ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート42(Ⅳ-3~38) 日本語起源論抜粋

 子どもの頃,、母親の田舎に行くとはとこ(又従兄弟)たちと和舟を借りて釣りを行い、大人になってからはカヌーや小型ヨットで遊んでいた私は、井上靖の『敦煌」などを読んで憧れた大草原の騎馬民族の記憶と、黒潮に乗ってやってきた海人族の記憶のどちらがDNAの中に色濃く残っているのか、中学生の頃からずっと考え続けてきました。昔からかなり変な子どもであったのです。

 2009年に『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』をまとめ、彼らのルーツが対馬壱岐の海人族であることを確信し、さらに2014年には『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)をまとめましたが、邪馬台国論争で古田武彦氏の論敵であった安本美典氏の『新説!日本人と日本語の起源』から「主語―動詞-目的語」言語族の分布を知り、氏の北方系説とは逆に、私は「海の道」ルート説を考えるようになりました。

 「言語だけが、南インドから北インドなどを飛び越えて、日本に飛んでくるはずがない。大野晋氏の説はまったく空想的な『トンデモ説』である」と安本氏は大野説を批判していますが、私にとっては安本氏こそ海や舟・筏などを知らない「ウォークマン史観の空想的なトンデモ説」でしかありませんでした。安本氏とは岡山で同郷ですが、瀬戸内海の海の民のことを知らないようです。私の叔母の夫は笠岡市の飛島(ひしま)の機帆船の「一杯船主」の海人であり、たつの市の私の母方の祖母の代まで、代々、女性たちは御座船で大阪の住吉大社に仕えており、瀬戸内海では舟が重要な交通手段であったのです。

 国際縄文学協会の「原発国民投票と縄文」という不思議な2本立ての講演会があり、前者が目的で聞きにいったのですが、後者の講師が大学の先輩の上田篤氏であったことから縄文社会研究に入るようになり、鳥浜遺跡や三内丸山遺跡の南方系のヒョウタンやウリなどがどこから誰によって運ばれてきたのかに関心を持ち、「海の道」を通って「主語―動詞-目的語」言語の海人族によって日本列島に運ばれたとの結論に達しました。そして、2017冬の『季刊 日本主義』40号に「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」を、2018年夏の『季刊 日本主義』42号には「言語構造から見た日本民族の起源」を発表しました。

 さらに、昨年夏の縄文社会研究会・東京の合宿を機に、農耕・食・神・霊(ひ)などの「希少性・固有性・継承性」のある言葉で倭音倭語とドラヴィダ語(タミル語)が一致しており、大野氏の言語比較の方法論こそ科学的であることを明らかにしました。

 重複していて恐縮ですが、すでに縄文農耕論や宗教論などでバラバラと書いてきた言語分析の部分だけをピックアップし、ここに紹介したいと思います。 雛元昌弘

  

Ⅳ 日本語起源論抜粋の構成>
1 「主語―動詞-目的語」言語族の移動論 

 1-1 縄文ノート25 「人類の旅」と「縄文農耕」、「3大穀物単一起源説」

2 倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3重構造論

 2-1 縄文ノート26 縄文農耕についての補足   

 2-2 縄文ノート36 火焔型土器から「龍紋土器」へ

 3-3 縄文ノート37 「神」についての考察

 2-4 資料28  赤目砂鉄と高師小僧とスサ

3 ドラヴィダ語(タミル語)起源説

 3-1 縄文ノート28 ドラヴィダ系海人・山人族による日本列島稲作起源論

 3-2 縄文ノート29 「吹きこぼれ」と「お焦げ」からの縄文農耕論

 3-3 縄文ノート37 「神」についての考察

 3-4 縄文ノート38 「霊(ひ)」とタミル語pee(ピー)とタイのピー信仰

 3-5 縄文ノート40 信州の神名火山(神那霊山)と「霊(ひ)」信仰

4 倭流漢字用法(倭音倭語)説

 4-1 縄文ノート32 縄文の「女神信仰」考

5 まとめ

 5-1 縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

1 「主語―動詞-目的語」言語族の移動論 

1-1 縄文ノート25 「人類の旅」と「縄文農耕」、「3大穀物単一起源説」

 中国・東南アジア諸国の「主語―動詞-目的語」言語構造ではなく、「主語-目的語―動詞」言語構造のギニア周辺・エチオピア・インド・チベットブータン・ネパール・ミャンマー・日本・韓国朝鮮と続いていることからみて、1万年の縄文人は倭音倭語を話しており、少数の中国の海人族が漁に出て漂着してきたか、あるいは戦乱から逃れてやってきて呉音・漢音の漢語を持ち込みながら縄文人に同化したと考えます。

     f:id:hinafkin:20210112103758j:plain

2 倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3重構造論 

2-1 縄文ノート26 縄文農耕についての補足

① 日本語は「倭音倭語-呉音漢語-漢音漢語」の3重構造であり、6穀の「倭名」は次表のように、呉音・漢音とは異なっており、「主語―目的語―動詞」言語の南インドミャンマーから竹筏などにより直接的に「海の道」をヒョウタンに入れられて伝播した可能性が高いことを示しています。

        f:id:hinafkin:20210112103843j:plain

 なお、農耕民族系(殷・燕系)、騎馬民族系(扶余)が征服する以前の南朝鮮の韓国、辰国(しんこく)、濊(わい)国の言語については古い文献で確かめることができませんが、残存する可能性の高い民俗関係に倭音倭語との共通性は見られません。

 

        6穀の「倭語(和語)」と「漢語(漢音・呉音)」

f:id:hinafkin:20201215122040p:plain

② 古事記では、国生み神話に「淡道」「粟国」「小豆嶋」「吉備児嶋」が登場し、五穀の誕生として、スサノオが大気津比売を殺したところ、目から稻種、耳から粟、鼻から小豆、陰(ほと)から麦、尻から大豆が生まれ、神産巣日(神産霊:かみむすひ)の御祖(みおや)がこれを取らせて種としたとしています。

③ 「稗」については、古事記では、帝紀・本辞(旧辞)を読んだ稗田阿禮と、スサノオの子の大年(大物主)の子の大山咋(おおやまくい)が「日枝山」(比叡山)に祀られたとしており、日本書紀の一書はスサノオではなく月夜見が保食神を殺して「額上に粟、眉上に蚕、眼中に稗、腹中に稻、陰に生麦と大小豆」としています。

④ 「黍」については、記紀ともにスサノオ・月読の「5穀起源談」に登場しませんが、イヤナギ・イヤナミの国生み神話に「吉備」が登場することからみて、起源はさらに古いと考えられます。

 2-2 縄文ノート36 火焔型土器から「龍紋土器」へ

② 「蛇」と「龍」は、米などの「5穀名」や「神」などの名詞と同じく、和音・呉音・漢音の3重構造になっており、中国から呉音・漢音が伝わる以前に蛇(へび、み)、龍(たつ)の倭音・倭語があり、続いて紀元前3世紀頃に呉音「ジャ、タ」「リュウ」、さらに委奴国王(筆者説はスサノオ)が後漢卑弥呼(同・大国主筑紫王朝11代目)が魏へ使者を送るようになった紀元1~3世紀頃に漢音「シャ、タ」「リョウ」が伝わった可能性が高いと考えます。

③ ちなみに、鰐(わに)、鮫(さめ)、蜴(とかげ:蜥蜴)には和音の呼び名しか通用しておらず、中国語との交流が始まる以前から、日本列島に南方から持ち込まれた呼び名の可能性が高いと考えます。

  

f:id:hinafkin:20201231153009j:plain

 

3-3 縄文ノート37 「神」についての考察

3 柳田圀男氏の「神=祖霊説」について

① 「神」の定義について柳田圀男氏は「祖霊」と定義しており、意味としては正しい解釈と考えます。しかしながら、倭音倭語で「霊(ひ)」はなく、「それい」と漢音漢語で定義すべきではなかったと考えます。

 「霊」は漢音の「レイ」ではなく倭音倭語で「ひ」と読み、祖霊を使うなら「おやのひ」と読むべきです。そうして始めて「霊継(ひつぎ・柩・棺)」「宇気比(受け霊=スサノオとアマテルの受け霊による後継者争い)」や「神奈火山(神那霊山)」「神籬(霊洩木)」の意味や、さらには新井白石説の「人(霊人)」「彦(霊子)」「姫(霊女)」「卑弥呼(霊御子)」などの意味が明らかとなるからです。

 呉音・漢音の漢語が伝わるより倭音倭語が古いという「日本語3重構造」をふまえ、柳田氏は倭音倭語で分析を始めるべきでした。 

 

f:id:hinafkin:20210105114550j:plain

 ② 魏書東夷伝倭人条は「卑弥呼」の宗教を「鬼道」としていますが、「卑」字を漢字分解すると「甶(頭蓋骨)+寸」で祖先霊が宿る頭蓋骨を手で支える字になり、「鬼」字を漢字分解すると「甶(頭蓋骨)+人+ム」で頭蓋骨を人が支え、座った人(ム)が拝むという字になることから、いずれも祖先霊を祀る「霊(ひ)宗教」となります。

 なお、「姓名」の「姓」が「女+生」であり、「魏」字が「禾+女+鬼(祖先霊に女性が稲を捧げる)」であり、周を理想とした孔子の「男尊女卑」は「女が甶(頭蓋骨)を掲げ(寸)、それに男は酒(尊は酋=酒樽)を捧げる(寸)」という宗教上の役割分担を表しており、春秋戦国の争乱などで女奴隷が生まれる前の姫氏の周は母系制社会であったことを示しており、姫氏の分家の魏は女王国・卑弥呼に対し「金印紫綬」という格段の扱いをしたと考えられます。

 

2-4 資料28  赤目砂鉄と高師小僧とスサ

 そこで金属・金属器の倭音・呉音・漢音を調べてみると、金属名と金属器名の全てに倭音倭語があり、借用読みとしては「金・銅・鋼・刀」は呉音・漢音、「鉄・剣」が漢音、「鏡」が呉音で、「鑪(たたら)」や元々石製・木製であった日常生活用具や武器の「槍・鉾・鏃」などには呉音・漢音が借用されていません。

         f:id:hinafkin:20210228054954j:plain

 「かね(金)」から「あかがね(銅)・くろがね(鉄)・はがね(鋼)」の倭音倭語が生まれた可能性が高いことからみて、江南の呉や河北の漢から「呉音・漢音」読みの金属や金属器が伝わる以前に、わが国には金属の「かね」の倭音倭語があり、さらに道具・武器類の倭音倭語もあったことが明らかです。

 この倭音倭語のルーツは「縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源」「縄文ノート38 『霊(ひ)』とタミル語『pee(ぴー)』とタイ『ピー信仰』」などでみたように、ドラヴィダ海人・山人族の可能性が高いと考えます。これらの倭音倭語は、インド東部・東南アジア高地から「海の道」ルートを通り、わが国に旧石器時代縄文時代に何次かに分けて到達し、その後に江南から直接九州に呉音漢語とともに製鉄技術が伝達された可能性が高く、浙江省から紀元前210年に出港した徐福などもその有力な候補として考えられます。

 

3 ドラヴィダ語(タミル語)起源説

3-1 縄文ノート28 ドラヴィダ系海人・山人族による日本列島稲作起源論

 下表に明らかなように、畑作・稲作・食事関係のタミル語(ドラヴィダ語:アーリア人に支配されたインドの原住民の言語)と日本語は符合しており、ブータンなど東インドミャンマー高地にはインダス文明を作り上げたドラヴィダ族が支配を嫌い、自立を求めて移住した可能性が高いのです。 

  f:id:hinafkin:20210227215823j:plain

3-2 縄文ノート29 「吹きこぼれ」と「お焦げ」からの縄文農耕論 

1.「縄文土器鍋隠し」の考古学

 「縄文ノート41  日本語起源論からみた日本列島人起源 」で紹介しましたが、大野晋氏は『日本語とタミル語』の冒頭で南インドに始めて調査に出かけた時の1月15日の「ポンガル」の祭りを体験した時の劇的な出会いを紹介しています。2つの土鍋に牛乳を入れ泡が土鍋からあふれ出ると村人たちが一斉に「ポンガロー、ポンガロー」と叫び、一方の土鍋には粟と米(昔は赤米)と砂糖とナッツ、もう一方の土鍋には米と塩を入れて炊き、カラスを呼んで与えるというのです。日本でも青森・秋田・茨城・新潟・長野に小正月(1月15日)にカラスに餅や米、大豆の皮や蕎麦の殻、酒かすなどを与える行事が残り、「ホンガ ホンガ」「ホンガラ ホンガラ」と唱えながら撒くというのです。「ホ」は古くは「ポ」と発音されることは、沖縄の「は行」が「ぱ行」となる方言に残っていますから「ポンガ=ホンガ」であり、なんと、インド原住民のドラヴィダ族の小正月の「ポンガ」の祭りが日本にまで伝わっているのです。縄文土器の縁飾りはこの「泡立ち=ポンガル」を表現しているのではないかと考えますが、別の機会に詳述したいと考えます。

 さらに次の表のように、泡や粟、お焦げ、鍋、土鍋の名称は呉音・漢音漢語よりタミル語(ドラヴィダ語の一部)の発音に類似性があり、「縄文ノート28 ドラヴィダ系山人・海人族による稲作起源説」で掲載した農業・食物語の比較と同じ傾向を示しています。

f:id:hinafkin:20210227220235j:plain

 ドラヴィダ語系のこれらの倭音倭語は、農作物(種子と種イモ)、農耕技術、料理・食文化とワンセットで「海の道」をドラヴィダ族によって伝えられた、と考えます。もし、長江流域から稲作だけ、あるいは稲作を中心にしてこの4点セットが伝わり、弥生人(長江流域中国人)による縄文人征服があったのなら、農耕・食文化の倭音倭語は全て呉音漢語になったでしょう。

 

2.「おこげ」の再現実験

 なお、五穀などの倭音倭語のルーツを考えると、表3のように呉音・漢音漢語とは考えれず、タミル語(ドラヴィダ語)系の可能性が高いと考えますが、大野晋氏のタミル語調査からさらにドラヴィダ語系の高地民族の調査が求めれられます。

f:id:hinafkin:20210228055403j:plain

 『荏(エ=荏胡麻)』は倭音倭語では『え』ですが、呉音漢語では『ニン(ニム)』、漢音漢語では『ジン(ジム)」であり、他の五穀・いもなどと同様に呉音・漢音漢語が入る前からの縄文語であり、揚子江流域からの伝来とは考えれません。なお、大豆は野生ツルマメからの栽培種であり、日本原産の可能性が指摘されています。 

 

3-3 縄文ノート37 「神」についての考察

1 大野晋氏の「カミ」説の要約

⑥ タミル語の「ko」は「神・雷・山・支配」を、「kon」は「神・王」を、「koman」は「神・王・統治者」を表し、日本語の「カム」に対応し、日本語の「a」はタミル語では「o」である。

    f:id:hinafkin:20210105114401j:plain

 ⑦ 日本語の「霊(ひ:fi)」はタミル語の「pee(ぴー);自然力・活力・威力・神々しさ」に対応する。(筆者注:沖縄では「ぴ」から「ひ(fi)」に変わる)

⑧ 「カミ」をめぐる次のような言葉についてもタミル語と日本語の対応が見られる。 

 

f:id:hinafkin:20210105114424j:plain

2 大野晋氏の「カミ」=ドラヴィダ語ルーツ説の考察

② アイヌの「カムイ」からみて「カム」が「カミ」の古形であるはその通りと思いますが、「カン(神戸・神部・神邉・神主等)」「カモ(神魂神社:かもすじんじゃ、神魂命:出雲国風土記)」について触れていないのは国語学者として不徹底と思います。

 沖縄では「あいういう」「まみむみむ」3母音であり、「む」=「も」であり、「かむ」から「かも」と呼ばれるようになり、「かむ→かも・かん→かみ」であった可能性が高いと考えます。播磨国加茂郡大国主宗像三女神の多紀理毘売(田霧姫・田心姫)の間に生まれた「あじすきたかひこね(阿遅鉏高日子根)」は古事記では「迦毛大御神」と呼ばれており、その一族の賀茂・加茂・鴨氏は「神一族」であったことを示しています。

 なお、古事記出雲大社を「天御巣」「天新巣」と表現していることからみて、「かもす」は「神巣」と考えられ、神魂神社の元々の名前は古くから神々が巣む(住む)「神巣神社(かもすのかみやしろ)」であったと考えます。

 

f:id:hinafkin:20210105114448j:plain

 

3-4 縄文ノート38 「霊(ひ)」とタミル語pee(ピー)とタイのピー信仰 

3.日本の「霊(ひ)」信仰

 死者は海や大地(黄泉)に帰り、黄泉がえるという海神・地神(地母神)信仰とともに、死体から「霊(ひ)=魂(たましひ:玉し霊)」は離れて山上に、さらには天に昇ると考える山神信仰・天神信仰が行われてきました。これまで書いてきたものと重複しますが、簡単に紹介したいと思います。

⑴ 人を産む二霊「 高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)

 記紀は始祖5神(参神二霊)の「二霊(ひ)群品の祖となりき」とし、高皇産霊(たかみむすひ)と神皇産霊(かみむすひ)を人々の「霊(ひ)を産む神」としました。古代人はDNAの働きを「霊(ひ)」ととらえ、親から子へと受け継がれていくと考えていました。この始祖2神は紀元前1世紀の頃と考えられます。

 

⑵ 「霊(ひ)継ぎ儀式」と柩・棺(ひつぎ)

 天皇家皇位継承は「日継(霊(ひ)継)」とされ、死者は内部を子宮に見立て朱で赤くした柩・棺(ひつぎ:霊継ぎ)に入れて葬られます。

 

⑶ 「霊人(ひと)」の名称

 新井白石は「人=霊人(ひと)」とし、角林文雄氏は『アマテラスの原風景』で「人、彦、姫、聖」は「霊人(ひと)、霊子(ひこ)、霊女(ひめ)、霊知(ひじり)」としています。「人」字は倭音「ひと」、呉音 「ニン」、漢音「 ジン」であり、「霊(ひ)」を継ぐのが「人、彦、姫、聖」であり全て倭語です。

 なお「人(ひと)」の「ひ」を略して「と」と読んだと考えれれる例として次のような多くの単語があります。

f:id:hinafkin:20210108110021j:plain

  また、死者を演じる能楽者や歌舞伎役者、神社で神事や送葬に携わる人たちが江戸幕府によって「非人」とされましたが、元々の意味は「霊人」であり、死者の霊をあつかい畏怖される対象であっても差別されることはなかったと考えます。

 猿回しも「非人」にされますが、比叡山(日枝山)を神那霊山(神名火山)としてスサノオの子の大年の子の大山咋(おおやまくい)を祀る大津の日枝大社(全国約3,800社の日吉・日枝・山王神社の総本社、通称:山王権現)の神使が猿であることや日光東照宮で神事に携わり、有名な「見ざる聞かざる言わざる」などの猿が神馬とともに祀られていることからみて、「霊人」であったと考えられます。

 

5.女性器名「ヒー、ピー、ヒナ」について

 今は廃止になりましたがYAHOOブログ『霊(ひ)の国:スサノオ大国主の研究』で第46回の「『霊(ひ)の国』のクリトリス『ひなさき(吉舌、雛尖、雛先)』」(2011年2月)において、私は次のように書きました。

  

 ある研究会で、元大学教授から「私の田舎では、クリトリスのことを『ひなさき』といっていた。『霊(ひ)』が宿る場所『霊那(ひな)』の先にあるから『ひなさき』ということなんだな」というような話を聞いたのである。

仕事に疲れた合間にホームページで調べてみると、なるほど、古くはクリトリス(陰核、さね)のことを「ひなさき(吉舌、雛尖、雛先)」と呼んでいたようである。「吉舌」(ひなさき)の出典は、平安時代中期に作られた辞書、「和名抄(和名類聚抄:わみょうるいじゅしょう)」なので、その起源は古い。

さらに調べてみると、沖縄や鹿児島では、女性の性器を「ひー」と呼び、熊本では「ひーな」と呼んでおり、「ひなさき」のルーツは明らかとなった。・・・

なお、「昔の茨城弁集」(http://www1.tmtv.ne.jp/~kadoya-sogo/ibaraki-hi.html)を見ると、死産のことを「ひがえり、ひがいり」というそうであるが、「霊が留まる」の逆で「霊が帰る」ということであろう。「ひしぬ」「ひすばる」「ひだるい」などの「ひ」も『霊』の可能性があるかも知れない

 

 私は「ヒナちゃん」「ヒナもっちゃん」などと呼ばれていましたので、「お××ちゃん」と呼ばれていたことになり、がぜん面白くなってきました。

 さらに2018年になり、柳田國男氏の『蝸牛考』(1930年)の「方言周圏論」を批判して「『カタツムリ名』沖縄起源説」(180816)を書き、さらに「松本修著『全国マン・チン分布孝』の方言周圏論批判」(181204)を書きましたが、そこでは女性器名が南から北、東へと次のような伝播をたどることを明らかにしました。

f:id:hinafkin:20210112105315j:plain


 日本語は南から北、東へと伝わっていたのであり、「ヒー、ピー」は女性器名であり、同時に霊(ひ)=神であったのです。石棒(金精さま)を女神の山に捧げ、地母神である大地の円形石組に立てるのもまた「ヒー、ピー」信仰を示しており、そのルーツは東インド・東南アジア山岳地域から「海の道」を伝わったことを示しているのです。

 

3-5 縄文ノート40 信州の神名火山(神那霊山)と「霊(ひ)」信仰

5.「霊(ひ)信仰」「pee(ぴー)信仰」と松岡静雄氏の「ヒ・ヒイ・イヒ・ヒナ族説」

 言語学者民族学者の松岡静雄(1878~1936年)が「ヒ・ヒイ・イヒ・ヒナ」について次のように書いていることを、私は『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』を書いた時には知らず、ネットを通して知り合ったイワクラ(磐座)学会の岩田さんから『イワクラー古代巨石文明の謎に迫る』をいただいて始めて知りましたが、その内容は次のとおりです。

              f:id:hinafkin:20210110103526j:plain

①「上代ヒという種族が存したらしい。・・・韻を伸ばしてヒイとし、若しくは接頭語イを冠してイヒとして地名、神名等に残る」

②「ヒ族=イヒ族であり、ヒナは彼らの居住地である」「イヒ川、イヒ田、イヒ森など、イヒと言う地名が諸国に存在する」「イヒ=ヒナであり・・・兵庫県の揖保、またはイピ、イビと発音される地名(揖斐、伊尾、伊美)などの語源も同様にイヒ族が関連している」「この種族がヒナともヒダとも呼ばれ、或いはシナ、シダと称へられ、エミシ、エビス、エゾとして知られ、此の国の至所に蕃息して居たことは考古学上今では殆ど疑いない」「揖保(いひほ):播磨国の地名・・・イヒホ川(又はヒの川)の上流に讃岐のイヒ神の配偶と称する神が住んでいたイヒモリという地名がある」(雛元注:粒山(いひぼやま)、粒丘(いひぼおか)もある)

③「ヒ族は先住民コシ族侵略して北陸へ移動させたが、後からきたアマ族(出雲系)に制圧されて同化した」

④「彼らの居住地は肥の国と呼ばれた。ヒラ、ヒナ、ヒダ、シダ、シナと発音する地名(飛騨・志田・日南・日浦・日高・常陸信濃など)は、このヒ族の居住地である」

 

 私は怨霊史観は「霊(ひ)」信仰があって成立するという表裏一体の考えのもとに、「霊(ひ)継法則」から大国主の国譲りは「国津神天津神アマテラスへの権力移譲」ではなく「大国主の御子たちの後継者争い」と考えるなど、スサノオ大国主建国説から「委奴国王」=「いな国=ひな国」説を考えていたのですが、松岡静雄氏は国名や地名をもとに鋭い直感で「ヒ・ヒイ・イヒ・ヒナ族説」を考えていたのでした。私は宗教として「霊(ひ)信仰」を考えたのに対し、松岡氏は日本民族形成論として「ヒ族」を想定したという大きな違いがありますが、「ヒ・ヒイ・イヒ・ヒナ」地名や魏書東夷伝倭人条の「卑奴母離(ひなもり)」に注目した点は同じ地平にあります。

 しかしながら松岡氏が「天離(あまざか)る鄙(ひな)」「しなざかる越」について、「ヒ族は先住民コシ族侵略して北陸へ移動させたが、後からきたアマ族(出雲系)に制圧されて同化した」としましたが、私は古田武彦氏の「天」は壱岐対馬を中心とした玄界灘地域、「ひな」は出雲、「越」は越前・越後であり、対馬暖流にそった位置関係を示していると考えます。

 「ドラヴィダ海人(あま)・山人(やまと)族起源論」に到達した現在、私は死者の「霊(ひ)」が肉体から離れ、山から天に昇り、帰ってくるという「山神・天神信仰」はドラヴィダ山人族の「ピー」信仰をルーツとし、その痕跡が「ヒ・ヒイ・イヒ・ヒナ」地名・神名として各地に残っていると考えており、松岡説とは異なり、旧石器人・縄文人からスサノオ大国主建国にいたる過程で「霊(ひ)」信仰は継承され、それらの地名・神名が付けられ、残ったと考えています。

 

4 倭流漢字用法(倭音倭語)説

4-1 縄文ノート32 縄文の「女神信仰」考

6.古代中国、倭国は母系制社会であった

① 「姓」「卑」字が示す母系制社会

 姓名の「姓」が「女+生」であることは、古代中国では女性が祖先霊を祀る役割を担っていた時代があったことを示しています。孔子の「男尊女卑」の「卑=甶(頭蓋骨)+寸」「尊=酋(酒樽)+寸」であり、「女が掲げる頭蓋骨(鬼:祖先霊)に男が酒を捧げる」という宗教上の男女の役割分担を表しており、孔子の弟子の儒学者たちが「女性差別用語」としたのです。孔子が理想とした姫氏の周王朝は母系制であった可能性が高く、その後、春秋・戦国時代に入り、略奪婚から女性奴隷の時代になり、男系社会に転換したと考えます。

  f:id:hinafkin:20201224231546j:plain

② 「魏」が鬼道の女王・卑弥呼に金印紫綬を与えた理由

 周王朝の姫氏の諸侯であった「魏」(禾(稲)+女+鬼)は「鬼(祖先霊)に女性が禾(稲)を捧げる国」であり、魏の曹操は「われは文王、姫昌(きしょう)たらん」と述べ、孔子が理想とした周王朝を再建したいという「志」を持っていました。

 魏国が鬼道の女王・卑弥呼(霊御子)に対して格段の「王侯」に匹敵する金印紫綬を与えたのは、姫氏を想起させる母系制社会であったからと考えます。また、宦官のトップの中常侍(ちゅうじょうじ)で一流の儒学者であった祖父の曹騰(そうとう)から教えを受けた曹操は、孔子の「道が行なわれなければ、筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう」を知らないはずはないと考えます。陳寿(ちんじゅ)三国志魏書東夷伝の序に「中國礼を失し、これを四夷(しい)に求む、猶(な)を信あり」と書き、朝鮮半島の鬼神信仰に対し卑弥呼にだけ「鬼道」という尊称にしたのは、倭国を「道・礼・信」の国としてみていたことが常識であったことを示しています。

③ 倭人は「卑」「奴」を卑字ではなく貴字として使用した

 「卑弥呼」や「漢委奴国王」、「倭国」について、中華思想の漢や魏が「東夷・西戎・南蛮・北狄」や「匈奴」などと同じように、字が読めない倭人に対して「卑字」を使ったという「被虐史観」が見られますが、ほんとうにそうでしょうか?

 三国志魏書東夷伝卑弥呼が「使によって上表」と書かれていることからみて、漢や魏の皇帝に対し、委奴国王や卑弥呼が使者に正式な「国書」を持たせないなど考えれられません。漢字を理解する文明国として認めたからこそ、後漢光武帝や魏皇帝・曹芳が金印を与えたのです。

 「倭国」「委奴国」「卑弥呼」は、中国側の名称ではなく、倭国(いのくに)側が「倭」「委奴」「卑」字を倭流に解釈して「貴字」として使用したと考えます。「倭」は「人(稲)+禾+女」で人(ひと=霊人)に女性が稲を人に捧げる「霊(ひ)の国」であり、「委奴国(いなのくに)」は「禾(稲)+女+女+又」で、女性器(女+又)に女が稲を捧げる国名なのです。縄文人の女神信仰、性器信仰を受けついだ倭国は受け継いでいたと考えます。

④ 倭人は漢字を知っていた

 「日」が倭音「ひ、か」、呉音「ニチ」、漢音「ジツ」であるように、日本語は「倭音倭語、呉音漢語、漢音漢語」の3層構造であることからみて、江南の呉音が先に伝わり、後に華北の漢音が入ったことが明らかです。

            f:id:hinafkin:20201224231559j:plain

 その伝播は呉から台湾を経た「琉球(龍宮)ルート」の海人族による伝搬と、秦の始皇帝が紀元前3世紀に東方の三神山、蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)に3,000人の童男童女と百工(技術者)を付けて浙江省(2度目)から徐福を派遣したという「徐福ルート」の2つが考えられます。佐賀市京都府伊根町、熊野市など各地に徐福伝説や徐福を祀る神社があることからみて、彼らもまた呉音漢字を伝えたと考えられます。

 それを裏付けるのが吉野ヶ里遺跡など北部九州を中心に松江市などから約40点発見された石硯と研石(墨をすりつぶすための道具)です。これらは紀元前2世紀末から紀元3世紀後半のものであり、わが国での倭音・呉音・漢音による漢字使用は紀元前からと見なければなりません。

 紀元1世紀の委奴国王が国書を後漢皇帝に上表しないなどありえません。

⑤ 本来の漢字用法が倭流漢字用法として残った

 「奴」字は、中国が母系制社会であった周の時代には「女+又(股)」で、子供が生まれる女性器を指していた「貴字」であり、「女+又(右手)」として「奴」が手を縛られた女奴隷を表すようになったのは、春秋戦国の戦乱によって奴隷が生まれてからという可能性があります。

 呉音漢語を習っていた「委(倭)人」は「奴」「卑」字を貴字として使った可能性が高いと考えますが、謙譲語として使った可能性もあります。

 なお、「霊」=「靈」=「雨+口口口(人々が口で受ける)+巫(みこ)」、「神」=「示(高坏)+申(稲妻)」であり、いずれも天上から降りて来る祖先霊を示しています。「魂」=「云(雲)+鬼」(雲の上の祖先霊)からみても、漢字ができた紀元前1300年ごろより前から天神信仰であったと考えられます。

 時代は異なりますが、「仏(ほとけ)」(人+ム)は、倭語倭音では「ほと+け」であり「女性器の化身」であり、倭人の女性器信仰に仏教が合わせた「和名」の可能性があります。 

 

◇参考◇

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論              http://hinakoku.blog100.fc2.com/