ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート67 海人(あま)か山人(やまと)か?

 琉球を起点として対馬壱岐に本拠地を移し、出雲を拠点として百余国の「委奴(いな)国」を建国した海人(あま)族のスサノオ大国主建国論から私は縄文社会論に入り、「縄文人=海人族説」で縄文人の起源や文化・文明を追究してきました。―「『古事記』が指し示すスサノオ大国主建国王朝(2012夏)」参照

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 ところが、インド東部・東南アジア・雲南山岳地帯のピー(ひ=霊)信仰、神山天神信仰、赤米・赤飯・サトイモ神事、寒さに強い温帯ジャポニオカの起源、日本人固有のY染色体D型の分布、照葉樹林文化(根栽類の水さらし利用、絹、焼畑農業陸稲の栽培、モチ食、麹酒、納豆など発酵食品、鵜飼い、漆器製作、歌垣、お歯黒、入れ墨、家屋の構造、服飾)(ウィキペディア要約)などから、ドラヴィダ系山人(やまと)族の遺伝的・文化的影響も大きいと考えるようになり、ドラヴィダ系海人・山人族が共同して日本列島に「海の道」をやってきたと考えるようになりました。

 また、バイカル湖畔のブリヤート人Y染色体D型であることから、チベットからバイカル湖畔、シベリアを経て北海道に移住したドラヴィダ系山人族がおり、ドラヴィダ系海人・山人族と日本列島で劇的に再会したと考えるに至りました。

 魏書東夷伝倭人条に出て来る「邪馬壹国」を「邪馬台国=ヤマト国」とする説や、記紀神話天皇家のルーツを「海幸彦と山幸彦」とする記紀、「おおわ=大倭=大和」を「やまと」と呼ばせた天皇家、特攻戦艦「大和」と「宇宙戦艦ヤマト」人気など、日本人は「やまと」の響きが好きなようですが、ここで「やまと」のルーツを整理しておきたいと考えます。

 

1.古事記の海幸彦と山幸彦

 古事記薩摩半島南西端の笠沙(阿多)の笠沙天皇家3代(ニニギ・ホオリ・ウガヤフキアエズ)のうちの、ホオリ(火遠理)とホデリ(火照)兄弟について、次のように書いています。

 

 火照命者、爲海佐知毘古、下效此而、取鰭廣物・鰭狹物、火遠理命者、爲山佐知毘古而、取毛麤物・毛柔物

 (火照命(ほでりのみこと)は、海佐知毘古と為(し)て、鰭(はた)の広物(ひろもの)・鰭(はた)の狭物(せばもの)を取り、火遠理命(ほをりのみこと)は、山佐知毘古(やまさちびこ)と為(し)て、毛の麁物(あらもの:荒らもの)・毛の柔物(にこもの)を取りき)

 

 そして、ホデリ(火照)の末裔が、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住した隼人とし、ホオリは龍宮(琉球)に出かけ、海神の助けにより釣り針を手に入れ、海神の子の豊玉毘売(とよたまひめ)を妻として帰り、トヨタマヒメが海辺の産小屋で鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)を産み、鰐(わに)であったのを見られて海神の国に帰ったとしています。

 なお、日本書紀トヨタマヒメを鰐ではなく龍としていますから、日本書紀は海神の宮を龍宮(りゅうぐう=りゅうきゅう)とみていることが明らかです。

 この「山幸彦・海幸彦神話」は、海の底の架空の竜宮城神話ではなく、百余国の委奴国から九州30国が分離独立した「倭国大乱」で、新羅からの鉄の入手を断たれた薩摩半島南端の山人族が、琉球から中国ルートの鉄を求めた歴史を伝えていると私は考えます。

 

2.山幸彦=山人、海幸彦=隼人=海人

 私は『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』において次のように書きました。長くなりますが引用しておきます。

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 この「ヤマト」の国名については、①邪馬臺国の国名からとった、②地名からとった、の二説があり、それぞれ、邪馬臺国九州説、邪馬臺国畿内説で分かれているが、次のような問題点を抱えている。

 ① 邪馬臺国国名説:「邪馬臺」は当時の中国音では「やまだい」「やまだ」であり、「ヤマト」とは呼べない。また、天皇家が偉大な邪馬臺国の後継者であるなら、そのルーツを隠す必要がない。

 ② 山門・大和地名説:記紀万葉集などの漢字表記である「夜麻登」「山跡」など乙類の「ト」を使う古い地名が、大和にも九州にもない。

 すでに述べたように、「霊(ひ)」から「霊人(ひと)」=「人(ひと)」が生まれたという角林説からみて、私は、「ヤマト」は邪馬臺国の国名や地名ではなく、「山人(ヤマト)」という部族名からとったものである、と考える。

 広辞苑を引いてみよう。「山人」は「①(関西・四国地方で)山で働く人。きこり。②(九州地方で)狩人」とされている。

 記紀はニニギの子どもの「海幸彦(長男の火照(ほでり)命:漁夫)」と「山幸彦(三男の火遠(ほおり)命:狩人)」の物語を伝えている。兄の釣り針を失った山幸彦は、海神の助けをえて海幸彦を懲らしめるという物語が載せられており、日本書紀はこの海幸彦が「隼人(はやと)」の祖先であり、「山幸彦」(火遠(ほおり)命:ホホデミ命)が天皇家の祖先であるとしている。この神話によれば、「山幸彦」はまさに「山人(やまと)」である。

 熊本の天草の牛深市には阿波踊り佐渡おけさなどのルーツである有名な「ハイヤ節」があるが、この「ハイ」は「ハエ(南風)」からきているとされている。沖縄でも「はえ」は南風である。

 「隼人」はこの「ハイ、ハエ」からきており、「ハイト、ハエト」が「ハヤト」になり、「ハヤト」は「南風に乗ってきた海人」という意味と考えられる。

 「海幸彦」が「ハヤト(南風人)」=「隼人(はやと)」なら、「山幸彦」は「ヤマト」=「山人」と対にならざるをえない。

 記紀が「海幸彦(漁夫)」と「山幸彦(狩人)」の兄弟の物語の大きく取り上げた理由は、「ヤマト(山人=山幸彦)」という天皇家のルーツに関わるからであったからと考えられる。

 記紀は、ニニギ→「山幸彦(火遠命)」→「ウガヤフキアエズ命」→「若御毛沼(わかみけぬ)命」の物語により、天皇家のルーツが薩摩南部の「山人(ヤマト)族」であることを、神話仕立てでありのままに述べている。

 なお、釣り針を無くした兄弟の神話は、東南アジアの各地に残されていることが研究者によって明らかにされており、天皇家の祖先は薩摩半島で南方系の伝説を継承した部族であることを示している。

 このような物語は、奈良盆地の部族や朝鮮半島から移住した騎馬民族に伝わることはありない。記紀神話天皇家のルーツが薩摩(魏志倭人伝の投馬(つま)国)であるという真実を伝えている。

 

 なお、笠沙天皇家3代目の「ウガヤフキアエズ命」の妻はトヨタマヒメの妹の玉依毘売(たまよりひめ)であり、その子の若御毛沼(わかみけぬ)命は初代天皇で8世紀に「神武天皇」の諡号(死号)を付けられますが、その母と祖母は琉球の姉妹になります。―「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(季刊日本主義43号2018秋)参照

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 天皇家に見られる殯(もがり)は沖縄・奄美に見られる風葬・洗骨の風習を受け継いでいると考えられます。また女性器を「ひな」というのは、沖縄の先島諸島八重山諸島宮古列島)や奄美の「ぴー(ひー)」や天草の「ひな」を受け継ぎ、琉球弁の「あいういう」3母音の「はひふひふ」から「ひ=へ」であり、「へ」系統の女性器名も沖縄をルーツとしていることが明らかであり、天皇家のルーツに繋がります。―「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号2018年冬)参照

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3.山幸彦・海幸彦神話が示す「縄文人ドラヴィダ系海人・山人族」説

 釣り針をめぐる山幸彦・海幸彦の争いは、インドネシアのケイ族の兄のヒアンから借りた釣針を弟のパルバラが釣りをしていて失い魚の協力で見つけ出して返す話やセレベス島の友達の釣り針を失くして海の中に捜しにいく神話、パラオ島真珠貝で作った釣り針を失って海の底に捜しに行く伝承との類似性があげられています。―https://nihonsinwa.com/column/novel/11.html

 記紀神話ギリシア神話や東南アジア神話をもとに全てを8世紀に創作されたとする「日本神話創作史観」に対し、私は「神話的表現史実史観」に立っており、「史聖・司馬遷」に対し、古事記を書いた太安万侶は日本の史聖と考えており、天武朝の最高の史家として、スサノオ大国主王朝の歴史に笠沙天皇家の歴史を統合し、荒唐無稽な神話形式で密かに真実の歴史を伝えたと考えています。

 例えば、イヤナミ(伊邪那美・伊耶那美:通説はイザナミ読み)は出雲の比良坂(伊賦夜坂=揖屋坂)に葬られ、夫のイヤナギ(伊邪那岐・伊耶那岐:通説はイザナギ)は筑紫に移動し、「筑紫日向(ひな)橘小門阿波岐原」で禊を行って、綿津見3兄弟・筒之男3兄弟とアマテル・月読・スサノオ姉弟を生んだ(失際には筑紫各地で妻問)とされていますが、そのすぐ後で、スサノオは髭が胸の先まで生えても「僕は亡き母の国、根の堅州国に罷らむと欲す」と泣きわめいたと書き、スサノオをダメ男に低めながら、スサノオが出雲でイヤナミから生まれた長兄であることを秘かに伝えているのです。そして、スサノオはイヤナギから「海原を知らせ」と海人族の後継者として命じられながら、その役割を果たさず、追放されたとしているのです。―「スサノオ大国主建国論2 『八百万の神々』の時代」(『季刊山陰』39号)参照

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 壬申の乱大海人皇子(後の天武天皇)の側で大活躍した太品治の一族(子の可能性あり)の太安万侶は、天皇家のために「ダメ男・スサノオ」の物語を入れてカモフラージュしながら、スサノオこそが綿津見3兄弟(金印が発見された志賀島を本拠地とした安曇族)・筒之男3兄弟(住吉族)・月読(壱岐を拠点とし暦作成を担う)・宗像族(宗像3女神をもうける)らを従えた百余国の「委奴(いな)国王」であり、日本書紀もまた、スサノオが子の五十猛(イタケル=委武)とともに、新羅に赴いた航海王・交易王であることを伝えているのです。―「スサノオ大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)参照

 これは一例ですが、史聖・太安万侶が「山幸彦・海幸彦」兄弟の鉄の釣り針を巡る兄弟争いと龍宮訪問神話を書いたのは、彼らのルーツが琉球を経由したドラヴィダ系海人・山人族であるという伝承を伝えるとともに、倭国大乱で筑紫から薩摩半島西南端へ追われた山人族のニニギ一族が、琉球から鉄を入手して武装し、弓矢と槍が得意な山人族と航海が得意な海人の隼人族による「神武東征」(実際は傭兵部隊として阿多→日向(宮崎)→宇佐→筑紫→安芸→吉備→大和(おおわ)へ16年かけての移動)を伝えるためであったと考えます。

 また、初代天皇のワカミケヌを「若美食奴」などとせず「若御毛沼」と書き、祖母と母が龍宮の姉妹としたのは、天皇家が毛の濃い琉球系の縄文人であることをはっきりと示しています。

 私は史聖・太安万侶が書き伝えた「古事記」は、縄文人がドラヴィダ系海人・山人族であることを証明していると考えます。

 

4.「海の一大国(いのおおくに)」対「山の壹国(いのくに)=邪馬壹国」

 魏書東夷伝倭人条は、古事記では古くは「天比登都柱(あめのひとちはしら:天一柱)」と呼ばれていた壱岐を「一大国(いのおおくに)」と書き、「山島によりて国邑(むら)をなす」と書かれた「山」の筑紫の卑弥呼の国を「邪馬壹国=山の壹国(いのくに)」と書き、「海の一大国(いのおおくに)」と「山の壹国(いのくに)」を対照的に伝えています。

 この記述から、ドラヴィダ系海人・山人族は九州に来てから、海人族(天族)は壱岐対馬を拠点とし、山人族は筑紫の山岳地帯へ移住したと考えられます。

 海の海人族(天族)は「乗船南北市糴(してき)」していたと書かれ、「糴(てき)」=「入+米+羽+隹(とり)」ですから、彼らは鳥が羽を広げたような帆船を自在に操りて、韓国の市で米鉄交易を行っていたことを示しています。

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 Y染色体ミトコンドリアDNA分析が進んだ今こそ、「海・舟・魚が嫌い」という「ウォークマン史観」(トボトボ史観)の空想から離れ、「縄文人北方起源説」を清算すべき時です。

 

5.記紀神話分析を科学的な文献分析レベルに!

 初期マルクスの思想的先行者であるヘーゲル左派のブルーノ・バウアー(1809~1882年)などの無神論者によるキリスト創作説(キリスト非実在説)について、津田左右吉氏(1873~1961年)が影響を受けたのかどうかは確かめていませんが、津田氏の記紀神話を「神代の物語などの如く、一見して事実の記録と考えられぬもの」とし「歴史的事実に関する資料ではないが、文芸史、思想史の貴重な資料」(『古事記及び日本書紀の研究』)とみなしましたが、キリスト創作説と同じです。

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 キリストが行った数々の奇跡からの聖書批判と同じように、記紀の不合理な記載を表面的にピックアップすれば、「記紀神話から神武天皇欠史八代から第14代仲哀天皇とその后の神功皇后まで、つまり第15代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて、史実としての資料的価値は全くないとした」(ウィキペディア)という津田氏の短絡的な判断は容易にでてきます。

 津田氏は不合理極まりないギリシア神話をもとにハインリヒ・シュリーマンなどがトロイ遺跡を発掘(1870~1894年)した同時代人であったにもかかわらず、日本神話を物語としてしか分析できなかった「文献分析」の誤りは、未だに日本の古代史分析をシュリーマン以前の神話分析に停滞させていると言わざるをえません。

 私は記紀・魏書東夷伝倭人条から、スサノオ大国主卑弥呼などの墓を発掘してみせる歴史家が現れない限り、「日本の古代史家はシュリーマン・レベル以下」と考えます。

 津田氏が「現人神(あらひとがみ)の国」天皇専制支配の弾圧を恐れることなく記紀分析を行ったことは高く評価されるべきと思いますが、太安万侶を矛盾だらけの記述を行う能力の低い天皇家の御用学者であるかのように貶め、スサノオ大国主一族の建国史を抹殺したのは、「机の上の近代合理主義者」の限界であり、暴挙であると考えます。

 その結果、縄文時代スサノオ大国主建国の連続した文化・文明は断ち切られてしまい、縄文文明研究を「ただもの(唯物)史観」の土器研究などに押し込め、縄文社会・文化・文明の全体的な解明の道を閉ざし、ひいては世界の共同体文明の解明に果たすべき役割も放棄してしまったのです。5世紀以前の日本は歴史・文化なき未開・野蛮の国とされてしまったのです。

 これまで「古事記論」についてはFC2ブログ「霊(ひ)の国の古事記論」などで書いてきましたが、「史聖・太安万侶論」を書きたくなってきています。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(『季刊 日本主義』45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/