ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート73 烏帽子(えぼし)と雛尖(ひなさき) 

 「えぼし」というと、『もののけ姫』の製鉄のタタラ場を率いる「エボシ御前」をイメージする若い人も多いと思いますが、とんがった古代の烏帽子(えぼし=えぼうし)のことです。なぜ日本の貴族・高官が「カラス帽子」をかぶるようになったのか、さらに、その前面に「雛尖(ひなさき:クリトリス)」が付いているのか、気になりませんか?  

 冤罪裁判では「真実は細部に宿る」と言われてきましたが、今回は「烏帽子(えぼし)」と「雛尖(ひなさき)」から、縄文社会からのスサノオ大国主建国と、さらには日本列島人の起源について考えてみたいと思います。

 「縄文ノート71 古代奴隷制社会論」「縄文ノート72 共同体文明論」ではマルクス・エンゲルスの歴史区分批判という大テーマで疲れましたが、今回は小テーマで息抜きをしたいと思います。 

 

1 「太陽の塔」の黄金の顔は「太陽」か「鳥」か? 

 「縄文ノート31 大阪万博の『太陽の塔』『お祭り広場』と縄文」において、私は岡本太郎氏の太陽の塔(原題:生命の樹)の顔はその形状や氏の他の太陽の彫刻や絵(背中の黒い太陽)のようなフレア(燃え上がる炎)がないことからみて、鳥の顔であり、塔の全体は両方に翼を広げた鳥である、と書きました。

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 「生命の樹」という原題を付け、地下には「海の顔」を置き、塔の内部には生命の進化を示すオブジェを配置した樹を立てていことからみて、岡本氏は生命全ての「霊(ひ)」を鳥が天に運ぶイメージを造形したと考えています。

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 縄文文化・芸術を世界に広め、「縄文に帰れ」「本土が沖縄に復帰するのだ」と唱えていた岡本太郎氏は、「鳥」こそが日本人さらには人類のシンボルであるとていたことが明らかです。

 本居宣長の「世界を照らすアマテラス太陽神一神教」を受け継いで東亜共栄圏を作り上げようとした「太陽教史観」に後戻りすべきではないと考えます。

 

2 烏帽子(えぼし)とは 

 烏帽子(えぼし)について、ウィキペディアは「平安時代から近代にかけて和装での礼服着装の際に成人男性が被った帽子のこと」とし、日本大百科全書は「古代以来の男性の冠物(かぶりもの)の一種。字義は黒塗りの帽子ということ。天武(てんむ)天皇11年(682)に漆紗冠(しっしゃかん)、13年に圭冠(はしばこうぶり)の制定があり、前者が平安時代の冠(かんむり)となり、後者が烏帽子になったといわれている」としています。

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 ブリタニカ国際大百科事典は「烏色 (くろいろ) のかぶりものの意味で,中国唐代 (7世紀) の烏沙 (うしゃ) 帽に由来」とし、デジタル大辞泉は図1を載せ、「貴族は平常用として、庶民は晴れの場合に用いた。階級・年齢などの別によって形と塗りを異にする」としています。

 立烏帽子が最も格式が高く現在も神職などが着用し、折烏帽子(侍烏帽子)は武士や庶民が使用し、現代でも大相撲の行司が着用し、他に揉烏帽子・引立烏帽子・風折烏帽子などが見られます。

 第1の疑問は、天武天皇が13年(684)に定めた圭冠(はしばこうぶり)が烏帽子になった」というのですが、「圭」は呉音「ケ (クヱ)」、漢音「ケイ(クヱイ)」、倭音「きよ、たま、よし、かど、きよし」とされ、字源は「円錐形の盛土をつくり、神に領有を告げたことに由来」で「天子が諸侯を封じたことを証するのに与えた玉」(写真1)とされており、「圭冠」と「烏帽子」は意味も形も繋がらないことです。

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  第2の疑問は、中国唐代の「烏沙 (うしゃ) 帽」の真似をしたとしていますが、烏の黒色は同じであるものの、鳥が羽を広げた形の烏沙帽と烏帽子の形が異なっていることです。

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 第3の疑問は、「烏(からす)」は呉音「ウ」、漢音 「オ(ヲ)」で、「え」音とは異なることで「鳥(呉音・漢音:チョウ)」にも「え」音はありません。「烏(え)」の呼び名もまた日本オリジナルなのです。

 「烏帽子(えぼし)」は起源も形も呼び名も日本オリジナルなのです。

 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)などで書きましたが、私はスサノオ大国主一族が建国した「委奴国・倭国」は「いな国・い国」説であり、今も琉球に残る古倭語が「あいういう5母音」であることからみて、「烏帽子(えぼし)」は「委帽子・倭帽子(いぼし)」で、その起源はスサノオ大国主の「委奴国・倭国」に遡ると考えます。

 それが、琉球(りゅうきゅう=りゅうぐう)の姉妹を祖母・母とした天皇家の初代・ワカミケヌ(若御毛沼)の子孫であり、海人族(天族)の血も引く大海人皇子天武天皇)に受け継がれた可能性が高いと考えます。

  

3 雛尖(ひなさき)とは

 さらに私が興味を持ったのは、立烏帽子の正面をへこませ、雛尖(ひなさき)や雛頭(ひながしら)をもうけていることです。

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 以前、希望社会研究会で舘野受男(哲学者:敬愛大学元経済学部長)さんより「栃木では『ひなさき』はクリトリスのことだよ」と教えられ、ネットで調べてみると確かに栃木・茨城方言にあり、精選版日本国語大辞典では「① 女性外陰部の上方にある小突起。陰核。陰梃。〔十巻本和名抄(934頃)〕、② 近世の烏帽子(えぼし)の正面の部分の名。まねきの下のくぼみ中央の小さく突き出ている部分。〔箋注和名抄(1827)〕と解説されていました。

 さらに調べると、海人(あま)族のアマミキヨを始祖神とする琉球の先島地方や鹿児島県の奄美地方では女性器を「ヒー(古くはピー)」と言い、熊本県の天草地方では「ヒナ」と呼び、出雲では女性が妊娠すると「ヒ(霊)が留まらしゃった」と言うと出雲出身の大学の同級生・馬庭稔君から聞きました。―livedoorブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」の「琉球論5 『全国マン・チン分布孝』批判の方言北進・東進論」http://blog.livedoor.jp/hohito/archives/1992199.html参照

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 なお、琉球の「あいういう=あいうえお5母音」では「ひ=へ」であり、「ヒー→へへ・べべ→ベッチョ」系の女性器名が生まれ、「さびしい→さみしい」、「島又=柴又(しままた→しばまた)」のように、は行とま行が置き換わることから「ヒ=ミ」であり、「あいういう5母音」から「み=め」で「ヒ=ミ=メ」になり、「メメ→メンチョ→オメコ」系の女性器名が生まれたと考えます。

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 横道に逸れましたが、「あいうう・あいうお5母音」から「いぼし(委帽子・倭帽子)」が「えぼし(烏帽子)」に変わった可能性が高いことは、性器名の変遷からも裏付けられ、呉音漢語・漢音漢語ではない倭音倭語の南方起源説を裏付けているのです。

 そして、烏(鳥)を模した「烏帽子」の前に「雛尖(ひなさき=陰核)」を設けているということは、「烏=鳥」信仰に加えて「女性器信仰」があったことを示しています。

 「縄文ノート32 縄文の『女神信仰』考」でみたように、女性器信仰の伝統は、縄文時代の「環状列石」や「石棒を立てた円形石組」、「妊娠土偶」や「女神像」に遡ります。

 さらに、スサノオ大国主の八百万神の「霊信仰」においても、天上の霊(ひ:祖先霊・死霊)を運ぶ神使として、次のような鳥が主要な各神社で祀られており、中でも「烏」は住吉大社熊野大社(本宮・速玉・那智)、厳島神社安芸国一宮)などスサノオ一族の神使です。 

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 なお、大国主が筑紫で鳥耳との間にもうけた鳥鳴海の妻は日名照額田毘道男伊許知邇(ひなてりぬかたびちをいこちに)であり、さらにこの筑紫大国主王朝の5代目の妻は比那良志毘売(ひならしひめ)であることは、「日名・比那」名は筑紫の「鳥」を神使とする一族で使われた名前と見られます。

 記紀によれば大国主スサノオ7代目であり、スサノオは出雲でイヤナミ(伊邪那美=伊耶那美=揖屋のナミ)から産まれた長兄で、アマテル(天照)は「筑紫日向(ひな)橘小門阿波岐原」で生まれたスサノオの異母妹であり、天穂日(あまのほひ)・天日照(あまのひなてる)親子はアマテルの子・孫ではなく、大国主の筑紫妻・鳥耳の子であり、大国主の国譲りはコトシロヌシ(出雲の事代主)、タケミナカタ(諏訪の建御名方)、アメノワカヒコ(津島の天若日子)、ホヒ(筑紫日向(ひな)の穂日)の後継者争いであったと考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 天皇家においても16代仁徳天皇の名は古事記では「大雀(おほさざき)命」、25代武烈天皇は「小長谷若雀(おはつせわかさざき)命」と鳥名が付けられ、12代景行天皇の御子のヤマトタケル(倭建)は死後に「白智鳥(しろちどり)」になって能煩野(のぼの:三重県鈴鹿郡)から河内国志畿(しき)に飛んだとされて白鳥御陵が作られており、神使である「鳥」が死者の霊(ひ)を運ぶ、という信仰はスサノオ大国主王朝から天皇家に引き継がれています。

 天武天皇が貴族・上級官人の「平常用」として、立烏帽子の制度を定めたのは、出雲系豪族の支持によって壬申の乱に勝利した大海人皇子が、スサノオの後継王として神使の「烏」をシンボル化した形の帽子とし、性器信仰のシンボルとして「雛尖(ひなさき)」や「雛頭(ひなかしら:大陰唇であろう)」を前に付けて「烏帽子」としたのであり、壬申の乱に功績のあったスサノオ大国主系豪族・官人を顕彰した装束と考えられます。

 

3 烏(カラス)信仰について

 烏信仰について、「中国神話では三足烏は太陽に棲むといわれる。陰陽五行説に基づき、二は陰で、三が陽であり、二本足より三本足の方が太陽を象徴するのに適しているとも、また、朝日、昼の光、夕日を表す足であるともいわれる。 中国では前漢時代(紀元前3世紀)から三足烏が書物に登場し、王の墓からの出土品にも描かれている」(ウィキペディア)とされています。

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 厳島神社安芸国一宮)、住吉大社熊野大社(本宮・速玉・那智)などスサノオ系の神使の「三足烏(さんそくう)の烏」はこの中国文化の影響を受けた可能性があります。一方、後にワカミケヌ(若御毛沼:諡号神武天皇)の「東征」(私は傭兵部隊の移動と考えます)で熊野から大和(おおわ)国へ道案内をしたとされる八咫烏(やたがらす)は3本足とは書いてなく、8咫=8尺(1尺=約18㎝)は約144㎝ですから、小柄で色黒く、カラスとあだ名された男であったと書いているのです。黒い法衣の裁判官を「カラス」と言ったからといって、まさか裁判官を空飛ぶトリとする人などいないのと同じです。

 「三足烏」はJFA(日本サッカー協会)のシンボルマークにされていますが、「三足烏」はスサノオの神使であり、サッカーファンは記紀などを読んで「スサノオ大国主建国派」に変わるべきではないでしょうか? 「三足烏」は天皇家を支えるシンボルではありません。

 またまた横道に逸れてしまいました。

 三足烏のルーツが中国である可能性は高いと考えますが、カラス信仰は、すでに「縄文ノート29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」「縄文ノート30 『ポンガ』からの『縄文土器縁飾り』再考」で書いたように、私の着地点は「カラス信仰は縄文時代に遡る」というところにあります。

 「縄文ノート29」から引用すると、次のとおりです。

 

 「大野晋氏は『日本語とタミル語』の冒頭で南インドに始めて調査に出かけた時の1月15日の「ポンガル」の祭りを体験した時の劇的な出会いを紹介しています。2つの土鍋に牛乳を入れ泡が土鍋からあふれ出ると村人たちが一斉に「ポンガロー、ポンガロー」と叫び、一方の土鍋には粟と米(昔は赤米)と砂糖とナッツ、もう一方の土鍋には米と塩を入れて炊き、カラスを呼んで与えるというのです。日本でも青森・秋田・茨城・新潟・長野に小正月(1月15日)にカラスに餅や米、大豆の皮や蕎麦の殻、酒かすなどを与える行事が残り、「ホンガ ホンガ」「ホンガラ ホンガラ」と唱えながら撒くというのです。「ホ」は古くは「ポ」と発音されることは、沖縄の「は行」が「ぱ行」となる方言に残っていますから「ポンガ=ホンガ」であり、なんと、インド原住民のドラヴィダ族の小正月の「ポンガ」の祭りが日本にまで伝わっているのです。縄文土器の縁飾りはこの「泡立ち=ポンガル」を表現しているのではないかと考えますが、別の機会に詳述したいと考えます。」

 

 私は仕事先の尾瀬のある群馬県片品村で赤飯を地面に撒く「猿追い・赤飯投げ祭り」と地面にこぼす「にぎりっくら」の祭りを知りましたが、これも青森・秋田・茨城・新潟・長野のカラスに餅や米、大豆の皮や蕎麦の殻、酒かすなどを与える行事と同じく、ドラヴィダ族からだったのです。―「縄文ノート34 霊(ひ)継ぎ信仰(金精・山神・地母神・神使文化)について」参照 

 さらにカラス神話はインダス文明にもあります。「ノアの方舟」神話では、洪水がおさまりかけたときノアはワタリガラスを偵察に放つのですが、自由な気質のワタリガラスはかえってこず、次にハトを放つとオリーブの小枝を加えてきたというのです。ギリシア神話ではカラスは太陽神アポロン使徒で純白の羽毛をもっていたのが、真実を告げて黒い鳥に変えられたというのです。

 このように人間の身近なところにいて人間の言葉を模倣することもある頭のいいカラスは、黒い色から暗黒の死の世界のイメージももたれ、死者の霊(ひ)を運ぶ鳥として世界で神使とされた可能性が高いと考えます。

 

4 重層構造の「烏帽子」文化

 カラス信仰は縄文時代にドラヴィダ海人・山人族によって「ポンガ(ホンガ)」のカラス信仰の祭りとして日本列島への移住とともにもたらされ、その後、中国から黒色の「烏沙 (うしゃ) 帽」が伝わり、縄文からの性器信仰がプラスされ、「雛尖のついて烏帽子」となったと考えられます。

 日本語が「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造であるように、カラス信仰もまたドラヴィダ海人・山人族の「ホンガのカラス行事」に中国の「三足烏」信仰が加わってスサノオ一族の「三足烏」神使崇拝になり、さらに中国の「烏沙 (うしゃ) 帽」が伝わり、母系制社会の「女性器信仰」が加わり、朝廷での身分を示す「立烏帽子」となり、さらに階層・階級の多様化とともに様々なタイプの「烏帽子(えぼし)」が生まれたと考えられます。そして1970年の大阪万博岡本太郎氏の「鳥頭の塔」や日本サッカー協会の「八咫烏マーク」へと繋がっています。

 「烏帽子(えぼし)」や「雛尖(ひなさき)」は小さなテーマですが、注目されない分、かえって縄文からの日本文化・信仰を伝えています。

 「真実は細部に宿る」という観点で、世界史的な視野のもとにさらに研究が続くことを期待したいと思います。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/