ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート47(Ⅴ-23) 「日本列島人はどこからきたのかプロジェクト」へ

 「地域おこし・まちづくり・むらづくり」を主な仕事としてきた私は、2018年から「アフター原発のまちづくり」に向けて歴史文化の世界観光を考え始め、2020年からは「新型コロナ」の全くデタラメな感染者・死者予測・シミュレーションに基づく「全国一斉休校」「全国一斉外出抑制」の全体主義的な方針に反対し、深刻なダメージを受けた観光・飲食業などとそこで働く人々の「アフターコロナの世界観光」に向け、「縄文文化世界遺産登録」に向けた研究にのめり込みました。

 これまで、古代史の関係では日本民族起源論、日本語起源論、縄文・弥生農耕論、建国論(スサノオ大国主一族か天皇家か)、邪馬台国論など多くの論争がありましたが、残念なことに、世界の人類史に向けての提案を意識したものは「縄文論」でわずかにみられるだけで、少ないように思います。また、プルトニウム239の半減期3万年、10・4・2万年周期の気候変動説、パンデミック100年周期説などを考えると、日本列島人4万年の歴史全体で議論すべき時と考えます。

 「東京オリンピック2020」に続いて「大阪万博2025」が予定されていますが、コロナ後のこれからの世界観光を考えると、「一時的、大都市集中型、スポーツ・産業テーマ、焼き直し」の戦略ではなく、「持続的、分散型、歴史・文化テーマ、オリジナル」の「縄文文明の世界遺産登録」を軸として検討すべきであり、「世界の共同体文明」に光を当てる大きな役割を果すべきと考えます。       210125 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

    Ⅴ-23 「日本列島人はどこからきたのかプロジェクト」へ

                             201202 雛元昌弘

 ネットで関野吉晴氏の「グレートジャーニー」を検索していて、の2012/8/10が引っかかってきました。http://veesarvalleyjp.blogspot.com/2012/08/blog-post_8156.html

https://www.facebook.com/VeesarValleyJp/photos/?tab=album&album_id=506780622681514 

     f:id:hinafkin:20210125110552j:plain

 以後、情報が継続して更新されていませんが、アフリカからアジアへの人類の移動ルートを確かめようとする「仮説検証型」の発掘には興味を惹かれました。

 民族学者・人類学者・言語学者・農学者・民俗学者宗教学者・考古学者たちが協力し、アフリカからの「日本列島人はどこからきたのかプロジェクト」(日本列島人グレートジャーニー・プロジェクト)を開始していない不甲斐なさと較べると、実にあっぱれというべきでしょう。

 添付画面によれば、彼らは東インドからミャンマー雲南ルート(高地ルート:照葉樹林文化説)、ミャンマー・タイ・ラオスルート(インドシナ横断ルート)、ミャンマー・マレーシアルート(海の道ルート)を仮説として考えています。

      f:id:hinafkin:20210125110647j:plain

 私もまたこの3ルートを検討しましたが、「主語-動詞-目的語(SVO)」言語の中国・東南アジアの諸民族の間を縫って、陸上を少数の「主語-目的語-動詞(SOV)」言語のドラヴィダ語族が族が言語と文化を守りながら大移動できたとは考えられませんでした。

 東アフリカ起源の「主語-目的語-動詞」言語部族はヒョウタンや稲・雑穀などを持ち、エチオピアあたりから海沿いにインドに到達し、南東インド海岸部・セイロン島(スリランカ)のドラヴィダ系海人族はさらにミャンマー海岸部・アンダマン諸島に移住し、その一部は温暖期に熱帯のマラリアなどの感染症を避けて東インドミャンマー高地に移住してドラヴィダ系山人族となり、寒冷化をむかえて南下してドラヴィダ系海人族と合流し、スンダランドを経由して日本列島へ到達したと考えるにいたりました。

 「主語-目的語-動詞」言語のドラビダ語ルーツの倭音倭語、Y染色体Ⅾ1a2aグループのチベットブータンアンダマン諸島と日本人の繋がり、赤米や温帯ジャポニカの起源、短足・がっしり体形と容貌、赤米・もち・いも食文化や歌垣・妻問夫招婚、チベットからインドシナ高地にかけての死者の霊(ひ)が宿る聖山信仰、ドラヴィダ族や東南アジア高地民の「pee(ピー)」信仰と日本の霊(ひ)信仰、祭りの掛詞の「ポンガ」(タミル語:泡立つ)と「ホンガ」(秋田・長野)という希少性・固有性・恒常性の高い囃子言葉の同一性、熱帯性のヒョウタン・リョクトウ・ウリや丸木舟製作の東南アジアの丸ノミ石斧の伝播など、縄文文化・文明の世界遺産登録を目指し、国際的な協力をえて「日本列島人大移動プロジェクト」を今こそ立ち上げるべきではないでしょうか。

 プルトニウム239の半減期は3万年ですが、それは日本列島に人々がやってきた3~4万年の長さに匹敵します。また、気候では10万年・4万年・2万年周期の気候変動説があり、100年周期説など人類は何度もパンデミックを経験してきています。今、未来はアフリカを出た4万年の旧石器人・縄文人からの時間スケールで判断が求められるのです。

 「東京オリンピック2020」に続いて「大阪万博2025」が予定されていますが、コロナ後のこれからの世界観光を考えると、「一時的、大都市集中型、スポーツ・産業テーマ、焼き直し」の戦略ではなく、「持続的、分散型、歴史・文化テーマ、オリジナル」の「世界遺産」を軸とした観光を考えるべきであり、縄文文明の世界遺産登録は「世界の共同体文明」に光を当てる大きな役割を果たすことができると考えます。

 歴史学者に求められるのは、数万年の世界的な視点での日本史の解明であり、世界に向けて提案できる教訓を導き出すことではないでしょうか?

<「ヴィーサル・ヴァレー・プロジェクト」ホームページより>

1.目的

 私たちパキスタン-日本考古学共同調査隊は、2012年より、パキスタン・シンド州北部のヴィーサル・ヴァレー地区で、旧石器時代遺跡の発掘調査を開始しました。およそ12万年前にアフリカを旅立った現代人が世界中へ広がって行ったグレート・ジャーニーの足跡をこの地に見つけだすことが、調査の最大の目的です。

2.メンバー パキスタン-日本考古学共同調査隊

① 代 表

 ニローファー・シェイフ/Nilofer Shaikh/シャー・アブドゥル・ラティーフ(SALU)大学副学長・教授

 近藤 英夫/Hideo Kondo/東海大学文学部教授

② ヴィーサル・プロジェクト・メンバー (日本)

 野口 淳/Atsushi Noguchi/明治大学校地内遺跡調査団/考古学・石器・ジオアーケオロジー/ウェブ・サイト作成管理

 下岡 順直/Yorinao Shitaoka/京都大学大学院理学研究科附属地球熱学研究施設/古文化財科学・年代測定

 横山 真/Shin Yokoyama/(株)ラング代表取締役/考古学・石器3D計測・分析モデル作成

 千葉 史/Fumito Chiba/(株)ラング取締役/情報工学・石器3D計測・分析モデル作成

 藤波 啓容/Hirokazu Fujinami/(有)アルケーリサーチ代表取締役/考古学・石器デジタル画像作成・データベース作成

 小茄子川 歩/Ayumu Konasukawa/デカン大学院大学博士課程/考古学 (現地調査等協力)

3 助成等(2012年) 略

4 日本旧石器学会「南アジアの旧石器時代遺跡」研究グループ (JPRA-SAPRG)

 ヴィーサル・ヴァレー・プロジェクトは、日本旧石器学会の公募研究グループ、「南アジアの旧石器時代遺跡」研究グループの研究活動の一環でもあります。

 本研究グループは、ユーラシア、オセアニアへの移住・拡散に関する人類史の解明のための、南アジアにおける旧石器時代遺跡に関する情報の収集・整理を目的とし、日本旧石器学会の承認・助成を受けて活動。

〇2012年度は、以下のような研究活動を行なっています。

 oヴィーサル・ヴァレー地区遺跡群の発掘調査

 oインド南部旧石器時代遺跡の現地踏査と出土資料調査(2013年1月実施予定)

 o南アジア旧石器時代遺跡データベース(遺跡地図含む)の作成

 o南アジア旧石器デジタル・アーカイブの作成

 o3Dモデルによる石器形態情報の共有システムの検討

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 ◇参考◇

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

縄文ノート46(Ⅴ-23) 太田・覚張氏らの縄文人「ルーツは南・ルートは北」説は!?

 放射性炭素年代測定や遺伝子科学の進歩により、考古学は人類の歴史の年代と民族や農産物などの起源と拡散を明らかできるようになりました。

 縄文人の起源については、これまで「南方説」「北方説」で争われてきましたが、太田博樹東大教授と覚張(かくはり)隆史金沢大助教らの「ルーツは南、ルートは北」という説がでてきました。

 私は縄文人の「ルーツは南、ルートは南北合流説」のドラヴィダ海人・山人族説ですが、「ルーツ南」説が伊川貝塚人のDNAでも裏付けられました。残る「ルート」についても、私の「ルートは南北合流説」の北のドラヴィダ山人族説は裏付けられ、あとは「ルート南」の「海の道」のドラヴィダ海人・山人族の移動説が成立するかどうかです。

 一緒に考えてみていただければと思います。         210124 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

Ⅴ-23 太田・覚張氏らの縄文人「ルーツは南・ルートは北」説は!?

                                                                                                 201018→210124 雛元昌弘

  2010年10月18日の『東京新聞』は「縄文人のルーツは『南』に」という太田博樹東大教授と覚張(かくはり)隆史金沢大助教らの説を掲載しています。

 愛知県田原市の2500年前の伊川貝塚から発見された女性のDNAがアイヌ民族のDNAに極めて近く、バイカル湖近くで見つかった24000年前の人骨の影響は見られず、ラオスで出土した8000年前の人骨に近いというのです。

                    『東京新聞』 2010年10月18日(日)朝刊
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 私は2014年6月に「『人類の旅』と『縄文稲作』と『三大穀物単一起源説』」を書いて以来、日本列島人(ジャポネシアン)南方起源説を追い、2014年の「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(季刊日本主義26)ではアイヌと沖縄人が漁民であり、アイヌの「イタオマチプ」と沖縄の「サバニ」(奄美大島では「板付け船」)が丸木舟に舷側板を付けた同じ構造であることから、同じ海洋民の縄文人をルーツとしているのではないかと考え、検討を続けてきました。

 2020年10月15日には、縄文人のルーツについて「縄文人ドラえもん宣言(ドラヴィダ海人・山人族宣言)」をブログ・FBに書き、不当な批判を浴びた大野晋さんの「日本語タミル語起源説(タミル語はドラヴィダ語の一部)」の復権を果たしたいと考えていた私にとっては「縄文人のルーツは『南』に」のこの報道は大変うれしい説です。

 しかしながら、両氏のDNA分析の結果自体は高く評価したいのですが、その考察部分には同意できないところが4点あります。

 第1点は、「ルーツは南でも、日本列島に渡ってくるときは、北海道を経由した可能性がある」としている点です。

 太田・覚張両氏は海や舟が嫌いなのか、旧来ながらの「ウォークマン史観」の北方起源説に先祖帰りしているのです。

 東京新聞の添付図(図1)が正しいなら、ドラヴィダ海人・山人族の縄文人は4万年前の中国・田園洞人よりも遅く、アンダマン諸島ミャンマーの南のインド領)のオンゲ族と分かれて日本列島にたどり着き、2500年前の伊川縄文人は16000年前頃には土器製造を始めた縄文人の子孫になります。

     f:id:hinafkin:20210124162313j:plain

 図2に示すように、Y染色体Ⅾ系人はこのアンダマン諸島チベットブータンミャンマーラオス雲南山岳地域、日本、オホーツク海のシベリア沿岸、カムチャッカ半島サハリン島、北海道に集中しており、私はこの図からY染色体Ⅾ系人は、「海の道」経由とシベリアの「マンモスの道」経由の南と北の2方向から日本列島にやってきたという「南北合流説」を考えています。

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 縄文人が熱帯ジャポニカ陸稲の赤米やもち米)・ヒョウタン・ウリ・エゴマなど南方系の穀類・野菜を栽培し、東南アジア諸国の単語を多く吸収していることからみて、ドラヴィダ系山人族はミャンマー海岸部やアンダマン諸島などのドラヴィダ系海人族とともに「海の道」を通って日本列島にやってきたことが明らかです。一方、同じY染色体Ⅾ系のドラヴィダ系山人族はチベットから「マンモスの道」を通ってオホーツク海を目指し、アイヌ人になったと考えます。

 縄文人の大多数はドラヴィダ系山人族とドラヴィダ系海人族が協力して海を通ってスンダランドをへて竹筏と丸木舟で日本列島にやってきた、と考えるのが自然であり、縄文人の多数がチベット高原モンゴル高原を越え、シベリアからの困難なルートを大移動したドラヴィダ系山人族というのは合理的は判断とは思えません。

 まず、気候条件は熱帯・温帯がよく、寒暖の差が激しく、乾燥したチベット高原モンゴル高原・シベリアは厳しい生存条件となります。さらに魚や果物、イモ・豆・穀類などの食料や塩は「海の道」では簡単に確保できますが、草原・砂漠・ツンドラ地帯では容易ではありません。

 また「海の道」だと先住民のY染色体O型の部族を間を抜けるのは容易であり、食料争奪の争いもなく、仮に争いが生じても、竹筏や丸木舟で一斉に別の島や入り江・半島などに移住すればよく、安全です。ドラヴィダ系山人・海人族の場合、弓矢が得意で集団の狩猟に慣れている勇敢な山人族と航海術にたけた海人族がいますから、干渉されることもなく「海の道」を移動できたと考えられます。一方、マンモスなどの大型動物を追っての「陸の道」だと、同じ狩猟民同士の獲物などでの争いはし烈で、その間を抜ける大移動ははるかに危険で、困難であったと考えられます。

 「海の道」での平和な移動が容易であったことは、インドネシアやフィリピン、台湾に多くの少数民族が共存していることからみても明らかです。

 近年の東アジアでの集中豪雨の原因として、インド洋の高水温による水蒸気と太平洋の北東風による水蒸気が中国・朝鮮半島・日本列島で重なったことが原因と指摘されていますが、図3のように、夏の南西風を利用すれば、「アフリカの角」のエチオピアあたりの「主語-目的語-動詞」言語族が海岸沿いにインドに移動し、ドラヴィダ系海人族がスリランカからミャンマー海岸部・アンダマン諸島に航海することは容易であったと考えられます。

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 実際、4600~3800年頃に栄えたインダス文明を作ったドラヴィダ族はこの季節風を利用してメソポタミアと活発に交易していた海人族であることが明らかとなっています。

 帆船は横風を受けるもっともスピードがでることからみて、アンダマン諸島からマレーシア半島に沿って季節風を利用してスンダランドに移住し、さらに北東に進み、黒潮に乗って日本列島にやってくるのは海人族にとっては容易なのです。

 第2点は、日本の2500年前の伊川津人のDNAには、24000年前のバイカル湖付近の人骨のDNAの影響は見られないとしている点です。多民族が混じっている可能性が高いバイカル湖付近でたまたま発見されたDNAから、このような判断を下すのは適当ではありません。

 松本秀雄大医大名誉教授は、抗体を形成する免疫グロブリンを決定する遺伝子(Gm遺伝子)から「バイカル湖畔起源説」(ブリアート人説)を提案していますが、これはY染色体Ⅾ系統の分布とは矛盾しません。太田・覚張説は「偏ったサンプルリスク」を免れていません。

 第3点は、「ルーツは南、ルートは北」という太田・覚張両氏の北方経由説には、細石刃の槍くらいしか考古学の裏付けがないことです。ルーツ南・ルート北説を主張するなら、DNA分析以外の合理的な理由・根拠が必要です。

 それに対して、「ルーツ・ルートは南」の南方起源説には、南インドスリランカパキスタンアフガニスタン・ネパール・バングラデシュブータンなどで話されているドラヴィダ語族(約2億人)のうちの辞書があるタミル語(約7000万人)を日本語の祖語とする大野晋氏の研究があり、農学・植物学者の雑穀・イモ・熱帯・温帯ジャポニカ起源説、民族学者の照葉樹林文化(焼畑文化、茶やモチ・納豆などの食文化、歌垣・妻問婚の母系制など)、私の霊(ひ=pee)信仰や山上天神信仰、祭りや殯(もがり)などの宗教説、考古学者の丸ノミ石斧・黒曜石、ジャーナリストの竹筏航海実験などの裏付けがあります。

 第4点は、「北海道から少なくとも中部地方まで(遺伝的には)アイヌ民族の先祖にあたる人たちが住んでいた」という主張で、あたかも縄文人の遺伝子が北方のアイヌ人に引き継がれているような主張ですが、神澤秀明国立科学博物館研究員の図4の核DNA解析の結果によれば、現代の本土日本人は琉球人に近くアイヌ人とは離れており、「本土日本人は(遺伝的には)琉球人の先祖にあたる人たちが住んでいた」という主張が成立します。

     f:id:hinafkin:20210124162924j:plain

 三貫地縄文人アイヌ人、琉球人の距離は、たて軸では三貫地縄文人と現代の琉球人が近く、よこ軸では三貫地縄文人と現代のアイヌ人が近いという結果であり、図4に3本の補助線を加えた図5のように、本土日本人のルーツは「縄文人アイヌ人→本土日本人」よりも「縄文人琉球人→本土日本人」と見るべきでしょう。

     f:id:hinafkin:20210124163016j:plain

 この図上のどこに太田・覚張両氏の伊川貝塚人が位置するのかわかりませんが、遺伝子分析軸を増やすとともに、さらに縄文人DNAサンプルが増えることを期待したいと思います。

 

 以上を総合すると、太田・覚張両氏の「ルーツは南」は認めるとしても、「日本列島には北海道を経由した」という「ルート北説」には同意できません。私は「ルーツ南方・ルート南北合流説」ですが、太田・覚張両氏は「ルート南」説が成立しないという根拠を示さない限り、「ルート北説」は成立しません。

 いずれにしても、「縄文人ドラえもん宣言(ドラヴィダ海人・山人族宣言)」は太田・覚張両氏の「ルーツ南説」によって補強されたと考えます。

  

◇参考◇

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

縄文ノート45(Ⅴ-22) 縄文人ドラえもん宣言(ドラヴィダ系海人・山人族宣言)

 昔、ちょっとだけ合気道をやり、妻が太極拳をやっていることもあり、興味があってNHKのBS1スペシャルの『真実への鉄拳〜中国・伝統武術と闘う男〜』を見ると、なんと、インドを口汚くののしる武術家(総合格闘技の男性と対戦して敗れた)が愛国者として支持を集め、総合格闘技家はネットで情報遮断されて活動できない、というのです。今、中印が国境で衝突していますが、国内矛盾をそらすために、愛国心に訴えるという政治が常套手段となれば、世界が格差社会化している中で危険な時代に差し掛かっていることが心配されます。

 スポーツや武術で「強ければいい」とは考えませんが、気功など伝統的な武術家にはウソが多い、という総合格闘技家の主張もわかり、さらに習近平主席の「中華民族の偉大な復興」の夢が中印紛争や排外的な愛国心に繋がっていることには危惧を覚えました。「縄文人ドラえもん(ドラヴィダ系海人・山人族)説」で「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語三重構造言語」の漢字文化に親しんでいる私としては、印中両国の民族和解を強く願わずにはおれません。

 本稿は、2010年10月15日の「縄文ノート17 ドラえもん宣言(海人・山人ドラヴィダ族宣言)」を、「縄文ノート43 DNA分析からの日本列島人起源論」「縄文ノート44 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」での考察をもとに加筆・修正したもので、「縄文人ドラえもん」というキャッチコピー(宣伝文句)の紹介としてみていただければと思います。                       210123 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

 Ⅴ-22 縄文人ドラえもん宣言(ドラヴィダ系海人・山人族宣言)

                                                                                   201015→1203→210123 雛元昌弘

 縄文人ドラえもん(ドラヴィダ系海人・山人族)

 8月3~5日の縄文社会研究会・東京の八ヶ岳合宿を挟んで7月下旬から「書きこもり」になり、日本語起源論と日本列島人起源論に集中し、DNA・言語・農耕・食生活文化・宗教(霊(ひ)・性器・神那霊山・神籬・龍神信仰)などの分析を行ってきました。

 これまで異説として無視されたきた各分野の専門家の諸研究の成果を総合し、縄文人と倭語の起源が38000年前頃にエチオピアあたりから出アフリカを果たしてインド原住民となり、後の5000年前頃のインダス文明を作り上げた「主語-目的語-動詞」言語のドラヴィダ語を受け継いだ「ドラヴィダ系海人・山人族」こそが日本列島の縄文人の起源であるとの結論に達しました。

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 なお、これまで「ドラヴィダ海人・山人族」などと表現してきましたが、DNAのドラヴィダ族ではなく、ドラヴィダ語・文化を受け継いだということで「系」をつけて、「ドラヴィダ系海人・山人族」などと表現したいと思います。

 私がこのような説にいたったそもそもの出発点は、鳥浜遺跡のヒョウタンの起源が西アフリカであることを知り、ヒョウタンに入れた水を飲み、種子を入れて運んだ「海の道」から日本列島人のルーツを考え始めたことにあります。

 熱帯系のヒョウタンを持った「主語-目的語-動詞(SOV)」言語族の「海の道」移動ルート、毎日新聞倉嶋康記者(長野北高校→早大)による竹筏ヤム号のフィリピンから鹿児島までの航海実験、中尾佐助・佐々木高明氏らの「照葉樹林文化論」の稲作・米食文化「アッサム・雲南起源論」、大野晋氏の「日本語タミル語(ドラヴィダ語)起源説」、さらには篠田謙一・崎谷満・斎藤成也・神澤英明氏らのDNA分析などを重ね合わせたのです。

           f:id:hinafkin:20210123202958j:plain

 その結果、16000年前頃からの「縄文人のルーツはドラえもん(ドラヴィダ系海人・山人族)である」というのが私の揺るがぬ現時点での結論です。

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 アフリカ西海岸から赤道に沿ってアフリカの角、今のエチオピアケニアあたりに移動した「主語-目的語-動詞」言語族は温暖期の38300年前頃にアフリカを出て西進してインド大陸に移住し、原住民のドラヴィダ族となりました。

 その後、Y染色体Ⅾグループの「ドラヴィダ系海人族」は東インドミャンマービルマ)海岸部やミャンマー沖のアンダマン諸島に移住し、その一部は東インドミャンマーラオス雲南高地に移住して「ドラヴィダ系山人(やまと)族」となり、肌の色を変え、山道で重い荷物を運ぶ生活から短足・ガッシリ型になります。

 そして寒冷期の32000年前頃に二手に分かれ、チベットからバイカル湖畔(ブリヤート族:モンゴル族のルーツ)、さらにシベリアの草原を経て20000年前ころに北海道に移動した細石刃槍で大型動物を追った一群と、山を南に下りてドラヴィダ系海人系族と共同で竹筏と丸木舟に乗り、今の南シナ海ベトナム:東海、フィリピン:ルソン海、インドネシア:北ナトウ海)にあったスンダランドに移住し、温暖化によって水没を迎え、16000年前頃に竹筏と丸ノミ石斧による丸木舟で日本列島まで移住した新石器人がいました。彼らこそが日本人の遺伝子で多数を占めるY染色体Ⅾ系統の縄文人となったと考えます。

 

旧石器人のルーツは北方か南方か?

 残る問題は、さらに前の36000年前頃に隠岐島の黒曜石を丹後半島に運んだ旧石器人や35000年前頃に諏訪の星糞峠で黒曜石を採掘した旧石器人、沖縄の白保竿根田原洞穴27000~15000年前頃の19体の遺骨を残した旧石器人のルーツです。白保人のうち、2~10000年前とされた2人のミトコンドリアDNAはM7aの南方系であることが明らかとなっていますが、「東南アジアン海人族」が先にやってきていたのか、それともY染色体Ⅾ型のドラヴィダ系海人・山人族がもっと早い時期にミトコンドリアM7a・Y染色体O系の人たちとやってきたのか悩みましたが、最終的には旧石器人は「東南アジアン海人族」という判断に至っています。

 

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 アフリカの「主語-動詞-目的語(SVO)」言語族は53000年前頃にアラビア半島を経て「出アフリカ」をはたし中央アジア・ヨーロッパに向かった「Y染色体Jグループ」と、アフリカを出て「海の道」を通り、東南アジアと中国に広がった「Y染色体Oグループ」があります。

 第2波は38300年前頃に「Y染色体Ⅾグループ」で、日本人に一番多いドラヴィダ系海人・山人族の縄文人となり、第3波の「Y染色体Cグループ」は27500年前頃にアフリカをでて草原の道を大型動物を追ってシベリアに向かいます。

 これらの3グループのうち、日本列島には4~30000年前頃に琉球Y染色体Oグループの「東南アジアン海人族」が竹筏で黒曜石文化を持ってやってくるとともに、北からは20000年前頃に石刃槍を持ったドラヴィダ系山人族の「シベリアン」がやってきます。

 その後、16000~12000年前頃に南方のスンダランドから竹筏と丸ノミ石斧による丸木舟で日本列島まで移住したドラヴィダ系海人・山人族と、北方からのドラヴィダ系山人族が本州で出会い、彼らこそが日本人の遺伝子で多数を占めるY染色体Ⅾ系統の縄文人となったと考えます。

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 日本がインドネシアベトナム・フィリピン・台湾のような多言語・多文化の多民族国家にならなかったのは、北と南から同じドラヴィダ語系の多数が合流し、先住していた少数の東南アジアン海人族とは日本列島で争うことなく、活発に交流・交易・妻問婚を行ったからと考えます。

 なお、朝鮮半島あるいは長江(揚子江)流域からの多数の弥生人朝鮮人・中国人)が移住し、縄文人を征服したという説が見られますが、Y染色体Oグループが少数であることや、稲のDNA分析や稲作・米食文化に関わる多くの単語が漢語・朝鮮語ではなく倭音倭語であり、そのルーツがドラヴィダ語系であることからみて、弥生人縄文人征服説が成立しないことは明らかです。

 旧石器・縄文時代を通して、日本列島には東南アジア、中国・朝鮮、シベリアから多くの漂流民・移住民が絶えず渡来しており、毎年5人とすれば3万年で15万人あまりになり、言語は「倭音倭語」に「呉音漢語」「漢音漢語」が加わった3重構造の多DNA・多文化民族であり、この独自性と多様性のある日本列島文明から、これからの国際社会の中での日本人の未来を考えるべきと思います。

 気候変動などの危機に対し、リスクを恐れない冒険心と探究心にあふれた日本列島人の先祖たちの多くは、アフリカ大陸を出て南廻りの「海の道」から7次に渡る大移動を行い、「主語-動詞-目的語」言語の東南アジア諸民族の間を縫い、文化を吸収しながら日本列島にたどりつきました。

 そして島国という地理的障壁に守られながら閉じ籠ることはなく、活発に交易・交流を行い、中国文化を吸収しながら内発的自立的な独自の発展をとげてきました。

 ヨーロッパ西端の辺境のイギリスで産業革命が始まり、アジア東端の日本がなぜアジアで最初に近代化をなしとげることができたのか、西アフリカのニジェール川流域あたりから大移動を行ってきた自主・独立・共同心を持ち、進取にとみ探検・冒険心にあふれた5万年の歴史から未来を考えたいと思います。

 縄文1万数千年の歴史を通して部族間で戦争を行うことなく、多DNA・共通文化の共生・共同社会を築くことができたのは、豊かな海と山の幸に恵まれて食料争奪戦を行う必要や妻問夫招婚の母系制社会で略奪婚の必要がなく、さらにドラヴィダ系海人・山人族もドラヴィダ系山人族もそれぞれもともとスンダランドやシベリアで残留していた東南アジアンやシベリアンたちと交流があり文化を共有していたことと、ドラヴィダ海人族の活発な交流・交易活動により対立・戦争よりも相互利益を甘受できる交換・交易共同体社会を構築できたからと考えます。

 その歴史こそがスサノオ大国主7代の鉄器水利水田稲作による八百万神信仰の「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂(みずほ)国」「葦原中国(あしはらなかつくに)」の百余国の武力統一によらない1~2世紀の建国に繋がったと考えられ、人類史・文明史の中でその歴史は活かされるべきと考えます。

 15~18世紀の大航海時代や19・20世紀の帝国主義時代に西欧で育まれた歴史学は、「適者生存・優勝劣敗・選民思想」の厳しい砂漠地帯で生まれた一神教の白人支配の「文明化」を正当化する歴史観であり、「肉食と戦争が人類を進歩させてきた」という戦争史観であり、マルクス主義もまたその影響を受けた階級闘争進歩史観となっています。

 植民地化の危機の中での清・中華民国の革命家・梁啓超の「世界四大文明論」の影響などにより、日本では旧石器時代は「野蛮社会」、縄文時代は「未開社会」、弥生時代からが「文明社会」というイメージが作り上げられてきましたが、「ドラえもん(ドラヴィダ海人・山人族)」の末裔としては、共同体社会であった数万年の歴史こそ本来の人類のあり方として見直す必要があると考えます。

 地球温暖化による環境・食糧危機や、グローバリズム(世界単一市場化)の格差拡大に伴う民族・地域紛争や宗教戦争、自然・生命・共同性を軽んじる拝金・拝物主義が心配されますが、今こそ、自然破壊の農業・牧畜・機械・都市文明社会、大国中心の国際分業格差社会から、森と海の幸に活かされた農業と漁業、世界に開かれた各国・地域の内発的・自立的発展と相互互恵の交易を重視した開かれた汎地域主義(グローカリズム)、自然・生命・共同社会への転換が求められ、その共通価値の確立に向けて数万年の人類史から考えてみるべきと思います。

 浮世・憂世離れした老人の妄想と思われるかもしれませんが、これから先の「半減期3万年」のプルトニウム社会を考えると、旧石器時代縄文時代はそんなに遠い昔のこととは思えません。

 

◇参考◇

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論         http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

 

 

縄文ノート44(Ⅴ-21) 神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石

 日本人はアジア各地から人々がやってきた「多DNA民族」ですが、その中ではY染色体Ⅾ2型が多く、そのルーツはチベットブータンあたりの山岳地域のドラヴィダ系山人(やまと)族であり、ミャンマー沿岸やその沖のアンダマン諸島のドラヴィダ系海人族と協力して「海の道」からやってくるとともに、バイカル湖畔(ブリヤート人)に進んだドラヴィダ系山人族はシベリアからオホーツク海に進んで日本列島に到達し、南からと北から1万数千年の縄文文化を作り上げたことを、日本語・稲作・霊(ひ=pee)信仰・神那霊山信仰などのルーツと合わせて明らかにしてきました。

 そして「弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服はなかった」とし、「石器・土器・土器・古墳」時代区分という「石・土文明史観」による弥生人天皇家による4~8世紀の建国史観を批判し、「石器―土器―鉄器」時代区分による1~2世紀のスサノオ大国主建国という、縄文人内発的発展史を解明したきました。

 残る問題としてずっと私を悩ませてきたのは、4~3年前に日本列島に住み始めた旧石器人と、1万数千年前からの土器人(縄文人)との関係です。

 「資料21 縄文人の山岳地域移住の理由 201014」のレジュメの題名を「神名火山(神那霊山)信仰と黒曜石」と変更し、細石刃・黒曜石文化論などを追加して修正しました。                           210120 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

 

       Ⅴ-21 縄文人の山岳地域移住と黒曜石

                           201014→210120 雛元昌弘

1.奥深い山間部や高原に居住した縄文人

 現役時代、仕事先の尾瀬ケ原の麓の群馬県片品村では奥深い谷間に縄文遺跡がいくつもあり、長野県南牧村では近世初期まで家や集落がなかった高原野菜栽培で有名な1000mを超える野辺山高原に黒曜石の鏃が畑からよく見つかると聞き、降雪があり寒いこのような場所を選んでなぜ縄文人は移住したのか、ずっと不思議に思っていました。縄文人の広域的な交流・交易からみても「平家の落人伝説」のように、追われて山奥に逃げ込むというような理由も考えられません。

 今回、HPで検索してみると、野辺山高原の矢出川遺跡群は日本列島ではじめて細石刃と細石刃核が発見された遺跡として有名な遺跡であり、2004年の調査では土坑が検出され、旧石器時代以降の人間の営みがあったことが確認できました。群馬県の温泉地の草津町は元々は夏だけ人々は住み、冬には下の元六合村(現中之条町)に住み、「冬住の里」と呼ばれれていましたが、縄文人は「二地域居住」あるいは「多地域居住(マルチハビテーション)」ではなく、山岳地域を好んで居住していたのです。

 

2.山岳地域居住は生活の必要性からか?

 「縄文ノート27(資料5) 縄文農耕からの『塩の道』『黒曜石産業』考 200729→0829→0903」においては、「縄文人はなぜ『縄文中期』に内陸部へ移住したか?」として次の仮説を考えました。

・仮説1 縄文前期の人口増による移動説(温暖化による食料増と喜界カルデラ噴火による東日本への人口移動)

・仮説2 寒冷化による豪雪地からの移住説(日本海沿岸の海人族が中部中央・関東などに南下)

・仮説3 猪鹿ハンター説(温暖化により増えた中小型動物を追って内陸部へ移動)

・仮説4 焼き畑農耕説(雪の少ない地域での秋ソバや冬小麦は冬春の食料確保を可能にした可能性)

・仮説5 黒曜石産業説(鳥獣害対策を必要とする縄文農耕は黒曜石鏃産業を生んだ)

 私は、「縄文農耕が鳥獣害対策の必要から鏃・槍先に使う黒曜石鏃産業を生み出し、ワンセットで信州への人口移動が起き、黒曜石・縄文6穀と塩の交易により、海岸部では縄文製塩が始まった」と考えました。

 なお、海岸部から内陸部への移住には塩の確保が必要であり、ヒマラヤ岩塩(チベット岩塩など)が有力な交易品であったように、塩尻・塩田・塩野などの地名があり石灰岩がある信州でも岩塩がないかと考え、岩塩採掘・交易による縄文人の内陸部への定住という仮説も考えたのですが、渋温泉地獄谷(温泉につかる猿で有名)が岩塩産地であると鉱物データベースに出てくるのと、明治に入ってから大鹿村の塩鹿温泉で海水並みの強塩水泉を使って山塩づくりを行っていることが分かっただけで、縄文時代の信州での塩生産については確認できませんでした。

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 塩の確保から考えても、山岳地域での居住は大変であるにもかかわらず、なぜ海岸部から移住したのでしょうか?

 

3.高原山黒曜石原産地をどうやって旧石器人は見つけたか?

 鬼怒川温泉に行く機会があり、そこから鬼怒川を遡って北に見える高原山(たかはらやま:日光市塩谷町那須塩原市矢板市)で黒曜石が採れることを知りました。

 

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 ホームページで調べてみると、最高峰の釈迦ヶ岳(1795m)の東の剣ヶ峰(1540m)から大入道(1402m)と続く大きな稜線の南斜面の森林限界を400mも超えた1440mの高地に日本最古の後期旧石器時代初頭(19000~18000年前頃)の黒曜石の露頭と採掘・加工跡(高原山黒曜石原産地遺跡群)があり、しかもこの地の黒曜石が静岡県三島市、長野県信濃町、神奈川県相模原市等の遺跡で見つかっているのです。鬼怒川を下り相模川をさかのぼるルート、あるいは日光から沼田へでて長野に向かう「日本ロマンチック街道ルート」などがあったに違いありません。

 なぜ旧石器人が1400~1800mもの高山に登ったのかですが、狩りのためとは考えにくい場所です。長野県の和田峠や星糞峠の黒曜石の採掘地(縄文時代草創期:16000前頃)だと峠越えや、そこを通る獣道での待伏せ猟と追跡猟でたまたま発見した可能性がありますが、高原山は中通りと日光―会津を結ぶ会津西街道に挟まれた高山であり、和田峠や星糞峠のような人や獣の通り道ではありません。また、黒曜石が鏃や槍の穂先などの製作に最適の材料であることをどこで知っていたのでしょうか?
 海岸部なら居住条件はよく、海産物がとれ、近くの野山で猪や鹿などの猟が十分に可能であるにも関わらず、なぜ、奥深い高原山などの高山に人々が登り、黒曜石を見つけたのか、考え込んでしまいました。それも旧石器時代のことであり、縄文時代草創期(16000前頃)の和田峠や星糞峠の黒曜石原産地遺跡よりも2~3000年も古いのです。登山靴などなく、険しい山道を毛皮で足を覆って登ったのでしょうか?

 なお、この高原山は日光市(古くは二荒)の男体山の北東30㎞に位置し、二荒山神社では大国主と田心姫(たごりひめ=たきりひめ)(宗像3女神の沖ノ島の祭神:代々襲名と考えられる)夫婦と、子の味耜高彦根あじすきたかひこね)(鋤=鍬の神、迦毛大御神と呼ばれ、誕生地は播磨)がやどる3山を祀っており、日光と西隣の片品村尾瀬の麓の村)との境の女体山(日光白根山)・金精山では性器信仰が行われており、紀元2世紀頃にはこのあたりの山奥には日本海側から海人族が出していたと考えられます。

 東南アジアの海人族やシベリア平原でマンモスなどの大型動物を追ってきた旧石器人が奥深い谷に進み、猟などできない森林限界を超えた高山に登ることは考えられません。

 縄文人のルーツが東インドインドシナ高地のドラヴィダ系山人であることは、Y染色体Ⅾ2系と倭音倭語、熱帯・温帯ジャポニカ・ヤムイモ・サトイモのルーツなどから証明されたと考えますが、高原山で黒曜石露頭を見つけた人たちもまたドラヴィダ系山人族であることを裏付けています。

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 第1の仮説は、チベットの高地で居住していたドラヴィダ系山人族が、チベットバイカル湖周辺(ブリヤート人が居住)→オホーツク海→北海道経由で旧石器時代にやってきて、祖先霊を天に送る「山神信仰」を受け継いて聖なる山の高原山に登り、その途中の稜線で黒曜石を発見したという可能性です。近くの塩谷・塩原の地名からみて、チベット岩塩を知っていた彼らは交易品となる貴重な塩を採掘するためにこの地にやってきて、葬送の信仰拠点として高原山に登った可能性があります。

 チベットブータンなどでは各部族がそれぞれの聖山で鳥葬・風葬を行い、死者の霊を天に送っていますから、日本列島に移住したドラヴィダ山人族もまた居住地近くに聖山を決め、登る途中で黒曜石露頭を見つけた可能性です。

 第2の仮説は、東南アジアの海人族が「海の道」を通って4~3万年前の旧石器時代に黒曜石文化を持って日本列島にやってきて各地に移住し、高原山で黒曜石を発見した可能性です。

 この説が有利なのは、火山のないチベットやシベリアには黒曜石はなく、インドネシアの火山地帯で旧石器人は脆いが鋭い黒曜石の価値を知り、日本列島でも黒曜石原石を捜した可能性が高いからです。縄文人が海を渡り、隠岐島神津島で黒曜石を見つけて各地に運んでいることも南方海人族による黒曜石発見・利用説を補強します。

 また、時代はずっと後の紀元1~2世紀以降になりますが、高原山の近くの日光に海人族のスサノオ大国主一族の神那霊山(神名火山)信仰を残していることもまた、高原山での黒曜石採掘がドラヴィダ海人・山人族の可能性を示しています。かれらはドラヴィダ山人族の高山天神信仰を受け継いでいたのです。

 

4.細石刃文化の2つのルーツ

 黒曜石の利用としては、鏃や槍の穂先に使うとともに、細石刃(細石器)を木や動物の骨の溝にはめ込んで替え刃式の槍にした細石器があります。

 

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 この細石刃文化(19000~12,000年前)の遺跡は全国で500個所を超え、特に北海道と九州に多く、北東日本型と南西日本型の二つの分布圏に分かれたとされています。

 これまで、この北海道・九州を起点とした細石刃文化の広がりと、日本列島最古の16,500年前の青森県外ヶ浜町の大平山元I遺跡の土器、14000年前の帯広市の煮炊き痕のある土器などから、旧石器人・縄文人とも北方系とみる説が多かったのですが、私はY染色体Ⅾ2型の北方系と南方系の分布から考えて、細石刃文化もまたドラヴィダ系山人族とドラヴィダ系海人・山人族により、北方・南方の2つのルートからもたらしたと考えるにいたりました。

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 前記の高原山黒曜石原産地の発見者の仮説1はドラヴィダ系山人族、仮説2はドラヴィダ系海人・山人族によるものであり、両仮説とも成立するという考えです。

 ただ、問題はこれまで縄文時代は土器文化が始まる16000年前頃とされてきましたが、後期旧石器時代初頭(19~18000年前)の高原山遺跡とは2~3000年ほど年代が合いません。

 「縄文ノート43 DNA分析からの日本列島人起源論 200924・1002」では、「マンモスの道ルート」の移動は少雨となって草原がシベリアに広がった寒冷期と考え、「海の道」の移動は温暖化が進んで高地に移動したドラヴィダ系山人族が17000前頃からの寒冷化により山を下り、ドラヴィダ系海人族と共同でスンダランドを経由し、最初のグループは16000年前頃に日本列島へ到達し、さらに多くはスンダランドの水没が始まる12000年前頃以降に日本列島にやってきたとしましたが、ドラヴィダ系海人・山人族はもっと早く19~18000年前頃には日本列島にやってきていた可能性を検討する必要がでてきました。また、土器製作と煮炊き土器鍋文化とドラヴィダ系海人・山人族の移動をワンセットで考えてきていましたが、旧石器時代後期から断続的に日本列島に移動してきた可能性を考える必要がでてきました。

 いずれにしても、日本人固有のY染色体Ⅾ2型を持ったドラヴィダ系山人・海人族は、死者の霊(ひ:pee)が死体から離れて高山から天に昇る聖山・天神信仰を持ち、日本列島にやってきて各地の高山を聖地として登った可能性が高く、その途中で黒曜石を見つけたのではないかと考えます。

 なお、現在、アフリカで「主語-目的語-動詞」言語の部族はエチオピアケニアなどの「アフリカの角」あたりに居住しており、エチオピアケニアタンザニアは黒曜石の豊富な産地であり、エチオピアとはお辞儀文化が共通することからみても、エチオピアの旧石器人が黒曜石文化を持ち、海岸に沿って東進し、インドネシアの火山地帯で再び黒曜石に出合い、さらに日本列島にやってきて死者の霊(ひ)を祀る信仰上の理由から高山に登り、その途中で黒曜石を見つけ黒曜石文化を確立した可能性が高いと考えます。

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5.神名火山(神那霊山)信仰のルーツ

 私はもとは「縄文人=海人族説」でしたが、海神・地神・山神・天神・神那霊山・龍神信仰を霊(ひ)信仰として統一的に考え、今は「縄文人=海人・山人族説」に変わっています。

 「縄文ノート37 『神』についての考察」において、「⑦ 大野氏はタミル語の『ko』は『神・雷・山・支配』を、『kon、koman』は『神・王』を表し、『pee(ぴー)』は『自然力・活力・威力・神々しさ』を表すとしていますが、日本語の『カム・カン・コマ』と『霊(ひ:fi)』の関係を統一的に説明できていません」と書きましたが、大野氏が日本の「霊(ひ)」がドラヴィダ語の「pee(ぴー)」に由来することを明らかにした功績は大きいものの、倭音倭語の「ひもろぎ(霊洩木)」に「神籬」の漢字を当てていることから日本人にとって「神=霊」であることを国語学者として言及されなかったのは実に残念でなりません。

 高原山での黒曜石原産地発見は、ドラヴィダ山人族の死者の霊(ひ)が聖山から天に昇る天神信仰だけでなく、もう1つの重要な「神名火山(神那霊山)信仰」のルーツを示していることに注目する必要があります。

 「縄文ノート38 霊(ひ)タミル語pee、タイのピー信仰」で書きましたが、「かんなびやま」には「神名火山・神名樋山」(出雲国風土記万葉集)「神奈備山・甘南備山」(万葉集)の漢字が当てられていますが、私はイヤナミ(伊邪那美:通説はイザナミ)が比婆山(ひばやま)に葬られたとの古事記の記載から、意味的には「神那霊山」(神の那(場・国)の霊の山)と見るべきとしてきました。―『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』参照

 この死者の霊(ひ)が聖山から天に昇るとする山上天神思想は褶曲山脈のヒマラヤ地域で生まれたとしても、日本の神名火山(神那霊山)信仰は円錐形のコニーデ型火山(成層火山)を選んで信仰するという大きな違いがあります。山ならなんでもいいというのではなく、「神名火山」という火山信仰だったのです。

 お盆や正月にお墓から「霊(ひ=祖先霊)」を提灯の火に移して持ち帰り仏壇の灯明に移す、という日本独自の仏教の習慣からみても、「霊(ひ)=火」であり、「霊山=火山(ひのやま)」であったのです。

 聖山天神信仰がヒマラヤ山地で生まれたとしても、「神の名(な=那=場・国)である火の山」信仰のルーツは別と考えます。私はドラヴィダ海人・山人族は聖山信仰を移動の途中にインドネシアやフィリピンなどのコニーデ型火山に出合ったことにより「神名火山」信仰に変わったのではないか、と考えています。

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 高原山の剣が峰や鶏頂山、日光の男体山出雲国風土記に書かれた4つの神名火山はいずれも左右対称のきれいな富士山型の火山であり、全国各地で信仰されている神名火山(神那霊山)と同じです。

 

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 私は神名火山(神那霊山)信仰を、スサノオ大国主建国論では大国主の八百万神信仰として考えてきましたが、19000~18000年前頃の高原山の黒曜石原産地からみて、その信仰は後期旧石器時代に遡ることが明らかとなりました。

 ドラヴィダ海人・山人族の日本列島への何次にもわたる移住は2万年前頃に遡らせる必要が出てきました。

 

6.3万6000年前頃の京丹後市上野遺跡の隠岐島産の黒曜石の衝撃

 日本の旧石器が在野の相沢忠洋氏によって最初に発見されたのは群馬県みどり市岩宿遺跡の黒曜石の打製石器で約3万年前頃と覚えていましたが、今や、約12万年前の砂原遺跡(出雲市)、9〜8万年前の金取遺跡(遠野市)など、さらにはるかに古い時代の旧石器が発見されています。

 この旧石器人がどこからきたのかの直接的な手掛かりは、石垣島白保竿根田原洞穴遺跡の2点の約2~1万年前の人骨のミトコンドリアDNAM7aから南インドシナ系であることが明らかになっていますが、限られたサンプルであり、旧石器人の全体が南インドシナ系かどうかはまだ判りません。

 現代の日本人の多様なDNAはアジア各地からの移住を示していますが、一番多いY染色体Ⅾ2型などからはドラヴィダ海人・山人族が主なルーツであることが明らかであり、私は16000年前頃に土器文化を開始した縄文人はドラヴィダ海人・山人族であり、さらに2万年前頃の高原山黒曜石原産地遺跡から細石器文化と黒曜石文化、神名火山信仰もまたドラヴィダ海人・山人族によると考えるようになりました。

 ところが、2020年9月17日付毎日新聞は、丹後半島北端の京丹後市の上野遺跡について「後期旧石器時代の石器など152点出土 3万6000年前と推定 京都・上野遺跡」と報道しており、さらに再考を余儀なくされました。

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 しかも、ななんと「5点は隠岐諸島島根県)の黒曜石と判明。隠岐産の黒曜石が使われた後期旧石器時代の石器は島根、岡山両県などでも見つかっているが、同時期の遺跡での発掘例としては上野遺跡が国内最東端」というのです。

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 この発見はスサノオ大国主建国を裏付けた大量の青銅器が発掘された荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の発見に匹敵する、日本列島人起源論が北方系か南方系かの決着をつける大発見ではないかと私は考えます。「新発見により定説はいつでも覆る可能性がある」という考古学の怖さを見事に示しています。

 隠岐島産の黒曜石が丹後半島の北端で見つかったのですから、この黒曜石は対馬暖流に乗って琉球から移動した海人族旧石器人によるものとみて間違いありません。

 3.6万年前に上野遺跡に黒曜石を持ち込んだのは、53000年前頃に出アフリカを果たした「主語―動詞-目的語」言語の南インドシナ系の海人族であり、その後、20000年前頃から12000年頃にかけてドラヴィダ系海人・山人族が日本列島に何次かにわたって移住した、と考えられます。そして、彼らのうちの山人族は中部・関東・東北の内陸部へ移住し、蓼科山榛名山赤城山男体山や高原山などを神名火山(神那霊山)として信仰し、山に登った際に高原山で黒曜石を見つけたのではないでしょうか。

 なお、細石刃文化が12000年前頃に終わりを迎えたのは、槍を主とした大型・中型動物の狩猟から、小型動物を主とした弓矢による狩猟に変わった可能性を示しており、それはドラヴィダ海人・山人族の新たな移住によってもたらされた可能性があります。

 

7.旧石器人(インドネシア系海人族)と縄文人(ドラヴィダ海人・山人族)の関係?

 Y染色体C1・2系統で「主語―動詞-目的語」言語、長足ほっそり体形のインドネシア系海人族と、新参のY染色体D2系統の「主語-目的語―動詞」言語、短足がっしり体形のドラヴィダ海人・山人族との関係はどうだったのでしょうか?

 主動目(SOV)言語のY染色体C1・2系統の旧石器人が東南アジア諸島に移住し、4~3万年前頃に第1波として日本列島にやってきて黒曜石文化を確立し、遅れて20000~12000年前頃にY染色体Ⅾ2型の主目動(SOV)言語構造の多数のドラヴィダ海人・山人族がスンダランドから第2波として日本列島へ大移動し、旧石器人の黒曜石文化を引き継いだ、という2段階の渡来が考えられます。このY染色体Ⅾ2型人は沖縄北部39%、本土26~40%、アイヌ88%であり、沖縄経由のドラヴィダ海人・山人族と、シベリア経由のドラヴィダ山人族であったと考えられます。

 日本列島にやってきた先住民の東南アジア系の旧石器人と遅れてやってきた多人数のドラヴィダ海人・山人族の関係は、もともと両者はスンダランドで交流があり、豊富な海産物や山の幸にもとで敵対的・支配的な関係になることはなく、多数派のドラヴィダ系海人・山人族への婚姻・同化と文化的融合が進んだものと考えられます。

 これまで、縄文人は長江流域・朝鮮半島などからのY染色体O2・3型系の弥生人の渡来によって、北と南に追いやられたという「二重構造論」が支配的でしたが、同じY染色体D2系統のドラヴィダ系海人・山人族が南から、ドラヴィダ系山人族が北から移住した「二方向来住」であったのです。

 Y染色体Ⅾ2型とともに現代に続く稲作、イモ・米・雑穀食文化、宗教・言語はドラヴィダ系海人・山人族の可能性が高いと考えますが、特に、縄文土器鍋によるイモや穀類、野菜・魚介・肉の「煮炊き食文化」は、南方系のイモ・魚の「石蒸し食文化」から独自に日本の縄文人が発展させたと考えます。

 ただ、以上の私の考察は崎谷満氏のY染色体D型の人たちが13000年頃に日本にやってきたという推計とは年代がズレていますが、今後の研究課題と考えます。また、今のところ最古の土器が青森県外ヶ浜町、最古の土器鍋が北海道の帯広市で発見されていることは、日本列島人北方起源説、縄文文化北方起源説の有力な根拠となっていますが、西日本は7300年前の喜界カルデラ噴火の降灰の影響や開発の影響を受けており、今後の発掘により最古の土器と縄文土器鍋の新発見の可能性があると考えます。

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 いずれにしても、南方系の食文化と神名火山信仰・黒曜石文化・言語からみて、「徒歩人(ウォークマン)史観」の日本列島人北方起源説は、「海人(シーマン)史観」の日本列島人南方起源説に道を譲るべき時と考えます。また、大陸・半島からの弥生人朝鮮人・中国人)が水田稲作を携えて縄文人を征服し、北海道と沖縄に追いやったとする「外発的発展史観」の2重構造論(仮説)が成立しないことはDNA分析、言語分析、稲作分析、宗教・民俗分析からすでに明らかであり、誤った仮説を棄却すべきと考えます。

 

8.時代区分の総合的検討

 これまで、私は縄文人の「土器鍋煮炊き食文化」を文明の大転換期ととらえ「石器-土器-鉄器」の時代区分とすべきと私は考え、「石器-土器-稲作-古墳」(イシドキドキバカ)の時代区分を批判してきましたが、さらに検討が必要と考えるようになりました。

 旧石器時代新石器時代縄文時代)の区分はこれまで打製石器磨製石器によって区分されてきましたが、弓矢使用の狩猟への転換からみて黒曜石利用は画期的であり、黒曜文化は旧石器時代とするのではなく縄文時代に移し、磨製石器の斧による建築技術と丸ノミ石斧による丸木舟づくりとあわせて、新石器時代=土器時代に含め、「石器-土器-鉄器」時代区分とした方が統一性がとれてくると考えます。

 その際には、縄文農耕の開始に伴う鳥獣害対策が大量の黒曜石の鏃・槍穂先の生産を必要としたこととの整合性を考え、黒曜石採掘・利用は新石器時代から土器時代にずれ込ませる必要がでてきます。

 さらに、広い沖積平野での大規模開墾と水利工事による水田稲作の開始は、鉄先鋤なしには困難であり、「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と呼ばれた大国主やその子の「鉏(すき)」の名前を付けた「阿遅鉏高日子根(あぢすきたかひこね)」などによる鉄器稲作の「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国」の建国を新たな「鉄器時代」とすべきと考えます。そして「陸稲(おかぼ)栽培」や自然水利の「水辺水稲栽培」は縄文農耕として「土器時代(縄文時代)」に移すべきと考えます。

 なお、磨製石器の「丸ノミ石斧」による丸木舟づくりの飛躍的レベルアップにより、「竹筏航海から丸木舟航海への転換」がおこり、縄文人の活発な交流・交易・移住による日本列島全体の統一的な土器・言語文化形成をもたらしたと考えてきましたが、「36000年前の京都・上野遺跡の隠岐産黒曜石」が事実となると、新石器時代=土器時代=丸木舟時代とはならず、旧石器時代から海人族は竹筏舟などにより活発な移動・交易を行っていたことになります。

 今後の課題として、「竹筏航海→丸木舟航海」の移動・交易時代区分、「漁撈・狩猟・採取時代→縄文イモ・豆・7穀栽培時代(陸稲を含む)→水辺水稲稲作時代→鉄器水利水田稲作時代」の産業時代区分、「石器-土器-鉄器」の道具時代区分、「焼食→石蒸し食→土器鍋煮炊き食」の食文化時代区分、「倭音倭語→呉音漢語→漢音漢語」の言語時代区分、「Y染色O1.2系統(東南アジア海人族)→Y染色D2系統(ドラヴィダ系海人・山人族、ドラヴィ系山人族)→Y染色O3系統(中国・朝鮮)・Y染色C3系統(シベリア系)」のY染色亜型系時代区分、「スサノオ大国主建国(1~3世紀)→天皇家権力奪取(4~8世紀)」の政治時代区分の総合的な検討・整理が求められます。

 

◇参考◇

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論         http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

 

 

縄文ノート43(Ⅴ-19) DNA分析からの日本列島人起源論

 「われわれはどこからきて、どこへ行くのか」については前から興味があり、DNA分析について何冊か本は買っていたのですが、読めないままになっていました。縄文論をやるようになり、縄文農耕起源論や日本語起源論、龍神信仰・天神信仰起源論などと合わせて、その検討は避けては通れないようになりました。

 若い頃はよく山に登っていましたが「人はなぜ山に登るのか?」も「そこに山があるからだ」では私には納得できません。暖かい海辺で暮らしていて食料に事欠くことがなく、塩分を必要とする縄文人が、なぜ群馬県片品村の山奥に住み、中部地方の山岳地域に住むようになったのか、と疑問に思っていましたが、それは「なぜ舟に乗って遠くに行きたいのか」「釣りをしたいのか」についても同じでした。

 2004年のことですが、日本子ども学会のチャイルド・サイエンス 懸賞エッセイの「子どもの不思議」の募集があり、私の「動物進化を追体験する子どもの遊び」は奨励賞をいただきましたが、それは「動物進化を追体験する子どもの遊び」というもので、その要旨は次のとおりです(ネットで検索すれば見ることができます)。

 

 「子どもたちの木登り遊びのボランティアを行ったことをきっかけに、『子どもは木登りが好きなのは、かつて人が猿であったからではないか』と考えるようになりました。

 さらに、『いない いない ばあ』や『腹すり遊び』『泥遊び』『水遊び』などの考察から、子どもたちは幼児期から10歳頃までの間に、人類のDNAに残されている、魚類から両生類、は虫類、原始ほ乳類から猿、人への進化の過程を短期間に追体験しているのではないか、と考えるようになりました。

 人固有の『社会体験遊び』や『生活体験遊び』、『仕事体験遊び』、『技術・文化体験遊び』も重要ですが、子どもの肉体的・精神的な形成には、このような『動物遊び』も重要である、と考えます。」

 

 同じように、私たちのDNAには数万年の民族大移動の体験が刻まれている可能性があり、日本列島人(ジャポネシア人)がアフリカを出てどういうルートでやってきたのかの解明は縄文研究に欠かせないと考えます。     210115  雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

      Ⅴ-19 DNA分析からの日本列島人起源論

                                                                            200924→1023→210115→0404 雛元昌弘

1.DNA分析の有効性と限界

① 人類学では、形態比較(骨、歯)、血液型、ピロリ菌、DNA分析(ミトコンドリアDNA分析、Y染色体分析、核ゲノム分析)などがあり、DNA分析により精度の高い分析が可能となりました。

② ただし、DNA分析自体は科学的としても、第1縄文人など古代人についてはサンプルが極端に少なく、第2にその採取も地域的偏りという大きな制約があります。さらに、第3に歴史的な民族移動や征服、近現代の国際化によって急速に混血が進んでおり、現代人からの古代民族の推定には飛躍があることです。多民族国家では古代人のルーツ探求には少数民族や辺境住民との対照が必要です。

③ この3つの「サンプル限界」(サンプルの罠)を踏まえた上で、言語・農産物・生活文化・宗教等の伝播を含めて、総合的に各研究を見ていく必要があります。特に荒神谷遺跡での大量の青銅器発見により、記紀に書かれたスサノオ大国主神話が裏付けられたように、今後、新たな人骨発見や少数民族のDNA分析によってデータが大きく更新される可能性があります。

④ 民族のDNA構成の比較では、そもそも基本的には多くの共通性を持つのが基本です。その上で、「固有・希少DNA」の「相同性比較」を見る必要があります。ただ、この場合にサンプルの少なさと偏りが、「希少性」に大きな影響を与える危険性があることを認識する必要があります。

⑤ さらに、気候変動による民族大移動や、西日本に大量の降灰をもたらした7300年前の喜界カルデラ噴火、スサノオ蘇民将来伝承に見られる1世紀の疫病流行、崇神天皇紀に見られる民の半数以上が亡くなった4世紀の疫病の大流行などの影響をみる必要があります。

⑥ 「大して変わらない。お互いによく似ているね」ということを大前提にしながら、「いまのところ」として「固有希少性の相同性」に注目して民族形成のルーツを探ることが大前提になります。

⑦ なお、私の考察は限られた2次・3次資料によるもので、刻々と明らかにされる最新データに基づいていない考察であり、その限界をふまえてみていただきたいと思います。

 

2.研究の成果と私の仮説

① 日本人起源論については、縄文人弥生人に変化したという鈴木尚氏の「縄文人ルーツ説」や、東南アジア系縄文人社会に稲作をもった北東方系弥生人が渡来し、アイヌ人と沖縄人が北と南に追いやられたという金関丈夫氏・埴原和郎氏らの「南方系縄文人・北東系弥生人の二重構造説」、北方系縄文人に長江流域から長江系弥生人水田稲作を伝えたという篠田謙一・崎谷満氏の「北方系縄文人・長江系弥生人の二重構造説」、北方系旧石器人・縄文人から朝鮮半島人と日本列島人が分かれ、日本列島人からアイヌ人、沖縄人が分かれ、朝鮮半島人と大陸中国人が少しづつ移住したという斎藤成也氏の「北方系旧石器人・縄文人分岐説」、古東アジア人(東アジア人共通祖先)から縄文人が独自に分かれ、北東アジア人やオホーツク系の集団が渡来したという神澤英明氏の「古東アジア人分岐説」などが見られます。

 これに対して、私は4~3万年前に少数の東南アジア系の旧石器人がまず沖縄に渡来し、1万数千年前頃に多数のドラヴィダ海人・山人族が南方から移住し、北方からはドラヴィダ山人族が北海道に移住し、大陸(中国・朝鮮)からは絶えず漂着民や亡命民が加わったという「南方系を主とした多重的民族形成説」を考えています。

 

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② 従来の説については、私は次のような問題点を感じます。

 第1は、1万5千年前の日本人固有で26~88%のY染色体Ⅾ型の縄文人や、4~2万年前の旧石器人の故郷はどこなのか、中継居住地・経由地はどこなのか、未だに解明していないことです。

 すでにDNA分析では縄文人のルーツが中国(黄河流域)・韓国・シベリアや中国(長江流域)・台湾・東南アジア地域ではないことが明らかとなっているのですから、さらにその外に範囲を広げて調査し、突き止めるべきです。

 第2は、これまで熱帯性のヒョウタンやウリ・エゴマ、熱帯ジャポニカ陸稲)が遅くとも6000年前頃の縄文時代中期までには持ち込まれ、3000年前頃に渡来弥生人朝鮮人・中国人)によって温帯ジャポニカ水稲)の水田栽培が始まったとされてきましたが、同じようにイネの原産地がDNA分析で証明されていないことです。

 温帯ジャポニカの発生地としては、かつての「アッサム・雲南説」から「長江流域説」に移ってきていますが、「熱帯ジャポニカ陸稲)」から「温帯ジャポニカ水稲)」へと種の多様化が起きる環境としては、雨季がある熱帯地域の冷涼高地の可能性が高く、熱帯の東インドミャンマー高地の方が長江流域より可能性が高いと考えます。DNA分析による「長江流域起源説」は長江流域に雲南高地から多様なDNAの稲がもたらされた可能性を否定できておらず、必要十分条件を満たした定説とは言えません。また長江流域や朝鮮半島では日本のような栽培に伴う「種の純化」が起きておらず、日本への伝播は両地域からではありません。

 日本人起源論は日本イネ起源論とセットで考えるべきです。

 第3は、言語論に民俗論(生産・生活・宗教文化)を加えた日本語起源説としては、唯一、大野晋氏による「ドラヴィダ(タミル)語」説しかないにも関わらず、ドラヴィダ語系の「主語―動詞-目的語」言語構造の少数民族のDNA分析が探究されていないことです。大野説から40年になりながら未だに他の有力な日本語起源説が国語学者から出ていない以上、残るのは大野説しかなく、DNA研究者は大野説にもとづく比較対照分析を行うべきです。東南アジア系・北方系・古東アジア系などと40年前と同じようなボンヤリした日本人起源論を行っている場合ではないと考えます。

 黒褐色で手足の長い現在の南インドに住むドラヴィダ族は、山地での肌を覆う長い生活で黄色で短足・頑強の「山人」に変形したと考えられ、高地のドラヴィダ系少数民族のDNA調査が重点的に行われるべきです。

 第4は、大野氏は小正月に赤米の粥や赤飯を大地にまき、カラスに与える「ポンガ」の行事など「希少性・固有性・継承性」のある言語・風俗のドラヴィダ族との共通性を明らかにしており、その以前から中尾佐助氏や佐々木高明氏らは照葉樹林文化論によりアッサム・雲南地方から稲作やもち食文化・ピー(ひ=霊)信仰などが伝わったことを明らかにしており、ドラヴィダ語系という点において大野説との接点があり、文化人類学の成果をもとにしたDNA分析が求められます。

 第5は、「海が嫌い」「船が苦手」なほとんどのウォークマンジベタリアン研究者が「海の道」を通っての「海人(あま=天)族」の民族移動ルートと中継居住地についての検討をパスしていることです。

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 寒暖差の激しく食料の乏しい砂漠や草原地帯ではなく、四季を通して海産物や果物・イモ類が豊富で、塩分が確保できる暖かい海岸線をそって人類は主に移動したと考えるべきであり、日本列島人起源説では「竹筏による旧石器人、竹筏・丸木舟による縄文人の移動」を主として検討すべきです。

 第6は、①DNA分析、②言語論、③農耕論、④民俗論(生産・生活・宗教文化論)、⑤海の道移動論を総合した、「最少矛盾仮説」採用の仮説検証型の日本列島人起源説が取り組まれていないことです。

 今後の課題として、おさえておきたいと考えます。

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3.ミトコンドリアDNA亜型からみた日本列島人

① ミトコンドリアDNA亜型は女性に受け継がれる遺伝子です。

② 篠田謙一著『日本人になった先祖たち』などによれば、図5のように「本土日本」「沖縄」はⅮ4型を「山東遼寧」「韓国」とほぼ同等に多くもち、「南方海人族系」「南方大陸系」「北方大陸系」が混じった「多DNA民族」であることが明らかです。

 一番重要なポイントは、このⅮ4型を北方系の縄文人とみるか、南方系とみるかです。後述する表2の男性に受け継がれるY染色体DNAの崎谷満氏の分析を見ると、日本人に14~26%みられ、華北に66%、朝鮮に38%みられるO3型に対応しており、O型は東南アジアに多いことから見て南方系の可能性が高いと考えます。

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③ 一方、「沖縄」「本土日本」はM7a型が多いという独自性を持つとともに、北方大陸系の「山東遼寧」「韓国」と較べてM7c~M10型が少なく、南方大陸系の「台湾先住民」「広東」に多いB4・F・R型も少ないという特徴を持っています。

③ 「沖縄」に多く、次いで「本土日本」、さらに「韓国」に少し見られるM7a型が「台湾先住民」「広東」「山東遼寧」のどちらにもほとんど見られないことは、日本列島と韓国には南から陸路を通らずに「海の道」を通り、直接日本列島にやってきた「南方海人族系」の人たちがいたことを示しています。日本人のルーツは「ミトコンドリアDNAM7a型を持つ南方系」であることが明らかであり、男性だけの漂着ではなく、女性を伴った民族移動であったのです。

④ 「南方系」の型、「南方系海人族」のM7a型、「南方大陸系」の広東・台湾先住民に多いM7a・B4・F型、「北方大陸系」の山東遼寧・韓国のM7c~M10型がどのような順番で日本列島にどこからやって来たかですが、日本人が「主語―目的語―動詞」構造言語で「主語―動詞-目的語」構造の中国語や東南アジア語の影響を受けていないことからみて、M7a型海人族はミャンマー・インドあたりをルーツとし、「海の道」をスンダランドを経て竹筏・丸木舟でやってきたことは明らかです。その途中で、東南アジア系のM7a・B4・F型と混血したと考えられます。

⑤ 「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語」の3層構造からみて、紀元前3世紀の徐福など長江流域からの「呉音漢語」のM7a・B4・F型の移住・漂着があり、最後に「北方大陸系」の山東遼寧・韓国系のM7c~M10型が移住してきた、と考えられます。

 

4.Y染色体亜型DNAからみた日本列島人

① Y染色体のDNA亜型は男性に受け継がれる遺伝子です。崎谷満氏の『DNAでたどる日本人10万年の旅』は、5.3万年前にアフリカを出たN系統(日本:わずか)とO系統(ある程度)、3.83万年前にアフリカを出たⅮ系統(高頻度)、2.75万年前にアフリカを出た系統(わずか:シベリア系)が日本列島にやってきたとしています。―図6参照        

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③ 崎谷満氏の本からY染色体DNA亜型のデータをまとめたものが表2ですが、沖縄南を除く日本に26~88%と一番多いⅮ系統は東アジア・シベリアにはなく、その圏外がルーツであることが明らかです。

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 次に沖縄に30~67%と多く、朝鮮にも51%と多いO2b系統は沖縄・韓国の伝承からみて、海の彼方の東南アジア諸島からかなり早い時期に黒潮に乗って沖縄南をへて対馬暖流で朝鮮に伝わったと考えられます。

 沖縄南・アイヌを除く沖縄北・本土に14~26%のO3系統は中国・台湾・東南アジアに広く分布しています。

 沖縄・本土にはほとんど見られずアイヌに13%のC3系統はシベリア系になります。

 ④ ネットの出典不明の図7を示しますが、日本人に一番多い黄色D-M174チベットに多くタイにわずかに見られ、次に多い青色O-P31紫O-M122は東南アジア系になり、シベリアに見られる橙色C-M86や中国に多い薄紫F-M89は日本にはほとんど見られません。

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⑤ 崎谷説でもっとも注目すべきは、沖縄39%、九州28%、東京40%、青森39%、アイヌ88%等に多いⅮ1系統がチベットに16%、Ⅾ3系統が33%あり、Ⅾ1系統はイー族(中国チベット系)16%、ミャオ族(中国・タイ・ミャンマーラオスベトナムの山岳地帯)7%などにも見られるとしていることです。―表2・図8参照

 

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⑥ このⅮ系統の移動ルートについて、崎谷氏は「華北から朝鮮半島を経て日本列島へ渡ってきたことが推定される。また華北から一部はチベットへ達したことが推定される」としています。―図9参照

 

 しかしながら、「主語-動詞-目的語」言語の漢民族の地に入って支配・影響を受けながら「主語-目的語-動詞」言語と倭音倭語を維持して日本に到達したとは考えにくく、また縄文人が熱帯ジャポニカ陸稲)やヒョウタンやウリなど熱帯系植物を栽培していたこと、東南アジア系の単語を多く吸収していること、南方系のもち米・イモ食文化を受け継いでいること、ベンガル湾ミャンマーに近いアンダマン諸島にもⅮ系統見られることからみても、華北朝鮮半島経由説は成立しません。

⑦ ホームページ「Easy Word Power」の「言語系統をハプログループ(Y染色体ミトコンドリアDNA)で辿る-語族と遺伝子の関係」は次のような、Ⅾ系統の遺伝子の分布とモンゴル起源の拡散モデルを掲載しています。-図10・11参照

 ―http://easywordpower.org/multilingual/languages-haplogroups/

 

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⑧ この説は寒冷地のモンゴルの砂漠・草原地帯から朝鮮半島をへて日本列島へやってきたという説ですが、Ⅾ1a2a型の分布図ではチベットから北進してバイカル湖の南に移住し、温暖期に大型動物を追ってシベリアを東進し、オホーツク海に到達して北海道に渡ったと考えられ、漢民族満州族朝鮮族の中を横断したとは考えられません。

 また、ベンガル湾ミャンマーの南のインド領アンダマン諸島にもⅮ系統が見られることからみて、インド東部・ミャンマーの高地ドラヴィダ族は南北に分かれ、チベット高原から草原のシベリアへ向かった狩猟民の「山人(やまと)ドラヴィダ族」(ブリヤート人などマンモスハンター)と、寒冷期に高地を下りアンダマン諸島ミャンマー海岸部の「海人ドラヴィダ族」と協力し、スンダランドを経て竹筏・丸木舟で日本列島へ向かって縄文人となった「狩猟・海人ドラヴィダ族」に分かれて日本列島に向かったと考えます。

 図10に「海人族D型グループ」の移動経路を筆者が追加した図12を示します。

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 イネやヒョウタン・ウリ・エゴマなど熱帯性食物の伝播と稲作系の文化・宗教から見て、Ⅾ系統人が日本列島に華北ルートやってきたという図9、シベリアルートでやってきたという図10の説は成立しません。

 東インドミャンマー山岳地域のⅮ系統のドラヴィダ山人族は、北のシベリアの「マンモスの道」と南の「海の道ルート」の2コースに分かれて東進し、日本列島で劇的に出会った可能性があります。

⑨ 日本列島とチベットだけにY染色体Ⅾ系統が多いのは、日本列島は海に、チベットはヒマラヤ・崑崙両山脈によって隔絶され、他民族の流入・支配を阻んできたからと考えます。

⑩ 大野晋氏によれば「主語-目的語-動詞」言語の南インドに住むドラヴィダ族はインダス文明を作ったインド原住民であり、ドラヴィダ語は短母音が「a,i,u,e,o」5母音であること、対応単語が約300語あること、語頭の子音がほぼ一致すること、「名詞、動詞、形容詞・副詞、小詞(助詞・助動詞)」の分類が一致すること、「ポンガロー」と叫びながら小正月に赤米を炊いて祝い、カラスに与えるという風習は日本の青森・岩手・秋田・新潟・長野に同じような行事が見られ、さらに小正月に小豆粥や赤飯を炊いて祝う「どんと焼き」「左義長」は全国に見られます。農業や食生活、宗教言語など固有の継承性・希少性の高い言語と民俗・文化が共通しているのです。

⑪ Y染色体Ⅾ系統のドラヴィダ語族の一部はインド東部・ミャンマー海岸部に移住し、漁撈に従事するとともに、雨季に冠水する河川流域で陸稲のインディカ稲を熱帯ジャポニカに変えて栽培し、その一部は熱帯のマラリアなどの感染症を避け、アッサム・ブータンチベットミャンマー・タイ・雲南等の山岳地域に移住して狩猟採取を行うとともに寒さに強い温帯ジャポニカ栽培を行い、寒冷地で日射を避けて肌色も黒褐色から白くなり、重い荷物をかついで短足・ガッシリ型の体形に変わったと考えられます。

 その後、寒冷期を迎えて高地のドラヴィダ系山人族は南下してドラヴィダ系海人族とともに竹筏・丸木舟で東進してスンダランドに移住し、温暖化によるスンダランド水没の危機に直面し、竹筏・丸木舟に乗って日本に移住してきた可能性がY染色体亜型DNAのⅮ型の分析から裏付けられます。

⑫ アジア各地から多くの人々が集まった日本列島には、様々な国・地域の人々の容貌が見られますが、中でもブータンの人々の容貌が日本人とそっくりであることは、1969年の京大ブータン学術調査隊 から「旅に出て驚いた。 どこで会うブータン人も、顔や体格が日本人とそっくりだ。男は日本の丹前(たんぜん)や厚子(あつし)に似た着物を着ている」と衝撃をもって報告されており、私も当時、探検部のメンバーから聞いていました。

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 ブータンミャンマーなど東インド・東南アジア高地のドラヴィダ系少数民族Y染色体DNA亜型の調査、温帯ジャポニカなどのDNA分析、言語・風俗・宗教の総合的な調査が求められます。

 

5.「日本人バイカル湖畔起源説」について

 前述のように、Ⅾ2は沖縄北39%、アイヌ88%であることからみて、チベットから北へ向かいシベリアを横断した「ドラヴィダ系山人族」(ブリヤート人など)と海の道をやってきた「海人・山人系ドラヴィダ族」が日本列島で劇的に出会い、縄文文化を作り上げた可能性があります。

 シベリアの各民族に68~91%含まれるC3遺伝子が、アイヌに13%見られることはⅮ2系ドラヴィダ族は途中で他の民族と混血したことを示しており、沖縄南(八重山)の海人族にO2bが67%、沖縄北に30%見られることはインドネシア系旧石器人とドラヴィダ系海人・山人族の混血を示しています。

 松本秀雄大阪医科大名誉教授はGm遺伝子分析(抗体を形成する免疫グロブリンを決定する遺伝子)から「日本人バイカル湖畔起源説」を提案していますが、C3がアイヌなどに見られることと符合します。2001年「NHKスペシャル『日本人はるかな旅』第1集 マンモスハンター シベリアからの旅立」などで紹介されたテレビ番組を見ても、バイカル湖あたりのブリアート人は日本人にそっくりです。

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 しかしながら、松本説の「日本人のほとんどは北方系で、南方系モンゴロイドとの混血率は低く7~8%以下」は、「主語-目的語―動詞」言語族のドラヴィダ族がシベリアの「マンモスの道」と「海の道」に分かれて日本列島に到達して合体した可能性を検討しておらず、必要十分条件を満たしていません。

 

6.核DNA分析からみた日本列島人

① 16500の「ミトコンドリアDNA」、6500万の「Y染色体DNA」の塩基対に対し、「核DNA」は30億の塩基対(うち99.9%は同じで異なるのは0.1%)もあり、格段に精度の高い分析が可能です。ただし、「サンプル限界」の影響をより強く受ける危険性が残ることを踏まえた検討が必要ですが。

② 篠田謙一著『日本人になった先祖たち』、斎藤成也著『核DNA解析でたどる日本人の源流』、神澤英明「縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く」(生命誌ジャーナル)などによれば、本土日本人は中国人と琉球人の中間にあり、琉球人とは近く、三貫地縄文人福島県新地町)やアイヌ人とは離れており、本土日本人と韓国人、中国人(北京・南方・雲南省)・ベトナム少数民族とも離れています。

https://www.brh.co.jp/publication/journal/087/research/1.html参照

③ 図13・14に点線を追加しましたが、「縄文人アイヌ人・琉球人」系と「東南アジア・中国」系の延長上の接点に現代の日本人は位置していることが明らかです。

 

 

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④ さらにネットではアジア各地の民族の核DNAの多次元散布図の最も変化の大きい直交平面への射影図の図16が紹介されていました。

 その図にドラヴィダ系、東アジア系、日本人を濃紺・紫・赤の楕円点線で囲って示しましたが、縄文人はドラヴィダ系に入り、両者が交わる交点に現代の日本人(赤色楕円)が位置していることが明らかです。日本人はドラヴィダ系DNAの縄文人をベースにしながら、東南アジア・中国系DNAを受け入れてきたことが証明されています。https://mocchiri-matome.slash-mochi.net/2019/04/09/参照

 

 

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 ⑤ これらの結果は、日本人固有の一番多数のY染色体Ⅾ型(父系)は周辺の朝鮮・中国・東南アジアにはなく、「本土日本人→琉球人→縄文人アイヌ人」の延長上にルーツがあることを示しています。

 すでにY染色体Ⅾ型がチベット地域やベンガル湾ミャンマー南のアンダマン諸島に見られることが解明されていますから、この地域にこそ縄文人のルーツがあり、この地域の少数民族に絞った核DNAの徹底的な調査が求められます。

⑥ 熱帯・温帯ジャポニカの原産地が「インド東部・ミャンマー高地」(アッサム・雲南説など)である可能性が高く、京大のブータン民俗学的調査により体格・容貌・民俗(赤米食・もち米食・歌垣・妻問婚・性器信仰など)に日本人との類似点が多いこと、国語学者大野晋氏により日本語とドラヴィダ語に高度の一致点があり、特徴的な民俗(赤い粥を大地に撒く、カラスに与えるなど)の一致が見られることが明らかとなっており、「Y染色体Ⅾ型」「ジャポニカ米食・もち米食」「ドラヴィダ系言語」「ドラヴィダ系民俗・文化」の4点セットが見られる少数民族に絞った核DNA調査により、日本人の故郷を解明すべきです。

 

7.旧石器人のルーツ

① 以上、16000年前頃からのY染色体Ⅾ系統の縄文人のルーツに焦点を当てて分析してきましたが、その前の旧石器時代は約3.5万年前に始まっており、国内最古の約3.2万年前の那覇市の山下洞人、約3.0万年前のガンガラーの谷のサキタリ洞遺跡幼児人骨、近くの港川フィッシャー遺跡の2.0~2.2万年前の人骨、約2.0万年前の石垣島白保竿根田原洞穴遺跡の数体の全身骨格などが次々と見つかっており、北海道・東北では2万年前頃からシベリア・サハリン系の細石刃文化が広がっています。この南北の旧石器人のルーツはどこに位置付けられるのでしょうか? 

② 前述のように「ドラヴィダ系山人族」はチベット高原から草原が広がるシベリアへ向かい、バイカル湖畔に定住してブリヤード人となっており、さらに東進して2万年前頃に北海道に到達した可能性が高いと考えます。

 一方、3.2~2.0万年前頃の沖縄の旧石器人は、現在の沖縄人に見られるミトコンドリアDNAのB4型Y染色体O2b系からみて南インドシナ系の海人族と考えられ、さらにドラヴィダ系山人・海人族(ミトコンドリアDNAM7a型Y染色体Ⅾ系統)がスンダランド水没とともに日本列島に大挙おしよせ、対馬暖流を利用して琉球から日本列島本土へ移住し、活発に交流・交易を進めて「主―動詞-目的語」構造の単一の言語・文化を形成したと考えられます。

 これらの竹筏・丸木舟を使った日本列島(ジャポネシア)への移住は一度だけでなく、何次にも渡って行われたと考えられ、琉球で稲作が定着しなかったのは、保水力の乏しい土壌とすぐに海に流れてしまう水利条件と、旧石器時代からの南インドシナ系の豊かな漁撈・イモ食文化が根付いており、「ドラヴィダ山人・海人族」が持ってきた集約労働型のしんどい手間のかかる稲作を行う必要がなかったからと考えられます。

 なお、インドネシア系と考えられるY染色体O2b系が沖縄南(宮古)に67%、沖縄北に30%、朝鮮に51%見られるにも関わらず九州・徳島などには見られず、縄文人Y染色体D系が沖縄南4%、沖縄北に39%見られる一方、朝鮮0であることは、南インドシナ系旧石器人は沖縄から南朝鮮黒潮対馬暖流に乗って移住してそこにとどまり、D系縄文人は沖縄から日本本土に移住し、南朝鮮には移住しなかったと考えられます。

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 「縄文ノート41 日本語起源論からみた日本列島人起源 」で述べたように、「半島南部に住んでいいた民族はインドネシア系」(ロシアの民族学者のジャリガシノバ説:鈴木武樹元明大教授の紹介)、「済州島には蛇神や竜神信仰が広く分布しています」「韓国の玩具のチャッチキというのがベトナムにあるんです。琉球にもある」「綱引きも、鹿児島から琉球、中国から南にもあって、豊凶を占う」「新羅の4大王ですね。あれは竜城からきたという話がある」(金両基元ソウル中央大教授)、「済州島の有名な伝説に『海を渡って3人がきた』がある」(梅田博之元東京外大教授)からみて、琉球(龍宮、竜城伝承)経由で済州島への旧石器人の移住があった可能性は高いと考えます。

8.気候変動と民族移動

① 以上のDNA分析から、日本人は独立心と探検・冒険心を持ち、移動性を持った多DNA民族であり、多様な言語・技術・文化を吸収してきたことが国語学・農学・植物学・民俗学・考古学・民族学の結果と符合します。

 今後も、その特質をいかした海洋交易民としての国づくりを進めるべきであり、誇りと自主独立心を失った拝外主義や偏狭な排外主義や縄文国粋主義などに陥るべきではないと考えます。

② 地球寒冷化・温暖化やそれに伴う紛争や侵略の危機に直面し、冒険心にあふれた勇敢な原日本人は、自由と独立を大事にし、他民族の支配に甘んじることなく、リスクを冒しながら新天地へと果敢に乗り出し、各地の他民族と友好を保ち、文化・技術を吸収しながら大移動を行ったと考えられます。

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⑥ 縄文人の祖先は、寒冷化が進んだ旧石器時代アフリカの角エチオピアあたり)から海岸にそってインドに第1次移動を行い、ドラヴィダ語の言語・文化を確立しました。

 さらにインド東南海岸部やスリランカあたりのドラヴィダ系海人族は東進してインド東部・ミャンマーの海岸部やアンダマン諸島に第2次移動を行い、インディカ稲を雨季の水没にも強い熱帯ジャポニカに変え、タロイモ(田イモ)とともに栽培を行うドラヴィダ系海人族(海幸彦)となり、その一部は温暖期に灼熱・多雨の地の疫病や水害を避けて快適なインド東部・ミャンマーの高地へと第3次移動を行い、ヤムイモ・タロイモと温帯ジャポニカ栽培を行うドラヴィダ系山人族となり安定した生活を続け、黒褐色・長足から黄色・短足・頑強な体質へと変化を遂げたと考えます。

⑦ そして、ドラヴィダ系山人族は寒冷化した17000年前頃に南下し、ドラヴィダ系海人族(海幸彦)とともに東進して陸地化したスンダランドに第4次移動を行い、さらに温暖化によるスンダランド水没により、14000年頃に日本列島に竹筏・丸木舟で第5次移動を行い、縄文人となったと考えます。弓矢にたけた「山幸彦(山人:やまと)」と「海幸彦(海人:あまと=あま)」の連携です。

 琉球に先住していたインドネシア系旧石器人とは、スンダランドで東南アジア系の単語を吸収していたドラヴィダ系山人・海人族はスムーズな混血と言語統一を行い、さらに対馬暖流に乗って北進したと考えます。

⑧ インド東部・ミャンマー高地からチベット高原に向かったドラヴィダ系山人族は北の草原地帯に向かいマンモスなどの大型動物を追ってバイカル湖周辺に第4次移動を行いブリヤート人として定住するとともに、その一部はさらに東に細石刃の槍を持って第5次移動を行い、2万年前頃に北海道に到達し、南からきていた縄文人と劇的な再開を果たしたと考えます。

 「モンゴル秘史」はチンギスカンの始祖を「上天より命ありて生まれたる灰白色の狼(ボルテ・チノ)ありき。その妻なる青白き牝鹿(コアイ・マラル)ありき。大海を渡りて来ぬ」と書いており、バイカル湖の南で、黄色い肌のドラヴィダ系山人族の男と湖を渡って北からきた白人の女が出会ってブリヤート人となったことを伝えています。

 モンゴル族は後に中国を征服して「元」を建国して、「大海を渡りて」日本人と戦ったのですが、ルーツをたどれば同じドラヴィダ系であった可能性があります。

⑨ 以上の結果をまとめると縄文時代への日本列島人の形成と移動図をまとめると次のようになります

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 ⑩ 「ミトコンドリアM7a型」「Y染色体Ⅾ型」「熱帯・温帯ジャポニカ栽培」「ドラヴィダ系言語」「ドラヴィダ系民族・宗教」の5点セットを持つインド東部・東南アジア高地の少数民族に絞ったミトコンドリアY染色体・核DNA調査により、4万年にわたる数次の大移動を行った日本列島人のルーツを解明し、独立自立心・探検心・冒険心・共同性・移動性に富み、多DNA・共通言語文化の平和で豊かな縄文1万年の歴史を保ち、極東小国でありながら中国・欧米文化をどん欲に吸収し、1万5千年の縄文文明を現代文明にまで発展させた独自の歴史を明らかにし、現代文明の危機を乗り越える道を世界に示したいと考えます。

 

◇参考◇

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論         http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

縄文ノート42(Ⅳ-3~38) 日本語起源論抜粋

 子どもの頃,、母親の田舎に行くとはとこ(又従兄弟)たちと和舟を借りて釣りを行い、大人になってからはカヌーや小型ヨットで遊んでいた私は、井上靖の『敦煌」などを読んで憧れた大草原の騎馬民族の記憶と、黒潮に乗ってやってきた海人族の記憶のどちらがDNAの中に色濃く残っているのか、中学生の頃からずっと考え続けてきました。昔からかなり変な子どもであったのです。

 2009年に『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』をまとめ、彼らのルーツが対馬壱岐の海人族であることを確信し、さらに2014年には『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)をまとめましたが、邪馬台国論争で古田武彦氏の論敵であった安本美典氏の『新説!日本人と日本語の起源』から「主語―動詞-目的語」言語族の分布を知り、氏の北方系説とは逆に、私は「海の道」ルート説を考えるようになりました。

 「言語だけが、南インドから北インドなどを飛び越えて、日本に飛んでくるはずがない。大野晋氏の説はまったく空想的な『トンデモ説』である」と安本氏は大野説を批判していますが、私にとっては安本氏こそ海や舟・筏などを知らない「ウォークマン史観の空想的なトンデモ説」でしかありませんでした。安本氏とは岡山で同郷ですが、瀬戸内海の海の民のことを知らないようです。私の叔母の夫は笠岡市の飛島(ひしま)の機帆船の「一杯船主」の海人であり、たつの市の私の母方の祖母の代まで、代々、女性たちは御座船で大阪の住吉大社に仕えており、瀬戸内海では舟が重要な交通手段であったのです。

 国際縄文学協会の「原発国民投票と縄文」という不思議な2本立ての講演会があり、前者が目的で聞きにいったのですが、後者の講師が大学の先輩の上田篤氏であったことから縄文社会研究に入るようになり、鳥浜遺跡や三内丸山遺跡の南方系のヒョウタンやウリなどがどこから誰によって運ばれてきたのかに関心を持ち、「海の道」を通って「主語―動詞-目的語」言語の海人族によって日本列島に運ばれたとの結論に達しました。そして、2017冬の『季刊 日本主義』40号に「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」を、2018年夏の『季刊 日本主義』42号には「言語構造から見た日本民族の起源」を発表しました。

 さらに、昨年夏の縄文社会研究会・東京の合宿を機に、農耕・食・神・霊(ひ)などの「希少性・固有性・継承性」のある言葉で倭音倭語とドラヴィダ語(タミル語)が一致しており、大野氏の言語比較の方法論こそ科学的であることを明らかにしました。

 重複していて恐縮ですが、すでに縄文農耕論や宗教論などでバラバラと書いてきた言語分析の部分だけをピックアップし、ここに紹介したいと思います。 雛元昌弘

  

Ⅳ 日本語起源論抜粋の構成>
1 「主語―動詞-目的語」言語族の移動論 

 1-1 縄文ノート25 「人類の旅」と「縄文農耕」、「3大穀物単一起源説」

2 倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3重構造論

 2-1 縄文ノート26 縄文農耕についての補足   

 2-2 縄文ノート36 火焔型土器から「龍紋土器」へ

 3-3 縄文ノート37 「神」についての考察

 2-4 資料28  赤目砂鉄と高師小僧とスサ

3 ドラヴィダ語(タミル語)起源説

 3-1 縄文ノート28 ドラヴィダ系海人・山人族による日本列島稲作起源論

 3-2 縄文ノート29 「吹きこぼれ」と「お焦げ」からの縄文農耕論

 3-3 縄文ノート37 「神」についての考察

 3-4 縄文ノート38 「霊(ひ)」とタミル語pee(ピー)とタイのピー信仰

 3-5 縄文ノート40 信州の神名火山(神那霊山)と「霊(ひ)」信仰

4 倭流漢字用法(倭音倭語)説

 4-1 縄文ノート32 縄文の「女神信仰」考

5 まとめ

 5-1 縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

1 「主語―動詞-目的語」言語族の移動論 

1-1 縄文ノート25 「人類の旅」と「縄文農耕」、「3大穀物単一起源説」

 中国・東南アジア諸国の「主語―動詞-目的語」言語構造ではなく、「主語-目的語―動詞」言語構造のギニア周辺・エチオピア・インド・チベットブータン・ネパール・ミャンマー・日本・韓国朝鮮と続いていることからみて、1万年の縄文人は倭音倭語を話しており、少数の中国の海人族が漁に出て漂着してきたか、あるいは戦乱から逃れてやってきて呉音・漢音の漢語を持ち込みながら縄文人に同化したと考えます。

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2 倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語の3重構造論 

2-1 縄文ノート26 縄文農耕についての補足

① 日本語は「倭音倭語-呉音漢語-漢音漢語」の3重構造であり、6穀の「倭名」は次表のように、呉音・漢音とは異なっており、「主語―目的語―動詞」言語の南インドミャンマーから竹筏などにより直接的に「海の道」をヒョウタンに入れられて伝播した可能性が高いことを示しています。

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 なお、農耕民族系(殷・燕系)、騎馬民族系(扶余)が征服する以前の南朝鮮の韓国、辰国(しんこく)、濊(わい)国の言語については古い文献で確かめることができませんが、残存する可能性の高い民俗関係に倭音倭語との共通性は見られません。

 

        6穀の「倭語(和語)」と「漢語(漢音・呉音)」

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② 古事記では、国生み神話に「淡道」「粟国」「小豆嶋」「吉備児嶋」が登場し、五穀の誕生として、スサノオが大気津比売を殺したところ、目から稻種、耳から粟、鼻から小豆、陰(ほと)から麦、尻から大豆が生まれ、神産巣日(神産霊:かみむすひ)の御祖(みおや)がこれを取らせて種としたとしています。

③ 「稗」については、古事記では、帝紀・本辞(旧辞)を読んだ稗田阿禮と、スサノオの子の大年(大物主)の子の大山咋(おおやまくい)が「日枝山」(比叡山)に祀られたとしており、日本書紀の一書はスサノオではなく月夜見が保食神を殺して「額上に粟、眉上に蚕、眼中に稗、腹中に稻、陰に生麦と大小豆」としています。

④ 「黍」については、記紀ともにスサノオ・月読の「5穀起源談」に登場しませんが、イヤナギ・イヤナミの国生み神話に「吉備」が登場することからみて、起源はさらに古いと考えられます。

 2-2 縄文ノート36 火焔型土器から「龍紋土器」へ

② 「蛇」と「龍」は、米などの「5穀名」や「神」などの名詞と同じく、和音・呉音・漢音の3重構造になっており、中国から呉音・漢音が伝わる以前に蛇(へび、み)、龍(たつ)の倭音・倭語があり、続いて紀元前3世紀頃に呉音「ジャ、タ」「リュウ」、さらに委奴国王(筆者説はスサノオ)が後漢卑弥呼(同・大国主筑紫王朝11代目)が魏へ使者を送るようになった紀元1~3世紀頃に漢音「シャ、タ」「リョウ」が伝わった可能性が高いと考えます。

③ ちなみに、鰐(わに)、鮫(さめ)、蜴(とかげ:蜥蜴)には和音の呼び名しか通用しておらず、中国語との交流が始まる以前から、日本列島に南方から持ち込まれた呼び名の可能性が高いと考えます。

  

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3-3 縄文ノート37 「神」についての考察

3 柳田圀男氏の「神=祖霊説」について

① 「神」の定義について柳田圀男氏は「祖霊」と定義しており、意味としては正しい解釈と考えます。しかしながら、倭音倭語で「霊(ひ)」はなく、「それい」と漢音漢語で定義すべきではなかったと考えます。

 「霊」は漢音の「レイ」ではなく倭音倭語で「ひ」と読み、祖霊を使うなら「おやのひ」と読むべきです。そうして始めて「霊継(ひつぎ・柩・棺)」「宇気比(受け霊=スサノオとアマテルの受け霊による後継者争い)」や「神奈火山(神那霊山)」「神籬(霊洩木)」の意味や、さらには新井白石説の「人(霊人)」「彦(霊子)」「姫(霊女)」「卑弥呼(霊御子)」などの意味が明らかとなるからです。

 呉音・漢音の漢語が伝わるより倭音倭語が古いという「日本語3重構造」をふまえ、柳田氏は倭音倭語で分析を始めるべきでした。 

 

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 ② 魏書東夷伝倭人条は「卑弥呼」の宗教を「鬼道」としていますが、「卑」字を漢字分解すると「甶(頭蓋骨)+寸」で祖先霊が宿る頭蓋骨を手で支える字になり、「鬼」字を漢字分解すると「甶(頭蓋骨)+人+ム」で頭蓋骨を人が支え、座った人(ム)が拝むという字になることから、いずれも祖先霊を祀る「霊(ひ)宗教」となります。

 なお、「姓名」の「姓」が「女+生」であり、「魏」字が「禾+女+鬼(祖先霊に女性が稲を捧げる)」であり、周を理想とした孔子の「男尊女卑」は「女が甶(頭蓋骨)を掲げ(寸)、それに男は酒(尊は酋=酒樽)を捧げる(寸)」という宗教上の役割分担を表しており、春秋戦国の争乱などで女奴隷が生まれる前の姫氏の周は母系制社会であったことを示しており、姫氏の分家の魏は女王国・卑弥呼に対し「金印紫綬」という格段の扱いをしたと考えられます。

 

2-4 資料28  赤目砂鉄と高師小僧とスサ

 そこで金属・金属器の倭音・呉音・漢音を調べてみると、金属名と金属器名の全てに倭音倭語があり、借用読みとしては「金・銅・鋼・刀」は呉音・漢音、「鉄・剣」が漢音、「鏡」が呉音で、「鑪(たたら)」や元々石製・木製であった日常生活用具や武器の「槍・鉾・鏃」などには呉音・漢音が借用されていません。

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 「かね(金)」から「あかがね(銅)・くろがね(鉄)・はがね(鋼)」の倭音倭語が生まれた可能性が高いことからみて、江南の呉や河北の漢から「呉音・漢音」読みの金属や金属器が伝わる以前に、わが国には金属の「かね」の倭音倭語があり、さらに道具・武器類の倭音倭語もあったことが明らかです。

 この倭音倭語のルーツは「縄文ノート41 日本語起源論と日本列島人起源」「縄文ノート38 『霊(ひ)』とタミル語『pee(ぴー)』とタイ『ピー信仰』」などでみたように、ドラヴィダ海人・山人族の可能性が高いと考えます。これらの倭音倭語は、インド東部・東南アジア高地から「海の道」ルートを通り、わが国に旧石器時代縄文時代に何次かに分けて到達し、その後に江南から直接九州に呉音漢語とともに製鉄技術が伝達された可能性が高く、浙江省から紀元前210年に出港した徐福などもその有力な候補として考えられます。

 

3 ドラヴィダ語(タミル語)起源説

3-1 縄文ノート28 ドラヴィダ系海人・山人族による日本列島稲作起源論

 下表に明らかなように、畑作・稲作・食事関係のタミル語(ドラヴィダ語:アーリア人に支配されたインドの原住民の言語)と日本語は符合しており、ブータンなど東インドミャンマー高地にはインダス文明を作り上げたドラヴィダ族が支配を嫌い、自立を求めて移住した可能性が高いのです。 

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3-2 縄文ノート29 「吹きこぼれ」と「お焦げ」からの縄文農耕論 

1.「縄文土器鍋隠し」の考古学

 「縄文ノート41  日本語起源論からみた日本列島人起源 」で紹介しましたが、大野晋氏は『日本語とタミル語』の冒頭で南インドに始めて調査に出かけた時の1月15日の「ポンガル」の祭りを体験した時の劇的な出会いを紹介しています。2つの土鍋に牛乳を入れ泡が土鍋からあふれ出ると村人たちが一斉に「ポンガロー、ポンガロー」と叫び、一方の土鍋には粟と米(昔は赤米)と砂糖とナッツ、もう一方の土鍋には米と塩を入れて炊き、カラスを呼んで与えるというのです。日本でも青森・秋田・茨城・新潟・長野に小正月(1月15日)にカラスに餅や米、大豆の皮や蕎麦の殻、酒かすなどを与える行事が残り、「ホンガ ホンガ」「ホンガラ ホンガラ」と唱えながら撒くというのです。「ホ」は古くは「ポ」と発音されることは、沖縄の「は行」が「ぱ行」となる方言に残っていますから「ポンガ=ホンガ」であり、なんと、インド原住民のドラヴィダ族の小正月の「ポンガ」の祭りが日本にまで伝わっているのです。縄文土器の縁飾りはこの「泡立ち=ポンガル」を表現しているのではないかと考えますが、別の機会に詳述したいと考えます。

 さらに次の表のように、泡や粟、お焦げ、鍋、土鍋の名称は呉音・漢音漢語よりタミル語(ドラヴィダ語の一部)の発音に類似性があり、「縄文ノート28 ドラヴィダ系山人・海人族による稲作起源説」で掲載した農業・食物語の比較と同じ傾向を示しています。

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 ドラヴィダ語系のこれらの倭音倭語は、農作物(種子と種イモ)、農耕技術、料理・食文化とワンセットで「海の道」をドラヴィダ族によって伝えられた、と考えます。もし、長江流域から稲作だけ、あるいは稲作を中心にしてこの4点セットが伝わり、弥生人(長江流域中国人)による縄文人征服があったのなら、農耕・食文化の倭音倭語は全て呉音漢語になったでしょう。

 

2.「おこげ」の再現実験

 なお、五穀などの倭音倭語のルーツを考えると、表3のように呉音・漢音漢語とは考えれず、タミル語(ドラヴィダ語)系の可能性が高いと考えますが、大野晋氏のタミル語調査からさらにドラヴィダ語系の高地民族の調査が求めれられます。

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 『荏(エ=荏胡麻)』は倭音倭語では『え』ですが、呉音漢語では『ニン(ニム)』、漢音漢語では『ジン(ジム)」であり、他の五穀・いもなどと同様に呉音・漢音漢語が入る前からの縄文語であり、揚子江流域からの伝来とは考えれません。なお、大豆は野生ツルマメからの栽培種であり、日本原産の可能性が指摘されています。 

 

3-3 縄文ノート37 「神」についての考察

1 大野晋氏の「カミ」説の要約

⑥ タミル語の「ko」は「神・雷・山・支配」を、「kon」は「神・王」を、「koman」は「神・王・統治者」を表し、日本語の「カム」に対応し、日本語の「a」はタミル語では「o」である。

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 ⑦ 日本語の「霊(ひ:fi)」はタミル語の「pee(ぴー);自然力・活力・威力・神々しさ」に対応する。(筆者注:沖縄では「ぴ」から「ひ(fi)」に変わる)

⑧ 「カミ」をめぐる次のような言葉についてもタミル語と日本語の対応が見られる。 

 

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2 大野晋氏の「カミ」=ドラヴィダ語ルーツ説の考察

② アイヌの「カムイ」からみて「カム」が「カミ」の古形であるはその通りと思いますが、「カン(神戸・神部・神邉・神主等)」「カモ(神魂神社:かもすじんじゃ、神魂命:出雲国風土記)」について触れていないのは国語学者として不徹底と思います。

 沖縄では「あいういう」「まみむみむ」3母音であり、「む」=「も」であり、「かむ」から「かも」と呼ばれるようになり、「かむ→かも・かん→かみ」であった可能性が高いと考えます。播磨国加茂郡大国主宗像三女神の多紀理毘売(田霧姫・田心姫)の間に生まれた「あじすきたかひこね(阿遅鉏高日子根)」は古事記では「迦毛大御神」と呼ばれており、その一族の賀茂・加茂・鴨氏は「神一族」であったことを示しています。

 なお、古事記出雲大社を「天御巣」「天新巣」と表現していることからみて、「かもす」は「神巣」と考えられ、神魂神社の元々の名前は古くから神々が巣む(住む)「神巣神社(かもすのかみやしろ)」であったと考えます。

 

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3-4 縄文ノート38 「霊(ひ)」とタミル語pee(ピー)とタイのピー信仰 

3.日本の「霊(ひ)」信仰

 死者は海や大地(黄泉)に帰り、黄泉がえるという海神・地神(地母神)信仰とともに、死体から「霊(ひ)=魂(たましひ:玉し霊)」は離れて山上に、さらには天に昇ると考える山神信仰・天神信仰が行われてきました。これまで書いてきたものと重複しますが、簡単に紹介したいと思います。

⑴ 人を産む二霊「 高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)

 記紀は始祖5神(参神二霊)の「二霊(ひ)群品の祖となりき」とし、高皇産霊(たかみむすひ)と神皇産霊(かみむすひ)を人々の「霊(ひ)を産む神」としました。古代人はDNAの働きを「霊(ひ)」ととらえ、親から子へと受け継がれていくと考えていました。この始祖2神は紀元前1世紀の頃と考えられます。

 

⑵ 「霊(ひ)継ぎ儀式」と柩・棺(ひつぎ)

 天皇家皇位継承は「日継(霊(ひ)継)」とされ、死者は内部を子宮に見立て朱で赤くした柩・棺(ひつぎ:霊継ぎ)に入れて葬られます。

 

⑶ 「霊人(ひと)」の名称

 新井白石は「人=霊人(ひと)」とし、角林文雄氏は『アマテラスの原風景』で「人、彦、姫、聖」は「霊人(ひと)、霊子(ひこ)、霊女(ひめ)、霊知(ひじり)」としています。「人」字は倭音「ひと」、呉音 「ニン」、漢音「 ジン」であり、「霊(ひ)」を継ぐのが「人、彦、姫、聖」であり全て倭語です。

 なお「人(ひと)」の「ひ」を略して「と」と読んだと考えれれる例として次のような多くの単語があります。

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  また、死者を演じる能楽者や歌舞伎役者、神社で神事や送葬に携わる人たちが江戸幕府によって「非人」とされましたが、元々の意味は「霊人」であり、死者の霊をあつかい畏怖される対象であっても差別されることはなかったと考えます。

 猿回しも「非人」にされますが、比叡山(日枝山)を神那霊山(神名火山)としてスサノオの子の大年の子の大山咋(おおやまくい)を祀る大津の日枝大社(全国約3,800社の日吉・日枝・山王神社の総本社、通称:山王権現)の神使が猿であることや日光東照宮で神事に携わり、有名な「見ざる聞かざる言わざる」などの猿が神馬とともに祀られていることからみて、「霊人」であったと考えられます。

 

5.女性器名「ヒー、ピー、ヒナ」について

 今は廃止になりましたがYAHOOブログ『霊(ひ)の国:スサノオ大国主の研究』で第46回の「『霊(ひ)の国』のクリトリス『ひなさき(吉舌、雛尖、雛先)』」(2011年2月)において、私は次のように書きました。

  

 ある研究会で、元大学教授から「私の田舎では、クリトリスのことを『ひなさき』といっていた。『霊(ひ)』が宿る場所『霊那(ひな)』の先にあるから『ひなさき』ということなんだな」というような話を聞いたのである。

仕事に疲れた合間にホームページで調べてみると、なるほど、古くはクリトリス(陰核、さね)のことを「ひなさき(吉舌、雛尖、雛先)」と呼んでいたようである。「吉舌」(ひなさき)の出典は、平安時代中期に作られた辞書、「和名抄(和名類聚抄:わみょうるいじゅしょう)」なので、その起源は古い。

さらに調べてみると、沖縄や鹿児島では、女性の性器を「ひー」と呼び、熊本では「ひーな」と呼んでおり、「ひなさき」のルーツは明らかとなった。・・・

なお、「昔の茨城弁集」(http://www1.tmtv.ne.jp/~kadoya-sogo/ibaraki-hi.html)を見ると、死産のことを「ひがえり、ひがいり」というそうであるが、「霊が留まる」の逆で「霊が帰る」ということであろう。「ひしぬ」「ひすばる」「ひだるい」などの「ひ」も『霊』の可能性があるかも知れない

 

 私は「ヒナちゃん」「ヒナもっちゃん」などと呼ばれていましたので、「お××ちゃん」と呼ばれていたことになり、がぜん面白くなってきました。

 さらに2018年になり、柳田國男氏の『蝸牛考』(1930年)の「方言周圏論」を批判して「『カタツムリ名』沖縄起源説」(180816)を書き、さらに「松本修著『全国マン・チン分布孝』の方言周圏論批判」(181204)を書きましたが、そこでは女性器名が南から北、東へと次のような伝播をたどることを明らかにしました。

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 日本語は南から北、東へと伝わっていたのであり、「ヒー、ピー」は女性器名であり、同時に霊(ひ)=神であったのです。石棒(金精さま)を女神の山に捧げ、地母神である大地の円形石組に立てるのもまた「ヒー、ピー」信仰を示しており、そのルーツは東インド・東南アジア山岳地域から「海の道」を伝わったことを示しているのです。

 

3-5 縄文ノート40 信州の神名火山(神那霊山)と「霊(ひ)」信仰

5.「霊(ひ)信仰」「pee(ぴー)信仰」と松岡静雄氏の「ヒ・ヒイ・イヒ・ヒナ族説」

 言語学者民族学者の松岡静雄(1878~1936年)が「ヒ・ヒイ・イヒ・ヒナ」について次のように書いていることを、私は『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』を書いた時には知らず、ネットを通して知り合ったイワクラ(磐座)学会の岩田さんから『イワクラー古代巨石文明の謎に迫る』をいただいて始めて知りましたが、その内容は次のとおりです。

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①「上代ヒという種族が存したらしい。・・・韻を伸ばしてヒイとし、若しくは接頭語イを冠してイヒとして地名、神名等に残る」

②「ヒ族=イヒ族であり、ヒナは彼らの居住地である」「イヒ川、イヒ田、イヒ森など、イヒと言う地名が諸国に存在する」「イヒ=ヒナであり・・・兵庫県の揖保、またはイピ、イビと発音される地名(揖斐、伊尾、伊美)などの語源も同様にイヒ族が関連している」「この種族がヒナともヒダとも呼ばれ、或いはシナ、シダと称へられ、エミシ、エビス、エゾとして知られ、此の国の至所に蕃息して居たことは考古学上今では殆ど疑いない」「揖保(いひほ):播磨国の地名・・・イヒホ川(又はヒの川)の上流に讃岐のイヒ神の配偶と称する神が住んでいたイヒモリという地名がある」(雛元注:粒山(いひぼやま)、粒丘(いひぼおか)もある)

③「ヒ族は先住民コシ族侵略して北陸へ移動させたが、後からきたアマ族(出雲系)に制圧されて同化した」

④「彼らの居住地は肥の国と呼ばれた。ヒラ、ヒナ、ヒダ、シダ、シナと発音する地名(飛騨・志田・日南・日浦・日高・常陸信濃など)は、このヒ族の居住地である」

 

 私は怨霊史観は「霊(ひ)」信仰があって成立するという表裏一体の考えのもとに、「霊(ひ)継法則」から大国主の国譲りは「国津神天津神アマテラスへの権力移譲」ではなく「大国主の御子たちの後継者争い」と考えるなど、スサノオ大国主建国説から「委奴国王」=「いな国=ひな国」説を考えていたのですが、松岡静雄氏は国名や地名をもとに鋭い直感で「ヒ・ヒイ・イヒ・ヒナ族説」を考えていたのでした。私は宗教として「霊(ひ)信仰」を考えたのに対し、松岡氏は日本民族形成論として「ヒ族」を想定したという大きな違いがありますが、「ヒ・ヒイ・イヒ・ヒナ」地名や魏書東夷伝倭人条の「卑奴母離(ひなもり)」に注目した点は同じ地平にあります。

 しかしながら松岡氏が「天離(あまざか)る鄙(ひな)」「しなざかる越」について、「ヒ族は先住民コシ族侵略して北陸へ移動させたが、後からきたアマ族(出雲系)に制圧されて同化した」としましたが、私は古田武彦氏の「天」は壱岐対馬を中心とした玄界灘地域、「ひな」は出雲、「越」は越前・越後であり、対馬暖流にそった位置関係を示していると考えます。

 「ドラヴィダ海人(あま)・山人(やまと)族起源論」に到達した現在、私は死者の「霊(ひ)」が肉体から離れ、山から天に昇り、帰ってくるという「山神・天神信仰」はドラヴィダ山人族の「ピー」信仰をルーツとし、その痕跡が「ヒ・ヒイ・イヒ・ヒナ」地名・神名として各地に残っていると考えており、松岡説とは異なり、旧石器人・縄文人からスサノオ大国主建国にいたる過程で「霊(ひ)」信仰は継承され、それらの地名・神名が付けられ、残ったと考えています。

 

4 倭流漢字用法(倭音倭語)説

4-1 縄文ノート32 縄文の「女神信仰」考

6.古代中国、倭国は母系制社会であった

① 「姓」「卑」字が示す母系制社会

 姓名の「姓」が「女+生」であることは、古代中国では女性が祖先霊を祀る役割を担っていた時代があったことを示しています。孔子の「男尊女卑」の「卑=甶(頭蓋骨)+寸」「尊=酋(酒樽)+寸」であり、「女が掲げる頭蓋骨(鬼:祖先霊)に男が酒を捧げる」という宗教上の男女の役割分担を表しており、孔子の弟子の儒学者たちが「女性差別用語」としたのです。孔子が理想とした姫氏の周王朝は母系制であった可能性が高く、その後、春秋・戦国時代に入り、略奪婚から女性奴隷の時代になり、男系社会に転換したと考えます。

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② 「魏」が鬼道の女王・卑弥呼に金印紫綬を与えた理由

 周王朝の姫氏の諸侯であった「魏」(禾(稲)+女+鬼)は「鬼(祖先霊)に女性が禾(稲)を捧げる国」であり、魏の曹操は「われは文王、姫昌(きしょう)たらん」と述べ、孔子が理想とした周王朝を再建したいという「志」を持っていました。

 魏国が鬼道の女王・卑弥呼(霊御子)に対して格段の「王侯」に匹敵する金印紫綬を与えたのは、姫氏を想起させる母系制社会であったからと考えます。また、宦官のトップの中常侍(ちゅうじょうじ)で一流の儒学者であった祖父の曹騰(そうとう)から教えを受けた曹操は、孔子の「道が行なわれなければ、筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう」を知らないはずはないと考えます。陳寿(ちんじゅ)三国志魏書東夷伝の序に「中國礼を失し、これを四夷(しい)に求む、猶(な)を信あり」と書き、朝鮮半島の鬼神信仰に対し卑弥呼にだけ「鬼道」という尊称にしたのは、倭国を「道・礼・信」の国としてみていたことが常識であったことを示しています。

③ 倭人は「卑」「奴」を卑字ではなく貴字として使用した

 「卑弥呼」や「漢委奴国王」、「倭国」について、中華思想の漢や魏が「東夷・西戎・南蛮・北狄」や「匈奴」などと同じように、字が読めない倭人に対して「卑字」を使ったという「被虐史観」が見られますが、ほんとうにそうでしょうか?

 三国志魏書東夷伝卑弥呼が「使によって上表」と書かれていることからみて、漢や魏の皇帝に対し、委奴国王や卑弥呼が使者に正式な「国書」を持たせないなど考えれられません。漢字を理解する文明国として認めたからこそ、後漢光武帝や魏皇帝・曹芳が金印を与えたのです。

 「倭国」「委奴国」「卑弥呼」は、中国側の名称ではなく、倭国(いのくに)側が「倭」「委奴」「卑」字を倭流に解釈して「貴字」として使用したと考えます。「倭」は「人(稲)+禾+女」で人(ひと=霊人)に女性が稲を人に捧げる「霊(ひ)の国」であり、「委奴国(いなのくに)」は「禾(稲)+女+女+又」で、女性器(女+又)に女が稲を捧げる国名なのです。縄文人の女神信仰、性器信仰を受けついだ倭国は受け継いでいたと考えます。

④ 倭人は漢字を知っていた

 「日」が倭音「ひ、か」、呉音「ニチ」、漢音「ジツ」であるように、日本語は「倭音倭語、呉音漢語、漢音漢語」の3層構造であることからみて、江南の呉音が先に伝わり、後に華北の漢音が入ったことが明らかです。

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 その伝播は呉から台湾を経た「琉球(龍宮)ルート」の海人族による伝搬と、秦の始皇帝が紀元前3世紀に東方の三神山、蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)に3,000人の童男童女と百工(技術者)を付けて浙江省(2度目)から徐福を派遣したという「徐福ルート」の2つが考えられます。佐賀市京都府伊根町、熊野市など各地に徐福伝説や徐福を祀る神社があることからみて、彼らもまた呉音漢字を伝えたと考えられます。

 それを裏付けるのが吉野ヶ里遺跡など北部九州を中心に松江市などから約40点発見された石硯と研石(墨をすりつぶすための道具)です。これらは紀元前2世紀末から紀元3世紀後半のものであり、わが国での倭音・呉音・漢音による漢字使用は紀元前からと見なければなりません。

 紀元1世紀の委奴国王が国書を後漢皇帝に上表しないなどありえません。

⑤ 本来の漢字用法が倭流漢字用法として残った

 「奴」字は、中国が母系制社会であった周の時代には「女+又(股)」で、子供が生まれる女性器を指していた「貴字」であり、「女+又(右手)」として「奴」が手を縛られた女奴隷を表すようになったのは、春秋戦国の戦乱によって奴隷が生まれてからという可能性があります。

 呉音漢語を習っていた「委(倭)人」は「奴」「卑」字を貴字として使った可能性が高いと考えますが、謙譲語として使った可能性もあります。

 なお、「霊」=「靈」=「雨+口口口(人々が口で受ける)+巫(みこ)」、「神」=「示(高坏)+申(稲妻)」であり、いずれも天上から降りて来る祖先霊を示しています。「魂」=「云(雲)+鬼」(雲の上の祖先霊)からみても、漢字ができた紀元前1300年ごろより前から天神信仰であったと考えられます。

 時代は異なりますが、「仏(ほとけ)」(人+ム)は、倭語倭音では「ほと+け」であり「女性器の化身」であり、倭人の女性器信仰に仏教が合わせた「和名」の可能性があります。 

 

◇参考◇

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論              http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

縄文ノート41(Ⅳ-1) 日本語起源論と日本列島人起源

 「Ⅰ合宿概要」「Ⅱ縄文農耕・縄文食論」「Ⅲ縄文宗教論」に続いて、予定を変更して「Ⅳ日本語起源論」に入り、「Ⅴ日本列島人起源論」「Ⅵ日本列島文化・文明論」へと続けます。

 なお、すでに「縄文農耕・縄文食論」「縄文宗教論」においても、「主語・動詞・目的語言語構造論」、6穀語・縄文食語・龍・神の「倭音倭語・呉音漢語・漢音漢語3層言語論」、6穀語・縄文食語・ぴー・神・女性器名の「倭語・ドラヴィダ語対応論」について書いていますので、それらはピックアップしてまとめて次回に紹介したいと思います。

 これまで「日本民族北方起源説」や「弥生人朝鮮人・中国人)縄文人征服説」が幅をきかす中で、南方起源説の大野晋氏の「日本語ドラヴィダ語(タミル語)起源説)」は「国語学者大野晋は、日本語の原型がドラヴィダ語族の言語の影響を大きく受けて形成されたとする説を唱えている。ただし、この説には系統論の立場に立つ言語学者からの批判も多く、この説を支持するドラヴィダ語研究者は少ない」「比較言語学者の観点では大野説が比較言語学の正統的方法に従っていないことを批判している」(ウィキペディア)」として無視されてきましたが、支配言語同士の欧米言語論の機械的当てはめの誤った批判であり、DNA研究などが進んだいまこそ、日本人南方起源説、稲作南方起源論、照葉樹林文化論、霊(ひ)宗教論などと合わせて、その復権が図られるべき時と考えます。なお、私は拝外主義にも排外主義にも組しない、あらゆる民族の自主・自立と尊厳、交流と交易を大事にする汎民族主義・汎地域主義の立場から古代史に取り組んでいます。

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

 

      Ⅳ-1 日本語起源論と日本列島人起源

                                                                                       200918→1023→210112 雛元昌弘

 1.大野晋氏の「日本語ドラヴィダ語ルーツ説」

 大野晋氏(学習院大名誉教授:古代日本語研究者)とは縁あって1975~80年頃に何度かお会いし、1度目は「出雲弁と東北弁はズーズー弁で同じ系統」と、次には「日本語のルーツはドラヴィダ語(タミル語はその一部)」と教わりました。

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 多くの国の言語と対照されたご経験から、日本語はタミル語に似ている言葉が一番多く、風習も似ているとの説明には「なるほど」と思いながらも、『日本語とタミル語』(1981年)を読んだ時には他の言語との比較対照表を作成して証明されておらず、「似ている言葉だけピックアップしている可能性があり、必要十分条件を満たしていない」(他のより似た言語がある可能性を否定できない)と納得できなかった記憶があります。東アジアの人たちとはそっくりさんがいっぱいいるのに、インド人とは肌色や風貌がおよそ異なる、という直感的に感じる違和感もありました。

 その頃、古田武彦氏にお会いして邪馬台国論争に関心を持つようになり、古田氏の論敵であった安本美典氏の『日本語の起源を探る』などを読み、基礎語(身体語や数詞など)についての統計的分析ができていないとの大野説批判を読み、そのままになっていました。

 なお脱線しますが、私は古田氏の邪馬壹国説を支持していますが、氏のように「やまいちこく」と倭音(やま)・呉音(いち・こく)・漢音(こく)のチャンポン読みはせず「やまのいのくに」と倭音倭語で読み、元々は「山一国=山委国」の漢字であり、「天一柱=一大国=壱岐」をルーツとする「委奴国王」の後継国であったと考えています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 

2.大野説を裏付ける「主語―目的語―動詞」言語族と温帯ジャポニカサトイモ・ヤマイモの起源の重なり

 スサノオ大国主建国論について研究をはじめ、研究室の大先輩であった上田篤氏の縄文社会研究会に入り、スサノオ大国主と縄文宗教との連続性、さらには日本人起源に関心を持つようになりましたが、次女が赴任していたニジェールみやげのヒョウタンから、若狭の鳥浜遺跡や青森の三内丸山遺跡ヒョウタンの原産地がニジェール川流域であることを知り、さらに陸稲(アフリカイネ)がニジェールで栽培されていることを知り、ヤムイモ(ヤマイモ)やタロイモ(田芋・サトイモ)の最大生産地もニジェール川流域であることを確かめ、「アフリカの角」(エチオピアあたり)の「主語-目的語-動詞」言語族が「海の道」を通って5.3万年前頃に南インドスリランカに移住(第1次移動)し、東進してインド東部海岸やアンダマン諸島ミャンマー海岸部に移住(第2次移動)したと考えるようになりました。

     

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 その後、Y染色体Ⅾ型がチベットなどに分布していることから、ドラヴィダ系海人(あま)族の一部はマラリア などの害を避け、プラフマトラ川やイラワジ川をさかのぼって高原地域に移住し(第3次移動)、高地で肌の露出が少なくなって紫外線を浴びなくなり、魚食から肉食への転換によりビタミンD欠乏症による淘汰が起き、黒褐色の肌から黄色になり、重い水や荷物を運ぶ山岳地域での生活で手足が短く頑強な「ズングリ・ガッシリ・短足型体形」になったと考えました。

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 さらに、寒冷期に入ると高地のドラヴィダ山人(やまと)族は山を下り(第4次移動)、海岸部やアンダマン諸島などに住むドラヴィダ海人(あま)族と協力し、マラッカ海峡を南下して半陸地化していたスンダランド(今の南シナ海)に竹筏で移住し(第5次移動)、温暖化によってスンダランドの水没が進むと「海の道」を竹筏と丸木舟で日本列島にやってきた(第6次移動)と考えるようになりました。

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 弓矢が得意で勇敢な狩猟採取栽培ドラヴィダ山人(やまと)族と航海が得意で冒険心に富んだ漁撈栽培交易ドラヴィダ海人(あま)族が協力し、一定の人数で移動したことにより、途中、他民族からの干渉・攻撃・支配を受けることなく平和裏に移動・移住できたと考えられます。

 日本人に多いY染色体Ⅾ系統がチベットや東南アジア高地の少数民族アンダマン諸島にしか見られず、さらにチベットの南に住むブータン人が日本人と体格・容貌がそっくりあることや照葉樹林帯の稲作・文化伝播説を1970年頃に探検部のメンバーから聞いていたこともあります。

 チベットY染色体Ⅾ系統が多いのは険しいヒマラヤ山脈崑崙山脈に囲まれで独立性が維持されるとともに、ヒマラヤピンク岩塩の産地・交易地として栄え、独立性を維持できたからと考えられます。

 これまでアッサム・ミャンマー雲南高地の照葉樹林帯から長江を下ってその下流で温帯ジャポニカ長江文明が栄え、日本に伝わったとする説が主流でしたが、私は5つの理由から「長江ルート」ではなく「海の道ルート」を考えました。

 第1は、ヒョウタンやウリ、エゴマ、熱帯ジャポニカなどの熱帯性農産物が縄文遺跡から見つかっていることです。ヒョウタンで水を確保しながら竹筏と丸木舟で移動したと考えられます。砂漠・草原・寒冷地の移住ではありません。

 第2は、「主語-動詞-目的語」言語の中国を経由したのならその支配下に入り、言語の影響を受けた可能性が高いにもかかわらず、倭人たちは独立性を保ち「主語-目的語-動詞」言語構造を維持し続けたことです。東南アジア・中国の「主語-動詞-目的語」族の影響を受けず、独立性を保ちながら「海の道」を日本列島に直接やってきた可能性が高いことです。

 第3は、日本語は「倭音・呉音・漢音3重構造」で倭音がもっとも古く、稲作に関わるイネやコメなどの単語に全て倭音倭語があることです。

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 呉音漢語は徐福一行などが紀元前3世紀に、漢音漢語は紀元1世紀の委奴国王・スサノオの遣漢使や7~9世紀の遣隋使・遣唐使がもたらしたと考えられ、倭音倭語の水田稲作起源がそれ以前に長江からではなく伝わった可能性が高いことを示しており、日本列島に定着したのは「海の道」をやってきた「主語-目的語-動詞」言語の倭音倭語族であることは明らかです。―「縄文ノート26  縄文農耕についての補足)」参照

 第4は、倭語には「主語-動詞-目的語」言語の東南アジアの単語が混じっており、独立性を保ちながらも一定期間、東南アジア地域に定住して他部族の言語・文化を吸収しながらやってきた可能性が高いことです。

 第5は、大野説は宗教・民俗(生産・生活文化)に関わるドラヴィダ語と日本語の類似性を明らかにしていますが、どのように南インドから日本列島に伝播したのか、なぜ肌色や体形が異なるのか、インディカ米ではなく熱帯・温帯ジャポニカを持ってやってきたのか、粘りけ気(糯性)のあるコメが好きなのかなどを明らかにしていない弱点があります。

 

3.大野説に必要であった民族移動ルートの検討

 大野説の「日本語ドラビダ語(タミル語)ルーツ説」は言語分析や関連する民俗(生活文化)分析、海上移動説は正しいものの、南インドからの少なくとも5段階の歴史的段階的な移動の分析の判断が不十分であることが悔やまれます。陸上移動しか考えない日本語北方起源説の批判者たちもまた同じ誤りを犯したのではないでしょうか。

 なお、ドラビダ語族の縄文人が1万数千年前頃に日本列島にやってくる前の3~4万年前の旧石器時代には、日本列島には北と南から旧石器人がやってきていました。日本人固有のY染色体Ⅾ2型が沖縄と北海道に多く、Ⅾ1a2aがオホーツク海沿岸と日本に多いことから見て、ドラビダ語族の一部はチベット高原から北に進み、ブリアート人が住むバイカル湖畔からさらにシベリアの「マンモスの道」を通って北海道にやってきた旧石器ドラヴィダ人がいたと考えられます。

 一方、Y染色体0b2型は沖縄と朝鮮に多く、インドネシアベトナムに見られることから、ドラヴィダ族がスンダランドでインドネシアベトナム系旧石器人と混血して「海の道」を竹筏で沖縄や朝鮮にやってきた可能性が高いと考えられます。

 その後も中国大陸や朝鮮半島、シベリアなどから絶えず少数の漂流民や移住民・亡命者などがやってきて多DNAの妻問夫招婚の母系制の縄文社会を形成したと考えます。毎年10人の移住があれば、1.5万年では15万人になるのです。弥生人朝鮮人・中国人)による縄文人征服説などの空想は必要ありません。―「資料19 DNA分析からの日本列島人起源論」参照

 気候変動や民族移動の圧迫を受けながら、勇敢で冒険心と好奇心、団結心に富んだドラヴィダ山人・海人族は、独立と自立を求め、活発に交流・交易を行い各地の技術・文化を吸収しながらスンダランド、フィリピン、台湾を経由して日本列島に渡来し、対馬暖流と季節風を利用して活発に交流・交易・妻問夫招婚により単一言語・文化の縄文社会を作り上げたのです。

 多言語・多文化・多民族の台湾やフィリピン、インドネシアベトナムなどの東南アジア諸国と多DNA単一言語・文化の縄文人との大きな違いこそ着目すべきです。

 

4.「基礎語の統計比較」方法論に代わる「民族固有・希少語対照法」へ

 安本美典氏が大野説を批判した「基礎語100語・200語の一致数の統計的比較」の統計的処理方法は科学的としても、「サンプルが科学的なものかどうか」の条件を抜きにして「科学」と認めることはできません。

 支配民族が移動したインド・ヨーロッパ語族の地域ではこの方法が成立しますが、支配者と被支配者の言語・文化が異なる地域ではこの方法は成立しません。

 インドのようにドラビダ族がアーリア民族の支配を受けた地域では、ドラヴィダ原語の一部はアーリア族の言語に置き換わった可能性が高く、日本のように倭音倭語を使いながら、交易・交流を通して呉音漢語・漢音漢語を段階的・主体的に受け入れ、併用している「3重構造言語」の国では異なってきます。

 例えば数詞や商品名、政治・行政言語などは支配言語に転換する可能性が高いと考えられ、「基礎語100語・200語」は支配語の影響を大きく受けます。安本氏の大野説批判は、政治的・経済的支配によるドラヴィダ語変化の歴史を無視したサンプル選択の「機械的適用」の誤りを犯しています。安本氏の古代天皇(大王)の即位年の統計的推計や邪馬台国高天原論は高く評価し、私の『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』では参考にさせていただいていますが。

 安本美典氏は日本語は「古日本語系(ビルマ系言語を主力)+古朝鮮語系+古アイヌ語系」からなる「古極東アジア語」と「インドネシア系言語など」のチャンポン言語という仮説を提出していますが、それぞれの言語の成立条件を検討して最適のサンプルを選び出して比較分析を行ってはいません。

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 第1に、琉球語が検討の対象外となっています。

 第2に、太平洋側が「インドネシア系言語など」、北九州・山陰が「古日本語系(ビルマ系言語を主力)」、東北・北海道が「古アイヌ語系」と3分割していますが、日本語方言の研究でそのような系統的な分類を見たことがありません。

 第3に、「古日本語系(ビルマ系言語を主力)」が長江流域から来たとしていますが、呉音漢語が北九州・山陰地域に濃厚に分布しているといえるのでしょうか? 「主語―動詞-目的語」言語の影響が「古日本語」に見られるというのでしょうか? 「弥生人(中国人)縄文人征服説」の影響を受けただけの主張という以外にありません。

 第4に、「古朝鮮語系」を含めて「古極東アジア語」が成立していたかのような図としていますが、騎馬民族の扶余族が満州に侵入したのは紀元前後頃であり、3~4万前の旧石器人、縄文1万数千年の歴史とは時代が異なります。「古極東アジア語説」は日本民族北方起源説(朝鮮人起源説)の影響を受けた幻という以外にありません。

 安本氏は日本語が諸言語から形成されていることを示しているだけで、どの言語が誰によって、いつ、どこから、どのような順で合流していったのか、を明らかにできてはおらず、大野説批判などおこがましいと言わなければなりません。日本人の学者に多い欧米の科学的方法の機械的な直輸入の誤りです。

 一方、大野氏は支配言語の影響を受けにくい宗教語・民俗語などの希少性・固有性・継承性のある言葉の対照を行っており、単語比較の「サンプルの科学性」は満たしています。ドラヴィダ派生語についてチベットブータンなど東インドミャンマー高地に残る少数民族の宗教・生活・産業用語の調査を行っていれば、とっくに定説として確立されていたはずであり残念です。

 また、日本古語(倭音倭語)には、東南アジアの「主-動-目」言語族の間を縫って日本にやってくる過程で東南アジア諸民族の単語を多く吸収しており、あわせて検討が必要であったと考えます。

 小学生の時に父が押し入れに隠していた安田徳太郎氏の『人間の歴史』を密かに盗み見したこと思い出しますが、性器語について次表のような対応が見られ、ドラヴィダ海人・山人族はスンダランドで「主語-動詞-目的語」言語族の単語や文化を吸収し、混血を行いながら日本列島にやってきたと考えられます。

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 大野説が発表された1980年頃からすでに40年も経過したのですから、大野説に触発されて「〇〇語こそが日本語のルーツだ」という研究が大野説批判の学者たちから次々と出てきていると思いきや、素人の私のアンテナにも引っかかるような説は一向に出てきません。

 そうである以上、言語学者は大野説を正当に評価し、ドラヴィダ語起源説の深化を図るべきでしょう。

 

5.大野晋氏の「タミール語(ドラヴィダ語の一部)」の概要

 大野氏の『日本語とタミル語』(1981年)、『日本語の起源』『日本語の源流を求めて』『日本語はどこからきたのか』などから、大野説をまとめたものを表2に示します。

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 重要な点は、機械的な「基礎語100語・200語」比較ではなく、アーリア民族支配の影響を受けにくい稲作や食事、墓、金属、機織生活習慣、宗教(天・神等)、精神(アハレ・スキ・サビ等)など民族文化の希少性・固有性・継承性がある単語についてドラヴィダ語と日本語の約500語について対応関係を証明していることです。また、墓制や落書き・記号文などの考古学的類似性も指摘しています。

6. タミル語の「ポンガロー」と秋田・青森の「ホンガ」、長野の「ホンガラホーイ」

 大野氏の『日本語とタミル語』(1981年)の冒頭の、大野氏を驚愕させた印象深いエピソードを紹介したいと思います。

 大野氏は1980年に現地に行き、実際の新年である1月15日に行われる赤米粥を炊いて「ポンガロー、ポンガロ!」と叫び、お粥を食べ、カラスにも与えるポンガロの祭りを実際に体験し、青森・岩手・秋田・新潟・茨城にも1月11日、あるいは小正月(1月15日)にカラスに米や餅を与え、小正月に小豆粥を食べる風習があることを確かめています。

 私も幼児の1950年頃かと思いますが、兵庫県たつの市の母親の実家で、小正月に「どんど焼き」を行い、赤飯を供えて食べたことが何度かあります。

 この「どんど焼き」は地域行事として最近でも正月明けの行事として見かけますが、神が宿る松飾やお札・お守り・破魔矢などを燃やす「お祓い」行事とされています。しかしながら、私は正月明けに松飾などに宿る祖先霊を天に送り返すという「天神宗教」であると考えます。

 姫路のスサノオを祀る牛頭天王総本宮広峯神社(疫病が流行った時に京都八坂神社へ分祀)の「御柱祭」の「御柱焚き上げ」神事で御柱を燃やすのは、スサノオの神霊(神の霊(ひ))が降臨した御柱を燃やすことによって、神霊を再び天に送り返す意味を持っていると考えられ、「どんど焼き」も同じ神事と見てよいと考えます。

 

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 カラスに米や餅を与えるのもまた、カラスを猿や狼・鹿・鶏などと同じように先祖の霊(ひ)を天から運び、送り帰す神使としてして見ていたと考えます。

 さらに、秋田・青森では小正月に豆糟(大豆や蕎麦の皮に酒糟などを混ぜたもの)を「ホンガホンガ」と唱えながら撒く「豆糟撒き」の風習があり、長野県南安曇郡では「ホンガラホーイ ホンガラホーイ」と囃しながら鳥追いを行い、餅を入れた粥を食べるというのです。沖縄では「パ行→ハ行」への転換があることからみて、「ホンガ」「ホンガラ」は古くは「ポンガ」「ポンガラ」であったのです。

 ここでは「小正月祝い」「赤米粥と小豆粥、赤飯」「カラス行事」「ポンガロとホンガ・ホンガラ」の共通点があり、ヒンズー教や仏教以前から同じような宗教行事が続いていることが明らかです。

 他の宗教行事に特有な「希少性・固有性・継承性」のある単語、「どんど焼き左義長」などの意味不明語や群馬県片品村の猿追い祭りで地面に赤飯を投げ合う「えっちょう・もっちょう」の掛け声、多くの祭りの「わっしょい」「えっさ」「どっこいしょ」「そーりゃ」「ナニャドラヤ」などの掛け声のルーツについても検討してみるべきと考えます。「希少性・固有性・継承性のある単語」に絞った調査です。

 

7.「日本語ドラビダ語起源説」の復権を図る

 「日本民族北方起源説」や「弥生人朝鮮人・中国人)縄文人征服説」が主流の中で、南方起源説の大野説は無視されましたが、DNA研究が進んだいまこそ、その復権が図られるべき時です。

 「日本語ドラビダ語ルーツ説」については、さらに3つの方法により補強すべきと考えます。

 第1は、ドラビダ語がアーリア人支配やイスラム文化によって変容した借用語とドラビダ原語を分離したうえで、統計的な比較対照を行うことです。

 第2は、東インドバングラデシュブータンなどでも話されているという「およそ26の言語」と言われるドラヴィダ語の、チベットブータンミャンマー高地への伝播と変容の解明です。DNAからみて日本人とチベット人に世界で他に見られない共通性があり、ブータン人と日本人の体格・容貌・赤米食(熱帯ジャポニカ米)・性器信仰などがそっくりであることからみて、この地域のドラヴィダ語系の少数民族の言語とDNA分析が求められます。

 第3は、他民族支配によって影響の受けにくい、固有の宗教や民俗と結びついた「希少言語」に注目し、同じく「意味不明の希少言語」の倭音倭語との対照が有効と考えます。

 第1・第2の方法は言語学者民族学者・遺伝学者の研究を待つ以外にありませんが、大野氏のデータからだけでも第3の方法での分析は可能と考えます。さらにブータンミャンマー高地の研究者や留学生、大使館にヒアリングを行えば確実になると考えます。

 

8.性器信仰について

 ポンガルは「沸き立ち、泡立つお粥」の意味で、結婚している女性の祭りとされていますので、母系制社会の祭りと思われます。

 縄文の石棒とインドのリンガ(男性器)・ヨニ(女性器)信仰の類似性については「縄文ノート34 霊(ひ)継ぎ宗教(金精・山神・地母神・神使文化)について」で書きましたが、片品村の金精(男根)を女体山(日光白根山)などに男性が奉げるのは山の神を女性と考えているからであり、母系制社会の祭りであることが明らかです。

 チベットの南のブータンにも日本と同じような性器信仰や夜這い・母系制文化が残っているとされていますが、わが国の縄文時代には石棒=男根信仰があり、古事記には大国主沼河比売(奴奈川姫)の家に「用婆比」に来たという歌があり妻問夫招婚であったことを伝えています。さらに金精信仰は明治政府が禁止するまで各地に色濃く残っており、今もその名残が各地に見られます。

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 なお、ブータン語の男性器「ボー」は、日本語古語では「ポー」であり、女性器名の琉球方言の「ホー,ボー、ホーミ」や九州方言等の「ボボ」、古事記等の「ホト」、さらには「チン」が「堅い物がぶつかる音」ですから、堅くなった男性器名が「チンポ・チンボコ」となった可能性があります。

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 1958年、中尾佐助氏(京大卒・植物生態学者、後に大阪府立大教授)がブータンへ入国を果たし、1969年には桑原武夫氏(京大学士山岳会)や松尾稔氏(京大工学部教授のちの名大総長)が率いた京大ブータン学術調査隊が訪れており、私も当時、探検部の学生からのまた聞きで「顔や形が日本人そっくり」で「夜這い」が行われていると話を聞いていました。

 今、ネットでどの写真を見ても、全員が日本人によく似ています。また、民族衣装も前開型で和服(丹前)と同じです。

 

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9.日本語と朝鮮語百済語)は南方系

 大野晋氏は、1957年の『日本語の起源』では「南方語を土台に、その上に北方アルタイ語母音調和を持つ言語(具体的には朝鮮語とした)がかぶさったとする重層説」をとなえ、1975年の国語・朝鮮語ツングース語・中国語・歴史・民俗学の10人の講演とシンポジウムをまとめた『日本古代語と朝鮮語』(大野晋編)では、「共通の母音交代が存在していた」「似ていると思われるものは、名詞にははっきりとした形のものが出てくる。ところが動詞には出てこない」「語彙の比較という問題は、地域的にも非常に近いわけだし、借用語か同源語かきちっと言えない場合が、どこまでいっても、ついて回ると思うんですね。・・・むしろ文法の問題として押さえていくことで、従来よりもずっと緊密な関係だということを論証できるじゃないか」などと、日本語と朝鮮語の「主語-目的語-動詞」言語の類似性を指摘しています。

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 その後、1980年頃より「民族固有語の比較対照」という方法論によりドラヴィダ語起源説に転換し、日本語と朝鮮語の関係についは、「日本語・朝鮮語タミル語同系説」に転換しています。

 しかしながら、前述のように、現時点でのDNAデータでは、Y染色体0b2型(インドネシア系旧石器人)は沖縄と朝鮮に多いものの、日本人固有のY染色体Ⅾ2型(縄文人)は朝鮮半島に見られないことから、大野説は旧石器人には当てはまるものの、縄文人については当てはまらない可能性があります。

 ―「縄文ノート43 DNA分析からの日本列島人起源論」参照

 なお、『日本古代語と朝鮮語』(大野晋編)では、鈴木武樹氏(当時明大教授、歴史学)はロシアの民族学者のジャリガシノバの「半島南部に住んでいた民族はインドネシア系」という説を紹介していますが、DNA分析結果と一致します。

 さらに、金両基氏(当時ソウル中央大教授)は「済州島には蛇神や竜神信仰が広く分布しています」「韓国の玩具のチャッチキというのがベトナムにあるんです。琉球にもある」「綱引きも、鹿児島から琉球、中国から南にもあって、豊凶を占う」と述べています。さらに、梅田博之氏(当時東京外大教授)の「済州島の有名な伝説に『海を渡って3人がきた』がある」と述べ、金氏はずっと後の時代の「脱解というのが現実にそのように出てきます。新羅の4大王ですね。あれは竜城からきたという話がある」と紹介しています。

 ウィキペディアによれば、『三国史記新羅本紀で脱解(在位57~80年)は「倭国の東北一千里のところにある多婆那国」からきたされていますが、『三国遺事』では龍城国からきたとされており、龍城=龍宮(琉球)の可能性も考えられます。

 これまで、「中国→朝鮮半島→九州」「シベリア→樺太→北海道」ルートを旧石器人や縄文人がやってきたという説が主流でしたが、「海の道」を通っての東南アジアや東インドミャンマーの海人族の直接流入こそ、言語・民俗・伝承・DNAが示しています。

 

10.今後の課題

① 「お山信仰」「地神(地母神)信仰」「神籬(ひもろぎ=霊洩木)信仰」「巨木信仰」「火祭り」「雷神信仰」「蛇・龍蛇・龍神信仰」「性器信仰」「妻問い婚」「母系制社会」「焼畑農業」など、縄文宗教・民俗の「民族固有・希少語」がドラヴィダ語族に見られるかどうかについて、京大のブータン研究会・雲南懇話会、ドラヴィダ語研究者、ブータンミャンマー大使館・留学生などへの調査が求められます。

② 意味不明の「どんど焼き左義長」「えっちょう・もっちょう」「わっしょい」「ナニャドラヤ」などの祭りの「希少性・固有性・継続性」のある掛け声のルーツについての比較対照が重要と考えます。特に、縄文文化の色濃い沖縄、九州、出雲、長野、東北・北海道などの山間部や離島などでの調査が有効と考えます。

 

◇参考◇

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート   https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ      http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団         http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論         http://hinakoku.blog100.fc2.com/