、穂高神社の祭神はスサノオ初代系か大国主(出雲スサノオ7代目)系か、南インドのドラヴィダ族(タミル人)のカラスに赤飯を与える「ポンガ」の行事がなぜ安曇野に「ホンガラ」の鳥追い行事として伝わっているのか、安曇野縄文時代スサノオ大国主建国にはどのような連続性があるのか、縄文石棒と安曇野に約400体以上と日本で一番多い道祖神との関係など、現地で考えるのが今回の目的でした。

 コロナの緊急事態宣言で安曇野市豊科郷土博物館・穂高郷土資料館での縄文遺跡や鳥追い祭りのヒアリングなどができなかったので中途半端ですが、現地で感覚を研ぎ澄まして仮説的検討を行いました。

 安曇野には観光調査や家族で大王わさび農場横を通っての犀川カヌー、ソバ打ち・吹きガラス・とんぼ玉体験などで何回か訪れ、上高地には1回、西穂高岳には夏冬の2回登りましたが、当時は古代史には関心がなくて素通りしていました。

 

1 穂高神社 12:30

<概要>

① 信濃国一之宮の諏訪大社、二之宮の小野神社に続き、穂高神社は三之宮になります。

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② 鎮座地は次の3か所になります。

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③ 安曇氏は博多湾入口の「漢委奴国王」の金印が発見され、綿津見3神を祀る志賀海神社のある志賀島を本拠地としており、安曇郡や筑摩郡四賀(しが)村の地名、穂高神社の祭神や御船祭り・御船神事からみて、この地が安曇族の拠点であったことが明らかです。

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④ 穂高神社の祭神は次のとおりです。                 

 祭神については古事記日本書紀など食い違いがあるうえに通説でも諸説あり、私のスサノオ大国主建国説からの解釈を追加しますが、煩雑なので特にご興味のある方以外はスルーしていただき、考察に進んでいただければと思います。

 

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⑤ 境内には千国海道(塩の道)の道祖神が祀られており、近くを見て回って道祖神を探して写真を撮る手間が省けました。縄文石棒と道祖神の考察については、次回に行いたいと思います。

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⑥ 境内には泉小太郎(いずみこたろう)像があり、松本のあたりは湖で犀竜が住み、白竜王との間に生まれた小太郎は成人して母の犀竜と出会い、その背に乗って巨岩や岩山を突き破り、日本海へ至る川筋を作ったという伝説が見られます。

 このような龍神が登場する伝説は縄文時代からの龍神信仰に由来するのか、それとも海人族の安曇族に由来するのか、要検討課題です。

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⑥ 境内には鶏が放されており、物部氏の大和の石上神宮で見かけ鶏の光景と重なり、当社でも鶏を神使としていると思って調べましたが、穂高神社ではそのような位置づけはしておらず、その理由(わけ)が気になりました。

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<考察>

① 表1の祭神や神社の構成を見ると、守矢・建御名方系の神社の四隅に御柱を立てる配置や御柱祭りがないこと、御神木はあるもののミシャグジ信仰(御蛇口の水神信仰)を伺わせる痕跡がないことからみて、この地の安曇族は守矢系より後世の別の初代スサノオ系という印象を受けました。

② 境内図を見ると、拝殿の奥に本殿、さらにその奥に神木、さらにその先の北アルプスにはピラミッド型の常念岳がそびえており、そのさらに西奥の奥穂高岳穂高岳を神体としていることを見ると、神名火山(神那霊山)信仰と神籬(霊洩木)信仰は縄文時代からの宗教を受け継いでいる可能性は高いと考えます。

 

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  縄文人は目の前の常念岳(仏教伝来前の名前があったはず)を神名火山とし、後に入ってきた安曇氏はさらに奥に進んで高い奥穂高岳を神名火山として置き換えた可能性があります。

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         常念岳:HP「ビューポイントあづみの」さんより借用

③ 穂高の地は烏川の扇状地であり、穂高神社の西約4㎞上流には他谷遺跡があり、その一部の発掘地からは縄文中期・後期の竪穴住居址45軒が見つかり、女性土偶、石棒・丸石、土堀具303点、磨製石斧・削器927点、和田峠の黒曜石鏃、土器などが見つかっているとされています。離山遺跡、新林遺跡などの遺跡と合わせると、日本海と信州を結ぶ交通の要衝となる縄文人の交易拠点であったと考えられます。

 

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④ 霊(ひ:祖先霊)信仰の「神山・立棒・神木(神籬)祭祀」が「神庭型(阿久遺跡)→楼観拝殿型(中ツ原8本柱・三内丸山6本柱建物)→神籬(霊洩木)拝殿型→神殿拝殿型」祭祀と、縄文時代からスサノオ大国主建国へと連続した祭祀仮説を考え続けてきていますが、まだワンセットそろった場所を見つけることはできていません。「楼観拝殿巨木柱跡」がもう1か所、信州で見つかると、ゴールになるのですが。―縄文ノート「33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」参照

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⑤ 安曇族がいつこの地にやってきたかですが、昔、「建御名方が諏訪から出られないようするために日本海への出口に安曇族を配置した」という説をみたことがありましたが、表1の祭神からみて安曇族がこの地に入ったのは建御名方一族よりは前で、物部一族の守矢氏よりは後はないか、と考えます。

 「建御名方の監視役の安曇族説」は、諏訪大社秋宮に武甕槌が祀られていることや、尾掛松伝承からみても成立しないと考えます。―「縄文ノート100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」参照 

 また、守矢氏伝承に穂高氏が登場しないことから見て、守矢氏が姫川を上って先に諏訪に入ったのではないか、と推測します。

⑥ 縄文人やその末裔の海人族の安曇一族が、交易に便利で、住みやすくて海や野山で食料や塩分を容易にえられる海岸部を離れて、この地になぜ進出したのか、ずっと疑問でした。海人族が山に奥深く入った理由は、日本列島の縄文人スサノオ大国主建国だけを見ていたのではどうしても解けませんでした。

 大きな転換点は、アフリカから日本列島への人類移動を考え始めてからでした。

 人のDNAとヒョウタン・芋・豆・雑穀・ソバ・ジャポニカ米のルーツ、「主語-目的語-動詞」言語構造、ピー(霊:ひ)信仰、神山・神木信仰、黒曜石利用、性器信仰、ポンガのカラス・赤飯行事などを総合的に考えると、アフリカ西海岸からアフリカ高地湖水地方へ移住し、南インド、さらに東南アジア海岸部と山岳部を経て、海人(あまと→あま)と山人(やまと)族が共同で竹筏で日本列島にやってきたと考えると、河川源流の神山を目指してこの地に何次にもわたって人々が移住してきた理由ははっきりと浮かび上がります。―「縄文ノート99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」参照

 旧石器人・縄文人に続いて安曇族が姫川を遡り、高瀬川を下って安曇野に入り、旧石器人・縄文人常念岳の神山信仰を受け継ぎ、烏川を遡って上高地に入り、北穂高を死者の霊(ひ)が天に昇る神山として信仰し、明神池のほとりの奥宮で御船神事を行い、奥穂高岳に嶺宮を もうけたのは、諏訪の上川源流の蓼科山信仰、さらにはナイル川源流のルウェンゾリ山信仰やチグリスユーフラテス川源流のアララト山信仰、インダス川ガンジス川源流のカイラス山(チベット仏教の須弥山)などの信仰を旧石器人・縄文人が携えて日本列島にやってきて、さらに安曇族が受け継いだ可能性が高いと考えます。

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⑦ 奥宮のある上高地明神池へのルートとしては梓川にそった現在の道路を考えると思いますが、私が1964年夏に上高地に入ったルートは堀辰雄だったかの小説を読んだルートで、島々から徳本峠(とくごうとうげ)を下りたところに明神池がありました。穂高神社からだと烏川を遡って蝶ケ岳あたりを越えて上高地に入るか、鍋冠山南の尾根を越えて徳本峠から入ったのではないでしょうか?

 ネットでは穂高神社の古い記録もそのような登山道も確認することはできませんでしたが、私は山神信仰・水神信仰から考えると、烏川ルートから奥宮、嶺宮へと登った可能性が高いと考えます。

⑧ 博多湾入口の志賀島志賀海神社を信仰のルーツとした安曇族の穂高氏なら龍神、物部一族の守矢氏なら石上神宮の鶏、大国主系の諏訪氏なら出雲大社の海蛇を神使(しんし)としそうなものですが、穂高神社では鶏(後述の鳥追い行事を参考)が境内に放たれ、黙認されています。

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 このような捻じれは、もともとのこの地の縄文人の信仰が影響するとともに、鶏を神使とした物部氏石上神宮天皇家伊勢神宮などへの配慮という可能性も考えられます。

⑨ 安曇族の本宮の博多の志賀海神社では神使を決めていませんが、「御神幸祭(ごしんこうさい):御旅所に神霊を運び天に送り、再び迎える行事」で「龍の舞」が奉納されることからみて、神使は龍であり、鶏ではないことが明らかであり、鶏を穂高神社に放つのは元々のこの地の縄文人が行っていた行事を住民が勝手に行なっている可能性があり、次に述べる「鳥追い行事」との繋がりが浮かび上がります。

 

2 鳥追い行事

① 国語学者大野晋氏は「日本語タミル語(ドラヴィダ語)起源説」にたち、南インドに調査で訪れ、1月15日に行われる赤米粥を炊いて「ポンガロー、ポンガロ!」と叫び、お粥を食べ、カラスにも与えるポンガロの祭りを実際に体験し、青森・岩手・秋田・新潟・茨城にも1月11日、あるいは小正月(1月15日)にカラスに米や餅を与え、小正月に小豆粥を食べる風習があり、秋田・青森では「ホンガホンガ」と唱えて「豆糟撒き」を行い、長野県南安曇郡では「ホンガラホーイ ホンガラホーイ」と囃しながら鳥追いを行うことを確かめています。―「縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源説」参照

② 今回、長野県南安曇郡の「ホンガラ」の鳥追い行事についてヒアリングしたかったのですが、事前に安曇野市豊科郷土博物館に問い合わせたところ、学芸員の宮本さんから、『長野県史 民俗偏第3巻(2)中信地方 仕事とまつり』(1989 長野県)、『南安曇郡誌 第2巻下』(1968 南安曇郡誌改訂編纂会)、倉石忠彦著『道祖神と性器形態神』(2013 岩田書院)の紹介を受け、館のパンフ「ふるさと安曇野 きのうきょうあした 道祖神祭りに託された願い」の検索を教えていただきました。感謝!!!

                                   

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③ まだこれらの刊行物には目を通せていませんが、パンフ「ふるさと安曇野」によれば、カラスに赤飯などを与える行事ではなく、鳥追い行事に変わっています。

 それは群馬県片品村の花咲地区の武尊(ほたか)神社の「猿追い・赤飯投げ」行事と同じような経緯をたどったと考えられます。―「縄文ノート34 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」参照

 元々、カラスを神使として神山から天に昇り、降りてくる祖先霊を里から山の間は御幣に移してサルを神使として持たせて運ぶ祭りを行っていたものが、仏教伝来により死者の霊は極楽に行き神山への昇天降地というストーリーが立たなくなり、お山へサルを追い返すという行事だけが「鳥獣害対策」として残り、赤飯をカラスに与える意味もなくなり、大地に赤飯を撒く行事になってしまった、と私は考えています。

 

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 長野県では上長尾だけに残っている「ホンガラ」の行事も、元々は旧正月に神使のカラスに感謝する祭りであったものが、鳥追い行事に変わったと考えますが、それはこの地が烏川の扇状地であり、その水によって農業が成立し、水をもたらすお山信仰と水神信仰が死者の霊(ひ)を天に運ぶカラス信仰と重なった、と私は考えています。

④ 「鳥追い祭り」は元々は「カラス祭り」であり、南インドのドラヴィダ族に伝わる祭りで縄文時代にわが国に伝わり、この地に入った安曇族にも伝わったと考えますが、他のスサノオ大国主一族の神使の「烏」とかぶることを避けて「鶏」に変え、さらに大和朝廷支配下に入った段階で伊勢神宮の神使が鶏であることから、神使の位置づけを止めてしまったのではないか、と私は考えています。

 

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⑤ 縄文時代の鳥信仰を示す痕跡は能登半島真脇遺跡の縄文中期の「鳥さん土器」しか検索できませんでしたから、「ホンガラ」の祭りが縄文時代に遡る可能性を示す証拠はありませんが、龍神信仰では繋がる可能性があります。

⑥ ドラヴィダ族の「ポンガロー、ポンガロ!」の囃し言葉は赤飯を炊いた時の沸騰を喜びとしてあらわした言葉であり、吹きあがり吹きこぼれる泡は縄文土器の縁飾りにみられる円形模様として表現され、さらには湯気が天に昇ることから「トカゲ龍文様」が加わったと私は解釈しています。

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     空想が過ぎるとお考えでしょうが、縄文ノート「30 『ポンガ』からの『縄文土器縁飾り』再考」「36 火焔型土器から『龍紋土器』へ」「39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍蛇神信仰とヤマタノオロチ王の正体」をご参照ください。

⑦ 「弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服説」と記紀に書かれた「スサノオ大国主国史の無視」と「天皇家建国説」により、縄文時代スサノオ大国主一族の神社伝承を繋げて考えることはできなくなり、さらには民俗学の軽視により、「鳥追い祭り」と「烏川源流の北アルプス奥穂高岳・明神池の奥宮・嶺宮信仰」を繋げて考えてみょうなどという発想は生まれようもないと思います。

 さらには「ウォークマン史観」と「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」により、Y染色体D型の分布から必然的に導かれる竹筏によるドラヴィダ海人・山人族の日本列島への大移動など想定外でしょうから、霊(ひ=ピー)信仰の神山信仰やトカゲ龍信仰、カラス・赤飯神事など考えることもできないと思います。

 しかしながら、信濃には色濃く古くからの信仰と祭りが残っており、「縄文研究4巨人」(藤森栄一・宮坂英弌・児玉司農武・今井野菊)の伝統を受け継いだ市民研究がありますから、私は世界の新石器時代(土器時代)文明の解明に向けて総合的な提案ができる可能性は高く、世界遺産登録に繋げることができることを期待しています。

 

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□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/