スサノオ・大国主建国論2 私の古代史遍歴
gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に「スサノオ・大国主建国論2 私の古代史遍歴」をアップしました。https://blog.goo.ne.jp/konanhina
「スサノオ・大国主建国論」をまとめるにあたり、全体を俯瞰するために、私がこれまでいろんな人や本との出会いで考えてきたスサノオ・大国主建国論の経過をざっと紹介しました。
縄文社会からスサノオ・大国主建国は連続した内発的発展であると私は考えており、縄文社会論とも密接に関係しますので、ここでも紹介しておきたいと思います。
スサノオ・大国主建国論2 私の古代史遍歴
「スサノオ・大国主建国論」の全体を俯瞰するために、私がこれまでいろんな人や本との出会いで考えてきた縄文社会から続くスサノオ・大国主建国論の全体像を紹介しておきたい。詳しくは、以後の本論で述べたい。
① 「日本中央」からの開始
門外漢の私が古代史に取り組むようになったきっかけは、きわめて特異な偶然と必然からである。たまたま仕事先の青森県東北町で2002年に「日本中央」と彫られた石碑に出会い、大きな衝撃を受けたからである。
この石碑は「石文集落」近くで見つかり、坂上田村麻呂が矢の矢尻で文字を書いたとされる「つぼのいしぶみ」の可能性が高いことは、津軽十三湊を拠点とした安藤水軍の安藤氏が「日之本将軍」と称していたこととも符合する。
この石碑にショックを受けたのは、私の父方の先祖は岡山県井原市の30戸の山村で、もともと全戸が「ひな」を名乗っており、江戸中期からの墓には「日向(ひな)」、提灯には「日南(ひな)」と書き、明治になって本家であったことから「日本(ひなもと)」(日向本(ひなもと)を縮めたのであろう)を名字として届け出たところ、役所が「雛元」漢字に勝手に変え、一族は憤慨していると父から聞いていたからである。他には、日向・雛川・高雛の名字もあったという。
青森県の小川原湖のほとりの東北町に「日本」があり、岡山県井原市芳井町の山村に戦国時代から「ひな」を名乗り、明治になって「日本(ひなもと)」を名字にしようとした変な一族がいたのである。
ミステリー大好きの私としては、この「日本」が「ひのもと」ではなく「ひなもと」の可能性もあると考え、日本国名の謎を解かないわけにはいかなかった。
なお、「赤」を「あか」「あこ(赤穂(あこう)、赤馬(あこうま)、赤海(あこうみ)、赤尾(あこう)、赤水(あこず)、赤田(あこだ)、赤生田(あこうだ)など)」読みがあり、戦国時代の石工・石垣職人の「穴太衆(あのうしゅう)」の「穴=あな=あの」からみても、「ao(あお)」母音からの「あ=お」母音併用があり、「日本=ひなもと=ひのもと」「奴国=なのくに=ののくに」であり、後者の王城の地は福岡市早良区の櫛田神社のある「野芥=のけ=のき=ぬき=奴城」(あいういう5母音では「け=き」)であると私は現在は考えている。
② 「ひな」地名からの調査
当時、私は折り畳み式のキャットボート(1枚帆の小型ヨット)を開発して全ての湖をセーリングしようと企てており、ホームページで三沢市の仕事でよく通った小川原湖の原稿を書いていて、近くの観光名所の八甲田山を紹介しようと地図をみると神名火山(神那霊山)型の「雛岳」があったのである。さらに範囲を広げて地図をにらむと、五所川原市には「雛田」地名があった。これらの地域は古くは「ひな」地名の可能性がでてきた。
リタイア後に取り組むつもりであったが、忙しい仕事の合間に「ひな」地名の探求を開始した。
日本地図のロードマップ2冊と国土地理院の検索データで「ひな」地名を調べると、「日南・日名・日向・日夏・日撫・日那・日奈・比奈・火那・陽・雛・夷・蜷」と書く「ひな」地名が吉備(岡山と広島東部)を中心に全国にあり、東日本に多い「ひなた=日向=ひな田」など「ひな」と「田、山、谷、原、川、沢、入、迫、窪、瀬、代、場、戸」などの地形や「畑、城(しろ)、守、倉」などと組み合わせた名称も各地に見られた。
最初はこれらの地名は「ひな=日那=日のあたる場所」からきたと考えていたが、地図をみると日当たりのよくない場所にも「ひな」地名がある。『』イワクラ学会編・著)で「飯の山」について書いた岩田朱実さんとネットで知り合い、神奈備山(かんなびやま)型(富士山型)の全国約三百の「飯盛山、日盛山」は「ヒナモリ山」で「ヒナ族」の拠点であり、「ひな」地名は日あたりのいい場所とは限らないと教えられた。
「ひな」地名は太陽由来の名称ではなく、部族名の可能性がでてきた。
③ 古事記・日本書紀の「ひ(霊)」「ひな(日、委、日名)」と委奴(いな・ひな)国王」
そこで初めて古事記・日本書紀を読みはじめて「ひな」を探すと、なんと、出雲大社正面に祀られ、神々を産んだ始祖神を古事記は「高御産巣日(たかみむすひ)・神御産巣日(かみむすひ)」、日本書紀は「高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊尊」と書いており、「ひ=霊」の可能性がでてきた。
古事記序文が「二霊群品(にひぐんぴん)の祖」と書いているように、この国の人々(群品)の始祖神は「産霊(むすひ)」夫婦であったのである。天皇家の皇位継承儀式の「日継(ひつぎ)」は「太陽を継ぐ」のではなく、「霊(ひ)(祖先霊)を継ぐ」儀式であったのである。
角林文雄氏の『アマテラスの原風景』は、「人・彦・姫・聖・卑弥呼」は「霊人(ひと)・霊子(ひこ)・霊女(ひめ)・霊知(ひじり)・霊御子(ひみこ)(霊巫女(ひみこ))」であると書いていたが、死者を葬る石棺などを「柩(ひつぎ)・棺(ひつぎ)」というのは、「霊継(ひつぎ)」からきていたのである。
古代人は親から子へと引き継がれるDNAの働きを、死者の霊(魂:玉し霊)が受け継がれる「霊継(ひつぎ)」と理解していたのであった。この国は「太陽信仰」ではなく「霊(ひ:祖先霊)信仰」の国であり、記紀の全ての「日」は「霊(ひ)」として検討し直す必要がでてきた。
次の大きな発見は、大国主を国譲りさせたアマテルの子の穂日(ほひ)の子に「武日照(たけひなてる)」(武夷鳥(たけひなとり)=天日名鳥(あまのひなとり))がおり、「日」一字を「ひな」と読ませた例を見つけたことである。「日本」を「ひなもと」と呼んでもいい例が日本書紀に書かれていたのである。そして、大国主と鳥耳(とりみみ)の子の鳥鳴海(とりなるみ)の妻が「日名照(ひなてる)額田毘道男伊許知邇(ぬかたびちおいこちに)」、5代目の甕主日子(みかぬしひこ)の妻が「比那良志毘賣(ひならしひめ)」であるであることから、「ひな」名は大国主一族ゆかりの名称であり、「武日照(たけひなてる)」もまた大国主一族の名前の可能性がでてきた。
さらにネットを検索すると、漢・光武帝が与えた金印「漢委奴国王」の国名を「委奴(ひな)国」と読むkittyという方の投稿が見つかった。委奴国王は「ふぃ(ひ、い)な国王」の可能性がでてきた。
「新唐書」は天皇家について「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以「尊」爲號(ごう)、居筑紫城。 彦瀲(ひこなぎさ)子神武(じんむ)立」と遣唐使が伝えたと書いているが、古事記には天皇家の系譜として16代しか書かれていない。しかし、その「欠史16代」を補うかのようにスサノオ・大国主一族の16代の王の系譜が載っているのである。
そこで天皇家16代(実際の天皇家はニニギからの笠沙3代)とスサノオ・大国主16代を連続した32代とし、安本美典産業能率大教授の古代王の即位年の推計方法を援用して回帰計算を行ったところ、スサノオの即位年は紀元60年と推定され、57年に後漢皇帝に使いを送った委奴国王と重なったのである。
魏書東夷伝倭人条と後漢書に書かれた「旧百余国」「男子王」「住七八十年」の委奴国王がスサノオ・大国主7代(古代王の1代は約10年)であるという結論は動かしがたい。
さらに王勇教授(浙江大学日本文化研究所所長)の『中国史の中の日本像』を読むと、中国の周の時代に儒教を興した孔子(紀元前551~479年)は、乱れた国を嘆き、「道が行われなければ、筏に乗って海に浮かぼう」「九夷に住みたい」と願ったという。そして、中国の字書『爾雅(じが)』を注釈した李巡(漢霊帝のとき、中常侍となった人物)が『夷に九つの種がある。一に玄莵、二に楽浪、三に高麗、四に満飾、五に鳧更、六に索家、七に東屠、八に倭人、九に天鄙。』と記していることを紹介していた。
スサノオ・大国主7代の「百余国」の「委奴国」が漢霊帝の頃の「倭国乱」により、「相攻伐」した後に邪馬台国の卑弥呼を共立してまとまった「倭人」30国と、その先の「天鄙(てんひ)」70余国に分かれていた、というのである。「天鄙(てんひ)」は倭音倭語では「あまのひな」であり、スサノオ・大国主の後継者の国は「ひな(霊)の国」であったことが明らかとなった。
全国の市町村の計画づくりに携わっていた私は、各地でスサノオ・大国主一族を祀る神社や祭り、伝承に出合うことが多く、スサノオ・大国主一族による「百余国」の建国は納得でき、『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)にまとめた。
その原稿を出雲神社の門前に住み京都に事務所を構え、神社建築が得意な建築学科同級生の馬庭稔君に見てもらったところ、出雲では女性が妊娠すると「霊(ひ)が留まらしゃった」と言うという重要な裏付けがえられた。そして原稿に誤りはないと後押しされて出版した。
④ 卑弥呼の王都と「筑紫日向(つくしのひな)」の高天原
『邪馬台国はなかった』など多くの著書がある古田武彦氏が親鸞の筆跡研究を行っていたことを知り、狭山事件の筆跡鑑定について自宅を訪ねて相談したことがあり、その縁で播磨の「石の宝殿」を案内するなどして氏の古代史探究の緻密な文献調査を教えられたが、同じ九州説でありながら論敵であった安本美典氏の邪馬台国甘木朝倉説も理科系という親近感と地名分析から読んでおり、スサノオ・大国主建国と邪馬壹国の関係の解明においては、両説の優れた点を活かしたいと私は考えた。
魏書東夷伝倭人条は、対馬・壱岐(一大国(いのおおくに))・奴国・不弥国には副官の「卑奴母離(ひなもり)」が置かれていたと書いており、通説は「鄙守=夷守」を「夷(田舎、辺境)を守る武官」としていたが、当時、これらの国々は中国に近い先進国であり、その王城を守る武将を自ら「夷守」など命名するわけはなく、大和中心史観の偏見であると考えた。古事記が九州の4つの国と吉備児島の別名を「日別」「日方別」としているのは「日=霊(ひ)」から別れた(独立した)国であることを表しており、元は「日(ひな)=霊那(ひな)」という統一国であったことを示している。
さらに「日向=ひな」と読む私は、記紀に書かれた高天原の所在地「筑紫日向橘小門阿波岐原(ちくしのひなのたちばなのおどのあわきはら)」の「日向(ひな)」地名が魏書東夷伝倭人条に書かれた30国のどこかにあに違いないと探したところ、筑後川沿いの旧甘木(あまぎ)市(元は天城(あまぎ)であろう)に「蜷城(ひなしろ)」の地名を見つけ、その背後の高台(甘木=天城の高台)こそが高天原であり、卑弥呼の邪馬壹国(やまのひ(い)のくに)の王城があったことを突き止め、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)にまとめた。
この地は、安本美典氏の邪馬台国甘木朝倉説の地であり、神功皇后がこの高台で羽白熊鷲(はしろくまわし)(羽城=杷木=波岐)を討って新羅侵攻の兵を集め、斉明天皇・中大兄皇子が橘の地に百済救援の朝倉橘広庭宮を置いたことからみて、1~7世紀にかけてはまぎれもなく九州の中心地であった。新唐書に「初主號天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡三十二世、皆以『尊』爲號(ごう)、居筑紫城」と書かれた「筑紫城」はこの地以外にはありえないのである。
後漢の金印(志賀島)と魏の金銀朱龍紋鉄鏡(日田)を結ぶラインとガラス壁、環濠城の3つが重なる場所であり、「正使陸行・副使水行」の魏書東夷伝倭人条の行程が陸行・水行とも完全に合致する唯一の場所である。この地こそが邪馬壹国の王都であり、高天原であることが、皇帝ゆかりの金印・金銀朱龍紋鉄鏡・ガラス壁の3物証と日中文献から完全に裏付けられた。
「委奴国=ふぃ(い・ひ)なのくに」の中に、海の「一大国=い(ひ)のおおくに」と「邪馬壹国=やまのい(ひ)のくに」があったのである。
私は古田説の「邪馬壹国説」「九州王朝説」と、安本美典氏の「古代王の即位年推計」「邪馬台国甘木説」「邪馬台国王都=高天原説」を大筋において引き継いでいるが、古田氏の「行程説」「邪馬壹国福岡市説」「高天原=沖ノ島説」、安本氏の「邪馬台国=やまだ国説」「卑弥呼王都=旧甘木市馬田説」「邪馬台国東遷説」は支持していない。
⑤ 「4人のアマテル」説と「国譲り=大国主御子の後継者争い」説
古田氏は白村江の戦いの敗北まで邪馬壹国は倭国・九州王朝として存続したとし、安本美典氏は夜須郡まわりの地名と大和郷まわりの地名が一致していることから邪馬台国が東遷して大和朝廷となったとしている。しかしながら、いずれも記紀伝説の大部分を占めるスサノオ・大国主一族との関係を整理して示していない。
スサノオ・大国主一族の「百余国」から分かれた30国の邪馬壹国は筑紫大国主王朝として存続し、スサノオの姉とされた筑紫日向生まれのアマテルは出雲で生まれたスサノオの義妹であり、スサノオ7代目の大国主を国譲りさせたとされるアマテルは、大国主の筑紫妻の鳥耳(アマテルを襲名)であり、国譲り神話は鳥耳の子・孫の穂日(ほひ)・日照(ひなてる)(夷鳥(ひなとり)=日名鳥)親子と出雲の事代主、越の建御名方との後継者争いと私は考える。
古田・安本氏とも「アマテル一人説」であるが、私の祖母方の一族が代々襲名していたことからみても、記紀に時代を越えて登場する始祖神の神産霊(かみむすひ)やスサノオ、大物主、建内宿禰(たけうちのすくね)(蘇我氏などの始祖)と同じく、アマテルも襲名しているとみた。
出雲で生まれたスサノオの筑紫日向(つくしのひな)の異母妹と、スサノオ7代目の筑紫妻の鳥耳、さらに30国の「相攻伐歴年」後に共立された卑弥呼(大霊留女(おおひるめ))、その後継者の壹与(ひとよ)は代々アマテルを襲名しており、記紀はこの4人のアマテルを合体してアマテル神話としたのである。
⑥ 母系制社会の「ひな(女性器)」信仰
その後、栃木方言では「ひなさき」がクリトリス(陰核)のことであると「希望社会研究会」で出会った哲学者の故・舘野受男さんより教えられ、調べると平安時代中期の辞書・和妙類聚抄は「雛尖:ひなさき」を陰核としており、方言では栃木・茨城に「ひなさき」があり、琉球の宮古地方では女性器を「ぴー、ひー」、熊本の天草では「ひな」と呼んでいた。
前述のように、出雲で女性が妊娠すると「霊(ひ)が留まらしゃった」ということや、男子の正装である烏帽子(えぼし)(カラス帽子)の前に「雛尖(ひなさき)」を付けることからみても、古代から霊(ひ)を産む女性器信仰が続いたことが明らかである。
建設省・水産庁の漁村集落環境改善調査で全国各地の漁村集落を調査した時、危険な漁に出る漁民の家では家計は女性が握っていると教わり、大国主が「島の埼々、磯ごとの若草の妻」を持ち180人の御子をもうけたと古事記に書かれ、群馬県片品村の仕事では金精(男性器)を男たちが山の神(女神)に捧げる祭りを知り、さらに各地に明治政府が禁じた金精信仰や縄文の石棒が残っているのを見てきた私は、縄文時代から海人族は妻問夫招婚の母系制社会で女性器「ひな」信仰が行われていたと確信した。
さらに狭山事件脅迫状筆記能力の鑑定を行った大野晋さんの『日本語とタミル語』から、この「霊(ひ)信仰」のルーツがインド原住民のドラヴィダ族からビルマ(ミャンマー)、東南アジア・雲南高地にあるという思いがけない結論に達している。
「ひなちゃん」と呼ばれたこともあった私は「×××ちゃん」と言われていたのであり、思いもかけないルーツ探究の結末であった。
⑦ スサノオ・大国主一族は縄文人か、弥生人か?
2011年の福島第1原発事故を受け、私は『「原発」国民投票』著者の今井一氏の講演を聞きたいとネットで探し、国際縄文学協会での講演会を見つけて参加したところ、なんと、建築学科先輩の助教授であった上田篤さんの講演「縄文の家と社会を考える」との幸運な出会いがあり、氏の縄文社会研究会に参加し、スサノオ・大国主建国の前史として縄文社会との関係を追究することとなった。
私の縄文への関心は、大阪万博の「太陽の塔」製作の岡本太郎氏が紹介した火焔型縄文土器に衝撃を受けたのが最初で、縄文野焼きの芸術家・猪風来さんと出会って縄文野焼きのイベントを沖縄の彫刻家・金城実さんを招いて行うなど、直感的に二人には縄文アートが受け継がれていると考えた。
さらに全国各地の仕事では、北海道の森町や群馬県の旧赤城村(現渋川市)の環状列石(ストーンサークル)や各地の石棒、群馬県片品村の男性が金精を山の神(女神)に捧げる祭りなどから母系制社会の性器信仰を感じていた。
私の主な関心は、スサノオ・大国主の霊(ひ)信仰や海人族としての活発な交易・交流、母系制の妻問夫招婚などのルーツが縄文人から連続しているのではないかということにあったが、優れたプランナー(計画家)として多面的に活躍された上田さんは縄文社会の文化が現代に多く引き継がれており、これからのまちづくりに活かしていくという視点を縄文社会研究会で教わった。
⑧ スサノオ・大国主一族は海人族か、山人族か、農耕民か、騎馬民族か?
私は瀬戸内海に面した吉備・播磨で育ち、時に艪で漕ぐ伝馬船や田舟(肥桶(こえたご)舟)で遊び、海辺に行くといつも遠くに見える小豆島や四国に舟で渡りたいと考えていた。母方の祖母の代まで代々住吉大社から御座船で迎えに来て娘たちは住吉大社に仕えていたと聞き、父方の叔母が嫁いだ飛島の一杯船主の伯父の豪快な話を楽しみにしていた私は海人(あま)族系なのか、それとも岡山の山村出身の先祖からの山人(やまと)族系なのか、あるいは南北朝争乱で落城・帰農した母方の農耕民系なのか、井上靖の『敦煌』や『蒼き狼』で心ときめかした騎馬民族系なのか、などと夢想していた変な子供であった。
日本建築学生会議で 講演を頼んだ先輩の片寄俊彦さん(ブワナ・トシ)からはアフリカの類人猿調査のことを、山岳部・ワンダーフォーゲル部のI君・H君たちからは日本人と容貌・生活・文化が似ているブータンのことを、青年海外協力隊員としてニジェールに派遣された次女からはニジェール川流域原産のヒョウタンやアフリカ米のことを、さらにナイジェリアで日本式稲作の普及の援助をしてきた若月利之さん(島根大学名誉教授)からはアフリカ稲のことを聞き、アフリカでの猿からの人類誕生と日本列島にどのようなルートでどのような作物・宗教・文化を持って縄文人がやってきたのか、日本列島人起源論は解明しないわけにはいかないテーマであった。
また、スサノオ・大国主研究から連絡した梅原猛さんの「森の文明」「縄文文明」論も気になっており、縄文社会を文明以前の「未開・野蛮社会」に押し込めるのではなく、1つの文明段階として位置づける必要を感じていた。
出雲出身の石飛仁さんの縄文講演会では先輩の『現代の眼』元編集長で『季刊日本主義』の編集長の山岸修さんに出会い、同誌に書かせてもらうことになり、弾みがついた。さらに白陽社社長で島根日日新聞社の社主の菊池幸介さんが主催する毎月1回の「梁山泊」でも報告する機会をえて、『季刊 山陰』にも書かせていただき、ブログで書き散らかしてきたスサノオ・大国主建国論や縄文論をまとめる機会をえた。
思想信条・郷土愛・学閥などにとらわれず真実を追究したいと考えていた私にとって、この左右の論客が集まる「梁山泊」と『季刊日本主義』は実に有益な場であった。
また、梁山泊メンバーの出雲調査や大湯環状列石や三内丸山などの縄文遺跡調査を通して、縄文からスサノオ・大国主建国が連続しているという確信を得た。これらの活動で一緒であった石飛仁さんは「スサノオ・大国主は縄文最後の王」説であり、私は「スサノオ・大国主一族は鉄器水利水田稲作の普及者」「縄文とスサノオ・大国主建国は連続しており、弥生人征服はなかった」に力点を置くという違いはあったが、土台は共通の縄文認識であった。
世界最高レベルの縄文(新石器時代、土器時代)研究は、残念ながら「弥生人征服説」と「天皇建国説」によって分断され、中国・西洋文化崇拝の排外主義の歴史学者たちにより縄文時代は「原始時代」「未開時代」に押し込まれ、その文化・文明が現代に引き継がれているという視点は忘れられてきたことに対し、「縄文社会研究会」は民族、歴史、生活・文化、宗教、言語、生類意識などの連続性について縄文社会から現代人への連続性について分析を深めた。
縄文時代からスサノオ・大国主建国、さらには日本人の現代生活まで連続した内発的発展とみると、人類史全体に大きなインパクトを与えることができる。日本の優れた縄文研究は世界人類史全体の解明に大きな役割を果すべきであり、世界史の中での「縄文文化論」「縄文社会論」「縄文文明論」の確立を図り、「霊継(ひつぎ)=命のリレー」を大事にする生類共生社会への展望を示すべきと考える。
- ⑨ 琉球(龍宮(りゅうきゅう))からの海人(あま)族(天(あま)族)
縄文時代から海人族は琉球から南九州、さらには青森・北海道まで、貝とヒスイ・黒曜石などの交易を活発に行っており、大国主が越の沼河比売を訪ねて婚(よば)いした時の歌が古事記に記載されていることからみても、対馬暖流交易・交流は縄文時代から大国主の時代まで連続していると見るべきであろう。
壱岐の那賀(なか)を拠点とした天御中主(あめのみなかぬし)と産霊(むすひ)夫婦を始祖神とする壱岐・対馬の海人(あま)族(天(あま)族)のルーツは「アマミキヨ」を始祖とする琉球であり、奄美大島→天草・甘木→天久保→天ケ原(壱岐)へと海人(あま)族の移動と活発な交流・交易があったことを示している。
さらに、琉球弁が「あいういう」5母音であることを、地元のさいたま市中央区の沖縄出身の山田ちづ子さんの「カフェギャラリー南風」のイベントで出会った元高校国語教師の宮里政充さんに教わり、「あいういう」から「あいうえお」5母音への変遷を考慮に入れながら記紀・地名・方言分析を行う必要を感じた。
そして、柳田國男氏の『蝸牛考』や松本修氏の『全国マン・チン分布考』の方言が大和・京都から地方へ広がったとする「方言集圏論」を批判し、カタツムリ・女性器方言の北進・東進論としてまとめた。
この方言北進・東進論は、丸ノミ石斧・曽畑式土器の琉球から南・東九州への分布、薩摩半島阿多の笠沙天皇家2代目の山幸彦の龍宮(琉球)訪問と綿津見(わたつみ)神の娘の豊玉毘売(とよたまひめ)との婚姻と、その子の鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)(彦瀲(ひこなぎさ))と妹の玉依毘売(たまよりひめ)の婚姻とも符合し、縄文時代からスサノオ・大国主建国、笠沙天皇家までの海人族の対馬暖流移動・交易を裏付けた。
⑩ 縄文巨木列柱から出雲大社への連続性
「弥生人(朝鮮人・中国人)征服史観」「天族天皇家弥生人(朝鮮人・中国人)史観」の「縄文・弥生断絶史観」に立っているわが国の歴史家たちは、おそらく紀元2世紀当時は世界一の高さであった可能性の高い48mの出雲大社本殿について、何らの歴史的な位置づけもできていない。
ところが、縄文社会の自立的・内発的発展としてのスサノオ・大国主建国説に立つと、青森の三内丸山遺跡(5900~4200年前頃)の八甲田大岳とその手前の鉢森山の2つの二等辺三角形の神那霊山を向いた6本柱巨木建築や、諏訪の女神山である蓼科山を向いた阿久尻遺跡(6700~6450年前頃)の19の方形柱列建物と中ツ原遺跡(5000~4000年前頃)の8本柱巨木建築の技術・文化を引き継いだ高層楼観の宗教施設(神殿)として出雲大社は位置づけられるのである。
なお、私が大学で学んだ福山敏男さんらによる出雲大社復元では、出雲大社に伝わる金輪造営図の本殿前の「引橋長一町」を「きざはし(階)=階段」と誤って解釈したものであり、日本書紀に「汝(注:大国主)が住むべき天日隅宮は・・・・汝が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋及び天鳥船をまた造り供えよう」と書かれているとおりに、本殿から海岸へ続く100m長の木デッキ(高橋)と浮桟橋(浮橋)とするべきであり、縄文巨木建築から後の壱岐・原の辻遺跡や吉野ヶ里遺跡、邪馬壹国の楼観にまで引き継がれる「巨木神殿文明」を示している。
⑪ 信州でみた縄文からのスサノオ・大国主建国
全国各地の仕事では市町村史を必ず見てきたが、不思議だったのはどこにでも必ずある縄文・弥生遺跡の次は朝廷支配が及んできた記述となり、各地にあるスサノオ・大国主一族の神社が示す歴史についてほとんど触れていないことであった。祖先霊を祀る宗教施設であるスサノオ・大国主系の神社があり、しかもスサノオ・大国主に関わる伝説がある以上、スサノオ・大国主王朝の影響が及んだに違いないのであるが、大和中心・天皇中心史観の郷土史家たちは無視しているのである。
群馬県吉岡町には天皇家より古い八方墳(八角墳)があり、群馬・栃木には方墳が多く出雲の四隅突出型方墳の影響が伺われるが、地域の神社伝承や地名などとの関係は検討されていない。
そのような中で、縄文遺跡が濃厚に残り縄文の地域研究が最も進み、記紀に大国主の御子の建御名方が書かれ、建御名方を祀る諏訪大社と諏訪神社が濃厚に分布する長野県で、地域社会研究会、農学部OB会、縄文社会研究会(顧問の尾島敏雄早大名誉教授の尾島山荘で実施)の3つの合宿の機会に調査することができ、女神信仰の母系制社会、神名火山(神那霊山)信仰、巨木神殿(拝殿)建築、縄文農耕、出雲地名など、縄文社会から連続したスサノオ・大国主建国に多くの確証をえた。
以上、『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)』の執筆から、その後の縄文社会研究を含めてスサノオ・大国主建国論への私の取り組みの経過をざっとまとめた。
いろんな人や本との幸運な偶然の出会いにより、スサノオ・大国主建国を「建国前史」の日本列島人起源論、縄文宗教・文化・文明論や、更には「建国後史」の邪馬台国論、笠沙3代からの天皇家の歴史まで明らかにできた。
縄文社会から連続した海人族のスサノオ・大国主建国は、狩猟・遊牧民の侵略戦争型建国とは異なる歴史を示しており、人類史全体の解明に貢献することができると考える。戦争=人(霊人(ひと))殺しのない、生類の命を大事にする母系制社会の1万年の歴史から、生類共生社会の実現に向けて提案するとともに、その拠点として出雲大社を始めとするスサノオ・大国主一族の八百万神信仰の世界遺産登録を提案したいと考える。
□参考□
<本>
・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)
2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)
2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)
2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)
2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/
帆人の古代史メモ http://blog.livedoor.jp/hohito/
邪馬台国探偵団 http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/