ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート31(Ⅲ-1) 大阪万博の「太陽の塔」「お祭り広場」と縄文

 「Ⅰ合宿概要」「Ⅱ縄文農耕・縄文食考」に続き、「Ⅲ縄文宗教論」の11のレジュメを順次、紹介します。

 私の縄文との出会いは3段階になります。

 最初の出会いは雑誌で岡本太郎氏の火炎型土器を知った時で、縄文アートに衝撃を受け、「太陽の塔」への関心に繋がっています。次は、縄文野焼きの猪風来さんを知り、彫刻家の金城実さんも「縄文人系」と思っていたので、2人を招いて狭山市で子どもたち向けに縄文野焼きのイベントを行った時です。この時、猪風来さんから縄文土器は煮炊きに使われていたと教わりましたが、関心は縄文デザインにありました。

 その後、全国各地のまちづくり計画づくりに携わるようになり、各地でスサノオ大国主伝承に出会い、『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』を書き、古代史から縄文時代に興味を持つようになりました。大阪万博で「お祭り広場」の基本理念とプランを提案した西山研究室の先輩の上田篤さんの講演を聞く機会があり、縄文社会研究会に参加したのが第3段階です。

 『スサノオ大国主の日国』ではスサノオ大国主一族が霊(ひ)を産むの夫婦神の高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)を始祖神とし、大国主は「天の御巣(みす)・御舎(みあらか)」として48mの出雲大社・楼観神殿を建て、人(ひと:霊人)は死んだ後に神となる「八百万神(やおよろずのかみ)」信仰を起こし、死者の霊(ひ)が山から天に昇り、降りて来る神名火山(神那霊山)や神籬(ひもろぎ=霊洩木)の天神信仰を広めたことを明らかにし、「漢委奴国王」がスサノオであることを解明しましたが、この大国主の霊(ひ)信仰が縄文時代に遡るのかどうかが一番の縄文研究の課題でした。

 縄文人が何を考え、どのような精神・思想・宗教心のもとにあの火焔型土器や土偶などをデザインしたのか、環状列石や巨木建築を作り上げたのか、記紀に書かれたスサノオ大国主建国の神話から解明を進めてきました。

 以下、試行錯誤しながら考えてきたことを紹介し、縄文社会研究の一助になればと考えます。なお、この「縄文ノート31」は前に掲載した「縄文ノート14」を再掲したもので、「スサノオ一族の疫病退散」「霊(ひ=神)・海神・地神(地母神)・天神信仰の整理」などを追加しています。               201223 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

    Ⅲ-1 大阪万博の「太陽の塔」「お祭り広場」と縄文

                                                                       191004→200726→0802→1223 雛元昌弘

  2018年12月の縄文社会研究会へのレジュメ「大阪万博のシンボル『太陽』『お祭り広場』『原発』から次へ」をもとに加筆しました。

 「科学技術大国」「経済大国」を目指してきましたが、GDPでは中国に追い抜かれ、1人あたりでは25位の低水準であり、「失われた20年」にITでは韓国・中国に完全に追い抜かれてしまい、2020年東京オリンピック、2025年大阪万博で元気になろう、国際イベント観光と大型公共投資で活路を見出そう、国民の誇りを取り戻そう、というのですが、私には古くさい1960年代の「重厚長大型・大都市集中型・大規模公共投資型」の手法の思えてなりません。このような一過性のイベントで新産業創出による雇用創造などできるのでしょうか?

 再掲にあたっては、岡本太郎さんの「太陽の塔生命の樹)」などを宗教論や倭語論で補充するとともに、「3つの『太陽の顔』のメッセージ」「4番目の『地底の顔』のメッセージ」「スサノオ一族の疫病退散」「霊(ひ=神)・海神・地神(地母神)・天神信仰」などを追加しています。

 

1. 「イベント熱」時代?

 「1964年→2020年」東京オリンピック、「1970年→2025年」大阪万博と、国をあげてイベント熱に浮かれています。IT後進国となり、失われた自信・自尊心をスポーツと産業イベントで回復しようとしていますが、どうでしょうか?

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 今、世界はグローバリズムの不均等発展による格差拡大危機、地球温暖化・気候変動による災害多発と中近東・アフリカの農業危機、バブル崩壊寸前のマネー経済と財政危機、米中覇権争い危機の4大危機に加え、日本では少子高齢化による労働力・消費減少と福祉費用増大、房総沖・東京直下・南海大地震の切迫、福島第1原発による被ばく健康被害原発再稼働の危険性、新型コロナの4大危機が加わっています。これら山積みする課題に対して後手・無策のまま「イベントで浮かれている場合???」と思わざるをえません。

 この「8大危機」の1つでもはじければ、「2020年東京オリンピック」「2025年大阪万博」は、後に「記憶に残る大事業」などとは言えない可能性があります。

 IT・プラットフォーム(GAFA:ガーファ)では完全に遅れをとり、大企業の世界時価総額ランキングでは50位以内にはトヨタが35位に入るだけという経済3流国化、基礎研究は2流国化、政治・軍事・外交・行政はアメリカ追随の3流国と揶揄されている現状を、二番煎じのオリンピック・万博の大型公共投資国民意識高揚で乗り切ることなどできるでしょうか?

 グローカリズム経済(均等発展を目指す汎地域主義経済)への転換、若者・地方からの新産業創出、自然・歴史・芸術の世界観光の推進、自然エネルギーへの転換、新たな国際マネー秩序の構築、核・軍事覇権主義との決別、「働きがい・生きがい」の就業・生活・文化安定社会の構築、大都市集中から分散型国土形成への転換という「8大プロジェクト」が求められる中で、大阪万博2025の意味を考えてみたいと思います。

 

2.大阪万博1970のシンボル-「美浜原発」と「太陽の塔」と「お祭り広場」

 1970年大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」でしたが、2025年大阪万博は「いのち輝く未来社会のデザイン」とされています。

 1970年大阪万博に対しては、新全総の大規模開発による公害・自然破壊に反対していた住民運動や反原発グループは、「調和」の名のもとに開発優先の国づくりを行うものと批判し、大阪城公園で開かれたべ平連の「反博」の取り組みに参加したりしていました。

 1964年東京オリンピックのシンボルが新幹線であったのに対し、大阪万博の科学技術進歩のシンボルは原発でしたが、その後、スリーマイル・チェルノブイリ・フクシマ原発事故がその「進歩」のシンボルを打ち砕きました。当時、政府や全マスコミは「アメリカの原発は最先端で実績があり安全」といい、某野党は「アメリカの原発は危険だが、ソ連原発は安全」「民主勢力が使えば安全」と主張していましたが、スリーマイル・チェルノブイリ・フクシマがその幻想を打ち砕きました。

 原発が人工的に作りだしたプルトニウム249の半減期は2.4万年であり、日本列島に旧石器人が住み始めた時から現在までの時間を何倍も超えないないとその毒性はなくなりません。原爆の使用を含めて、全人類史で旧石器人よりはるかに野蛮で未開、非文明なのが現代人と言えます。電力会社によるその第1歩が万博に間に合わせた美浜原発でした。

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  次の2025年大阪万博は「いのち」をテーマとして、IPS細胞による再生医療などの生命科学人工知能、情報ネットワークなどの科学技術産業による明るい未来社会を歌い上げようとするのでしょうが、自然災害・飢餓・戦争テロ・放射能汚染・自死無差別殺人・新型コロナなどの「いのち」の危機や「野生生物・家畜生物」の「いのち」については、どう考えるのでしょうか?

 2カ国以上への特許出願数は世界1という目先の「成果」指標は上位であるものの、研究者数は世界3位、科学技術論文数は世界4位、ノーベル賞の自然科学分野は米英独仏の次5位、科学技術予算の対国内総生産(GDP)比は世界5位、人口100万人当たりの博士号取得者数は世界6位、被引用回数上位10%の科学技術論文数は世界9位、新型コロナ論文数は1.5%など、科学技術2~3流国となった日本産業にとって、2025年大阪万博でメリットのある出番はあるのでしょうか?

 1970年大阪万博の前から「縄文に帰れ」を唱え、1972年の沖縄復帰に対しては「本土が沖縄に復帰するのだ」と語っていた岡本太郎さんは、縄文のシンボルとして「太陽の塔」(最初の仮称は「生命の樹」)をデザインし「お祭り広場」の中心に据えました。会場プランづくりに携わった京大建築学科地域計画の大先輩の西山卯三教授・上田篤助教授たちは京都の町衆が育て守ってきた時代祭から「お祭り広場」をシンボルとして提案しました。

 結果としては、縄文の「太陽の塔生命の樹)」、町衆の「お祭り広場」の基本理念は、各国・企業のパビリオンやイベントに活かされることもなく、見学者やその後の日本社会に影響を与えることはできたようには思えません。

 

3.「縄文」のシンボルは太陽か、「円形石組・立棒(男女性器)」「妊婦土偶」か?

 岡本太郎さんは「縄文美」に世界で初めて着目し、「縄文」ブームを創り上げた傑出した先進的な芸術家であり、大阪万博で「縄文」を基本コンセプトとして取り上げたのはさすがです。しかしながら、そのシンボルを「生命の樹」から「太陽の塔」に名称を変えたのは、何があったのでしょうか?

 岡本太郎さんは火炎型土器の名称に違和感を覚え、炎ではなくて深海をイメージしていたと言っています。彼は具体的には語っていませんが、「縄文に帰れ」「本土が沖縄に復帰するのだ」という発言と合わせて考えると、岡本さんは「深海(龍宮)」を「琉球(龍宮)」と考えていたのではないかと思います。

 それはさておき、太陽は土と水と炭酸ガスともに植物を育てた重要な役割を持っているのは事実ですが、縄文人の信仰対象が太陽であったでしょうか?

 縄文社会研究会(2014年4月14日)で、私は「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(後に『季刊 日本主義』31号:2015秋に掲載)を発表しましたが、縄文のシンボルは「太陽」ではなく、生命の根源である男女の性器の結合を示す「円形石組・立棒」や「霊(ひ)」が宿る安産の神器の「妊娠土偶」にすべきと提案しました。

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「お祭り広場」との関係で言えば、死者の霊(ひ)が天に昇り、降りてくる拠り所である「御柱」や「置山・山車・鉾」とすべきであった、と考えています。

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 「お祭り広場」は祇園祭を担った町衆からのイメージでしたが、京都の祇園社(八坂神社)は播磨の広峰神社から疫病退散の神であるスサノオの神霊を移したものであり、播磨総社(祭神はスサノオの子の五十猛と7代目の大国主)では出雲大社の「青葉山」をルーツとする「置山(三つ山祭:20年に1回、一つ山祭:60年に1回)」を正門前に置き、全国の八百万神の神霊を呼び寄せ、送り返す行事を行っています。この「置山」を「山車(キウリヤマ)」にしてスサノオの神霊を移して京都に運んだのが疫病退散を願った祇園祭の「山鉾」行事のルーツなのです。

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 「備後国風土記逸文」には一夜の宿を提供した貧しい蘇民将来スサノオは「茅の輪」を与え、疫病が流行した時にスサノオの教えに従い「茅の輪」を腰につけて家を出ることのなかった

一家は疫病から免れた、という逸話が残されています。今も各地の神社では「茅の輪くぐり」が行われていますが、「茅の輪」そのものに威力があるのではなく、「茅の輪」を使った「外出抑制」による疫病対策であったと考えられます。

 10代崇神天皇の時に民の半数以上が亡くなるという恐ろしい疫病が流行した時にも、スサノオの子の大物主の一族のオオタタネコを河内から探し出して大物主大神スサノオ)を祀らせて、疫病を退散させたと記紀は伝えていますが、同じ「外出抑制」とともに、集団免疫獲得により疫病は収まったと考えられます。

 「お祭り広場」を万博で採用するなら、その「お祭り」の基本理念が、全ての死者の霊(ひ)を神として祭るスサノオ大国主一族の「八百万神」信仰の神事であり、祇園祭スサノオを祀る疫病退散の祭りであることを明らかにすべきでした。町衆が担ったということだけでは、お祭り広場は「仏作って魂入れず」であったと言わざるをえません。岡本太郎さんの「太陽の塔生命の樹)」とお祭り広場は、八百万神信仰の「山・山車・山鉾」と「縄文土器鍋」でつくった和食で一体的に演出すべきだったのではないでしょうか。

 横道に逸れますが、「仏作って魂入れず」の格言の面白いところは「仏教」の仏像に、出雲神道の「魂=霊(ひ)=鬼=八百万神」を入れるのです。「仏教の神道化」を正直に告白した格言と言えます。

 「太陽の塔」「お祭り広場」とも、歴史をきちんとふまえれば、そのベースとなった基本理念は「死ねばだれもが神となる」という「霊(ひ)信仰」であり、縄文から続く「八百万神(やおよろずのかみ)」信仰のスサノオ大国主の建国につながる基本理念であったのです。

 残念ながら、岡本太郎さんを除いて当時から「遅れた縄文、進んだ弥生」「弥生人(中国人・朝鮮人)による稲作」「弥生人縄文人征服」という考えは今に続いており、縄文から続く「お祭り」(祖先霊信仰の神事)の意味も理解されず、縄文のシンボルである「生命の樹」は「太陽の塔」の名前に変えられ「世界を照らす太陽神アマテラス」のシンボルなどと誤解されています。

 岡本太郎さんの「生命の樹太陽の塔)」は、縄文研究が進んだ現在、再評価される必要があり、「お祭り」の意味や「祇園祭」の歴史など無視された「お祭り広場」についても、その歴史が明らかにされる必要があると考えます。

 

4.「太陽の塔生命の樹)」は「日(ひ)のシンボル」か「霊(ひ)のシンボル」か?

 岡本太郎さんの「太陽の塔(内部:生命の樹)」は、「日(太陽)」のシンボルなのか、それとも縄文から続く「生命=DNAの霊継(ひつぎ:命のリレー)」のシンボルなのか、どちらでしょうか?

 霊(ひ)信仰についてはご存じない方が多いので紹介しますが、祖先霊のことを倭語では「霊(ひ)」と言い、各家の神棚、屋敷神の祠に祀り、各集落ごとには共通の氏神様を祀る神社を置き、さらに国ごとには国神様を祀るという八百万神(やおよろずのかみ)信仰として、現代に続いています。日本人にとって、神は死者の霊(ひ)、魂、鬼神であったのです。

 ちなみに、「鬼」字は「甶(頭蓋骨)+人+ム」からなり、「人が支えた甶(頭蓋骨)を、ム(私)が拝む」という象形文字です。なお「人+ム」は「仏」になります。

 

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 「魂」字は「雲+鬼」で「天上の鬼=祖先霊」なり、「魏」字は「委(禾+女)+鬼」で「鬼(祖先霊)に女が稲を捧げる」という字になります。「姓名」の「姓」は「女+生」(女が生まれ、生きる)ですから、もともと中国の姫氏の周時代は母系性社会であった可能性が高く、魏はその諸侯でした。孔子の「男尊女卑」も「尊(酋(酒樽)+寸)」「卑(甶(頭蓋骨)+寸)」からみて、「女は頭蓋骨を掲げ、それに男は酒を捧げる」という祖先霊信仰上の女性上位の役割分担を表しており、孔子は姫氏の周時代の母系制社会を理想としていたことを示しています。

 卑弥呼の「卑」字は「甶(頭蓋骨)+寸」からなり、「祖先霊を手で支える」という意味であり、八百万神信仰の倭語では「霊(ひ)巫女」になります。「巫女」は「御子」であり、死者の霊(ひ)を祀る子孫の女性を表します。

 また、「神」は「示+申」であり、「申」字は「日+|」で「電(伸びる稲妻)の元字」とされていますが、「申(猿)」を人間の祖先とみなして「示(台)」の上に載せて祀った あるいは「申(猿)」を人間の代わりの生贄として「示(台)」の上に載せて神に奉げ、その後には食べた、という解釈はどうでしょうか? 中国人の野生生物の食習慣からすると後者の可能性がありますが、もしも前者だとすると、ダーウィンの進化論よりはるか昔の紀元前から中国人は進化論を理解していたことになります。

 なお、日本ではスサノオ大物主大神)の子の大年(大物主)の子の大山咋(おおやまくい)大国主を祭神とする日枝大社は、比叡山(日枝山=霊枝山)を神那霊山(神奈火山)として、猿を神使としてていますが、

 このように、この国はスサノオ大国主一族の八百万神神道の国でしたが、仏教が天皇家によって国教とされ、徳川幕府が葬式を仏式に変えるよう強制してお寺の経済的基盤としたため、死者は「神」から「仏」になって仏壇に祀られるように変わります。

 しかしながら女性が妊娠すると安産祈願にはお宮に行き、子供が生まれるとお宮参りをし、七五三のお祝いも神社で行うという神道は残り、家の中には神棚と仏壇があり、古い家では屋敷神・地主神を祀る祠や鳥居が屋敷の西北にありました。

 さらに、春・夏・秋・正月などの祭りでは、各家から祖先霊を神輿や山車、屋台に乗せて練り歩いて集落の氏神様の社(やしろ)に運び、さらにそこから村や町の神社に運び、一緒に山上や海辺の御旅所に運んで祖先霊を天や龍宮に送り、再び迎えて神輿などに移し、逆コースで村・町の神社から集落の社へ運び、練り歩いて各家に霊を帰します。私の祖父母の家では、初孫の私は仏壇と神棚にお供えのご飯を運ぶ役であり、どちらにもご先祖を祀ってあると言われていました。

 古事記は始祖神を「参神二霊」とし、「二霊群品の祖となりき」として天御中主と高御産巣日(たかみむすひ)と神御産巣日(かみむすひ)としていますが、この「産巣日(むすひ)」を日本書紀が「産霊(むすひ)」と書いていることからみても、日=霊(ひ)であり、新井白石が解釈したように「人=霊人」「彦=霊子」「姫=霊女」なのです。そして、この始祖「参神二霊」は出雲大社正面に祀られており、本来の神道はこのスサノオ大国主一族の「八百万神」信仰なのです。

 一方、本居宣長は「天照大御神」の「天照=アマテル」を「アマテラス」と読ませ、「世界を照らす太陽神」とする一神教とし、天皇家の祖先をこのアマテルとして後の皇国史観に大きな影響を与えます。天皇を世界を支配する太陽神として、大日本帝国のアジア侵略・支配を正当化するイデオロギーとしてわが国の進路を大きく誤らせました。

 このように、この国の神道は八百万神の「霊(ひ)信仰」か天皇家の「日信仰」か、「出雲神道」か「伊勢神道」か、宗教論としても歴史認識としても大きなテーマなのです。

 植物が枯れて大地に帰り、地中の種芋や種から再び芽生えてくるように死者もまた大地の黄泉の国から蘇る(黄泉帰る)という地神(地母神)信仰や、海人(あま)族の死者は海に帰り、魚たちのように海から再生してくるという海神信仰から、魂魄(こんぱく:魂と身体)は分離して天に昇り、天から山上の磐座(いわくら)や神籬(ひもろぎ=霊洩木)に降りてくるという天神信仰があり、大国主心御柱を中心とした48mもの高い出雲大社を建て、八百万神の神道を確立したと私は考えています。なお、倭音倭語の「ひもろぎ」(霊洩木)を漢字で神籬と書いていることは、倭人は「ひ=神」と見ていたことを示しています。

 なお、親から子へと受け継がれるDNAの働きを「霊(ひ)」として信仰し、海中で誕生した生命の魚から両生類、爬虫類、哺乳類への進化を「海神信仰」とし、種芋や種からのイモや穀類などの再生を「地神(地母神)信仰」とし、物を燃やした煙や水蒸気・湯気が天に昇り、雨となって降りて来る循環を「天神信仰」としてみると、古代人は近代科学に繋がる合理的な思考を行っていたことが明らかです。

 

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 縄文時代を世界で初めて芸術の面から高く評価し、「縄文に帰れ」と考えていた岡本太郎さんは、縄文人からの生命(DNA)の連鎖・継承、霊継(ひつぎ)のシンボルとして「生命の樹」(通称:太陽の塔)をデザインしたと私は考えています。

 

5.3つの「太陽の顔」のメッセージ

 「生命の樹太陽の塔)」には4つの顔がありますが、岡本太郎さんがこの塔を「太陽」のシンボルとしたか、「生命」のシンボルにしたかについて、まず誰でも目にした前面の頭頂部、腹部、背中の3つの異なるデザインの顔から解明したいと考えます。

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 「上の顔は未来」、「腹の顔は現在」「背中の顔は過去」と万博記念公園HPでは説明していますが、本当でしょうか? 私には「美術優等生」の空想に思えます。

 太陽の塔の内部が生命の誕生からの「原生類時代、三葉虫時代、魚類時代、両生類時代、爬虫類時代、哺乳類時代」の292体の生物のオブジェで満たされていることかみても、その全体は元の「生命の樹」としてみるべきなのです。

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 そうすると、下が過去、中が現在、上が未来になりますから、背中の太陽が過去を表していることにはなりません。また、「縄文に帰れ」と述べていた岡本さんが、その輝かしい過去の縄文の顔を「黒い太陽」として描くはずはありえません。

 頭部の「黄金の顔」にしても、「太陽の顔」でしょうか? 岡本太郎さんは「縄文に帰れ」と述べ、縄文土器土偶や後の銅鐸に太陽をデザインしたものは皆無であることを知っていたと思います。また、岡本さんは縄文土偶の顔をいくつも見ているに違いありませんから、頭部の黄金の顔は「生命の樹」の顔そのものと考えられます。顔はあくまでその本体の顔をシンボライズしているのです。   

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 「太陽の塔」より1年前の彼の「若い太陽」(日本モンキーパーク)を見ると、顔は「太陽の塔」の腹の顔と同じでデザインですが、周りに太陽のフレア(炎)があります。彼のデザインの太陽にはフレアがなければならないのです。そして、フレアがあるのは背中の「黒い太陽」だけなのです。

 

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 「若い太陽」は、下の写真のように背後にある丸い太陽に、仮面の「太陽の顔」を付けたものなのです。岡本太郎さんにとってこの「太陽の顔」は「仮面」なのです。従って、太陽の塔の一番上の「黄金の顔」は太陽そのものではなく、「生命の樹」の本体に付けられた仮面とみるべきなのです。

 ちなみに、私には最初から「黄金の顔」は「鳥」の顔にしか見えませんでしたし、今もそうです。特に、口と鼻から前に出て、上に伸びている金属の飾りは、私には鳥の冠羽(かんう)をシンボライズしたものに見えます。天からの雷(神鳴り)を集めたいと考えた避雷針を、デザイン的に冠羽として表現したと考えます。

 

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 日本モンキーパークの「若い太陽」にはこのような冠羽飾りのようなものはなく、周りには「浅草ウンチビル」(アサヒビール本社)と同じような太陽光・太陽熱をイメージさせるフレア(炎)が11本も出ています。しかしながら、「黄金の顔」にはないのです。火炎型土器をよく知っている岡本太郎さんが、太陽に炎を付けないわけがないのです。

 「生命の樹」は天に飛び立つ鳥のイメージと重ねて、その顔を鳥にしたのではないか、というのが私の説です。それは、塔の主軸から左右に伸びた羽の形からみても明らかです。これは太陽の手ではなく、空に飛びたつ鳥の羽です。

 

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 そして「腹の太陽」は塔の中の「生命」の顔で、黒い不気味な「背中の太陽」はこの「人類の進歩と調和」の万博の背後にある自然を破壊する原発を象徴していると考えます。原発を「地上の太陽」とし、反自然の「黒い太陽」として、「人類の進歩と調和」のシンボルに岡本太郎さんは毒を仕込んだと考えます。『自分の中に毒を持て』といっていた岡本太郎さんは、ちゃんと毒を忍ばせたのです。「お前たちには分からんだろう」と。

 1960(昭和34)年に刊行された『黒い太陽』の中で、岡本太郎さんは「太陽は人間の腹だ この素晴らしいエネルギーが むずむずと 生きている人間の腹の中にあって そこから精気がもりあがり たちのぼっている」と賛美する一方で、「驚異的なエネルギーの源を原子力の連鎖反応に分析してしまった今日、どうやら太陽はあまねき光を失い、スポットライトみたいにこの世界の一部しか照らしださなくなったようだ」「今日は、太陽自体のエネルギーを明らかに分析し、実験的に太陽を作り出した時代だ」と原発を地上の太陽として見ています。ただし、原発核分裂と太陽の核融合を取り違えていると思いますが・・・

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 そして、「われわれの心の中には別の太陽が輝いている。それは、暗い、やきつく光を持った―黒い太陽。しかし、われわれはこの現代的ニヒリズムをも克服しなければならない。黒い太陽に矢をはなとう。そして赤いカニをしとめなければならない」と、「黒い太陽」=心の中にある原発に矢をはなち、「赤いカニ」(原子雲が横に広がった原子爆弾を象徴していると考えます)を仕留めようと宣言しているのです。「人類の進歩と調和」の進歩の象徴であった美浜原発からの電力による万博に対し、対抗しようとしたのです。

 1954年にはビキニ諸島の水爆実験で第五福竜丸をはじめ約1,000隻以上のマグロ漁船が死の灰を浴び、翌1955年には原子力基本法が成立して原発建設が進められており、1960年の『黒い太陽』はこのような時代状況に対する岡本太郎さんの叫びなのです。 

 「生命の樹」から「太陽の塔」への名前変更において、彼なりの芸術的抵抗として背中に「黒い太陽」=原発を背負わせたのです。「生命の樹」から「太陽の塔」と名前を変更しながらも、背中の「黒い太陽」以外の3つの顔のデザインにはフレア(炎:岡本太郎はコロナと呼んでいた)を付けていません。背中の「黒い太陽」だけが「太陽デザイン」であり、「太陽の塔」は「黒い原発の塔」であったのです。

 「太陽の塔に見える? じゃあそうしとこうか」と面白がり、「お前たちには分からんだろう」と名称を変更したのだと思います。『自分の中に毒を持て』といっていた岡本太郎さんは、見事に主催者を欺いたのです。

 なお、「黒い太陽」マークとナチスとの関係なども、岡本太郎さんが知っていたのかも気になっています。

 

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6.4番目の「地底の顔」のメッセージ

 実は、「太陽の塔」にはもう一つ、地下に4つ目の顔があり、行方不明になっていましたが、写真をもとに2018年の一般公開に向けて復元されました。

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 「地底の太陽(太古の太陽)」と名付けられていますが、この4番目の顔を含めた統一的な解釈となると、前掲の「上の顔は未来」、「腹の顔は現在」「背中の顔は過去」いう3つの顔の説明は破綻します。

 「縄文に帰れ」「本土が沖縄に復帰するのだ」と主張し、「火炎式縄文土器」を深海のシンボルとしてみていた岡本太郎さんは、この地下に置かれていた顔は大地ではなく、生命の源である「海の顔」としてデザインしたと私は考えます。

 「生命の樹」のオブジェのスタートを原生類時代におき、三葉虫時代、魚類時代、両生類時代と海に生きた生物にこだわっていることからみても、この顔は「地中生物」の顔ではなく「海の顔」であり、波うつ海の中の生命の誕生を象徴しているように見えます。

 死後の世界を古事記は「黄泉国」としていますが、倭語の「よみ」は「夜海」(暗い海の底)ではないか、と私は考えています。海人族は「魚や人は海から生まれ、海に帰る」という海神信仰、縄文農耕民は「生物は大地から生まれ、大地に帰る」という地神信仰(地母神信仰)と考えてきましたが、漢語の「黄泉」を当てていることをみると、「黄色い羊水=泉」の中からから生まれる人は、母なる海、海に繋がる地底の黄泉に帰る、と信じられていたのではないでしょうか?

 「生命の樹」の4つの顔は、一番上は「鳥の顔」、正面は矛盾を抱えた「人の顔」、地下の顔は生命の源である「海の顔」、背中は「地上の黒い太陽=原発」をシンボル化したものと考えます。

 「縄文に帰れ」「本土が沖縄に復帰するのだ」と主張し、「火炎型縄文土器」を深海のシンボルとしてみていた岡本太郎さんは、海人(あま)族の「龍宮(りゅうぐう・りゅうきゅう)」が「琉球(沖縄)」であり、縄文人のルーツが龍宮であり、海人族の始祖が琉球の始祖のアマミキヨであることを見抜いていたのではないでしょうか?

 あまりにも先駆的な考えであり、その本心を隠し、後世への謎かけ・暗号として、「生命の樹」を「太陽の塔」の名前に変更しながら、デザイン的には「太陽」には見えないように工夫したと私は考えます。

 古事記を書いた太安万侶と同じで、岡本太郎さんは「分かるやつには解かる」といくつもヒントを残しながら、権力に迎合したと見せかけたのです。

 

7.2025年大阪万博へ向けて

  1970年大阪万博の「反万博(ハンパク)」のイベントでは、「太陽の塔」や「お祭りひろば」についての議論・批判が見られたような記憶はありません。

 2025年大阪万博が「いのち輝く未来社会のデザイン」というなら、対抗して「いのち」を考えるいい機会です。若い人たちは対抗イベントをやるのでしょうか。

 開発に失敗した広大な大阪湾の埋め立て空地を利用した大都市集中型・巨大施設型の万博(台風の高波や津波などを想定しているのでしょうか?)に対抗して、全国各地で自然豊かな大地を使った世界遺産登録を目指す縄文文明イベントや芸術イベント、ネット上に誰もが参加できる無数の「パビリオン・ネットワーク」など、「地方分散型・小規模ネットワーク型」のイベントを若い皆さんに期待したいものです。

 私としては、岡本太郎さんが残した「縄文に帰れ」の思想を世界文明遺産としてさらに深め、現代の課題と結びつけていきたいと考えます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論         http://hinakoku.blog100.fc2.com/