ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート23(Ⅰ-4)  2020八ヶ岳合宿報告

 これまで私は主にスサノオ大国主建国論、八百万神の霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教、人類の旅、農耕起源、母系制社会、出雲大社から縄文社会・文化を見てきましたが、今回の合宿の見学でスサノオ大国主一族の神籬(ひもろぎ=霊洩木)信仰、神名火山(神那霊山)信仰、龍蛇神信仰が縄文時代に遡ることが確認でき、海神信仰・地神信仰・天神信仰と神使の整理も進み、日本中央縄文文明の世界遺産登録に向けて確信を深めることができました。

 このメモの段階では、「主語-目的語-動詞」言語族の移動は前提としていますが、DNA分析やドラヴィダ語(タミル語)、照葉樹林文化などについてはまだまだ未検討でした。

 なお、合宿後の検討をもとに、一部、微修正を行っています。 201209 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

    Ⅰ-4 縄文社会研究会「2020八ヶ岳合宿」報告 

                    200808→0903→1209 雛元昌弘

 現地での個人的な感想に加えて写真をもとに考察を加えて忘備メモです。

1.スケジュール

2020 年 8 月 3 日(月)

 11:30 尾島山荘集合:尾島・雛元・山岸・小澤・丸山

 14:00 八ヶ岳農業大学校茅野市) 清水矩宏校長より説明を受ける

 15:20 諏訪大社前宮(茅野市) 

 16:00 神長官守矢資料館・高過庵(たかすぎあん)・低過庵(ひくすぎあん)・空飛ぶ泥舟(藤森照信設計)

 21:00~ 研究会(東谷・花崎参加)

8 月 4 日(火)

 10:00 尖石考古館(茅野市

 11:30 中ツ原遺跡(茅野市

 14:00 井戸尻考古館(富士見町)

 16:00 原村歴史民俗資料館(原村)

 19:30~ 研究会

8 月 5 日(水)

 10:00 平出博物館(塩尻市

  14:30 黒曜石体験ミュージアム(星糞峠:長和町)

 

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2.御柱神籬(ひもろぎ:霊洩木)

 :神長官守矢邸みさく神境内社叢:諏訪大社上社前宮

① 神長官守矢家の屋敷神と考えれられる「神長官邸みさく神境内社叢」では、神木・かじのきを「みさく神」(御左口神、御頭みさく神)として祀っており、霊(ひ=魂=祖先霊)が神木に憑りつくという、地母神信仰(お山信仰)の「神籬(ひもろぎ:霊洩ろ木)」信仰を示しています。神=霊(ひ)なのです。

 

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 ② 『古事記』の石析神根析神(いわさく・ねさく:日本書紀:磐裂神・根裂神)と同じで、「さく=裂く=咲く」(ちなみに、蕾が一斉に裂くのが桜)であり、「みさく神」の名称は死者の霊(ひ)が大地に帰り、大地を割いて木となり天に伸びていく地母神信仰が行われていた可能性があります。

③ もう1つの可能性は、「ミシャクジ神(御左口神)」とも表現されることからみて、漢音だと「シャ=蛇」であり「御蛇口神」の可能性があることです。信仰の対象であった神籬(ひもろぎ:霊洩木)の下に蛇の巣の入口があり、霊(ひ)を運ぶ神使として蛇が信仰されていた可能性があります。出雲大社の龍蛇信仰、大神大社の蛇信仰と同じです。

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④ その後、死者の霊(ひ)が神名火山(神那霊山)から天に昇り、降りて来るという天神信仰になると、神那霊山から巨木・みさく神(神籬)を切り出し、四周の角に御柱を立て、中の祠・神社に移し、信仰するようになったのが共同体祭祀の御柱祭と考えられます。

 みさく神境内の他の小さな祠も四隅を御柱で囲っており、神籬とともに新しい「祠と御柱セット」の霊(ひ)信仰スタイルが出来上がったと思います。

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⑤ 代々の神長官の墓はその場所から少し離れた南にありますから、死者の霊(ひ)は死体から離れる「魂魄分離(魂と肉体の分離)」信仰があったと考えられます。

⑥ 死者の霊(ひ)の行きつく先として、地底(黄泉)、海底(龍宮)、天上の3つが想定され、地神(地母神)・海神・天神信仰が生まれたと考えられますが、神籬(ひもろぎ:霊洩木)信仰は、平原遺跡や吉野ヶ里遺跡の墓の前の「大柱」やイヤナギ・イヤナミの国生み・人生み神話の「天御柱」、始祖神「五柱(三柱と二柱)=別天神」の名称、古事記天地創造神話の伊伎島(壱岐)の古名の「天比登都柱(一柱)」などからみて、紀元1世紀前後には、死者の魂が柱(神木=神籬)から神名火山(神那霊山)を経て天に昇り「天神」となり、降りて来るという宗教思想のもとで、地神信仰と天神信仰が神籬(ひもろぎ:霊が洩る神木)信仰として結合していたことを示しています。

⑦ 神原(ごうばら:出雲では「かんばら」)と呼ばれた場所で、古来から神事が行われた諏訪大社上社前宮の本殿背後の巨木(樹種不明)もまた、この神長官邸みさく神境内社叢と同じく、古い神籬信仰を示しています。この前宮の背後は守屋山ではないことから、神那霊山信仰ではなく「水眼(すいが)」(倭音だとみずのめ:め=芽)と呼ばれる源流を信仰の対象とした可能性があります。

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 海人(あま=天)族にとっては海にそそぐ川の源流が天と繋がる聖地として考えられていたことを示しています。海神信仰と天神信仰が結び付き、水神=龍神信仰であったと考えられます。

⑧ 海人族は水蒸気や湯気が天に昇り、雨が降って山から源流にあふれ、川を下り海に注ぐことから、天と山と川と海が繋がっていたと考えていた可能性は十分にあります。「万物の根源は水である」とした最古の哲学者・タレスを持ち出すまでもありません。

 倭語では「あめ=あま=海、雨、天」であることからみても、海と天が雨でつながり、さらに暗い地底には「黄泉=よみ=夜海」があり、地底の黄泉と海は繋がっていたと考えていた可能性があります。

 海人族である縄文人の歴史から見て、地神=海神=天神信仰の起源は古いと考えます。地母神信仰は農耕から始まったという説や、天神信仰は中国・朝鮮からの伝わったという説がありますが、海人族が自然観察から独自に考えた可能性が高いと私は考えます。 ―「縄文ノート35 蓼科山を神那霊山(神奈火山)とする天神信仰について」参照

 

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⑨ 縄文人をマンモスハンターの子孫の狩猟民とする「日本民族北方起源説」がみられますが、アイヌが漁民であり、刺青をしていて民族衣装が前開きの南方系であることや、琉球(龍宮)のアクセサリー貝が北海道まで運ばれ、琉球の始祖の「アマミキヨ」に由来する奄美大島、天草、甘木(天城)、天が原、海士などの地名が北上・東進していること、神の依り代(よりしろ)である御幣(幣帛(へいはく)、幣(ぬさ))とアイヌのイナウとが同じであること、琉球のサバニや奄美の板付け舟がアイヌのイタオマチプ(板綴り舟)と同じ丸木舟に舷側板を張った構造であることなどからみて、縄文人は海人(あま)族であるという大前提でその宗教思想や文化を見るべきと考えます。

⑩ 『古事記』によれば、大国主の国譲りに際し、建御名方が建御雷に負けて諏訪まで逃れ、諏訪大社に祀られたとし、地元の伝承では建御名方(諏訪明神)が諏訪に侵入した時、先住神の洩矢(守矢氏の遠祖)が支配を譲ったとされていますが、琉球弁の「あいういう」5母音からすると、「れ=り」であり、洩矢(もれや)が守矢・守屋(もりや)に変わったことを示しており、この族名の変遷をみても海人族系であることを示してます。

⑪ この洩矢氏については、縄文人の王とする説、物部一族とする説がありますが、私は後者の説をとります。

 スサノオヤマタノオロチ(八岐大蛇)王を切った十拳剣(韓鋤之剣:韓製の鋤(すき)の鉄先を鍛えなおして作った剣)が岡山県赤磐市(旧赤坂)の備前国一宮の石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)物部氏によって祀られ、崇神天皇の代に物部氏が祭祀する石上神宮に移されたとされていることや、美和(三輪)山のほとりの磯城を拠点としたスサノオの子の大年の子孫王(大物主を襲名)が大物主大神スサノオを美和山に祀っていることなどからみて、物部氏スサノオの御子の一族の可能性が高いと考えます。

 

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 霊(ひ)は子孫によって祀られなければ祟ることは、崇神天皇が大物主・アマテルの霊を宮中に移したことにより、民の半数以上が亡くなると恐ろしい災害を招き、子孫を探し出して大物主大神を祀ることによって疫病が収まったことを記紀は伝えています。

 なお、オロチ王の大刀(草薙大刀)が後に天皇家の「三種の神器」の1つとされていることからみて、オロチ王→スサノオ天皇家への王位継承を示しており、オロチ王は備前赤坂の「赤目砂鉄(あこめさてつ)」の最先端の製鉄技術を持った王であり、その吉備国を出雲王スサノオが奪い、御子(みこ)の物部一族に支配させたという歴史を伝えていると考えます。

 この物部氏は安曇族(イヤナギの子:スサノオの腹違いの弟)とともに1世紀頃に諏訪地方に入り、スサノオ7代目の出雲の大国主の御子の建御名方は2世紀にこの物部氏(守矢氏一族)を頼って出雲から越を経て諏訪に逃げてきたと考えます。

 大国主の国譲り大国主が各国で妻問いして生んだ180人の御子のうち、壱岐天若日子(暗殺される)、筑紫日向(つくしのひな)の穂日・建比良鳥(武日照・武夷鳥・日名鳥)親子、出雲の事代主(自殺する:天若日子を暗殺した可能性)、越の建御名方の4人の御子・孫の王位継承争いであり、建御雷は建比良鳥の武官として建御名方をこの諏訪の地に追ってきたと考えられます。なお、後に蘇我馬子らに滅ぼされた物部守屋は守矢一族の母方の名前を受け継いだ可能性があります。

 穂日・建比良鳥親子は大国主の霊(ひ)を受け継いで出雲国造となり、出雲大社の祭祀を担って現代に続いていますが、スサノオ大国主は6代離れており、大国主を国譲りさせたとされるアマテル(天照:本居宣長説はアマテラス)はスサノオの姉ではなく、古事記に書かれた大国主の筑紫日向(ちくしのひな:旧甘木市のひな城)の妻・鳥耳であり、その子が穂日であると私は考えています。

 血の繋がった子孫に祀られないと祟るという「霊(ひ)の法則」「霊継(ひつぎ)法則」からみて、大国主の国譲りは出雲王朝内の後継者争いであり、記紀はこの歴史を天皇家への権力移譲神話にすり替えた、と私は考えています。

 

3.神籬(ひもろぎ)信仰と神那霊山(かんなびやま)信仰

  :神長官守矢邸、諏訪大社上社前宮

① 次のテーマは、天神信仰における「神籬(霊洩木)信仰」と「神名火山(神那霊山)信仰」の関係です。神長官守矢邸の上にあるみさく神境内社叢の背後には、名称未確認の三角形型(おむすび型・飯盛型)の神名火山があり、祖先霊がこの「お山」から昇天降地する神名火山信仰を伺わせます。

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 祖先霊は神名火山(神那霊山)の神籬(ひもろぎ:神木)から天に昇り、降りてくると考えられていたことは、古事記垂仁紀に書かれた出雲大社の前に置かれていた青葉山やそれを受け継いだ播磨国総社の「三ツ山大祭」「一ツ山大祭」(松の木を挿している)、各地の神社の飾り山や担き山、山車などによって神霊が運ばれるという祭りや、神使の猿や犬、狐、鹿、猪、鶏などが祖先霊を山から里に運ぶという信仰、山から巨木を切り出して神籬とした御柱祭に引き継がれています。

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 神名火山(神那霊山)に由来する「山・鉾・屋台行事」がユネスコ無形文化遺産に登録されている以上、同じ霊(ひ)信仰に由来する御柱祭などの神籬信仰を含めた「縄文文明」の世界遺産登録が考えられるべきでしょう。

② ウィキペディアでは、上社本宮の背後の守屋山を神名火山とするのは明治以降とし、建御名方神の「御正体」(依り代)とされた諏訪氏出身の大祝(おおほうり)が上社の神体=現人神として崇敬されていたとしていますが、守屋山の山名は洩矢氏の頃からあった可能性があり、神名火山(神那霊山)信仰が行われていた可能性について調査が求められます。

③ この紀元1世紀前後からの洩矢氏の神名火山・神籬信仰は、縄文中期の阿久遺跡の立柱と列石に見られる蓼科山信仰から考えると、縄文時代に遡る可能性が高いと私は考えます。蓼科山を向いた「中ツ原遺跡8本柱」を含めて、縄文の神名火山(神那霊山)信仰と紀元1世紀前後からのスサノオ大国主時代からの神名火山(神那霊山)神那霊山・神籬信仰、さらには御柱祭の繋がりについての徹底的な解明が求められます。

④ 今回、この地の出身の建築家・藤森照信氏(78代当主守矢早苗氏と幼馴染み)の設計による神長官守矢史料館(神名火山の前に御柱4本を立てたデザイン)と、さらに山側に上がったところにあるツリーハウスの空飛ぶ泥舟と高過庵(たかすぎあん)、縄文の竪穴式住居を彷彿とさせる低過庵(ひくすぎあん)を見学し、神籬=御柱信仰の縄文時代から現代への継続を見ることができて感動を覚えました。

 藤森氏は縄文人の末裔であることを自覚していると思われますが、その活動は縄文時代から続く御柱祭と合わせて世界遺産登録への有利な条件となると考えます。

 

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<参考レジュメ>

 ・縄文ノート34 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)について

 ・縄文ノート31 大阪万博の「太陽の塔」「お祭り広場」と縄文 

 

4.中ツ原8本柱楼観神殿論

 :中ツ原遺跡、原村歴史民俗資料館(阿久遺跡)

① 今回の合宿の次の大きな成果は、阿久遺跡(縄文前期)の環状集積群の中心の石柱・列石が蓼科山方向を向いていることを確認でき、中ツ原遺跡(中期~後期前半:5000~4000年前頃)の8本柱についても蓼科山を神名火山(神那霊山)神名火山(神那霊山)とする宗教施設との確信を深めたことです。

 

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 <参考レジュメ>

 ・縄文ノート33 「神籬・神殿・神塔」考 

 ・縄文ノート35 蓼科山を神那霊山(神奈火山)とする天神信仰について

 ・縄文ノート40 信州の神那霊山(神名火山)と「霊(ひ)」信仰

 ・縄文ノート50 「縄文6本・8本巨木柱建築」から「上古出雲大社」へ

 ・縄文ノート56 ピラミッドと神名火山(神那霊山)信仰のルーツ

 ・縄文ノート57  4大文明論と神山信仰

  

② 青森市三内丸山遺跡(前期中頃から中期)の短辺方向は北から145度の南東方向とされており、ちょうど八甲田大岳とその手前の鉢森山の2つの二等辺三角形の神那霊山を向いています。  

 

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 海を見るための見張り台なら北東方向を向くはずであり、1~3本柱で十分です。多大な労力をかけて人々が共同作業を行い、多くの人が同時に昇ることができる巨大な建物となると楼観しか考えることができません。

 出雲大社本殿の「田の字型」が農家住宅に戦前までほぼそのまま引き継がれていたことからみても建築思想・技術は継承される可能性が高く、縄文時代の6本柱・8本柱建築物は2世紀の大国主の48mの出雲大社本殿の「天御巣」「天御舎」、3世紀の邪馬壹国、一大国(壱岐)や吉野ヶ里の「楼観」と建築思想・技術において連続していると見るべきです。

 柱の太さから想定される強度からみて、これらの建物は単に神を祀る神殿・神塔ではなく、多くの人々が昇って神那霊山を崇拝する「楼観神殿」の可能性が高いと私は考えます。

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  秋田県鹿角市大湯環状列石(縄文後期)もまた、北東2㎞のところに三角形の神名火山型の黒又山があり、三内丸山6本柱建物、中ツ原8本柱建物と合わせて考えると、これらはそのまま後のスサノオ大国主時代の海人族の神名火山(神那霊山)信仰に引き継がれたとみて間違いありません。

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③ これまで、本居宣長の「世界を照らすアマテラス太陽神」説に基づく皇国史観の影響もあり、「縄文人太陽信仰説」が根強く、大湯環状列石の石棒・円形石組についても「日時計説」が唱えられてきましたが、記紀風土記に太陽神信仰を伺わせる記述はありません。アマテルの天岩屋戸神話をわずか数分の日蝕と結びつけてアマテル=太陽神とする説がありますが、その様子は喜界カルデラ噴火や阿蘇山噴火などの噴火による長期間の暗闇の伝承からの表現です。

 古事記編纂を命じた天武天皇が「大海人(おおあま)皇子」と呼ばれていたことからみても、「あま=海」を「天」に置き換えたのが「天照大御神」名なのです。前述のように、海人族である縄文人は、死者の霊(ひ)は海や川、水蒸気や湯気、雨の関係から「海底・地底・天空」を行き来していたと考えていた可能性が高く、太陽信仰から天神信仰がでてきたとは考えられません。「あま、あめ」は「天=雨=海」なのです

 縄文土器や銅鐸などにエジプト文明やマヤ・インカ文明などに見られるような太陽崇拝を示すデザインは皆無であり、逆に地母神信仰を伺わせる石棒・円形石組や環状列石、妊娠女性土偶や女性面土器が見られることからみても、縄文人の宗教は地神(地母神)信仰と見るべきです。大湯環状列石や円形石組は母なる大地の入口=女性器としてその下に死者は葬られ、再生することが期待されていたと考えます。「地神信仰・海神信仰・天神信仰」は縄文時代に遡ると考えます。

④ 戦後の反皇国史観記紀神話全体を8世紀の創作と決めつけてきましたが、ギリシア神話や中国神話が真実の歴史を反映していることが考古学によって明らかとなってきている現在、記紀神話や神社伝承などから歴史を解明する科学的方法の確立が求められます。「シュリーマンに戻れ」です。

 また、皇国史観・反皇国史観は「遅れた縄文人、進んだ弥生人」「弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服説」という外発的発展論に陥っており、縄文畑作農耕から水田稲作への内発的発展を認めず、鉄器稲作によるスサノオ大国主の建国という内発的発展史観に立たない「縄文・弥生断絶史観」「縄文・弥生非連続説」という欠点があります。

 このように皇国史観・反皇国史観のどちらも記紀風土記などの文献や神社伝承・地名を手掛かりにして縄文社会から連続して古代史を分析するという方法が確立せず、遠いギリシア神話ユダヤ神話、東南アジア神話、中国神話、アメリカ原住民伝承、「学者の数だけある」と言われる心理学説などに手掛かりを求める、という連想ゲームに陥っています。

⑤ また「海は怖い」という思い込みから「トボトボ(徒歩徒歩)史観」に陥り、活発に交易・交流する探検心・冒険心・行動力にあふれた妻問夫招婚の海人族の世界文明を考えてもみない閉じこもり史観となっていることも大きな欠点です。

 現代の和食に繋がる「土器鍋食」の解明は不十分であり、ドングリの「縄文クッキー」をあたかも主食であったかのように考えるのもまた「西洋パン文明至上主義」の発想と思わずにはおれません。その一方では、「石・土器・土器・墓」のガラパゴス的時代区分の「石土文明史観」に陥り、スサノオ大国主一族の鉄器水利水田稲作の建国史や世界最高の巨木建築を無視し、わが国独自の縄文農耕による土器鍋食文明や森林文明の解明を放棄しています。

 さらに縄文宗教論においても、記紀風土記、神社伝承のスサノオ大国主の八百万神信仰を無視し、縄文人=原始人という分類のもとで、エジプト・中国・ギリシア神話アニミズム・マナ信仰などに手掛かりを探しています。

⑥ 日本書紀の一書(第四)は、スサノオが子の五十猛(いたける:委武)とともに新羅に「木種(こだね)」を持って行き、使わなかった木種を持ち帰って筑紫から全国に植林を行ったとし、一書(第五)では、「ひげを抜いて放つと杉になり、胸毛を抜いて放つと檜に、尻毛は槙に、眉毛は樟になった」とし、新羅には「浮宝の造船用の杉・楠、宮を作る檜、棺をつくる槙」などの木種を持って行ったというのですから、スサノオ新羅に宮をもうけて鉄器生産を行う予定であったとしているのです。

 三国史記新羅本紀は紀元59年に4代新羅王の倭人の脱解(たれ)倭国と国交を結んだと書き、後漢光武帝の「漢委奴国王」の金印付与は紀元57年ですから、後漢新羅と外交・通商を行った委奴(いな)国王はスサノオ以外には考えられません。日中朝の文献が一致しているのでです。イヤナギがスサノオに「汝命(なんじみこと)は、海原を知らせ」と命じたという古事記の記載とも符合します。

 植林王・建築造船王であり、外交・交易王であるスサノオは、海人族である縄文人の産業・文化をそのまま受け継いでいると見るべきです。

⑦ 貝やヒスイ、黒曜石、土器などの交易の痕跡からみて、縄文時代中期前半から後期前半(5000~4 000年前頃)の中ッ原遺跡、前期中頃から中期(5500年から4000年前頃)の三内丸山遺跡、後期(4000~3500年前頃)の大湯環状列石は相互に交流があり、同じ神名火山(神那霊山)崇拝により中ッ原遺跡8本柱と三内丸山6本柱の宗教施設が作られた可能性が高いと考えます。

 稲作の伝来にしても、「こめ」「いね・いな」「た」の和語が先にあり、「マイ(呉音)、ベイ(漢音)」「トウ(漢音)」「デン(呉音)」が後から入ってきたのであり、逆ではありません。なお、「漢委奴国王」の「委奴」は「いな=稲」をさしていると考えます。

⑧ わが国がインドネシアやフィリピン、台湾のように多言語・多文化の少数民族に細かく分かれず、「主語―目的語―動詞」の同一言語構造を維持しながら倭語・漢語(呉音・漢音)を併用し、同一の土器鍋食文化を形成してきたのは、南方からの旧石器人・縄文人が活発に交流、交易する海洋交易民であったことを抜きにしては考えられません。

⑨ 「海人族の霊(ひ)信仰の共同体社会文明」として縄文時代(私説:土器時代)をアピールすることが世界遺産登録の一番のポイントとなると考えます。世界中にあった「共同体社会文明」を遺跡と文献・伝承で解明できるのは、縄文文明しかありません。そのシンボル施設として、中ツ原遺跡8本柱と三内丸山6本柱の宗教施設としての再検討と改築が求められます。

 

5.縄文農耕論

 :井戸尻考古館、原村歴史民俗資料館、平出博物館、黒曜石体験ミュージアム

① 縄文石器農具がそのまま稲作時代、鉄器時代に続いていることを井戸尻考古館は主張し、展示していますが、原村歴史民俗資料館や塩尻市の平出博物館でも確認できました。もっと注目されるべきと考えます。

 <参考>

 ・縄文ノート25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』

 ・縄文ノート26 縄文農耕についての補足

 ・縄文ノート27 縄文の「塩の道」「黒曜石産業」考

 ・縄文ノート28 ドラヴィダ系山人・海人族による日本列島稲作起源説

 ・Ⅱ-7(縄文ノート55) マザーイネのルーツはパンゲア大陸

② 八ヶ岳美術館(原村歴史民俗資料館)・北斗市考古資料館・井戸尻考古館の共同企画展「捕(と)る・採(と)る・摂(と) 山麓の縄文食」(200707~1123)という意欲的な取組みが行われ、八王子駅からの「縄文バスツアー」も企画されるなど、縄文社会の解明に向けて縄文食文化をアピールする気運が出てきていることがうかがわれます。

 ただ、その前提として「耕す」「育てる」の縄文農耕の主張が欠けていることです。生産活動における共同作業経験がないと、共通の祭祀としてあの巨大な8本柱の建物を建築することなど不可能なのですが・・・

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③ 縄文時代・稲作時代・古墳時代と連続している塩尻の平出遺跡では、新旧石器農具と鉄器農具(鉄先鋤など)が連続しており、縄文時代から「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と呼ばれた大国主の「鉄先鋤」による鉄器水田伝稲作への連続が確認できました。

 また、平出遺跡の背後の「比叡ノ山」はこの地で「ヒエ」栽培が盛んであったことを示している可能性があります。

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④ 「縄文ノート27 縄文農耕から『塩の道』『黒曜石産業』考」で検討しましたが、膨大な量の黒曜石の採掘・流通と鏃生産は単に狩猟が活発になったというより、縄文農耕に伴い鳥獣害対策が欠かせなくなり、地域分業体制が成立したことを示していると考えます。

 イモを食べる猪、稲を食べる鹿、穀類や野菜・果実を食べる兎やカラスなどに対し、日本書紀の一書(第六)は、大国主と少彦名が「動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」など「百姓(おおみたから)、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝えているのです。

 あの芸術性の高い、宗教機能を持った縄文土器・女王像などもまた、農耕段階の生産性の高さを反映した分業生産体制を示しています。

⑤ 「落とし穴猟」は餌場に現れる鹿や猪の「待ち伏せ猟」であり、弓矢の猟も主に雪の季節の「渉猟」(しょうりょう:追跡猟)ではなく、栽培作物を狙って現れる鳥獣の「待ち伏せ猟」の可能性が高いと考えます。

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 また、縄文製塩の開始もカリウムの多い穀物食への移行により、ナトリウムの摂取が必要となったことを示しています。

⑥ 海水や魚介類から塩分を補給できる海岸部の銚子などでの「縄文製塩」は、塩のない内陸部との交易品として製塩が開始され、「黒曜石製品・縄文6穀(米・麦・粟・稗・黍・蕎麦:米は宗教行事食)と塩・塩蔵品の交易」が行われたことを示しています。

 

6.「和食」に繋がる「縄文土器鍋食」と縄文甘味料

 :井戸尻考古館、原村歴史民俗資料館

① 井戸尻考古館の「穀物の煮滓が炭化して残っている土器の底」や「餅状炭化食品」「パン状炭化物」「炭化麦」、原村歴史民俗資料館では「アワ状炭化種子」「パン状炭化物」「土器のダイズ属種子の圧痕」が展示され、イモ豆栗文6穀の土器鍋食が行われていたことを示しています。

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 記紀の死体や血からの五穀誕生の地母神神話は、縄文時代からの6穀栽培から生まれたことが明らかです。特に、子イモ・孫イモを植えるだけでなく、親イモを4等分・8等分に切って種イモとして植えるサトイモは、「死体からの再生」をイメージさせたと考えられます。

 残念なのは、「縄文土器鍋」の表示が見られないことと、「おこげ」の再現実験を行い、おこげを生じさせた炭水化物の正体が突き止められていないことです。

<参考>

  ・Ⅱ-5(縄文ノート29) 「吹きこぼれ」と「お焦げ」からの縄文農耕論

  ・Ⅱ-6(縄文ノート30) 「ポンガ」からの「縄文土器縁飾り」再考

② エジプト・中東・西欧などの小麦パン食文化に対し、縄文人は健康で安定した芋栗縄文6穀の安定した健康的な土器鍋食文化を確立しており、それは現代の和食に引き継がれ、すでに和食はユネスコ無形文化遺産に登録されています。

③ 縄文農耕による縄文食において食塩が欠かせなかったことからみて、5味(甘味・酸味・塩味・苦味・うま味)のうちの「甘味」について縄文人が無関心であったとは考えられません。縄文遺跡から柿の種が発見されているとされていること(未確認)や柿本臣、柿本人麻呂の名前などからみて、干し柿は縄文甘味料の有力な候補であり、モモの種は約4000年前の津島岡大遺跡など各地で発見されていますが、今回の調査では確認できませんでした。

 また信州といえば、蜂の子食が有名ですが、いつの時代に遡るかは不明です。スペインのアラニア洞窟の新石器時代の岩壁彫刻には蜂蜜採集の人物が描かれ、エジプトでは約5000年前に養蜂が始められたとされていますが、日本での痕跡はまだ見つかっていません。

    

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 7.石棒・環状列石・女神像・土偶・顔面土器・耳飾りからの母系制社会論

 :尖石考古館、井戸尻考古館、原村歴史民俗資料館・平出遺跡

 各資料館・博物館とも立棒や女神像・妊娠土偶・顔面付土器を展示していますが、縄文社会研究会が特にこだわってきた「母系制社会論」や「霊(ひ)宗教論」への言及はありませんでした。

① 石棒(金精)信仰については、禁欲主義の儒教キリスト教の影響を受けた明治政府が禁止しましたが、現代も各地で続いており、縄文から続く「金精信仰論」として論じるべきと考えます。 

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 「石器・土器分析=科学」「宗教・民俗分析=非科学」としているようでは日本文明・文化の解明などできず、世界遺産登録には繋がりません。

 群馬県片品村の金精信仰に見られるように、女性神である「お山」に男性が金精を捧げ、「霊継(ひつぎ)」を願う母系制社会の信仰・民俗は現代に続いているのです。女性が関われないのは、女性神である「お山」が嫉妬するからであり、男の祭りとなっているは男性優位・女性差別ではありません。

 なお、「姓=女+生」であり、周王朝が「姫=女+臣」氏でその諸侯の「魏=禾+女+鬼(女が稲を祖先霊に奉げる)」であることからみても、春秋・戦国時代の前の中国は母系制社会であった可能性が高いと考えます。

② 立石から石列の道を蓼科山に向けた阿久(あきゅう)遺跡(縄文前期)、環状に配置した集落の中心に立石を置いた平出遺跡(縄文中期)、立石の回りに円形石組や環状列石を置いた大湯環状列石(縄文後期)など、いずれも大地を母とし、その円形性器に石棒を立てた祭祀施設であり、縄文時代が母系制社会であったことを示しています。

 

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 ③ 妊娠姿の女神像もまた、縄文時代が母系制社会を示しています。壊された妊娠土偶とは異なり、これらは地母神を「女神像」として表現したか、あるいは神名火山(神那霊山)信仰・神籬(ひもろぎ)信仰の儀式を行う巫女(司祭者)像を表し、信仰対象としていた可能性が高いと考えます。

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 特に、「巳を載く神子」と「仮面の女神」は、女性が仮面をかぶったように見え、巫女像の可能性が高いと考えます。

④ 一方、壊されて破棄された多くの人物土偶(ほとんどは妊娠女性)については、「世界的には、こうした土製品は、新石器時代の農耕社会において、乳房や臀部を誇張した女性像が多いことから、通常は農作物の豊饒を祈る地母神崇拝のための人形」(ウィキペディア)という地母神説のほか、安産・多産のお守り、病気やけがなどの身代り人形、子供の玩具・お守り説などが見られます。

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 私は縄文人の宗教は死者の霊(ひ)・魂(たましい=玉し霊)信仰と考えており、死者の霊(ひ)は大地に還り、再び「蘇る(黄泉帰る)」と考え、大地に帰った死者の霊(ひ)を形作った依り代として土偶を造り、霊(ひ)が胎内に取り込まれて無事に安産した時には抜け殻となった土偶は壊され、大地に還されたと考えています。安産を願う依り代の「霊人形(ひとがた)説」です。

⑤ この「霊(ひ)信仰」は、乳幼児の死体を子宮を模した壺に入れ、さかさまにして住居の入口に埋め、その上を母親がまたいで通ることにより、再び霊(ひ)が胎内に帰ってくることを期待した「埋甕(うめがめ)」からも裏付けられます。

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 後に水利稲作時代に入ると吉野ヶ里遺跡などの大型の「甕棺」に引き継がれ、内部が朱で満たされた大地の子宮に模した柩(ひつぎ=霊継)に死者を葬り、霊(ひ)の再生を期待しています。

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 縄文時代の宗教はそのまま紀元前後からの鉄器稲作時代に引き継がれ、さらに「ひつぎ(柩・棺)」名として現代に続いているのです。

⑥ 女性顔面付土器や赤子が女性器から顔をのぞかせた出産紋土器は、地神(地母神)信仰のもとで、土から作った女性型の聖なる容器で料理して食事をするという「地神との共食」文化を示しています。

 

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 これは出雲大社の燧臼・燧杵(ひきりうす・ひきりきね)を使った「鑚火祭(さんかさい)」や京都の八坂神社(主祭神スサノオ)で神火をもらって雑煮を炊く「おけら参り」などに続いています。

⑦ 釣手土器(縄文ランプ:縄文燈明壺)は、焚火で灯りをとるのは暑い夏などに照明器具として使用したのか、あるいは蚊よけの「蚊遣器(明治時代からの蚊遣豚)」であったと考えられ、女性が火を管理する役割だったことを示していると考えます。

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⑧ 出雲国風土記の「神名火山」の「霊(ひ)」=「火」の当て字や、仏教ではお盆・正月に墓から「迎え火」で祖先霊を迎えて「送り火」で送り返すように、「霊(ひ)=火」と考えられ、「山の神=女性=神名火山=神那霊山」信仰は蓼科山信仰に見られるように、女性は縄文時代から霊(ひ)=火の神と考えられていた可能性が高いと考えます。

⑨ 石製や土器製の耳飾りやペンダント(板状・勾玉)は女性の装身具として、女性とともに葬られたと考えら、妻問夫招婚において男性から女性への重要なプレゼントであった可能性が高いと思われます。

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 ⑩ 魏書東夷伝倭人条によれば、魏王は卑弥呼(霊御子=巫女)に対して「汝に好物を賜う」として絹織物や絹、銅鏡百枚、真珠、鉛丹(体に塗り、口紅としたのであろう)を贈っており、30国あたり各3枚の銅鏡から考えて、30国もやはり母系制社会で祖先霊祭祀を行っていた可能性が高いと考えられます。「その会同で坐起するに、男女別なし」であり、女性の地位が高かったことを伝えています。

⑩ 以上を総合的に考えると、縄文時代は母系制社会であったことは明らかであり、それは紀元1世紀前後から5世紀にかけての各地の女王国に引き継がれています。

 「弥生人征服による縄文・弥生断絶説」「記紀神話8世紀創作説」「北方民族起源説」のフィクションから卒業し、海人族である縄文人(土器人)による内発的発展の母系社会像の構築が求められます。

 「霊継(ひつぎ)」を現代科学の知識で翻訳すれば「命=DNAのリレー」を大事にした母系制社会の縄文人の宗教は、砂漠の民の征服・支配宗教である一神教同士の文明の衝突に対し、生類の命を大事にする文明・文化・宗教観を提案する現代的価値を有しています。

<参考>

 ・縄文ノート32 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使文化)

 ・縄文ノート34 縄文の『女神信仰』考 

 

8.縄文と出雲を繋ぐ蛇紋・地名考

 :中ツ原遺跡、原村歴史民俗資料館(阿久遺跡)、平出博物館

 各博物館・考古館・資料館の展示は充実し、体験学習も活発に行われていますが、神籬(ひもろぎ)・神名火山(かんなびやま)信仰、さらには諏訪大社伝承、御柱祭などについて、海人族文明論やスサノオ大国主建国論、日本民族形成論、日本文明・文化論、母系制社会論など、現代と結び付けた展示はありませんでした。「物証分析=科学」と考え、記紀神話や民間伝承を軽視する狭い考古学の限界を感じました。

 私はこれまで「縄文・スサノオ大国主建国連続論」「弥生時代はなかった論(石器―土器―鉄器時代区分説)」「縄文農耕から鉄器水利水田稲作への内発的発展論」、「倭国の鬼道論(「倭」=「禾(稲)を女が人(霊人・霊子・霊女)に奉げる国)、「魏」=「禾(稲)を女が鬼(祖先霊)に奉げる国」)、「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持=大国主建国説」「八百万神の霊継ぎ宗教論」などを主張してきましたが、ここでは、蛇紋と地名から出雲と諏訪との関係を述べたいと考えます。

① 縄文文様全体の分析は諸説あり、全ての文様についてAI分析を行うなど体系的な取り組みはまだできておらず、研究途上と感じましたが、縄文土偶や土器に「蛇紋」が見られるとするのは各博物館・考古館・資料館の展示で共通していました。

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 ② 紀元1~2世紀のスサノオ大国主時代の神話によれば、蛇は神使として考えられていたことが明らかです。

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 天皇家皇位継承の「三種の神器」の1つはヤマタノオロチの大刀であることは、吉備のオロチ王から出雲のスサノオ、美和の大物主(磯城王朝)をへて天皇家へと権力が移動したことを示していますが、オロチに「大蛇」の漢字を当てていることは、蛇神信仰が行われていたことを示しています。

 さらにスサノオ7代目の大国主は、スサノオ(代々襲名)の娘を訪ねて「蛇の室(むろ)」に寝たとされ、出雲大社では神在月に各国の神々(王)を稲佐浜で迎える「神迎祭」で海蛇を神使として迎え、「龍神様」として祀っています。出雲大社の六角紋は一般的には「亀甲紋」と分類されていますが、正式には海蛇神・龍神信仰の「龍鱗紋(りゅうりんもん)」とされ、スサノオの子・大年の大物主一族の美和の大神(おおみわ)神社の神使は蛇としています。

 古事記によれば、活玉依毘売(いくたまよりびめ)のところに夜な夜な忍んできた大物主大神スサノオ)は鉤穴より出入りして美和山の神社に帰ったというのであり、大物主大神=蛇としています。

 このように、オロチ王やスサノオ大国主一族は、海や川、地下の黄泉を行き来する蛇を、海と地、天を循環する神使の龍蛇神として祀っていたことが明らかです。そして、縄文土偶・土器の「蛇紋」や「神那霊山信仰」からみて、その起源は縄文時代に遡るとみられます。

③ 「塩の道」の終着点、塩尻の平出遺跡には、南の正面に神那霊山型の「大洞山」があり、さらにその右手には「比叡の山」があります。

 

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 「大洞」は「大穴」であり、大穴持=大物主の名前を想起させ、「比叡の山」は「ヒエ」の栽培にちなんだとも考えられますが、京都と滋賀の境にある比叡山ゆかりの地名の可能性があります。古事記ではスサノオの子の大年(大物主)の子の大山咋(おおやまくい)は「日枝山」に坐すとしており、「比叡の山」はスサノオ一族ゆかりの名称であり、一帯の大字名の「宗賀(そうが)」は「蘇我・曽我・素鵞」と同じと考えられ、出雲大社正面奥の素鵞社はスサノオを祀っていることからみてスサノオゆかりの地名です。さらにこの地の「伊夜彦社」の「伊夜」はスサノオの母の「イヤナミ(伊邪那美)」が葬られた出雲の揖屋と関りがありそうです。

 「地名は言葉の化石である」と言語学では言われますが、各地の風土記記載の地名は現代にかなりの確率で残っており、また古代人は「どこどこのだれだれ」と地名にちなんだ名前を付けることが多いことから見て、これらの地名は紀元1世紀のスサノオ時代に遡る可能性が高いといえます。

 また、前記の「建比良鳥=武日照・武夷鳥・日名鳥」名からみて、「平出(ひらいで)」は「ひないで」であった可能性があり、「信濃=ひなの説」「伊那=ひな説」と合わせて考えると、この平出の地は「霊那(ひな)=霊(ひ)の国」であった可能性があります。

④ 古事記は「乾坤(けんこん)初めて別れて、参神造化の首となり、陰陽ここに開けて、二霊(ひ)群品の祖となりき」(太安万侶序文)とし、本文では「天御中主(あめのみなかぬし)」に続いて「タカミムスヒ(高御産巣日:日本書紀では高皇産霊)」と「カミムスヒ(神産巣日:神皇産霊)」の2神を「霊(ひ)を産む夫婦神」=「群品の祖」とし、出雲大社では2神を加えた「別天神(ことあまつかみ)五柱」を正面に祀っています。

⑤ この信濃の地は大国主より6代前のスサノオの時代から筑紫・出雲の海人族との関係が深く、大国主の御子のタケミナカタ(建御名方)は出雲を追われてスサノオ一族の守矢氏を頼ってこの地に逃げてきたのであり、守矢氏一族の国づくりは縄文時代と連続していることがこの平出遺跡からも裏付けられます。

⑥ 古事記によれば、イヤナミの死後、イヤナギは「筑紫日向(旧甘木市ひな城)」でみそぎをして綿津見3兄弟(安曇族:金印が発見された志賀島を本拠地)、筒之男3兄弟(住吉族)、アマテル、月読(壱岐)、スサノオを生んだとしていますが、同時に、スサノオは母の根の堅州(かたす)国に行きたいと泣いたと書いていますから、スサノオは出雲でイヤナミから生まれた長兄としてイヤナギから「海原を知らせ(支配せよ)」と命じられて安曇族や住吉族、月読族、宗像族などを従えた航海王となり、新羅後漢と外交・交易を行ったと考えられます。

 安曇野穂高神社の「御船祭り」などは、物部氏と同じころに安曇族がこの地にやってきたことを示していると考えます。

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⑦ 地方史は4世紀からの大和朝廷の支配が及んだ分析となっていることが多いのですが、紀元前1~2世紀の海人族のスサノオ大国主一族の縄文稲作から鉄器水利水田稲作への転換の解明こそ求められます。

 

9.縄文Emoji(絵文字)説

 日本発の文化として「Emoji(絵文字)」は今や世界標準となっており、線画による鳥獣戯画・浮世絵・劇画・アニメも日本文化として世界に認められています。

 縄文土器の多様な模様はまだ解明されていませんが、サイン・シンボルとして象形文字の前段階の絵文字の可能性があり、今後、さらに検討を進めていきたいと思います。縄文絵文字文化があったことにより、象形文字である漢字のスムーズな受け入れと、表音文字と組み合わせた独自の倭語(和語)の発展に繋がった可能性があります。

 「縄文絵文字説」の方法としては、私たちは「弥生人(中国人・朝鮮人)征服説」をとりませんから、中国の模様にルーツを求めたり、世界各国の古代模様からヒントをえるのではなく、紀元1~4世紀のスサノオ大国主王朝やその後の歴史的な文様の中から絵文字の意味を解明したいと考えます。

 例えば、前述のように土器や女神に見られる蛇様デザインを、記紀や現在の出雲大社の海蛇・龍蛇神信仰や大神大社の蛇神信仰との繋がりで「蛇の絵文字」とみるという方法です。〇は「女性器」、〇〇は「目や乳房」、△は「神名火山」、▽は「女性器」、勾玉形は「霊・魂」、縄文は「結び=産す霊」、渦巻き模様は「土器鍋の中の対流」などの絵文字としての解釈であり、今後の研究課題です。 

<参考資料> 

 ・縄文ノート52 縄文芸術・模様・シンボル・絵文字について

 

10.日本列島文明論と世界遺産登録

 縄文社会研究会のこれまでの取り組みは、物証中心の専門家たちの縄文遺跡研究の学習にとどまらず、「縄文社会」の解明に重点を置き、これからの日本文化・文明の課題や方向を明らかにしようというものでした。

 産業革命以降の近代文明は資本崇拝・支配と階級対立、世界的・地域的な不均等発展、自然・地球環境破壊を招き、ソ連・中国 の社会主義革命もこの資本崇拝・支配(疎外)と不均等発展、環境問題を解決できず、今や砂漠地域の生き残り競争の中で生まれたユダヤキリスト教右派文明とイスラム文明、古代専制国家文明に騎馬民族文明が合体した中華文明の「3つの文明の衝突」が新たな危機として浮かび上がってきています。

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 これに対し、古代専制国家の4大文明論とは異なる、海人族のあらゆる生類(しょうるい)の霊継(命のリレー)を大事にする母系制社会の縄文1万年の文明・文化の解明を図り、「共同体社会文明」から「文明の衝突」「宗教の対立」を超える「共通価値=理念」を明らかにし、次の新しい文明・文化の創造を目指す手掛かりとしたいと考えます。

 世界的にみれば、イギリスのストーンサークル文明、古エーゲ文明(キクラデス文明)、日本列島文明、古マヤのトウモロコシ文明、古インカのイモ文明の5つの「共同体社会文明」が注目されますが、その中で日本列島文明は「海洋交易民文明」「土器鍋食文化」「母系社会文化」「霊(ひ)信仰の八百万神宗教」という特徴を現代に伝えています。

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 その中で、他民族の征服・支配を受けず、紀元1世紀ころの歴史記録を伝える「日本中央縄文文明」の研究は重要であり、「地域論」「産業論」「社会論」「文化論」「宗教論」として日本文明を総合的に研究し、「大河地域―砂漠地域―多島海地域―草原地域」などの地域軸、「農業革命―工業革命―情報革命」という産業軸、「共同体社会―古代専制社会―封建社会―基本主義社会」という社会軸、「自然宗教―霊(ひ)宗教―絶対神宗教」という宗教軸などを総合した比較文明論が必要です。

 今回の合宿では、長野を中心とした日本中央(長野・新潟・群馬・山梨)縄文文明の世界遺産登録条件をクリアできる見通しがある程度つきましたが、さらに日本列島全体の縄文文明の世界遺産登録に向かうべきという提案もありました。その実現に向けては関係する県・市町村の取り組みが不可欠であり、各地の研究者や市民研究グループなどとの連携を図り、その上で検討すべきと考えます。

 なお、すでに縄文時代を起源とする「山・鉾・屋台行事」(宗教文化)と「和食」(生活文化)の2つがユネスコ無形文化遺産に登録されており、これに神那霊山信仰や御柱祭りなどの宗教行事と縄文遺跡を加えて統一的な説明を行うことにより世界遺産登録は容易になると考えます。縄文土器や遺跡のハードからだけのアプローチにしないことが重要です。

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<参考資料> ・200729「縄文からの『日本列島文明論』」  

       ・200307→0802「『日本中央縄文文化』の世界遺産登録をめざして」 

 

11.「縄文文化韓国起源説」について

 今回、朝鮮半島南部から縄文土器の出土が増えているという指摘がありましたが、黒曜石やヒスイなどを含めて環日本海の海人族の活発な交流・交易活動が明らかになってきています。

 日韓・日朝関係については、戦前には「日鮮同祖論」による朝鮮国の植民地化と皇国皇民化があり、戦後には日本では「弥生人による縄文人征服説」「騎馬民族征服説」が登場し、韓国では「日本人の起源は韓国だった」という説もあります。縄文論については「縄文国粋主義」などの批判もありますから、朝鮮半島における海人族と農耕族、北方騎馬民族と日本の海人族の関係については、両国の偏狭な民族主義に左右されることなく「汎地域主義(グローカル)」の視点での解明を今後の課題としたいと考えます。