ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

縄文ノート50(Ⅵ-13) 縄文6本・8本巨木柱建築から上古出雲大社へ

 「旧石器-縄文-弥生-古墳」時代という時代区分を習った時、教師の教えに素直ではなかった小学生の私は「なんで日本には鉄器時代がないのか」とがっがりしながら疑問に思ったものです。昭和20・30年代には村や町に普通に鍛冶屋があって鉄器を作っていたのを子どもの私は飽きずによく見ていましたが、そんな身近な鉄器を古代人は知らなかったのか、と思ったものです。さらに「稲作が始まって米を保存するために薄くて硬い弥生式土器が生まれた」という説明も米俵や木の米櫃に保存していたことから信じられず、「大和(だいわ)」を「やまと」と読むことなどどうしても納得できませんでした。

 「旧石器-縄文-弥生-古墳」の時代区分だと、日本文明は「土石文明」になります。しかしながら、「土石工事」とは言わず「土木工事」というのは、道路や河川の土留工事、川の堰や橋づくりに木材が欠かせないからです。建築となると重い石より木材はさらに使い勝手がよく、舟づくりにも木は必要であり、料理や土器づくりにも燃料の木は欠かせません。豊かな森に育まれた日本文明は「土石文明」ではなく「土木文明」というべきなのです。

 大和には鉄器が少なく、九州や出雲に多いことを隠すために弥生時代古墳時代をもうけ、天皇中心・大和中心の歴史にしたかった歴史家の歪曲としか考えれらません。

 ギリシア神殿の真ん中が膨らんだエンタシスの石柱(パルテノン神殿で直径1.9m、高さ10.4m)は、もともとは木の柱の神殿であったことを示しており、古ギリシアでは「石の文明」の前に「木の文明」があったのです。

 「古代文明」というと、石のピラミッド(60~146m)や日干しレンガのジッグラト(聖塔:ウルのジッグラトは高さ30m)、メソポタミア・インダス・黄河文明の石と日干し煉瓦の宗教施設や水利施設・城壁、大沐浴場のような「シンボリックな石造・レンガ造巨大建造物」に目を奪われがちですが、わが国にはそれらとは異なる巨木木柱建築文明があったのです。それが縄文時代に遡ることを、出雲大社からたどりたいと考えます。

 なお、本稿は縄文宗教論として書いた「縄文ノート33 『神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観』考」と重複している点が多いのですが、合わせて検討していただければと思います。                        210303 雛元昌弘

 

※目次は「縄文ノート60 2020八ヶ岳合宿関係資料・目次」を参照ください。

https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201016?_ga=2.86761115.2013847997.1613696359-244172274.1573982388

 

   Ⅵ-13 「縄文6本・8本巨木柱建築」から「上古出雲大社」へ

                      190408→200830→210203 雛元昌弘

 この小論は2019年4月に書いた「48mの『古代出雲大社』は廻り階段・スロープでは?」をもとに、「蓼科山を神那霊山(神奈火山)とする天神信仰について」200808、「八ヶ岳合宿報告メモ」200814の検討をふまえて加筆修正したものです。

 

1.古代出雲大社について

 杵築大社(きずきのおおやしろ:出雲大社)は、古事記には大国主命の国譲りに際して造られた大国主命の「住所(すみか)」「天の御舎(みあらか)」「天の御巣(みす)」「天の新巣(にいす)」、日本書紀では「天日隅宮(あめのひすみのみや)」、出雲国風土記では「所造天下大神宮」とされ、神代から何度も再建されてきて現在に続く最古の神社になります。

 現在、高さ24.2mで最大の神社建築ですが、社伝では、中古には16丈(48.4m)、上古においては32丈(96.8m)の高さがあったとされています。

 平安時代、10世紀末の『口遊』(源為憲)は、「雲太、和二、京三」と記し、聖武天皇が建立した15丈(45メートル)の東大寺大仏殿、京都御所大極殿をしのいで、出雲神社が日本で最高の高さであったことを伝えています。

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 この巨大な神殿は、出雲大社宮司「千家」家に伝わる「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」に残されており、しかも、図面に画かれた3本の柱の巨大な柱根(直径1.1~1.35m)が平成12年に出雲大社の現在の本殿の前から見つかり、1248年に造営された神殿の巨大な3本の杉柱が資料と物証で裏付けられたのです。

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 記紀にでてくる最初の神社はこの大国主命がこの国の始祖5神を祀る出雲大社ですが、日本最高・最大の本殿として、記録に残っているだけでも平安後期から鎌倉時代までに6回も再建され、信仰され続けてきたのです。

 この出雲大社の神殿の特徴は、2つあります。1つは、極端な高床式の建物であるということであり、もう1つは、部屋の中央に心柱のある、田の字型に9本の柱を配置した様式であるということです。

 高いことはより天に近づくことであり、天上の霊(ひ:祖先霊)を信仰する宗教的な権威をより高めることが目的であったと考えられます。また、対馬壱岐、筑紫、越方面から、年に1度、八百八十の神々が航海してきた時の目印とするためであった、とも考えられます。海から見ると陸地は平板に見え、上陸地点を見逃す心配がありますが、そびえ立つ出雲大社灯台に匹敵する目印となったと考えられます。

 もう1つは、大国主命の住まい、天津日嗣(霊継)の神殿としての形式です。わが国の田の字型の伝統的な建物では、土間から見ると、左手奥が床の間や仏壇のある上座(客間)で、右手奥は、建物の主が住む場所(納戸)になります。出雲大社は、客間の位置に始祖神の天津神5神を祀り、納戸の位置に大国主命を祀っていることからみて、記紀が描くとおりに大国主命の霊(ひ)信仰の「天の御舎」(神殿)としていることが明らかです。

 前置きが長くなりましたが、神代・上古の出雲大社本殿の高さはどれだけであったのか、社伝について検討してみたいと考えます。

 以前、仕事帰りに島根県立古代出雲歴史博物館を見学し、5案の復元模型の展示をみましたが、「8丈(24m)」、中古「16丈(48m)」、上古「32丈(96m)」の伝承のうち、48m説の模型がありました。

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 福山敏男元京大教授監修、出雲大社・馬庭稔(建築家)協力、大林組設計の復元図面やこれらの模型が妥当なのかどうか、検討したいと思います。

 なお、私は福山教授の日本建築史の授業を受けており、福山門下の出雲出身・在住の馬庭稔氏は同級生で、『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』は彼の「間違いない」との励ましを受けて出版したものであり、両氏の説を批判するのは心苦しいのですが、建築史にとっても出雲、古代史、さらには日本文明の位置づけにとっても重要なテーマと考えており、私の説を公表します。

 

2.「近古8丈」「中古16丈」「上古32丈」伝承は事実か?

 私は記紀風土記や神社伝承、魏書東夷伝倭人条などの分析では、荒唐無稽と考えられてきた神話なども敢えてそう書くことで真実の歴史を伝えようとしたものであることや、伝承や校正などで陥りがちな後世の錯誤が含まれることを解明してきましたが、同じように出雲大社社伝の「近古8丈」「中古16丈」「上古32丈」について検証してみたいと思います。

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 出雲大社には「近古8丈」「中古16丈」「上古32丈」という伝承が厳然として残っていますが、私は「中古は近古の2倍」「上古は中古の2倍」と倍数で伝わっていた可能性は高いと思いますが、それが連続した変遷の伝承であったかどうか、「8丈、16丈、32丈」の実数で伝わっていたかどうかについては疑問と考えます。

 伝承としては「上古(古墳(飛鳥)時代)から中古(平安時代)へは半分になった」「中古(平安時代)から近古(鎌倉・室町時代)へ半分になった」と別々の話として伝わっていたものが、「上古→中古→近古」と連続して1/2になったと誤って伝えられた可能性があるのです。

 1061年、1108年、1109年、1141年、1172年、1235年の6回の建て替えの記録によれば、1108年の地震か台風による倒壊を除くと、耐用年数は31年、32年、47年、63年で平均では43年であり、構造的にみて堅牢な建物であり、老朽化で建て替えられてきたことが明らかです。「何度も倒壊した」と出雲人の建築技術を馬鹿にしたような記述が目立ちますが、現代にも通用するレベルの高度な建築技術で建てられたものです。

 中古の794~1061年の間に43年周期とすると6回は建て替えられた可能性があり、その間もずっと「中古16丈」であったかどうかが問題なのです。

 さらに、不思議なことに(たぶん天皇家を恐れたのでしょう)、記紀出雲国風土記に書かれた大国主による「杵築大社(きずきのおおやしろ:明治に入り出雲大社と改称)」「所造天下大神宮」の「神代」の高さが伝えられていないのです。

 大和天皇家によりスサノオ大国主系の出雲や吉備・播磨・摂津・河内・丹波、大和の三輪・物部・蘇我などの王(豪族)が権力を奪われた「上古」の後半や、仏教が国教とされた「中古」前半の奈良時代には、勢力の衰えた出雲大社の高さは半分に縮小された可能性があると考えます。

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 壬申の乱をへて「中古(奈良・平安時代)」に入ると、聖武天皇は741年には全国に七重塔の国分寺国分尼寺を造ることを命じており、758年に建立の15丈(45メートル)の東大寺大仏殿よりも出雲大社を高くすることをはばかられた可能性は大いにあります。

 当時の出雲国国分寺の七重塔の高さは不明ですが、現存する東寺五重塔が54.8mで一番高いことから見ても、「中古」に32丈(96.8m)もの出雲大社を建築できたとは権力関係からも、財力からも、技術的にも考えにくいといえます。

 その後、平安時代に入り、桓武天皇の第2皇子の52代嵯峨天皇は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は即ち皇国の本主なり」として正一位(しょういちい)の神階と日本総社の称号を尾張津島神社に贈り、66代一条天皇は「天王社」の号を贈るなど、出雲の地位の高まりがうかがわれます。経済的に安定した時代が続いたこともあり、出雲大社は元の高さの16丈に戻された可能性があります。

 以上のように、出雲大社の伝承から確実なことは「近古8丈、中古最終16丈」「上古は中古の2倍」であり、上古「32丈(96.8m)」は成立しないと考えます。

 

3.「上古16丈(48.4m)」の妥当性

 では、「上古16丈(48.4m)」の高さの出雲大社を建築することができたのかどうか、以下、検討したいと考えます。

⑴ ランドマーク・国見機能と杉材の長さ

 宗教施設としてのランドマーク機能から考えると、海上や平野の遠くから見て周辺の林の樹高より高くする必要があり、国見の楼観としての機能を考えても、周辺の樹高より高くする必要があります。

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 しかしながら冬の爆弾低気圧や台風の風圧による倒壊リスクを考えると、周辺の林の防風機能を活かしたに違いなく、樹高を倍も越えて極端に高くすることは避けたに違いありません。

 また高齢の大国主の「住所」で、一族の始祖神を祀り、大国主が各国にもうけた180人の御子など一族が参拝する神殿であり、昇り降りに難儀する96m、32階建てのビルに匹敵するような高さにする必要はありません。

 海岸部に多い10~30mの松林の樹高より高い位置に楼観をもうけたとすると、「中古16丈」(48m)の高さというのは合理的な高さと考えられます。 

 一方、用材から考えると、最も大きい天然秋田スギが胸高直径1.3m、高さが58mであり、諏訪大社御柱祭の神木が直径約1m、長さ約17mであることや、日本海斐伊川を利用した杉材の運搬を考えると、棟までが16丈(48.4m)の本殿は1本柱ではなく、3本を金輪で束ねた3本束柱の先に1本柱を継ぎ足した「2本継柱」で、地面に埋めた深さ2mを考えると直径1.1m×長さ30mほどの「3本+1本」の杉材の金輪による継柱の可能性が高いと考えます。

⑵ 古代王の高さ志向:人工の石山と巨木建築

 他の事例から、古代人の高さ感覚を考えてみたいと思います。

 紀元前2500年頃に築かれたクフ王のギザの大ピラミッドは147m、メソポタミアの紀元前2100年頃からのウルのジグラット(聖塔)は30m、紀元前600年頃に建設されたバビロン(現在のバグダッド)の空中庭園は105mの高さと考えられています。

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 これらの例からみて、古代人は100mを越えるような建築物を建造する宗教的・権力的な意思と技術力を持っていたと見てよさそうです。

 この古代の人々をびっくりさせたに違いない「30~147mの高さ」というのは、いったい何から来ているのでしょうか? ジッグラトが「高い所」を意味し、自然の山に対する「クル(山)信仰」が起源と考えられていることからみて、これらは平野部に「人工の山」を作ったとみていいと思います。

 一方、山だらけの日本では死者の霊(ひ)が天に昇る信仰の対象となる円錐形の美しい神名火山(神那霊山)があり、その山上の巨石は磐座(いわくら)と呼ばれ、死者の霊(ひ)が宿る場所として信仰の対象となっていましたから、平野部に巨大石造物をつくる必要はありませんでした。

 そこで、平野部ではその地の「樹高より高い建造物」を神殿として、自然を超越した王の偉大さを示そうとしたと考えます。樹高をみると、エジプトやメソポタミアで建材や船材に利用されたレバノン杉の高さは40mほどであり、高知県長岡郡大豊町のスギが68m、天然秋田スギが58m、山形県寒河江市光明寺ケヤキが60m、静岡県榛原郡金谷町のクスノキが50mなどです。

大国主も同じように考え、出雲の平地林の松林の樹高30mより高い神殿を考えたに違いありません。出雲大社の「18丈(48m)」の高さは合理的であり、杉の1本柱で建造は可能でしたが、運搬の都合で2段継柱にしたと考えられます。

⑶ パプアの樹上住宅

 現在の木造の高い建物では、インドネシアニューギニア島のパプアの樹上住宅があります(ピーター・ネルソン著『ツリーハウスをつくる』、ポーラ・ヘンダーソン、アダム・モーネメント著『ツリーハウスで遊ぶ』など)。このコロワイ族のツリーハウスは、地上10~12mの樹上に建てられ、中には樹高を超えた50mの高さのものもあるそうです。

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 10~50mの高さの樹上に家を造り、暮らす人々がいるということは、高所での建築作業や生活を怖がることのない、猿のDNAを受け継いだ人々がいるということを示しています。それは、現在のとび職や諏訪大社などの「御柱祭」にも受け継がれています。

 

⑷ 木造建築の高さと建築技術

 京都東寺55m、姫路城46m(建物31.5m+石垣)、大阪城58.3m、江戸城80m(建物60m)などからみても、出雲大社16丈(48m)の建物の建設は高所作業として技術的には妥当な高さと考えられます。

 現代では、1942~1943年にアメリカ各地に建設された海軍の飛行船格納庫(木造トラス構造のゴシックアーチ型)58.5mが最高でしたが、ハイブリッド木材を使った建物ではノルウェーのミョーストーネット・ビルが約85.4mです。国内では大館樹海ドーム52m、出雲ドーム48.9mなどがあります。

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 興味深いことは、石器時代と変わらない生活を続けているコロワイ族のツリーハウスと技術の粋を尽くした木造トラスドームがほぼ同じ50mほどの高さであるということです。

 「16丈(48m)」という高さはこれらの例を見ても建築技術的に無理のない高さです。

⑸ 稲吉角田遺跡の弥生式土器の建物図

 鳥取県米子市の環濠城である妻木晩田(むきばんだ)遺跡近くの弥生中期の稲吉角田(いなよしすみた)遺跡からは、6種類の絵画が描かれた大型の壷が出土し、階段か梯子を掛けたやぐらのような高い建物Aと、高床柱の低い高床倉庫のような建物Bの2種類の建物が描かれていました。そして、このA建物を出雲大社とする説もあります。

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 Aを竪穴式住居のような屋根と部屋が一体型の建物とすると、屋根と柱部分の比率はおおよそ1:5になり、屋根の下に部屋を足して描くと、屋根と柱部分の比率は1:2強となります。一方、Bの高床式建物と柱部分の比率はほぼ1:1になります。

 Aの屋根・部屋一体型の建物だとすると高さが16丈(96m)ほどの建物になり、部屋を追加した建物だとすると16丈(48m)の高さになって出雲大社の復元模型や復元図面のような建物になります。

 しかしながら、壺に描かれた高床式建物Bと舟の高さ・長さとの比率や屋根だけの建物Aからみて、Aは出雲大社の本殿を表したものではなく、むしろ小さな見張り台的な施設の可能性もあり、上古の出雲大社の高さを予測する決め手にはならないと考えます。

 ⑹ 霊(ひ)信仰と出雲大社

 古事記によれば、出雲大社大国主壱岐対馬から招いた「別天神(ことあまつかみ)」始祖5神の「天津日継(霊継)」を行う「住所(すみか)」「天の御巣」「天の御舎」「神産巣日(かみむすひ;神産霊)の御祖(みおや)命の天新巣」として作られたものであり、日本書紀には「天日隅宮(筆者説:天霊住宮)」と書かれ、大国主が「神事を治める」「幽(かくれたる)事治める」神殿とされています。始祖5柱を祀り、天上と地上を死者の霊(ひ)が行き来する「八百万神」信仰の創始者大国主からすると、その神殿をより天に近い場所とした可能性は高いといえます。

 鉄先鋤により鉄器水利水田稲作を普及させ、「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と呼ばれて100余国を米鉄交易で統一し、妻問夫招婚により各国に180人の御子をもうけ、国譲り後は新たな霊信仰の創始者として君臨した大国主は、背後の神那霊山の八雲山175mの前に、あたりの木々の高さを超える、天に近い最高の高さの神殿を建てさせたということは十分に考えられます。

 なお大国主の国譲りは通説ではアマテルの子・孫である穂日・建比良鳥に対して行ったとされていますが、そもそもスサノオ大国主は6代離れており、スサノオの姉とされたアマテルとその子・孫とは世代が離れています。大国主の国譲りの真相は、壱岐天若日子(暗殺される)、筑紫日向(つくしのひな)の穂日・建比良鳥(武日照・武夷鳥・日名鳥)親子、出雲の事代主(自殺)、越の建御名方(諏訪に逃亡)の4人の御子・孫の王位継承争いであり、穂日は大国主が筑紫日向(つくしのひな:旧甘木市のひな城)の鳥耳に妻問して生まれた御子であり、大国主と血が繋がっているからこそ、現在の千家家・北島家まで出雲大社大国主を祀ることができたと考えます。

 なお記紀は、アマテルをスサノオの姉としていますが、古事記にはスサノオが出雲・揖屋の母イヤナミのもとに行きたいと大人になっても泣いていたという記述があり、スサノオは長兄であり、筑紫で生まれたアマテルや月読、綿津見3兄弟、筒之男3兄弟らはスサノオの異母妹・異母弟と考えます。

⑺ 巨木(神籬)信仰と巨石(磐座)信仰

 古事記によれば、少彦名が亡くなった時に大国主が「独でいかにして国づくりができようか」と落胆していた時、海を光らして大物主(代々襲名)が現れ、大物主(大物主大神スサノオ)を三輪山に祀ることを条件に大国主・大物主連合による国づくりが合意されたとされたことを伝えています。

 「海を光らして大物主が現われた」という光景は、朝日を受けてさざ波が光る中を大物主の船が東からやってきたことをリアルに伝えており、両者の会談場所が瀬戸内海北岸であることを示しています。

 兵庫県高砂市の「大国の里」(播磨国風土記)には大国主が作ったとされる日本最大の「石の宝殿」(天円地方の思想に基づく東西南北の四方を支配する王の「方殿」)があり、奈良県橿原市にも同形の巨石「益田岩船」があります。

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  1.  万葉集の生石村主真人(おいしのすぐりのまひと)の「大汝(おおなむち) 小彦名(すくなひこな)乃 将座(いましけむ) 志都乃石室者(しづのいわやは) 幾代将経(いくよへぬらむ)」の歌と「益田岩船」の2つの室からみて、「石の宝殿」と「益田岩船」は大国主・大物主連合の建国のモニュメントとしてそれぞれ作る予定であったものが、大国主の後継者争い筑紫・出雲・越の御子たちの間でおこり、建設途中に放棄された、と私は考えています。

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 なお、「益田岩船」は飛鳥に向いており、大和(おおわ)盆地南部の葛城を拠点としていた大国主の子の阿遅鉏高日子根(あぢすきたかひこね:迦毛大御神)の勢力が大物主大神スサノオ)系の蘇我氏の飛鳥をにらみつけるかのような位置に立地していますが、大国主・大物主連合が成立した段階で、この「益田岩船」は一足先に建設が中止されたのではないかと考えます。

 「石の方殿」の北には「播磨富士」と呼ばれる美しい神那霊山の高御位(たかみくら)山があり、私の妻の母の八木智恵子(元小学校教師)によれば、「大国主が石の方殿を作った時の石屑を高御位山から投げ捨てて鯛の形をした鯛ジャリがあり、その頭が上を向いていたら、日本の中心になるはずであった」との伝承が残っており、天皇家の王位継承の儀式が「高御座(たかみくら)之業」とされていることからみても、高御位山のある「大国の里」を国の中心とした大国主・少彦名の建国計画があり、大国主・大物主連合(出雲・美和連合)が成立した可能性が高いと私は考えています。

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 なお、この「石の宝殿」の南に続く竜山の「竜山石(宝殿石)」は天皇家などの櫃に使用されています。

 日本最大の人工の磐座である「石の宝殿」と「益田岩船」を作ろうとした大国主は、同時に日本最大・最高の木造建築・出雲大社を作った偉大な「葦原中国」の建国王なのです。

⑻ 結論

古代王の30~147m高層物建設志向、10~50mのコロワイ族のツリーハウス、樹高58~68mのスギ、近古・中古・上古の出雲大社の高さの伝承、巨木3本を金輪で束ねた2段継柱、死後には霊(ひ)が山上の磐座から天に昇り誰もが天神となるという大国主の「八百万神」の霊継(ひつぎ)宗教、「十月十日」の神在月(出雲以外は神無月)に各国王を集めた霊継ぎ祭祀と王族たちの「縁結び(縁産す霊)」、日本最大の人工の磐座の「石の宝殿と益田岩船」の建造、高御位山での建国伝承と天皇家の「高御座」での霊(ひ)継ぎ儀式などから考えて、出雲大社本殿は16丈(48m)の高さであったとみて間違いないと考えます。

 

4.「引橋長一町」は直階段か桟橋(木道)か?

 写真のように、古代出雲大社の復元模型と復元図は正面、妻入りの直階段で想定されています。 f:id:hinafkin:20210203181627j:plain

 その第1の理由としては、中世の出雲大社が現在と同じように屋根付きの直階段で拝殿と繋がっていたことです。

 第2の理由としては、出雲国造の千家に代々伝えられてきた「金輪造営図」には神殿の前に「引橋長一町」と書かれた長方形の図があり、この引橋を直階段と見たことが考えられます。:前掲図参照

 普通に考えれば、福山敏男元京大教授らの平安時代の復元図や模型のように「一町=109m」の直階段の建物になります。

 しかしながら、階段は和語では「きざはし(階)」であり、「橋」は川などの上に架け渡した通路になります。

 ウィクショナリーによれば、「階」は「山地等の急傾斜に土の段が並ぶ様」とされ、「橋」は「木」+「喬」(「高」い「アーチ状の飾り」)とされており、「引橋」を階段とみるのは漢字からみて無理があります。

 「階」に「橋」字を使うなら「登橋」「降橋」であり、「引橋」となると「何かを引く橋」になります。当時、出雲大社の前には汽水湖の「神門水海」があり、潮位差は最大で30cmほどですが、神門川や斐伊川からの出水時にはかなりの水位差があり、大社の前は長い砂浜に葦などが生えた湿地帯であったと考えられます。

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 そうすると本殿から拝殿の手前の現在の銅鳥居のあたりまで、舟を引いて付ける桟橋(木道)が渡されていた可能性が高いと考えます。「引橋」となると、舟を引きよせることしか私には思いつきません。

 この「引橋」があったことを裏付けるのは、日本書紀の「大国主が往来して海に遊ぶ具の為に、高橋・浮橋および天鳥船を造り供す」という記述です。出雲大社から神門水海にでるため「高橋(桟橋)」と「浮橋(浮き桟橋)」があったのです。「高橋(桟橋)」の橋脚は満潮や増水時には水に浸かり、干潮や渇水時には砂浜に立っていたと考えられます。

 「金輪造営図」に書かれた「引橋長一町」を109の階(きざはし:階段)と見たのは誤りであり、桟橋(木道)と浮桟橋であったのです。

 発掘を行えば柱の太さから階段であったのか、桟橋であったのかは簡単に判明するはずであり、試掘調査が求められます。

 

5.古代出雲大社・廻り階段説に基づくと

 福山敏男元京大教授らの復元図・模型の「直階段」案は実際の建築を考えてみると、さらに次のような大きな疑問があります。

 1は、この直階段は冬の大陸方向からの季節風や台風・地震を考えると構造的に弱いことです。私は構造計算は苦手なので直感でしか言えませんが、カヌーや小型ヨットでの体験では、オール・マスト1本立てるだけでも風を受けて走り、体で風を受けただけでも舟は進むのです。100mもの幅の狭い細長い構造物となると、神殿本体と合わせた横からの風圧はかなり強く、「横倒し」になる危険性は高いと考えます。

 構造的には四角形の塔型とし、心御柱の周りの側柱内側に「貫」を通し「廻り階段」をもうけた方が、長い直階段よりはるかに横風に強いと考えます。

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 第2は、再現図・再現模型では、神殿上部の建物だけを梁構造とし、下の柱には柱と柱を固定する貫(ぬき)を設けていないものと、神殿・直階段全体を貫構造としているものが見られることです。

 構造的に考えれば、柱を垂直に正確に建てるためには貫を下から順に組んで柱を固定する必要があります。そして、そこに工事用の階段を付けることは誰もが考えついたと思います。

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 第3は、一般的に建築にあたっては床や屋根、壁などの資材を運びあげるためのスロープや足場を組む必要がありますが、心御柱を中心とした貫(ぬき)構造にして内部に廻り階段を設ければ足場を組む必要はなくなります。そして屋上床からはロープで材を引き上げ、壁や屋根を作ることも可能です。

 足場材や長い直階段の材も不要となります。

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 第4は、屋根がなく塗料のない外階段は劣化が激しく、雨を防げる内階段にした方が耐久性があり、メンテナンスも容易なことです。

 第5は、ツリーハウスづくりでまず床を張り、壁や屋根を組み立てていった経験でいえば、高床式の建物の建築においても掘っ立て柱をまず建て、貫で柱を固定して梁を通して床をかけて、それから屋根を葺き、壁を作ったとみて間違いありません。このような高床式建物の建築技術の延長で考えると、下から順に貫(ぬき)を通し、内部に内階段をもうけ、最上部に神殿を建造した可能性が高いと考えます。また、途中階をもうけた可能性も高いと考えます。このような高床式の建物は縄文時代に遡り、磨製石器を使った貫構造なども使い慣れていますから、大国主鉄器時代の技術者がその技術を継承していないなど考えられません。

 

 以上、稲吉角田遺跡の線刻画と「金輪造営図」の「引橋長一町」解釈の誤解から離れ、純粋に建築技術的に考えれば出雲大社は内階段・スロープであったことが明らかです。「直階段の出雲大社」が冬の爆弾低気圧や夏・秋の台風、地震などに耐えられるかどうか、構造シミュレーションで検証していただきたいところです。

 

6.「踊り場つき折れ階段」か、「廻り階段・スロープ」か?

 ① 三内丸山遺跡の6本の立柱、吉野ヶ里遺跡の6本柱の楼観、原の辻遺跡壱岐)の9本柱の楼観、吉野ヶ里遺跡の16本柱の主祭殿の復元例においては、「縦梯子」や「踊り場つき折れ階段(はしご)」が設けられています。

 縄文時代からの建築技術の継承性から考えると、出雲大社の9本柱にもまた貫や梁があり、内部に階段があったと考えるべきでしょう。  

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② 出雲大社がこれらの建物と大きく異なるのは、内部に「心御柱」がある正方形の平面である点で、建築思想からいえば「日本型の仏塔」に近く、建築技術的には廻りスロープの「会津さざえ堂」のような構造の可能性が考えられます。

③ 「踊り場つき折れ階段」か「廻り階段・スロープ」かでは、スロープの方が建造時の木材などの運搬や儀式に使用する物資の運搬はより容易ですが、技術的には「踊り場つき折れ階段」か「廻り階段」かと考えます。  

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7.神籬(霊漏ろ木)信仰の「天御柱」と出雲大社本殿の「心御柱

① 出雲の揖屋のイヤナギ・イヤナミ(伊耶那岐・伊邪那美)神話によれば、オノゴロ島(筆者説:自ずと凝った意宇川の沖積平野)に天下った時(筆者説:対馬暖流を海下った時)、そこには「天御柱」と「八尋(やひろ)殿」があり、その「天御柱」を二人は左右から廻り、セックスして国々や神々を生んだとされています。記紀では夫婦神が天下ったとしていますが、母系制社会の海人族の妻問夫招婚や揖屋神社の祭神がイヤナミ(伊邪那美:通説はイザナギ)であること、イヤナミが先に「あなにやし、えをとこ(あれまあ、いい男ね)」と声をかけたとしていること、出雲大社の始祖5神を「別天神(ことあまつかみ)」としていることからみて、壱岐対馬の海人族の「ナギ」が揖屋を訪れ、王女・イヤナミと結ばれ、入り婿名で「イヤナギ」と呼ばれたのではないかと私は考えています。

② 海人族の拠点であった壱岐は古くは「天比登都柱(天一柱)」と呼ばれており、現在まで続く諏訪大社広峯神社(姫路:牛頭天王総本宮)など各地の御柱信仰と御柱祭、各地の神社の神籬信仰からみて、高木(神籬=霊漏ろ木)から死者の霊(ひ)が天に昇り、降りてくるという天神信仰(霊(ひ)信仰)があったことが明らかです。

③ 紀元前3世紀頃からの吉野ヶ里遺跡の紀元前1世紀の王墓の前や、福岡県前原市の紀元前100年前頃の平原遺跡の王墓にも立柱があり、イヤナギ・イヤナミ神話の「天御柱」に符合しています。

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④ イヤナギ・イヤナミ神話の「八尋(やひろ)殿」は、両手を広げた長さの「尋」(1.8m)の8倍から14.4mになります。

 縄文時代青森市三内丸山遺跡の大型建物の長さが15m、出雲大社の正面幅13.4mはほぼ合致しており、縄文時代から大国主時代、古事記作成時まで同一スケールの建築技術が続いていたことを示しています。

 なお、「尋」(1.8m)の基本尺度は写真のように茅野市の縄文中期~後期後半の中ツ原遺跡の8本柱の建物にも見られます。

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⑤ 記紀によれば、大国主は自らの「住居(すまい)」の正面に始祖5神を祀り、霊(ひ)継ぎを行う「天の御巣」「御舎」とし、全国各地の百余国でもうけた180人の御子たちの霊(ひ)信仰=天神信仰の拠点としたのであり、その「天の御巣」「御舎」の中心に「心御柱」=「天御柱」を置いたのは、縄文時代から続く神籬(霊洩ろ木)に神が宿るという天神信仰よるものであり、後の日本式仏塔にも受け継がれたと考えます。

⑥ 魏書東夷伝の夫餘(ふよ)条の「殷正月を以って天を祭り、国中大いに会し、連日飲食・歌舞す」、高句麗条「居所の左右に大屋を立て、鬼神を祭り、また霊星・社稷を祀る」、濊(わい)条「十月節を用い天を祭り、昼夜飲酒・歌舞す、この名を舞天となす、虎を祭り以って神となす」、馬韓条(後の百済の地)「大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神に事(つか)える」、辰(しん)韓条(後の新羅の地)「大鳥の羽を以って死を送る、その意、死者をして飛揚せしめんと欲す」、弁辰条(辰韓と雑居)「言語・法俗相(辰韓に)似る、鬼神を祠祭するに異あり」と同様に、邪馬壹国もまた「鬼道」(孔子が礼・信・道の国と見ていたことに由来する)であり、鬼神(祖先霊)が天に昇り、降りてくるという天神信仰であったことを示しています。

⑦ ただし、大木を立てて鬼神を祀るのは馬韓(後の百済)だけであり、夫餘・高句麗・濊・辰韓・弁辰には巨木信仰が見られないことからみて、朝鮮半島海岸部の海人族は縄文人と同じルーツの南方系であることを示しています。

⑧ 出雲大社は「心御柱」を回る「廻り階段・スロープ」をもうけ、イヤナギ・イヤナミ(伊耶那岐・伊邪那美)の神籬(霊洩木)を霊(ひ)の依り代とする天神信仰を受け継ぎ、「心御柱=天御柱」を廻りながら「天の御巣」「御舎」に大国主やその一族が登った可能性が高いと考えられます。

 

8.建築思想・技術からみた縄文巨木建築と出雲大社倭人条楼観の連続性

 日本の古代史には3つの大きな疑問が私にはあります。

 第1は、「和魂漢才」「和魂洋才」の拝外主義的な考えが根強く、この国の建国を弥生人(中国人・朝鮮人)征服による外発的発展ととらえ、「遅れた縄文、進んだ弥生」という思い込みにより、旧石器時代から土器時代(縄文時代)、鉄器時代(鉄器水利水田稲作時代)への内発的発展を考えないことです。明治からの皇国史観の影響も加わり、縄文時代=未開人、稲作時代=中国文明を受け継いだ弥生人天皇家による建国という断絶史観がまかり通っていることです。

 私は縄文農耕から鉄器水利水田稲作への連続的発展説(弥生式土器時代はなかった説)であり、縄文人の宗教・産業・生活文化・技術がそのまま鉄器時代スサノオ大国主7代の「葦原中国」「豊葦原千秋五百秋の水穂国」建国に引き継がれたと考えています。

 第2は、明治~昭和にかけての天皇を現人神(あらひとがみ)とする皇国史観の影響を受け、敗戦後も「天皇中心史観」「大和中心史観」が維持され、記紀風土記に書かれ、各地の神社伝承や祭りとして残る紀元1~4世紀の海人族のスサノオ大国主一族の鉄器水利水田稲作革命による建国を無視し、縄文時代からのイモ豆栗6穀農業や土器鍋食文化、祖先霊信仰の霊継ぎ宗教への関心が薄いことです。

 第3は、戦後の反皇国史観による「記紀神話8世紀創作説」により、記紀や神社伝承の真偽の解明を放棄し、たまたま開発に伴い発見される遺跡・遺物中心の「ただもの史観」の考古学・歴史学となり、物証に合わせて都合よく記紀の一部をつまみ食いする手法が横行するとともに、諸外国の神話・伝承・民俗や「学者の数だけある」心理学説などから物証解釈を行う手法がとられていることです。

 以上のような考古学・歴史学の大勢として、縄文時代(土器時代)と鉄器時代(鉄器稲作時代)を断絶したものとしてとらえ、農耕論、建築論、宗教論、母系制社会論などを連続して分析する方法がとられておらず、「日本文明」は「中国文明」の一部であり、「インド仏教文化国」としてしか理解されず、「日本文明論」はもっぱら歴史家以外の一部の人たちによって提案されている状況です。

 縄文時代から続く霊(ひ)信仰の海神・地神・山神・木神・天神宗教、地中海とほぼ同じ大きさの日本海東シナ海での海人族である縄文人からの海洋交易活動、独自のDNA(日本人に多いY染色体亜型Ⅾ2は中国人・朝鮮人に見られない)、中国・東南アジアにはない「主語―目的語―動詞」の言語構造、「和語・倭音―漢語・呉音漢音」の三層構造などからみて、もはや根拠の乏しい「弥生人征服説」などからは卒業し、「日本文明論」を本気で構築すべき時です。

 現在、三内丸山6本巨木建築、中ツ原8本巨木立柱、出雲大社吉野ヶ里の楼観は別々に検討され、再現されていますが、全て同じ建築思想・技術によって造られた可能性について検証し、再現されるべきと考えます。

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 3日に1日は降雨があり、冬には雪が積もる三内丸山において、縄文人が屋根のない建物を建てたと考えるのは「縄文人バカ説」の現代人の思い上がりという以外にありません。また、諏訪の御柱祭からの影響からか、中ツ原遺跡の巨木穴からただ8本柱(それも高さの異なる4本ずつ)を立てて再現した、というのもまた私には理解できません。黒曜石やヒスイの交易からみて、三内丸山遺跡の6本巨木柱と中ツ原遺跡の8本巨木柱は同じ目的・用途の建築物として再現されるべきと考えます。

 魏使が「楼観」(周囲の景色を観るための高殿)と報告した建物が、屋根はあっても壁がない、途中に階がないなどと考えられるでしょうか? 魏使を報告文書を見た陳寿が適当に魏書東夷伝倭人条を書いたなどと誰が決めつけたのでしょうか?

 「楼観」なら途中階があるのではないでしょうか?単なる見張り台なら1~3本柱の上に数人が入れる小屋をもうければ十分です。戦闘用の櫓(矢倉)なら吉野ヶ里遺跡のように柵の内側に堀をもうけ、その内側に櫓を立て、逆茂木を置いたのでは防御施設にはなりません。大人数の戦士を配置させる巨大な櫓など必要なく、柵の内側に矢を射、槍で防戦する通路となる足場をもうければいいのです。建築思想・技術の連続性を考え、三内丸山6本巨木建築、中ツ原8本巨木立柱、出雲大社、原の辻・吉野ヶ里の楼観の復元案の再検討が求められます。

 

9.「日本列島文明」の記念碑的公共建造物

① 考古学者ゴードン・チャイルドは、文明と非文明の区別をする指標として、「効果的な食料生産」「大きな人口」「職業と階級の分化」「都市」「冶金術」「文字」「記念碑的公共建造物」「合理科学の発達」「支配的な芸術様式」をあげています。(ウィキペディアより) 

 この文明論の「非文明・文明」という区分そのものが西欧中心史観の「4代古代文明論」に立った古い発想であり、私はアジア・オセアニアアメリカの農業や食文化、交易、宗教、文化を含めた共同体文明論を構築する必要があると考えていますが、ゴードン・チャイルドの指標に「宗教論」と「共同体文化論」「海洋交易論」の3つを加えて日本列島の縄文時代(土器鍋食時代=煮炊き蒸し食時代)からの文明に当てはめて考えると次のようになります。

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② 梅原猛安田喜憲編『縄文文明の発見』が宗教論・集落論・栽培論・食文化・巨木文化などを展開し、三内丸山遺跡を「神殿都市」とする説(梅棹忠夫・小山修三氏)もみられますが、紀元1~4世紀のスサノオ大国主一族の建国との連続性の検討は弱く、産業・生活・社会・文化・宗教の総合的判断としての「縄文文明論」(土器文明論)の深化が求められます。

③ 縄文時代(土器時代)からスサノオ大国主の建国までを、「霊(ひ)信仰」という1つの連続した文明として見ると、死者の霊(ひ)が神奈火山(神那霊山)の磐座から天に昇るという天神信仰、海・川・大地と天を繋ぐ神使(蛇・鳥・狼・猿・鹿など)や木神・龍神雷神信仰、受け霊(ひ)・霊(ひ)継ぎの性器信仰(ストーンサークル・円形石組・石棒、金精信仰)、1.5万年の土器鍋食文明、霊(ひ)との共食を願う芸術性の高い縄文土器、「乗船南北市糴(してき)」の鳥船による米鉄交易で入手した鉄先鋤による「鉄器水利水田稲作」の開始、人口の爆発的な増加、環濠都市国家(城=き)の成立、鉄先鋤や朱、銅槍・銅鐸の製造、赤目砂鉄による吉備・播磨での製鉄の可能性、世襲王の誕生と専門職の成立、世界最高の木造の出雲大社の造営、石の宝殿・益田岩船の巨石文化、漢字を借用した独自の漢字書き下し文(万葉仮名用法以前の表意表音漢字使用)など、中国文明とは異なる海洋交易民の「日本列島文明論」は成立すると考えます。

④ この「日本列島文明論」のシンボルとなるのが、芸術的な縄文土器土偶、石棒と円形石組・ストーンサークル三内丸山遺跡の6本柱と中ツ原遺跡の8本柱の建物、48m以上の古代出雲大社、石の宝殿と益田岩船と私は考えており、特に「森と木の文化・文明」のシンボルとなる三内丸山遺跡・中ツ原遺跡・古代出雲大社の高楼神殿の解明と再現が重要と考えます。

⑤ 「三内丸山6本柱・中ツ原遺跡8本柱高楼神殿の復元プロジェクト」と「48m以上の古代出雲大社の復元プロジェクト」を「縄文文化・文明の世界遺産登録」「霊(ひ)信仰の出雲大社を中心とした世界遺産登録」運動のシンボルプロジェクトとして考えたいところです。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(『季刊 日本主義』40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(『季刊日本主義』44号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

  帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

  邪馬台国探偵団              http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/