ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

「日本文明論1 『農耕民文明・狩猟牧畜民文明』から『海洋交易民文明』へ」の紹介

 Livedoorブログに「日本文明論1 『農耕民文明・狩猟牧畜民文明』から『海洋交易民文明』へ」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 これまで、縄文時代は狩猟漁労・採取の未開時代、弥生時代から水稲栽培による文明社会、あるいは天皇家による古墳時代からが文明社会とされてきましたが、6つの視点(※)から日本文明の独自性・普遍性について解明・検討し、これからの日本・世界文明のあり方を展望したいと思います。
 近年、世界で「縄文」に関心が高まってきていますが、世界文明論として情報発信すべきと考えます。 雛元昌弘

 ※「グローカリズム(汎地域主義)の内発・外交文明」「多様なDNA民族の共通言語・文化文明」「交流・交易・外交の重視の海洋交易民文明」「霊継(ひつぎ: 命・DNAのリレー)の宗教文明」「妻問・夫招婚の母系制社会文明」「土器鍋による健康・長寿食文明」

「倭語論17 『いあ、いぇ、いぉ』『うあ、うぇ、うぉ』『おあ』倭語母音論」の紹介

 Gooブログの「倭語論17」として、「『いあ、いぇ、いぉ』『うあ、うぇ、うぉ』『おあ』倭語母音論」をアップしました。https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 例えば「海・海人・天」を「うみ」とも「あま」とも読み、「酒」を「さけ」とも「さか」とも読むのはなぜか、倭語(スサノオ大国主王朝の用法)に遡って検討を行っています。これまで、古事記日本書紀などの分析を、特に意識しないで、漢語(呉音・漢音)で分析してきましたが、倭語・倭音から分析しなおす必要があると思います。
 なお、私は土器(縄文)人の言語はそのまま倭語に引き継がれた、と考えます。雛元昌弘

 

「いあ、いぇ、いぉ」「うあ、うぇ、うぉ」「おあ」の倭語母音の表記例

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縄文ノート12 琉球から土器(縄文)時代を考える

  2017年6月に書いたレジュメ「『縄文と沖縄』~戦争なき1万年」は、大幅に加筆して「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」として『季刊日本主義』40号(171225)に掲載しましたが、この小論は元のレジュメのタイトルを変え、海人族の分布、Y染色体亜型の分布、「稲作伝搬図」と「主語・目的語・動詞・言語部族の移動図」などを加えたものです。
 日本民族南方起源説からの海人族による土器(縄文)時代論です。 雛元昌弘

はじめに

 2013年から大先輩の上田篤氏(京大建築学助教授→阪大教授→京都精華大教授)が主催する「縄文社会研究会」に、私は古代史(スサノオ大国主建国論)からのアプローチで参加してきました。
 そして、「海人族(あまぞく:漁労・交易民)論」「霊(ひ)信仰論(自然信仰説・太陽信仰説批判)」「スサノオ大国主一族による鉄器稲作による国家統一論(米鉄南北交易論:弥生人征服説批判の縄文人自立発展史観)」「大国主の妻問い婚による百余国の統一(母系制社会と父系制社会の融合論:武力征服史観批判)」「石器―土器―金属器時代区分論(ドキドキバカ時代区分説批判)」「母系制社会の地神(地母神)・海神信仰から父系制社会の天神信仰への移行」「卑弥呼モデルのアマテラス創作神話説」などを提案してきました。

 

    「セキ・ドキ・ドキ・バカ時代区分」から、「石器・土器・鉄器時代区分」へ f:id:hinafkin:20200314122308j:plain

  この会は考古学・歴史学の専門家ではなく、様々な分野から、縄文時代(私は土器時代説)の「生活・社会・文化」の解明をこれからの社会・文化目標として位置づけようというユニークな会で、考古学の「物」分析中心の「タダモノ史観」ではなく、生活史・文化史・宗教史・経済史や気象学・生態学などからの検討を進めてきました。上田氏は専門の建築史・住居学や、沖縄とアメリカ原住民の「社会・文化」を手がかりにした解明を進め、私は古代史や言語学、地名学、宗教学などからのアプローチを行ってきました。
 今回、私が住むさいたま市の「カフェギャラリー南風」オーナーの山田ちづ子氏が主宰する第2回「沖縄の歴史に学び、平和を祈るツアー」(2017年6月15~18日、埼玉・沖縄文化交流会)に参加し、沖縄の歴史・文化から縄文社会解明の様々な手掛かりをえることができましたので、本稿をまとめました。
 久賀島などに残された宗教儀式・伝承や、今回、訪れたガンガラーの谷の2万年前の人骨や石垣島白保竿根田原洞穴遺跡の2万7千万年前の19体の人骨などのDNA分析により、石器時代からの日本民族形成の歴史が明らかになる可能性あり、私は石器・土器時代の海人族(漁撈・交易民)の文化遺産として世界遺産登録が可能と考えます。さらに、それは霊(ひ)信仰の繋がりにおいて、出雲大社世界遺産登録に繋がるものと考えます。

1 沖縄と出雲を繋ぐ勾玉(曲玉)

 首里城には、琉球神道における最高神女(ノロ)である「聞得大君」(きこえおおぎみ)が儀礼の時に身に着ける首飾りが展示してありましたが、越・糸魚川~出雲・玉造由来の翡翠の「勾玉(曲玉)」信仰が沖縄でも続いていることを示しています。

 

    聞得大君(きこえおおきみ)が儀礼の時に身に着けた曲玉(勾玉):首里城展示

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  勾玉(曲玉)は石垣島から沖縄本島の各地でも発見されていますが、土器時代から沖縄と日本海を結ぶ「ヒスイの道」があり、共通の宗教圏を構成し、それが女性によって担われていたことを示しています。
 勾玉については、動物牙形説、胎児形説、魂(霊)形説、破損耳飾再利用説などがありますが、これらの説は「形状論」からですが、私は「宗教論」(機能論)から分析し、「胎児形を模した霊(ひ)信仰のシンボル」と考えています。
 霊(ひ=魂=祖先霊)が親から子へ、さらに孫へと代々受け継がれていくという信仰から、「胎児形を模した玉」が「先祖代々受け継がれていく霊(ひ)のシンボル」となり、神女が身に着けたのであり、意味もなく「胎児形」を好んだのではありえません。
 さらに、首里城ガイド役の赤瓦ちょーびん氏(民俗学専攻)の説明では、首里城首里森御嶽(うたき)はもともと祖先神が葬られた場所であり、各地の御嶽も起源は墓地であり、祖先霊を祀る場となった、ということでした。

 

                                     首里城首里森御嶽(うたき)

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  勾玉と御嶽という、現代にまで続く沖縄の宗教は、霊(ひ)信仰であり、さらに、女性が霊(ひ)信仰を担う宗教であることを示しています。

2.海人(漁労・交易)族論

 北海道など東日本の多くの縄文遺跡から発見されるイモガイやオオツタノハ貝などのうち、イモガイ・ゴホウラ・スイジガイなどの多くは奄美群島以南に産し、沖縄諸島などではこれらを大量に加工したとみられる遺跡も見つかっています。

 

                   イモガイ・ヒスイ・黒曜石・アスファルトの交易図 

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  1988年に発掘された有珠モシリ遺跡から見つかった貝輪は、ダイミョウイモという琉球諸島以南の貝であることが明らかとなり、日本海に「貝の道」があったことが証明されました。ガンガラーの谷の武芸洞の約3千年前の人骨は巻貝のビーズの腕輪を付けており、北海道など東日本に多い貝輪の装飾文化との連続性が見られます。

 

    有珠モシリ遺跡の「イモガイ」で作られた約2000年前のブレスレット(伊達市HP)

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  一方、糸魚川のヒスイは北は北海道、南は種子島にヒスイ製大珠が運ばれており、海人族の交易が琉球から北海道まで活発に行われていたことを伺わせます。
 領土を奪い合う戦国時代からの発想ではなく、縄文時代1万年の海人族の「海洋交易」の戦争なき歴史から、わが国の歴史観は再構築する必要があると考えます。

3.煮炊き土器鍋からの土器文明論

 これまで、「縄文土器時代―弥生式土器時代―古墳時代」「縄文時代弥生時代古墳時代」という世界史の歴史区分から孤立した「ドキドキバカ」「ドキイネバカ」のガラパゴス的時代区分が行われてきましたが、「紀元前400年頃の稲作開始と米保存用の弥生式土器」という時代は合わず、稲作開始は紀元前1000年頃の縄文土器時代に遡り、もはや「弥生時代はなかった」というべきです。
 では、「石器時代」からいきなり「鉄器時代」とすべきかというと、私は「土器時代」を置くべきと考えます。水や穀類を運ぶ土器がないと長い航海はできず、土器による煮炊き食文化は石器時代とは大きく生活・文化・生産様式を変えたと考えるからです。雑穀やイモなど多様な食材は土器鍋による「煮炊き」によって容易に食べられます。
 「丸木舟時代」と「土器鍋時代」という2点において、日本列島は「竹筏時代」「石器時代」とは異なる時代に入ったと考えます。肉食文化圏の武器発展史観からの発想である「石器―金属器」の時代区分ではなく、生産・生活文化から「石器―土器―金属器」時代区分に変えるべき、と私は提案してきました。
 沖縄には縄文・弥生土器がなく、米作の普及が遅れたため、これまで、沖縄には「縄文―弥生時代」はなく、「貝塚時代」とすべきという考えがみられますが、「土器時代」という時代区分を日本列島全体の歴史区分とすることによって、沖縄を含めて日本列島共通の時代区分として世界に提案できると考えます。
 この時代には縄文土器だけでなく、無文土器、押型文土器、条痕文土器、圧痕文土器、刺突文土器、沈線文土器、隆線文土器などがあり、「縄文時代の土器すべてが縄目文様を施すわけではなく、さらに縄文時代を通じて土器に縄文を施さない地域もある」などというのですから、「弥生式土器時代」と同様に「縄文土器時代」の名称もまた考古学者の世界だけのインチキ名称であり、「沖縄にも土器時代があった」としなければならないと考えます。「沖縄には縄文式土器がなかった」という主張はそのデザイン分類基準そのものが意味のないものであったのです。
時代区分として注目すべきは、石器とは異なる土器鍋による煮炊き食文化と水・穀物の保存・運搬機能であり、土器のデザインや製法ではありません。
「ガンガラーの谷」内にあるサキタリ洞からは約8,000年前の土器が見つかっており、「沖縄の土器時代」の解明が進められる必要があります。

 

                                    サキタリ洞から約8,000年前の土器

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  この沖縄の「土器時代」には「貝の道」「ヒスイの道」と同様に、日本列島全体で土器の交流が行われていたことを示しています。
縄文時代前期(約5,000年前)の曽畑式土器は、朝鮮半島南部の釜山市にある東三洞(とうさんどう)貝塚から九州全域,さらに沖縄の読谷(よみたん)村の渡具知東原(とぐちあがりばる)遺跡,同県北谷(ちゃたん)町の伊礼原(いれいばる)C遺跡などに及び、海人族は対馬暖流に乗って琉球から朝鮮半島まで活発に交流・交易を行っていたと考えられます。

 

                             曽畑式土器の分布(鹿児島県上野原縄文の森HPより)

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  海や舟を知らない漢字・漢文大好きな考古学者には、文化は中国・朝鮮からくるものと思い込んでいる人が多いようで、曽畑式土器もまた朝鮮半島からきたとしてる説をみましたが、交易・交流を担った琉球の海人族の役割や分布中心の南九州から南北に広がった可能性こそ考えるべきと思います。
 芋・雑穀・野菜・魚介類・肉の「土器鍋煮炊き食文化」は、栄養豊富なバランス食であり、安定した通年の食料確保を可能とし、食中毒や生活習慣病のない健康な食生活が実現できました。その結果、長寿化によって祖父母から孫世代への教育・技術・文化・芸術の継承を可能にしました。
 この「祖父母→孫教育体制」は、忙しい「父母→子教育体制」よりも優位性があり、世界史でもまれな1万年の豊かで平和な「土器時代」が可能となったと考えます。あの火炎式などの芸術性の高い縄文土器は、この教育システムと豊かな生産力による分業体制がないと難しいのではないでしょうか?

 

4.「海の道」稲作伝搬論

 かつては稲作は何の根拠もなく朝鮮半島からと信じられてきましたが、現在、揚子江ルート(長江文明)から稲作が伝わったとする説が主流となりつつあります。しかしながら、倭音・呉音・漢音の単語を駆使して中国文明の影響を強く受けながら「主語―動詞―目的語」言語構造に変えることなく、「主語―目的語―動詞」言語構造を維持し続けていることからみて、私はミャンマー南インドからの海の道による稲作伝搬説(熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの2段階)を提案しています。
紀元1世紀の「委奴国」は「禾+女+女+又」の国であり、「倭国」は「人+禾+女」の国で、女性が稲を女性器、人に奉げる国であり、「委奴=いな=稲」の国を国名していたのです。

                         熱帯ジャポニカ・温帯ジャポニカの稲作伝搬図
    (『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)より)

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                      「主語―目的語―動詞」言語部族の拡散(前同)

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 これまで長江流域あるいは南方からの「海の道」稲作伝搬説が主流とならなかったのは、歴史学者たちが舟や竹筏に疎かったのに加えて、琉球での米栽培の痕跡が見られなかったからです。
 稲作が琉球を素通りしたのは、石灰岩台地上の石灰質土壌には保水力がなく、そもそも琉球では水田稲作が難しく、それに加えて頻繁に来襲する台風が稲作を困難にしたからと考えられます。さらに、芋・雑穀・野菜・魚介類・肉・果物の豊かな「土器鍋煮炊き食文化」があったため、強制力・集団力を必要とした労働力集約型の稲作が受け入れられなかった、という社会的要因も考えられます。苦労して稲を栽培しなくても豊かに暮らしていけたのです。
 1950~60年代に瀬戸内海で育った私の経験だと、海に釣りにいくとすぐに飽きてしまうほどキスやテンコチは釣れましたし、貝もいくらでも採れました。琉球でも同じような状態であったなら、苦労してリスクの多い稲作を始めたとは思いません。琉球に稲作が定着しなかったからと言って、琉球経由で本土に稲作が伝わったことを否定はできません。
 沖縄の歴史についてはまだほんの少し本をかじった程度であり、煮炊き土器文化、特に芋文化(里芋・山芋)や雑穀文化などの学習・調査はこれからです。

 

5.母系・父系制社会論

 今でも漁村では、家計は女性が握っていて女性の地位が高く、漁民社会であった縄文人もまた母系制であった可能性が高いと言えます。海にでる男性はいつも死と隣り合わせであり、魚との物々交換・売買など家の経済や子育ては女性に任せる、という漁民・海洋交易民の伝統は石器・土器時代に遡るとみるべきと考えます。一方、海の上は男性社会であり、舟の継承などは男系であったと考えられます。
 古事記は、この国の始祖神を、天之御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日(たかみむすび)(日本書紀:高皇産霊(たかみむすひ))、神御産巣日(かみむすび)(同:神皇産霊(かみむすひ))、宇摩志阿斬訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)、天之常立の5神とし、この5神は出雲大社正面に祀られ、皇居には祀られてはいません。さらに、アマテル(本居宣長のアマテラス読みは採用しません)もスサノオもその父母のイヤナギ・イヤナギも皇居には祀られていません。なお、伊邪那岐伊邪那美はこれまでイザナギイザナミと読まれてきましたが、彼らは出雲の揖屋(いや)を拠点としており、地名から名前をとることが多いことからイヤナギ・イヤナミと読むべきと考えますが、これらの神々は全て出雲の神々であり、天皇家の祖先でないことは明白です。
 特に神皇産霊(かみむすひ)は霊(ひ)を産む女性神であり、大国主の「御祖」として彼を死から2度も蘇らせ、出雲神話では重要な「御祖」の役割を果たします。また、アマテラス神話は天皇家の始祖を女性としている点に留意すべきであり、古事記神話を採用するなら母系天皇こそこの国の伝統として位置づけるべきと考えます。
 さらに古事記に書かれた大国主神話では、「打ち廻る 島の崎崎 かき廻る 磯の崎落ちず(もれず) 若草の 妻持たしめ」と妻のスセリヒメが嫉妬して歌ったように、大国主は海を廻って180人の御子を島々や磯ごとにもうけたとされ、その範囲は越から筑紫まで及んでいます。古事記には越の沼河比売を訪ねて門前で歌を交わし、婚(よば)いした時の様子が記載されており、妻問婚であったことが明らかです。なお、漢書地理志と魏書東夷伝倭人条に書かれた「100余国」の王は、もし大国主が各国に2人の御子を設けたとすれば「180人の御子」とほぼ合致し、記紀に書かれた神々の中では、大国主以外に百余国の王ははありえません。
 さらに、日本書記・豊後風土記に書かれた女王国は図のように九州各地に及んでおり、古事記では紀ノ國にも女王がいたとされています。また、播磨国風土記でも各地に女王がいたことが明らかです。

 

                                   日本書記・豊後国風土記の女王国

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 久高島は琉球創世神アマミキヨがたどり着いて国づくりを始めたとされる琉球神話の聖地とされ、「男は海人、女は神人」の諺が伝わっています。琉球王朝時代に沖縄本島最高の聖地とされた斎場御嶽(せいふぁうたき)は、この久高島に巡礼する国王が立ち寄った御嶽であり、久高島からの霊力(セジ)を最も集める場所と考えられていました。イザイホーは12年ごとに、ニルヤカナヤ(ニライカナイ)から神を迎え、すべての既婚女性は30歳を越えると神女となるという儀式が伝わっていました(1990年から休止)。
 これらの文献や伝承からみて、日本はもともとは母系制社会であったと考えられ、その古い歴史を沖縄では現在も伝えています。

 

                              久高島のイザイホー(ウィキペディアより)

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6.霊(ひ=祖先霊)信仰論

 新井白石は「人」を「ヒ(霊)のあるところ(ト)」とし、角林文雄氏は『アマテラスの原風景』の中で、「姫」「彦」「卑弥呼」「聖」を「霊女」「霊子」「霊巫女」「霊知り」と解釈しています。さらに、「大日孁(オオヒルメ:アマテル)、蛭子」は、「大霊留女、霊留子」と見られます。
 前述のように『古事記』で天之御中主神に次いで2番目・3番目に登場する神は高御産巣日(たかみむすひ)・神産巣日(かみむすひ)ですが、『日本書紀』では「高皇産霊」「神産霊」と書かれていることからみて「日」=「霊」であり、この二神は序文で「二霊群品之祖」としていることからみても「霊(ひ)」を産んだ夫婦神と見られます。王や天皇の王位継承儀式の「日継(ひつぎ)・日嗣(ひつぎ)」は「霊(ひ)継ぎ」、「柩・棺」は「霊(ひ)を継ぐ入れ物」、「神籬(ひもろぎ)」は「霊洩ろ木:後の御柱」であり、霊(ひ)信仰を示しています。
古事記では、アマテルとスサノオの「宇気比(うけひ=受け霊)」により、アマテルの勾玉(まがたま)から天皇家の祖先が産まれたとしており、出雲では現在も女性が妊娠すると、「霊(ひ)が留まらしゃった」と言い、茨城では死産のことを「ひがえり(霊帰り)」といっています。
 『和名抄(和名類聚抄:平安時代中期の辞書)』では、クリトリス(陰核、さね)のことを「ひなさき(吉舌、雛尖、雛先)」といい、茨城・栃木では今もその名称が残っていますが、古くは女性器を「ひな」(霊の留まる場所。はな、あな、なら等から「な」は場所を指す)と言っていたことが明らかです。熊本県天草郡の 方言では「ひな」は ずばり、女性器の名称です。沖縄の旧平良市(現宮古島市)や与那国村では女性器を「ヒー」と言い、古代からの「霊(ひ)が留まるところ」という用法が現在に続いているといえます。
 今回、首里城ガイドを務めていただいた赤瓦ちょーびん(砂川正邦)氏と比嘉正詔氏に質問した限りでは、沖縄が祖先霊信仰の地であることが確認でき、首里城首里森御嶽(うたき:神話の神が存在・来訪する場所であり、祖先神を祀る場)や、ガンガラーの谷の崖を利用した石積みのお墓の前でも祖先の祭を行っているというガイドの説明を受けました。

                           ガンガラーの谷の崖を利用した石積みのお墓

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  この国は死ぬと誰もが神(鬼)となる「鬼道(魏書東夷伝倭人条)」の「霊(ひ)の国」、祖先霊信仰の「八百万神(やおよろずのかみがみ)」の国だったのですが、天皇家徳川幕府による仏教の国教化(死ぬと仏になる)と、明治以降のアマテラス太陽神一神教のオカルト神道により、「八百万神(やおよろずのかみがみ)」の霊(ひ)信仰は否定され、縄文・古代は「自然神信仰」「精霊信仰(アニミズム)」であるする歪曲が未だに通説となっています。
 また子孫に祀られない非業の死を遂げた人が「怨霊」になって祟るのは、霊(ひ)信仰の裏返しである「怨霊信仰」ですが、赤瓦ちょーびん氏の話しでは沖縄には怨霊信仰はないとのことでした。「鬼」については、写真集『糞から金蠅』の金城実氏と意見交換するつもりでしたが予定が合わず、次回に持ち越しです。

7.「東鯷人」(とうていじん)=琉球人説

 漢書地理志/燕の条には、「然して東夷の天性柔順、三方(注:南蛮北狄西戎)の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、もし海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分かれて百余国を為す。歳時をもつて来たりて献見すると云う」と記されています。
なお、孔子が行きたいと願った九夷とは、『爾雅』を注釈した李巡(漢霊帝のときの中常侍で、皇帝の傍に侍り、様々な取次ぎを行い、絶大な権力を誇った)が『夷に九つの種がある。一に玄莵、二に楽浪、三に高麗、四に満飾、五に鳧更、六に索家、七に東屠、八に倭人、九に天鄙』と記しており、これによれば「天鄙(テンヒ:あまのひな)」は「倭人」よりもさらに先に位置していることが明らかです。この霊帝のころ、我が国では、7~80年続いた「百余国」(私はスサノオ大国主7代の国と考えています)が大国主の退位(国譲り)後の後継者争いで反乱し、30国が分離・独立し、内部抗争の後に卑弥呼によって邪馬壹国として統一されたと考えています。
九州に30国の邪馬壹国があり、残る70余国が大国主系の出雲とスサノオの子の大年(大物主)系の美和の連合国がその東にあり、「八に倭人、九に天鄙」となったと考えます。
 さらに漢書地理志/呉の条には、「会稽(注:浙江・福建省)の海外に東鯷人有、分かれて二十余国を為す。歳時を以て来たりて献見すると云う」と記されています。

                       

          楽浪海中の「倭人」と会稽海外の「東鯷人」

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  楽浪郡が置かれたのは紀元前108年から西暦313年であり、漢書地理志が書かれたのは紀元1世紀で、書かれた内容は紀元前1世紀頃の頃からとされています。
 この「東鯷人」については、これまで「倭人」と同じとする説が見られますが、起点が「会稽」と「楽浪」、国の数が「二十余国」と「百余国」で明らかに異なっており、別の地域とみるべきと考えます。
 「鯷」(てい又はだい)は中国では「ナマズ(鯰)」とされていますが、漢字が明らかに違う上に、海中にナマズがいるはずはありません。国訓では「ヒシコ」(ヒシコイワシ:カタクチイワシのこと)とされており、この呼び名は沖縄・東京・水戸で今も残っており、地理的条件からみて「東鯷人」は「ヒシコ」を獲っていた沖縄人を指し、後の呉の国と交流・交易があったと私は考えます。
 このように、琉球漢書地理志に書かれた紀元前1世紀頃には呉と交流・交易(朝貢貿易)し、燕と交流・交易していた「倭人」(後に倭人と天鄙に分裂)とは別の地域でした。

8.「海人(あま)」族の分布

 琉球開びゃくの祖は「アマミキヨ」とされていますが、図のように北に行くと「天城町」や「奄美大島」があり、九州には「天草」や「甘木」「天瀬」「天久保」「天ケ原」、隠岐には「海士(あま)(古くは海部)」などの地名があります。

 

                                あま(天、甘、海士)地名の分布 

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  「アマミキヨ」については、「天照大御神」の名前から創作されたという大和中心史観の解釈が見られますが、地名から名前を付けられることが多いことから見て、元々、琉球の地が「あま」と呼ばれており、人々の北上(黒潮対馬暖流の海人下り)とともに、各地に「天(あま)」地名が広がったと考えられます。
 和語の「あま」は漢字で書くと「海、海人、海士、海女、海部」と書かれるように、旧石器・縄文時代には「海」「海人」を指していたと思います。
出雲大社正面にはこの国の始祖神「天御中主(あめのみなかぬし)」から始まる「別天神(ことあまつかみ)5柱」が祀られていますが、この出雲大社の神使は「龍神(りゅうじん)様」とされ、神在月(出雲以外は神無月)に稲佐の浜では「龍蛇(りゅうじゃ)神」が神々を迎える神迎神事が今に続いています。海で死ぬことの多い海人族は、海の底に死者の国=龍宮があると考えていたのです。
古事記作成を太安万侶に命じた「天武天皇」の元の名が「大海人皇子」であることからみても、「天=海人=あま」であり、古事記の始祖神「天御中主(あめのみなかぬし)」は元は「海御中主・海人御中主」であり、壱岐の「那賀(なか)、仲触(なかふれ)、立石仲触(たていしなかふれ)」などの地名が残るあたりを中心とした玄界灘の海人族の王であったと考えられます。この壱岐の北端には「天ケ原」の地名があることをみても、海人族の拠点であった可能性は高いといえます。
 なお、琉球の始祖の「アマミキヨ」は海の彼方のニライカナイから来たと伝わっていることからみて、中国大陸からではなく、南方から黒潮に乗ってやってきたことを示しています。

9.DNA分析について

 DNA分析については、私には基礎的知識が欠けており確かなことは言えませんが、石器時代から絶え間なく多くの人々がこの地にたどり着き、活発に交流・交易・妻問夫招婚を繰り返して多DNA民族となった、という点は確かではではないでしょうか。
 フィリピンや台湾のような多言語・多文化の多民族にならなかったのは、部族単位での大移動はなく、単身の男性漂着者や戦乱を逃れた男性が絶え間なく母系制社会に漂着し、活発な交流・交易・妻問夫招婚が行われ、単一言語・文化の土器(縄文)社会が形成された可能性が高いと考えます。

                   東南アジア人・モンゴル人・中国人・日本人のDNA
               (斎藤成也監修『DNAでわかった日本人のルーツ』)

 

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  仮に土器(縄文)時代の1万年の間に毎年10人が漂着したとすれば、10万人の人口になります。しかも、7300年前の喜界カルデラ噴火(巽好幸神戸大教授による破局噴火)では西日本は壊滅的な打撃を受けており、4世紀後半の崇神天皇期には「伇病多起、人民死為盡(役病が多く起こり、人民が死に尽きんとする)」(古事記)、「民有死亡者、且大半矣(民の死者あり、まさに大半であろう)」「百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之(百姓流離し、あるいは背叛し、その勢い徳をもって治め難し)」(日本書紀)という大疫病が発生しており、日本人の東西の人口構成は大きく変わった可能性があり、土器(縄文)時代人と現代人のDNAを比較する上ではこの変動を考慮する必要があります。
 
                7300年前の喜界カルデラ噴火による火砕流と火山灰の範囲

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  縄文社会に大挙して弥生人朝鮮半島あるいは揚子江流域から稲作技術を持って渡来し、九州・中四国・近畿などでは縄文人を征服・駆逐して、大和朝廷を建国したというような「征服王朝史観」はDNA分析、言語分析、稲作分析、人口論などから否定されている、と見てよいと思います。
 前掲の図15(図はいずれも『DNAでわかった日本人のルーツ』による)のように、縄文人のDNA分析例はまだまだ乏しく、それを現代の本土日本人、アイヌ人、琉球人、中国人と並べて分析したのでは確かなことは解らない、という段階と考えます。
 今後、沖縄で相次いで発見されている新旧石器人などの骨からDNA分析ができれば、旧石器時代から日本にたどり着いた人々のルーツが明らかとなり、人類拡散の海上ルートについて新たな発見ができる可能性があります。
 下図の「Y染色体亜型」の分布からみると、日本列島に見られる「Ⅾ」型(図の黄緑色)はチベットにしか見られず、「O型」がミャンマーに見られることからみて、このあたりの地域で熱帯ジャポニカから変異した温帯ジャポニカタロイモやヤムイモとともにわが国に伝わったのではないでしょうか?西アフリカのニジェール川流域が原産地のひょうたんと種子が若狭の鳥浜縄文遺跡や靑森の三内丸山遺跡で発見されていることからみても、ひょうたんを水タンクとして海の道を竹イカダなどで「海の道」をやってきた可能性が高いと考えます。

 

          Y染色体亜型の分布(中田力『科学者が読み解く日本建国史』より)

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 なお「O型」は中国からきたとも考えられますが、日本語が「倭音、呉音、漢音」を併用しながら、中国や東南アジアの「主語―動詞-目的語」言語構造を受け入れず、「主語-目的語―動詞」言語構造を維持し続けているいることからみて、旧石器人・土器(縄文)人のルーツはインド東北部からミャンマーにかけての山岳地帯であると考えます。
 神澤秀明氏は『縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く』において、下図のように縄文人早期渡来説を唱えており、わが国への「熱帯ジャポニカ陸稲)」「温帯ジャポニカ水稲)」の2段階の導入や言語構造論と符合します。

 

                 核ゲノム解析による新たな仮説(縄文人早期渡来説)
   ―神澤秀明氏 生命誌ジャーナル「縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く」より―
     (https://www.brh.co.jp/publication/journal/087/research/1.html

 

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  今後、琉球人の旧石器時代・土器時代の人骨はさらに発見される可能性が大いにあり、本土の土器(縄文)人とともにDNA分析が進み、チベットミャンマーから移住も考えられます)やミャンマーの人たちとのDNA比較ができれば、彼らが琉球にもっと早く到達し、その後、黒潮対馬暖流を北上して展開し、中国大陸や朝鮮半島、北方から何度も様々な人たちが流入して現日本人が形成されたという「土器(縄文)人南方起源説」が証明される可能性は大いにあると考えます。

 

                                        『竹筏ヤム号漂流記』

      (1977年に倉嶋康毎日新聞記者raが行ったフィリピンからの航海記)

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縄文ノート11 「日本中央部土器(縄文)文化」の世界遺産登録をめざして

 2015年6月に「金精信仰と神使(しんし:みさき)文化を世界遺産に」を書き、その最後の部分の世界遺産登録について書き、7月には「大湯環状列石三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰―北海道・北東北の縄文遺跡群の世界遺産登録への提案」を書き、『季刊日本主義31号』に発表しました。
 この2つの小論を受け、9月に「群馬・新潟・富山・長野縄文文化世界遺産登録運動」を提案しましたが、本論では黒曜石分析や縄文農耕などを加え、対象地域を山梨・神奈川・東京へ広げ「日本中央部土器文化遺跡群」とし、「縄文文化」を世界初の「土器鍋食文化」としてとらえ、「土器(縄文)文化」の名称に変えて書き換えたものです。 雛元昌弘

1.「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録の取り組み

 「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録は2006(平成18)年に青森県から始められ、翌年の北海道・北東北知事サミットにおいて4道県の共同提案の合意がなされ、2008年に文化審議会文化財分科会において「北海道・北東北の縄文遺跡群」の暫定一覧表への記載が決定され、2009年にユネスコ世界遺産委員会事務局(ユネスコ世界遺産センター)において「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」として世界遺産暫定一覧表に記載されました。
 2013年に世界遺産登録推薦書協議案を文化庁へ提出し、2015(平成27)年 3月に世界遺産登録推薦書素案を文化庁へ提出しています。
縄文遺跡群は、北海道6遺跡、青森県9遺跡、岩手県1遺跡、秋田県2遺跡の計18遺跡です。
 提案自治体は北海道、青森県岩手県秋田県の4道県と、北海道3市2町、青森県4市2町、岩手県1町、秋田県2市の合計14市町です。

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2.「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録の特徴

 この「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、日本最大級の縄文集落跡である特別史跡三内丸山遺跡(青森県青森市)や大規模な記念物である特別史跡大湯環状列石(秋田県鹿角市)を中心に、北海道から北東北に残る数多くの縄文遺跡を網羅したもので、約1万年もの長きにわたって営まれた、高度に発達・成熟した世界史上稀有な先史時代の遺跡群として、次のように位置付けられています。

① 北海道・北東北の縄文遺跡群は、本格的な農耕と牧畜ではなく、狩猟・採集・漁労を生業の基盤に定住を達成し、成熟した縄文文化へと発展を遂げた先史文化の様相を伝承する無二の存在である。 

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 円筒土器文化や亀ヶ岡文化など、縄文文化を代表する文化圏が栄えた中心地域で、世界最古の一つである土器や漆器が出土し、また、精神文化に関わる土偶や大規模な環状列石が集中するなど、縄文文化の特徴を強く裏付けており、物質的、精神的に成熟した縄文文化の発展を示している。

② 北海道・北東北の縄文遺跡群は、約1万年間もの長期にわたり気候変動や環境変化に適応し持続可能な定住を実現した、自然と共生した人類と環境との関わり、土地利用の形態を示す顕著な見本である。 

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  縄文文化は、「最終氷期から後氷期にかけての急激な温暖化によって生まれた、世界的にも希な生物多様性に恵まれた生態系に適応し、約1万年間もの長期にわたって持続可能な定住を実現」「ブナを中心とする落葉広葉樹が広がる自然環境に、クリやクルミ、ウルシなどの有用植物で構成する縄文里山と呼ばれる人為的生態系を成立させて生業を維持」「集落遺跡は、住居、墓、貯蔵穴、祭祀空間、捨て場、道路などが計画的に配置されており、一定の社会的規制のもとに継続的に利用されており、人類と環境の交渉と、土地利用形態を代表する顕著な見本」とされています。

 ただ、私は次の点でその分析・評価には疑問を感じています。
① 現代の和食のルーツである世界初の健康で安定した「土器鍋食文化」に触れていないこと。
② 「イモ・雑穀農耕文明」の可能性について触れていないこと。
③ 南方系の海洋交易民であった「海人族文化」について触れていないこと。
④ 性器信仰など霊(ひ)信仰について触れていないこと。
⑤ 海人族の母系制社会であった可能性について触れていないこと。

3.「日本中央部土器文化」の特徴

 「北海道・北東北の縄文遺跡群」と比べて、「日本中央部(群馬・新潟・富山・長野・山梨・神奈川・東京)土器文化」には次のような特徴があり、新たに世界遺産登録を進めるべきと考えます。

(1) 世界遺産登録の「6 顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある」の基準を満たす遺跡であること。

① 母系制社会を示す地母神信仰の遺跡・遺物と宗教行事が残っている(性器信仰、片品村の赤飯祭り、女体山・男体山・金精山信仰、神使の猿追い祭り、女性土偶、黒曜石・ヒスイ妻問交易圏など)。
② 全ての死者を神として祀る多神教の、再生と子孫繁栄を願う霊(ひ=祖先霊)信仰の宗教行事が残っている(片品村の赤飯祭り、金精信仰、神使の猿追い祭りなど)。
③ 豊かな山海の食料確保(雑穀・イモの縄文農耕の可能性あり)の健康長寿の土器鍋食による安定した社会を背景に、世界最高の芸術的な装飾土器など多様なデザインの土器が数多く出土している(新潟県の火炎土器、浅間山麓のメガネ状突起の焼町土器など)。
④ 高度に洗練されたデザインの土製耳飾りや女性像などの造形文化を残している(榛東村の耳飾り館、女性土偶など)。

(2) 世界遺産登録の「3 現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。」の基準を満たす遺跡であること。

① 文明発展史に世界初の「石器―土器―金属器文明」の時代区分を提案する、「土器鍋料理の穀実・魚貝食文明」の痕跡を残す遺跡である(各地の縄文式尖底土器や貝塚など)。
② ロシア沿海地方朝鮮半島・沖縄にまで広がる広域的な「黒曜石交易」の海洋交易民文明が成立していたことを示す遺跡・遺物群である(日本最大の黒曜石鉱山の長野県鷹山遺跡など)
③ 世界最古の全国に広がる「妻問夫招婚交易文化圏」(貝とヒスイ文明圏)の存在を示す糸魚川ヒスイ原産・加工地がある。

4.「日本中央部土器文化」の世界遺産登録運動の推進

 この「日本中央部(群馬・新潟・富山・長野・山梨・神奈川・東京)土器文化」の世界登録運動は、「土器鍋を使った穀実・魚貝食文明」「航海交易民文明」「母系性社会」「地母神信仰」「祖先霊信仰」「高度な芸術文化」が1万年の土器(縄文)時代にあり、これからの世界の文明・文化のあり方に大きなヒントを与える取り組みです。
 そして、「男性による武力征服史観」「肉食(マンモスハンター)史観」「石器・金属器の武器文明史観」「農耕・牧畜明文明史観」「一神教史観」に対し、「妻問夫招婚と交易による共立国史観」「穀実芋・魚介の土器鍋食文化史観」「石器・土器・鉄器の生活・生産手段史観」「海洋交易民史観」「死ねば誰もが神になる八百万神の霊(ひ)信仰史観」を提起し、世界の文化・文明化観に変更を迫るものとなります。
 これまで世界では「石器時代金属器時代」の文明区分が行われていたのに対し、わが国では「石器時代縄文時代弥生時代古墳時代」というガラパゴス的時代区分が使われてきましたが、「土器鍋を使って煮炊きする穀実芋・魚介食文明」である土器(縄文)社会・文化が1万年にわたって安定的に存在したことから、新たに「石器―土器―金属器」という文明区分を世界に提案する世界遺産登録とします。和食のルーツは土器(縄文)時代の豊かな健康長寿の土器鍋食にあります。


1万5~6千年前のオコゲの付いた大平山元1遺跡(青森県外ヶ浜町)の世界最古の土器
名古屋大学宇宙地球環境研究所年代測定研究部HPより)

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 1万年以上も続いた母系制社会文明が存在したことと、現代に続く性器信仰・地母神信仰・祖先霊信仰の宗教文化を世界にアピールします。絶対神による戦争・殺人を正当化する宗教戦争に突き進む男系社会の一神教文化に対し、妻問夫招婚の母系制社会の多神教文化のもとで平和で豊かであった土器(縄文)時代の霊(ひ)継に基本的価値を置いた文化・文明の存在を世界に問います。
 そして「装飾土器・土偶」「ヒスイ文化」など、縄文文化の芸術性の高さと健康長寿の和食の歴史を世界にアピールし、「片品・赤城・榛東―津南・長岡―糸魚川―浅間・八ケ岳縄文文化国際観光ルート」などの形成を進め、バラバラであった縄文文化観光のネットワークの形成を図り、国際観光を推進すべきと考えます。

 

縄文ノート10 大湯環状列石と三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰

 2014年に縄文社会研究会に参加したのは、スサノオ大国主建国論から縄文時代の船や武器(弓矢と槍)、稲作、宗教を分析する必要を感じたからです。群馬県片品村のむらおこしの資源調査では、金精信仰やお山信仰・地母神信仰が縄文時代から続くと考えるようになりました。
 本論は2015年7月にまとめたレジュメ「大湯環状列石三内丸山遺跡が示す地母神信仰と霊(ひ)信仰―北海道・北東北の縄文遺跡群の世界遺産登録への提案」を『季刊日本主義31号150925』の原稿としたものを修正したものです。
 なお私は「石器―縄文式土器弥生式土器―古墳」の時代区分ではなく、「石器―土器(縄文)―鉄器」の時代区分を提案していますが、ここでは従来の「縄文時代」をそのまま使用しています。

はじめに

 7月1日、縄文研究仲間の石飛仁氏より誘われ、梁山泊のみなさんと秋田県大曲市で行われた花岡事件の419人の中国人労働者の慰霊祭に参加し、翌7月2日から3日にかけ、小坂町の康楽館で常打芝居(岬一家)を見て、かねてから念願であった秋田県鹿角市大湯環状列石三内丸山遺跡、亀ヶ岡石器時代遺跡などを見学しました。
 両遺跡を中心に「北海道・北東北の縄文遺跡群」は世界遺産暫定一覧表に記載され、登録実現の取組みが進められていますが、両遺跡の世界的な文化的価値を縄文人の宗教から明らかにしたいと考えます。

1.ストーンサークル(環状列石)は集団墓

 ストーンサークル(環状列石)が死者を埋葬し、祖先霊を祀る祭祀の場所であることは、イギリスのストーンヘンジ(直立巨石:紀元前2500~2000年、円形土塁:前3100年頃)の立石の下に人骨があり、ほぼ同時代の大湯環状列石(紀元前2000年前)や三内丸山遺跡(紀元前3500~2000年)の環状配石墓においてもすべての配石の下に墓壙があり、甕棺や副葬品と考えられる石鏃、朱塗りの木製品、高等動物由来の脂肪酸コレステロールが見つかっていることから、定説となっています。

   ストーンヘンジ(イギリス南部)は祖先霊信仰の墓地か太陽信仰の神殿か? 

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  さらに、ストーンヘンジの人骨が各年齢層の男女であることから、王や戦士、男性宗教者などを葬る墓地ではなく、部族長の一家を葬り、祭祀を行う場所であることが、イギリスのストーンヘンジ研究(考古学者マイク・パーカー・ピアソン教授のチーム)により明らかにされています。

2.ストーンヘンジの直線道路状地形の意味

 ストーンヘンジには、アベニューと言われる、幅30m、長さ3㎞の2カ所で折れ曲がった直線道路状(2本の堀と土塁)の遺構があり、その最後の南西に向かう軸線に正確に合わせてストーンサークルが作られ、祭壇が設けられています。最近の研究では、このアベニューは氷河期時代に水が流れ出して自然にできた地形であることが証明されています。

      エイボン川からストーンヘンジへと続く自然のアベニュー 

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  ストーンヘンジに合わせてアベニューが作られたのではなく、アベニューに合わせてストーンヘンジが作られたのです。石器人たちは、エイボン川から続く折れ曲がった直線道路状の自然地形の先端に聖なる墓地を設けたのであり、この直線道路の先端に死者の国(黄泉)があると考え、その特別の場所に一族の指導者たちを埋葬し、祭礼を行ったのです。

3.ストーンヘンジに方位線はなかった

 ストーンヘンジと日本の環状列石について、日没・日の出を示す方位線(レイライン)があり、太陽信仰が行われていた、という説がみられますが、それは自然が作りだした単なる偶然であったことが明らかとなったのです。
 太陽が昇り、沈むことを生命の誕生と死と重ね、その方位線(レイライン)に合わせて墓地を配置したという仮説は否定されたのです。自然にできたアベニューの方向が、たまたま冬至の日没の方向を向いていただけでした。
 大湯環状列石についても、ストーンヘンジ方位線仮説の影響を受け、夏至の日没の方位線に合わせて建設されたという主張が見られましたが、現地に行って子細に見てもそのような方位の規則性はどこにも見いだせませんでした。

   
     大湯の万座環状列石            大湯の野中堂環状列石

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  環状列石の入り口は北向きや南東向き、西向きなどさまざまであり、周辺の四角い柱の立つ遺構の入り口は、儀式が行われたと見られる場所の方向を向いていました。
 さらに「日時計説」のある立柱を中心にした円形石組は、東西南北の方位を正確に示す石の配置になっていませんでした。

            大湯環状列石の円形石組・立棒 

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  また、当時の大湯環状列石がある場所は太陽の日の出・日の入の山の稜線位置を観察できるような平原ではなく、周辺は深い縄文の森であった可能性もあります。
 さらに、石器人が太陽の年間の運行を観察し、冬至夏至の太陽の沈む方向や昇る方向を正確に知る必要があり、観察していたかどうか、という問題があります。
 太陽や月の運行の把握は、栽培農業が始まって定住化し、広大な地域からなる国家が誕生し、暦を作成して決まった時期に税を取り立て、各地域から部族長を集めて年間行事を行うようになってからと考えれます。
 太陽の運行を年間にわたって観察してその法則性を掴むためには、専門の観察者と文字による記録が必要ですが、石器時代にそのような痕跡はみられません。
 加えて、石器人達が、夏至に太陽が昇る方角を生者の国とし、冬至に太陽が沈む方向に死者の国があり、その太陽の軌跡を人の生死と重ね合わせるという宗教思想を持っていた(マイク・パーカー・ピアソン教授)という仮説の証明が必要です。
 私は、石器人は人の生死を、植物が大地から生え、種子が落ち、枯れて大地に帰り、春に再生するのと同じように考えたという地母神信仰説を支持していますが、日々の太陽の動きや年間の太陽の動きに生死を重ねたという説のどちらがより合理的でしょうか?
 ストーンヘンジを作った石器人にとっては、アベニューの方位に意味があったのではなく、この自然が創り出したエイボン川から続くアベニューが、死者を死の国へ送る葬送儀式を行う上で価値があったのです。

4.円形の意味

 一族の支配者たちを、日本や英国で円形の集団墓地に埋葬したのはなぜでしょうか?
 石器人にとって、円形はぐるっと見渡した天空、太陽や月、丸石、水滴、水面に石を投げた時の波紋、地面に水を垂らした時の染み、昆虫が掘った穴、木の断面や植物の茎や果実や花、人間などの瞳、鼻や女性器の穴などを連想させる形状です。また、手や木で穴を最も効率的に掘るとすればその平面は自然と円形になります。
 家を作る場合には、縄文人の竪穴式住居やティピー(アメリカのスー族の住居)のように木を円錐状に立てかけて上を蔓で縛り、周りに木枝や茅などを立てかけた構造が一番シンプルです。
           三内丸山遺跡の復元住居

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  このように見てくると、人が地面に掘る穴の円形の形状、昆虫があけた円形の穴、大地から生える木や植物の茎の円形の断面、子どもが生まれてくる女性の膣の形状、住居の円形平面などから、石器人たちは地中の死者の国は円形と考え、その範囲を円形に石で囲った可能性が高いと考えます。
 円形は天の太陽信仰ではなく、地母神信仰の入口を示しているのです。

5.地母神信仰の黄泉帰り信仰5を示す「円形石組・立棒」

 ストーンヘンジを作った人々は、アベニューの先端の地下に死者の国を想定し、円形に土塁で囲んで墓地とし、次いで列石をたててその下に遺体を葬り、葬送儀式を行ったのです。その重要な手掛かりは、これまで「日時計」説のあった大湯環状列石などの「円形石組・立棒」墓です。

          大湯環状列石の中の「円形石組・立棒」 

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  大湯環状列石ストーンサークル(万座:直径45~46m、野中堂:同40~42m)の外環全体が地下の死者の国の範囲し、この外環は円形や菱形の石組(それぞれ48基、44基)で構成され、その下に死者が埋められたのです。
 円形の石組の中心立てられた立棒は、東日本の各地の住居内の炉の近くや土坑の中央や縁に直立して発見されている男根型石棒と同じであり、円形石組は女性器を形象し、母なる大地の女性器に男根を立てて精液を注ぎ、黄泉の国の死者が再生することを願ったものと私は考えます。

     群馬県渋川市赤城地区の滝沢石器遺跡の石棒(赤城歴史資料館) 

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  縄文時代の竪穴式住居の入口に壺が埋められ、死んだ乳児が埋められていた例からみて、縄文人は死んだ子ども霊(ひ)が、その上をまたぐ母親の胎内に再び宿ることを願っていたと考えられ、死者が黄泉の国から再生する宗教思想を持っていた可能性が高いことを裏付けています。
 三内丸山遺跡の環状配石墓から赤色顔料(ベンガラ)が見つかり、古墳時代の甕棺や木棺・石棺の内部が水銀朱やベンガラで赤く染められていたのは、母なる大地の血で満たされた子宮に死者を葬り、再生を願ったもので、縄文時代からの黄泉帰り宗教はその後も続いているのです。

                  吉野ヶ里遺跡の甕棺の復元模型 

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  播磨国風土記には、「大神(伊和大神=大国主命)の妻の妹玉津日女が生きた鹿の腹を割いて、稲をその血に播いた時、一夜で苗が生えた」(讃容郡讃容:今の佐用市)、「太水神は『吾は宍(しし)の血をもって田を作るので河の水は欲しない』と述べた」(賀毛郡雲潤里:今の加西市加東市)と、鹿や猪の血で稲の栽培を行うという呪術的な縄文式稲作の記述が見られます。水路工事を行い、水田稲作を普及させようとする大国主親子に対し、血から生命が再生するという縄文式稲作の方法に固執する王女や王の姿が描かれています。
 このように、縄文時代からスサノオ大国主時代にかけて、わが国では大地を母とする地母神信仰のもとで、その子宮(壺や甕、棺)の血の中から死者は再生するという「黄泉帰り」の宗教思想による埋葬が行われていました。大湯環状列石などの「円形石組・立棒」はその有力な物証です。
 この性器信仰は、わが国では「縁結び・夫婦和合・子宝・子孫繁栄」の金精信仰(母なる山神に男根を奉納する)として今も続いています。インドや東南アジアではリンガ(男根)・ヨニ(女性器)信仰が今も行われており、ヨニ(女性器)の中心に立つリンガにミルクを注いで拝まれています。その形状は「円形石組・立棒」そのものです。

     インドのリンガ・ヨニ信仰(ブログ「わたしの里美術館」より) 

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  リンガ・ヨニ崇拝は、紀元前4世紀から紀元4世紀頃に書かれた叙事詩マハーバーラタ」に書かれており、その宗教起源はヒンズー教よりもさらに古い土着宗教を示しています。
 縄文の「円形石組・立棒」は、世界の石器人の宗教思想を解く重要なキーストーン(要石)です。

6.ストーンサークルの石のルーツ

 注目すべきは、ストーンヘンジの中心部の82個のブルーストーン(斑点輝緑岩、約4t)が遠方240kmの西ウェールズから、その回りの円形立石のサーセン・ストーン(砂岩、最大50t)は32㎞離れた場所から運ばれていることです。
 大湯環状列石石英閃緑ひん岩)の河原石も、すぐ西の大湯川からでなく、北東4~7㎞離れた安久谷川河床から運ばれ、青森市三内丸山遺跡の22基の直径約4mの環状配石墓の河原石もまた、すぐ北側の沖館川からではなく、北に7㎞も離れた場所から運ばれています。

            三内丸山遺跡の環状配石墓 

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  これらのストーンサークルを作った人々は、なぜ遠く離れた場所から、苦労して石を運んできたのでしょうか? 
 親しい死者をわざわざ遠く離れた場所に葬る可能性は少なく、墓地は居住地の近くに設けられ、墓石を遠く離れた聖地から持ってきた、と見るべきでしょう。
 その手掛かりは、日本の古墳時代熊本県宇土半島阿蘇ピンク石(ピンク色の凝灰岩)が海を渡って岡山・兵庫・大阪・奈良・滋賀に運ばれ、兵庫県高砂市の竜山石(淡緑色や青色、黄色、赤色の凝灰岩)が岡山・広島・山口・大阪・奈良に運ばれて「大王の石」として石棺に使われたことが参考となります。その中に葬られた死者にとって、阿蘇石や竜山石が聖なる墓石であったとみる以外にありません。
 妻問婚の時代、大王や王の子ども達は母方で養育され、成人して父方に引き取られた後、死んだ時には、母方の祭祀に従って祖先から続く聖石で棺を作り、海を運び、居住地近くの墓地に遺体を入れて埋葬したとしか考えられません。
 三内丸山遺跡の子どもの墓に石を入れ、身につけていた勾玉を死者とともに葬った縄文人は、死者の霊(ひ)を「たましい」といい、石に宿ると考えていたと見られ、この祖先霊が宿る石を「霊(ひ)継ぎ=棺、柩」として使用したのです。
 ストーンサークルを作った石器人たちは、聖石があった所に先祖代々が住み、そこからストーンサークルの近くに移住した一族は、その葬儀にあたっては、祖先霊が宿る故郷の聖石を運んで死者を埋葬し、祖先霊を受け継ぐ儀式として聖地から石を運び、一族の結束を固めたと考えられます。
 その後、彼らの一族がさらに各地に分住した後も、先祖が誕生した聖地の祖先霊が宿る石を、第2の故郷の墓地・ストーンサークルに運ぶ葬送の共同作業を行うことによって、同じ祖先を持つ同族としての絆を深めたと考えられます。
 大湯環状列石の周辺には、いくつもの柱跡が残されており、この地に同族が各地から集まって家を建てて祭祀期間には留まり、聖地から石を運んで葬るという葬送儀式を共同で行い、同じ祖先霊を祀る同族意識を高めたに違いありません。

7.地母神信仰が示す母系制社会

 三内丸山遺跡からは、北海道・長野県霧ヶ峰の黒曜石や、新潟県糸魚川翡翠岩手県三陸琥珀秋田県アスファルトなど、各地からの産物が発見されています。
 一般的な考えは、漁民であった縄文人が丸木舟に乗って広く交易を行っていたという仮説ですが、縄文人が母系制社会であると考えると、これらの貴重品は単なる交易によるものではなく、男は貴重な黒曜石のナイフや槍の穂先、鏃、装飾品の翡翠琥珀などの贈り物を持って、各地から妻問いにこの地を訪れた可能性が高くなります(上田篤著『縄文人に学ぶ』新潮新書)。
 実際、魚を追って漁に出て、遭難の危険もある全国各地の漁師の家では、妻が財布を握っていました。
 瀬戸内海の岡山県備前市日生町では、この地をルーツとする打瀬船を熊本県芦北や千葉・霞ヶ関に伝え、宮崎から軽い杉の舟材を求め、朝鮮半島近海まで漁に出かけ、岡山藩は日生を拠点に密貿易を行っており、「米と味噌と水さえあれば、漁師はどこまでも気軽に魚を追っていった」と加子浦歴史文化館の館長は語っていました。愛媛県八幡浜の漁民は、移民のために打瀬船で明治45(1912)年に5人の漁民が76日かけて太平洋を渡り、翌年には15名が58日かけて渡るなど、渡米は合計5回に及んでいます。―以上『日本主義』26号「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」参照
 時代は異なりますが、海人族であった縄文人もまた、丸木舟を操り、夏は穏やかな日本海を広範囲に航海したことは確実です。そして、この地で女性と出会い、婿入りした男も多く、逆に、この地の男もまた、各地に出かけ、妻問い婚で定着した可能性が高い。
 1500年の長きに渡って三内丸山遺跡に人々が住み続けられたのは、彼らが同族間で近親結婚を繰り返したのではないことを示しており、それは、妻問夫招婚の母系制社会であったからこそ可能であったと考えます。
 女性を形取った土偶は、女性を神とあがめる母系制社会の信仰を示しており、女性が死んだ後、その霊(ひ)が宿る土偶を壊し、母なる大地に帰すという地母神信仰を示しています。もし、男系社会であれば土偶は男ばかりでしょう。

             大湯環状列石土偶 

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  古事記には、大国主の妻が「打ち廻る 島の崎崎 かき廻る 磯の崎落ちず(もれず) 若草の 妻持たしめ」と嫉妬して詠んだとされる歌が載せられていますが、彼は糸魚川から筑紫まで船で行き来し、各地の「島の崎崎」「磯の崎」で妻問いし、180人の御子を設けたのです。大国主の時代もこの国の海人族が母系制社会であったことを示しています。
 「父系制農耕社会」の思いこみで縄文社会を見るのではなく、大国主の時代から遡り、「母系制海人社会」であった縄文社会を見なければなりません。

8.石器人(縄文人)の霊(ひ)信仰

 「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(『日本主義』26号140625)で私は次のように書きました。

 「沖縄や鹿児島では、女性の性器を「ひ」「ひーな」と言い、茨城・栃木ではクリトリス(陰核、さね)のことを「ひなさき(吉舌、雛尖、雛先)」(『和名抄』から続く)と呼んでいる。また、出雲では女性が妊娠したことを「霊(ひ)が留まらしゃった」といい、茨城では死産のことを「ひがえり(霊帰り)」といっている。
新井白石は「人」を「ヒ(霊)のあるところ(ト)」とし、角林文雄氏は『アマテラスの原風景』の中で、「姫」「彦」「卑弥呼」などを「霊女」「霊子」「霊巫女」と解釈している。
 『古事記』で天之御中主神に次いで二番目・三番目に登場する神は高御産巣日(たかみむすひ)神・神産巣日(かみむすひ)神であるが、『日本書紀』では「高皇産霊神」「神産霊神」と書かれている。「日」=「霊」であり、この二神は「霊(ひ)」を産んだ夫婦神であり、神産巣日神大国主の危機を何度も助ける守り神である。
 この国は「霊(ひ)の国」であり、アマテラスとスサノオの「宇気比(うけひ)」は「受け霊(ひ)」、王や天皇の王位継承儀式の「日継(ひつぎ)・日嗣(ひつぎ)」は「霊(ひ)継ぎ」、「柩・棺」は「霊(ひ)を継ぐ入れ物」、「神籬(ひもろぎ)」は「霊洩ろ木:後の御柱」である。
 DNAによる遺伝法則を知ることのなかった古代人は、親子が似ているのは、親の霊(ひ)が子孫に受け継がれる、と理解した。「人間はDNAの入れ物」ということを、古代人は「人間は霊(ひ)の入れ物」=「霊(ひ)の器」と考えたのである。」

 この霊(ひ)信仰は記紀などに書かれた神話時代から現代にかけての記述ですが、三内丸山遺跡の環状配石墓からベンガラが見つかり、古代の「柩・棺:霊(ひ)継ぎ」を血で満たすという連続性からみて、霊(ひ)信仰は縄文時代から連続しています。
 儒教にとらわれた下級武士たちが明治政府の官僚になり、金精信仰や混浴を禁じ、母系制社会の痕跡を抹消してしまいましたが、縄文から明治の前まで続く霊(ひ)信仰と性器信仰、母系制社会の歴史文化を正当に評価する必要があります。

9.「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録へ向けた提案

 今、三内丸山遺跡大湯環状列石など「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録をめざす取組みが進められ、2009(平成21)年1月5日には世界遺産暫定一覧表に記載されました。

    「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録ののぼり

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  大変、喜ばしいことですが、この「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、世界の石器時代の人々の宗教、精神生活を解明する上で一番重要な手掛かりを与える遺跡群である、という世界史的な視点を欠いた、ガラパゴス的な「縄文」認識に止まっていることが実に残念です。
 世界遺産登録の「3 現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。」「5 あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの)。」「6 顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある」の3基準のうち、3と5の基準だけでなく、6の基準への視点が弱いことです。
 遺跡・遺物だけでなく、縄文人たちが母系制社会の地母神信仰と性器信仰、霊(ひ)信仰の文化的・宗教的伝統、文明を持っていたことの普遍的価値を正面に据える必要があると考えます。
 そのためには、それらの遺跡・遺物を、古事記播磨国風土記などの記述や、今も各地に残る性器信仰・性信仰・霊(ひ)信仰と関連づけた主張が重要です。ストーンヘンジを手本に縄文時代を見るのではなく、縄文の歴史・文化からストーンヘンジの解明への手掛かりを提案すべきです。
 私は前掲の小論で「弥生時代はなかった」として、縄文―弥生―古墳の「ドキドキバカ史観」を批判し、弥生人による縄文人の征服などはなく、土器時代から鉄器時代へと連続しているという「トテツ史観」を提唱しましたが、さらに「進んだ弥生渡来人、遅れた縄文人」という「弥生人征服史観」を根底から変え、石器・土器時代(土器=土器鍋)から鉄器時代、石器稲作から鉄器稲作への「自立的・主体的発展史観」に立つ必要があると考えます。
 このように石器・土器時代から鉄器時代が連続していると考えると、縄文土器はわが国の文化・文明の基底として連綿と現代にまで続いているという視点が獲得され、さらに、石器時代→土器時代→鉄器時代という、新たな世界史時代区分への提案が求められます(健康的で豊かな土器鍋食文化についは別の機会に述べたいと思います)
 「優れた中国・西欧、遅れた日本」という視点からしか歴史を見ることができない、拝外主義的な歴史観から脱却し、霊(ひ)信仰の健康的で豊かな海人族の母系制社会の「土器(縄文)時代」を世界史の発展段階に位置づける機会として、私は「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録を願うものです。
 一過性のオリンピックで景気回復や国威発揚を考える前に、主要な縄文遺跡の発掘にこそ集中的に予算を使い、全世界からの多くの観光客を招くことを考えるべきでしょう。
 「誇れる日本」は、ギリシア人建築家デザインのバブル時代の遺物のモニュメンタリズムの新国立競技場などではなく、縄文から続く母系性社会のこの国の歴史・文化を正当に評価することから始めるべきです。

はてな 「アマテル論6 『天若日子殺人事件』と『事代主入水自殺事件』」の紹介

 Livedoorブログに「アマテル論5 アマテル4は筑紫日向の鳥耳」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito/
 今回はいささか苦労し、3日間かけて大国主の国譲りの真相を解明しました。『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)で仕上げたつもりでしたが、大国主の国譲りの際の雉鳴女・天若日子連続殺人事件の2種類の凶器の「天魔迦子弓・天之波波矢」と「天之波止弓・天之加久矢」の分析など、新たな発見があり、いずれ修正しなければと考えております。
 縄文論としては、土器(縄文)時代から続く海人族のスサノオ大国主の建国と天皇家の関係として読んでいただければと考えます。雛元昌弘

 

国譲りに関わる大国主の5人の御子の母と妻

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天若日子の弓矢と雉鳴女・天若日子の殺害に使われた弓矢の違い

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縄文ノート9 祖先霊信仰(金精・山神・地母神信仰)と神使文化を世界遺産に

 この原稿は2015年6月に書き、群馬県片品村尾瀬の村)で提案したレジュメ「金精信仰と神使(しんし:みさき)文化を世界遺産に」をもとに、部分的に修正・追加して書き換えたものです。
 明治維新までに日本いたるところで行われていた性器信仰は、土器(縄文)時代の石棒と円形石組みによる地母神信仰(地神信仰)を引き継いだものであり、母系制の海人族の祖先霊信仰の伝統文化として未来に残すべきと考えます。
 この祖先霊信仰は、世界宗教として「禁欲宗教」のユダヤ・キリスト・イスラム・仏教が成立する前に、ギリシア・ローマ文明などとともに世界に見られた普遍的な宗教であり、それが今も残されていることについて世界にアピールすべき時です。

1.群馬県片品村の5つの祭り

 群馬県片品村には次のような5つの古い祭りが伝承されています。この貴重な宗教文化は、土器(縄文)時代から続く霊(ひ:祖先霊)信仰と、霊(ひ)を産む性器信仰、女性神がやどる大地(血で満たされた子宮)に赤米・赤飯を供える信仰、霊(ひ)が山から降り、天に昇るという天神信仰、がワンセットそろっており、全国的・世界的にみて貴重な文化遺産です。
(1)  猿追い祭り(花咲地区)

 ・赤飯と甘酒を本殿周辺の70数基の石祠に備える。
 ・拝殿の前で東西に2列に並び、赤飯を「エッチョウ」「モッチョウ」と言いながら交互に投げ合う。
 ・御幣をかかげた猿役を村人が追い、山に追い返す。
(2)  十二様祭り(針山地区)
 ・十二様は「山の神」の別称で、女神。
 ・男が性器型などのツメッコを作り甘い汁粉に入れて煮て、裏山の十二様に供え、帰って食べる。
 ・十二様が嫉妬するので集落の十三歳以上の女は甘酒小屋に集まり参加できない。
(3)  十二様祭り(土出地区)
 ・十二様は山一切の神。
 ・ご神体は大山祇神で、使者はオコジョ。
⑷ にぎりっくら(武尊祭り:越本地区)
 ・12個の櫃の赤飯を人々が取り合う。
 ・地面にこぼれた赤飯が多いほど豊作とされた。
⑸ 金精神社(上小川地区)
 ・女体山(日光白根山)に金精(男性性器型)を奉納。
 ・男性のみの登拝行事が行われる。

2.祖先霊信仰と神使:「猿追い祭り」考

 猿追い祭りは、武尊山に降り立った祖先霊(霊:ひ)を御幣(ごへい)に移して里の武尊神社(祭神は穂高見命、後に日本武尊を合祀)に運んできた神使(しんし、つかわしめ)の猿を、再び、祖先霊と共に山に送り返すという、古代からの信仰を伝える神事で、出雲族の霊(ひ)信仰を示しています。
御幣は現在は木の先に白い紙垂をつけたものですが、元々は白布(幣帛:へいはく)を付け、神に対する捧げものを意味するとされていますが、元もとは死者の霊(ひ)が乗り移る依代(よりしろ)、神籬(ひもろぎ:霊漏ろ木)でした。古事記によれば、アマテル(天照:本居宣長読みはアマテラス)が死んだとき、山から榊を取り、上枝に死者の「勾玉の首飾り」、中枝に「鏡」、下枝に白と青の「和幣(布)」を付け、岩屋(石槨)の戸(蓋)のところに置き、死者の霊(ひ)を乗り移させたものですか。猿はこのような御幣を持って山に追い返されたのですから、元々は山上から御幣に祖先霊を移して運んできて、再び送り返すという儀式だったのです。
 その後、死者は仏になり、西方の極楽に行くという仏教が国教となり、この祭りでは山から猿が祖先霊を迎える前半の儀式は失われ、後半の猿に御幣を持たせて山に追い返すところだけが残ったと考えられます。そのため、「害獣を追い払う祭り」といういうような説明が生まれたと考えられます。

 「エッチョウ」「モッチョウ」と言いながらの赤飯の投げ合い f:id:hinafkin:20200302161807j:plain

    御幣をかかげた猿役を村人が山に追い返す 

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 3.山神信仰・地母神信仰と赤飯

 日本各地に残る「お山信仰」「山神信仰」について、これを山を崇拝する自然信仰とする説が見られますが、この片品村だけでなく全国各地の祭りをみればわかるように、山は人(霊人:人)が死んでその霊が宿る場所、霊(ひ)が天に昇り、降りて来る場所として信仰されたのです。
猿追い祭り(花咲地区)で赤飯を投げ合い、にぎりっくら(越本地区)で地面にこぼれた赤飯で豊作を占う祭りは、大地に赤飯を供えるという地母神信仰を示していますが、これも大地そのものの信仰というより、大地に小豆や米、人が帰り、黄泉帰るという再生信仰で、豆や米、人の霊(ひ)の信仰と考えます。
「赤飯の起源は縄文時代から続く赤米で、赤米の代わりに白米に小豆で色づけするようになった」という柳田国男の説があり、赤米飯を神に捧げる祭りは今も長崎県対馬市多久頭魂神社、鹿児島県種子島の宝満神社、岡山県総社市国司神社に残り、対馬をルーツとするスサノオ大国主一族によって各地に広まった、とも考えられますが、土器(縄文)時代にすでに小豆栽培が始まっていることからみて、縄文から続く粟やイモなどの小豆煮がもともとあって、米の伝来とともに赤米儀式に代わった可能性もあります。
 土器(縄文)時代は、植物が大地から再生するように、死者の霊(ひ)は大地に帰り、そこから黄泉帰ると考えられた地母神信仰であり、大地に埋められた霊(ひ)継の容器である棺・柩・甕棺などは女性の子宮を模して内部を赤く辰砂などで塗られていました。赤は血を表し、その中から人や動植物は再生すると考えられており、赤飯や赤米を捧げるのは、血を生み、再生を祈る地母神信仰を示しています。
 紀元頃にスサノオ大国主一族の国ができ、世襲制の王が誕生すると、この地母神信仰から、死者の霊(ひ)は山上(神那霊山:カンナビヤマ)の巨石(磐座:イワクラ)から天に昇り、降り立つという天神信仰に変わります。十二様などの山の神信仰は、山を祀る自然信仰ではなく、山上の祖先霊を祀る信仰なのです。各地の祭りの「山」(置山、飾り山など)は、この神那霊山を地上の「山」形に移したもので、そこに宿る神を運ぶものが「山車(ダシ)・山鉾・山笠・曳山・だんじり」や「御輿」なのです。
このように、祖先霊が山から天に昇り、降るという宗教に変わった時代になっても、棺内部を赤く染め、赤米飯・赤飯を神に捧げ、その後、神と共食するという土器(縄文)時代から続く黄泉帰りの宗教行事はそのまま残ったと考えれられます。なお、海人族は海から生まれて海に帰るという海神信仰であり、霊(ひ)の御旅所は山上ではなく、海岸になります。

 

土器(縄文)時代の「地神(地母神)信仰」「海神信仰」から大国主の「天神信仰」へ 

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 片品村では、大切な赤飯を神社に奉納するのではなく、大地に捧げるのですから、神社ができる以前から伝わる神事とみて間違いありません。小豆・赤飯・赤米飯を大地の神(祖先霊)に捧げる土器(縄文)時代からの文化を継承していると考えられます。母なる大地に赤飯をお供えし、生命を生みだす子宮の血からの再生を願ったのです。
 花咲地区の猿追い祭りでは猿を、土出地区の「十二様祭り」ではオコジョを神使とし、同じ神使(しんし、みさき)の神事を示しています。霊(ひ=DNA)を受け継いでいく動物たちもまた、人の仲間の神使として天上にいたと考えられていたのです。
 「エッチョウ」「モッチョウ」のかけ声の意味は不明ですが、「越長」「物長」だとすれば、出雲族の「越」(越:今の新潟・富山・石川・福井)と「物」(物部:岡山東部・大和)の2グループの子孫が、それぞれ祖先霊に声をかけながら儀式を行った、という可能性も考えられます。 
 祖先霊を祀る祠などに甘酒を供えるのは、大国主と力を合わせて「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋水穂国」の国づくりをした少彦名が作ったという濁酒(どぶろく)を神(八百万神)に奉げて豊作を祈ったことに由来すると考えられます。十二様祭り(針山地区)では、十二様(山神=女性神)が嫉妬するというので集落の十三歳以上の女性は甘酒小屋に集まり、男性たちのために濁酒を用意したのでしょうが、明治に入って酒税法によって濁酒づくりが禁止され、甘酒に代わったものと思われます。

4.性器信仰と山神信仰

 「砂糖ツメッコ」については、汁の「汁粉(関西ではつぶし餡をぜんざい、漉し餡を汁粉といい、関東では汁気のあるものを汁粉、汁気のないものをぜんざいという)」と、性器型などの「ツメッコ(すいとん)」に分けて考えてみます。

 

  砂糖ツメッコ(男女の性器型とうんこ型)

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  ぜんざいの起源は、旧暦の10月に全国から神々が出雲に集まる「神在祭(かみありさい)」の神事に振る舞われた「神在(じんざい)餅」が、ずーずー弁の出雲弁で訛り、「じんざい」→「ずんざい」→「ぜんざい」となって京都に伝わった、という説が出雲には見られます。
 もしそうなら、片品に「汁粉」が伝わったのは、「神在祭(地方では神無月になる)」の時代に北陸、あるいは信州から伝わった可能性があります。片品や日光にスサノオ大国主大国主の子の事代主、大山祇(スサノオの妻の父母の先祖)を祭る神社や、大国主の子で信州に逃れた建御名方命を祀る諏訪神社が多いことを見ると、古代に赤飯とともに「ぜんざい」も日本海側から伝わった可能性があります。赤色は「血」を増やすものとして尊重されたと考えられます。
 普通、「ぜんざい」には餅や団子などが入れられますが、「性器型ツメッコ(すいとん)」というのは片品独特です。地元にあった金精信仰、女性器の形をした「女体山(日光白根山)」などの山の神に金精(男性器形の木棒や石棒)を捧げるという金精信仰が、「性器型ツメッコ(すいとん)」に形を変えた、と考えられます。
元々は女神とされた山神に奉げるのですから、金精形だけであったのが、いつの頃か、縁結び・夫婦和合・安産・子だくさん・子孫繁栄を願って女性器形が追加されたと考えられます。
さらには、大地に糞尿を撒いて農作物を栽培したことから、うんこ形が追加され、豊作を願って地母神に供えられたのではないでしょうか。神事ですから、単なる卑猥な冗談から始まったものではないと考えます。
 縄文人は、地面上に丸く石で囲み、その中心に石棒を立てた円形石組・石棒を各地に残しており、群馬県でも渋川市北橘町の小室高田遺跡や渋川市赤城町の滝沢石器時代遺跡などには石棒が残されています。これは、インドのリンガとヨーニと同じように、女性器の中に男性器を立てたものであり、母なる大地の性器に石棒を突きさし、子孫誕生を願ったものと考えられます。

 

    大湯環状列石の中の円形石組・石棒 

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インドのリンガ(男根)とヨニ(女陰)信仰:ウィキペディアより 

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  また、女体山(日光白根山)は女性器の形状を想起させるエロチックな活火山であり、その北にはそびえ立つ金精山があり、かつては、この女体山には村の男たちが金精(男根)を奉納していました。
 この金精信仰や「性器型ツメッコ(すいとん)」は、縄文からの性器信仰の伝統を引き継いだ可能性が高いと考えます。

 

   女体山(日光白根山):気象庁HPより 

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  金精山と金精神社(群馬県片品村、栃木県日光市):ブログ「山歩き遊悠湯」より

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  儒教朱子学に毒された下級武士あがりの明治政府の官僚達は、近代化を進めるにあたって「卑猥」「ワイセツ」「グロテスク」などの理由から、性器信仰や混浴を禁止してきましたが、私はこれらの土器(縄文)時代1万年からの歴史・伝統として維持・復活を図るべきと考えます。
ローマ文明の混浴温泉の遺跡やバーデンバーデンの混浴温泉に行った日本人が、ローマ人やドイツ人を「前近代的」「野蛮」などと思うことがないように、むしろ、自然で、健康的で、うらやましいと感じるに違いありません。同じように、外国人観光客が「金精信仰」「混浴」「春画」などに興味を持ったからと言って、それで日本人が「遅れた野蛮人」と見なされることはありません。いつまでも、明治の「悪しき儒教スタンダード」ではなく、「グローカルスタンダード」で日本文化を見直すべきと考えます。

 

「偏狭な儒教スタンダード」から「グローカルスタンダード(汎地域標準)」による日本文化再発見へ

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 中国・欧米への「拝外主義」傾向が強く、日本文化の価値を低く見る日本人から、おおらかに性を信仰してきた明治以前の1万年の日本文化を見直すべき時です。群馬県みなかみ町の混浴温泉の宝川温泉・汪泉閣では宿泊客の2割が外国人という時代(2015年)になってきており、明治以前の日本文化を発信する世界に向けた取り組みが求められます。
春画アートは最高の性アートとして世界で認められつつあり、大英博物館で開かれた大春画展は、16歳未満は保護者同伴推奨で、3か月で8.8万人が来場し、「4つ星」を付ける人気を博しており、『芸術新潮』は、2012.1「恋する春画」、2013.12 大英博物館「『春画』展がすごい」を特集しています。
すでにヨーロッパではブリュッセルダルムシュタットヘルシンキバルセロナ、ミラノで「春画展」が開かれてきましたが、日本では開催が決まらず、細川元首相が理事長をつとめる永青文庫(東京都文京区、9月19日~12月23日)でやっと開催が決まった状態です。ここでも、明治の排外主義官僚たちの「悪しき儒教思想」が、春画=ポルノと決め付け、縄文以来の日本文化の伝統を否定しているのです。

5.「日本中央(群馬・新潟・富山・長野・山梨)縄文文化遺跡群」を世界文化遺産

 三内丸山遺跡大湯環状列石など「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録をめざす取組みが進められ、2009(平成21)年1月5日には世界遺産暫定一覧表に記載され、2019年7月に世界文化遺産推薦候補に選定されました。
ところが、縄文遺跡の宝庫である「群馬・新潟・富山・長野・山梨」においては、縄文遺跡や展示施設の整備は不十分であり、世界的な文化遺産・観光資源とするという視点を欠いています。弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観や、皇国史観・大和中心史観にとらわれ、「進んだ弥生、遅れた縄文」の意識から抜け出せないことが、その要因と考えられます。
「北海道・北東北の縄文遺跡群」に加えて、「日本中央縄文文化遺産」の世界に誇るべき優れた点は、多様な縄文土器やアクセサリー(耳飾など)の芸術性の高さと縄文文化地母神信仰、金精信仰)を現代に伝える祭りが片品村のように残されていることです。そして、「石器時代―土器時代―鉄器時代」という歴史区分を提案できる古代史の連続性を持っていることです。
 世界遺産登録の「6 顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある」の基準は、まさに猿追い祭りや金精信仰など現代に引き継がれています。
 「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録を機会に、「日本中央縄文文化遺跡群」の世界遺産登録運動を起こすことを提案したいと考えます。

<参考 性器信仰の例>

① 土器(縄文)時代の石棒(国立市

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 ② 八重垣神社の金精様(島根県松江市) 祭神:スサノオと櫛稲田姫

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 ③ 金精神社の石棒(岡山県高梁市成羽町

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 ④ 田縣神社の豊年祭(愛知県小牧市) 祭神:御歳神(スサノオの子の大歳神の子)

 f:id:hinafkin:20200302170352j:plain  ウィキペディアより