ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート55(Ⅱ-7) マザーイネのルーツはパンゲア大陸

 2014年6月に縄文社会研究会に向けて書いたレジュメ「『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」を「縄文ノート25」としてアップし、そこでは「3大穀物などイネ科のマザーイネのルーツはパンゲア大陸」という仮説を提案しましたが、それを証明する新たなデータが見つかりましたので、紹介いたします。

 人類がアフリカで生まれ、アフリカから各地に広がったように、はるか前の三畳紀(約2.5~2.1億年前)に陸地がゴンドワナ大陸(南のパンゲア大陸と北のローラシア大陸)の1つであった時、そのパンゲア大陸で米・麦・トウモロコシなどのイネ科植物は生まれて広がり、大陸の分裂により各大陸に野生種がそれぞれ残り、そこからの栽培種が生まれたという全史を明らかにできたと考えます。

 そのうちのアジアイネ(インディカイネとジャポニカイネ)のルーツについては、遺伝子学の分野で「長江流域一元説」と「インディカ・ジャポニカ二元説」で争われ、日本への伝来については「朝鮮半島説」「長江流域説」「南方説」で、時期については「縄文稲作説」「弥生稲作説」で議論されていますが、言語論や食生活・民族論、宗教論など総合的に決着をつけるべきと考えます。

 地球温暖化の異常気象による干ばつ・洪水などによる食料危機がアフリカや中央アジアなどの民族紛争の危機を高めており、今こそ農業と食の文明史をたどってみる必要があると考えます。                       210211 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

1.再掲:「3大穀物(米・小麦・トウモロコシ)単一起源説」について

 ―「縄文ノート25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』140613」より

 小麦は、中央アジアコーカサス地方から西アジアのイラン周辺が原産地で、1粒系コムギの栽培は1万5千年前頃に始まり、7500年前頃に普通コムギの栽培がメソポタミア地方で始まり、5000年前ごろにヨーロッパやアフリカに伝えられたとされています。

 一方、水田稲作は、揚子江下流の彭頭山(ほうとうざん)遺跡で8000年前頃、河姆渡(かぼと)遺跡で7000年前頃から開始されたとされ、日本では3000年前頃とされています。

 しかしながら、灼熱の気候のアフリカ・インド・東南アジアでは有機物は痕跡を残さず、植民地化され近代化が遅れた国々では、旧石器時代新石器時代の研究は遅れている可能性があります。「考古学のデータ限界」です。

 小麦と米は同じイネ科であることから、「米・小麦同一地域起源説」がアフリカ中央部の熱帯地域において成立する可能性はないでしょうか? 

 さらに、飛躍した仮説になりますが、イネ科のトウモロコシやアワ・ヒエ・キビ、サトウキビ、竹などを含めて、全て単一の「マザー・イネ科」のルーツがアフリカの可能性はないでしょうか?

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 パンゲア大陸ペルム紀から三畳紀)の時代でみれば、アフリカのニジェール川流域は南アメリカの東端に接しており、アメリカ大陸にしかないトウモロコシのルーツは西アフリカに近接していたこの地域の可能性が高いといえます。通説では最初の被子植物ジュラ紀(約2~1.5億年前)に裸子植物から分化したとされていますが、その前の三畳紀(約2.5~2.1億年前)に分化したとする説もあり、後者であればその可能性はあります。

 人類の「アフリカ単一起源説」と同様に、「小麦・米・とうもろこしのイネ科三大穀物単一起源説」を検討してみるべきと考えます。

 

2.イネ目・イネ科の分布

 イネ目というのは前回、調べていなかったのですが、アメリカ大陸・西インド諸島の原産とされるパイナップルなども含まれ、このパイナップル科は熱帯のブラジルが原産地とされています。

 他のラパテア科南アメリカと西アフリカの熱帯地帯、トウエンソウ科は主に熱帯および亜熱帯、マヤカ属はメキシコからアルゼンチンにかけての中南米西インド諸島アメリカ南東部、中央アフリカサンアソウ科はおもに南半球の熱帯・亜熱帯、南アフリカマダガスカル、オーストラリア、ニュージーランドインドシナ、チリなどに分布し、トウツルモドキ科は主に熱帯に分布しているとされ(ウィキペディアによる)、熱帯・亜熱帯性の赤道付近で広がった植物であることが明らかです。

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 イネ目イネ科は「イネ・コムギ・オオムギ・カラスムギ・ライムギ・キビ・アワ・ヒエ・トウモロコシ・シコクビエ・モロコシ」などの穀類や、タケ・マコモ・サトウキビ・ハトムギ・ヨシ(あし:葦)・ススキなどです。

 表のようにイネ・ヒエ・トウモロコシ・サトウキビは熱帯・亜熱帯が原産地ですが、コムギ・オオムギ・キビ・アワは北緯30~45度の中央アジアの乾燥地帯が原産地とされています。

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3.T.Tチャン氏の「イネ科起源ゴンドワナ説」

 生物や人類について進化の系統樹が作成され、DNA分析により人類の誕生がアフリカ大陸であることが解明されながら、重要な食料のイネ科植物のDNA分析から原産地が突き止められていないことに疑問を持っていました。

 佐藤洋一郎氏についてはネットでたまたま論文を知って「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」で引用したのと、茅野市の「縄文文化講座」の内容をまとめた『縄文謎の扉を開く』で「イネはいつから日本にあったか」を読み、NHKのDVD「人間は何を食べてきたか」シリーズで見ただけで、恥ずかしいことに氏の膨大な本を読んではおらず、やっと2週間前に10冊ほどの著書を図書館で借りて走読みしたところです。

 氏の多方面にわたる素晴らしい研究活動を知らなかったのですが、『イネの文明 人類はいつ稲を手にしたか』(PHP新書2003/7)によれば、オリザ(イネ目・イネ科・イネ属・イネ)の起源地の研究論文は1つしかなく、国際イネ研究所T.T.チャンが1976年に書いた論文でゴンドワナにあったという説が紹介されていました。

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 1976年という古いチャン説が今も成立するのかどうか、とっくに最新のデータがあるのかどうかわかりませんが、チャン説は私のマザーイネ(イネ目・イネ科)のルーツがパンゲア大陸の南半球のゴンドワナ大陸、現在の西アフリカとブラジルの接したあたりにあったという図1の仮説図を裏付ける説です。

 

4.イネの長江流域ルーツ説は成立しない

 この図4をもとに、図1のパンゲア大陸の図に現在の野生イネの分布域を落とすと、図5のようになります。

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 この図から明らかなように野生イネの分布はパンゲア大陸の赤道から南にであり、気候条件からみて北半球のローラシア大陸の北端に近い長江流域が原産地ではないことが明らかです。

 野生イネが南アメリカと西アフリカにありながら、イネ科のトウモロコシがアメリカ大陸にしか見られないことを見ても、最初のイネ科植物、マザーイネが誕生したのは両大陸が接していたゴンドワナ大陸時代であることが明らかです。

 西アフリカのニジェール川流域が原産地とされるヒョウタンが若狭の鳥浜遺跡や青森の三内丸山遺跡から発見されていることや「主語-目的語-動詞」言語族の分布からみても、イネはゴンドワナ大陸時代にまず西から東へと伝搬して野生のアフリカイネから野生のインディカが生まれ、雨季と乾季のある東インドミャンマーで野生熱帯ジャポニカが生まれ、ヒマラヤとミャンマーラオスの山岳地帯で寒さに強い温帯ジャポニカが栽培されるようになり、雲南から長江流域を下って野生イネとともに長江中・下流伝わるとともに、ドラヴィダ海人‣山人族によって、ヒョウタンに米などを入れて南廻りの「海の道」を竹筏と丸木舟により日本列島に伝えられたと考えます。

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 私は「嫌中嫌韓派」ではありませんが、習近平主席の「中華民族の偉大なる復興」という「中華民族の最も偉大な夢」という政治目標に沿って、長江流域の野生種から温帯ジャポニカが生まれ、さらに東南アジア・南アジアの野生イネとの交配でインディカ米が生まれたなどといった説が日本の研究者によって定着することがないこと強く願っています。

 

5.イネ科の小麦・大麦・黍・粟などのルーツも赤道直下のゴンドワナ大陸

 では中央アジアの乾燥地帯が原産地とされるコムギ・オオムギ・キビ・アワのルーツは南半球のゴンドワナ大陸か、それとも北半球のローラシア大陸なのでしょうか?

 そのヒントとなるのが、Massimo Pietrobonさん(アーティスト)が作成した図7のパンゲア大陸に現代の国々当てはめた図で、そこにイラン・イラク・トルコなどの読み取れる国名を記して掲載します。

https://www.indy100.com/discover/map-of-what-did-the-world-look-like-300-million-years-ago-panega-maps-7710571

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 この図7が地質分析からみて科学的かどうかは私には判断できませんが、コムギ・オオムギ・キビ・アワの原産地とされているトルコ・イラクアフガニスタンゴンドワナ大陸サウジアラビアの東に位置しており、図8のように左廻りに旋回してローラシア大陸と合体するのであり、イネやヒエ(サハラ砂漠以南が原産地)と同じくコムギ・オオムギ・キビ・アワもまたゴンドワナ大陸が原産地であることが明らかです。

  イネ科の「イネとヒエ」「コムギ・オオムギ・キビ・アワ」「トウモロコシ」のゴンドワナ大陸での分布を重ね合わせると、図9に示すようにアフリカと南アメリカが接したあたりがイネ科植物の「マザー・イネ」の故郷と考えられます。

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6.DNA分析の「サンプルの罠」

 私は佐藤洋一郎氏のDNA分析による「縄文時代陸稲(熱帯ジャポニカ)が栽培されていた」「日本のイネは朝鮮半島から伝わったものではない(図10参照)」という説や、氏の「DNA考古学」「稲作文明論」「食の人類史」「古代巨樹信仰」「里と森の環境論」などの幅広い研究と多くの著作活動は高く評価しますが、「温帯ジャポニカ長江流域起源説」からの日本の水田稲作伝搬説には同意できません。      

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 佐藤氏が「インディカイネ長江流域起源説」を批判しているのは正しい判断と考えますが、「長江流域から見つかった野生イネから温帯ジャポニカが生まれた」という説は成立するでしょうか?

 「縄文ノート28 ドラヴィダ海人・山人族による稲作起源説」で書きましたが、モン(苗=ミャオ)・ミエン(ヤオ)語族などによって「雲南地方から野生イネと温帯ジャポニカが同時に長江を下って伝わった」という可能性を否定できない限り、「長江流域から見つかった野生イネから温帯ジャポニカが生まれた」という説は1つの仮説に留まります。

 図5に示したように、イネの原産地はゴンドワナ大陸の熱帯地域であり、寒冷なローラシア大陸の外れがイネの原産地である可能性はありません。

 DNA分析がどんなに科学的であっても、「サンプルの罠」を逃れることはできないのです。長江流域で見つかった「野生イネと温帯ジャポニカ」のセットが他地域から持ち込まれた可能性があれば、長江流域が温帯ジャポニカの原産地とは言えないのです。

 「毛髪のDNAが関係者Xと一致した」といっても、「その毛髪は以前にYが現場に残したものである」「その毛髪は真犯人Yがわざと現場に置いた」可能性が排除できなければ、Ⅹを真犯人と決めつけることができないのと同じです。 

 

7.温帯ジャポニカの種の選別を行ったのは誰か?

 佐藤洋洋一郎氏の温帯ジャポニカ米のDNA分析(表2)によれば、RM1遺伝子は中国では「a~g」があり、朝鮮ではbのほかは全てあるのに対し、日本では「a、b、c」しかなく、「d~g」がないのです。

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 「サンプルの罠」を免れないことを前提にしたうえで考察すれば、日本には「中国から選別された品種のイネだけが持ち込まれた」か、「日本での栽培で種の選別・純化(品種改良)が進んだ」か、「中国以外の地域から選別された品種のイネが持ち込まれた」という3つの可能性があります。

 すでに「縄文ノート28 ドラヴィダ海人・山人族による日本列島稲作起源」で述べたことの繰り返しになりますが、もしも長江流域から水田稲作が伝わったのなら、関係する言葉は全て「呉音漢語」のはずですが、表3に示すように、むしろドラヴィダ語系の「倭音倭語」なのです。

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 人間の移動と稲作技術・米食文化、言語の伝播なしに「物(ブツ)」だけが伝播することなどありえないのであり、「サンプルの罠」を免れない「ただもの(唯物)主義」「物証絶対主義」で稲作・米食のルーツを決めるべきではないと考えます。

 RM1-abc遺伝子の温帯ジャポニカはなぜ生じたかですが、多様なRM1-a~g遺伝子の栽培を行っていたアバウトな中国人や朝鮮人が「品種選別・品種改良」を行ったとは考えられません。イネの「選択的持ち込み」あるいは「選択的栽培」を行ったのは倭人であり、弥生人(中国人・朝鮮人)ではないのです。

 

8.「葦原中国」「葦原水穂国」とは何か?

 「縄文ノート24 スサノオ大国主建国からの縄文研究」などで書いてきたことの繰り返しになりますが、記紀スサノオ大国主の国を「葦原中国(あしはらのなかつくに)」「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂(みずほ)国」としています。

 重要なのは「葦原」と「千秋長五百秋」という2つのキーワードです。スサノオ大国主7代の建国は葦(ヨシ・アシ)が生える沖積平野で「水穂」を栽培することによって行われたと考えます。

 このイネ科の「葦」は世界の温帯・熱帯地域が原産地とされており、同じイネ科のイネと同じ気温・水環境の条件で栽培できたことを示していると考えます。

 注目したいのは、何度も書きましたが「千秋長五百秋」というと、スサノオ大国主の活躍した起源~2世紀から遡ると唐津市あたりから各地に「水辺水田稲作」が始まった紀元前10~5世紀のころであり、さらに「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」(出雲国風土記)と書かれたように、鉄先鋤により大国主一族は鉄器水利水田稲作を葦原の沖積平野で大規模に行い、妻問夫招婚により百余国の統一を成し遂げたことを記紀は伝えているのです。

 古事記日本書紀の「神代」の神話は天皇家による8世紀の創作として無視されてきましたが、スサノオ大国主建国をリアルに伝えているのであり、その分析は縄文時代の歴史解明に欠かせないと考えます。

 「倭音倭語」と「呉音漢語・漢音漢語」との関係は、記紀分析によって始めて明らかにでき、その「倭音倭語」の分析から縄文時代の宗教・農耕・民俗・文化が明らかにできるのです。

 

◇参考◇

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

縄文ノート53(Ⅵ-28) 赤目砂鉄と高師小僧とスサ

 前回で縄文社会研究会・東京の八ヶ岳合宿関係の資料の紹介は終えようと思っていたのですが、「縄文時代の終章」をとして、諏訪地方における「鉄器時代」の始まりについて書いたレジュメを追加したいと思います。

 もしも縄文文明論・日本列島文明論を「中国文明」の一部としてではなく、世界文明史の中に位置付けて発信し、「日本中央縄文文明」の世界遺産登録を目指すなら、「旧石器-縄文-弥生-古墳」などという土石文明史観の時代区分はあまりにもお粗末であり、「石器-土器(新石器)-鉄器」時代区分とすべきと私は主張してきました。

 私は日本の石器・土器研究などは素晴らしいと考えますが、この重要な文明史時代区分の決定を石器・土器好きの考古学者だけで決めていいとは考えません。「文化を含めた文明」となると、言語学・宗教学・民族学民俗学生態学・農学・建築土木学・遺伝子学などの関係者全体で「日本列島文明時代区分検討プロジェクト」を立ち上げて決めるべきでしょう。

 縄文社会研究会・東京では、石飛仁氏はスサノオ大国主を「縄文最後の王」説を提唱し、私は「鉄器水利水田稲作時代を切り開いた建国王」説を提案してきましたが、諏訪の地はそのフィールドワークを行ううえで恰好の地と考えます。そのような視点で、機会がありましたら、是非とも訪ねてみていただきたいと思います。210208 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

      Ⅵ-6 赤目砂鉄と高師小僧とスサ

                                                                                                       201106・09→210208

 「縄文時代」はいつ終わったかについて、通説は紀元前10世紀頃の「弥生時代」という「弥生式土器」などない「縄文式土器時代」に遡らせるという言葉の誤魔化しを行ってきています。弥生式土器は「東京都文京区弥生」から出土しており、東京から新しい時代が始まったなどという名称は捨てるべきでしょう。

 「土器分類」から離れて、紀元前930年頃の佐賀県唐津市の菜畑遺跡の「水田稲作開始」から新しい文明時代に入ったというなら、その発見地にちなんで「菜畑時代」と言い換えるべきでしょう。

 それにしても土器区分から稲作開始に歴史基準を変えるのなら、「焼畑陸稲稲作→水辺水田稲作沖積平野での鉄器水利水田稲作」という稲作の歴史の発展段階のどこを基準にするか、徹底的に議論して決めるべきでしょう。水辺水田稲作段階のたった1つの菜畑遺跡で縄文時代の終わり、水田稲作時代の始まりとするなど、科学とは程遠いフライイングと言わざるをえません。「土器1つ、遺跡1つで歴史時代は変わる」など、素人の私には考古学・歴史学はまともな科学とはとても思えません。

 渡来人(朝鮮人、長江流域江南人)が唐津に上陸して水田稲作技術を始めたので「漁撈狩猟採取の縄文時代は終わり、水田稲作時代が始まった」というなら、稲作に関わる用語は朝鮮語か中国語のはずですが、そのすべてが「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層言語構造になっており、しかも倭音倭語はドラヴィダ語と似ているのです。さらに米を土鍋で炊いてカラスに与える南インドの「ポンガ」と青森・秋田・茨城・新潟・長野の「ホンガ」の宗教行事が同じであり、日本人に一番多いY染色体Ⅾ型のDNAがチベットブータンミャンマーラオスなど東南アジア高地に見られ、赤米(赤飯)やもち米を好む同じ嗜好性がこの照葉樹林帯に見られることをどう説明し、どう整合性を図るのでしょうか?

 土器好きの考古学者・歴史学者だけで、日本列島人の歴史区分を決めていいというものではないでしょう。

 私は縄文土器鍋によって健康で豊かな「煮炊きイモ豆栗6穀食」を確立し、その稲作技術・米食文化の上に葦原の沖積平野で鉄器水利水田稲作を広めた、スサノオ大国主の「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」「葦原中国(あしはらのなかつくに)」(古事記日本書紀)の建国があったと論証してきており、スサノオ大国主時代を縄文時代からの転換点と考え、「石器―土器―鉄器」の時代区分を提案してきています。

 この2020八ヶ岳合宿関係のレジュメの連載の最後として、諏訪地方における「縄文時代の終わり」と「鉄器時代」について考察しておきたいと考えます。

 

1.物部氏と製鉄

⑴ 鉄器時代の開始とスサノオ大国主7代

 私は縄文1万数千年からの大きな転換点は紀元前10世紀からの「弥生人(中国人・朝鮮人)の水田稲作開始による弥生時代」という外発的発展説ではなく、紀元1~2世紀の「スサノオ大国主7代からの鉄器水利水田稲作」による建国という内発的発展説であり、その「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂(みずほ)国」「葦原中国(あしはらなかつくに)」建国は、「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と呼ばれた大国主と阿遅鉏高日子根親子らの鉄先鋤による百余国の葦原の沖積平野への水利水田稲作の普及によるものと書き続けてきました。

 日本書紀の一書(第六)は、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」「動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」「百姓(おおみたから)、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と彼らが水穂国王・鉄先鋤王・天下造王・天下経営王・農業革命王であったことを伝えています。―「縄文ノート24 スサノオ大国主建国論からの縄文研究の方法」参照

 新羅と米鉄交易を行っていたスサノオが十拳剣(韓鋤之剣:韓製の鋤の鉄先を鍛えなおして作った剣)でヤマタノオロチを切った時、オロチの大刀(草薙大刀)に当たった十拳剣は欠けたと古事記は伝えていますから、オロチはより高度な鉄技術を持っていたことを示しています。この草薙大刀は後に天皇家の「三種の神器」の1つとされていることからみて、オロチは大蛇などではなく製鉄王であり、オロチ王→スサノオ天皇家へ王位継承が行われたことを神話形式で示してます。

 そしてオロチ王を切った韓鋤剣(からすきのつるぎ)が吉備の赤坂(岡山県赤磐市)の石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社(備前国一宮)に置かれたことからみて、オロチは吉備の赤坂を拠点とした製鉄王であり、その国の支配を任された物部氏スサノオ一族とみて間違いありません。

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 この赤坂郡は後に備前国府国分寺が置かれた拠点であり、「真金吹く」が「丹生」「吉備」にかかる枕詞であることからみて、近くの赤穂や明石と同じく赤鉄鉱の「赤目砂鉄(あこめさてつ)製鉄」の拠点であった可能性が高く、その吉備国を出雲王スサノオが奪い、物部一族に支配させたという歴史を伝えていると考えます。

 この物部氏は安曇族(イヤナギの子:出雲で産まれたスサノオの筑紫の異母弟)とともに1世紀頃に諏訪地方に入り、スサノオ7代目の出雲の大国主の御子の建御名方は筑紫の大国主の御子・穂日との後継者争いに敗れて2世紀にこの物部氏(物部守矢氏一族)を頼って出雲から越を経て諏訪に逃げてきたと考えます。物部氏は製鉄部族であり、大和朝廷のもとでは石上神宮を拠点として武器製作・管理・支配を任されており、諏訪の地にも製鉄技術をもたらしたと考えます。

 「守矢氏は縄文系、建御名方は弥生系」という弥生人による縄文人支配説も見られますが、同じ出雲系であると私は考えます。 

⑵ 製鉄王スサノオと物部一族

 播磨国風土記は「鉄生う」とされる宍禾郡(しそうぐん:粟宍郡)で大国主は安師(あなし)比売に妻問いし、その南の讃容郡(さようぐん:佐用郡)では大国主の妻の佐用都比売が「金(かね)の鞍を得たまひき」の記述があり、さらにその南の赤穂郡では最大級の銅鐸の鋳型が発見され、出雲にたたら製鉄を伝えた金屋子神は宍禾郡から備前赤坂、備前中山(吉備津神社あり)をへて、日野市を出雲の奥日田に移動したことが各地の伝承に残っていることからみて、わが国の製鉄のルーツは赤目砂鉄や赤鉄鉱を産する西播磨から備前にかけての地域と考えられます。

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 日本では紀元前4~紀元2世紀にかけて高度な鋳造技術を要する銅鐸が製作されており、同時に鉄が伝来したことが明らかとなっていますが、国内での製鉄遺跡は未発見です。しかしながら3世紀の送風管が博多・出雲・小松・大和(纏向)で、送風管と砂鉄が徳島市で、鍛冶工房跡が三原市で発見されていることからみて、3世紀には西日本全域で鍛冶が行われていたことが明らかであり、それに先立って製鉄が行われていたことは確実と言えます。

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 酸化鉄の還元は「400度から800度あれば進行でき、温度が低ければ固体のまま還元して酸素を失った孔だらけの海綿上の鉄になり、もっと温度が高ければ、粘いあめ状の塊になる。これを鍛錬して鉄でない部分を十分に除去すれば、立派な鉄となる」(中沢護人『鋼の時代』岩波新書)とされます。一方、銅鐸や銅槍(通説は銅剣)・銅鉾を製造していた職人は、フイゴで炭火をおこし、青銅の融点 875℃、銅の融点1085℃以上で銅を溶かしていたのであり、鍛冶職人は600~900℃で鉄を打っていたことからみて、赤目砂鉄を使った400~800℃の低温でできる銑鉄(鋳鉄、銑(ずく))の製造は技術的には容易であったと考えられます。

 この銑鉄は硬いが割れやすく、スサノオの韓鋤剣(からすきのつるぎ)がオロチ王の都牟刈大刀(つむがりのおおたち)、別名、蛇の麁正(おろちのあらまさ)に当たって刃こぼれしたという神話は、スサノオの韓の鋤先の鉄を鍛えなおして作った銑鉄の剣は脆く、オロチ王の大刀は粘りのある鋼(はがね、鋼鉄)であったと考えられます。米鉄交易を通して新羅の地で製鉄技術をえたスサノオは、赤目砂鉄のとれるオロチ王の赤坂の地でさらに高温の製鉄法を習得し、「朱砂王=すさのおう=赤目砂鉄製鉄王」と呼ばれたと私は考えています。

 天皇家の「三種の神器」として武力支配の象徴とした「麁正(おろちのあらまさ)」はこの最先端の製鉄技術の鋼鉄剣であり、その「真金吹く」と歌われた備前赤坂の地を支配していたのが製鉄部族の物部氏なのです。この赤坂(現赤磐市)には後に備前国府と国分寺が置かれすが、その南の長船(おさふね)鎌倉時代の名刀「備前長船」の産地として全国に名がとどろいています。 

⑶ 製鉄伝播の経路

 では、このスサノオ新羅からの入手した製鉄技術より前の、吉備のオロチ王はどこから高度な製鉄技術を獲得したのでしょうか? 韓鋤剣(からすきのつるぎ)が銑鉄刀であったことからみて新羅経由ではなかった可能性が高いと思われます。

 「NHKスペシャル アイアンロード~知られざる古代文明の道」(2020年1月13日、10月13・20日)では、「ヒッタイト(紀元前1500~2000年頃)→スキタイ→中国→朝鮮→倭」への「絹の道」よりも古い「鉄の道」の存在を伝えています。               

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 一方、日立金属HPの「たたらの由来」では、「たたら」の語源として「百済新羅との交渉の場のたたら場、たたら津」説とともに、窪田蔵郎氏の「ダッタン語のタタトル(猛火のこと)からの転化説」、安田徳太郎氏の「古代インド語のサンスクリット語でタータラは熱」説を紹介し、東インドからインドシナ半島ルート説と、雲南高地経由の中国南方ルート説を紹介しています。

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 後者の雲南経由はは銅鐸のルーツが春秋戦国時代(紀元前770~221年)の「越」であるという説や長江流域稲作ルーツ説、照葉樹林文化説と矛盾のない説になります。

 しかしながら、日本列島人起源論(チベット等のY染色体Ⅾ系統)や日本語起源論(ドラヴィダ系)、ジャポニカ稲作・食文化起源論でみたように、私は「東インド・東南アジア高地→ミャンマー海岸部→スンダランド(水没)→琉球」のドラヴィダ系海人・山人族の日本列島への「海の道」を考えており、この「海の道」を通っての何次にもわたる移住によるインド鉄の伝来があったと考えます。―「縄文ノート43 DNA分析からの日本列島人起源説」「縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源」「縄文ノート28 ドラヴィダ系海人・山人族による日本列島稲作起源」参照

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 朝鮮・中国南方から製鉄・鉄加工技術などが伝わったのなら、関係する言葉は朝鮮語・中国語になるはずですが、金属・金属器の倭音・呉音・漢音を調べてみると、全てに倭音倭語があり、借用読みとしては「金・銅・鋼・刀」は呉音・漢音、「鉄・剣」が漢音、「鏡」が呉音で、「鑪(たたら)」や元々石製・木製であった日常生活用具や武器の「槍・鉾・鏃」などには呉音・漢音が借用されていません。

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 「かね(金・鉄)」から「あかがね(銅)・くろがね(鉄)・はがね(鋼)」の倭音倭語が生まれた可能性が高いことからみても、江南の呉や河北の漢から「呉音・漢音」読みの金属や金属器が伝わる以前に、わが国には金属の「かね」の倭音倭語があり、さらに道具・武器類の倭音倭語もあったことが明らかです。

 この倭音倭語のルーツは「縄文ノート38 『霊(ひ)』とタミル語『pee(ぴー)』とタイ『ピー信仰』」「縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源」などでみたように、ドラヴィダ系海人・山人族の可能性が高いと考えます。宗教や稲作言語が倭音倭語であり、インド東部・東南アジア高地から「海の道」ルートを通り、わが国に旧石器時代縄文時代に何次かに分けて到達した可能性が高いことからみて、第1段階の「かね(鉄)」技術もまた「海の道」ルートからわが国に伝わった可能性が高いと考えます。

 その後に江南から直接九州に呉音漢語とともに第2段階の「テチ・テツ(鉄)」技術が伝達された可能性が高く、浙江省から紀元前210年に始皇帝の命令で「東方の三神山(蓬莱・方丈・瀛州)」に長生不老の霊薬を求めて出港した徐福などもその有力な候補として考えられます。呉音漢語の漢字を持ち込んだとなると、文字が読み書きできる儒学者か高級官僚しか考えれられず、徐福一行は最有力候補となります。

 徐福は諏訪富士の別名を持つ蓼科山に住んで双子を儲けたとされ、彼らが遊んだ場所を「双子池」や「双子山」と名付けたという伝承が佐久市に残っていますが、佐賀市伊根町・熊野市・新宮市など他に全国9か所に徐福伝説が残っており、この蓼科山徐福伝説を安易に無視することはできません。

 私が仕事したことのある山口県油谷町(現長門市)には楊貴妃伝説が、静岡県御津町(現豊川市)には大国主上陸伝承が、青森県東北町には坂上田村麻呂が「日本中央」と石に刻んだという記録がありますが、関係者がやってきたことは事実で、それが楊貴妃大国主坂上田村麻呂がやってきたと置き換わったと私は考えており、蓼科山徐福伝説も3000人とされるうちの1人かその子孫の可能性があると考えます。 

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⑷ 諏訪地方の製鉄

 諏訪地方の縄文社会・文化が次のスサノオ大国主一族の「葦原中国」時代の鉄器水利水田稲作にどう続いているのかの解明においては、スサノオ一族の物部氏の「守矢氏」と、スサノオ7代目大国主の子の建御名方の役割が重要であり、「縄文ノート39 『トカゲ蛇神楽』が示す龍蛇神信仰とヤマタノオロチ王の正体」において、スサノオの製鉄について触れるとともに、スサノオ6代目(大国主の義父:代々襲名)と守矢氏の蛇信仰について触れましたが、守矢氏と製鉄の関係について説明していませんでした。

 諏訪に移った物部氏(守矢氏)はこの地でも製鉄を行っていた可能性が高く、以下、考察を進めたいと考えます。 

 

2.富士見町の製鉄遺跡

 富士見町の井戸尻考古館と歴史民俗資料館は、縄文農耕と製鉄研究にとって極めて重要なレベルの高い展示を行っており、「縄文ノート21 八ヶ岳縄文遺跡見学メモ」において「私はスサノオ大国主一族により、紀元1~2世紀に播磨(明石・赤穂)・吉備(赤坂)の地で『赤目(あこめ)砂鉄製鉄』が行われていたという仮説を立てていますが、この館には赤目砂鉄を含む様々な鉄鉱石が展示してあり、学芸員の問題意識のレベルの高さを感じました。近くに金沢という地名があることからみても、この地で『赤目(あこめ)砂鉄製鉄』が行われていた可能性が気になりました」と書きましたが、この館の展示は製鉄研究において大きな価値があると考えます。

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 井戸尻考古館と歴史民俗資料館は第1級の重要な縄文・製鉄の施設でありながら、現状ではありふれた地方の縄文・民俗資料の展示施設として見学者も少なく、注目されていないのが実に残念です。せめて展示方法を一新するか、もっとテーマ性を強く打ち出してホームページを大幅に更新していただきたいものです。ここでは、製鉄に関してその重要性を明らかにしたいと思います。

⑴ 米鉄交易と古代の鉄生産

 魏書東夷伝辰韓条の「国、鉄を出す、韓・濊(わい)・倭皆従いてこれを取る。諸市買、皆鉄を用いること、中国の銭を用いるが如し」によれば、倭国へは「従いて取る」という方法と「諸市買、皆鉄を用いる」という2つ方法で辰韓(後の新羅)から鉄が輸出されていたことが明らかです。

 『三国史記新羅本紀によれば、4代目新羅国王の脱解(たれ)倭人で、紀元59年に倭国王と国交を結んだとしていますが、古事記スサノオが「海を支配」をイヤナギから命じられ、日本書紀スサノオ新羅に渡った記述がありこれを裏付けています。

 さらに神話時代32代の王の即位年の統計的推計(安本美典氏の方法を神話時代に遡らせた)によればスサノオの即位年は60年頃となり、57年に後漢から金印を与えられ、59年に新羅と国交を結んだ倭王(委奴王)はスサノオ以外にありえないことが明らかです。―『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』、『季刊山陰』38号参照

 

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 魏書東夷伝倭人条によれば対馬壱岐国の人たちは「乗船南北市糴(してき)」していたとされ、「糴」を漢字分解すると「入+米+羽+隹」で、彼らは「鳥(隹)の羽のような帆船に乗り、辰韓の市で米を売って鉄を入手」する南北交易を行っていたことが明らかです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 寒冷化が進んだ当時、寒冷な新羅では稲の不作に陥り、深刻な食糧危機に直面し、倭人・脱解を王として倭国王スサノオと国交を結び、米鉄交易を開始したと考えられます。「委奴(いな)国」は「稲(いな)国」であり、「葦原中国」は温暖な「豊葦原の水穂国」であったのです。

 「従いて取る」は委奴国王スサノオとの国家交易、「諸市買、皆鉄」は対馬壱岐の人々との民間交易という2つの方法による「有無の交易」(有=米、無=鉄)の米鉄交易が紀元1~3世紀には確実に行われていたのです。鉄先鋤による葦原の沖積平野の水利工事・開墾・開田は飛躍的なコメ生産を促しますから、米鉄交易はウインウインの拡大再生産をもたらしたのです。

 なお「従いて取る」は鉄交易ではなく鉄鉱石の採掘権を与えられたことを示しており、倭人新羅で製鉄を行い、帆走丸木舟で鉄製品を運んでいたのです。薄くて軽い弥生式土器は、海水に塗れないように米を運搬するために使われ始めたと考えられ、重い米を入れた土器や鉄はバラスト(重し)として、帆走には欠かせないものであったと考えます。

 

⑵ 「赤目(あこめ)砂鉄」製鉄・「高師小僧」製鉄の可能性

 日本書紀によればスサノオ五十猛命(いたける:委武)親子は新羅で宮殿を建て、船を作る木や燃料用の木など種々の木種を持って渡ったものの、「住みたくない」と早々と出雲に帰ってきて、国内で植林したとされています。おそらく赤鉄鉱石からの製鉄技術を習得し、国内生産を考えたものと思われます。当時、赤鉄鉱や赤目(あこめ)砂鉄は出雲にはなく、中国山地南側の吉備や播磨、安芸などにしかありませんから、スサノオはオロチ王を殺して吉備の地を支配して製鉄を開始した可能性が高いと考えられます。

 スサノオの名称は「朱砂(すさ)王」であり、「真金吹く吉備」と歌われた吉備(赤坂)と播磨国風土記に出て来る播磨東部(赤穂:巨大銅鐸の鋳型発見)などが製鉄の拠点であったと考えてきましたが、長野県富士見町もまた物部氏の製鉄拠点であった可能性があります。

 富士見町歴史民俗資料館には金屋製鉄遺跡の鉄滓(てっさい:金糞(かなくそ)ノロ、スラグ)、鉧(けら:選別された良い部分は玉鋼(たまはがね))、赤目(あこめ)砂鉄、高師小僧(アシや水田のイネの根の周囲に鉄バクテリアにより生成される褐鉄鉱。地名からの命名)が展示されていますが、注目すべきは「炉壁 スサ入り」の展示も見られることです。

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 これまで、日本の製鉄と言えば出雲の磁鉄鉱の「真砂(まさ)砂鉄」を使った「たたら製鉄」が注目されてきましたが、純度は高くないが加工がしやすいとされる「赤目(あこめ)砂鉄」製鉄や「高師小僧」製鉄の痕跡こそ追究すべきと考えます。これまで「赤目砂鉄」や「高師小僧」について取り上げた展示施設を私は目にしたことがなかったのですが、昨年秋に始めて富士見町歴史民俗資料館で目にして感動を覚えました。

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 今年の8月の縄文社会研究会・東京の八ヶ岳合宿において、「守矢氏」の御左口神信仰(ミシャグチ神=御蛇口神)を確認することができ、守矢氏とスサノオ一族の物部氏備前赤坂を拠点とした製鉄との繋がりを明らかにすることができたことにより、諏訪における古代製鉄研究の必要性を強く感じています。

 富士見町の金屋製鉄遺跡は「平安時代」とされていますが、物部一族による紀元2~3世紀の遺跡が見つかる可能性があると考えます。

 

3.井戸尻考古館・富士見町歴史民俗資料館への期待

 富士見町には2つの素晴らしい展示施設がありますが、残念なことに町にとっても全国民にとってもこの価値のある宝を活かしきれていないと感じます。

 諏訪地方の縄文観光は、地の利と施設レベル、2つの女神像から「尖石縄文考古館」が多くの見学客を集めていますが、その価値から言えば、井戸尻考古館と富士見町歴史民俗資料館は同等、あるいはそれ以上の重要な位置を占めていると私は考えており、他の諸施設と連携を図りながら磨き上げ(ブラッシュアップ)を検討してほしいものです。

⑴ 「縄文農耕・縄文食」のテーマ博物館化

 他の施設が土器や土偶などを中心にした「遺物展示施設」であるのに対し、縄文農耕・縄文食のテーマ博物館とした日本初の施設として、照葉樹林文化論の紹介なども含めた世界的な視野での展示とし、「イモ栗豆6穀の里づくり」など民間の健康食の取り組みとの連携も視野に入れて欲しいところです。

⑵ 「蛇神信仰」のテーマ博物館化

 スサノオ大国主一族の「龍神(トカゲ龍)信仰」を諏訪大社神長官・守矢氏の「御左口神(御蛇口神)」信仰は受け継いでおり、「巳を戴く神子」像や縄文の「結び(産す霊(ひ))」から蛇神信仰が縄文時代に遡る可能性があり、インド・東南アジア・中国の蛇・龍信仰などの紹介を含めた展示に広げられないでしょうか?

⑶ 「赤目砂鉄・高師小僧製鉄」のテーマ博物館化

① 「赤目砂鉄・高師小僧製鉄」展示室

 HPに「たたらの歴史」を掲載している日立金属など企業の協力もえて研究会を発足し、富士見町歴史民俗資料館の一室などを利用してスタートできないでしょうか。

② スサノオ大国主時代の赤目砂鉄・高師小僧製鉄遺跡調査

 金属探知機を使って金屋遺跡や赤目砂鉄・高師小僧産地周辺の鉄滓捜し、最古のスサノオ大国主時代の製鉄遺跡の発見を目指す市民参加型の調査ができないかと思います。民間研究者が大活躍した長野らしい取り組みです。

③ 「赤目砂鉄製鉄・高師小僧製鉄」の成分分析と年代測定

 金屋製鉄遺跡の鉄滓(のろ)や鉧(けら)、炉壁のスサの成分分析により、製鉄原料が赤目砂鉄・高師小僧のどちらか解明するとともに、鉄滓などに木炭片を見つけてC14分析により生産年代を推定してほしい。信州大学や長野県工業技術総合センターなどの協力をあおぎます。

④ 「赤目砂鉄製鉄・高師小僧製鉄の再現実験

 ヒッタイトやスキタイ、古代中国などの小型炉などを参考にし、赤目砂鉄・高師小僧製鉄の再現実験をクラウドファンディングによる資金集めで行えないでしょうか。信州大学や工業高校、信州打刃物工業協同組合(信濃町)などの協力を得て、世界遺産登録運動の一環とした取り組みを目指します。

⑤ 赤目砂鉄・高師小僧の国天然記念物の指定申請

 高師小僧は国の天然記念物として名寄高師小僧(北海道名寄市)、別所高師小僧(滋賀県日野町)が、都道府県指定天然記念物として豊橋高師小僧(愛知県豊橋市)が、市町村指定天然記念物として釜無川右岸高師小僧(山梨県韮崎市)が指定されていますが、赤目砂鉄について物部氏の製鉄遺跡の可能性を解明して申請すべきと考えます。

⑷ 「縄文デザイン」の参加型テーマ博物館化

 入館者に縄文デザインの謎解きを一緒に考えることを呼びかけるポップを付けた展示とともに、ホームページでも詳細な写真により、研究・提案を呼びかけ、新たな「参加型博物館」を目指すべきと考えます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

縄文ノート52(Ⅵ-27) 縄文芸術・模様・シンボル・絵文字について

 私がかじった建築学というのは面白い分野で、建築計画となると施設や住宅などの利用方法・人々の生活分析や、伝統的建築や歴史的町並みとなると建築史が必要です。建築デザインとなるとアートのセンスが必要であり、構造計画になると地震学や構造力学などが、設備計画や外構計画(庭園計画や自然・都市景観との調和、環境影響、動線計画など)では空気力学や植物学・環境工学などが関わります。地域計画や都市計画となると産業活動や都市生活・観光行動などの調査・分析・予測が不可欠ですから社会科学に守備範囲は広がってきます。

 工学系か文科系かという二分法には収まらず、アート系・自然系・環境系・社会科学系などという分類もないと落ち着きません。

 このような背景から、古代史に関心を持つ建築関係者は多いのですが、私を含めて欠点は「浅く広く、生半可」であることと、アート系でもあることから「独創性」にこだわる珍説・異端説が大好きな「おもしろがり」というところでしょうか。

 私のそもそもの縄文への関心は岡本太郎氏の縄文土器論からで、猪風来氏(現在、岡山県新見市に猪風来美術館)の生命力あふれる縄文野焼きに感動を覚え、彼を招いて狭山市で子どもたちを集めて縄文野焼きイベントをやったこともありました。

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 そこで前から縄文土器などの独特のデザインで縄文人が何を考え、何を表現しようとしたのか解明したいと考え続けており、火焔型土器が「龍紋土器」であり、天と地・海・川を繋ぐ霊(ひ)信仰を表していることは突き止めることができたと考えますが、縄文デザインの多様な模様全体の意味の解明はできていません。

 このメモはその途中経過をまとめたものですが、縄文文明論の重要なテーマであり、さらに多くの皆さんのお知恵を借りたいところです。   210205 雛元昌弘

 

   Ⅵ-27 縄文芸術・模様・シンボル・絵文字について

                             201027→1104→210205

 「縄文ノート36(資料15)  火焔型土器から『龍紋土器』 へ」において、私は火焔型土器の把手が「龍=トカゲ蛇」デザインであるとし、「縄文ノート39(資料23) 『トカゲ蛇神楽』が示す龍蛇神信仰とヤマタノオロチ王の正体」では出雲の「トカゲ蛇神楽」に継承されていると主張しました。

 「縄文ノート23(資料24) 縄文社会研究会八ヶ岳合宿報告」の「9.『縄文Emoji(絵文字)説』」では、日本発の文化として「Emoji(絵文字)」が世界標準となっていることや線画による絵物語や浮世絵・劇画・アニメ文化が、縄文時代から続く「象形文字の前段階の絵文字」の伝統を受け継いでいるのではないか、との仮説を提起しました。

 縄文土器や女神像に見られる蛇様デザインを、記紀や現在の出雲大社の海蛇・龍蛇神信仰や大神大社の蛇神信仰との繋がりで「龍の絵文字」と考えたのです。そして、「〇は『女性器』、〇〇は『目や乳房』、△は『神那霊山』、▽は『女性器』、勾玉形は『霊・魂』、縄文は『結び=産す霊』などの絵文字としての解釈であり、今後の研究課題です」としました。

 その後、大野晋著『日本語の源流を求めて』(岩波新書)において、大野氏が「記号」「記号文」「グラフィティ(壁などの図像。落書き)」として、縄文とインダス文明の比較対照を行われていることに気づき、改めて検討してみました。

 

1 経過

 私は2009年に『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』を出版しましたが、ブログをご覧になった北名古屋市大谷幸一さんより『ヒョウタンの歴史学』の原稿を送っていただき、意見を求められました。大谷氏は「模様と幾何学図形」から縄文デザインと世界の新石器デザインの意味を解明し、「自然との共生」思想を見出した、という大部の原稿でした。

 私が建築の「理系」ということで、大谷氏は「幾何学図形」論への評価を期待されたものと思いますが、「意欲的でたいへん面白い研究と思いますが、私も縄文デザインには興味を持っており、私なりに検討してから意見を述べさせて下さい」というような返事を書いた記憶があります。

 その約束を果たせないままずっと氏の原稿を書棚に置いて気になっており、改めて読み直し、大野説などと合わせて現時点でのメモを作成しました。

 

2 定義

 このメモでは次のような定義で進めたいと思います。 

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3 縄文デザインについての10の疑問点

 前から疑問に思っている縄文土器土偶の不可解なデザインについて、私の疑問点を列記しておきたいと考えます。

① 縄文土器土偶などに造形された多様な造形は「芸術」か「模様」か「シンボル」か「絵文字(記号)」か?

 ―作者の思い付きのデザインか、明確なメッセージ性があるのか?

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② 日用な実用品と作家性のあるものとの区別はあるのか、あるとすれば比率はどうか、分業体制があったのか?

 ―製陶集団、縄文芸術家はいたのか?

③ デザイン力・造形力のある縄文作家・職人が、なぜ写実をせず抽象的なデザインとしたのか?

 ―旧石器時代のスペイン・フランスのアルタミラ洞窟壁画のような写実的表現力があったにも関わらずなぜ写実しなかったのか?

 ―写実忌避の理由があったとすれば何か?(写実は霊(ひ)を抜き取るなど)

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④ 縄文土器土偶、耳飾りなど、なぜ異なるデザインを好んだのか?

 ―実用的な日曜品として同じものを作れたはずである。

 ―縄文人は芸術家か?あるいはコピーを忌避する宗教的な理由などがあったのか?

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⑤ なぜ縄文土器側面に隙間なく絵模様を付けたのか?

 ―空白を嫌う人間の本性なのか?

 ―障がい者アートのように繰り返しが楽しいのか?

 ―刺青と同じような宗教的意味があるのか?

 ―「耳なし芳一」の体へのお経の書き付けのような宗教的理由なのか?

         f:id:hinafkin:20210205192900j:plain

⑥ 縄文土器の縁になぜ4個(中には3個、1個)の把手様の飾りを付けたのか?

 ―機能的には意味はなく、何らかのシンボルであろう。

 ―これまで「蛇体把手」とされているものは、背中の突起から見て「オオトカゲ」ではないか?

         f:id:hinafkin:20210205192958j:plain

⑦ 人面付土器は何を表現しようとしたのか?

 ―なぜ壺や灯明台(蚊取器)全体を女性とみたのか?        

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⑧ 壊れやすくて重い個性的土器がなぜ広域化したのか?

 ―製作者の移動、献上品(威信財)、交易品、妻問婚の贈物、神との共食の宗教的土器鍋など

⑨ なぜシンプルな「土師器」に変わったのか?

 ―信仰思想・対象が変わった、舟で運ぶ米の交易容器が必要となった、労働集約型の水田稲作に伴い土器製作がシンプル化したなど

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⑩ 縄文デザインはわが国オリジナルか、宗教やデザインなど他地域にルーツがあるか?

 ―東南アジア・中国の蛇・龍信仰

 ―ドラヴィダ族の「ポンガ」の土器鍋?

 

4 大谷幸一氏の幾何学図形説 

 ネットで検索すると大谷幸一氏には『渦巻きは神であった:謎の古代文様』 2007/4/11、『縄文人の偉大な発見―思想を形で表すもうひとつの言語』2009/12/1、『人類最古の縄文文明 図解 縄文大爆発』 2015/1/9、『図説 縄文人の知られざる数学: 一万年続いた縄文文明の正体』2017/6/21の著作がありました。私がいただいた『ヒョウタンの歴史学―新石器人と現代人をつなぐ1万年の難問はなぜ解けたか』の原稿は『縄文人の偉大な発見―思想を形で表すもうひとつの言語』にタイトルを変えたようです。

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 いただいた原稿から大谷氏の主張を要約すると、世界の新石器人は「しめ縄文様、渦巻き文、まんじ、十字、ひょうたん形」などの図形を愛用しており、縄文土器土偶にもそれらが見られ、これらは生命誕生と宇宙創成の原理を表しているというものです。

 ピタゴラスの「世界は数字でできている(万物は数なり)」を信奉するピタゴラス教団が無理数を発見した教団員を死刑にしてしまったという話を思い出しますが、自然の形からは無数の図形が抽出できるのであり、〇□◇△などからなぜ特定の意味のある図形、例えば「渦巻き文」を抽出したのか、という「思想から図形へ」の説明はできていないように思います。それらが単なる自然物の形の描写や抽象化、誇張(デフォルメ、レトリック)ではなく、抽象図形として共通の意味、宗教的価値などを持って使われた、ということの合理的な説明が求められます。

 また、それらの図形が人間の本性から各地で同時多発的に出現したのか、あるいは人類拡散とともに各地に伝わったのか、についても検討する必要があります。

 アフリカから旧石器人・新石器人(含む縄文人)とも移動・交流して拡散しており、大谷氏の作業は世界に共通するデザインの収集・分類という点は活かされるべきと考えます。

 

4 岡本太郎氏(芸術家)・梅原猛氏(哲学者)らの渦巻文説

 「縄文に帰れ」を唱え、沖縄復帰に対しては「本土が沖縄に復帰するのだ」と語っていた岡本太郎氏は「火炎式土器」に対して深海をイメージしていたと述べ、大阪万博の「太陽の塔」(最初の仮称は「生命の樹」)の地下の「地底の顔」は写真のように「深海(龍宮=琉球)」をイメージさせるものです。

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 また哲学者・梅原猛氏は山形県遊佐町の吹浦(ふくら)遺跡(縄文前期末葉~中期初頭)の土器の渦巻文について「水であり、水の霊力の象徴」としてとらえ、大和岩雄氏(古代史研究家)は「水や蛇の象徴とみるべきだろう」としています。なおこの吹浦遺跡の近くにはスサノオの子の女神・大物忌大神=倉稲魂・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ))を祀る大物忌神社があり、スサノオ大国主一族が海蛇を神使とした海人族であることと符合しています。

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 <参考>

  資料2 大阪万博の「太陽の塔」「お祭り広場」と縄文  201004→ 0726→0802

 

5 大島直行氏(考古学者)の月・蛇の縄文デザイン論

 大島直行 (伊達市噴火湾文化研究所長)氏には『月と蛇と縄文人』2014/1/28、『縄文人の世界観』2016/3/29の著書があり、縄文人は「神話的世界観」でものや施設づくりを行い、シンボリック(象徴的)に、レトリカル(誇張的)に表現したとしています。

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 私は母系制社会の地母神信仰から、環状列石や石棒を立てた円形石組を縄文人は女性器と考え、朱で満たした甕棺や棺・柩(霊継)を子宮としてみており、土偶は霊(ひ)が宿るお守りで無事に出産して霊(ひ)が子どもに移った後には破壊して大地に帰したと考え、さらに海と川、大地と山、天を結び付ける龍・龍蛇神信仰(トカゲ蛇信仰)や、大物主大神が蛇として夜這いする神話から男性器の亀頭を蛇頭に見立てる信仰についても主張してきましたので、大島氏の環状列石女性器説や蛇信仰説は支持します。

 しかしながら、月のデザインについては私が見た範囲の縄文土器には確認できず、記紀神話などでも月信仰は見当たらず、合意できません。

  <参考>

  資料7 縄文の「女神信仰」考 200730→0825

  資料9 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)について 150630→200302→0826

  資料15  火焔型土器から「龍紋土器」 へ 200903→07・09→1017

  資料23 「トカゲ蛇神楽」が示す龍蛇神信仰とヤマタノオロチ王の正体18201015→1020

 

6 武居幸重氏の文様論

 尖石考古館で目にした武居幸重著『文様解読から見える縄文人の心』は、本格的に縄文文様の解明を目指した人がいたことを知り、喜んで購入しました。

 以下、武居説を検討します。

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⑴ 縄文文様は「双分性」「融合和合(交合)性」を示すか?

 まず、武居氏が水野正好氏(当時奈良大学学長)の「縄文時代は男と女が何から何まで区別され、その区別を厳重に守っている双分制が徹底している時代である」「土偶祭祀は女性側祭祀、石棒は男性側祭祀」を批判しているのは大賛成です。群馬県片品村の金精様の2つの祭りは女神である山に金精を捧げる祭りであり、各地の「お山信仰」に見られる女人禁制は、お山の女性神が女性を嫉妬するからであり、男性の女性差別ではないのです。「土偶祭祀は女性側祭祀、石棒は男性側祭祀」説はそもそも成立しないと考えます。

 「産す霊(ひ)」=「むすび」の2本撚りのしめ縄は性交による「霊(ひ)継」を表し、縄文土器時代文様からスサノオ大国主の霊(ひ)信仰に引き継がれた可能性があると私はこれまで書いてきましたが、「土偶に施文されている縄文文様は、霊の表現であり、男霊(雄霊)的文様と女霊(雌霊)的文様は常に融合和合している」という武居氏の説については、「霊の表現」は同意できますが、「和合」デザインは縄文には確認できますが、それ以外の模様から私は読み取ることはできませんでした。

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 武居氏の「正巫女」と「ムラオサ」が交わり「介添えの巫女」が両側に配置されているという図の解釈ですが、「正巫女」という解釈も、足とされる部分がさらに下に伸びて別の模様に繋がっており、人体図と見るのは無理があります。

 赤子が土器の腹の部分から顔をのぞかせた出産文土器(北斗市津金御所前遺跡)や埋甕(うめがめ:塩尻市平出遺跡)、顔面土器(富士見町井戸尻考古館等)と合わせてみると、これらは母系制社会の「霊(ひ)継」「霊(祖先霊)=神との共食」、「霊(ひ)の再生」を願うデザインとみるべきと私は考えています。

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 <参考>

  資料7 縄文の「女神信仰」考 200730→0825 

 

⑵ 「蛇」文様について

 海蛇・蛇・龍蛇・トカゲ龍信仰はスサノオ大国主一族に見られ、諏訪においてはスサノオ一族の物部氏系の守矢氏、大国主一族の諏訪氏に継承されていることからみて、諏訪の縄文土器土偶に蛇文様が見られることからみて、武居説のとおりと私も考えます。

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 海や川を泳ぎ、海中や地下に棲む海蛇や蛇は海神・水神・地神(いずれも祖先霊)の神使と考えれられ、さらに山上から天に昇って雨を降らせる龍神、神鳴りとなって地上に降りる雷神であり、天神(天に昇った祖先霊)の使いとして信仰されたと考えられます。また円形石組に立てた石棒祭祀から見て、蛇の形を男性性器に重ねたと私も考えます。

 

⑶ 「山椒魚文様」説について

 「頭+体+尻尾+手」らしい文様は縄文土器にいくつも見られ、武居説はこれをサンショウウオとしています。

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 「体がぶよぶよとした凸凹形」「背中の中央が凹」「歯列が2条」「遊泳の様子」「両生類で、卵生である」というのがその根拠ですが、私にはこの5つの特徴を図から確認できませんでした。尻尾を上に立てているのはサンショウウオからは考えれられません。

 私は火焔型土器の突起(把手)について、「龍神=龍蛇神=トカゲ蛇神」説を提案してきましたが、武居説の「山椒魚文様」についても土器縁上の「蛇体突起」と同じく、その形態上の特徴点の多さから見て、「龍神」(龍=龍蛇=トカゲ蛇)をよりシンプルにしたものと考えます。

    f:id:hinafkin:20210205194404j:plain

 

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 この「龍神」(龍=龍蛇=トカゲ蛇)信仰は、頭や背中に突起があるインドネシアのモトイカブトトカゲなどをモデルにしたものであり、日本列島人のルーツが南方系であることを示しています。

 <参考>

  資料15 火焔型土器から「龍紋土器」 へ 200903→07・09→1017

  資料23 「トカゲ蛇神楽」が示す龍蛇神信仰とヤマタノオロチ王の正体18201015→1020

 

⑷ 「蛙(蛙と嬰児の重想)・カマキリ」文について

 井戸尻考古館の「頭+胴体(背骨あり)+両手(腕の途中から別の腕が伸び、合計4本)+両足」と思えるような土器の図形は人間とも蛙とも見れる実に不思議な形ですが、武居氏は「蛙と嬰児の重想文」とし、「生誕祝祭文」と名付けています。足には指がなく手は3本指で、カエルの4本、トカゲや人間の5本とも異なっています。

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 ヒキガエル古事記に「多邇具久(たにぐく)」として登場し、大国主のところに海の向こうから小さな神(少彦名)がやって来た時、誰もこの神の名を知らなかったとき、多邇具久(たにぐく:ヒキガエル)が久延毘古(くえびこ:山田のそほど=かがし)なら知っているはずと答えたとされる場面で登場するだけで、蛙信仰を裏付ける伝承などもありません。

 また、その形状も「蛙説」で左手とされる部分や足の付け根部分に別の線が伸びており、他の図形の一部の可能性もあります。「蛙と嬰児の重想説」は蛙と嬰児を重ねて考えた信仰に根拠がなく、2本の手の途中から2本が異常に長い手が伸びていて像を重ねたとは見えず、この仮説は成立しにくと考えます。

 中国神話には月に蟾蜍(ヒキガエル)が住むという神話があるそうですが、下表のように蛙やヒキガエルは倭音倭語の名称で通用しており、呉音漢語・漢音漢語は見当たらず、中国神話導入説には裏付けがみあたりません。 

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 縄文土器に多い丸2つを目、丸・楕円形を口や顔と考えるといろんな動物が考えられますが、その後の神話や神使伝承(蛇・龍蛇・トカゲ蛇・猿・狼・鶏・白鳥・鹿等)から想定する以外にありませんがそのような例はなく、「カマキリ」や「フクロウ」などと一義的に決めつけることはできません。 

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⑸ 「畑」デザイン説について

 線で区画された線模部分を武居氏は「畑」とみており、私など全くノーマークだったところに着目されたのは、井戸尻遺跡群からの縄文農耕説と結びつけた意欲的な解釈です。

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 私はDNA分析(Y染色体Ⅾ型)、日本語の起源、温帯ジャポニカのもち米・赤米食文化、霊(ひ:ピー)信仰、山神信仰などから「縄文人ドラヴィダ海人・山人族説」に到達し、イモと雑穀の焼畑農業、天水陸稲栽培・水辺水田稲作による縄文農耕説を支持しますが、日本や東南アジアの焼畑をみても区画した畑は必要なく、氏の説には同意できません。

 

⑹ 武居説まとめ

 縄文デザイン解明の方法論としては、「描写→抽象化→誇張」として分析する方法と、後の時代からの遡りと他文明・文化の伝播からの「縄文人の思想・宗教・生活文化のシンボル化」という2つのアプローチが考えられます。

 私の「霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教」論からの龍信仰、山神天神信仰から縄文デザインを見ていく方法と、武居氏の「縄文文様は霊の表現」からの「蛇」文様説は共通していますが、他の説については論証ができていないように思います。環状列石や円形石組、石棒、土偶、神那霊山などを含めた全ての単位デザインの総合的検討が求められます。

 

7 大野晋氏のインドと日本のグラフィティ比較

 大野晋氏は『日本語の源流を求めて』(岩波新書)において下図のようなインドのインダス文明(BC2500~1500年)・銅石器時代(BC800年頃)・南インドの巨石文化(BC1000~AⅮ300年頃)のグラフィティ(落書き)と日本の弥生時代のグラフィティと記号文(藤田三郎氏説)の比較対照表を載せています。

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 「他人の空似」ということもあるのでなんとも言えませんが、縄文土器などに見られる文様、特に「蛇」「龍蛇」「トカゲ龍」など、スサノオ大国主時代とドラヴィダ族のデザインに共通する宗教的・稲作文化的なものが存在するのかどうか、今後の検討資料として掲載しました。

<参考>

資料18   日本語起源論からみた日本列島人起源  200918→1005・23

 

8 カイダ文字

 ウィキペディアによれば、カイダ文字)は、沖縄県与那国島等で使われていた象形文字で、与那国島海底地形からも、カイダ文字に似た跡のある岩が発見されているとされます。

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 17-19世紀に創作されたと考えられている一方、この海底地形は遅くとも11世紀前半には水没していたと考えられており、カイダ文字が通説より古くから用いられていた可能性もあるとしています。

 海人族であり、縄文時代の東北・北海道までの貝交易や 殷王朝から貨幣として使われていたタカラガイなどの交易からみて、日本本土、中国とは古くから交易があり、漢字文化や仮名文化(8世紀)に接する機会があり、カイダ文字「17-19世紀創作説」には疑問があります。

 その特徴は「絵文字」として通用するものがかなりあり、縄文図形の検討の際の参考資料として掲載しました。

 

9 まとめ

① 縄文図形について、「芸術(アート)、模様(パターン)、シンボル、絵文字(記号)」という分類のどこに位置するのか、この1週間、考え続けてきた途中メモです。

② 「描写→抽象化→誇張」分析法と「思想・宗教・生活文化のシンボル化」という2つのアプローチで考えてきましたが、前者については、縄文土器土偶にみられる縄文単位図形を整理するだけの写真データと時間がなく、後者については、「霊(霊継信仰(鬼神信仰)」や「海神・水神・地神・木神(神籬)・山神(神那霊山)・天神・龍・雷(神鳴り)信仰」「神使(蛇・龍蛇・トカゲ蛇・猿・狼・鶏・白鳥・鹿等)」と縄文図形を対照するまでの時間はありませんでした。

③ わが家では草間彌生氏(松本市生まれ)の水玉模様の黄色いカボチャのリトグラフを飾っていますが、水玉を書いていると落ち着くという統合失調症であった氏の作品や繰り返しの多い障がい者アートと、縄文デザインの関係についてもずっと考えています。

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 1つの仮説ですが、縄文時代に知的障がい者は神使として特別の地位・役割を与えれ、霊(ひ)信仰の縄文土器製作に携わっていた可能性があるのではないか、と考えています。

 草間彌生さんの男根で埋め尽くしたベッドやイス、壁面の作品を見ていると、草間さんは石棒(男根)崇拝を行っていた縄文人ではないかと思ってしまいます。

④ このような作家性のある芸術的デザイン、風景の中に見られる十字架や鳥居、企業マークなどのシンボルデザイン、さらには絵文字コミュニケーションの、どのあたりに縄文デザインが位置するのかは、いまだに答えが出せていません。「芸術(アート)、模様(パターン)、シンボル」までは言えそうですが、「絵文字(記号)」になるとまだ手掛かりはつかめていません。

④ 今後の課題を整理すると、次の通りです。

 ⅰ 縄文単位図形を全て抽出して縄文土器デザインデータベースを作成し、AI分析で相互の関係性を明らかにし、「描写→抽象化→誇張」分析法により意味を読み取る研究です。問題は数多くの単位図形が集まるかどうかです。

 ⅱ 「思想・宗教・生活文化のシンボル化」として縄文デザインを読み取るため、「日本列島人ドラヴィダ系海人・山人族」説にもとづき、東インドミャンマー高地人の「pee(霊(ひ))」宗教と生活文化などに関わるデザインの収集と対照を行う方法です。「女性器」「男根」崇拝のルーツはこの地域の可能性があると考えます。

 ⅲ 日本列島への移動経路途中の「スンダランド文化」(インドシナ半島インドネシア諸島)の「pee(霊(ひ))」宗教・文化などに関わるデザインの収集と対照です。「トカゲ龍」「トカゲ蛇龍」などのルーツはこの地域と考えているからです。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

縄文ノート51(Ⅵ-20) 縄文社会・文化・文明論の経過と課題

 縄文時代というと、野蛮な未開社会であり、ほとんどの人はその解明が現代社会やその未来にとって価値があるなどとは考えてはいないように思います。単なる年寄りの好奇心からの趣味と思われるに違いありません。ましてや、気候変動が実感され、アフリカや中東では乾燥化による食糧危機があり、コロナが心配で、格差社会化で若者の安定した仕事・生活など危うい現在です。

 しかしながら、前にも述べたように、プルトニウム239の半減期が3万年、10・4・2万年周期の気候変動、パンデミック100年周期説、一神教の対立などを考えると、私たちの遠い先祖が危機にかられてアフリカを出て、日本列島にまでたどり着いた探究心と冒険心、開拓心にあふれた大移動の歴史をたどってみることは、参考になるように思います。

 ここでは縄文社会・文化・文明についてこれまで検討してきた経過と課題をまとめ、より多くの方々の探究のための資料として公表しました。  210204 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

     Ⅵ-20 縄文社会・文化・文明論の経過と課題

                                                                                                              200927→210204 

 縄文社会研究会のこれまでの活動をまとめた「1.縄文社会研究会の経過」についてはいずれ会のHPで紹介するためここでは省略し、私の立ち位置や学習内容と課題、日本列島人起源論の論点整理を紹介します。

 

 1.私の立ち位置

 ⑴ プランナー(計画家)として

  ・薄く広く総合的に検討し、「最少矛盾仮説」の検証による解明を行う。

  ・「縄文社会・文化・文明」を現代・未来に活かす。

   ―自然志向、共同性、食文化、芸術など

   ―体験学習や観光、世界遺産登録

 ⑵ 建築(建築史、都市計画、建築基本計画・デザイン、環境計画)として

  ・環境共生都市・住宅、森林都市、木の文明、共同建築(共同体事業)など

 ⑶ スサノオ大国主建国論から

  ・スサノオ大国主建国から遡った縄文社会・文化・文明論の解明

   ―霊(ひ)信仰、母系制社会、巨木建築、海洋交易など

  ・内発的発展論(弥生人征服説などの断絶社会説批判)

 ⑷ 海人(あま)・山人(やまと)民族論から

  ・「海の道」日本列島人起源論(自立心・探究心・冒険心・交流交易性など)

  ・海洋交易、妻問夫招婚に見られる「海人族性」

  ・山上天神信仰に見られる「山人族性」

 ⑸ 母系制社会論から

  ・霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰(勾玉・壷棺・甕棺・棺)

  ・地(母)神・海神信仰、性器信仰、女神信仰、山神女性神信仰

 ⑹ 言語論・方言論から

  ・「主語-目的語―動詞」言語族論

  ・「倭音倭語―呉音漢語―漢音漢語」3重構造論、倭流・倭製漢字用法

  ・方言北進・東進論(方言周圏論批判)

 ⑺ 宗教・芸術論から

  ・霊(ひ)宗教論(産霊・霊継)・霊人・神那霊山・神籬(霊洩木))

  ・性器信仰論(石棒・環状列石・縄文・しめ縄・縁産霊(えんむすび))

  ・アマ=海=雨=天、蛇・龍・雷からの海神・地神・天神信仰統一論

 ⑻ 文明論から

  ・水平軸による文明論(西欧型・アジア型・アメリカ型)

   ー小麦・米・トウモロコシ型、牧畜型、焼畑型・漁撈型など

  ・歴史軸による共同体文明論(西欧基準の未開社会論批判)

 

2.これまでの各研究の成果と課題の整理

 まだ初歩的学習段階であり、途中経過としてみていただきたいと思います。なお、私はヒョウタンと「主語-目的語-動詞」言語族の移動、イネ科植物単一起源説などから日本列島人南方起源論を考えはじめましたが、縄文農耕やドラヴィダ語、DAN分析などはすでに先人が解明ずみであることが判りました。その上で「最少矛盾仮説」としての総合的な検討が必要と考えます。

 ⑴ 日本民族起源論

  ① 主な論者

   ・金関丈夫(人類学):『日本民族の起源』等

   ・篠田謙一(分子人類学):『日本人になった祖先たち』等

   ・崎谷満(分子生物学):『DNAでたどる日本人10万年の旅』等

   ・斎藤成也(遺伝学者):『日本列島人の歴史』等

  ② 検討課題 

   ・言語論、産業・生活文化、宗教・芸術などを合わせた日本民族起源論へ

   ・南方起源説と北方起源説の決着

   ・縄文時代終焉は「弥生時代(水辺水田稲作)」か「鉄器水利水田稲作」か

 ⑵ 日本語起源論

  ① 主な論者

   ・大野晋国語学):『日本語の起源』等

   ・安本美典(心理学:邪馬台国研究):『日本語の起源を探る』等

  ② 検討課題 

  ・西欧支配言語の「基礎語対象法」の引き写しから、被支配言語の「固有・希少語対象法」へ

  ・「主語―動詞-目的語」言語族の移動ルートの解明

  ・「東インド・東南アジア高地」のドラヴィダ語系少数民族の解明

   

 ⑶ 縄文文化・文明論

  ① 主な論者

   ・梅原猛(哲学者):『文明への問い』『近代文明はなぜ限界なのか』

   ・梅棹忠夫生態学文化人類学):『文明の生態史観』『日本語と日本文明』

   ・安田喜憲(地理学):『森を守る文明・支配する文明』『縄文文明の環境』『環境文明論―新たな世界史像』『水の恵みと生命文明』等

   ・川勝平太(経済学):『文明の海洋史観』

   ・中尾佐助(植物学):『現代文明ふたつの源流照葉樹林文化・硬葉樹林文化-

   ・小林達雄(考古学):『縄文の思考』『縄文人の文化力』

   ・佐藤洋一郎(植物遺伝学):『イネの文明』

  ② 検討課題

   ・西欧史観の「文明(Civilization)」の再定義

   ・海人族文明論の追究(地中海文明日本海東シナ海文明)

   ・「未開」とされた「共同体文明」の定義と解明

 ⑷ 縄文農耕論

  ① 主な論者

   ・中尾佐助(植物学者):『ニジェールからナイルへ 農業起源の旅』等

   ・佐々木高明(民族学):『畑作文化の誕生』『照葉樹林文化の道』等

   ・佐藤洋一郎(植物遺伝学):『イネの歴史』『縄文農耕の世界』等

  ② 検討課題

   ・「縄文農耕・土器鍋食」の農耕・言語・食文化の総合的検討

   ・「焼畑稲作・水辺水田稲作・水利水田稲作」の3段階起源の検討

   ・「イネ科・イネ単一起源説」の検討

   ・「東インド・東南アジア高地」対「長江流域」温帯ジャポニカ起源説の決着

   ・稲作の「黒潮」「長江・東シナ海」「対馬海峡」伝播説の検討

 ⑸ 縄文宗教・芸術論

  ① 主な論者

   ・安田喜憲(地理学):『大地母神の時代-ヨーロッパからの発想』『蛇と十字架-東西の風土と宗教』『龍の文明・太陽の文明』

   ・大野晋国語学):『神』

   ・大島直行(考古学):『月と蛇と縄文人』『縄文人の世界観』

  ② 検討課題

   ・霊(ひ)信仰と自然信仰の整理

   ・霊(ひ)信仰と火神信仰、太陽信仰の整理

   ・霊(ひ)信仰と性器・性交信仰、海神・地(母)神・天神)信仰の整理

   ・天神信仰と神使崇拝、神木(神籬、御柱)信仰、置山・山車の山神信仰の整理

   ・霊(ひ)信仰説とアニミズム(精霊論)説・マナイムズ(精力論)説の整理

 

3.日本列島人起源論の論点整理

① これまでの日本列島人起源論について個別に検討してきましたが、その全体フレームを一覧にしてみました。「〇は該当、△は不確かな該当、×は非該当、空欄は不明」です。国別のDNA・言語分析は少数民族の調査は不十分と考えます。

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 今後の調査・研究のための仮説フレームですが、私は現時点では南方起源説です。

 

② 表はDNA、言語は現在段階、他は新石器時代縄文時代)での比較です。

③ 人類学では、形態比較(骨、歯)、血液型構成、ピロリ菌、DNA分析(ミトコンドリアDNA分析・Y染色体分析・核ゲノム分析)などがありますが、分析方法は科学的としても、旧石器人・縄文人など古代人についてはサンプルがあまりにも少なく、しかも地域的偏りの制約があります。特に、多民族国の分析では、少数民族との比較対照が求められます。この「サンプル限界」(サンプルの罠)を踏まえた上で、「木を見て森をみない」ことがないよう各研究を検討・評価する必要があると考えます。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート50(Ⅵ-13) 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ

 「旧石器-縄文-弥生-古墳」時代という時代区分を習った時、教師の教えに素直ではなかった小学生の私は「なんで日本には鉄器時代がないのか」とがっがりしながら疑問に思ったものです。昭和20・30年代には村や町に普通に鍛冶屋があって鉄器を作っていたのを子どもの私は飽きずによく見ていましたが、そんな身近な鉄器を古代人は知らなかったのか、と思ったものです。さらに「稲作が始まって米を保存するために薄くて硬い弥生式土器が生まれた」という説明も米俵や木の米櫃に保存していたことから信じられず、「大和(だいわ)」を「やまと」と読むことなどどうしても納得できませんでした。

 「旧石器-縄文-弥生-古墳」の時代区分だと、日本文明は「土石文明」になります。しかしながら、「土石工事」とは言わず「土木工事」というのは、道路や河川の土留工事、川の堰や橋づくりに木材が欠かせないからです。建築となると重い石より木材はさらに使い勝手がよく、舟づくりにも木は必要であり、料理や土器づくりにも燃料の木は欠かせません。豊かな森に育まれた日本文明は「土石文明」ではなく「土木文明」というべきなのです。

 大和には鉄器が少なく、九州や出雲に多いことを隠すために弥生時代古墳時代をもうけ、天皇中心・大和中心の歴史にしたかった歴史家の歪曲としか考えれらません。

 ギリシア神殿の真ん中が膨らんだエンタシスの石柱(パルテノン神殿で直径1.9m、高さ10.4m)は、もともとは木の柱の神殿であったことを示しており、古ギリシアでは「石の文明」の前に「木の文明」があったのです。

 「古代文明」というと、石のピラミッド(60~146m)や日干しレンガのジッグラト(聖塔:ウルのジッグラトは高さ30m)、メソポタミア・インダス・黄河文明の石と日干し煉瓦の宗教施設や水利施設・城壁、大沐浴場のような「シンボリックな石造・レンガ造巨大建造物」に目を奪われがちですが、わが国にはそれらとは異なる巨木木柱建築文明があったのです。それが縄文時代に遡ることを、出雲大社からたどりたいと考えます。

 なお、本稿は縄文宗教論として書いた「縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」と重複している点が多いのですが、合わせて検討していただければと思います。                        210303 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

   Ⅵ-13 「縄文6本・8本巨木柱建築」から「上古出雲大社」へ

                      190408→200830→210203 雛元昌弘

 この小論は2019年4月に書いた「48mの『古代出雲大社』は廻り階段・スロープでは?」をもとに、「蓼科山を神那霊山(神奈火山)とする天神信仰について」200808、「八ヶ岳合宿報告メモ」200814の検討をふまえて加筆修正したものです。

 

1.古代出雲大社について

 杵築大社(きずきのおおやしろ:出雲大社)は、古事記には大国主命の国譲りに際して造られた大国主命の「住所(すみか)」「天の御舎(みあらか)」「天の御巣(みす)」「天の新巣(にいす)」、日本書紀では「天日隅宮(あめのひすみのみや)」、出雲国風土記では「所造天下大神宮」とされ、神代から何度も再建されてきて現在に続く最古の神社になります。

 現在、高さ24.2mで最大の神社建築ですが、社伝では、中古には16丈(48.4m)、上古においては32丈(96.8m)の高さがあったとされています。

 平安時代、10世紀末の『口遊』(源為憲)は、「雲太、和二、京三」と記し、聖武天皇が建立した15丈(45メートル)の東大寺大仏殿、京都御所大極殿をしのいで、出雲神社が日本で最高の高さであったことを伝えています。

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 この巨大な神殿は、出雲大社宮司「千家」家に伝わる「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」に残されており、しかも、図面に画かれた3本の柱の巨大な柱根(直径1.1~1.35m)が平成12年に出雲大社の現在の本殿の前から見つかり、1248年に造営された神殿の巨大な3本の杉柱が資料と物証で裏付けられたのです。

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 記紀にでてくる最初の神社はこの大国主命がこの国の始祖5神を祀る出雲大社ですが、日本最高・最大の本殿として、記録に残っているだけでも平安後期から鎌倉時代までに6回も再建され、信仰され続けてきたのです。

 この出雲大社の神殿の特徴は、2つあります。1つは、極端な高床式の建物であるということであり、もう1つは、部屋の中央に心柱のある、田の字型に9本の柱を配置した様式であるということです。

 高いことはより天に近づくことであり、天上の霊(ひ:祖先霊)を信仰する宗教的な権威をより高めることが目的であったと考えられます。また、対馬壱岐、筑紫、越方面から、年に1度、八百八十の神々が航海してきた時の目印とするためであった、とも考えられます。海から見ると陸地は平板に見え、上陸地点を見逃す心配がありますが、そびえ立つ出雲大社灯台に匹敵する目印となったと考えられます。

 もう1つは、大国主命の住まい、天津日嗣(霊継)の神殿としての形式です。わが国の田の字型の伝統的な建物では、土間から見ると、左手奥が床の間や仏壇のある上座(客間)で、右手奥は、建物の主が住む場所(納戸)になります。出雲大社は、客間の位置に始祖神の天津神5神を祀り、納戸の位置に大国主命を祀っていることからみて、記紀が描くとおりに大国主命の霊(ひ)信仰の「天の御舎」(神殿)としていることが明らかです。

 前置きが長くなりましたが、神代・上古の出雲大社本殿の高さはどれだけであったのか、社伝について検討してみたいと考えます。

 以前、仕事帰りに島根県立古代出雲歴史博物館を見学し、5案の復元模型の展示をみましたが、「8丈(24m)」、中古「16丈(48m)」、上古「32丈(96m)」の伝承のうち、48m説の模型がありました。

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 福山敏男元京大教授監修、出雲大社・馬庭稔(建築家)協力、大林組設計の復元図面やこれらの模型が妥当なのかどうか、検討したいと思います。

 なお、私は福山教授の日本建築史の授業を受けており、福山門下の出雲出身・在住の馬庭稔氏は同級生で、『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』は彼の「間違いない」との励ましを受けて出版したものであり、両氏の説を批判するのは心苦しいのですが、建築史にとっても出雲、古代史、さらには日本文明の位置づけにとっても重要なテーマと考えており、私の説を公表します。

 

2.「近古8丈」「中古16丈」「上古32丈」伝承は事実か?

 私は記紀風土記や神社伝承、魏書東夷伝倭人条などの分析では、荒唐無稽と考えられてきた神話なども敢えてそう書くことで真実の歴史を伝えようとしたものであることや、伝承や校正などで陥りがちな後世の錯誤が含まれることを解明してきましたが、同じように出雲大社社伝の「近古8丈」「中古16丈」「上古32丈」について検証してみたいと思います。

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 出雲大社には「近古8丈」「中古16丈」「上古32丈」という伝承が厳然として残っていますが、私は「中古は近古の2倍」「上古は中古の2倍」と倍数で伝わっていた可能性は高いと思いますが、それが連続した変遷の伝承であったかどうか、「8丈、16丈、32丈」の実数で伝わっていたかどうかについては疑問と考えます。

 伝承としては「上古(古墳(飛鳥)時代)から中古(平安時代)へは半分になった」「中古(平安時代)から近古(鎌倉・室町時代)へ半分になった」と別々の話として伝わっていたものが、「上古→中古→近古」と連続して1/2になったと誤って伝えられた可能性があるのです。

 1061年、1108年、1109年、1141年、1172年、1235年の6回の建て替えの記録によれば、1108年の地震か台風による倒壊を除くと、耐用年数は31年、32年、47年、63年で平均では43年であり、構造的にみて堅牢な建物であり、老朽化で建て替えられてきたことが明らかです。「何度も倒壊した」と出雲人の建築技術を馬鹿にしたような記述が目立ちますが、現代にも通用するレベルの高度な建築技術で建てられたものです。

 中古の794~1061年の間に43年周期とすると6回は建て替えられた可能性があり、その間もずっと「中古16丈」であったかどうかが問題なのです。

 さらに、不思議なことに(たぶん天皇家を恐れたのでしょう)、記紀出雲国風土記に書かれた大国主による「杵築大社(きずきのおおやしろ:明治に入り出雲大社と改称)」「所造天下大神宮」の「神代」の高さが伝えられていないのです。

 大和天皇家によりスサノオ大国主系の出雲や吉備・播磨・摂津・河内・丹波、大和の三輪・物部・蘇我などの王(豪族)が権力を奪われた「上古」の後半や、仏教が国教とされた「中古」前半の奈良時代には、勢力の衰えた出雲大社の高さは半分に縮小された可能性があると考えます。

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 壬申の乱をへて「中古(奈良・平安時代)」に入ると、聖武天皇は741年には全国に七重塔の国分寺国分尼寺を造ることを命じており、758年に建立の15丈(45メートル)の東大寺大仏殿よりも出雲大社を高くすることをはばかられた可能性は大いにあります。

 当時の出雲国国分寺の七重塔の高さは不明ですが、現存する東寺五重塔が54.8mで一番高いことから見ても、「中古」に32丈(96.8m)もの出雲大社を建築できたとは権力関係からも、財力からも、技術的にも考えにくいといえます。

 その後、平安時代に入り、桓武天皇の第2皇子の52代嵯峨天皇は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張津島神社に贈り、66代一条天皇は「天王社」の号を贈るなど、出雲の地位の高まりがうかがわれます。経済的に安定した時代が続いたこともあり、出雲大社は元の高さの16丈に戻された可能性があります。

 以上のように、出雲大社の伝承から確実なことは「近古8丈、中古最終16丈」「上古は中古の2倍」であり、上古「32丈(96.8m)」は成立しないと考えます。

 

3.「上古16丈(48.4m)」の妥当性

 では、「上古16丈(48.4m)」の高さの出雲大社を建築することができたのかどうか、以下、検討したいと考えます。

⑴ ランドマーク・国見機能と杉材の長さ

 宗教施設としてのランドマーク機能から考えると、海上や平野の遠くから見て周辺の林の樹高より高くする必要があり、国見の楼観としての機能を考えても、周辺の樹高より高くする必要があります。

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 しかしながら冬の爆弾低気圧や台風の風圧による倒壊リスクを考えると、周辺の林の防風機能を活かしたに違いなく、樹高を倍も越えて極端に高くすることは避けたに違いありません。

 また高齢の大国主の「住所」で、一族の始祖神を祀り、大国主が各国にもうけた180人の御子など一族が参拝する神殿であり、昇り降りに難儀する96m、32階建てのビルに匹敵するような高さにする必要はありません。

 海岸部に多い10~30mの松林の樹高より高い位置に楼観をもうけたとすると、「中古16丈」(48m)の高さというのは合理的な高さと考えられます。 

 一方、用材から考えると、最も大きい天然秋田スギが胸高直径1.3m、高さが58mであり、諏訪大社御柱祭の神木が直径約1m、長さ約17mであることや、日本海斐伊川を利用した杉材の運搬を考えると、棟までが16丈(48.4m)の本殿は1本柱ではなく、3本を金輪で束ねた3本束柱の先に1本柱を継ぎ足した「2本継柱」で、地面に埋めた深さ2mを考えると直径1.1m×長さ30mほどの「3本+1本」の杉材の金輪による継柱の可能性が高いと考えます。

⑵ 古代王の高さ志向:人工の石山と巨木建築

 他の事例から、古代人の高さ感覚を考えてみたいと思います。

 紀元前2500年頃に築かれたクフ王のギザの大ピラミッドは147m、メソポタミアの紀元前2100年頃からのウルのジグラット(聖塔)は30m、紀元前600年頃に建設されたバビロン(現在のバグダッド)の空中庭園は105mの高さと考えられています。

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 これらの例からみて、古代人は100mを越えるような建築物を建造する宗教的・権力的な意思と技術力を持っていたと見てよさそうです。

 この古代の人々をびっくりさせたに違いない「30~147mの高さ」というのは、いったい何から来ているのでしょうか? ジッグラトが「高い所」を意味し、自然の山に対する「クル(山)信仰」が起源と考えられていることからみて、これらは平野部に「人工の山」を作ったとみていいと思います。

 一方、山だらけの日本では死者の霊(ひ)が天に昇る信仰の対象となる円錐形の美しい神名火山(神那霊山)があり、その山上の巨石は磐座(いわくら)と呼ばれ、死者の霊(ひ)が宿る場所として信仰の対象となっていましたから、平野部に巨大石造物をつくる必要はありませんでした。

 そこで、平野部ではその地の「樹高より高い建造物」を神殿として、自然を超越した王の偉大さを示そうとしたと考えます。樹高をみると、エジプトやメソポタミアで建材や船材に利用されたレバノン杉の高さは40mほどであり、高知県長岡郡大豊町のスギが68m、天然秋田スギが58m、山形県寒河江市光明寺ケヤキが60m、静岡県榛原郡金谷町のクスノキが50mなどです。

大国主も同じように考え、出雲の平地林の松林の樹高30mより高い神殿を考えたに違いありません。出雲大社の「18丈(48m)」の高さは合理的であり、杉の1本柱で建造は可能でしたが、運搬の都合で2段継柱にしたと考えられます。

⑶ パプアの樹上住宅

 現在の木造の高い建物では、インドネシアニューギニア島のパプアの樹上住宅があります(ピーター・ネルソン著『ツリーハウスをつくる』、ポーラ・ヘンダーソン、アダム・モーネメント著『ツリーハウスで遊ぶ』など)。このコロワイ族のツリーハウスは、地上10~12mの樹上に建てられ、中には樹高を超えた50mの高さのものもあるそうです。

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 10~50mの高さの樹上に家を造り、暮らす人々がいるということは、高所での建築作業や生活を怖がることのない、猿のDNAを受け継いだ人々がいるということを示しています。それは、現在のとび職や諏訪大社などの「御柱祭」にも受け継がれています。

 

⑷ 木造建築の高さと建築技術

 京都東寺55m、姫路城46m(建物31.5m+石垣)、大阪城58.3m、江戸城80m(建物60m)などからみても、出雲大社16丈(48m)の建物の建設は高所作業として技術的には妥当な高さと考えられます。

 現代では、1942~1943年にアメリカ各地に建設された海軍の飛行船格納庫(木造トラス構造のゴシックアーチ型)58.5mが最高でしたが、ハイブリッド木材を使った建物ではノルウェーのミョーストーネット・ビルが約85.4mです。国内では大館樹海ドーム52m、出雲ドーム48.9mなどがあります。

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 興味深いことは、石器時代と変わらない生活を続けているコロワイ族のツリーハウスと技術の粋を尽くした木造トラスドームがほぼ同じ50mほどの高さであるということです。

 「16丈(48m)」という高さはこれらの例を見ても建築技術的に無理のない高さです。

⑸ 稲吉角田遺跡の弥生式土器の建物図

 鳥取県米子市の環濠城である妻木晩田(むきばんだ)遺跡近くの弥生中期の稲吉角田(いなよしすみた)遺跡からは、6種類の絵画が描かれた大型の壷が出土し、階段か梯子を掛けたやぐらのような高い建物Aと、高床柱の低い高床倉庫のような建物Bの2種類の建物が描かれていました。そして、このA建物を出雲大社とする説もあります。

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 Aを竪穴式住居のような屋根と部屋が一体型の建物とすると、屋根と柱部分の比率はおおよそ1:5になり、屋根の下に部屋を足して描くと、屋根と柱部分の比率は1:2強となります。一方、Bの高床式建物と柱部分の比率はほぼ1:1になります。

 Aの屋根・部屋一体型の建物だとすると高さが16丈(96m)ほどの建物になり、部屋を追加した建物だとすると16丈(48m)の高さになって出雲大社の復元模型や復元図面のような建物になります。

 しかしながら、壺に描かれた高床式建物Bと舟の高さ・長さとの比率や屋根だけの建物Aからみて、Aは出雲大社の本殿を表したものではなく、むしろ小さな見張り台的な施設の可能性もあり、上古の出雲大社の高さを予測する決め手にはならないと考えます。

 ⑹ 霊(ひ)信仰と出雲大社

 古事記によれば、出雲大社大国主壱岐対馬から招いた「別天神(ことあまつかみ)」始祖5神の「天津日継(霊継)」を行う「住所(すみか)」「天の御巣」「天の御舎」「神産巣日(かみむすひ;神産霊)の御祖(みおや)命の天新巣」として作られたものであり、日本書紀には「天日隅宮(筆者説:天霊住宮)」と書かれ、大国主が「神事を治める」「幽(かくれたる)事治める」神殿とされています。始祖5柱を祀り、天上と地上を死者の霊(ひ)が行き来する「八百万神」信仰の創始者大国主からすると、その神殿をより天に近い場所とした可能性は高いといえます。

 鉄先鋤により鉄器水利水田稲作を普及させ、「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と呼ばれて100余国を米鉄交易で統一し、妻問夫招婚により各国に180人の御子をもうけ、国譲り後は新たな霊信仰の創始者として君臨した大国主は、背後の神那霊山の八雲山175mの前に、あたりの木々の高さを超える、天に近い最高の高さの神殿を建てさせたということは十分に考えられます。

 なお大国主の国譲りは通説ではアマテルの子・孫である穂日・建比良鳥に対して行ったとされていますが、そもそもスサノオ大国主は6代離れており、スサノオの姉とされたアマテルとその子・孫とは世代が離れています。大国主の国譲りの真相は、壱岐天若日子(暗殺される)、筑紫日向(つくしのひな)の穂日・建比良鳥(武日照・武夷鳥・日名鳥)親子、出雲の事代主(自殺)、越の建御名方(諏訪に逃亡)の4人の御子・孫の王位継承争いであり、穂日は大国主が筑紫日向(つくしのひな:旧甘木市のひな城)の鳥耳に妻問して生まれた御子であり、大国主と血が繋がっているからこそ、現在の千家家・北島家まで出雲大社大国主を祀ることができたと考えます。

 なお記紀は、アマテルをスサノオの姉としていますが、古事記にはスサノオが出雲・揖屋の母イヤナミのもとに行きたいと大人になっても泣いていたという記述があり、スサノオは長兄であり、筑紫で生まれたアマテルや月読、綿津見3兄弟、筒之男3兄弟らはスサノオの異母妹・異母弟と考えます。

⑺ 巨木(神籬)信仰と巨石(磐座)信仰

 古事記によれば、少彦名が亡くなった時に大国主が「独でいかにして国づくりができようか」と落胆していた時、海を光らして大物主(代々襲名)が現れ、大物主(大物主大神スサノオ)を三輪山に祀ることを条件に大国主・大物主連合による国づくりが合意されたとされたことを伝えています。

 「海を光らして大物主が現われた」という光景は、朝日を受けてさざ波が光る中を大物主の船が東からやってきたことをリアルに伝えており、両者の会談場所が瀬戸内海北岸であることを示しています。

 兵庫県高砂市の「大国の里」(播磨国風土記)には大国主が作ったとされる日本最大の「石の宝殿」(天円地方の思想に基づく東西南北の四方を支配する王の「方殿」)があり、奈良県橿原市にも同形の巨石「益田岩船」があります。

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  1.  万葉集の生石村主真人(おいしのすぐりのまひと)の「大汝(おおなむち) 小彦名(すくなひこな)乃 将座(いましけむ) 志都乃石室者(しづのいわやは) 幾代将経(いくよへぬらむ)」の歌と「益田岩船」の2つの室からみて、「石の宝殿」と「益田岩船」は大国主・大物主連合の建国のモニュメントとしてそれぞれ作る予定であったものが、大国主の後継者争い筑紫・出雲・越の御子たちの間でおこり、建設途中に放棄された、と私は考えています。

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 なお、「益田岩船」は飛鳥に向いており、大和(おおわ)盆地南部の葛城を拠点としていた大国主の子の阿遅鉏高日子根(あぢすきたかひこね:迦毛大御神)の勢力が大物主大神スサノオ)系の蘇我氏の飛鳥をにらみつけるかのような位置に立地していますが、大国主・大物主連合が成立した段階で、この「益田岩船」は一足先に建設が中止されたのではないかと考えます。

 「石の方殿」の北には「播磨富士」と呼ばれる美しい神那霊山の高御位(たかみくら)山があり、私の妻の母の八木智恵子(元小学校教師)によれば、「大国主が石の方殿を作った時の石屑を高御位山から投げ捨てて鯛の形をした鯛ジャリがあり、その頭が上を向いていたら、日本の中心になるはずであった」との伝承が残っており、天皇家の王位継承の儀式が「高御座(たかみくら)之業」とされていることからみても、高御位山のある「大国の里」を国の中心とした大国主・少彦名の建国計画があり、大国主・大物主連合(出雲・美和連合)が成立した可能性が高いと私は考えています。

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 なお、この「石の宝殿」の南に続く竜山の「竜山石(宝殿石)」は天皇家などの櫃に使用されています。

 日本最大の人工の磐座である「石の宝殿」と「益田岩船」を作ろうとした大国主は、同時に日本最大・最高の木造建築・出雲大社を作った偉大な「葦原中国」の建国王なのです。

⑻ 結論

古代王の30~147m高層物建設志向、10~50mのコロワイ族のツリーハウス、樹高58~68mのスギ、近古・中古・上古の出雲大社の高さの伝承、巨木3本を金輪で束ねた2段継柱、死後には霊(ひ)が山上の磐座から天に昇り誰もが天神となるという大国主の「八百万神」の霊継(ひつぎ)宗教、「十月十日」の神在月(出雲以外は神無月)に各国王を集めた霊継ぎ祭祀と王族たちの「縁結び(縁産す霊)」、日本最大の人工の磐座の「石の宝殿と益田岩船」の建造、高御位山での建国伝承と天皇家の「高御座」での霊(ひ)継ぎ儀式などから考えて、出雲大社本殿は16丈(48m)の高さであったとみて間違いないと考えます。

 

4.「引橋長一町」は直階段か桟橋(木道)か?

 写真のように、古代出雲大社の復元模型と復元図は正面、妻入りの直階段で想定されています。 f:id:hinafkin:20210203181627j:plain

 その第1の理由としては、中世の出雲大社が現在と同じように屋根付きの直階段で拝殿と繋がっていたことです。

 第2の理由としては、出雲国造の千家に代々伝えられてきた「金輪造営図」には神殿の前に「引橋長一町」と書かれた長方形の図があり、この引橋を直階段と見たことが考えられます。:前掲図参照

 普通に考えれば、福山敏男元京大教授らの平安時代の復元図や模型のように「一町=109m」の直階段の建物になります。

 しかしながら、階段は和語では「きざはし(階)」であり、「橋」は川などの上に架け渡した通路になります。

 ウィクショナリーによれば、「階」は「山地等の急傾斜に土の段が並ぶ様」とされ、「橋」は「木」+「喬」(「高」い「アーチ状の飾り」)とされており、「引橋」を階段とみるのは漢字からみて無理があります。

 「階」に「橋」字を使うなら「登橋」「降橋」であり、「引橋」となると「何かを引く橋」になります。当時、出雲大社の前には汽水湖の「神門水海」があり、潮位差は最大で30cmほどですが、神門川や斐伊川からの出水時にはかなりの水位差があり、大社の前は長い砂浜に葦などが生えた湿地帯であったと考えられます。

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 そうすると本殿から拝殿の手前の現在の銅鳥居のあたりまで、舟を引いて付ける桟橋(木道)が渡されていた可能性が高いと考えます。「引橋」となると、舟を引きよせることしか私には思いつきません。

 この「引橋」があったことを裏付けるのは、日本書紀の「大国主が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋および天鳥船を造り供す」という記述です。出雲大社から神門水海にでるため「高橋(桟橋)」と「浮橋(浮き桟橋)」があったのです。「高橋(桟橋)」の橋脚は満潮や増水時には水に浸かり、干潮や渇水時には砂浜に立っていたと考えられます。

 「金輪造営図」に書かれた「引橋長一町」を109の階(きざはし:階段)と見たのは誤りであり、桟橋(木道)と浮桟橋であったのです。

 発掘を行えば柱の太さから階段であったのか、桟橋であったのかは簡単に判明するはずであり、試掘調査が求められます。

 

5.古代出雲大社・廻り階段説に基づくと

 福山敏男元京大教授らの復元図・模型の「直階段」案は実際の建築を考えてみると、さらに次のような大きな疑問があります。

 1は、この直階段は冬の大陸方向からの季節風や台風・地震を考えると構造的に弱いことです。私は構造計算は苦手なので直感でしか言えませんが、カヌーや小型ヨットでの体験では、オール・マスト1本立てるだけでも風を受けて走り、体で風を受けただけでも舟は進むのです。100mもの幅の狭い細長い構造物となると、神殿本体と合わせた横からの風圧はかなり強く、「横倒し」になる危険性は高いと考えます。

 構造的には四角形の塔型とし、心御柱の周りの側柱内側に「貫」を通し「廻り階段」をもうけた方が、長い直階段よりはるかに横風に強いと考えます。

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 第2は、再現図・再現模型では、神殿上部の建物だけを梁構造とし、下の柱には柱と柱を固定する貫(ぬき)を設けていないものと、神殿・直階段全体を貫構造としているものが見られることです。

 構造的に考えれば、柱を垂直に正確に建てるためには貫を下から順に組んで柱を固定する必要があります。そして、そこに工事用の階段を付けることは誰もが考えついたと思います。

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 第3は、一般的に建築にあたっては床や屋根、壁などの資材を運びあげるためのスロープや足場を組む必要がありますが、心御柱を中心とした貫(ぬき)構造にして内部に廻り階段を設ければ足場を組む必要はなくなります。そして屋上床からはロープで材を引き上げ、壁や屋根を作ることも可能です。

 足場材や長い直階段の材も不要となります。

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 第4は、屋根がなく塗料のない外階段は劣化が激しく、雨を防げる内階段にした方が耐久性があり、メンテナンスも容易なことです。

 第5は、ツリーハウスづくりでまず床を張り、壁や屋根を組み立てていった経験でいえば、高床式の建物の建築においても掘っ立て柱をまず建て、貫で柱を固定して梁を通して床をかけて、それから屋根を葺き、壁を作ったとみて間違いありません。このような高床式建物の建築技術の延長で考えると、下から順に貫(ぬき)を通し、内部に内階段をもうけ、最上部に神殿を建造した可能性が高いと考えます。また、途中階をもうけた可能性も高いと考えます。このような高床式の建物は縄文時代に遡り、磨製石器を使った貫構造なども使い慣れていますから、大国主鉄器時代の技術者がその技術を継承していないなど考えられません。

 

 以上、稲吉角田遺跡の線刻画と「金輪造営図」の「引橋長一町」解釈の誤解から離れ、純粋に建築技術的に考えれば出雲大社は内階段・スロープであったことが明らかです。「直階段の出雲大社」が冬の爆弾低気圧や夏・秋の台風、地震などに耐えられるかどうか、構造シミュレーションで検証していただきたいところです。

 

6.「踊り場つき折れ階段」か、「廻り階段・スロープ」か?

 ① 三内丸山遺跡の6本の立柱、吉野ヶ里遺跡の6本柱の楼観、原の辻遺跡壱岐)の9本柱の楼観、吉野ヶ里遺跡の16本柱の主祭殿の復元例においては、「縦梯子」や「踊り場つき折れ階段(はしご)」が設けられています。

 縄文時代からの建築技術の継承性から考えると、出雲大社の9本柱にもまた貫や梁があり、内部に階段があったと考えるべきでしょう。  

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② 出雲大社がこれらの建物と大きく異なるのは、内部に「心御柱」がある正方形の平面である点で、建築思想からいえば「日本型の仏塔」に近く、建築技術的には廻りスロープの「会津さざえ堂」のような構造の可能性が考えられます。

③ 「踊り場つき折れ階段」か「廻り階段・スロープ」かでは、スロープの方が建造時の木材などの運搬や儀式に使用する物資の運搬はより容易ですが、技術的には「踊り場つき折れ階段」か「廻り階段」かと考えます。  

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7.神籬(霊漏ろ木)信仰の「天御柱」と出雲大社本殿の「心御柱

① 出雲の揖屋のイヤナギ・イヤナミ(伊耶那岐・伊邪那美)神話によれば、オノゴロ島(筆者説:自ずと凝った意宇川の沖積平野)に天下った時(筆者説:対馬暖流を海下った時)、そこには「天御柱」と「八尋(やひろ)殿」があり、その「天御柱」を二人は左右から廻り、セックスして国々や神々を生んだとされています。記紀では夫婦神が天下ったとしていますが、母系制社会の海人族の妻問夫招婚や揖屋神社の祭神がイヤナミ(伊邪那美:通説はイザナギ)であること、イヤナミが先に「あなにやし、えをとこ(あれまあ、いい男ね)」と声をかけたとしていること、出雲大社の始祖5神を「別天神(ことあまつかみ)」としていることからみて、壱岐対馬の海人族の「ナギ」が揖屋を訪れ、王女・イヤナミと結ばれ、入り婿名で「イヤナギ」と呼ばれたのではないかと私は考えています。

② 海人族の拠点であった壱岐は古くは「天比登都柱(天一柱)」と呼ばれており、現在まで続く諏訪大社広峯神社(姫路:牛頭天王総本宮)など各地の御柱信仰と御柱祭、各地の神社の神籬信仰からみて、高木(神籬=霊漏ろ木)から死者の霊(ひ)が天に昇り、降りてくるという天神信仰(霊(ひ)信仰)があったことが明らかです。

③ 紀元前3世紀頃からの吉野ヶ里遺跡の紀元前1世紀の王墓の前や、福岡県前原市の紀元前100年前頃の平原遺跡の王墓にも立柱があり、イヤナギ・イヤナミ神話の「天御柱」に符合しています。

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④ イヤナギ・イヤナミ神話の「八尋(やひろ)殿」は、両手を広げた長さの「尋」(1.8m)の8倍から14.4mになります。

 縄文時代青森市三内丸山遺跡の大型建物の長さが15m、出雲大社の正面幅13.4mはほぼ合致しており、縄文時代から大国主時代、古事記作成時まで同一スケールの建築技術が続いていたことを示しています。

 なお、「尋」(1.8m)の基本尺度は写真のように茅野市の縄文中期~後期後半の中ツ原遺跡の8本柱の建物にも見られます。

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⑤ 記紀によれば、大国主は自らの「住居(すまい)」の正面に始祖5神を祀り、霊(ひ)継ぎを行う「天の御巣」「御舎」とし、全国各地の百余国でもうけた180人の御子たちの霊(ひ)信仰=天神信仰の拠点としたのであり、その「天の御巣」「御舎」の中心に「心御柱」=「天御柱」を置いたのは、縄文時代から続く神籬(霊洩ろ木)に神が宿るという天神信仰よるものであり、後の日本式仏塔にも受け継がれたと考えます。

⑥ 魏書東夷伝の夫餘(ふよ)条の「殷正月を以って天を祭り、国中大いに会し、連日飲食・歌舞す」、高句麗条「居所の左右に大屋を立て、鬼神を祭り、また霊星・社稷を祀る」、濊(わい)条「十月節を用い天を祭り、昼夜飲酒・歌舞す、この名を舞天となす、虎を祭り以って神となす」、馬韓条(後の百済の地)「大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神に事(つか)える」、辰(しん)韓条(後の新羅の地)「大鳥の羽を以って死を送る、その意、死者をして飛揚せしめんと欲す」、弁辰条(辰韓と雑居)「言語・法俗相(辰韓に)似る、鬼神を祠祭するに異あり」と同様に、邪馬壹国もまた「鬼道」(孔子が礼・信・道の国と見ていたことに由来する)であり、鬼神(祖先霊)が天に昇り、降りてくるという天神信仰であったことを示しています。

⑦ ただし、大木を立てて鬼神を祀るのは馬韓(後の百済)だけであり、夫餘・高句麗・濊・辰韓・弁辰には巨木信仰が見られないことからみて、朝鮮半島海岸部の海人族は縄文人と同じルーツの南方系であることを示しています。

⑧ 出雲大社は「心御柱」を回る「廻り階段・スロープ」をもうけ、イヤナギ・イヤナミ(伊耶那岐・伊邪那美)の神籬(霊洩木)を霊(ひ)の依り代とする天神信仰を受け継ぎ、「心御柱=天御柱」を廻りながら「天の御巣」「御舎」に大国主やその一族が登った可能性が高いと考えられます。

 

8.建築思想・技術からみた縄文巨木建築と出雲大社倭人条楼観の連続性

 日本の古代史には3つの大きな疑問が私にはあります。

 第1は、「和魂漢才」「和魂洋才」の拝外主義的な考えが根強く、この国の建国を弥生人(中国人・朝鮮人)征服による外発的発展ととらえ、「遅れた縄文、進んだ弥生」という思い込みにより、旧石器時代から土器時代(縄文時代)、鉄器時代(鉄器水利水田稲作時代)への内発的発展を考えないことです。明治からの皇国史観の影響も加わり、縄文時代=未開人、稲作時代=中国文明を受け継いだ弥生人天皇家による建国という断絶史観がまかり通っていることです。

 私は縄文農耕から鉄器水利水田稲作への連続的発展説(弥生式土器時代はなかった説)であり、縄文人の宗教・産業・生活文化・技術がそのまま鉄器時代スサノオ大国主7代の「葦原中国」「豊葦原千秋五百秋の水穂国」建国に引き継がれたと考えています。

 第2は、明治~昭和にかけての天皇を現人神(あらひとがみ)とする皇国史観の影響を受け、敗戦後も「天皇中心史観」「大和中心史観」が維持され、記紀風土記に書かれ、各地の神社伝承や祭りとして残る紀元1~4世紀の海人族のスサノオ大国主一族の鉄器水利水田稲作革命による建国を無視し、縄文時代からのイモ豆栗6穀農業や土器鍋食文化、祖先霊信仰の霊継ぎ宗教への関心が薄いことです。

 第3は、戦後の反皇国史観による「記紀神話8世紀創作説」により、記紀や神社伝承の真偽の解明を放棄し、たまたま開発に伴い発見される遺跡・遺物中心の「ただもの史観」の考古学・歴史学となり、物証に合わせて都合よく記紀の一部をつまみ食いする手法が横行するとともに、諸外国の神話・伝承・民俗や「学者の数だけある」心理学説などから物証解釈を行う手法がとられていることです。

 以上のような考古学・歴史学の大勢として、縄文時代(土器時代)と鉄器時代(鉄器稲作時代)を断絶したものとしてとらえ、農耕論、建築論、宗教論、母系制社会論などを連続して分析する方法がとられておらず、「日本文明」は「中国文明」の一部であり、「インド仏教文化国」としてしか理解されず、「日本文明論」はもっぱら歴史家以外の一部の人たちによって提案されている状況です。

 縄文時代から続く霊(ひ)信仰の海神・地神・山神・木神・天神宗教、地中海とほぼ同じ大きさの日本海東シナ海での海人族である縄文人からの海洋交易活動、独自のDNA(日本人に多いY染色体亜型Ⅾ2は中国人・朝鮮人に見られない)、中国・東南アジアにはない「主語―目的語―動詞」の言語構造、「和語・倭音―漢語・呉音漢音」の三層構造などからみて、もはや根拠の乏しい「弥生人征服説」などからは卒業し、「日本文明論」を本気で構築すべき時です。

 現在、三内丸山6本巨木建築、中ツ原8本巨木立柱、出雲大社吉野ヶ里の楼観は別々に検討され、再現されていますが、全て同じ建築思想・技術によって造られた可能性について検証し、再現されるべきと考えます。

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 3日に1日は降雨があり、冬には雪が積もる三内丸山において、縄文人が屋根のない建物を建てたと考えるのは「縄文人バカ説」の現代人の思い上がりという以外にありません。また、諏訪の御柱祭からの影響からか、中ツ原遺跡の巨木穴からただ8本柱(それも高さの異なる4本ずつ)を立てて再現した、というのもまた私には理解できません。黒曜石やヒスイの交易からみて、三内丸山遺跡の6本巨木柱と中ツ原遺跡の8本巨木柱は同じ目的・用途の建築物として再現されるべきと考えます。

 魏使が「楼観」(周囲の景色を観るための高殿)と報告した建物が、屋根はあっても壁がない、途中に階がないなどと考えられるでしょうか? 魏使を報告文書を見た陳寿が適当に魏書東夷伝倭人条を書いたなどと誰が決めつけたのでしょうか?

 「楼観」なら途中階があるのではないでしょうか?単なる見張り台なら1~3本柱の上に数人が入れる小屋をもうければ十分です。戦闘用の櫓(矢倉)なら吉野ヶ里遺跡のように柵の内側に堀をもうけ、その内側に櫓を立て、逆茂木を置いたのでは防御施設にはなりません。大人数の戦士を配置させる巨大な櫓など必要なく、柵の内側に矢を射、槍で防戦する通路となる足場をもうければいいのです。建築思想・技術の連続性を考え、三内丸山6本巨木建築、中ツ原8本巨木立柱、出雲大社、原の辻・吉野ヶ里の楼観の復元案の再検討が求められます。

 

9.「日本列島文明」の記念碑的公共建造物

① 考古学者ゴードン・チャイルドは、文明と非文明の区別をする指標として、「効果的な食料生産」「大きな人口」「職業と階級の分化」「都市」「冶金術」「文字」「記念碑的公共建造物」「合理科学の発達」「支配的な芸術様式」をあげています。(ウィキペディアより) 

 この文明論の「非文明・文明」という区分そのものが西欧中心史観の「4代古代文明論」に立った古い発想であり、私はアジア・オセアニアアメリカの農業や食文化、交易、宗教、文化を含めた共同体文明論を構築する必要があると考えていますが、ゴードン・チャイルドの指標に「宗教論」と「共同体文化論」「海洋交易論」の3つを加えて日本列島の縄文時代(土器鍋食時代=煮炊き蒸し食時代)からの文明に当てはめて考えると次のようになります。

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② 梅原猛安田喜憲編『縄文文明の発見』が宗教論・集落論・栽培論・食文化・巨木文化などを展開し、三内丸山遺跡を「神殿都市」とする説(梅棹忠夫・小山修三氏)もみられますが、紀元1~4世紀のスサノオ大国主一族の建国との連続性の検討は弱く、産業・生活・社会・文化・宗教の総合的判断としての「縄文文明論」(土器文明論)の深化が求められます。

③ 縄文時代(土器時代)からスサノオ大国主の建国までを、「霊(ひ)信仰」という1つの連続した文明として見ると、死者の霊(ひ)が神奈火山(神那霊山)の磐座から天に昇るという天神信仰、海・川・大地と天を繋ぐ神使(蛇・鳥・狼・猿・鹿など)や木神・龍神雷神信仰、受け霊(ひ)・霊(ひ)継ぎの性器信仰(ストーンサークル・円形石組・石棒、金精信仰)、1.5万年の土器鍋食文明、霊(ひ)との共食を願う芸術性の高い縄文土器、「乗船南北市糴(してき)」の鳥船による米鉄交易で入手した鉄先鋤による「鉄器水利水田稲作」の開始、人口の爆発的な増加、環濠都市国家(城=き)の成立、鉄先鋤や朱、銅槍・銅鐸の製造、赤目砂鉄による吉備・播磨での製鉄の可能性、世襲王の誕生と専門職の成立、世界最高の木造の出雲大社の造営、石の宝殿・益田岩船の巨石文化、漢字を借用した独自の漢字書き下し文(万葉仮名用法以前の表意表音漢字使用)など、中国文明とは異なる海洋交易民の「日本列島文明論」は成立すると考えます。

④ この「日本列島文明論」のシンボルとなるのが、芸術的な縄文土器土偶、石棒と円形石組・ストーンサークル三内丸山遺跡の6本柱と中ツ原遺跡の8本柱の建物、48m以上の古代出雲大社、石の宝殿と益田岩船と私は考えており、特に「森と木の文化・文明」のシンボルとなる三内丸山遺跡・中ツ原遺跡・古代出雲大社の高楼神殿の解明と再現が重要と考えます。

⑤ 「三内丸山6本柱・中ツ原遺跡8本柱高楼神殿の復元プロジェクト」と「48m以上の古代出雲大社の復元プロジェクト」を「縄文文化・文明の世界遺産登録」「霊(ひ)信仰の出雲大社を中心とした世界遺産登録」運動のシンボルプロジェクトとして考えたいところです。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

縄文ノート49(Ⅵ-10) 「日本中央縄文文明」の世界遺産登録をめざして

 2020年3月の「縄文ノート11 『日本中央縄文文明』の世界遺産登録をめざして」に、「3.縄文文化から縄文文明(産業・生活・文化・宗教)へ」「4.『日本中央縄文文明』は世界遺産登録基準を満たしている ⑴ 人間の創造的才能を表す傑作であること」「5.『日本中央縄文文明』の世界遺産登録運動の意義」を追加し、写真・図表の豊富化しました。

 「石器-土器-鉄器」の時代区分の提案に合わせて「土器文化・文明」とするか「縄文文化・文明」とするか、「縄文文化」とするか「縄文文明」とするか、悩んでいる最中でしたが、歴史・考古学世界のリングサイドの素人の気楽さ、プランナー・コンサル感覚で思い切って踏み出してみました。「仮説検証型」の工学では、「仮説命」「仮説がなくちゃあ始まらない」みたいなところがあり、それが正しいか誤っているかは検証すればいいというところがあります。

 思い切って飛びだして調べてみましたが、今のところ「縄文文明説」は撤回する必要はないと考えています。

 「日本中央縄文文明」の世界遺産登録の可能性や、「縄文文化」か「縄文文明」かなど、大いに議論いただきたいところです。世界遺産登録申請には4県の知事と関係市町村長、国の合意が必要ですが、遺跡のある地元で誰か一人、本気になる人はいないでしょうか?                                                                                     210130    雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

  

     Ⅵ-10 「日本中央縄文文明」の世界遺産登録をめざして

               150923→200307→0830→0912→210130 雛元昌弘

 2015年6月の「金精信仰と神使(しんし:みさき)文化を世界遺産に」のレジュメが発端で、7月には「大湯環状列石三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰―北海道・北東北の縄文遺跡群の世界遺産登録への提案」を『季刊日本主義31号』に発表しました。さらに、この2つの小論を受け、9月には「群馬・新潟・長野縄文文化世界遺産登録運動」を提案しました。

 本論ではイモ豆栗6穀縄文農耕論、土器鍋食文化論、鳥獣害対策の黒曜石産業革命論、共同体社会文明論、女神論、巨木楼観神殿論などを加え「日本中央縄文文明遺跡群(長野・新潟・群馬・山梨)の世界遺産登録」に向けて書き換えたものです。

 

1.「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録の取り組み

 「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録は2006(平成18)年に青森県から始められ、翌年の北海道・北東北知事サミットにおいて4道県の共同提案の合意がなされ、2008年に文化審議会文化財分科会において「北海道・北東北の縄文遺跡群」の暫定一覧表への記載が決定され、2009年にユネスコ世界遺産委員会事務局(ユネスコ世界遺産センター)において「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」として世界遺産暫定一覧表に記載され、2013年に世界遺産登録推薦書協議案を文化庁へ提出し、2015年 3月に世界遺産登録推薦書素案を文化庁へ提出、2019年12月にユネスコへの推薦が正式に決定しています。

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 縄文遺跡群は、北海道6遺跡、青森県9遺跡、岩手県1遺跡、秋田県2遺跡の計18遺跡です。

 提案自治体は北海道、青森県岩手県秋田県の4道県と、北海道3市2町、青森県4市2町、岩手県1町、秋田県2市の合計14市町です。

 

2.「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録の特徴

この「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、日本最大級の縄文集落跡である特別史跡三内丸山遺跡(青森県青森市)や大規模な記念物である特別史跡大湯環状列石(秋田県鹿角市)を中心に、北海道から北東北に残る数多くの縄文遺跡を網羅したもので、約1万年もの長きにわたって営まれた、高度に発達・成熟した世界史上稀有な先史時代の遺跡群として、次のように位置付けられています。アンダーラインは筆者

 

① 北海道・北東北の縄文遺跡群は、本格的な農耕と牧畜ではなく、狩猟・採集・漁労を生業の基盤に定住を達成し、成熟した縄文文化へと発展を遂げた先史文化の様相を伝承する無二の存在である。

 

評価基準(ⅲ)

現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。 

 

  円筒土器文化や亀ヶ岡文化など、縄文文化を代表する文化圏が栄えた中心地域で、世界最古の一つである土器や漆器が出土し、また、精神文化に関わる土偶や大規模な環状列石が集中するなど、縄文文化の特徴を強く裏付けており、物質的、精神的に成熟した縄文文化の発展を示している。

② 北海道・北東北の縄文遺跡群は、約1万年間もの長期にわたり気候変動や環境変化に適応し持続可能な定住を実現した、自然と共生した人類と環境との関わり、土地利用の形態を示す顕著な見本である。

 

評価基準(ⅴ)

あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの)。 

 

縄文文化は、「最終氷期から後氷期にかけての急激な温暖化によって生まれた、世界的にも希な生物多様性に恵まれた生態系に適応し、1万年間もの長期にわたって持続可能な定住を実現」「ブナを中心とする落葉広葉樹が広がる自然環境に、クリやクルミ、ウルシなどの有用植物で構成する縄文里山と呼ばれる人為的生態系を成立させて生業を維持」「集落遺跡は、住居、墓、貯蔵穴、祭祀空間、捨て場、道路などが計画的に配置されており、一定の社会的規制のもとに継続的に利用されており、人類と環境の交渉と、土地利用形態を代表する顕著な見本」とされています。

 

3.縄文文化から縄文文明(産業・生活・文化・宗教)へ

 「北海道・北東北の縄文遺跡群」の取組は先駆的であるものの、残念ながら縄文文明(産業・生活・文化・宗教)の全体像を明らかにするに至っていません。現代の祭りや生活文化に繋がる「共同体社会文化」への連続性を強調し、「日本中央縄文文明」の世界遺産登録を目指す必要があると考えます。イギリスのストーンサークル文明や前期エーゲ海文明、古マヤ・アンデスの祭祀文明などとともに、「古代共同体文明」として共同歩調をとることが求められます。

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① 大河のほとりの沖積平野での大規模灌漑農耕による「4大世界文明」以前の世界各地に共通して見られた「共同体社会文明」を明らかにする。

② 海人(あま)族の「海洋交易民文明」「焼畑農耕文明」「黒曜石文明」「巨木文明」を明らかにする。

③ 神名火山(かんなびやま:神那霊山)・神籬(ひもろぎ:霊洩木)信仰、性器信仰、御柱祭、蛇・龍蛇・龍神信仰などから「海神・水神・地神・山神・天神信仰の霊継(ひつぎ:DNAのリレー)宗教」を明らかにし、ユネスコ無形文化遺産に登録されたお山信仰の「山・鉾・屋台行事」との連携を図る。

④ 女神像・妊娠土偶・人面土器・ストーンサークルなどから「母系制共同体社会」を歴史的に位置付ける。

⑤ 「高度で独創的な縄文芸術」について明らかにする。

⑥ 黒曜石産業や塩の道と関連付けながら「縄文焼畑農耕(イモ豆栗6穀)」を明らかにする。

⑦ ユネスコ無形文化遺産に登録された「和食」のルーツである健康で豊かな、安定した「土器鍋による煮炊蒸食文化」を明らかにする。

⑧ 世界遺産(宗教)の「厳島神社」「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」との関係を整理する。

⑨ 「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録運動や他地域の縄文遺産との連携を図る。

 

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4.「日本中央縄文文明」は世界遺産登録基準を満たしている

「北海道・北東北の縄文遺跡群」と比べて、「日本中央縄文遺跡群(長野・新潟・群馬・山梨)」には次のような特徴があり、新たに世界遺産登録を進めるべきと考えます。

⑴ 人間の創造的才能を表す傑作であること。

「日本中央縄文遺跡群(長野・新潟・群馬・山梨)」の立体装飾土器や女性神像、土偶、耳飾りなどは、「縄文時代に何人ものピカソがいた」と称賛された優れた芸術家の作品群であり、どれ1つ同じデザインのない優れた独創性を示し、岡本太郎氏をはじめ多くの芸術家に影響を与えています。

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⑶ 現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)であること

 「大規模灌漑農耕の4大文明」に対し、「イモ豆栗6穀栽培の焼畑農耕文明」が成立していたことを各地の石器農具と土器鍋料理は示しており、現時点では世界初の「土器鍋による死者の霊(ひ)=神との共食文化」の成立が見られます。

 この縄文農業の成立には鳥獣害対策が不可欠であり、黒曜石の鏃などの広域生産分業体制が成立し、海洋交易民であった縄文人は活発な交易を行い、「黒曜石交易圏」と「妻問夫招婚交易文化圏」を作り上げました。

 「共同体社会文明」の共同祭祀として、巨木楼観神殿、環状列石、円形石組・石棒などが製作され、お山信仰、御柱祭りや猿追い祭り、鳥追い祭り、金精祭りとして現代に続いています。 

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⑸ ある文化(または複数の文化)を特徴づける伝統的居住形態、陸上・海上の土地利用を代表する顕著な見本、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本 (特にその存続が危ぶまれているもの)。

 石器農具と鳥獣害対策の大規模黒曜石鏃生産・流通や落とし穴猟、縄文土器鍋のおこげは、森林の富栄養分を活かした持続的発展可能な焼畑農耕の土地利用形態の成立を示しています。それは長野県栄村秋山郷焼畑農耕に引き継がれ、山梨県早川町奈良田でも1955年まで引き継がれており、沖積平野での世界四大文明の大規模利水・治水農耕とは異なる世界各地の農業文化・文明の顕著な見本です。

 また大規模な環状列石は、神名火山(神那霊山)信仰の共同体祭祀の共同墓地を示しています。

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⑹ 顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある」の基準を満たす遺跡であること。

  女神像や土偶、乳幼児の埋甕、出産型土器、石棒・円形石組、男根を女体山に奉げる金精信仰などは、母系制社会の地母神信仰を示しています。また、茅野市蓼科山の「ビジン(霊神=霊人)信仰、原村阿久遺跡の環状列石の中心に置かれた石柱から蓼科山を向いた石列、諏訪大社御柱祭片品村の神使の猿追い祭り、安曇野の「ホンガラ」の鳥追い祭りなどは、死者の霊(ひ)が神名火山(神那霊山)から天に昇り、山上の磐座(いわくら)や巨木に降りてくるという山神信仰、山上天神信仰を現在に伝えています。、

 これらは共同体社会の祖先霊信仰を現在に伝える顕著な普遍的価値を有しています。 

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5.「日本中央縄文文明」の世界遺産登録運動の意義

① この「日本中央縄文遺跡群(長野・新潟・群馬・山梨)」の世界遺産登録運動は、「縄文焼畑農耕(イモ豆栗6穀)」「土器鍋による煮炊き蒸し食文化」「母系制社会」「海神・水神・地神・天神信仰の霊(ひ)継ぎ宗教」「神名火山(神那霊山)・神籬(霊洩木)・磐座信仰」「性器信仰」「高度で独創的な縄文芸術」などから、「1万年の縄文共同体社会文明」を明らかにする取り組みです。

② それは4大古代文明の「大規模灌漑農耕文明」「金属器農具・武器文明」やその周辺の牧畜・遊牧民から生まれたユダヤ・キリスト・イスラムの「一神教文明」に対し、それ以前に世界各地に普遍的にあった祖先霊信仰の「共同体社会文明」を明らかにするものです。

③ わが国は異民族の武力支配を受けたことがないため、1万数千年の縄文時代の言語や宗教・文化・農耕などの伝統をそのまま現代に残し、「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3重構造の言語記録を残しており、出アフリカからの全世界の共同体文化の解明に寄与することができるという重要な役割を持っています。

④ これまでの縄文学は「弥生人征服史観」の影響を受け、古事記日本書紀に書かれた1~3世紀のスサノオ大国主一族の建国から現代に連続する農業・手工業、建築文化、食文化、祭りや宗教民俗、芸術などとの連続性についての追究が弱く、世界遺産登録にあたってはジャンルを超えた総合的な取り組みが求められます。

⑤ 「文明の衝突」が取りざたされる現代、それ以前の世界的な共通価値として、生類の霊継(ひつぎ=DNAのリレー)=命を大事にする「共同体文明」の解明をリードする取り組みです。

⑥ 縄文時代の主要遺跡・遺物があり、博物館・資料館・考古館などが充実し、住民と進める継続的な研究体制があり、御柱祭・山車祭り・お山信仰・性器信仰など、ドラヴィダ海人・山人族からの霊(ひ:祖先霊)信仰を継承し、歴史文化観光を推進してきている4県を選んでいます。

⑦ すでに縄文時代を起源とする「山・鉾・屋台行事」(宗教文化)と「和食」(生活文化)の2つがユネスコ無形文化遺産に登録され、さらに霊(ひ)信仰を受け継いだ世界遺産の「厳島神社」「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」が登録されており、これに日本中央の縄文遺跡群を加え、縄文の生活生産文化、宗教・芸術を加えた共同体文明の「縄文文明」として提案することが重要と考えます。

⑧ 御柱祭・山車祭り・お山信仰・性器信仰などが、スサノオ大国主時代からの原神道世界遺産厳島神社」「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」のルーツであることを強調するとともに、現代と繋げることが重要です。

⑨ 霊(ひ)・霊継(ひつぎ)信仰の八百万神信仰の原神道をベースにして独自の発展を遂げた仏教関係の世界遺産法隆寺地域の仏教建造物」「古都奈良の文化財」「古都京都の文化財京都市宇治市大津市)」「紀伊山地の霊場と参詣道」「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」との関係を明らかにし、日本文明・日本文化の全体像を世界に明らかにする機会とすべきです。

⑩ 「日本列島文明」として、沖縄から北海道までの「土器時代」(石器・土器・鉄器時代区分)全体の世界遺産登録を最初から目指すかどうかは、今後のこの地域での取り組みが進み、「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界遺産登録や各地の縄文遺跡との連携の中で検討できればと考えます。

 

◇参考◇

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート48(Ⅵ-6) 縄文からの「日本列島文明論」

 2015年に群馬県片品村で赤飯投げを含む猿追い祭りや金精信仰に出合い、群馬・新潟・長野等の縄文文化世界遺産登録を提案して以来、「縄文文化」に関心を持ち、さらに「縄文文明論」が成立するかどうか、ずっと気になっていました。

 そして、昨年、縄文社会研究会・東京の長野県茅野市の合宿でこの「縄文からの『日本列島文明論』」を提案し、さらに迷いながら加筆・修正を行いました。

 「縄文文明論」となると、大多数の人はこれまでの常識に基づき「眉唾もの」と思われるでしょうが、議論の材料としていただければ幸いです。  210128 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

  

        Ⅵ-6 縄文からの「日本列島文明論」

                 200729→0826→0909→1112→210128 雛元昌弘

1.これまでのレジュメ

  スサノオ大国主建国論、続いて邪馬台国論に取り組んでいましたが、2014年に縄文社会研究会に参加し、縄文社会・文化・宗教を考えるようになり、縄文人起源論へと進み、さらに「日本列島文明論」を考えるに至りました。次のようなレジュメをパラパラと書いてきました。

⑴ 日本民族南方起源論(旧石器・縄文時代論)

 140617→190131→200128 「人類の旅」と「縄文稲作」と「三大穀物単一起源説」

 2017冬 ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”(『季刊 日本主義』40号)

 180509  狩猟・農耕民族史観から海洋交易民族史観へ

 2018夏 言語構造から見た日本民族の起源(『季刊 日本主義』42号

 181201→30  妻問い・夜這いの「縄文1万年」

 181203→15 「原日本人」のルーツについて

 181204→08 松本修著『全国マン・チン分布孝』の方言周圏論批判

 181210→190110 「3母音」か「5母音」か?―古日本語考

⑵ 縄文宗教論

 140827→0816 霊(ひ)信仰の下での動物変身・擬人化と神使(みさき)、狩猟と肉食

 150526→0816 金精信仰と神使文化を世界遺産

 2015秋  北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰(『季刊 日本主義』31号)

 170721→0726 沖縄は「日(太陽)信仰」か「霊(ひ:祖先霊)信仰」か

 181215 大阪万博のシンボル「太陽」「お祭り広場」「原発」から次へ

 190129  「自然崇拝、アニミズム(精霊信仰)、マナイズム(精力信仰)、霊(ひ:祖先霊)信仰」

⑶ 日本列島文明論

 150723→0816 「石器―土器―金属器」の時代区分を世界へ

 190320・0424→200824 「縄文文明論」考

 190329→200509・0824 「縄文文明論」の検討課題

 190508 日本民族起源論から見た縄文時代

 180509 狩猟・農耕民族史観から海洋交易民族史観へ(メモ)

 2018冬 海洋交易の民として東アジアに向き合う (『季刊日本主義』44号)

 181113→1115  日本文明の原点:石器・土器・鉄器時代の解明すべき論点(メモ)

 190413・24→0508 「日本列島文明論」メモ―ハンチントン文明の衝突』より

 190619→21 32 日本列島文明の誕生(『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』抜粋)

⑷ 縄文文化世界遺産登録

 150526→0816 金精信仰と神使文化を世界遺産

 150923 群馬・新潟・富山・長野縄文文化世界遺産登録運動

 

2.「支配的文化」から「民衆の生活文化」へ

① 縄文時代を遺跡・遺物で整理する考古学の一方で、縄文人はどのように考え、生産・生活活動を行い、現代人とどう関わりがあるのであろうかという関心から、縄文生活論・縄文社会論・縄文文化論などが生まれ、さらには縄文文明論も見られます。世界の人々に通用する文化・文明として「世界遺産登録」を視野に入れて整理しておきたいと考えます。

② これまで日本文化というと浮世絵などの絵画や伝統芸能、園芸・造園・建築などが広く世界に知られ影響を与えましたが、民衆の生活の一部であり、失われつつある「和食」などは一般的には文化として認められていませんでした。しかしながら、自然志向や健康食、行事食(お祭り食)への関心が世界的に高まってきたこともあり、2013年にはユネスコ国際連合教育科学文化機関)の無形文化遺産に「和食」が登録され、それからは、広く国民の間で貴重な「文化」として認知されるようになっています。

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③ 支配的文化ではなく、民衆の生活文化への視点が重視されるようになると、古代史の分析においても、巨大なシンボリックな施設だけでなく、民衆の生産活動や日常生活の痕跡の中に文化を見い出すような視点が求められるようになります。

 

3.「縄文文化論」から「縄文文明論」へ

① 和食が重要な文化として認知されるようになると、「和食」のルーツとして、神との共食文化と考えられる世界最古の「土器鍋食」は重要な文化として浮かび上がり、この「土器鍋食文化」は「土器」という重要な調理器具、ハードがあって成立したのですから、「石器-土器-鉄器」という文明段階として論じることができる、と考えます。さらに、土器鍋食文化となると、食材のイモや穀類などの食材について、農耕によるものとなれば「農耕文明」の検討が必要となります。

 

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 もはや縄文土器などの考古学ではカバーできない領域に縄文研究は入ってこざるをえない、と私は考えます。「和食」の世界遺産登録に料理人が大きな役割を果たしたように、広く関係者の取り組みが求められます。

② 「縄文文化」については、高度なデザインの縄文土器があり、岡本太郎氏の「太陽の塔」などのデザインにも影響を与え、広く世界で認知されてきています。しかし「縄文文明」となると、そこに踏み込んで論じているのは後で紹介するように哲学者や民族学者・環境学者などまだ一部の人たちです。

 そこで、広く検討・議論するためにも、「文化」と「文明」の整理をしておきたいと考えます。

 

4.文明の定義

① 小学6年生の時と思いますが、私は「文化は精神的なもの、文明は物質的なもの」と習ったように記憶していて印象的だったのですが、ほとんどの皆さんもそう習ったと思います。

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 私の分野である建築・都市・まちづくり・地域振興などに当てはめると、「基本理念(思想・精神)・方針(利用・実現・実施方針)」→「設計(デザイン・構造・設備・環境・運営)」→「実施(建築・建設・事業・活動)」→「利用・活動(生産・消費生活など)」において、「基本理念・方針・設計・利用」などが文化、それを具体的な形にした「ハード」を含む全体が文明と整理できます。

② 文化・文明は和製漢語(日本オリジナルの定義)なので、そこからまず考える必要があります。す。

 「文(もよう、文章、手紙等)が化けるのが文化」、「文を明らかにするのが文明」という和製漢語から考えると、造語者は「文化=ソフト、文明=ハード」と整理していたと見られます。どちらにも「文」字を使っていることからみて、「文字で表す基本理念・設計・利用・活動などが文化」、それを具体的な形とした「文化を包む施設や都市などのハードが文明」として定義したと考えられます。

 縄文時代には文字がありませんが、このような規定で「文」を「基本理念(精神)・思想(宗教思想を含む)」と広くとらえ、それを具体的な形で明らかにした縄文土器の模様・絵文字、立棒円形石組・女神像などの造形を「文明」として見れば、縄文時代は1つの文明段階になります。例えば、日本発の「Emoji(絵文字)」は今や世界標準となっていますが、その伝統は縄文時代の「〇」(女性器、泡)や「〇〇」(目、乳房)、「△」(神那霊山)、「▽」(女性器)、「勾玉形」(霊・魂)、「縄文」(結び=産す霊)、「渦・対流」などに遡る絵文字になります。縄文人には「文化を土器や土偶、石組などの形にする」という文明があったことになります。

 脱線しますが、このような絵文字を象形文字としたのが漢字であるからこそ、倭人はスムーズに漢字を受け入れ、さらに独自の「倭製漢字・漢語」や「倭流漢字用法」を生みだすことができたのです。倭人は「火+田」の焼畑が「畑」、「白+田」の秋から春にかけての乾田が「畠」など、独自に漢字を生み出すことができたのです。

③ 一方、エーゲ・ギリシアの歴史を起点として文明を考える西欧では、「文明」の原語は「civilization(都市化)」であり、古代都市国家を生み出した思想、産業・人々の生活、科学技術・文化、神塔・神殿や水利施設や城壁都市などを包括して総合的にとらえた概念が文明になります。

 特に、メソポタミア楔形文字(表語・表音文字)やエジプトのヒエログリフ文字(象形文字)などの文字や天文学、巨大なエジプトのピラミッドや神殿・神像、メソポタミアジグラット(聖塔)、ギリシアの神殿、人々が集まる都市の城壁と門、水利施設などの遺跡が文明の基準、指標とされました。

 

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 この規定だと、紀元2世紀の大国主の杵築大社(きつきのおおやしろ:出雲大社)、シンボリックな楼観・宮室を設け、環濠と城柵で囲った邪馬壹国、壱岐原の辻遺跡(紀元前3世紀~紀元4世紀頃)、佐賀の吉野ヶ里遺跡(紀元前4世紀~紀元3世紀頃)などから、紀元前後からわが国は初期都市国家の文明段階とみていいと考えます。

 委奴国王スサノオ卑弥呼後漢皇帝から金印をもらい、卑弥呼後漢に上表しており、北九州や出雲などでは紀元前後の遺跡から硯石が発見され、漢字使用の文明段階になります。一方、縄文社会には城柵はなく、土地や財宝・奴隷の略奪戦争の痕跡もなく、女神信仰の母系制社会であり、前文明段階の未開社会になります。

④ さらに原始共産社会を理想としたエンゲルスは、マルクスの草稿をもとにした『家族・私有財産・国家の起源』において、生産・生活様式によって「野蛮」(採集・漁業・狩猟)→「未開」(土器・定住・牧畜・農耕)→「文明」(肥沃な大河周辺地帯での金属器による灌漑農業・騎乗遊牧生活)という文明発展説を展開し、「氏族共同体」(古代ギリシア・ローマ・ゲルマン)→「古代」(父権世襲制奴隷制、略奪戦争)→「封建制」→「資本主義」という発展論を示しています。

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  この規定によれば、日本の旧石器時代は「野蛮」、縄文時代(土器時代)は「未開」(土器・定住・縄文農耕)、沖積平野での鉄器水利水田稲作の開始による1~2世紀のスサノオ大国主建国からが「文明」(鉄器水利水田稲作)段階になると私は考えます。

⑤ しかしながら、縄文農耕や鉄器時代記紀に書かれたスサノオ大国主建国などを認めない通説歴史家たちの区分によれば、「土器・定住あり、農耕なし」の縄文時代は「半野蛮・半未開」、紀元前10~3世紀の「鉄器なし、天水・水辺稲作」の弥生中期前半までは「半未開・半文明」、紀元前2~紀元3世紀の弥生中期中葉~後期からが「文明」段階になります。

 私のような記憶力の弱い人間にはどうしても覚えきれないこのような複雑な時代・文明区分にしてしまったのは、土器様式で「縄文時代弥生時代」の時代区分を行ったガラパゴス史観と、土器基準から稲作開始基準に変更して「弥生時代」を500年あまり遡らせて紀元前10世紀にした御都合主義、「農耕=水田稲作弥生時代」と狭く規定して縄文農耕を認めない米本位主義、九州・出雲・吉備・播磨中心の鉄器時代を認めたくない大和中心史観という歴史家たちの4つの旧説墨守の原因と言えます。

 

5.「共同体文明」の新たな設定

① 以上は西欧基準の文明史観に基づく検討ですが、そもそも「西欧文明史観」をそのまま当てはめて縄文社会・文化を考えるか、それとも日本の縄文文化やイギリスのストーンサークル文化、南北アメリカの古マヤ・古アンデス文化などを含めて、脱西欧文明史観の「共同体文明」を新たに設けるか、の検討から始めるべきです。

 私は大学に入って家族(母系制→父系制)・私有財産(奴隷を含む)・国家を分析軸とした「原始共同体→古代国家→封建制→資本主義」というエンゲルスの文明発展段階を知り、その延長上で縄文時代は「未開」、紀元1~2世紀の鉄器水利水田稲作と妻問夫招婚によるスサノオ大国主建国からが「文明」段階とこれまで考えてきましたが、この西欧型農業モデルの「エンゲルス文明基準」だと「父系制」「略奪婚・奴隷制」「城壁都市」などはスサノオ大国主一族の「葦原中国」には当てはまりません。

 なお、「石造巨大建造物」については、未完ですが兵庫県高砂市の「石の宝殿」と奈良県橿原市の「益田岩船」は大国主・大物主連合ができた際の記念構造物と私は考えており、「葦原中国」にも当てはまると考えます。ただ、木材の豊富なわが国では石造建造物を必要とせず、山上の巨石の磐座(いわくら)に霊(ひ)が宿るという巨石信仰があり、石を石材として利用することを控えたため「石造巨大建造物」文化は成立しなかったと考えています。

② さらに、「稲作をもたらした弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服説」による縄文時代かの非連続な弥生時代の時代区分説に立てば、紀元前10世紀の弥生時代からが「日本文明」ということになります。

 しかしながら、日本語の「主語-目的語-動詞(SOV)」の言語構造からみて、「主語-動詞-目的語(SVO)」言語族の長江流域中国人による縄文人征服説は成立せず、「かみ、ジン、シン」「こめ、マイ、ベイ」などの「倭音倭語、呉音漢語、漢音漢語」の3重構造や、わが国がインドネシアベトナム・フィリピン・台湾のような多言語・多文化の多民族構成となっていないことからみても、中国人・朝鮮人征服説は成立しません。

 毎年、4人の男性がアジア各地から漂着・移住すると縄文時代1.5万年の間には6万人の流入があり、海の上を自由に行き来する海人族の性質からみて一方通行ではなく故地との双方向の交流・交易が生まれた可能性が高く、縄文人現代日本人のDNAの多様性は、弥生人征服説でなくても成立します。

③ このような外発的発展説に対し、私は海洋交易民である縄文人は「石器―土器―鉄器」時代の内発的発展をとげたと考えており、「イモ豆栗6穀」の縄文農耕と土鍋食文化の延長上にスサノオ大国主一族の鉄器水利水田稲作の普及による建国があり、記紀に書かれたスサノオ大国主建国神話を真実として考えています。

 この内発的発展史観においては、森と多雨の自然と調和した「イモ豆栗6穀農業」と健康長寿の土器鍋食文化、妻問夫招婚・歌垣の母系制社会、霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教に基づく海神・水神・地神・山神・木神・天神・神籬(霊洩木:ひもろぎ)・神名火山(神那霊山:かんなびやま)信仰、天と海・川・地・山を結ぶ神使の蛇(龍蛇)神・雷神・鳥・狼・鹿崇拝、巨木楼観建築や環状墓地などは、精神的・物質的な豊かな独自の「部族共同体文明」であり、自然と世界を支配しようとした西欧型文明の行き詰まりに対し、東アジア文明としてその役割を果たすべきと考えます。

 「弱肉強食・優勝劣敗の戦争こそが人類を進歩させた」という「戦争史観」に対し、「共同体文化」「交流・交易文化」を基本とした文明があることを縄文研究から明らかにしたいと考えます。

④ この「部族共同体文明」はマルクスの家族単位の「原始共産社会」やエンゲルスの氏族単位の「氏族社会」とは異なり、母系制の妻問夫招婚と共通の祖先霊祭祀、活発な交易により、海人族系と山人族系からなる部族など、「氏族」単位を越えて大きくなった社会を想定しています。

 この「部族共同体社会」は「百余国」を統一したスサノオ大国主一族の「部族共同体連合」の「葦原中国」にそのまま引き継がれます。大国主は妻問夫招婚により各地に180人の子どもをもうけ、共通の祖先霊祭祀(八百万神信仰)と交易(米鉄交易)による共同利害によって「部族共同体連合国家」を作り上げますが、それは、強力な軍事征服支配の「古代専制国家」とは異なるものであり、後継者争いから分裂して「30国」の邪馬壹国ができるなど、脆さをもった古代国家といえます。

 

6.主な縄文文明論

 全ての著者・著書に目を通しているわけではありませんが、歴史学者ではない梅原猛梅棹忠夫安田喜憲川勝平太の4氏の縄文文明論について整理・検討してみました。

⑴ 梅原猛(哲学:古代史)

① 梅原猛氏は『縄文文明の発見―驚異の三内丸山遺跡(共著)』『森の思想が人類を救うー21世紀における日本の役割』『近代文明はなぜ限界なのか(対談)』『文明への問い』『長江文明の探求(共著)』『日本の深層-縄文・蝦夷文化を探る-』などで縄文文化・文明論を哲学者として先駆的に展開されています。

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② 梅原猛氏の法隆寺論・出雲論の「怨霊史観」に対しては「霊(ひ)・霊継ぎ(ひつぎ)史観」の裏返しであると考え、『水底の歌』の「柿本人麻呂水死刑説」に対しては「海神信仰説」であるとし、縄文論については氏の「北方起源説」に対して「南方起源説」であるとするなど、梅原史観に対して私は批判的でしたが、私の『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)を編集者を通して進呈したところ、「必ず読みます」とのハガキをいただいたことがあり、縄文文明論と出雲王朝論との関係について議論できなかったことが悔やまれます。

③ 梅原文明論は、縄文時代を狩猟採取時代とし、「森の文化・森の神・森の文明」という考えであり、近代文明の危機に対置した縄文文明論として画期的な問題提起と考えます。ただ、地神・地母神、山神、神籬・御柱、海神、天神信仰との関係などがバラバラの提起されて体系化されておらず、また、縄文農耕を考えていない限界があると考えます。

 三内丸山遺跡の6本の巨木を神木(神籬=霊洩木)としているのに対して私は神那霊山信仰の楼観神殿と考えており、安田喜憲氏との共著の『縄文文明の発見』で三内丸山を「縄文都市」とみる点については、「文明=都市」規定から疑問を持っています。

 

⑵ 梅棹忠夫民族学:日本文化論・日本文明論)

① 梅棹忠夫氏は『文明の生態史観』『女と文明』『日本文明77の鍵』『世界史と私―文明を旅する』『宗教の比較文明学(編)』などで、「地域性」にこだわって独自の文明論を展開しています。

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② 私は著名な梅棹忠夫氏を「民族学者」と思い、文明論を展開していることを知らなかったのですが、エンゲルスの時間軸と農業からの文明論に対し、「文明の生態史観」という水平軸・地域軸、自然・気候風土・農業環境軸での文明論は新たな問題提起と考えます。世界の各文明との対比で日本文明を分析しており、古ギリシャ文明の女神が縄文と同じ母系制社会を示しているとしていることなどは重要な指摘です。

③ 三内丸山の6本柱を「単なる列柱」「見張り台」ではなく「神殿」(私は楼観神殿説)とみるのは卓見と考えますが、「全国から信者が集まる神殿都市説」になると疑問であり、茅野市の中ツ原遺跡の8本巨木柱の楼観神殿など、各地にそれぞれ同様の未発見の宗教施設があったのではないかと考えています。  

④ 『日本文明』を縄文を起点として現代にまで広げて分析しながら、エンゲルスの時間軸との関係を統合できておらず、旧石器・縄文・弥生・古墳時代の時代区分論との整理もされず、縄文文明論と現代との繋がりが明らかにされていないのは残念です。

 

⑶ 安田喜憲(地理学:文明論)

① 『縄文文明の発見―驚異の三内丸山遺跡』『水の恵みと生命文明』『』『一万年前 気候大変動による食糧革命、そして文明誕生へ』『環境文明論-新たな世界史像-』『稲作漁撈文明-長江文明から弥生文化へ-』『海・潟・日本人-日本海文明交流圏-』『一神教の闇-アニミズム復権-』など、始めて総合的な縄文文明論を展開されています。

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② これまで読む機会がなかったのですが、「環境文明論」の視点から、縄文文明を「森の文明」「稲作漁撈文明」「日本海文明」「生命文明」など多角的に分析するとともに、自然破壊や気候変動から近代文明の危機について鋭い批判と提案を行っています。

③ 「文明には原理がある」とし、文明の「精神」(ソフト)と「制度・組織・装置系」(ハード) から分析し、文明の「原理」「精神」「品格」から縄文文明を近代ヨーロッパ文明や4大古代文明に対置し、自然と生命を基本原理・精神とした文明論は、「霊(ひ)信仰・霊継(ひつぎ)信仰=命(DNA)のリレー」を基本に置いて考える点で私と同じです。

 しかしながら、縄文の「森の文明」に対し、長江文明を携えた弥生人による「稲作漁撈文明」という旧来の2重構造論であり、「イモ豆栗6穀」の縄文農耕やバランスの取れた豊かな土器鍋食文化とその延長上にある鉄器水利水田稲作へと連続するスサノオ大国主建国を認めない外発的発展史観・征服史観の枠組みから抜け出せていないのはちょっと残念です。

 

⑷ 川勝平太(経済学:比較経済史)

① 川勝平太氏(現静岡県知事)には『文明の海洋史観』『文明の海へ―グローバル日本外史』『「美の文明」をつくる―「力の文明」を超えて』『「美の国」日本をつくる―水と緑の文明論』『近代文明の誕生―通説に挑む知の冒険』などの著書があります。

② 梅棹忠夫氏の『文明の生態史観』の「ユーラシア大陸の乾燥地帯の遊牧民文明」を東洋・西洋の「農耕文明」の間にもうけた「陸地文明生態地図」に対し、川勝氏は四方に海洋を置いた新たな「海洋文明地図」を提案しています。梅棹氏の「遊牧民文明」に対し、「海洋民文明」の提案を行っています。

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 「4大古代文明」から見れば辺境の大陸西端の西欧と東端の日本が近代化を成し遂げることができたことについては、「海洋文明史観」で説明されています。

② 私の母方の祖母の家が代々、御座船で住吉大社宮司に仕えたことや、義理の叔父は笠岡市の神島(こうのしま)の「一杯船主」で金刀比羅神社に船で参っていたことなどを聞き、海や舟には関心があり和船やカヌー・小型ヨットで遊んでいた私は、海人族の歴史を中心に古代史や戦国史明治維新などを考えてきており、川勝平太氏の「海洋史観の文明地図」や、網野義彦氏の中世の「海民論」(著書名を忘れました)は興味深く、私には共感できるものでした。

③ 川勝氏が批判する「陸地文明史観」を私は「ウォークマン史観」「騎馬民族史観」と呼び、そもそも人類の拡散は「海の道」によっていると考えてきましたが、川勝氏の本は古い1998年の『文明の海洋史観』しか持っておらず、他の新しい著書は読めていないので、日本列島人形成論、交易・外交論と農耕論、言語・文化・宗教論を総合して日本列島の通史としてどのように「海洋文明史観」を川勝氏が展開されているのかは、追って加筆・修正したいと思います。

 

7.縄文時代(土器時代)に遡る「日本列島文明論」

 ヨーロッパ先史時代の研究のマルクス主義考古学者のゴードン・チャイルドは文明の基準としてさらに細かく「効果的な食料生産」「大きな人口」「職業と階級の分化」「都市」「冶金術」「文字」「記念碑的公共建造物」「合理科学の発達」「支配的な芸術様式」の9つの指標を掲げています。私はそれに「宗教」「共同体文化」「交易・交流」を加え、「縄文時代」「紀元1~2世紀のスサノオ大国主一族の建国」「天皇家大和朝廷」のどの段階から文明段階と認めるべきか、検討してみました。

 これまで、スサノオ大国主一族の建国からを文明段階と考えてきましたが、この基準によっても縄文(土器)時代1万年を1つの文明段階として位置づけるべきと考えるに至りました。

 「朝鮮・長江流域からの弥生人による縄文人征服」の延長上に弥生人天皇の建国を位置付ける「新旧皇国史観」「反皇国史観」「大和中心史観」は、縄文文明論とスサノオ大国主建国文明論に対し、2重の見直しが必要と考えます。

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8.「文明の衝突」論と「文明の共通価値」論について

① 「四大文明論」は中国の清朝末から中華民国にかけて活躍した学者・革命家・政治家・ジャーナリストであった梁啓超(りょう けいちょう)が唱えたもので、「河流文明時代→内海文明時代(ギリシア・ローマ時代)→大洋文明時代」と時代区分する鋭い文明観を提案しています。私は彼の「四大文明論」だけ教わったのですが、彼の業績や肝心の「河流文明→内海文明→大洋文明」という文明区分は知らないままでした。

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 NHKスペシャルは2000年より「四大文明」を放映し、さらに「四大文明エピローグ 地球文明からのメッセージ謎のマヤ・アンデス」を付け 加えているのはいいのですが、梁啓超の「内海文明時代」を取り上げ、「エーゲ海地中海文明」に「東シナ海日本海文明」を付け加えて紹介することも、「日本列島文明」を追究・紹介することもなく、「四大文明」賛美に終わってしまっているのは残念です。

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② このアフリカ・アジアの古代4大文明(エジプト・メソポタミア・インダス・黄河)は、大河を治水して沖積平野で大規模灌漑農業を行う大規模農業・土木型の「河流文明」であり、エジプトと中国は「古代専制国家型文明」であり、領土拡張戦争を繰り広げ、何度も王朝交代を繰り返しています。

 一方、メソポタミア文明は神を天から迎えるジグラット(聖塔)と城壁、灌漑施設があり、階級分化は見られるものの侵略的・略奪的な古代専制国家ではなく、ドラヴィダ族によるインダス文明は水利施設がある計画的な都市ながら城壁はなく、母系制社会であった可能性が指摘されており、「古代4大文明論」はひとくくりにはできないことをみる必要があります。中国もまた、彼らが大事にする「姓」字が「女+生」であることなどから、姫氏の周王朝までは母系制であり、春秋・戦国の時代から父系制にかわったのではないか、と私は考えています。

 この「四大古代文明」は文字や数学・天文学(暦)など、人類の発展に大きな役割を果たしますが、欧米ロ日の植民地支配にさらされ、民主主義革命と産業革命による資本主義社会への移行は長らくできませんでした。

③ エンゲルスの「原始共同体→奴隷制封建制→資本主義」の文明発展論などに対し、英国の歴史学者アーノルド・J・トインビーは、その西欧中心史観を批判し、地域性・文化性・宗教性を分析に加え「西ヨーロッパ文明」「東ヨーロッパ文明(ビザンチン文化→帝政ロシア)」「アラブ文明」「ヒンズー文明」「中国文明儒教)」「日本文明(大乗仏教)」の6文明論を主張しました。

 文化・宗教を加えた文明の分類は画期的ですが、日本文明を「大乗仏教」としているのは表面的であり、縄文時代から続く霊(ひ)信仰の「古神道大国主の八百万神神道)」こそ日本文明の宗教とすべきであったと考えます。

 なお、明治政府は「アマテラス神道」を国家神道とし、天皇を神として支配の中心イデオロギーとしますが、教育勅語全体が儒教朱子学)精神で貫かれているように、むしろ徳川幕府の支配思想を継承した「儒教中国文明」の支流と言わざるをえません。

④ さらに、サミュエル・ハンチントンは『文明の衝突』(1996年)において、ラテンアメリカ文明 とアフリカ文明を追加し、現存する8大文明として中華文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、日本文明、東方正教会文明、西欧文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明をあげ、5つの『世界的な宗教』であるキリスト教イスラム教、ヒンドゥー教儒教、仏教のうち、一神教世界宗教キリスト教イスラム教の文明対立を社会主義国との東西階級対立後の新たなアメリカの世界戦略として位置づけています。

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⑤ 一方、中国の習近平主席は「四大文明の中で中華文明だけが中断なく続いている」「中華民族の偉大な復興の実現が、近代以降の中華民族の最も偉大な夢だと思う」とし、古代専制王朝(漢・元・唐・明など)と遊牧民王朝の元・清を受け継ぐ「中華社会主義国」として「一帯一路」戦略をとっています。

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 そしてギリシャとともにイラク・エジプト・インド・メキシコ・ペルーやボリビアなども参加する「古代文明フォーラム」を設立し、近代西欧文明批判の世界戦略を描いています。

 インドと国境紛争を意識しているのかどうか、中国の考古学では長江流域がインディカ米・ジャポニカ米の発祥の地であるとする説も出てきており、これに呼応するかのような「弥生人(長江流域江南人)の縄文人征服説と弥生人天皇家の建国説」もわが国には右派・左派を問わず根強く見られます。その批判は「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」を参照ください。

⑥ 世界単一市場化(グローバライゼーション)による格差社会化が進む中で、ユダヤキリスト教右派イスラム教過激派、中華社会主義と西欧諸国の文化・文明の対立が煽られる現代、私たちは日本文明をどこに、どう位置付け、どこへ向かうべきなのか、日本文明論を本気で考えなければならない時代と考えます。

 多くの国民は葬式仏教の現状から「大乗仏教」の国と言われてもピンときませんし、江戸時代・戦前の「儒教朱子学)の上下秩序重視」の「中華文明圏」に属すると言われても違和感を覚えるのではないでしょうか?

⑦ 私は日本列島文明は、4大大河文明の周辺に位置しながら海洋交易民として独自の発展を遂げており(母系制文化・共同体文化・祖先霊信仰・自然共生の生類文化・森林文化・巨木建築文化・土器食文化など)、古エーゲ文明(キクラデス文明)とは海洋交易民として共通性を持っていると考えます。また環状列石・環状列柱はイギリスのストーンサークル(環状列石)文明と、霊(ひ=pee)信仰や倭音倭語はインドのドラヴィダ族と共通し、森林と農業の循環を大事にする照葉樹林文化は東インドミャンマー雲南高地民と共通しています。

 古エーゲ文明(キクラデス文明)、イギリス環状列石文明、古マヤ・古アンデス文明などとあわせて「5大古代共同体文明」と名付けてもいいと考えますが、「4大文明」にもそれぞれ共同体社会段階があり、さらに共同体文明論としての解明が求められます。 

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⑧ 「近代科学文明」国としてはイギリスを中心とした西欧文明、それにアメリカ、日本が続いたのは、「海洋交易民」として多様な文化の積極的な受け入れと海洋交易を抜きにしては考えられません。しかしながら、グローバリゼーション(世界単一市場化)によるこの「モノカネ(拝物・拝金)文明」は格差社会化と地球環境破壊による異常気象という行き詰まりをみせており、新たな「共同体文明」の創造に向かうことができるかどうか、分岐点を迎えています。

⑨ 縄文(土器)文化の世界遺産登録を進めるにあたっては、「縄文文明論」「日本列島文明論」を明確にした上で世界の各文明との関係性を明らかにし、「各文明の共通価値」を見出し、「文明の衝突」の回避に向けて世界へ情報発信する必要があると考えます。

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9.今後の課題

① 地球が温暖化傾向から寒冷化に向かう5000年前頃の危機の中で、世界で一斉に農耕が始まり新しい古代文明が誕生したと考えられます。 

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② その文明の解明には、「地域」「産業」「生活」「社会」「科学技術」「言語」「宗教・芸術」から総合的に考えていく必要があると考えます。

 「大河地域―砂漠・草原地域―多島海地域」などの地域軸、「共同体社会―氏族社会―古代専制社会―封建社会―近代社会」「河流文明→内海文明→大洋文明」などの時間軸、「農業革命―工業革命―情報革命」という産業軸、「霊継(ひつぎ)宗教―自然宗教絶対神宗教」という宗教軸などを総合した文明論です。

③ 最終目標としては、「文明の衝突」「宗教対立」「階級対立」を超える歴史的な共通価値としての「命」=「霊(ひ)=DNAの継承」を明確にし、新たな「生類共同体文明」を展望したいと考えます。

④ すでに縄文時代を起源とする「山・鉾・屋台行事」(宗教文化)と「和食」(生活文化)の2つがユネスコ無形文化遺産に登録されており、これに縄文宗教・文化・社会を示す遺跡を加えて統一的な説明を行うことにより世界遺産登録は可能と考えます。縄文遺跡のハードからだけではない、精神文化・生活文化からのアプローチが重要です。

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 ⑤ 「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界遺産登録や各地の縄文遺跡との連携を図り、「縄文文明」として、沖縄から北海道までの「土器時代」(石器・土器・鉄器時代区分)全体の世界遺産登録を最初から目指すか、それとも「日本中央縄文文明」としてまずは世界遺産登録を目指すかは、今後、議論すべきと考えます。

 

<資料1>  「縄文文明論」考

                      190320・0424→200824 雛元昌弘

1.古代文明論について

① 肥沃な大河のほとりで穀物栽培を開始し、金属器を使用して農耕・土木・建築・戦争を行い、古代国家を作り上げ、文字や数学・天文学を発達させるなど、産業・政治・行政・生活・文化(文字・哲学・科学・宗教・芸術)の新たな時代を作り上げたという点において、メソポタミア、エジプト、インダス、黄河は「4大文明」とされてきました。

② 一方、近年、イギリスの巨石文明や縄文文明を主張する流れとともに、「エーゲ文明(ミケーネ・クレタ・トロイ)」「ギリシア・ローマ文明」「古マヤ文明」「古アンデス文明」「遊牧民文明」などの文明論も見られます。

③ さらに時代が下がると、「ヒンズー教・仏教などの多神教」に対し、「ユダヤ・キリスト・イスラム一神教」は世界宗教として現代にまで大きな影響を与えており、文明論を「文化」の中の「宗教」という1ジャンルに押し込めていいのか、という検討も必要と考えます。「近代産業」「貨幣経済」とともに民族・国家を超えた影響を持っているからです。

④ このような文明観の中で、わが国はどのように位置づけられるのでしょうか?

 

2.「縄文文明論」について

① これまで、「縄文土器時代」は、「土器の編年」からの考古学の区分でしたが、大きく変えたのは岡本太郎氏の「縄文芸術論」であり、さらに「縄文文化論(西垣内堅祐弁護士等)」「縄文生活論・縄文社会論(上田篤氏等)」「縄文文明論(梅原猛梅棹忠夫安田喜憲川勝平太氏等)」などの主張がみられます。

② 日本のアカデミズム主流は、「進んだ弥生、遅れた縄文」「進んだ中国、遅れた日本」「進んだ西欧、遅れた日本」、「アジア的生産様式」などの拝外主義の思い込みが強いのか、あるいは物証主義によるのか、縄文論を「仮説検証型」で進化・発展させてきたのはアカデミズム傍流、あるいは他分野、在野の人たちかもしれません。

③ 例えば「石器-縄文-弥生-古墳」時代の日本の独特の時代区分は「石と土の日本文明」という強い思い込みにとらわれたものであり、この「セキ・ドキ・ドキ・バカ」時代区分が世界に通用するとは思いません。素直でない私は小学生の時、日本に「金属器時代」がないことにどうしても納得できませんでした。

 単純に「石器-土器-鉄器」の時代区分に変え、沖縄から北海道を結ぶ「貝とひょうたん・ヒスイ」「日本海を結ぶ黒曜石」の道、成熟した文化中心の信越・北関東・東北地方、鉄器文化中心の北九州・山陰・中国地方、沖縄から北・東への方言・地名の移動などに着目し、「大和中心史観・天皇中心史観」から脱すべきと考えます。

④ さらに重要なのは、大陸から海に隔てられた多島列島という地勢的条件と黒潮対馬暖流により、日本列島には多くのDNAを持った人々が移住しながら、部族抗争に明け暮れる多民族国になることなく、竹筏・丸木舟・鳥船(帆船)により活発に交流・交易を繰り広げ、1万年にわたる平和な縄文社会、漁撈・狩猟・縄文農耕の安定した食料確保と栄養豊かな土器煮炊き・蒸し料理文化を創り上げ、鉄器文明時代に入って「鉄先鋤革命」により水田稲作を一気に全国に普及し、妻問・夫招婚による「八百万神」信仰によるスサノオ大国主王朝建国という、独自の産業・政治・生活・文化を持った社会・国づくりを行ってきたのです。

⑤ 縄文時代の人骨2582体のうち何らかの攻撃・武器による死亡は23体(0.9%)、弥生時代は100体/3289体(3%)とされており(中尾央:『日経サイエンス』2018.12)、「戦争は人類の本能」「戦争が人類を発達させた」という戦争文明史観を否定しています。

⑥ 今、求められているのは、この縄文社会・縄文文化を、「縄文文明」として整理し、世界に発信することではないでしょうか? それは、考古学の石器・土器分類学には収まらない作業となります。

⑦ 「海洋交易民文明」として、西の「エーゲ文明」「ギリシ・ローマ地中海文明」に対し、東の「日本列島文明」「縄文文明」を対置すべきと考えます。

 縄文1万年の祖先霊信仰(霊(ひ)継ぎ=DNAリレー)から続く「八百万神」信仰は紀元前6世紀からのギリシア哲学や紀元前5世紀頃の旧約聖書に対置でき、自然との共生、栄養豊かな土器煮炊蒸料理・生魚食文化は現代にまで影響を与え、紀元前8世紀~紀元後1世紀のギリシア神話には紀元1世紀前後の記紀神話が対置できます。

 紀元前9世紀からのギリシア文字に対し、わが国には「縄文絵文字」の伝統の上に象形文字の漢字文化を受け入れ、万葉仮名の成立は5世紀頃とされていますが、魏書東夷伝倭人条によれば、文書による「上表」、「文書の伝送」が3世紀に行われていたことが確実であり、紀元1世紀の委奴国王の後漢新羅との外交、スサノオ大国主王朝の成立に伴う「神在月」の行事などからみて、紀元1世紀には独特の音訓併用漢字(表意表音文字としての漢字)を使用していた可能性が高いと考えます。

 

3.「日本列島文明」か「縄文文明」か

① この1万年を越えるわが国の海人族の「文明」をどのように名付けるのか、今後、更に検討・議論が必要と考えますが、私の現時点での考えを述べておきたいと思います。

② 「海洋交易民」としての文明の特徴を示すなら「日本列島文明」になりますし、「土器文明」ではなく「縄文」に特別の「産す霊=むすび」の意味を持たせるなら、「縄文文明」になります。

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③ この国の始祖神の「霊(ひ)を産む神」である、高御産巣日(タカミムスヒ:高皇産霊)・神産巣日(カミムスヒ:神皇産霊)の名称、人(霊人)・彦(霊子)・姫(霊女)・聖(霊知)・卑弥呼(ヒミコ:霊巫女)などの名称、アマテル・スサノオの「ウケヒ:受け霊」から考えると、「縄」は「ムスヒ=結び」のシンボルであり、男女が「ウケヒ」で「ムスヒ」=「霊(ひ)を産む」シンボルであった可能性があります。

 従って、霊(DNA)を繋ぐ「霊(ひ)信仰」のシンボルとして「縄文」をとらえ、その土器で料理し、家族・祖先霊とともに共食しべて命を繋ぐ神器として「縄文土器鍋」に特別の宗教的な役割を考えていたとすると、「縄文文明」としてアピールした方がいいといえます。

④ この霊(ひ)信仰は、他の動物や植物なども霊(ひ)を持っていると考える生命尊重・自然共生の宗教であり、古代人の宗教を「自然崇拝:自然(太陽、山、海、雷・・・)そのものの崇拝」、「アニミズム(精霊信仰:自然に宿る精を信仰)」「マナイズム(聖力信仰:自然や人にとりつくマナ(精なる力)信仰)」ととらえるのではなく、「霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教」という世界的に普遍的な宗教としてアピールすべきです。

 

 

<資料2>    「縄文文明論」の検討課題

                       190329→0509→200824  雛元昌弘

1.民間研究者の役割

(1) 大胆な仮説検証型の方法論

(2) 細分化された多様な分野の多様な説の整理・統合

(3) 現代的な課題への提言(文明論、文化論、宗教論、芸術論、政治論・・・)

 ① 「中国・アメリカの周辺文明国」か、「自立発展文明国」か

  ―拝外主義・排外主義の両コンプレックスの克服

 ② 「西欧白人文明進歩史観」の再検討

  ・「肉食史観」「3大穀物史観」「焼食史観」対「魚食史観」「いも食史観」「生食・鍋食史観」

  ・「原始共同体→古代専制国家→封建社会→民主国家→社会主義国家」の進歩史観

  ・「主語―目的語―動詞言語」(自他尊重文化)対「主語―動詞―目的語言語」(自我優先文化)

   ―「主語―目的語―動詞」言語族と「主語―動詞―目的語」言語族の出アフリカと拡散分析

  ・「表意文字」対「表音文字」対「表意・表音文字

  ・「一神教史観」対「多神教史観」

  ・「人間中心宗教(信仰心を持つ人間だけが天国へ行ける)」対「死ねば誰もが神になるという動物を含めた霊(ひ)の再生宗教(八百万神信仰、生類愛信仰)」

③ 「文明の衝突」(サミュエル・ハンチントン)に対する、「文明の共存・共生」の提案

―「多DNA・多民族・3層構造の融合言語・複数宗教(神道儒教・仏教・キリスト教など)・複数国家(日本国と琉球国)」の海洋交易民文明

 

2.世界史の中での「縄文社会」の解明課題

① 「縄文文明」「日本列島文明」論は成立するか?

② 「4大文明(黄河・長江を1つとみる)」、「地中海文明」、「アスティカ・マヤ文明」、「オアシス・遊牧民文明」などとの違いと独自性の整理

③ 生産―生活―文化(言語、文字、宗教、芸術、政治)の総合的な文明論

 

3.古代文明論の整理

① 「狩猟採取民史観」、「海人族(漁労交易民)史観」、「農耕民史観」、「砂漠・オアシス・草原遊牧民史観」

② 「石器・土器・鉄器時代区分論」(武器史観から、生活用具史観へ)

③ 「肉食史観」「3大穀物食史観」対「イモ豆栗6穀・魚介食史観」

―「焼食窯食文化」対「煮炊き蒸し食文化」

④ 「宗教区分論」(自然崇拝論・「アニミズム論」・「マナイズム論」対「霊(ひ)信仰論」)

 ・「縄文」は「産す霊(ひ)=ムスヒ=結び=受け霊(ひ)=男女の性交」を示すシンボル

 ・縄文土器は霊(ひ)=DNAを繋ぐ神(祖先霊)と自然との共食の神器

 ・人(霊人)、彦(霊子)、姫(霊女)、聖(霊知)、棺(霊継ぎ)、卑弥呼(霊御子)、ヒ留女(霊留女)・蛭子(霊留子)

 ・「禁欲宗教」対「子宝・子孫繁栄宗教」(妻問夫招婚、性器崇拝)

 ・「海神(龍宮)信仰」「地神(地母神)信仰」「山神信仰」「天神信仰

⑤ 「縄文芸術論」(霊=命の芸術)

 

4.日本列島人起源論と縄文社会論の整理

① 「多DNA・原日本語民族論」:インドネシア・フィリピン・台湾のような多民族多言語国にならず、「主語―動詞―目的語構造」の「3層言語」の交流・交易社会はなぜ成立したか?

② 「北方起源説」(マンモスハンター説:大型動物狩猟民説)、「長江流域中国人渡来説」、「朝鮮人渡来説」(騎馬民族説)対「南方起源説」(竹筏・丸木船の海人族説)

③ 旧石器時代縄文時代内発的発展か、外発的発展の断続か?

 ―「自立発展史観・内発的発展史観」対「外発的発展史観(征服国家史観)」

④ 「隣接地域への波紋型(リレー型)文化伝播説」対「海洋交易民による飛び石的文化運搬説」:活発な交流は陸上リレーか、海洋交易民活動か?

⑤ 古日本語「5母音説」(「あいういぇうぉ」説と「あいうえお」説)と「3母音説」(5母音の方言化説、3母音古日本語説、「あいういぇうぉ」5母音からの分化説)

 

5.縄文社会論と古代国家形成論の整理

① 「石器時代縄文時代弥生時代古墳時代」の「イシドキドキバカ」時代区分説(石土文明史観の大和中心史観)か、「石器―土器―鉄器」(スサノオ大国主建国)の時代区分説か?

② 「遅れた縄文人、進んだ弥生人」の「弥生人征服史観」は成立するか?

③ 「戦争本能説(弱肉強食論)」対「戦争社会条件説」

④ 「天(あま)族論」対「海人(あま)族論」

⑤ 「スサノオ大国主建国論」対「アマテラス建国論」

 ―「スサノオ天王建国論」対「神武・崇神・応神・天武天皇建国論」

⑥ 「世界を照らすアマテラス太陽神」対「甘木高台(高天原)のアマテル(海照)神論」

 ―「アマテル太陽神」説対「アマテル(オオヒルメ=大霊留女)=卑弥呼=霊御子説」

⑦ 「神産霊・高産霊始祖神説」対「イヤナギ・イヤナミ始祖神説」

⑧ 日本列島文明のシンボル「出雲大社説」対「箸墓古墳説」

⑨ 「三輪大物主・纏向大国主拠点説」対「纏向卑弥呼=アマテラス拠点説」

⑩ 「箸墓(大市墓)=モモソヒメ墓説」対「箸墓=オオタタネコ大物主・モモソヒメ夫婦墓説」

 

 ◇参考◇

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/