縄文ノート100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松
9月11日は「守矢・諏訪・安曇一族のルーツと信仰」(縄文とスサノオ・大国主建国の繋がり)と「縄文石棒(墓石→神代(かみしろ))→男根道祖神→男女性器道祖神→夫婦道祖神」の変遷をテーマにして、諏訪湖北岸から安曇野、佐久へと調査しました。
まず諏訪大社下社秋宮の摂社と末社を調べ、その北にある男根型道祖神へ向かいましたが、集中豪雨被害の道路閉鎖があり、かなり大回りして捜したので下社春宮には行く時間がなくなり、建御名方が出雲に出向いた時に尾が残ったという壮大な龍神伝説のある「尾掛松(杉の木神社)」を見て、安曇野の穂高神社へ向かいました。
私はスサノオ・大国主の建国史の解明は、古事記と播磨国風土記の分析が鍵であると考えてきましたが、縄文時代からスサノオ・大国主建国と農耕・文化・宗教の繋がりの解明には「古事記二重構造論」にたった諏訪・信州の遺跡・神社・伝承の分析が重要であり、さらに各地の取り組みが必要と考えるようになりました。
1 諏訪大社下社秋宮 9:40
私が神社でまずチェックするのは、なぜこの地が祭祀の場所として選ばれたのか、背後の神名火山(神那霊山)の有無と境内を区切る川の配置、宗教地と集落との位置関係などの立地条件です。続いて、本殿の主祭神と摂社・末社の祭神との関係で、そこから祭神氏族・部族と後世に合祀された支配者との関係を確かめます。
これは資料では十分に確認できないので、今回、現地を訪ねました。
<概要>
① 江戸・日本橋から熊谷・高崎・軽井沢を通る中山道に、八王子・甲府を通る甲州街道が合流する交通の要衝にあり、春の春宮から8月1日には秋宮に神霊(翁・媼の憑り代)を柴舟に乗せて移す遷座祭(お舟祭)が行われます。柴舟に神霊を乗せて移すという祭りは、海人族系の祭りと考えられます。
② 元々の信仰対象の神山を確認したかったのですが、曇天であり樹木で見通しが悪く、境内図でも信仰対象となる神名火山(神那霊山)は確認できませんでした。
③ 祭神については、諏訪大社の上社前宮、上社本宮、下社春宮(秋宮より古いとされる)、下社秋宮を合わせて一覧表にしました。
<考察>
① ウィキペディアでは霧ケ峰高原の「旧御射山(もとみさやま:鷲ヶ峰)」を神山としているようですが、秋宮参拝者が直接見ることができ、神社右手の御手洗川の源流域の神山となると御手洗川の奥の「武居」地区の山などが考えられます。
「神代の頃、諏訪に建御名方神が入ってくると、武居夷(たけいひな)神は建御名方神に諏訪の国を譲り、自らは蓼科山の上に登ったという」という伝承からみて、この武居の地は縄文から続く「ひな神」信仰の神域であった可能性が高いと考えます。―縄文ノート「35 蓼科山を神那霊山(神名火山)とする天神信仰について」「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」参照
② 大国主が筑紫日向(ちくしのひな)(旧甘木市の蜷城(ひなしろ))の鳥耳(私説:大国主に国譲りさせたアマテル)との間にもうけた鳥鳴海の妻が「日名照額田毘道男伊許知邇(ひなてるぬかだびちをいこちに)」、大国主に国譲りさせた穂日(ほひ)の子が「武日照(たけひなてる):武夷鳥・天夷鳥・天日名鳥・建比良鳥」、筑紫大国主王朝5代目の甕主日子の妻が「比那良志毘賣(ひならしひめ)」であることや、琉球では「ひ」、天草・大和などでは「ひな」が女性器名であることからみて、「ひな=霊那」は神名火山(神那霊山)や神籬(霊洩木)と同じく、霊(ひ)の聖地と私は考えています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照
その起源は縄文時代に伝わった東南アジアのドラヴィダ系海人・山人族の「ピー信仰」であると考えます。―「縄文ノート38 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」参照
③ 祭神については、次の5点が注目されます。
第1点は、上社前宮と下社春宮・下社秋宮の主祭神が建御名方(たけみなかた)の妻の八坂刀売(やさかとめ)であり、女神信仰であることです。
これは、守矢氏の八坂刀売に出雲から逃れてきた建御名方が妻問した入り婿であったことを示しています。
第2点は、下社春宮・下社秋宮に事代主が祀られていることです。大国主の筑紫妻の鳥耳(記紀はスサノオの異母妹の天照に置き換え)の子の穂日(ほひ)・夷鳥(ひなとり:ひなてる=日照)親子との後継者争いで敗れた事代主と建御名方の両方が祭られているのです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照
事代主は出雲の美保神社や各地の神社に祀られており、後継者の争いの敗者でありながら、一族が皆殺しされることもなく、死後は神として子孫に祀られるという「八百万神信仰」をよく示しています。
死者の霊(ひ)は子孫に祀られる必要があることからみて、出雲の美保ケ崎で入水自殺した事代主の御子がこの地まで建御名方とともに守矢氏を頼って逃れ、事代主を神として祀ったと考えられます。
第3点は、本殿から見て左手(上位)に摂社として境内図やウィキペディアに書かれている皇大神宮社(天照、豊受)と稲荷社(倉稲魂、大宮比売、佐田彦)が、現地の説明板では末社にされていることです。
かつてはスサノオ系の稲荷社と天皇系の皇大神宮社を本殿の左(向かって右)に配置し境内図に乗せながら、現在は末社としていることは、大国主系の建御名方一族の主張と思われます。
第4点は、大国主が妻問した越(高志)の沼河比売(ぬなかわひめ:沼河姫)が建御名方の母であることを記紀は明記していませんが、子安社に祀られていることです。糸魚川のヒスイがこの地の縄文遺跡で見つかっているように、縄文時代からこの地と越との交易・交流があったことを示しています。
第5点は、表1で赤と緑に色分けしたように、吉備・大和スサノオ系と出雲スサノオ7代目の大国主の両方の神が祀られ、スサノオに一番近い一族が祀られている末社の八坂社(素戔嗚尊、奇稲田姫、八柱御子)の「八坂」が守矢氏の「八坂刀売(やさかとめ)」に付けられていることです。
縄文ノート99で私は次表のように武居夷一族は縄文系、守矢一族は吉備・大和を拠点としたスサノオ(大物主大神)2代目の物部氏系、建御名方は大国主系(出雲のスサノオ7代目)と整理しましたが、この下社秋宮の祭神でも確認することができました。
2 性器型道祖神(津島神社・真清神社・高尾穂見之宮) 10:10
<概要>
① 諏訪大社下社秋宮から国道142号線を和田峠方面に向かうと、来迎寺を越して民家の先の右手の駐車場の奥に津島神社の鳥居があり、その奥の「大六天」の石碑の横に男根型の道祖神があります。
注:イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡には、「信玄が『天台座主沙門信玄』と署名したのに対して、信長は仏教に反対する悪魔の王、『第六天魔王信長』と署名して返した」と書かれ、信長が篤く信奉していたのに対し、秀吉は拠点としていた西日本の第六天神社を尽く廃社したとされています(ウィキペディアより)。
② さらに津島神社の上に急な斜面を登ってみる真清神社があり、その社殿の左奥に「金精様御用」の立て札があり、「奇石夫婦石」があるのを見つけました。予想外の収穫です。
③ 最初、私はブログの紹介を頼りにして、来迎寺を越して右手の急な道路を登り、「東明館集会所裏」という説明をもとに高尾穂見之宮(祭神:保食神(うけもちのかみ))横の「鎌倉街道ロマンの道」に沿った多くの石仏・石神(主には不動明王)・石碑を探したのですが、細い山道を何度往復しても男根型道祖神を見つけることはできませんでした。
ところがなんと、入口の石の鳥居のところに、男女性器型の道祖神があったのです。第2の大きな予想外の収穫でした。
<考察>
① 津島神社の男根道祖神については、縄文時代の石棒に後世に「道祖神」と彫ったのか、それとも、最初から道祖神として作成したのかはっきりしませんが、いずれにしても、「女神に捧げる男根」あるいは「女神の神代(かみしろ:依り代)」であることは確実です。
② 私は今回、北方御社宮司社などで確認することができませんでしたが、「神体として石棒が納められているのが典型的なミシャグジのあり方であるという今井野菊の観察」(ウィキペディア:大和岩雄)や、「ミシャグジ(御蛇口)」という名称、縄文時代の集団墓地での石棒・円形石組、女神像や土器・土偶の蛇文様などによれば、縄文時代から続く女神信仰・神山信仰・水神信仰・龍蛇神などの信仰が現代まで途切れずに続いていることが明らかです。
③ また群馬県片品村の性器型などのツメッコを入れた汁粉を裏山の十二様(山の神:女神)に捧げる祭について、私は「元々は女神とされた山神に奉げるのですから、『金精形』だけであったのが、いつの頃か縁結び・夫婦和合・安産・子だくさん・子孫繁栄を願って『女性器形』が追加されたと考えられます。さらに、大地に糞尿を撒いて農作物を栽培したことから、豊作を願う『うんこ形』が追加されて地母神に供えられたのではないでしょうか」としましたが、金精・道祖神についても同じように『金精形(男根型)』から『男女性器型』、さらには『夫婦型』に変ったのではないか、と考えます。―縄文ノート「34 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)について」「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」参照
④ ウィキペディアは「道祖神は、路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている」「平安時代の『和名抄』にも『道祖』という言葉が出てきており、そこでは『さへのかみ(塞の神)』という音があてられ、外部からの侵入者を防ぐ神であると考えられている」としています。
しかしながら、「あいういぇうぉ」から「あいういう・あいうえお」母音への変遷を考えると「ひ=へ」であり、「さへ」は古くは「さひ」であった可能性があり、「ひ=い」(戦前までの「アカヒ アカヒ アサヒハアカヒ」など)の表記からは「塞」=「さい」=「さひ」であり、元々は「さひの神」であった可能性が高いと考えます。
「さひの神」に「道祖神」の漢字を当てているのは、「さ霊(ひ)の神」信仰を「鬼道=祖道」とし、「祖道」を「道祖」に置き換えたのであり・「鬼道」と同じく「祖先霊信仰の道」を示していると考えます。
3 尾掛松(杉の木神社) 下諏訪町高木 11:10
<概要>
① 諏訪大社下社から諏訪湖畔沿いの国道20号線を東に進み、高木交差点を山側に旧甲州街道に向けて進むと「橋本政屋」の手前の右手(東側)の細い道を進むと小さな杉の木神社があり、ここにかつて「尾掛松」があり、1752年にこの御神木が枯れ、代りに“ひむろ″(びゃくしん・柏槙:別名いぶき)を植え、それも枯れたので屋根をかけて「杉の木神社」としたとされています。
② その奥の民家の石垣の下には祠があり、八ヶ岳原人氏のHPによると『下諏訪町誌 民俗編』に「智児神社 もと御社宮司社」との記載があるとのことで、この神社の神木であったと思われます。
③ 四隅に御柱を立てる形式は守矢氏の社(やしろ=屋城)の形式であり、御室(みむろ)の中に藁、茅、またはハンノキの枝で作った数体の蛇形「そそう(祖宗)神」を安置し、翌春まで大祝が参籠して神長官守矢氏とともに祭事を行うことからみて、祖先霊信仰の「ひむろ=霊室」を神木の前に設けていたものが、後に「ひむろ」を神木名と誤って伝わったと考えます。―「縄文ノート39 「トカゲ蛇神楽」が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体」参照
④ この尾掛松には、建御名方神が蛇に姿を変え、十月の出雲の「神集い」に出かけた時、他の神々に顔だけで「尾はどこに」と聞かれ、信濃の国より外には出ないという約束をしたので「尾は諏訪湖のそばの高い松の木に掛けてある」と答えたという、古事記の神話に沿った出雲と諏訪を繋ぐ雄大な伝説があります。
④ 高木交差点から400mほど東に進むと「大和(おわ)」になり、「尾は(大和)諏訪湖のそばの高い木(高木)に掛けてある」という伝説に由来した地名が生まれたとされていますが、いかにも後世の親父ギャグの「語呂合わせ」の雰囲気です。
⑤ 『古事記』の「国譲り神話」では、高天原の「天照大神」から「建御雷(たけみかづち)」が派遣され、大国主の御子の事代主は国譲りを承諾して入水自殺しますが、御子の建御名方は承諾せず建御雷と力競べをして敗け、建御名方は科野の「州羽の海(諏訪湖)」まで逃げ、「この国から出ない」と降参したという記載に対応しています。
<考察>
① 論点は2つあり、1つは「大国主の国譲り神話」の真相であり、2つ目は「大和(おわ)」の地名の由来です。
② 私は「史聖・太安万侶」の古事記は「真実のスサノオ・大国主建国史」の上に「天皇家のための武力統一建国史」を巧妙に重ねた二重構造になっていると主張してきましたが、前者の視点から解釈してみましょう。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照
「建御名方が蛇に姿を変え、頭だけが十月の出雲の『神集い』に出かけ、『尾』は地元に残った」という伝承を「太安万侶流の神話表記」とみて解釈すると、「建御名方(頭)は神集いに参加できたが、子孫(尾)は参加できなかった」ということになります。
また、下社秋宮に武甕槌(たけみかづち)の鹿島社 が置かれているということは、武甕槌への建御名方の屈服の印とも言えますが、有利な和平条件を示した武甕槌に感謝を示した可能性もあります。
ヤマトタケルの東国への派遣の「言向和平(ことむけやわす)」を文字通りに東国のスサノオ・大国主一族への「交渉和平」と私は考え、皇国史観は「東征=武力征服」としていますが、実際にどうであったか、各地の伝承と照らし合わせてみて頂きたいと考えます。―『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』参照
武甕槌は同族の建御名方へ「言向和平」に来たのであり、それは大国主からの絶縁ではなかったのではないか、というのが私の解釈です。
なお、ここでは大国主の国譲りの詳しい謎解きは行いませんが、対馬の天若日子(あめのわかひこ)、筑紫日向(ひな)の穂日、出雲の事代主、越の建御名方の4人の大国主の御子の後継者争いにおいて、雉鳴女(きじのなきめ)・天若日子暗殺事件の犯人が誰なのかによって、大国主の後継者争いの性格は大きく異なってきます。記紀は雉鳴女・天若日子暗殺事件を天若日子と穂日と母アマテルの争いとしていますが、私は『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』では両事件の真犯人は自殺した事代主と逃げた建御名方によるものと推理しました。
しかしながら、建御名方が出雲の『神集い』に出かけることができたとすると、真犯人は自殺した事代主の単独犯の可能性が高くなり、私は前著を修正する必要がでてきました。
なお、古事記によれば、武甕槌は出雲の稲佐の浜に舟から降り、十束剣を抜いて、逆さに波の穂に刺し立て、その剣の前に座り、大国主と交渉したとしていますが、剣を逆さに立てて後ろに突き挿して交渉したというのは武器を使えないように置いた話し合いと私は解釈します。皇国史観は「剣の上に座った」などと解釈していますが武力征服史観の歪曲という以外にありません。
③ 2点目の「大和(おわ)」の地名起源ですが、私はスサノオの「委奴国(いな国=稲国)」が7代目の大国主と美倭(美和=三輪)の大物主(スサノオの子の大年:代々襲名)連合の成立により百余国の「大倭(おおわ)=大和」を称するようになり、さらに薩摩半島南西端の笠沙・阿多の山人(やまと)族の傭兵部隊が10代かけて大物主(代々襲名)の権力を奪い、「大和(おおわ)」を「やまと」と呼ばせるようになったと書いてきましたが、諏訪湖畔の「大和(おおわ→おわ)」は大物主一族の物部氏の守矢氏のこの地への進出によって付けられた地名であり、「高木=高城」はその環濠城のあった場所ではないか考えます。―「縄文ノート74 縄文宗教論:自然信仰と霊(ひ)信仰」「『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)」参照
この尾掛松のあった高木・大和の地は宅地が進み、もはや「高城」の発見は不可能と思いますが、さらになんらかの伝承がえられないか、期待したいところです。
また推理小説ファンの皆さんには、「史聖・太安万侶」が残した古事記の雉鳴女と天若日子の2人の暗殺事件の真犯人が誰か、天若日子の「天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ:天鹿食弓)」と「天之波波矢(あめのははや)」と天若日子が雉鳴女を射た「天之波止弓(あめのはじゆみ)」と「天之加久矢(あまのかくや=天鹿食矢)」、天若日子の胸に刺さった「天之加久矢(あまのかくや)」から推理してみたいただければと思います。「雉も鳴かずば撃たれまい」からの太安万侶の「凶器の暗号」を読み解いてみませんか? 「真実は細部に宿る」です。
なお、天若日子は大国主の娘の下照比売(高比売)を妻とした後継者の有力候補ですが、この下照比売は大国主と多紀理毘売(宗像族:スサノオの娘の宗像3女神の名前を代々襲名)の娘で、阿遅鉏高日子根(あじすきたかひこね)の妹ですが、死んだ天若日子の葬儀に阿遅鉏高日子根が現れた時、天若日子が生き返ったと親族が大騒ぎして怒った阿遅鉏高日子根が喪屋を切り倒したというエピソードを太安万侶は長々と書いていますが、二人が瓜二つなのは大国主の異母兄弟であることを秘かに伝えたと私は推理しています。
古事記では、大国主のもとにアマテルが最初に穂日、続いて天若日子を派遣したとしていることからみて、このアマテルはスサノオと同時代ではなく、7代目の大国主と同世代であり、大国主の筑紫日向(つくしのひな)の高天原(甘木高台)の妻・鳥耳であると私は推理しています。下照比売が間違えられた兄・阿遅鉏高日子根の素姓を明かして詠んだ歌は「夷振(ひなぶり)」として載せられており、高天原の歌であることを示しています。二重構造の上部だけでなく、下部のスサノオ・大国主一族の「ひな国」の歴史を読み解いていただきたいと思います。
□参考□
<本>
・『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)
2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)
2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)
<ブログ>
ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/
帆人の古代史メモ http://blog.livedoor.jp/hohito/
邪馬台国探偵団 http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/