ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート91 台湾・卑南族と夜這い・妻問夫招婚の「縄文1万年」

 人類の誕生から始まる「母系社会からの人類進化」のまとめに入りましたが、欠かせない未検討の小テーマがいくつかあり、妻問夫招婚や祖先霊祭祀、壻屋制と母系制・父系制との関係について2018年に書いた、「妻問夫招・夜這いの『縄文1万年』」(181201・30→190308、縄文ノート13)を一部加筆して再掲したいと思います。

 「多DNA民族でありながら、多部族社会とならずになぜ縄文社会は均一なのか?」「台湾の卑南(ひな)族と縄文の霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰や東南アジアのピー信仰、日本の女性器ピー・ヒナ信仰の関係は?」「卑南族の婿屋制度と日本の夜這い・妻問夫招婚の関係は?」など、縄文社会の解明にヒントを与えてくれます。

 卑南族に興味を持ったのは、私の苗字が「雛元」で、江戸時代中期からの墓は「日向」、提灯には「日南」と書き、「ひな」と称しており、明治になって本家であったため「日本(ひなもと)」と届けたところ勝手に「雛元」に変えられたということがあり、仕事先の青森県東北町で「日本中央」の石碑に出合い、西にそびえる八甲田山に「雛岳」があったことから「ひな=日=日向」の研究に入ったという経過があったからです。

 そこから、大国主を国譲りさせた高天原の「建比良鳥(たけひらとり)」が日本書紀では「武日照(たけひなてる)武夷鳥命天夷鳥命」と表記されていることから「日向=日=夷=比良」であり、イヤナミが葬られた場所の「黄泉比良坂」は「黄泉日向坂」で、武日照が住んでいた高天原は地名「筑紫日向(ひな)」から「旧甘木市蜷城(ひなしろ)の高台説」にたどり着きました。さらに記紀に書かれた始祖神の「むすひ=産霊=産日」の夫婦神、沖縄・天草で女性器を「ピー・ヒー」「ヒナ」と呼び、出雲で女性が妊娠すると「ひがとどまらしゃった」(出雲の級友・真庭氏からの教示)ということ、スサノオ・アマテルの「うけひ=受気比=受け霊」、神名火山(かんなびやま=神那霊山)、神籬(ひもろぎ=霊洩木)などから、「日=霊(ひ)」であり、「ひと・ひこ・ひめ・ひみこ」は「霊人・霊子・霊女・霊巫女(霊御子)」、皇位継承の「日継」や「棺・柩」は「霊継」であり、この国は霊(ひ:祖先霊)信仰であった、との結論に達したのです。

 以上のような経過があったことから、台湾の卑南(ひな)族に関心を持ったのですが、卑南族には卑弥呼(霊巫女)と同じような巫女制度があり、さらにスサノオ大国主一族の「夜這い」の「妻問夫招婚」を想定させる「婿屋制度」があり、祭祀=女性、政治=男性の役割分担があったのです。

 「母系・父系制」「母権・父権制」検討の参考になると思いますのでここに紹介します。

 

1.「縄文社会」の均一性

 土器文化(縄文様式など)と煮炊き食、竪穴式住居、言語、宗教(土偶・石棒・ストーンサークル)などからみて、縄文社会はかなり均質であったと考えられます。

 私は2000年に「ひな」の研究を始めた時から、台湾の卑南族(現地ではピュマ、漢語読みではヒナ・ピナ)族に関心を持ってきましたが、台湾の山岳部や東部に住む原住民は12以上の「族群」に分かれ、文化・言語を別にし、勇敢で戦闘的であり、それぞれ独立性を保っていたのに対し、わが国の縄文社会は均一性という点で大きな違いがあることをどう理解すればいいか考えてきました。

 縄文社会は多様なDNAの部族から構成されながらも、活発に交流(妻問・夫招婚を含む)・交易・外交(言向和平)する社会であったことが、均一社会を生み出したと考えています。

 

2.卑南族の文化

 最近ではネットで卑南族について判るようになってきましたので、横道に逸れますが、卑南族についてメモしておきます。

 卑南族の言語は「主語―動詞―目的語」構造でわが国とは異なりますが、「原住民の祭礼・祭祀に欠かせない祖霊部屋は巫女信仰のアニミズム」「豊年祭 - 粟の収穫を祈願する祭祀; 収穫祭 - 粟の収穫を感謝する祭祀; 大狩猟祭」「祖霊部屋(巫師部屋)、少年会所、青年(男子)会所」「頭目制度と男子会所による年齢階級組織が混在した母系社会」などは、縄文社会分析のヒントになると考えます。ーhttp://okinawa.ave2.jp/okinawa/masat/1211Taiwan/007Chihpen/007Chihpen.html、沖縄写真通信)参照

 いずれ、関係者にヒアリングしてみたいと考えています。

 

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3.「縄文人」の定住性と移動性

 全国各地の市町村総合計画(5年の基本計画、10年の基本構想)に携わってきましたが、その時、まちづくり・村おこしの地域資源として歴史文化の調査は欠かせませんでした。そこで疑問に思ったのは黒曜石などの鏃が畑からいたるところで数多く出てくることと、居住跡が実に多いことでどれだけの戸数・人口であったのか、驚かされることです。

 単に野原や山で猪や鹿を追ったのなら、鏃分布はもっと拡散して目立たないはずです。今の畑から数多く発見されるということは、当時すでに何らかの栽培が行われており、猪や鹿、鳥などの獣害・鳥害を防ぐために、その近辺で集中的に矢を射たからではないか、と考えます。

 そのことに気付いたきっかけは、対馬や父の故郷の岡山県井原市で鳥害を避けるために畑を金網で全面的に四角く覆っているのを見たことによります。

 

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 思い出されるのは、今から70年近く前、山村の父の実家で囲炉裏を囲んで獣害が話題となった時、祖父が「そろそろ猟師に使いを出せや」と叔父に害獣駆逐を指示していたことです。猟師(山人;やまと)がいないと栽培農業は成立しなかったのです。

 また信州の八ヶ岳黒姫山山麓や上州の榛名・赤城山麓や片品川山間部、岩手県の沿岸部、中国・四国地方などで見た居住跡の多さは、「妻問・夫招婚社会」では男子は家を出、家を継承する長女以外の女子もまた家を出て男を迎えるため、住居跡が増えた可能性を示しています。

 狩りの危険が少なく、豊かな安定した煮炊き食により長寿化が進み、自由時間が増えると多産となり、家を出る男子数は増え、同時に、長女以外の女子は家を建ててもらい、男を迎える社会となり、住居址が分散して数多く増えた可能性です。

 片倉佳史著の『観光コースではない台湾』では、台湾には成人になると女子は家を建ててもらい、男を迎えるという「族群」があると書かれています。また、魏書東夷伝高句麗条でも「その風俗では、婚姻する時、話が決まると、女の家では母屋の後ろに小屋を作る。これを壻屋と言っている。婿は日が暮れると娘の家へ行き、戸外で名を名乗り、跪いて拝み、娘と一緒に泊まらせてくれるように頼む。これを再三くりかえす。娘の父母はこれを聞き入れて、小屋の中に泊まらせる。かたわらに銭と布地を積む。生まれた子が成長してから、妻を連れて家に帰る。」と書かれているのも「妻問・夫招婚」と考えられます。

 同様の習慣から「妻問・夫招婚」の縄文社会が婿屋を含む多数の分散型居住となった可能性が考えられます。

 

 「『ケタガラン』とは、かつて台北盆地に住んでいた人々のことで、平埔(へいほ)族の1部族である。」「彼らはマレー・ポリネシア系の南方アジア人種で、血統的には他の先住民族と同系であった」

「ケタガラン族が母系制社会だったことである。特に結婚の風習が独特だった。彼らは娘が年頃を迎えると小屋を与える習慣があったという。そして、祭事の時など、女は気に入った相手にめぐり逢うと、男の手を引いて自分の小屋へ迎え入れたのだという。これが求婚となる。」(片倉佳史著『観光コースではない台湾』)

 

4.1960年代にも残っていた「夜這い」習慣と「婿屋制度」

 1963年におきた狭山事件でびっくりしたのは、首都圏近郊の埼玉県狭山市で夜這い習慣が残っていたことが中学校教師の話として週刊誌に書かれ、証言にも見られたことです。また、1961年の大量殺人事件「名張毒ぶどう酒事件」においても事件のあった地区では当時「夜這い」の風習があり、25戸の農家のうち7組までが何らかの三角関係にあり、犯人とされ無罪を訴えている奥西勝さんには夜這いをする愛人が複数人おり、死亡した妻や愛人にも夜這いをしてくる別の男性がいたとの報道もありました。私の父の実家でも毎夜、夜這いをしていた男性が殺されたという話を聞いています。

 古事記には大国主が沼川比売(ぬなかわひめ)に妻問いした時の歌が書かれていますが、大国主が「用婆比(よばい)」に来たと2度も歌われており、大国主の頃から、妻問い=夜這いの習慣が高度成長期まで続いていたことが明らかです。

 大国主が夜這いした時、沼川比売は実家で両親と暮らしていたのではなく、台湾の原住民の「婿屋制度」のように、夫を迎える小屋があった可能性もあります。縄文の竪穴式住居跡の数が多いという点について、「住み替えをよく行った」「死者がでるとその家は潰した」などが考えられますが、「婿屋制度」の可能性がないか、と考えます。

 

5.「妻問・夫招婚」が縄文均一社会を生み出した

 台湾に福建省南部から台湾海峡を流れる黒潮を越えてやってきた人々の多くは男性単身で、西部・北部の平野部の「平埔(へいほ)族」と混血し、文化的に融合して「ホーロー人」と呼ばれ、「ホーロー語」が台湾では多数派を占めているとされています。「ホーロー」は「河洛」と書かれていますが、「放浪」ではないかと思います。

 家族・部族単位の移住ではなく、男子がグループで少しずつ日本列島に移住し、妻問・夫招婚を繰り返すと、「ホーロー人」と同じように言語・文化を共通にするようになり、さらに活発に交流・交易を重ねると、「縄文人」という言語・文化を同じくする社会が成立した可能性は高いと考えられます。

 カヌーやヨットでの日本一周の航海記を読むと、琉球から日本海にかけては北上する対馬暖流(琉球暖流と呼ぶべきと考えます)があり、夏には風がなくてカヌーは快適で沿岸部の西流する反流を利用でき、ヨットは機走を余儀なくされています。夏の日本海は風もなく実に穏やかで、私がかつて仕事をしたことのある山口県長門市の仙崎、福井の三国湊など、、北海道・大坂を往来した北前船は風待ちを余儀なくされています。

 さらに、春から夏にかけては「南風(しろばえ)」が吹いて琉球から九州への渡海を容易にし、秋から冬の大陸からの北西風は九州から琉球朝鮮半島から日本列島への渡海を容易にします。

 この恵まれた海流・気象条件のもとで、交流(移住・婚姻を含む)・交易の活発な「多DNA・文化共同体」の1万年の縄文社会、土鍋食文化の文明社会が成立したと考えます。

 

6.「生活手段母系、生産手段父系」説などの検証

 『季刊日本主義』44号の「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(原題「未来を照らす海人(あま)族の『海洋交易民文明』―『農耕民史観』『遊牧民史観』から、『海洋交易民史観』へ」)において、私は「生活手段母系、生産手段父系」の母父系社会説を提案しましたが、台湾の「族群」には母系制と父系性がそれぞれ残っているというので、両者の歴史の違いを調べるとその違いの経済的・社会的・歴史的背景が解明できると考えます。

 「母系制・父系制か母権制父権制か」「母系制か父系制か」「母権制父権制か」という二者択一の議論を農耕畜産民・遊牧民の視点からだけ見るの西欧中心史観ではなく、採集漁撈狩猟民や海洋交易民の社会的分業に基づく分析や多様な生産・生活関係の歴史的変遷にもとづく分析が必要と考えます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/