ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート149 「委奴国」をどう読むか?

 記録上確かなこの国の建国は、「建武中元二年(注:紀元57年)倭奴國奉貢朝賀」(3~5世紀の後漢書)と記録され、博多湾入口の志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印に記された百余国の連合国家の「委奴国・倭奴国」に遡ります。そして、記紀は「葦原中国」「豊葦原水穂国」の建国者はスサノオ大国主一族であるとはっきりと記しています。

  

 私はこの中日の記録から「其国本亦以男子為王 住七八十年」の男王がスサノオ大国主7代であり、卑弥呼(霊御子)の「鬼道」(祖先霊信仰)はこのスサノオ大国主の霊(ひ)を祀る宗教であることを解明してきました。ただ「委奴国・倭奴国」をどう読むかについては、最初は「ひなの国」と読み、次に「いなの国」「いぬ(いの)の国」と読むなど迷ってきており、ここに整理しておきたいと考えます。―『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)、ブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート(旧・神話探偵団)」「邪馬台国探偵団」等参照

 なお、紀元57年に後漢光武帝スサノオ朝貢した時の国名は「委奴国・倭奴国」ですが、107年の遣使では「倭国王帥升」(筆者説:スサノオ5代目の淤美豆奴(おみづぬ))と書かれており、帥升(すいしょう)は「委奴国・倭奴国」から「奴」を外し「倭国」への国名変更を行ったと考えています。

 百余国の「委奴国」が乱により30国が分離・独立し、30国は「相攻伐」した後に鬼道(30国王の共通の祖先霊信仰)を行う卑弥呼を共立して「邪馬壹国」としてまとまったのであり、この国の建国は「委奴国」から始まっており、「邪馬壹国論争」などやっている場合ではなく、「委奴国論争」こそ議論すべきなのです。

 

1 「委奴国・倭奴国」についてのこれまでの説

 これまで委奴国・倭奴国について、通説は「わのなのくに」とよみ、「いとのくに(伊都国)」と読む少数意見があるのに対し、私は『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』では「ひな(ふぃな)のくに」と読み、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)では「いなのくに(稲国)」「いぬのくに→いののくに」と読む説の可能性を提案しました。

 

 

    

  

 

2 「イ(委・倭)族」と「匈奴」からの「委奴国」

 これまで中国・日本の文献や地名などから紀元1世紀の「委奴国」を「わのなのくに」「いとのくに」と読むか「ひなのくに」「いなのくに」と読むか、その意味や、後漢側か委奴国側のどちらの漢字使用かについて検討してきましたが、東・南・東南アジア全体に視野を広げて検討したいと思います。

 前回、「縄文ノート148 『地・姓・委・奴・卑』字からの母系社会論」において、殷・周時代から紀元前8~3世紀の春秋・戦国・秦時代の戦乱で、母系制社会から父系制社会に転換したことにより、甲骨文字から漢字が成立する過程で、「地・委・奴・卑」字や孔子の「男尊女卑」などが儒家たちにより男性優位の解釈に変えられてきたことを明らかにしましたが、当時の漢民族と「南蛮・北狄・東夷・西戎(なんばん・ほくてき・とうい・せいじゅう)」の民族の関係から論証したいと思います。

 図5は後漢の周辺民族を示したものですが、委奴国の「委」字は「イ(委・倭)族」に、「奴」字は「匈奴」にみられ、卑弥呼の「卑」字は「鮮卑」に見られます。漢民族にとっては、「イ(委・倭)族」は南蛮(なんばん)、「匈奴」「鮮卑」は北狄(ほくてき)に、「委奴国」は東夷(とうい)になり、これらの「委・奴・匈・卑」は悪字は周辺民族を蔑視して漢民族が付けたとこれまで解釈されてきました。

   

   

 ところが縄文ノート148でみたように、「委=禾/女」字は「女が稲のように頭を下げている」ではなく、本来の意味は「女が稲を捧げる」であったことは、「倭=人+禾/女」(女が人に稲を捧げる)、「魏=禾/女+鬼」(鬼(祖先霊)に女が人に稲を捧げる)字から明らかです。魏王朝が姫氏だあることからみても、野生の米や粟など採集していた女性が栽培を行うようになったという歴史を「委・倭・魏」字は示しています。

 なお、「あわ(呉音:ソク、漢音:ショク)」が「粟=西/米」字であることからみて、栽培は米が先であり、後に西からアワが伝わった可能性があります。

 「奴=女+又(右手)」字も、春秋戦国時代の戦乱で女・子どもを奴隷にするようになり、「女を右手でとらえる」と解釈されるようになりますが、元々の意味は「女をかばう、たすける」の意味であったことは「又」が「右」「友」「有」の原字とされ、「佑(すけ、たすく)」字などからも裏づけられます。

 「匈奴」の「匈(勹+凶)」字についても、「凶」が「胸に記された不吉を祓うしるし」であり、「勹」が「つつむ」であることからみると、中央アジアの諸民族にみられる「心臓に手を当てて敵意がないことを示す挨拶」を表す漢字であったものが、匈奴族の侵攻により、「凶悪」「凶行」「凶作」などのような悪字イメージに変えられた可能性があります。「匈=凶を勹(包む)」字と「凶」をごちゃまぜにした悪意に加担すべきではありません。

 「匈奴」の読み方ですが、表3のように「ヒョン・」「フン」「フン」「ションヌゥ」「ヒュン・」などの説からみて「奴」は「ナ、ニ、ヌゥ、ノ」の可能性があり、委奴については「いな」説、「いぬ」説、「いの」説のどれもが成立する可能性があります。また、匈奴も「あいういぇうぉ」5母音であった可能性が高く、「ヒュン=ヒョン」であり、ミャンマーに「ピュー人」、台湾に「ピュー族」がいることからみて、もともとは「ヒュン・ナ」発音であったと考えられます。

 さらに注目すべきは、「ヒュン」「ヒョン」という「ひ音」が見られることで、「ピ(ヒ)信仰」の部族であった可能性があることです。ヨーロッパへ民族移動を行ったフン族と同じという説もあり、モンゴル語で「人間=フンニー」は「ト(霊人)」や「アイヌ(人間)」と同じ語源の可能性があることに注目したいと考えます。

 

 以上のように、母系制社会の春秋戦国時代以前の甲骨文字は、「イ(委・倭)族」と「匈奴」の文字からみても、「委奴」は悪字(卑字)などではなく、良字(貴字)であった可能性が高いと私は考えます。

 

3 「南蛮・北狄・東夷・西戎」について

 中華思想漢民族は周辺民族の侵入・略奪に対抗する中で、異民族を「南蛮北狄東夷西戎(なんばんほくてきとういせいじゅう)」と蔑視し、民族名・国名に悪字(卑字)を付け、「委奴国」「倭国」などと称したというのがこれまでの定説でした。

 これに対し、私は「委奴国」名はスサノオ後漢皇帝に上表した国書に書かれていたと考え、次のように書いてきました。

 

① 「倭語論4 『倭人』の漢字使用」 200126

そもそも、委奴国王が国書も通訳も持たせず使者を後漢に送り、光武帝に面会などできません。ましてや漢語を理解しない野蛮国に後漢が金印を与え、国書(冊)や金印を渡すことなどありえません。

紀元前2~1世紀の硯が唐津市糸島市、福岡市、筑前町松江市から、紀元1~2世紀の硯が吉野ヶ里町から見つかっており、紀元3世紀に卑弥呼は「使により上表」、「使訳通ずる所、三十国」としています。末盧国(唐津市)、伊都国(糸島市)、奴国(福岡市)、邪馬壹国(筆者説:吉野ヶ里町筑前町朝倉市など)など卑弥呼を共立した倭国の30国には漢語を理解し、読み書きできる通訳がいたのであり、発見された硯からみて紀元前2~1世紀にはこれらの国々では漢字を使用していたことが明らかです。

② 「縄文ノート48 縄文からの『日本列島文明論』」 200729→210228

 委奴国王スサノオ卑弥呼後漢皇帝から金印をもらい、卑弥呼後漢に上表しており、北九州や出雲などでは紀元前後の遺跡から硯石が発見され、漢字使用の文明段階になります。

③ 「縄文ノート136 『銕(てつ)』字からみた『夷=倭』の製鉄起源」 220427

 重要なのは、古字が「銕=金+夷」であり、ウィクショナリーは「中原の外の夷狄から伝えられた金属であることから」としています。「夷狄から」としていますが、「金+狄」字ではなく「金+夷」字である以上、中国製鉄は「夷」族が起源であるとすべきでしょう。・・・

 「銕(鉄)」字からみると、中国の鉄の起源は北狄西戎からではなく、東夷が起源であり「照葉樹林の道」か「海の道」から伝わったことが明らかです。・・・

 なお、イ族は中国西部の古羌の子孫で、イ族は南東チベットから四川を通り雲南省に移住し、現在では雲南に最も多く居住しているという説が見られますが、「羌(コウ、キョウ)=羊+人」であることからみて遊牧民西戎」であり、照葉樹林帯に暮らして弓矢による狩りが得意な南の「イ族」とは異なります。

 一方、「東夷」は元々は江蘇省山東省付近の「畎夷・於夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷(九夷)」などであり、後には朝鮮半島や日本列島の「委奴国(いなのくに)」「倭人(いひと・いと・いじん)」「一大国(いのおおくに)」「邪馬壹国(やまのいのくに)」なども指すようになります。

 

 

④ 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本) 2020105

 孔子は「道が行なわれなければ、筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう」と述べ、これを受けた陳寿(ちんじゅ)三国志魏書東夷伝の序に「夷狄(いてき)の邦(くに)といえども、俎豆(そとう)の象(しょう)存り。中國礼を失し、これを四夷(しい)に求む、猶(な)を信あり」と書いています。

 「俎(ソ)(まないた)は祭の生贄(いけにえ)を乗せる台で「豆(トウ)」は食物を乗せる高坏、「象(ショウ)」は道理を指しますから、「俎豆(そとう)の象(しょう)存り」は「祖先霊を祀る祭祀が行われている」という意味になります。

 朝鮮半島の鬼神信仰に対し、卑弥呼にだけ「鬼道」という尊称にしたのは、作者の陳寿(ちんじゅ)孔子の教えを忠実に受け継いだ儒家だからと思います。「東夷」の「夷(い)」の国ではなく「委(い)(稲)」の国であり、「道・礼・信」の国とみていたことが明らかです。

 

 三国志から100年後の『後漢書東夷伝は、「東方のことを夷という。夷とは根本の意味である」「恵み育て生命を尊重することで、万物は土地に根ざしてできるものである」「東夷は一般に心穏やかに行動し、心に謹むことを慣習としている。これは他の三方の蛮夷(北狄西戎・南蛮)と異なるところである」としていますが、三国志が「中國礼を失し、これを四夷(しい)に求む、猶(な)を信あり」と書いていることからすると、陳寿の頃には四夷(しい)は「なお信あり」であったのであり、東夷だけでなく南蛮・北狄西戎についても、侮蔑の意味を持った悪字ではなかった可能性が高いと考えられます。

 そこで、表5に「蛮・狄・戎」字の字源を示します(『ウィクショナリー』『漢語林』による)。

 

 「蛮・狄・戎」の字源をみると、「戎」の字源は「ほことよろい」の重武装兵を指しており侮蔑の意味はなく、「蛮」の字源は「亦+虫」で「虫+虫」になり、「虫」の字源は蛇・龍であり、蛇神・龍神信仰を示していることから漢族の蛇神信仰(伏羲・女媧の兄妹夫婦神)、龍神信仰のルーツを示しており、悪字とは考えられません。―縄文ノート「30 『ポンガ』からの『縄文土器縁飾り』再考」「36 火焔型土器から『龍紋土器』へ」「39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍神信仰とヤマタノオロチ王の正体」参照

 

 「狄」字の「犬+火」は犬の焼肉文化を想像させますが、中国では新石器時代から黄河流域・長江流域では犬食がさかんに行われていたものの、狩猟・遊牧民は犬を狩猟犬、家畜の番犬として大事に飼っており、犬肉を食べることはありません。「狄」字は犬食漢民族にとっては大好きな良字であり、「北狄」を差別語とみるのは2重の言いがかりという以外にありません。

         

  以上、「南蛮・北狄・東夷・西戎」の字源の検討からみても、甲骨文字段階からの「委奴」「イ(委・倭)」「匈奴」字は悪字ではありません。後漢側が「委奴国」の使者からの聞き取り音をもとに差別的な語を選んで「委奴国」の漢字を当てたのではなく、「委奴国」はスサノオが国書に記した国名であるとが明らかです。

 

4 「ピー・ヒ」信仰と南蛮・北狄・東夷・西戎」について

 この国の人々を生んだ始祖神を古事記は「産日(むすひ)」、日本書紀は「産霊(むすひ)」夫婦神とし、出雲大社の神殿の正面に祀られていますが、DNAが親から子へと受け継がれるのを古代人的合理的解釈としては「霊(ひ)が受け継がれる」と考えたのでした。天皇家皇位継承儀式は「日継(ひつぎ)」とされていますが、日本書紀による解釈では「霊継(ひつぎ)」です。

 この「霊(ひ)信仰」のルーツについて、私は「縄文ノート37 『神』についての考察」において大野晋氏の「日本語の『霊(ひ:fi)』はタミル語の『pee(ぴー);自然力・活力・威力・神々しさ』に対応する(筆者注:沖縄では「ぴ」から「ひ(fi)」に変わる)」とする説をもとに、南・東南・東アジア各地に「ピー・ヒ」信仰が見られることを明らかにしましたが、匈奴(ヒュンナ・ヒョンナ)や鮮卑(センピ)もその国名から「ピー・ヒ」信仰の宗教圏であった可能性が高いことが明らかとなりました。―縄文ノート「10 大湯環状列石三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰」「15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」「37 『神』についての考察」「38 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰」「40 信州の神那霊山(神名火山)と霊信仰」 「128 チベットの『ピャー』信仰」「132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰」参照

 

    

 この「ピー・ヒ宗教圏」は縄文ノート「43 DNA分析からの日本列島人起源論」「45 縄文人 ドラえもん宣言」「46 太田・覚張氏らの縄文人『ルーツは南・ルートは北』説は!?」「140 イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生」「縄文ノート147 『ちむどんどん』からの古日本語(縄文語)解明へ」などで述べてきた「Y染色体D型分布」「イモ・ソバ食」「もち食」「温帯ジャポニカのDNA」や、「縄文ノート4 日本語起源論と日本列島人起源」などで述べた「主語-目的語-動詞」(SOV)言語分布や「あいうえお」「あいういいぇうぉ」母音分布とも重なっており、「南北2ルート」「海人族+山人族」の日本列島人のルーツは解明できたと考えます。

 

   

 残るテーマの、縄文人の南ルートが「海の道ルート」なのか、それとも「揚子江ルート」なのか、は次回に検討したいと思います。

 

5 「委奴国」は「いな国」か「ひな国」か?

 以上の「イ(委・倭)族」と「匈奴(ヒュン・ナ)」の検討により、「委奴国」を「わのなの国」あるいは「いとの国」と読む説は成立しないと考えます。

 「イ・ナ」発音と「豊葦原水穂国」から「いなの国」説の可能性も高いのですが、南・東南・東アジアの「ピ(ヒ)ー」信仰と匈奴(ヒュン・ナ)・鮮卑(センピ)の「ヒュン・ヒ」と、同時代の後漢霊帝中常侍(ちゅうじょうじ)の李巡(りじゅん)が東夷9国を「八倭人、九天鄙(テンヒ)」と書いていることからみて、「ひなの国」説がもっとも可能性が高いと考えます。

 また、「奴」を倭流の「ぬ(の)」と読む「いぬ(いの)の国」説も否定できず、図4のように魏書東夷伝倭人条の伊都国=平原遺跡より「百里」の行程から、「奴国」の王都「ぬの国(ぬ城=のき=のけ)」が「野芥(のけ)櫛田神社」の小山から発掘されれば、奴国は「ぬの国=のの国」であり、委奴国は「いぬ(いの)の国」の可能性があると考えます。―表1および『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 なお『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』では、金印を「漢の委奴(ひな)国王」と読むことができる2つの説を紹介していますので転載します。

① HP(古代日本語研究掲示板)

 委の字は音符禾(クワkwa、中国音としてはむしろ喉の奥で発音するファxwa)の転音ウィ(wi)と意符女(従順の意)の形声文字であり、フィ(xwi)に近い発音だった時期もあると推定できるので、古代日本語の「ひな」のヒ(fi または pi)を古代中国人が「委」と表記したのではないかという推測もにわかには否定できない。

② 『日本古語大辞典』(柳田圀男の実弟の松岡静雄著、昭和四年発行)

・ヒ族:上代ヒという種族名が存したらしい。ヒイ、もしくはイヒとして、地名、神名等に残る。

・イヒ族:イヒ川、イヒ田、イヒ森などの地名が諸国に存在する。この種族がヒナともヒダとも呼ばれ、或いはシナ、シ。」

・ヒナ(夷):ヒ(族名)ラ(接尾語)の呼称。この種族はキ(紀)、アマ(海人)よりも先にこの国に渡来し、原住民コシ(高志)を征服したが、自己もまた新来者によって駆逐せられた。

 

 結論として「委奴国」の読み方は「ひなの国」説がもっとも有力であり、次に「いなの国」説の可能性も高く、「いぬ(いの)の国」の可能性も否定できない、と考えます。

 この間、私はこの3つの説をそれぞれ迷いながら書いてきており、煮え切らない結論ですが以上のように整理しておきたいと思います。

 

□参考□ 

 <本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/